[カテゴリー別保管庫] 視覚的意識 (visual awareness)

両眼視野闘争の系などで、視覚野とawarenessの関係が議論されているのをここに入れる予定。

2017年06月20日

駒場講義2017の準備のつづき:ハンドアウトをアップロードしました

駒場学部講義2017 「意識の神経科学:盲視・統合失調症・自由エネルギー原理」講義ハンドアウトをslideshareにアップロードしました。併せて生理研の講義資料ページもアップデートしております。

駒場学部講義2017 「意識の神経科学:盲視・統合失調症・自由エネルギー原理」 from Masatoshi Yoshida

毎度そうなのだけど、slideshareは日本語が化ける。調べてみたらMacのフォントに対応していないということで、しょうがないのでアップする資料だけMS Pゴシックに変換。印刷するものはヒラギノ角ゴ ProN W3を使用してます。

なんとか今やれと言われてもできる形にはなった。また明日見直して、マテリアルの分量調節する予定。


2017年06月19日

駒場講義2017の準備のつづき:講義用webサイト開設しました

昨年に引き続き、講義用のwebサイトを作成しました。 「駒場学部講義2017 「意識の神経科学:盲視・統合失調症・自由エネルギー原理」講義資料」

まだ工事中ではありますが、講義当日までにすべてをfinalizeする予定です。

いまは「脳がわかれば心がわかるか」の「回帰する擬似問題」がうまく説明できるか、試行錯誤しているところ。たとえばp.154-155

なるほど大森の考えによって、ジレンマが生じるカラクリ(カテゴリー・ミステイク)とそれを解消する方法(「重ね描き」)を知ることができました。しかし、なにか腑に落ちません。理解はできても納得ができない、そんな感じが残ります…ライルや大森の考察は多くのものをもたらしましたが、その議論は権利問題にとどまっているため、真に有効な処方箋にはなりえていません。それは心脳問題という「ある種の哲学的な病気」にたいする有効な解毒剤ではありますが、すでに表面にあらわれてしまった症状に対して行う「対症療法」的な処置にとどまります。

ここの「ある種の哲学的な病気」というところは納得いくかんじもあり、いかないかんじもあり。これはライルの「ある種の知的な気分」(p.75)の言い換えであるらしい。わたしが毎度講義で使うネタで「意識を語る」の中にあるネド・ブロックの話があるのだけど、ネド・ブロックが講義でinverted spectrumの話をすると、学生の2/3はよく理解するし、それ自分で考えたことあるよ!みたいな反応があるらしいのだが、残りの1/3は「いったい何を言ってるのかわからない」という反応らしい。私は前者なので後者の人がぜんぜん理解できないんだけど、ライル(デネットの師匠)の言い方によれば「ある種の哲学的な病気」に罹らずに済んでいる、ということなのかも。

茂木さんの「脳とクオリア」で出てくる話で、(20代で)電車に乗っているときに突然クオリアの問題に気が付き騒然とするエピソードがある。茂木さんにとってはそれって後者から前者へとジャンプした瞬間の衝撃だったのだろう。私としてはずっと昔の子供の頃に前者になったのでそのジャンプの経験というものが共有できないのだけど。

「どうして」脳と心が関連しているかを問うのではなくて、脳と心との関連がどのような法則的関係にあるかという科学的記述があって、それで99.999%での予測ができるのなら、「どうして」脳と心が関連しているかという問いは解消(<->解決)するのだろうとも思う。

なんだか嵌りそうだから、スライドから除くかも。講義のラストでの問題提起ならまだしも、初っ端でこれはまずい。


2017年06月18日

駒場講義2017の準備のつづき。「回帰する擬似問題」

昨日の記事駒場講義の準備のつづき。 つか講義当日まで毎日更新してゆく予定。

毎回講義の導入部は意識を科学的に研究するってどういうことか、 ってところから始めるのだけど、 「ハードプロブレム」に言及する割に尻すぼみなので そこに一旦オチをつける必要があると思っていた。

そこで「回帰する擬似問題」について言及しようと 「脳がわかれば心がわかるか」(山本貴光, 吉川浩満 (著)を買ってきた。

「回帰する擬似問題」の議論には続きがあって、 持続としての意識経験と同一性に基づいた科学 というギャップの問題に言及しているのだけど、 これって以前ブログに書いた Per Bakの「お話としての説明と科学としての説明」 と同じ構造だってことに気がついた。

いや、「理不尽な進化」のときに言及した気がするけど(注)、 これで講義をまとめる方向性が見えてきた!

砂山は崩れる。物理的に、確率的に。 それをお話として「いくつかの悪い偶然が重なって 予想外に大きい雪崩が起きた」と捉えたうえで、 「どうしてそれが今だったのか」 と問うときに答えられない問題(「どうしてそれが今だったのか」)が現れる。 それはかけがいのない、来歴に基づいた、一回性の世界。

ハードプロブレムを 解けた、と言ったらそれはトンデモ、 解ける、と言ったらそれは問題の難しさをわかってない、 解けない、と言ったらそれは科学を固定的に見ている、 だから、解けるか解けないかは、我々の「科学的な理解方法」と 一度限りの人生を生きるための「お話としての人生理解」 との間に折り合いをつける方法を将来作れるかどうかによるし、 折り合いがついたとき、たぶん我々は今言うような人間でなくなっている。 (「人間」の終焉、もしくはシンギュラリティー以降)

「脳がわかれば心がわかるか」の議論に乗っかれば、 一回性の人生をお話として了解する際に意識の難問が現れるのであって、 そこには解決はなく解消しかない。 そのためには人間にとっての因果や自由意志といった時代精神を書き換える必要がある。 するとシンギュラリティーってのはトラルファマドール星人 になることと言って過言ではない。(<-過言)

という方向に行くとトンデモになってしまうので、 一回性を扱うためには「同一性に基づいた科学」という概念自体を拡張する必要があって、 ヴァレラの神経現象学の要素である力学系と現象学はそのためにある、 みたいな話なら無理ないか。

そのうえで、不充分ながらも意識経験の変容の例を紹介し、 FEPについても批判的な立場から、それでもembodiedであること (<-それ自体が来歴に基づいた同一性からの拡張)の重要性を訴えかける… ってここまで書いて、気分盛り上がってきたが、どうやっても盛り込むのは無理なので、 とりあえずブログにまとめて、気分盛り上げるのに使うことにする。

(注) 2015年09月21日 に言及していた部分は以下のところだった。

「理不尽な進化」は最終章まで来た。 なるほど「回帰する擬似問題」とか「心脳問題」のときと同じ構造を持っている。 進化論が歴史と適応の組み合わせであり、これは意識での一回性の問題と同じなのだな。 そして袋小路の成り方もよく似ている。 機能主義者の無意識的な形而上学的コミットメント問題とか。

ほかにも「「お話としての説明」と「科学としての説明」という対比」 の話と繋げて考えてみたりとか、いろんなとっかかりがあって、 頭のなかで重要なところに杭を打つことができたような気がする。 これを起点にもっと進めてゆくことにしよう。

あと、フリストン自由エネルギーとも関わる「最適化」の問題。 歴史の影響から逃れ得ないがゆえの「奇妙な生物」と「messyな解決法」。 期待に依存しない「アルゴリズム的解決」と物理に拘束された「embodiedな解決」。 IITや自由エナジーをこちらから鍛えることができないだろうか?


2017年06月17日

駒場講義2017「意識の神経科学:盲視・統合失調症・自由エネルギー原理」準備中

恒例の駒場講義もいよいよ来週の6/21(水)13:00-16:40 (@駒場キャンパス15号館1階104講義室)となりました。 タイトルは「意識の神経科学:盲視・統合失調症・自由エネルギー原理」。 例年通り準備状況をブログにアップロードしてゆきます。

これまでの準備の様子はブログに掲載してます。

今年の方針ですが、昨年のものから神経現象学の部分を除いて、 イントロで少し言及するだけにして、 その分1月に北大セミナーで話した 「アクティブビジョンと フリストン自由エネルギー原理」 の内容を盛り込んで後半を充実させようというものです。

アウトラインとしては以下のかんじ。まとめ記事口調で作ってみました。


[Part 1]

  • 意識を科学的に研究するってどういうこと?
    • 「意識は定義できないから科学の対象にならない」というのは正しくないよ!(サール)
    • 「意識」という言葉で指している対象が共有できていれば充分。(サール)
    • 「意識のハードプロブレム」という問題群があるよ!(チャーマーズ)
    • ハードプロブレムは「回帰する擬似問題」だって!(山本、吉川)
    • だからこそ「人が意識を科学的に理解する仕方」そのものを拡張してゆく必要があるよ!
    • そこで経験の構造と一回性を重視する「神経現象学」を紹介するよ!(ヴァレラ)
    • だから今日は意識経験自体の構造とか変容に注目した研究を紹介して行くよ!
    • 現象的意識とアクセス意識を分けて扱う考え方があるよ!(ブロック)
  • 脳損傷の症例からは意識経験にも様々な形があることがわかるよ!
    • たとえば「知覚のための視覚」と「行動のための視覚」は脳の別の部分を使ってるよ!(グッデール)
    • 盲視の症例では現象的意識だけ欠けているようにみえるよ!(ヴァイスクランツ)
    • 盲視は動物でも再現できるよ!つまり「見えない」ことを行動的に示すことができるよ!(コーウェイ)
    • 盲視動物で「見えないこと」を示すためには信号検出理論を使うといいよ!(吉田)
    • 盲視動物は視覚サリエンスが使えるよ!(吉田)
    • 我々人間でも意識経験と視覚サリエンスが並行して処理されてるかも!(吉田)
    • 意識が受け身の反応ではなくて行動とのループで作り上げるものという説があるよ!(ノエ)
    • この説を使うと盲視で起きていることが説明できるよ!(吉田)

[Part 2]

  • 意識は受け身の反応ではなくて環境への働きかけで成立するという考え方があるよ!
    • 同じ考え方はフッサール現象学にもあるよ!
    • 脳が仮説を作ってそれを検証することで知覚を構成するという説があるよ!(フリス)
    • 視覚サリエンスはこの考えからベイジアン・サプライズとしてモデル化できるよ!(イッティ)
    • ヘルムホルツの無意識的推論も同じ方法で「予想コーディング」としてモデル化できるよ!(ラオ)
    • ベイジアン・サプライズは予想コーディングでの予測誤差そのものだよ!(フリストン)
    • 予測コーディングを行動に拡張したものがactive inferenceだよ!(フリストン)
    • 知覚、行動、注意、価値、みんな自由エネルギー最小化で説明できるって!(フリストン)
    • 自由エネルギー原理 (or予測処理)で意識も説明できるって!(ホーウィ、クラーク)
  • 統合失調症では自己、世界に対する意識経験の変容が起きているよ!
    • 統合失調症で起きていることが自由エネルギー原理で説明できるよ!(フリストン)
    • 統合失調症での妄想、幻覚はサリエンスの経験の変容で説明できるよ!(カプア)
    • 統合失調症での視線は視覚サリエンスの変容で説明できるよ!(吉田)
    • 統合失調症での視線はベイジアンサプライズの変容でもっと説明できるよ!(吉田)
    • 統合失調症のサリエンス説と自由エネルギー原理説は同じことを言ってるんじゃね?(吉田)

口調はウザイが大体合ってる。これが講義で話したいことのエッセンス。

ひきつづきハンドアウトとスライドもアップロードしてゆく予定です。乞うご期待。


2017年01月13日

セミナー「アクティブビジョンと フリストン自由エネルギー原理」スライドをアップロードしました

2017年1月11日に北大文学部の田口茂さんのところで講演を行いました。タイトルは「アクティブビジョンとフリストン自由エネルギー原理」です。田口さんのラボでの告知記事

Karl Fristonが提唱している「自由エネルギー原理(free-energy principle = FEP)」について、北大文学部の聴衆を対象にして、物理学や機械学習の知識の前提を抜きにして説明を行ったものです。FEPの意識研究への応用に向けて、Karl FristonのFEPとAlva Noeのエナクション説の近接性について強調したものとなっております。実際のスライドからいくらか手直ししており、発表時よりもより正確に、ちょっと詳しくなっております。

そういうわけで、このスライドの想定読者は、神経科学や意識研究に興味があって、「自由エネルギー原理」って話には聞いたことあるけど難しくてわからんなー、という方です。まずはこれを読んでみるとイメージは掴めるのではないかと思います。

「アクティブビジョンと フリストン自由エネルギー原理」@北大20170111 from Masatoshi Yoshida

なるたけコンパクトに説明するために、スタンダードな説明から大胆に重要なパーツを削っております。削っている点についてまとめておきます:

  • Predictive codingにおいては脳の中で複数の層で段階的に予測誤差が処理されてゆきます(hierarchical message passing)。今回は脳に層はありません。網膜とひとかたまりの脳だけです。
  • ベイズの式も出てきません。変分ベイズしません。ラプラス近似しません。
  • KL divergenceもsurprisal (-ln p)も出てきません。自由エネルギーの式は何の関数なのか(b:神経活動, s:感覚入力)だけを示します。

Active inferenceを嘘つかずに説明するためにはどうしても条件付き確率だけは省略できませんでした。本当はもっと簡単にしたかったのだけど、いちおう高校までの知識の範囲で読めるようにはなっているはずです。

このスライドを読んで興味を持ったら、機械学習(変分ベイズ)や物理学(解析力学や熱力学)を勉強してさらに先に進むとよいかと思います。

そのうちもう一段先の説明のスライドも作ってみようと思います。つまり、KL divergenceやsurprisalを手計算できるようなtoy modelを使った説明をしてみようかと考えてます。でもいつになるかわからんので、今回はこのあたりでアップロードします。

詳しい方はぜひ間違いを見つけたら教えて下さい。内容をアップデートしてゆきますので。

このスライドの目的は、機械学習における生成モデルと脳でやっていることの近似性を強調する点にはありません。それはまさにフリストンがやっていることそのものなのですが。どちらかというとこのスライドは、意識研究においてFEPを応用するために、agentの内部からアクセスできるものは何か、という点からFEPを批判的に捉え直したいという動機のもとで作成しております。


いくつか追記:スライド後半で使っている蝶と蛾の話は、以前から駒場講義で使っていたものなのだけど今回かなりアップデートした。知ってる人には当たり前なのかもしれないけど、私はこのくらい具体的な説明がないとわからないし、そしてどこにもこういう説明がなかったので、自分で作らざるを得なかった。

一方で前半のCNNニュースと砂嵐の話もずっと使ってきたんだけど、これは本来ベイジアンサプライズを説明するための題材なので、predictive codingの説明に最適化されているわけではない。蝶と蛾の話だけで統一的に説明したほうが、アクティブビジョンの流れにも沿っていて良かったのかも。

スライドを作っている時点では、田口さんの「経験は「当てはずれ」に開かれている」の話と繋げてみたいという動機があったのだけど、「無意識的推論」の説明としてはこのあたりもっとスッキリさせることができたように思う。あとでの田口さんとの議論には役に立ったけど。

あと、なるたけ同じ概念を別の言葉で言い表さないように気を付けていて、たとえば、無意識的推論とpredictive codingでは前者だけ使った。でもrecognition density q(x|b)に関してだけはちゃんと統一できてない。あるときは「推定」だし、またあるときはbeliefだし、モデルって言ってるところもあるし。しかしフリストン論文でも自由自在に使ってる様子だしなあ。

セミナー後に質問を受けて気づいたけど、「pとqが一致する」って書くのはKL divergenceを知っていればすぐに通じるけど、今回の説明だと通じない。ちゃんと「2つのヒストグラムがまったく同じ分布をしていること」が予測誤差がゼロであることなのだと明確に説明するべきだった。

あと、かなり字が小さいスライドがあるけど、実際のスライドでは24ポイントより小さい文字はreferenceの表示(18ポイント)以外では使っていない。本番では喋りで処理している部分を、slideshareに上げる際にちゃんと読めるように編集した次第。(<-言い訳がまC)


2016年06月11日

駒場講義2016/6/15の準備メモ

毎年恒例のオムニバス講義が近づいてきたのでそろそろ準備を始めてる。今年は6月15日(水)で、タイトルは「意識の神経科学:「盲視」と「統合失調症」を手がかりに」。2012年から毎年、5年目となった池上高志さん @alltbl の人間情報学VIでの学部講義 105min * 2。

昨年の講義の準備の様子やレジメなどはこちら:[カテゴリー別保管庫] 駒場学部講義2015

今年も例年通り、前日くらいにレジメをブログおよび生理研のサイトにアップロードする予定。

さてそれで内容をどうするかなのだけれども、昨年導入した統合失調症と異常サリエンス仮説の話を今回はさらに広げてゆくつもりで考えてた。神経現象学に関する話題(ブログ記事参照)は前回は見送ったのだけど、金井さん(Araya/東工大) @kanair_jp のConsciousness Clubで先月喋ってみたら、ひととおり話せることが分かったので、そちらを膨らませるという方向もある。

Consciousness Clubのときには、早々にヴァレラの「神経現象学」に飛んでしまったけど、順序立てて説明するためにはデネットの「ヘテロ現象学」を説明して、いま我々が認知神経科学者として行っていることはまさに「ヘテロ現象学」であるということからスタートする必要がある。

このあたりについては、ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会のときに作った話があるので、そこで端折った部分を入れて丁寧に話をすることができる。

でもって、NCCから力学系へみたいな話をするときには、そもそもDavid MarrのVisionにおいても表象(representation)と過程(process, computation)とが並べて議論されていたことに言及すると良いのではないかと考えて、原本にあたってた。

つか以前このあたりについてはブログに書いたことがある。「MarrのVisionの最初と最後だけを読む」とか「Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する(2)」とかを自分で読み返す。

そうやって調べものしていたら、"David Marr vs. James Gibson"という記事を見つけた。マーの議論はhomunculus fallacyだって言ってる。

よくよく見たら、PythonでのスパイキングニューロンのシミュレーターBrianの作者ではないの。上丘のスパイキング・ニューロン・ネットワークの仕事をここ数年進めているので(たとえばBMC Neuroscience)、ちょくちょくいじってた。

こういうもの作っている人がKevin O’ReganとかAlva NoëとかMerleau-Pontyに言及しているというのはすごく興味が惹かれる。必然のような、逆説的のような。


2016年01月29日

鈴木貴之さんの本を読んでいろいろ考えた(続き)

鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読みながら考えたことについて。前回の記事はこちら:鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んだ!

ここからは鈴木さんの本の話というよりも自分で考えていることの話なので別枠で書いておくけれども、わたしが田口さんの本(「現象学という思考」)を読んで最近考えていること(前回のブログ記事)も、SMC(行動的連関、カエルの意識)から表象(反省的思考のモード)に移行するにはどうすればよいか、という問題について考えているといえるだろう。(その意味では、鈴木さんが書いているのとは逆向きから、記述的表象と司令的表象の関係を捉えようとしているというふうに言えるのかもしれない。)

ただし、そこで付加されるべきと私が考えているのは、多階の表象理論(Higher order thought)で想定しているような「知覚していることに対するメタ認知を持つということ」ではなくて、「そうであったかもしれない可能性のアンサンブルという反実仮想を含めたうえでの(Judea Pearl的な)因果推論に基づいた確率密度分布」なんではないかということだ。

つまり、表象では確率密度分布を作るだけでは足りなくて、Pearlのdo演算子みたいに「介入」をするということが本質的で、そのために単回の行動では終わらないような、行動と介入が必要なんではないかと思うわけ。

だから、nhpでも過去の履歴を使って行動選択を確率的に変動させることができるじゃないか、といってもそれでは足りないと思っている。あれは行動またはターゲットの価値をその都度変化させているだけであって、「いま・ここ」だけを生きているのであって、その意味での確率密度分布があっても「反省的行動のモード」とはいえない。

強化学習でも同じだし、サリエンシーでも同じで、履歴から作られた誤差信号をその都度使っているのは「いま・ここ」だけを生きているということだ。その意味での「予測信号」というのも履歴によってアップデートされているだけで、「いま・ここ」だけを生きている。もし「予測信号」がベイズ脳で使われるような「モデル」と言えるようなものであるためには「いま・ここ」から離れないといけない。それには記憶があるだけでも足りない。記憶情報を使ったとしても「いま・ここ」を調整するために使っているならばそれは「反省的行動のモード」にはならないだろう。

「ただ、いま・ここを生きること」、それは人間にとってはとても難しいことなのだけど、物理主義的に説明しようとするとそこに原理的難しさはない。だから「反実仮想」という概念を持ち出してきた。

ベイズ脳と確率密度分布だけでは「反省的行動のモード」は作れない。そしてたぶん「反省的行動のモード」がないと、人が持っているようなfull-fledgeな意識経験は出来ないのではないか。

そういうわけで、大泉さんのIITのintrinsic informationでのcausalityってのがどこまで言えているのか理解しなくてはと思っている。ミクロレベル(サブパーソナルレベル)での因果推論とマクロレベル(パーソナルレベル)での因果推論は分けなくてはいけないのは確かなのだけど、連鎖してたら美しい。

この話は専修大の澤さんの一連の仕事での「rodentの因果推論は本当に因果推論か?」って問題はパーソナルレベルでの因果推論を探しながら、そこに神経生理を加えたら、なんらかサブパーソナルレベルの因果推論を明らかにする手がかりにならないだろうか、とかそんなことを考えている。

そういう興味で調べてみたら、"An Objective Counterfactual Theory of Information"というのを見つけた。ドレツキの情報理論も含めてこのあたりを理解したい。

いますごくへんな、ありもしないものについて言語化しようとしているので明晰になっていないことはかんべんしてほしい。前回の鈴木さんの本に対するコメント部分は明晰にしてあるはず。そこは混ぜてない。


あと、この本を読みながらカエルの意識について考えてたら、私がいつもやってる「盲視でのなにかあるかんじとカエルの意識」の話(ブログ記事参照:盲視でおこる「なにかあるかんじ」)についてはもっと違う言い方をすべきだなと思った。

これまで講演とかで何度か話ししているように、盲視には「何かある感じ」というのがあって、そのような意識経験は上丘経由での限られた情報によって形成されたSMCによる意識経験であり、それはもしかしたらカエルの意識経験と同じものかもよ、っていうspeculationだった。

でももっと慎重に行くならば、あくまでも使っている情報はカエルで行われているのと似たようなものを、人間が経験しているわけで、意識のcontentはカエルと同等だけど、それを経験しているのはあくまでもヒトであって、じゃあカエルも同様に「なにかあるかんじ」みたいな意識経験をしているとは必ずしも限らない。いや、前からこの可能性はわかってはいたけれども、カエルにもある種の意識経験があるであろうことを強調するのにそういう話にしていたわけだった。

でもここ最近はそういった「なにかあるかんじ」とfull-fledgeなクオリア経験とが程度の差ではなくってなんらか本質的な差がある可能性を探すことのほうが気になってきた。鈴木さんの本で言えば、ミリカンのオシツオサレツ表象と記述的表象と司令的表象とが分かれているものとの間に差を置いていないということがほんとうに良いのかと気になってきた。

(ちなみにこの二つが分かれるということは「待て」ができるということ、そして遅延反応ができるということだから、Kochの意識を持つ動物に必要な条件と対応している。)


あと、鈴木さんご本人からこの本を送ってもらったので、盲視に関する記述(p.162-164)に関して返答しておきたい。この部分での鈴木さんは盲視でもじつは「何かある感じ」という体験があるのだということについて書いておられる。そしてそのうえで、盲視での「何かある感じ」は「本来的表象ではない」と結論づけている。はたしてこれは妥当か。

これは私が南山大学でトークさせてもらった時の話(盲視でおこる「なにかあるかんじ」)そしてそれに対する鈴木さんの応答(南山大の鈴木貴之さんからコメントいただきました)を踏まえた上で書いてくださっている。

鈴木さんの本を読んだうえであらためて鈴木さんの応答を読んでみると、なるほど意識経験にどう行動を繋げるように世界を分節するか、という考え方が入っていることが分かる:「脳活動と運動出力の関係を重視するモデルがあってもよいのではないか、そして、実はそれが一番説得力があるのではないか、と私は考えています。」

あと、このときにtype IIの盲視(なにかあるかんじの意識経験がある人)とtype Iの盲視(ない人)の二通りをどう整合性を持って説明するかという問題意識も持っておられて、けっきょく本の方ではtype Iの人が意識経験を見逃しているか、否認しているのではないか、という処理をしてる。

これには大枠で賛成で、けっきょくtype Iの人というのはWeiskrantzの最初の患者のDBさんくらいで、このかたはV1切除前に偏頭痛発作を繰り返すなどその視野部分の経験が他の盲視患者と異なっている。そのうえで、トレーニングをしてゆくとみなtype II的な盲視になっていくらしいことを考えると、盲視での限られたSMCの成立が「なにかあるかんじ」の成立と相関しているというほうが本来的で、type Iはなんらか例外的なものと考えるほうがよいだろう。

Type II盲視でのこのような状況をミニマルな表象主義の言葉で表現するのならば、盲視での「なにかあるかんじ」とはある限られた情報処理にもとづいた本来的表象があり、それゆえに明確ではないものの、空間と位置の概念だけはあるような意識経験が作れている、と言うほうが正確なのではないだろうか? 盲視ではサリエンシーの情報は利用できるので、どこかになにかがある、という情報にはアクセスできるけれども、意識のcontent(色、形、動きの向き)にはアクセス出来ない。だから正常視覚での十全な本来的表象が盲視にはない、という言い方は正しいと思うけど、盲視の能力の応じた本来的表象はある、という言い方のほうがミニマルな表象主義の枠組みには整合的なのではないかと思った。

以上がこの件に関する私からのコメントであります。


2016年01月27日

鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んだ!

鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んでた。いま「ミニマムな表象主義」(6章)まで来たところ。

この「ミニマムな表象主義」、すごく合点がいった。ここでの表象主義は行動に利用されるかどうかによって決まるような「消費理論」的な表象であって、外的な刺激をそっくり写しとるような「再現表象」ではない。

つまり鈴木さんの説では表象主義のうちの「意識経験は(思考や痛みも含めて)すべて知覚経験である」(クオリアの志向説)を温存したうえで、再現表象ではなくてどう行動に活かされるかという意味での表象(消費理論的な表象)に作り変えていて、標準的な表象主義とは違うものなのだな。

これはようするに表象主義側からsensorimotor contingency (SMC)的な方向に向かったという言い方ができるかもしれない。SMCな人たちがシンプルなロボット(サブサンプション・アーキテクチャ)からどうやって表象を入れるか考えるのとは逆向きのアイデアで。

わたしが田口さんの本(「現象学という思考」)を読んで最近考えていること(前回のブログ記事)も、SMC(行動的連関、カエルの意識)から表象(反省的思考のモード)に移行するにはどうすればよいか、という問題について考えているといえるだろう。(その意味では、鈴木さんが書いているのとは逆向きから、記述的表象と司令的表象の関係を捉えようとしているというふうに言えるのかもしれない。)


6章まで読み終えた。鈴木さんのミニマルな表象主義とsensorimotor contingency(SMC)の近似性は動物の意識の議論のところでより明確になる。ミニマルな表象主義において意識を持つために必要なのは「本来的表象」を持つことだからカエルのように刺激と行動がハードワイヤされているものでも意識経験はあるという帰結になる。これってSMCとおんなじだ。

また、同様にしてロボットでも意識は持ちうるということになる。ただしp.187の書き方では明確で無いけれども、本来的表象というのはあくまで個体自身の生存にとって有効な情報を分節してくることによるものだから、外側からゴールを与えられた現状のロボットには本来的表象はない。ここに自己と意識とが同時発生する必要性が出てくるし、life-mind continuityという概念が必要になってくる。(参照:Evan Thompsonの"Mind in Life"とか)

(p.187で書かれていることは、「本来的表象」を作りこむことさえできれば、意識を持つものは生物的な素材である必然性自体はないんだ、という点に限局している。)


鈴木貴之さんの本を読了した!面白かった!さていろいろ考えたことをまとめてみたい。

この本は序論にシャーロック・ホームズの「不可能なものをすべて除けばあとに残ったものが真実」というエピグラフを置いて、意識経験の説明についての可能性を狭めながら、残る可能性は「ミニマルな表象主義」である、と結論づけている。

このような構造にしてあるので、読んでいると明晰に話が進んでゆくので気持ちが良い。でもこの構造を保つために強引に論を進めているところもある。たとえばそれが見える例としてp.207からの知覚と思考の違いに関する議論がある。ここでは第二の提案として「思考には知覚にない体系性がある」というのを退けて、第三の提案として「知覚経験がエゴセントリックな表象形式を持つ」という議論を進めてゆくところでこう結論付ける;「思考にあって知覚にないものは、このような強い体系性だ」(p.211)ってそれさっき否定してたぢゃん!

いやわかってる、ここでの「体系性」とは思考が無視点的であることからの帰結なので第三の提案で出てくる概念がないとこの話ができないってことは。でも、このような論説スタイルを取ることで、議論の流れ方を優先していて、ロジカルにすべてを尽くすように書いているわけではないということが読んで取れる。

そのような意味でこの本の流れで強引だと思うのは、第3章のところで、タイプB物理主義以外の物理主義が表象理論に限るようになってしまっているところだ。ここは意識を持つことの条件を物理主義的に説明できるものならなんでもいいのだから、表象だろうとグローバルワークスペースだろうとIITのphiだろうとsensorimotor contingencyだろうとなんでもいいはずだ。表象主義が有望なのはいいとしてなぜほかのものでは不十分なのかを除外してない。もちろんそれを言い出したらきりがないので、本文200ページの本として出すためにはこれで正解だとは思うけど、なぜ表象主義なのか、っていうかなり肝心な部分が案外あっさりしている。

それで表象主義自体についての話だけど、鈴木貴之さんの「ミニマルな表象主義」ってのは本当に必要なの?ってのが次の論点。つまり表象なしのsensorimotor contingencyの成立とどう違うの?っていう。

ちゃんと系統だって説明すると、鈴木貴之さんの「ミニマルな表象主義」では「本来的な表象」が成立することすなわち意識経験があることになる。この本来的な表象っていうやつは記述的な表象と司令的な表象が分かれてないオシツオサレツ表象であってもよくて、そのかわりその個体の生存にとって有益になるように外界からの入力を分節して適切に行動できる必要がある。そのときの内部表現として、あるニューロンが小さい物体(カエルにとっての餌)と大きな物体(カエルにとっての捕食者)の選択性を持っていれば良いということになる。なるほどミニマルだ。

しかしそれなら、このような意味での内部表象はカエルにとって必須だろうか? ロドニー・ブルックスのサブサンプションアーキテクチャの話を思い出してほしいのだけれども、センサーとモーターが適切にカップルしていれば、そのような内部状態を持たなくても適切なsensorimotor contingencyを作ることができる(左右どちらから光が来るかで左右のモーターが動いて左右に旋回することで光を追う能力を身につける)。そうするとこのような構造を持った動物とカエルとではできる行動は質的には変わらないけれども、意識があるかないかは内部状態があるかどうかだけで変わってしまう。前者はいわばゾンビカエルだ。それでいいのだろうか?

ここまで考えると、この「内部表象」という概念をもっと突き詰めるべきなのではないかと思えてくる。オシツオサレツ表象での内部表象ニューロンはただの神経の反応選択性であり、実験者からはその違いは見えるけれども、そのニューロンの下流にある運動ニューロンにとってはただ入力のオンオフを決めるものにすぎない。つまり、ここでの内部表象はサブパーソナルでは物理的因果によって作動しているだけで、それが本来的な表象であるかどうかはパーソナルレベルで決まるのだから、ニューラルネットワークの中間層に見られるような分散化した非明示的な表現でも構わない。つまりこの内部表象ニューロンが本来的表象であるためには、とくに明示的に表象としての情報を持っていなければならないという理論的要請がない。だからさっき書いたように、サブサンプションアーキテクチャでの表象無しでのsensorimotor contingencyの成立と何が違うの?っていう疑問になる。

もしこれがオシツオサレツ表象ではなくて、記述的な表象と司令的な表象とが分かれるシステムであるならば、記述的な表象は状況に応じて様々な行動に使うことができるようになり、内部表象として持つことの生物にとっての意義が現れてくる。たぶんオーセンティックな表象主義ってのは、記述的な表象がそういったフレキシブルな行動を支えられるようにワーキングメモリーなどの概念と組になって初めて役に立つんではないかと思う。(ここは専門家でないのでわからん。)

ただし、オシツオサレツ表象ではなくって、記述的な表象と司令的な表象とが分かれることが意識があることの条件に必要であるとしたら、「ではどのくらい分かれていればよいのか」といった、あらたか基準を設ける必要が出てくるのでミニマルである意義が吹っ飛んでしまうだろう。「グローバルワークスペースの情報が入る」とか「phiが一定以上の値になる」といったものを補助的に使う必要が出てくる。

とはいえ私はべつに、明示的な表象が必須であると言いたいわけではなくて、逆にカエルの意識を説明するのに「ミニマルな表象」で充分なのだったら、sensorimotor contingencyがあるという条件だけで充分なのではないの?って言いたい。そのうえで、記述的な表象と司令的な表象とが分かれることで、カエルの意識からヒトの意識へとなんらか質的な変化が起こるかもしれなくて、それを知るためには表象を脳に埋め込む(自然化する)ということがどういうことなのかより正確に理解した上で、予想コーディングでいう「予想」「モデル」の実体って一体なのよ、とかそういうことを考えていったらいいんではないか、みたいなことを私自身の問題意識として持っている。

このへんについては鈴木さんの本への応答というよりも前回のブログ記事からの展開といったほうがよいので、次回のブログ記事で別枠で書いてみようと思う。つづく。


2015年12月24日

国際シンポジウム「哲学と経済学における意識と意図」でトークしてきた!

国際シンポジウム「哲学と経済学における意識と意図」(Consciousness and Intention in Economics and Philosophy)でキーノート・スピーカーとしてトークしてきた。(京都産業大学12/12-13)

オーガナイザーの方の「優しすぎるくらいでお願いします」というアドバイスを元にSDT解析部分を削ったのだけど、結果的に正解。途中質問ありで45分で講演してそこから15分くらい質問がずっと出続けだった。

会としてはこじんまりとしたもので朝一が30人、午後一の私のトークのときに40人くらい。経済心理学、実験経済学、哲学の人たちで構成されていて、懇親会でも哲学の人たちといろいろ話せてすごく良かった。

収穫だったのは実験哲学のShaun Nicholsがすごく興味持ってくれたところだろうか。氏の明日のトークの要旨を見てみたらhigh road/low road という二つのプロセスを考えていて、腹側、背側経路論と関連深そうだ。

Kurt Grayからは盲視との二重乖離の結果はないの?って質問があった。これはFAQだから「SC lesionはしてないけど、GoodaleのDFさんの話というのがあってactionのための視覚とperceptionのための視覚の二重乖離は示されている」と答えておいた。

あとShaun Nicholsからは「後半のサリエンシーの話で前半のyes-no課題の話は説明できるの?」って質問があった。これは東北大のトークのときの塩入先生からの質問に続いて二度目。塩入先生はこの仕事よくわかってくれてるから流石だなと思いながら答えたんだけど、Shaun Nicholsが初見でそこまで頭が回ることには驚いた。

答えとしては、forced-choice課題では二つの刺激条件のサリエンシーは全く同じで対称性がある。一方yes-no課題ではtarget条件と異なりno target条件ではサリエンシー検出器はなにもない画面から(ノイズを元にしてwinnner-take-allで)無理やりサリエンシーが高いところを作り出すだろうという点で、二つの刺激条件のサリエンシーは対称性がない。ここに違いがある。

塩入先生からはその説明で充分か?というツッコミをさらに受けたけど、今日の答えとしては二つの課題でのサリエンシーが違うというところまでは納得してもらえた様子。


あと、京産大の伊藤浩之さんとトークの後に雑談。サリエンシーでできることとそうでないことの切り分けの可能性としてbinding problemの話を提案してもらった。たしかに、いつもサリエンシーの話をする際にconjunction searchの絵を出したりしていたけど、そういう味方でbinding problemについて考えたことはなかった。(binding problem自体は偽問題だろ、みたいな議論があった頃から興味が薄れていた。)

でも、盲視でfeature間のbindingができるかどうかというとできたという話はないので、盲視ではかなりのことができてしまうのだけど(ポズナー課題で見えていない視野に注意を向けることさえできる!)、できないことのリストとしてbindingはあると言えそう。

もともと盲視の動物モデルを研究するにあたってひとつ考えていたことに「微小電気刺激などで失った意識経験を回復させる」というのがあったのだけれど、そうはいってもどうやって意識経験回復したか示せるのかよって問題があったのだけど、そこは置いた上で、feature blindingができるようにする、これ自体は十分可能で意義も大きいように思える。

忘れないうちにメモっておくと、yes-no課題でのno target条件では刺激がないのでどこにサリエンシーが高いかというと注視点が消失したところのサリエンシーが高いまま持続する。だからtarget条件も含めた行動選択としては、実際にターゲットがある場所と注視点のどちらかに行く。

つまり、ターゲットが出ていない反対側の選択肢の位置にサッカードする行動が非常に少ない(targetあり条件であってもおかしくないはずだがFC条件では<10%程度のみ見られる)のは、サリエンシーに基づいた行動選択を行っている証拠ではないかということ。

あと、motion saliencyへの反応を「もぞもぞしたかんじ」というのが触覚っぽくて面白いよねってのは参考になった。視覚入力が体性感覚野にrewiringした入力している可能性とか。


明日はShaun Nicholsのトークとあとひでまんのロボットへの社会認知のイメージングの話がメインイベントとなる予定。今日は疲れた!つかホテルに帰って爆睡して目覚めたら夜中の0時。これからどうしたものか。麦チョコ喰って考える。


京都駅へ向かう帰り道でドイツから来てた神経経済学やってるという人と語りながら帰ってきた。日本でハロウィーンが大人が仮装して馬鹿騒ぎするようになっている話をしたら驚いてた。ドイツでも10年くらいしたらそうなるかもねって言ってた。あと日本でもオクトーバーフェストやってるよってのも驚いてた。

へとへとになって家に帰ってきた。そのあとで京都がせっかくいい季節なのにどこも見てこなかったことに気がついた。といいたいところだけど始めっから気がついてた。京都大好き。


2015年06月20日

Scientific Reports論文「盲視のサルの信号検出理論的解析」出ました(2/2)


Scientific Reports論文「盲視のサルの信号検出理論的解析」が5/29にオンラインで出版されました。Scientific Reports誌はオープンアクセスですので誰でも論文を入手することができます。プレスリリースは 「「見えてないのに分かってしまう」盲視はヒトでもサルでも同じ」


さて前回のエントリの続きを。

Cowey and StoerigのNature 1995でV1損傷のnhpが盲視であるということの証明をしたという論文が出た。でもいくつか問題点があるのではないか。そこで「盲視の二つの側面についてForced-choice課題とYes-No課題というべつべつの行動課題で検証する」というアイデアを引き継いだ上で、その問題点について改良した実験デザインと解析を行ったというのが今回の私の論文。

そう聞くと、日本人らしい、重箱の隅的論文に見えるかもしれない。でもそこで動物ではほとんど行われてこなかった、意思決定バイアスを操作するタイプの信号検出理論的解析(type I SDT)まで加えて、この被験者の感度と意思決定バイアスまで定量化した。これによって現在のヒトでの意識研究で行っているのと同じレベルかそれ以上に正確なデータを得ることができた。これがこの論文の売り。

課題は以下の図1の通り。

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図1 Yoshida & Isa 2015での行動課題


Cowey and Stoerig 1995と比べると(注1)、こちらではYes-No課題のときにエスケープ領域がない。代わりにYes-No課題ではターゲットがないときは注視しつづけるという行動をとれば報酬が得られる。これによって前回のエントリで指摘した「(1) Yes-No課題ではエスケープ領域があるという意味で画面にあるものがForced choice課題と異なっている」という問題へ対応している。

結果はどうだったかというと下の図2の通り。

20150616press_yoshida3.jpg

図2 Yoshida & Isa 2015での行動課題の正答率


Forced-choice課題では二択で正答率>90%であった(注2)のに対して、Yes-No課題のターゲットあり条件ではまったく同じ視覚刺激を使っているにもかかわらず、正答率は50%になった。つまり、半分はターゲットに向かって正しく目を向けることができる。しかし、もう半分ではターゲットが出ているのにもかかわらず、注視点のあった位置に留まっていた。つまり、被験者はこの試行をターゲットのない試行に分類しているというわけで、被験者はターゲットがあるとは思ってないわけだ。よって結論はCowey and Stoerig 1995と同じく、サルもヒト患者と同様、盲視になる、つまり「ターゲットがあるとは思っていないけれども、当てずっぽうで位置を当てることができる」ということになる。

ただし、Cowey and Stoerig 1995ではYes-No課題のターゲットあり条件では正答率は0%だった。これはどういうことかというと、前回(1)で問題にしたように、エスケープ領域のサリエンシーが高かったせいで、正しい行動評価ができていなかったんではないかと思う。

図2のデータの方に戻ると、正答率が50%であるということは、この課題が全く出来ていないというわけではないことを示している。というのも図1に戻ってもらうとわかるけど、この論文のYes-No課題では、ターゲットが出る確率は全体の試行のうち30%となっている。もし被検者がターゲットが出ているかどうかが全くわかっていなかったとしたら、正答率は30%になるはずだ。

(より正確に言うならば、この実験では正解のフィードバックを得ているために、ターゲット有りと無しの試行の比率を推定することが可能であるため、その条件下で報酬を最大化しようとしたら、最適な行動は「30%で目を上下どちらかに動かし、70%は注視を続ける」というものになるということ。)

ではほんとうのところどのくらいわかっているのか、これを評価するためには「信号検出理論」に基づいた実験と解析を行う。これはどういうものかというと、図1の条件では「ターゲット有りの試行30%、無しの試行70%」と固定していた。これを一定時間ごとに変えてやろうというわけだ。

たとえば「ターゲット有りの試行80%、無しの試行20%」だったらどうなるか。大体の場合はターゲットが出ているのだから、自信がなかったらとりあえずターゲットの有りそうな方に眼を動かすのが最適戦略だろう。一方で「ターゲット有りの試行20%、無しの試行80%」だったらどうなるか。大体の場合はターゲットが出ていないのだから、自信がなかったらとりあえず注視を続けるのが最適戦略だろう。このようにして被験者は「意思決定のバイアス」を最適化する。そのときのデータを記録すれば「意思決定のバイアス」によらずに純粋に「ターゲットがあるかないか感知する能力=感度」を推定することができる。つまり、変わらないものを知るためには、周りのものを変えてやるのさ。(<-なんかイイこと言った風)

これが前回のエントリの(2)で指摘した「損傷視野に標的が出る確率が5%しかない」ので「経済的意思決定に基づいた選択のバイアスを反映しているだけでは?」に対する答えだ。信号検出理論についての解説は今回は省くけど、以前slideShareに解説スライドをアップロードしたことがあるのでそちらを参考にしてほしい(信号検出理論の解説)。

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図3 Yoshida & Isa 2015での信号検出理論的解析の結果


データとしては図3の通り、「信号検出理論を使って「意思決定のバイアス」に影響を受けない「感度」を定量化したところ、Forced-choice課題と比べてYes-No課題では感度が下がっていた」というものになる。

このような解析を動物で行った論文はほとんど無い。たとえばHamptonの論文Anim Cogn. 2014 "Dissociation of visual localization and visual detection in rhesus monkeys (Macaca mulatta)"では信号検出理論を使ってはいるが意思決定のバイアスをいじってない(注3)。まれな例としてEichenbaumらのNature 2004 "Recollection-like memory retrieval in rats is dependent on the hippocampus"がある。ラットの再認記憶課題の成績を評価するために報酬の量をいじることで経済学でいうペイオフ変えてやることで意思決定のバイアスを操作している。

このようにして、刺激そのものは変えずに意思決定のバイアスを操作する解析をtype I信号検出理論的解析という(注4)。本研究は「視覚ターゲットが見えたかどうか」という視覚的気付きを動物で評価するにあたってType I信号検出理論的解析を行って感度と意思決定のバイアスの両方を独立して評価した最初の論文、ということになる(注5)。

この方法を用いれば前回指摘した(3) 「ここで起こっている現象は正常視野でも輝度コントラスト下げて閾値ギリギリにしたら起こるんではないの?」つまり「V1損傷に特異的な現象であるかどうかの保証がない」という問題にも答えることができる。まったく同じ課題を正常視野でも輝度コントラスト下げて閾値ギリギリにして行ってみた。この場合、Forced-choice課題の感度とYes-No課題の感度の間には差がなかった。つまり、この現象は「V1損傷に特異的な現象である」ということを示すことができたというわけ。

では以上のことから被験者はどのような視覚経験を持っていたといえるか。これは憶測になるのでdiscussionに書いておいたけど、かいつまんで言えば、今回使った視覚ターゲットについての視覚経験は全くないのだろうと思う。盲視では「何があるかはわからないけれども、なにかがあるかんじはする」という独特の経験があることが知られている。以前のブログ記事を参考に。でもそのような感覚はサリエンシーが高いもの、たとえばmoving gabor patchとかでしか起こらないことがヒト患者での研究からは知られている。今回使った刺激は小さくstaticな刺激で、ヒト患者に提示してもこのような経験は引き起こされない。よって今回使った視覚ターゲットについての視覚経験は全くないだろうというのがここで行った議論だった。ほんとうのところはわからない。どうやったらわかるだろう?これはほとんどハードプロブレムの領域に足を踏み入れている。


以上です。コンパクトにしたかったが結局長くなった。ジャーナルクラブなどで採り上げていただけたら幸い。アンチョコとしてご利用ください。


(注1) あちらはタッチパネルを使ったリーチング課題だったけど、こちらは眼球運動で応答する課題になっている。よって視覚刺激が網膜上のどこにあるかということもきっちりコントロールされている。

(注2) ここで正答率が100%ではないということが盲視の特徴らしい。ヒト患者の場合でも、どんなに自信満々でも部分的に間違える。この意味においてもnormal visionとは何かが異なっている。

(注3) なんでこんなことが可能かというと、よくある信号検出理論の解析ではもうひとつ余計に仮定をおいているから。正確な説明のためには信号検出理論のモデルに立ち入る必要があるが、意思決定の過程のモデルにおいて、ノイズの分散とノイズ+信号の分散が等しいと仮定すると意思決定のバイアスを操作しなくても感度が一意に求まる。当然、この仮定が満たされているかどうかは保証されていないので、この仮定を入れた分、論文の結論の信頼性は落ちる。

(注4) Type II 信号検出理論的解析というのもあって、こちらでは刺激そのものは変えずに確信度評定をする。つまり、被験者に答えの自信がどのくらいあるか点数をつけてもらう。そうすると確信度の高さでデータを分類してやることと意思決定のバイアスを変えるとは等価になる。課題の条件を変える必要がないのでこちらのほうがより厳密であると言ってよいかと思う。

(注5) 意思決定のバイアスも同時に定量化できる。それによってはたして合理的な意思決定をしているか、バイアスがあるかの議論もできる。Hakwan Lauは盲視ではこのバイアスがconservativeな方にずれている(つまり自信がないときは「刺激が無い」と答えるというバイアス)のではないかと提唱している。本研究の結果はその逆、自信がないときはとりあえず「刺激はある」と答えるバイアスがあることを示している。


2015年06月17日

Scientific Reports論文「盲視のサルの信号検出理論的解析」出ました(1/2)

Scientific Reports論文「盲視のサルの信号検出理論的解析」が5/29にオンラインで出版されました。Scientific Reports誌はオープンアクセスですので誰でも論文を入手することができます。

所属している生理学研究所からプレスリリース 「見えてないのに分かってしまう」盲視はヒトでもサルでも同じが出ています。つか私が書いているのですが、簡単な説明に関してはこちらをどうぞ。ブログの方ではもう少し背景とか詳しめなことを書きます。これがそのうち書くであろう日本語総説の原稿にもなる予定。


non-human primatesでの盲視の研究について歴史的経緯で言うと、ニコラス・ハンフリーのNature 1967でV1の両側損傷後にも視覚に対する反応があることを示したことに始まる。つまりWeiskrantzがヒト研究でblindsightという言葉を使った1974年よりも先の話。

でもnhpで「盲視である」ということを証明するのは簡単ではない。なぜなら盲視というのは「意識経験として視覚刺激が見えない」「でも強制選択条件では偶然より正しく視覚刺激の位置を同定できる」という二つのことが起きている現象だから。ハンフリーの論文は後者しか示していない。じつのところnhpではV1損傷後に視覚能力が全体として回復したのかもしれないのだから。

でもそんなことはないというのを示したのがCowey and StoerigのNature 1995だった。ここで彼らがやったのは、この二つの条件をそれぞれ別々の課題で評価してやろうということだった。

cowey_stoerig1995.png

Cowey and Stoerig 1995での行動課題


Forced choice課題では、ディスプレーの中心に白い四角が出て、それをタッチすると黒い四角が4ヶ所のどこかに現れる。それにタッチすると報酬がもらえる。これは正答率90%以上。「強制選択条件では偶然より正しく視覚刺激の位置を同定できる」というのを示した。

Yes-No課題では、ディスプレーの左上にエスケープ領域が提示されている。白い四角が出てそれをタッチすると黒い四角が現れるのはForced choice課題と同じ。違いは「標的なし」という条件がランダムに混ぜられること。標的がないときは左上にあるエスケープ領域にタッチすると報酬がもらえる。行動結果はどうかというと、正常視野に標的が出たときは90%以上の正答率で正しく黒い四角をタッチするのに、損傷視野に標的が出たときはほぼ100%でエスケープ領域にタッチした。つまり、被験者は損傷視野に出た刺激を「標的なし」であると分類したわけで、これは「意識経験として視覚刺激が見えない」ということの証拠だ、と結論づけたのだった。

この論文は言葉を使えない動物に「視覚意識(正確に言うなら視覚的気付きvisual awareness)があるかどうか」をテストしたといえるわけで、意識の研究としては非常に大きなインパクトがあった。

でもちょっと考えてほしいのだけど、いろいろ変なところがある。(1) Yes-No課題ではエスケープ領域があるという意味で画面にあるものがForced choice課題と異なっている。Curr Biol 2012で示したようにサリエンシーの高いところにまず目を向けるというのは非常に自然な行動なわけで、「損傷視野の標的を無視してエスケープ領域をタッチした」という結果は端的にサリエンシーの一番高いところに反応しただけではないだろうか?

(2) さらにもう一点、損傷視野に標的が出る確率が5%しかないというのも問題だ。ここで被験者がやっているのは意識の内観報告ではなくて報酬の最大化なのだから、もし損傷視野の標的が見えていても視力が低くて自信が持てないのであれば、とりあえず「エスケープ領域をタッチする」というのが賢い選択だろう。つまり、この結果は、「損傷視野の標的は見えているのだけれども、機能回復後ははっきりと見えているわけではない」という場合でも説明できてしまう。つまり、Forced choice課題なら自信がなくてもとりあえず一番あやしいところを選べば当たる(実質二択なのだから)が、Yes-No課題では自信がない場合にわざわざ成功率9%(=5/(50+5))の賭けには出ずにエスケープ領域をタッチする、というわけだ。

(3) 前述の項目で出た論点をさらに突き詰めると「ここで起こっている現象は正常視野でも輝度コントラスト下げて閾値ギリギリにしたら起こるんではないの?」という問題になる。彼らはこの可能性を排除していない。つまり、見ている現象がV1損傷に特異的な現象であることを示していない。


じゃあっつうんでこの三点を改良したのが今回の私の論文。ってそれだけ聞くと、日本人らしい、重箱の隅的論文に見えるかもしれない。でもそこで動物ではほとんど行われてこなかった、意思決定バイアスを操作するタイプの信号検出理論的解析(type I SDT)まで加えて、この被験者の感度と意思決定バイアスまで定量化することで現在のヒトでの意識研究で行っているのと同じレベルかそれ以上に正確なデータを得ることができたというところがこの論文の売り。

おっとしかしここで時間が。つづきはまた明日。


2015年06月10日

駒場学部講義2015 「意識の神経科学:「気づき」と「サリエンシー」を手がかりに」レジメアップしました

駒場学部講義2015 「意識の神経科学:「気づき」と「サリエンシー」を手がかりに」レジメアップしました。

駒場学部講義2015 総合情報学特論III 「意識の神経科学:「気づき」と「サリエンシー」を手がかりに」 from Masatoshi Yoshida

今年の目玉は後半部。Predictive coding - フリストン自由エネルギーから統合失調症についての話を経由して、presenceへ。

統合失調症のトピックはコンパレーター仮説(フリス) - ベイズ的説明(フリストン) - 過剰サリエンス説(カプア)という流れになってきたが、ぜんぜんエナクティブでないのでなんか本意でない。現在確立しつつある視点を紹介という言い方になるか。

過剰サリエンス説と予想コーディング説を接続するという考えはすでにFletcher & Frith 2009 http://t.co/JmZPHmgJei に見られるので、それを基本的なところから、自分のongoingな仕事も絡めて解説した、というのが後半の講義の意義になる予定。

統合失調症のコンパレーター仮説(フリス) -> ベイズ的説明(フリストン) -> 過剰サリエンス説(カプア) という流れで作ってきたけれども、けっきょくのところベイズいらないじゃん(prediction errorで十分じゃん)とかベイズでDA-precision-salienceの概念を入れるならば、あらかじめサリエンス仮説の方を先に喋ったほうが良いじゃんとか、いろいろ構成を弄りたくなってきた。

でもDA-precision-salienceの話をするならばempiricalなevidenceも必要だろう。うーむ、削除かな!勇気ある撤退!(<-自己欺瞞)

こんなかんじでギリギリまでスライドアップデートしていてます。乞うご期待!


2015年06月06日

駒場講義2015/6/10の準備メモ

恒例の6月の駒場でのオムニバス講義「意識の神経科学:「気づき」と「サリエンシー」を手がかりに」6/10(水)がいよいよ近づいてきたので、講義に向けて準備しているところです。2012年から毎年、4年目となった池上高志さんの総合情報学特論IIIでの学部講義 105min * 2です。

昨年のレジメはこちらにあり:駒場講義2014「意識の神経科学を目指して」配付資料

今年もいくつか内容を補充してアップデートしたものをお送りする予定です。前日くらいにレジメをブログおよび生理研のサイトにアップロードする予定です。

今年は統合失調症についての話を盛り込んで、予測コーディングとサリエンシーとプレゼンスについて言及する予定。そんなわけで以下は準備メモです。


Predictive codingについての説明をするときってだいたいモジュール描いてトップダウンとボトムアップの絵を書く。(たとえばこういうやつ) でもそれだけだとホントのところ何をしているかわからないだろう。そこで流れているというpredictionとかprediction errorというものの実態が見えるような説明を作りたい。

結局のところ、たとえば顔モジュールから送られてくるpredictionというのは「顔があるかどうかの確率密度分布の時間的変動」でしかない。つまり、実態は発火頻度の時間変動であって、それが意味を成すのはそのニューロンの反応選択性の組で取り扱ったとき(=likelihood function)だけだ。prediction errorも同じ確率密度分布の引き算だ。

たとえばRaoの論文Vision Research 1999とか、昨今のfMRIデコーディング論文とかにあるように、表象されている絵が時々刻々と切り替わっているのを見ると、あたかも詳細な顔の絵の表象が顔モジュールにあってそれが送られてくるように誤解されるかもしれない。(追記:あとでVision Research 1999確認してみたら、pixelベースでprediction error作る絵が書かれている。誤解してたかも。この後あとで見直す予定。)

Prinzの中間レベル表象説は顔モジュールレベルにはretinotopicな情報がないことをわかっているのでこの意味での誤解はないと思うけど、じゃあ中間レベルに全部を持っているところがあるかというとそれは幻想で、ただただ分散表象されていると言わざるをえないだろう。

Ittiのbayesian surpriseを説明するときに使う「テレビの砂嵐はエントロピー最大だけどサプライズはない」って話(こちらのサイトの"What is the essence of surprise?"の項目参照)について考えてみよう。フレームごとの砂嵐の変化はpixelレベルではものすごく大きな情報量があるといえるのだけれども、人間の認識レベルではその違いに気づかずに同じ砂嵐だと思う。

だからt=1での砂嵐からt=2での砂嵐への変化は人間にとってのサプライズはないし、uncertaintyの減少(情報量の増加)も起こらない。これは、情報量というのは外界にあるものではなくて、外界とセンサーとの間の関係で決まるものなのだから当たり前。

でもそれだけの話ではなくて、網膜のセンサーのレベルでの時間空間解像度があって、それが層ごとに「処理」を経て、あるレベルでは「顔があるか否か」「建物があるか否か」といったpopulation codingでの時間空間解像度になっていく過程で情報量云々というのはそれぞれの層ごとの伝達でのことに限られる。ってやっぱあたりまえか。

とにかく、通り一遍なprediction codingの説明を神経回路網の考えで前提となっているところを正しくおさえたうえで説明するにはどうすればいいかということ。

分散表現を身も蓋もない感じで表現するならば、顔モジュールが持つ確率密度分布、色モジュールが持つ確率密度分布(+おおよその刺激位置の確率密度分布)、傾きモジュールが持つ確率密度分布(+詳細な刺激位置の確率密度分布)があって、どこにも「顔」の絵(ピクトリアルな表象)なんてない。これを強調しておきたい。

そのうえで、それが層間でどう相互作用して時間変動するかってところがprediction codingなのであって、それ以外はあくまでコネクショニストなのだから。(ただし、ここでは中間層がsparseな表象をしているように書いている。実際には投射ニューロンはスパースで、介在ニューロンはコネクショニズムの中間層的な表象をしている、って話になるだろう。)

こんなこと言い出したのは、情報量と神経回路網の話をよく整理しておかないとIITの議論についてけないというか、IITでの情報量の扱いになんか文句付けられるんではないかと考えていて、しばらく調べていたのだった。でもってここあたりが力学系的世界と情報、統計的世界の繋がり方を考えるためになんか分かってないといけないことなんだろうなあと思う。

上丘では顕著なのだけど、視覚応答に対して潜時が短くてonsetとoffsetの両方にtransientに反応するタイプのニューロンと、潜時が長めで刺激提示中にsustainedで反応するタイプのニューロンがある。ざっくりいえば前者が予測誤差で後者が予測と言えなくもない。

でもってたいがいの視覚ニューロンというのはonsetに強く反応するので、こいつらは傾きとか形とかを表象しているだけではないよな、ってのが生理学者的な実感としてある。

多層のニューラルネットワークを作って、それに視覚刺激をいろいろ提示して、脳のニューロン活動を再現するようなシナプスの重みを学習させておく。そうするとtransientな応答のあるニューロンを再現には片方向の流れだけだと無理なのでで、リカレントとかフィードバックとかの回路が必要になる。

ではこうして結果的に学習されたシナプスの重みは、predictive codingに相当することをやっているのか、それともニューロンの応答のダイナミックレンジの最適化とかその種のルール(レセプターの一次的な飽和とか伝達物質の一次的な枯渇とかニューロンのintrinsicな機構を反映した帰結)なのか、とかそういうことをあるていどリアリスティックな(マルクラムほどでなくても手に負えるくらいの)規模のニューラルネットワークを作って、検証できないだろうか。夢見すぎか。

(追記:ここで書いているような、spiking netwrok modelでpredictive codingかそれともadaptationかを検証するパラダイムはすでにDehaeneがMMNで行っていた。Wacongne, C., Changeux, J.-P. & Dehaene, S. A neuronal model of predictive coding accounting for the mismatch negativity. J Neurosci 32, 3665–3678 (2012).)

そうすれば、IITで考えているような条件の前にまず安定して自発発火が持続するようなニューラルネットワークの条件ってものがあって、(たぶんそれはquasi-self-organizing criticalityになってるだろう)、そうやって絞ったパラメータ空間のなかでこそ、はじめてIITで言うような条件を満たすパラメータ空間を探索することが可能となるのではないだろうか? 夢見すぎか?


2014年12月03日

ジョン・マクダウェル「『心と世界』レジュメ」から抜き書き

以前ラットの因果推論のあたりをいろいろ調べたときに考えたのは、「意識どころか因果推論という『思考』でさえも純粋に行動からは定義することは出来なくて、われわれは言語や自分自身の直感に照らし合わせることで自分のやっていることを『思考』だと思っているだけなのでは?」ということだった。

そんな理由で「『心と世界』レジュメ」を見ながらジョン・マクダウェルの「心と世界」訳本の該当部分を追ってる。マクダウェル(+エヴァンス)の言う意味での「概念能力」をもたない(人間以外の)動物における「動物の経験」という議論がある。

経験を概念能力と結びつけるような厳密な意味での経験の観念を、自発性を持つ人間には適応できるが、自発性を持たない動物では適応できない。(p.112)

自発性:なにを考えるべきかを経験の引き渡すものに照らし合わせて決めるという能動的な自己批判的活動において行使される能力(p.92)

人間は(人間以外の)動物とおなじく[環境の諸特徴に対する知覚的感応性]を持っているが、人間の場合その[…知覚的感応性]は自発性の能力の勢力圏内に組み込まれているという点が(人間以外の)動物と比べて違う。(p.114まとめ)

第6講義の4:動物は環境に対応する感応性によって自分の環境に見事に対応している(環境のうちに生きている)という意味では主観性という観念に似たものがあって、デカルト的な自動機械ではない。=> 主観性というよりもむしろ原主観性 (p.193-194)

それに対して人間は世界から我々への干渉として追ってくるものを乗り越えて「自由で離れた態度」を世界に対してとることができる。=>世界のうちに生きている (p.192-193)

こうなってくると「自発性」ってけっきょくなによってところが理解すべき点か。「心と世界」の主題の非概念的、概念的内容についてはすでにグッデールの二つの視覚説からの言説が複数ある(信原氏、門脇氏、小口氏)ので一見取り組みやすそうだが、分析哲学知らずに概念を語るのは無理なのでパス。

第6講義の6:ネーゲルの「コウモリにとって反響定位をするとはどのようなかんじか」という問いはコウモリには(マクダウェルのいう)原主観性しかないのに、あたかも十全な主観性があるようにネーゲルが扱っているがゆえの(誤謬)。

ということで(人間以外の)動物には自発性に基づいた概念能力によって世界の中に生きられないがゆえに人間のような経験を持たず、あくまで環境のうちに生きている、ということになる。

第6講義の7:じゃあどうやって進化で自発性が出来たのって話になるわけだが「意味への応答を含む第二の自然は人間がふつうに成熟する中で獲得されるという事実を進化論的に説明することは、意味に応答できるとはどういう子とかを構築的に説明することとはまったく別であろう。」(p.205)


2014年05月11日

日本視覚学会2014年冬季大会でトークしました

1/23に日本視覚学会2014年冬季大会でトークしました。そのときの準備とかでいろいろメモったことをまとめておきます。


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そろそろ日本視覚学会2014年冬季大会の準備をする。プログラムの暫定版が公開されてる。 わたしの発表は二日目 1/23の13:30から。そんなに大きく変えようはないが、視覚科学者の前だからSDTとかサリエンシーとかの話はしやすいか。

日本語での講演ということになっているけど、せっかくJohn L. Barbur (有名な盲視症例GY氏の論文を最初に出した人)のトークの前なのだし、スライドは英語で作って、Barbur氏にも理解してもらえるようにしておく。あと、ヒトデータをもう少しexpandしておきたい。

色弁別課題に関しては動物実験としてはDKLとか使ってかなり気を使った実験をしてきたが、それでも視覚科学者には粗が見えるだろう。DKLをちゃんとやるためにPR650による測定はやってあるけど、錐体の比率、分布は個体差が大きく、V1損傷によってどう影響しているかも自明ではない。

マカクのL-cone, M-cone, S-coneの吸光特性のデータというものはないので、Stockman, A., and Sharpe, L. T. (2000)を使ってる(いわゆるスミポコではなくて)。DKL色空間についてまとめ

何人かには指摘されたが等輝度を決めるためにHeterochromatic Fusion Nystagmusを使うことは検討したことがあるのだが、TEMPOはmotion刺激を出すのが不得意だったのでやらなかった。

いまにして思えばPTB3だろうとPsychoPyだろうと使ってやってみればよいだけの話だったのだけど、そのときはmatlabで自力で計算したDKL-RGB変換関数を作ってそれをTEMPOで呈示するのでいっぱいいっぱいだった。

せっかく講演の準備をするんだったらそれを動力にして解析を進めてしまうのがよいだろうと考えていたが、サリエンシー総説を書く動力にするという説もある。どっちが効率よいか。どっちが講演として面白くなるか。やっぱヒト盲視データのほうがよいか。

Carol Colbyによる、上丘がS-cone isolating stimulusに応ずるよ、というJCN2014論文が出た。以前のSFNで会ったときにこの話をしていて待ち臨んでいた。この論文の中でも私のカラバイ論文を引いて議論してくれている。


1/21

視覚学会用のスライドを見直していたが、生理学っぽいの全部抜いて、SDTとサリエンシーと色とhumanにしても25分では厳しい。回路の図は質問されたら出すことにして、以前作ったものをColby論文の分だけアップデートして使う。

John Barburの仕事はGY氏の最初の報告(Brain 1980)から、サッカードについて調べたBrain 1988、空間、時間周波数 Brain. 1991、最初の機能イメージング(+なにかあるかんじ) Brain 1993、瞳孔反射 Brain 1999、とさらにはじめてではないけれども、色弁別、optic tractのdegeneration、とGY氏についてのほぼすべての知見に関わってくるので、なにを選んで自分のトークの中に入れるか、自由度は高いが、ひとつに決めるのは難しい。

とくに色についてはいろいろやっておられるので、モザイク刺激の結果とか出したらきっと喜んでくれるだろう。でも時間が足りない。

分かった、この機会にBrain 1980Brain 1993を元にしてGY氏のデータで盲視を説明して、私のデータを出して、だいたい同じだが、方向弁別の結果が違うことを示して、そのあとでmacaqueに移る。そうすれば色の話と回路の話は時間次第で端折りつつも入れることは可能。


1/23

講演ぶじ終了。時間もほぼぴったしで、いろいろ調整したのが功を奏したのではないかと。プレゼン内容どうだったかフィードバックをもらうつもりだったが、そのまえにいろいろ議論しててすっ飛んでしまった。

John Barburはとても楽しい方で、シンポジスト一同で行った食事の間もしゃべりまくりだった。あとはGYさん四方山話が増えた。GYさんについてはハクワンとかバハドーとかからいろいろ聞いてきたが、Barburからもゲット。

夕食でBauburとの話が盛り上がりすぎて、岡崎行きの終電(東京駅発21:30の新幹線)を逃したので実家に泊まることに。帰り道は思ったほど寒くなくてよかった。疲れたが収穫はあった。メモるだけメモったら、さっくり切り替えて来週のために頑張ろう。


2014年02月25日

「視野の外は端的に無であって、暗闇じゃあない」(+おまけ)

視野の外は端的に無であって、暗闇じゃあない、ってのをいつも説明するのだけど、目を動かすことができて、頭を動かすことができるので(+音とか)、その外部の存在を実感できる。

もし目を動かすことができず、頭を動かすことができなかったとき、その外部の存在を実感することができるだろうか? デネットが言うように、端的にその無は気づかれず、なかったことになるのではないだろうか?

マッギンやネーゲルが言うcognitive closureってのはそういうものであって、我々の気づかない空間、時間、そしてそれを超えたところに我々と相互作用しないがために端的に無となっているものはいくらでもあるのではないだろうか? そしていったんそれと相互作用が可能になったとき、それはまるで初めから存在していたかのように受け止められるのではないだろうか?

…みたいなことを小学校高学年ぐらいになったらみんな考えるもんですよね? (<-遠い目をしながら)


アクティブヴィジョンの話題の掴みとして「われわれの視野で本当に視力の高いところは視角にして1度ぐらいしかない」(だから絶えず眼を動かして網膜の空間解像度の高い部分で物を見ているのだ)という話がある。これをRucciかだれかが「腕を伸ばした先の親指の大きさの視角」と表現していた。

実際に計算してみた。私の腕の長さは70cm。親指の爪の長さ(縦方向)は1.3cm。よって視野角は atan2d(1.3,70)=1.0639 (degree) となる。なるほど納得。


2013年12月11日

デビット・ボームの「全体性と内臓秩序」とかぴらぴら読んでます

デビット・ボームの「全体性と内臓秩序」をぴらぴら読んでる。「実在を過程として理解するという考え方は古くからのものであり、少なくとも、万物は流れるといったヘラクレイトスにまで遡ることができる。」いやそりゃそうだよなあ。この考え方は、ホワイトヘッドのプロセス哲学、中観仏教哲学での縁起と空の概念、面々と続いている「オルタナティブ」な思想なのであった。

エナクティブな意識、「行動としての意識」という考え方に肩入れする私は、まあひとことで言ってしまえば「遅れてきた80年代ニューサイエンス野郎」であると認めざるをえない(「禅とオートバイメンテナンス技術」とか)。

けれども、そんな「80年代ニューサイエンス」との区別をきっちりつけるために、実験科学的(神経生理学的)でありつづけようとしてきたのだった。と簡単に私の20年を総括してしまったがもちろんそんなに簡単なわけでもない。

この期間に計算理論的なものにかなり親しんできた。デビット・マーに対しては半可通でありつつも改革論者であろうとしてきた。(以前の記事「マーの三階層理論をベイトソン的に捉え直す」ではマーの表象主義はじつのところ正当にも表象とその操作(プロセス)の組みで捉えられていることを強調した。)

そんなこんなで、計算理論的表象主義的 vs. 力学系的非表象主義的、みたいな対立は使っているツールの違いとかだけではないことを思い出した。つまり、いいとこ取りでやっていけるのかどうかまたわからなくなってきた。

ともあれ、デビット・ボームの「全体性と内臓秩序」を開いていたら、1991年のあの空気が一挙に流れてきて(大学生の夏休み、自転車で暑い中を図書館まで行って、フリチョフ・カプラとか読んでた俺)、あのときからいったい私はちょっとは進歩したのだろうかと考えてしまう。

もちろん進歩はしている。あの頃自分で考えていたつもりのことを言語化するのにはどれだけ手を動かして書いてみなければいけないか少しは分かった。また、どんな概念でも(たとえばHHニューロン)、トイモデルでいいからいったん手を動かしてplayして身につけてゆくしかない。

自転車に乗れるようになるためには自転車に乗ってみるしかない。けっきょくそれに尽きているようにも思える。って説教くせえなあw

んで、なんでこんなことしているかっていうと、今度自然科学研究機構での企画で物理学者と分岐や生成について議論をするという機会が与えられたので、「意識の生成」みたいな話をするためにちょっと自分に入れ知恵しておこうというわけなのだった。

でもまっとうな物理学者の前でデビット・ボーム読んだとか言ったらこのオカルト野郎、みたいに思われるリスクのほうが高いかもしれないことに気づいたり。OMG。

ということで、第2回NINS Colloquium 「自然科学の将来像」 というのに行ってきます。

ホワイトヘッド->ボーム、プリゴジン、とかド直球過ぎて気恥ずかしいのだがそうも言ってられず、自分で何かできることはないかと考える。

whiteheadのprehensionって概念とか超重要そう。心の哲学側から現代的に捉え直されていないか調べてみる。これとか:Whitehead's panpsychism as the subjectivity of prehension


2013年12月03日

ASSC17 (第17回 国際意識学会) @San Diego 参加記

7/11

San Diego到着! つか寒い! 20度くらい。短パンとジョギング用の長ズボンしか持ってきてねーぞ!

ホテル着いて仮眠。そして目覚めると23時。どうすんだこれから。水とパンは買ってあったけれど。15時過ぎにホテルに着いてすぐ寝たから、ほぼきっちり8時間寝てる。ある意味健康的。日本時間でもなければカリフォルニア時間でもない、ナゾな時間帯。強いていうならばドイツ時間?


7/12

Anil sethと金井さんのチュートリアル参加中。さてどうやってPCとIITが繋がる? (PC=predictive coding, IIT = information integration theory)

James PrizeはAaron Schurger。いまはDehaeneのところでaccumulator modelをやってる。代表作としてはScience 2010。私にとってはGYさんのポスナー課題での仕事(Neuropsychologia 2006, 2008)が重要。

なんとか耐えて22時までは寝ないでいて、それから就寝したが、3時半に目覚めてそれから眠れない。諦めて朝飯食った。なんとか寝てみる。


7/13

今日の午後のSpecial Roundtable Discussion: Debating Integrated Information Theoryだけど、John Searleの参加はキャンセルとなってた。聞いてないよ!

Ustream終了後にさらにいろいろよもやま話。そして23時で終了。夕食食うの忘れてた。19時半開始からずっと水だけだった。買ってたアイスは完全に溶けてる。とりあえずバナナ食って、今日はもう寝る。


7/14

今日の朝一はSabine Kastner。SCのイメージングもやっているのだけれども、今日の話はLGNがメインになりそうだ。いや、そうでもないな、thalamusを中心に喋りたいと言ったのは、Science 2012のV4-Pulv-TEOの話の前ふりだった。

Embodimentのセッションは面白いのだが、Frédérique de Vignemontの話はほとんど実験の話というよりもコンセプトの話だな。ためしに関連する論文漁ったら、図なしで文だけ、みたいな感じだった。

Olaf Blankeのイントロでは、pre-reflective self consciousnessが出てきて、PRSC = minimal bodily SC, RSC = extended, narrated SC、という図式が出てきたので深く頷いた。さらにPRSCとしてinsularのinteroceptionみたいな話もしていたので、もっとどんどん先へ考えを進めていかないといかんなと思った。それの手がかりの一つが、incentive salienceとつなげるということ。

そして間違いなくこれから眠くなるのだが、それに抗してポスター会場へ向かう。つか朝飯も昼飯も食べてない。コーヒーブレークで生きている。

今日のメインイベントはpatrick cavanaghのkeynoteか。自分の仕事とも関連するので、ここでよくよく勉強しておく。

Concurrent sessionのほうはいろいろ雑多な感じなので、metacognitionをメインにして、メラニーのトークとか、Liad MudrikのCFSの話とか見たいものの時には移る方針で。

夕食食べて、また話し込んで、帰り道も話し込んで帰ってきた。今回もアルコールは無し、そしてハーバーアイランドから一歩も出ずに終了。今晩は走るつもりだったが、もう22時を超えたので止め。もし明日早起きできたら走ることにする。


7/15

これから出発。Contrastive methodsのシンポに出ているが、期待したような話にはならず。

前々から書いているように、表象とその操作(プロセス)を捉える方向に行くべき。そしてそれがなぜある活動で意識が生じるかのバイオロジカルな=力学系的な理論になるはず。大泉さんとIITの話をしていてさらに考えが明確になってきた。自分の仕事への応用にもイメージが湧いてきた。漲ってきた!

San Diego空港到着。チェックインから安全検査通過まで10分で済んでしまった。というわけで2時間半前に空港ゲートに到着すると飛行機は(いまのところ)15分遅れ。ということでもうすこしシンポジウムに参加してS DehaeneやNed Blockを聞いとく余裕があった。いつもわからん。

ということでHaken-Kelso-Bunz modelとか調べてる。(<-かぶれすぎw) そしたらscholarpediaの記事で荒牧さんのCerebral cortexが参照されてた。またつながった! 今度教わりに行く。

その昔薬学部の頃に清水博先生のところに行った小野ちゃんがKelsoのbimanual coordinationを卒研でやっていたのを思い出した。

あと、今回のASSC17での収穫としては、enaction説を補強するために「選言説(disjunctivism)」についてちゃんと理解する必要が有ることがわかったこと。これでマクダウエル "Mind and World"を読む必要が有ることがわかった。

やっと搭乗開始。

成田に到着した! なんかいろいろ興奮して、ラップトップで色々考えたことメモしてたらバッテリーがなくなりかけた。

前に砂山モデル的にサッカードの開始とかモデル化できるんじゃないかとか書いた覚えがあるけど、それって相転移的に扱えればよいのだよな。Izhikevichモデルみたいに簡単に表現できる面白さはわかったけど、実際のニューロンのVmがどのくらいの幅で動いていて、位相空間にmapできんのかを探せばいいのか。(<-大学生並み感想)

カップリングの概念が重要だってことはわかった。でもいわゆるcoupled oscillator (振り子をつなげた奴)みたいなものではなくて、element共有しているようなものではどうすればよいのか。

"Journal of Coupled Systems and Multiscale Dynamics"なんて雑誌もあるのか。なんか聳え立ちすぎてて全然先が見えない。

Front Psychol. 2013; 4: 285. A Dynamical Systems Account of Sensorimotor Contingencies これとか惹かれた。この著者のDi Paolo EAって、サセックスの人工知能で、飯塚さんと共著がある人か。

違った、Izhikevichモデルみたいなものを作るときに、data-drivenで、実際のニューロンのデータをたくさん集めて、それら全部を説明できるようなモデルをどうやって作るのかを参考にすればいいのか。ってそれこそがまさにホジキン・ハックスレーか。

このへんサボってたのが今になって効いてくるとは。いつだったか春野さんだったか野崎さんだったか、HHがどんだけすごいことか(いかにしてあれだけのパラメータをチャネルのデータとかない時代に係数とか合わせることができたか)ということを強調しておられたのを思い出す。


7/17

手が...脳に追いつかねぇ...!! (<-よくある)



2013年11月07日

「神経現象学と当事者研究」いくつか補足コメント

科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」の件、いくつか補足コメントを。

議論の方はいきなり郡司さんから、現象学は力学系で表現できるけど、現れたり消えたりするものは説明できないのではないか、という質問があって、自分としては力学系で表現したものは実のところ現象学ではないと思っていたからちょっとびっくりしてうまく答えられなかった。

熊谷さんはinsulaのサリエンスネットワークでのpredictive codingおよび自由エネルギー説から自伝的記憶の構造の話まで広げたうえで当事者研究的なやわらかい言葉(「ぐるぐるモード」とか)で話をしていてすごいと思った。二人称的アプローチが板に付いているというか。

石原さんが言っていたフッサール現象学をもっと使いよくするという話を聞いて、神経現象学と当事者研究との関係がだいぶ明確になってきた。当事者研究においてはフッサール現象学のうち、エポケーや還元といった技法をもっと使いよくしていけばよいのだろうし、熊谷さんによればじっさいにエポケーや還元に近い概念として、生の言葉で語るとか価値判断はしないとかそういうノウハウが蓄積しているようだ。

いっぽうで意識の研究方法としての神経現象学の場合にはそこでの現象学は自然化を拒むような現象学であり、意識は世界の一部ではないのだから、てんかんの神経現象学で図示したような現象的な状態空間みたいな視覚化を拒むだろう。この意味においてこれまでに神経現象学として厳密に超越論的現象学(といっても理解しているわけではないが、本質的に反自然主義であるもの)を適用できたものはないと思う。

メロポンが言った「完璧な還元は不可能」ってのがこのことを指すのかどうかは分からないが。

あと、石原さん、浦野さんには現象学と神経生物学が相互に「拘束」しあうというときの拘束ってなんだろう?とか力学系が関わる意味とか、まさに昨晩あたりにツイートしたことを質問された。

Thompson (の書評を書いたZahaviのまとめ)によれば、けっきょく拘束というのはどういうことかというと、たとえば現象学的知見によってこれまで一つだと思われていた現象が複数の要素と構造に分かれると分かったとしたら、それに基づいて神経生物学的検討を再び行うための根拠となる。逆も真なりで神経生物学的知見は現象学的な再検討を要求しうる。この意味においては現象学が自然科学による知見をそのまま取り入れているわけではないのだから、自然化の問題を違反しているということはないだろう。

それからあと力学系の方の話だけど、って私が力学系語れる技量無いんだけどそれでも語るならば、そもそもNCC問題のうちcontrastive methodであることの問題は、状態Aと状態Bとを区別する脳活動Cと脳活動Dを見つけたというときにはA-C、B-Dという対応付けがどうなされるかということは外側からしか決めることが出来なくなってしまうためにmind-body problemもしくはexplanatory gapが生まれてしまうのであった。

そこで力学系では自分が行為によって内的に区別をし、カテゴリーを作り、意味を作成する。だから対応付け問題は起こらないし、そのカテゴリーは内部からのものであって第三者のものではない。これがenaction = 「行為による産出」の意味であって、Varelaがオートポイエーシスのときから一貫して持っている視点だった。

だからEvan Thompsonとかはmind-body problemではなくてbody-body problemだ、という表現をしている。

元々のVarelaの神経現象学1996では力学系はあくまで神経生物学の中で創発を取り扱うために導入されていた節がある。しかし今日の話で強調したように、現象側も本質的に力学系的であると思う。それは現象が時間的意識であるという現象学の帰結そのものからサポートされる。

ただし、先ほども書いたように、てんかんの神経現象学で図示した現象的な状態空間みたいなのは、現象を世界の中に延長を持って存在するように誘導してしまうので誤解を生むだけだと思うし、あそこで描かれたものは現象学ではないと思う。現象学的心理学というか。

現象に力学的側面があるのはたしかだけれども、それはある種の抽象化された力学系でしかない。だから、神経現象学で神経生物学と現象学とを力学系が結ぶというときは、神経生物学と現象学の両方に力学系的な考えが必要なのだというふうに神経現象学自体の考えも変化してきていると思う。

Isomorphicではなくてhomeomorphicであるほうが関係として強いのはたしかで、それはそれぞれのドメインである種の因果があるところまで抑えているわけだから。Varela 1999で「厳密に一致する」というときはこのレベルのことを指しているのではないだろうか。でもじゃあhomeomorphicで足りるのかっていうとよく分からない。

この点でもうひとつVarela 1996以降で導入された考えとして考慮すべきはdownward causationだろう。けっきょく現象はpersonalなレベルであって、神経生物学はsubpersonalなレベルにあるので、そもそもisomorphismといっても違ったオーダーのものを並べているというのがほんとうのところ。

upward causationでは個々のニューロンの活動がセルアセンブリを作り、現象を引き起こすわけだけど、downward causationでは、てんかんの発作の前兆が来たら香水のニオイをかぐことによって発作を抑えることが出来る、といった例が挙げられる。ここでニューロンレベル - セルアセンブリレベル - 現象レベル というふうに創発の空間のオーダーが大きくなって最終的にパーソナルなレベルとなったのが現象、みたいなバイオロジカルな創発の延長として捉える発想がある。(Thompson and Varela 2001とか) もちろんこれは自然の外にある意識という発想とは相容れないけど。


2013年11月03日

ワークショップ「神経現象学と当事者研究」 河島 則天さんのコメント

科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ「神経現象学と当事者研究」に河島 則天さん(@KWS456123 国立障害者リハビリテーションセンター研究所)が参加してくださいまして、ツイッターで長文コメントを書いておられました。そこでツイートまとめを作成して転載させてもらうことをお願いしました。

河島さん、転載許可どうもありがとうございました。河島さんのツイートまとめ、ここから始まります:


科学基礎論学会例会に吉田さん@pooneilと熊谷さん@skumagayaのお話を聴きに行った。僕が勝手に理解したところでは、熊谷さんとは立場は違えど問題意識のかなりの部分共有できると感じ、吉田さんとは立ち位置というか、やってみたいことがかなり一致しているような印象を受けた。

熊谷さんの話を聞く前後で、当事者研究に関しての考え方がかなり変わった。僕がやっているsingle case studyはある部分、当事者の主体的体験を引き出し、記述することを軸にしているし、僕の立場はその情報の集約と客観化の部分を担っている。これって当事者研究じゃん、と思った。

そして午後は先天性無痛症の集まりに来てる。この関わりももう8年になるけれど、年に一度しか会わないのに親近感をもって接してくれるというのは嬉しいことで、同症との関わりは年を経るごとに当事者研究的な要素が出てきてるな、思ったりする。こういう関係ではないとできない研究というのがある。

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昨日の科学基礎論学会ワークショップのことが頭を離れなくていろいろ考えている。正直なところややネガティブな感じで捉えていた「当事者研究」が、昨日の話を聴いてこうもコロリとややポジティブに転じている理由って何なんだろう、、、と。

当事者研究の代表事例の「べてるの家」の対象とアプローチ、その特殊性、効果と限界についての理解が、イコール当事者研究に対する印象、と(勝手に僕が)なってしまっていたのが理由の一つか。(もっともらしい理由を探すよりもむしろ率直に、当事者たる熊谷さんが発する言葉の力や説得力、ということに尽きるのだろうけれど)

熊谷さんは現代思想の対談でも著作でも慢性疼痛について触れていて、その現象学的記述(というのは正しいのかな?)は他者が知り得ないところがあって、表現のすばらしさもあってやはり主体的体験の言語化、客観化というのはなによりパワーがあるな、と改めて思った。

同じ印象(当事者の語りというのは症状や病態の理解に何より重要だという・・・)は、菊澤律子さんのCRPSの寄稿を読んだときにも感じたこと。

ただし、僕らが接する患者さんたちが、主体的経験を明確に語りとして/言語記述として明確明瞭に示すことができるかというとそうとは限らない。ゆえに、当事者研究においては「当人に現象学的記述が可能となるようトレーニングをする」必要があるのだと。

熊谷さんは「当事者をトレーニングさせる」ということへの違和感を、冒頭に問題意識として挙げており、それは僕にとってはすごくすんなりと共有できる部分だった。

「痛みは主観的な意識経験である」けれども「痛みへの共感なくして痛みの治療はできない」というこの距離感を繋ぐのは「痛みの意識経験を患者が語ること」だというけれど、当人が言語化し得ない部分、そして昨日の熊谷さんの話にあった過剰一般化をここに位置付けると問題はそう簡単ではない。

これまた以前の現代思想のポンティの特集の中である医療関係者が「医療者は共感を前提に科学的な知識と技術を適応しなければならないことを肝に銘じておくべきであろう。」と書いている。表面的には正しいんだけど、これは真なのかな?少なくとも僕には具体的を伴わない理想論としか受け取れなかった。(本質的に自身の経験や想像の及ばない、耐え難い痛みを共感することなどできるのか?という意味で)

患者さんが訴える耐え難い痛みを僕は同じように感じることはできない。そもそも本人は「他人にはおよそ想像できないだろう」、あるいは「この痛みを本当の意味での共感というのは難しいだろう」と思っているかもしれない(あくまで推測)。

熊谷さんの話の中に、当事者が研究に参加することの明確な動機/理由として、その症状や病態が改善することへの期待、ポジティブな態度というのが必要だという指摘があった。その上で、当事者研究は『自分自身の経験に関する真な知識を得ようとする実践』であるということでこれには納得感大だった。

僕もこれはすごく重要だと思っていることで、痛みを共感すること以上に大切だと思うのは、患者さんが持ち得ない痛みに対する考え方/捉え方をしてみて本人に照らし、その考えに患者さんが関心と期待をもってくれるとすれば『このヒトは痛みを理解してくれているのでは』という感情が生まれるのでは?という可能性。

つまり僕が自分が経験したこともない耐え難い痛みを本当の意味で共感することは難しいけれど、患者さんがこちらの考えに共感や期待をもって接してくれるとすれば、共同注意や共感というような第二者的感覚を超えて、もっと近い視点で痛みという事象を考えていくことができるのかもしれない、と。

思いつくままにかなり長々と書いてしまった。。。終わりー


河島さん、どうもありがとうございました。

河島さんも熊谷さんも石原さんもVarelaの現象学における「training, stabilization」という表現に当事者研究に近い立場から違和感を表明していたけど、ここについてコメントしておきたい。

Varelaのtrainingってのは、現象学的還元ってのはだれでもすぐに出来るようなものではない微妙な気づきを得るための技法だから、仏教の僧侶がマインドフルネスの境地に至るのがすぐに出来ないのと同じように、その技法を自転車に乗ることができるのと同じような意味で習熟するというというのがトレーニングだ、という意味だと思う。(この点で現象学的還元に基づいた描写は内観報告とは違っている。)

その意味では当事者研究においても、「自分の言葉で語る」「価値判断を入れない」というような場の力を維持するためには習熟が必要だと思うので、この点で神経現象学と当事者研究とがそれほど違っているわけではないのではないかと思う。

とはいえ、神経現象学と当事者研究との動機が違うという論点は私も理解している。ワークショップ後の昼食の時にも話をしたけど、神経現象学のヴァレラがもともとチベット仏教とかをから強く影響を受けているという点からもわかるけどものすごく「求道的」であって、あくまで真理探究が優先されていると思う。

一方で、べてるの家の当事者研究が「八方手詰まりだから研究でもやってみるか」というところから始まったように、実際に役立つことが何より優先される状況とは違っている。

トークで取り上げたてんかん発作の神経現象学でも、現象学的インタビュー(VermerschのExplicitation Interviewを下敷きにしている)が行われていたけど、それはあくまで患者側の立場からてんかん発作の前兆というものが一体どういう経験なのかを明確にすることによって、認知的予防法に役立てるという目的があった。インタビューにおいて、言語化を繰り返し、内面に目を向ける方法に習熟し、また新たな発作の経験のあとでさらに前兆としての経験が繰り返されているかを検証してゆく、こういった繰り返しによる習熟の作業のことをVarelaは「トレーニング」と言っていたのだと思う。

とはいえ、Petitmenginは同時に、このようなインタビューがはたして患者さんの為になっているのか、無力感も告白している(Petitmengin 2010)。じっさい、発作経験というつらい経験を根掘り葉掘り聞かれることになるわけだから。

けっきょくのところ、患者さんとともに研究をしてゆく二人称的研究法においてはこの問題を解決する簡単な解はなくて、その都度二人称的関係を作り上げながらやっていくしかないんではないかと思う。その意味で河島さんが後半に書いていたことには共感する。

記述を深化させることによって当事者の経験をよく理解してもらえるようになること(=「トレーニング」)よりも、二人称的関係を作り上げて「わかってもらえている」という信頼関係を作ること、こっちのほうが当事者にとっては優先するだろう。でも経験の記述が本当にその当事者にとって役に立つ状況にあるならば(これは必ずしも真ではない)、どちらかを選ばなければいけないという話でもない。両方必要。けっきょくそこに尽きるのではないかと思う。

ちなみに二人称的研究法というときの「二人称」という言葉にはブーバーの「我と汝」(二人称)と「我とそれ」(三人称)という考えが反映していると思う。原理的に本当に理解できるわけではない。一方で二人称的であること、「我とそれ」ではなくあり続けるということ、このことは個人的にはずっと考えている人生のテーマだった。

神経現象学の場面においてはEvan Thompsonはempathyという言葉を使っていて、Dennettにはその部分軽く一蹴されていた。まだ十分に理解できたわけではないけれども、でもいつか私はEvan Thompson側の方に付くことになるだろうと思った。(追記:これは正しくなかった。あとで探してみたら、"Shall We Tango? No, but Thanks for Asking"には該当する部分が見つからなかった。正確にはこの中では、トンプソンの言う二人称的方法はけっきょくのところデネットの言うヘテロ現象学なのであるとデネットは主張していた。)


2013年11月02日

科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」無事終了した!

科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」無事終了した!

発表の方は時間が足りなくなってしまったが、ネタスライドも投入できたし、ウケもとれたのでまあよかったのではないだろうか。議論の時間に参加人数を数えてみたら48人。なかなか盛況だった。

補足的な議論など書きたいことはいろいろあるのだけれども、とりあえず今日は配布したハンドアウトを掲載しておきます。参加してくださった皆様、どうもありがとうございました。

「意識の神経科学と神経現象学」ハンドアウト from Masatoshi Yoshida


2013年10月27日

意識の神経科学と神経現象学と当事者研究

科学基礎論学会 秋の研究例会@駒場(11/2)でトークをします。「神経現象学と当事者研究」というのワークショップの中で「意識の神経科学と神経現象学」というタイトルで話題提供を行います。


科学基礎論学会に向けて準備を始めたところ。当事者研究関係の本など借りれるだけ借りてきた。

「フッサール 起源への哲学」斎藤 慶典 (著) を読んでいたら、離人症の例をとって「ありありと現前するかんじ」についての議論が出てきた。これってまさに盲視での「なにかあるかんじ」の現前性(presence)だな! 木村敏氏の本でも採りあげられているらしい。

そして離人症においては「ありありとするかんじ」が失われても現象性は失われていない。この本のp.192-195あたりでは、統一された自己が必ずしも現象性に必要ないという議論がなされている。この「統一された自己」というのは後反省的な自己意識を経たものであって、一人称性の基礎となるpre-reflective self awareness (PRSF)は残ると言えそうだ。(見ている自分自体が消えているわけではない。) この辺りと絡めて、盲視で起こっていることを現象学的に捉えたうえで神経現象学をする可能性みたいなところに持っていけそう。

書きながら考える。神経現象学的に捉えようとするとどうなるかというと、「なにかあるかんじ」が残存するとして、それにはPRSFはあると言えるだろう。でもそれは視覚的意識経験(志向性と内容を持ったもの)とも違っていれば、想像や幻覚や思考などとも違っている。

「なにかあるかんじ」はなにかをポイントしているという意味で志向性としての性格を持っているけど、それがポイントしているのはある場所のみであって、しかもそれは視野の外なのだから網膜上に映っている空間ではなくて、そこを外挿した場所もしくは別の座標となる。(これじたいはempiricalな問いであって、頭や体中心の座標などどれを使っているかを検証することは可能。)

離人症では「現前性」が失われつつも現象的な経験自体は残存しているということなのかもしれない。

平行して綾屋 紗月氏、熊谷 晋一郎氏の本も読んでいる(「発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい」および「つながりの作法―同じでもなく 違うでもなく」)。この本ではアスペルガー症候群と診断された綾屋氏が自分の経験を詳細に分析していて、「感覚飽和」という経験が記述されている。これは外界からの情報を大量に受け取ってしまい、不要な刺激を潜在化させることが出来なくて苦しくなってしまうということのようだ。ここで「聞こえているし見えてもいるけれども、意味を失う」という表現がある (綾屋・熊谷 2010 p.21)。

これもどうやら、現象的意識と現前性とが乖離した現象と言えるのではないだろうか。

ちょっと余談だけど、Ned Blockの意識の議論で、現象的意識はあるけどアクセス意識がない例としてワーキングメモリーがオーバーフローした状態を挙げている("Perceptual consciousness overflows cognitive access" (PDF))。このオーバーフローの概念自体は本当にP意識 without A意識と言えるかどうかまだ分からないのだけれども、綾屋氏が描写している「感覚飽和」っていうのはまさにこのオーバーフローそのものだなと思った。

あともうひとつ余談だけど、「不要な刺激を潜在化させることが出来ない」という現象は、「くらやみのはやさはどれくらい」やテンプル・グランディンの話でも「外界の刺激が強烈すぎる」「一つ一つの刺激に気が削がれてしまう」というような記述があって共通性が高い現象のように思われる。この現象じたいはサリエンシー計算論モデルに基づいた議論が出来そうだ。われわれが普段注意を同時に複数のものに持っていかれないということは計算論モデルでは、目立つ刺激の候補の中からwinner-take-allルール(いちばん目立つものだけに注意が向かってその他のものへの注意は抑制される)というメカニズムでもって説明される。ではこのwinner-take-allは脳内でどのように行われているのだろうか? どのくらい個人差があるのだろうか?

話が飛んだけど、神経現象学的にするためには、盲視が現象的視覚経験から何かを引き算した結果ではなくて、経験の一種としてある意味安定した構造をとるようになったものとして捉えることができて、そのような経験のダイナミクスと脳と身体のダイナミクスこそが完全に一致する(相関ではなくて)とかそういうふうになるんではないだろうかと思う。

現象学が正しく機能するなら、経験の分類(=内観で可能)に終わるものではなくて、それは経験の構造とダイナミクスとを捉えるものであるはずで、それを取り扱う脳科学は力学系に基づいたものでなければcontrastive methodに終始してしまう。

これがVarela 1996 ("neurophenomenolgy")からVarela 1999 ("specious present")の間で「力学系的な取り扱い」が神経現象学を構成するための条件として前面に出てきた理由だ。ただし、セルアセンブリが短時間で切り替わりながら変遷してゆく力学系的な過程こそが意識における時間を規定しているのだといった考え方自体は1995Biol. Resですでに展開されているし、Varela 1996で「現象学と神経生物学とが相互に制約条件を与える」というときの神経生物学の中にemergenceのプロセスが含まれている。

ギャラガーの「前倒しの現象学」についてもまったくあてはなる。これは脳科学の方の問題だけではなくて、「なんで現象学が必要なのであって、内観だけではダメなのか」ということに対する答えでもある。毎度書く例だが、再認記憶課題を「見覚えがある」「経験として思い出せる」で分類するのは内観であって、現象学ではない。もしかしたら最初にこの二つを概念として分けるという行為は現象学的だと言えるかもしれないが、それなら現象学と言う言葉をわざわざ引っ張りだす必要はないと思う。ヘテロ現象学がその領域は完全にカバーしていると思う。

とはいえ、やっぱりわたしは現象学をわかっていない。入門書とか読んでいても具体的な現象学的分析にはたどり着けないので、さっさと具体的なものを見に行くべきなのだろう。心理学/精神医学の分野での現象学的/実存的なとり扱いってのはあるけど、あれって現象学って名をつけるほどのものかな?

大学生の頃、RDレインの「ひき裂かれた自己」にすごくはまって、統合失調症の人たちがそれぞれに主観的にconsistency (厳密にロジカルにというよりはある安定性という意味で) を持っているのだというのを読んですごく合点がいったし、反精神医学的な「運動」観よりは好感を持った。だから今回「べてるの家」の実践についていろいろ読んでいて、すごく合点がいった。

さいきんすごく調べているKapurのabberant salience仮説は「動機サリエンスが亢進したことに対する認知的対処が妄想である」というものなのだけど、これの当事者にとっては合理的な認知的な対処なのであるという視点が盛り込んであって、だからKapurは薬を飲むだけではサリエンスを下げるだけど、認知行動療法を組み合わせることで癖となった思考法/妄想をだんだん弱めてゆく、という仮説になっている。すべては検証が必要なのだけれども、なにもないところから妄想が生まれるみたいな捉え方であるかぎりいつまでたっても病因論的なアプローチ無しで現象論的に対症療法的にやるしかないのではないだろうかとか思う。

ってまだ雑然としているけど、書いてて自分の頭の中は整理されてきた。いろいろ繋がってきた! (<-こういうのをjumping-to-concluion biasと言うそうな。)

ばらばらなままに書き連ねると、医師が定期的に診察して話を聞く場合には個々のイベントの有無の注意が向くだろうと思うけれども(なんらかの「問題行動」の頻度を聞いて薬の量を調節したりとか)、「当事者」研究ではそのダイナミクス、つまりどういうコンテキストでそのイベントが起こり、そのあと状況がどう変わったかということにより注意が向くだろう。

たとえば「べてるの家の「非」援助論」に掲載されていた河崎寛氏の「「爆発」の研究」(p.137-146)ではこのへんが明確に描写されている。爆発に至るまでの過程(寿司を食べさせろといった無理めな要求)、爆発(親を殴る、物を壊す)、爆発後(子供っぽい行動、甘えと依存心)というのがべつべつのイベントではなくて、ひとつながりのダイナミクスなのだということがよく分かる。

「現前性」と「離人症で失われるもの」と「盲視でのなにかある感じ」と「統合失調症の前駆期に更新するもの」と「(知覚的、動機的)サリエンシー」とが同じとは限らないのだけれども、こういう切り口で並べて考える題材にはできるだろう。

以前にsensorimotor contingencyとの兼ね合いで、盲視での残存視覚能力が外界の物体を操作可能であるという事実によって「なにかあるかんじ」という感覚を生む、という仮説を考えたことがある。これもピースの一つ。ただ、操作可能性自体が現前性の感覚を生むのではなくて、あくまでキャリブレーションしているだけなのかもしれない。各ステップに穴がある。盲視でサリエンシーと「なにかあるかんじ」が残っているのは本当だけど、両者が同一と言うためにはさらなる証拠が必要だ。


とかなんとか、いまだに考えはまとまっていないのだけれども、ともあれ6月のトーク(ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会)そのまんまというかんじにはならなさそう。乞うご期待!

科学基礎論学会「神経現象学と当事者研究」の要旨掲載しました

科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ@駒場(11/2)でトークをします。Webサイトからプログラムがダウンロードできるようになりました。

東京大学大学院総合文化研究科の石原孝二先生がオーガナイザーで「神経現象学と当事者研究」というタイトルのワークショップが提案されまして、それの中で「意識の神経科学と神経現象学」というタイトルで話題提供を行います。

要旨が学会webサイトに掲載されました。許可を得ましたので以下に転載します。参考文献リストを追加してあります。


意識の神経科学と神経現象学

吉田 正俊 (Masatoshi Yoshida) 自然科学研究機構・生理学研究所

著者は神経科学の立場から「盲視」という現象を通して、意識の科学的解明を目指した研究を進めてきた。「盲視」という現象は脳梗塞などで第一次視覚野を損傷した患者で見られる。第一次視覚野を損傷すると視野の一部が欠損する、つまり視覚的意識が失われる(「同名半盲」と呼ばれる)。一部の患者ではそれにもかかわらず、強制選択条件で欠損視野に提示された視覚刺激の位置などを答えるテストを行うと、あてずっぽうで答えているのに正解してしまう。これを盲視と呼ぶ。つまり盲視の症例は「視覚的な意識経験」と「自発的な視覚情報処理」とが乖離しうることを表している。

では盲視を持つ人は欠損視野に提示された視覚刺激に対する意識経験を持っていないのかというとそうではないらしい。視覚刺激が何なのかは分からないけれども、「なにかがあるかんじ」はするというのだ。つまり、意識経験の「内容content」はないけれども「現前性presence」だけを持っているようなのだ。著者は以前の研究で、盲視の実験モデル動物は「視覚サリエンス」(視覚刺激の空間配置のみによって決まる、視覚刺激が注意を誘引する度合い) の情報を利用することが出来るということを明らかにした(Yoshida et al 2012)。視覚サリエンスは視覚刺激の位置の情報だけを持ち、 視覚刺激の内容の情報を持たない。そこで著者は以下の仮説を提唱した:われわれの視覚経験はふたつのレイヤーの重ね合わせである。一つは日常生活で私たちが体験する「視覚的意識経験」そしてもうひとつは「視覚サリエンス」であり、前者が視覚経験の内容を、後者が視覚経験の現前性を構成している。盲視という現象はこの二つのレイヤーが乖離した自体であると。

さてそれでは、盲視で起こっていることを神経科学的に解明するにはどうすればよいだろうか? 意識の神経科学において現在主流となっているアプローチはcontrastive methodと言われるものだ。これは意識経験がある条件Aとない条件Bとを比較して、脳活動に違いが見られればそれは意識経験に対応した神経活動(「意識の神経相関」)だと結論づけるものだ。これはデネットが「ヘテロ現象学」と呼ぶ、いわば意識の三人称的アプローチである(Dennett 1991)。ヘテロ現象学においては、意識経験があるかないかを被験者が言語報告やボタン押しによって報告する。研究者はこの報告が意識経験についての信念を表しているものとして解釈する (志向姿勢) 。これによって研究者は被験者に意識経験が実在するかどうかを問わずに意識経験を研究することが可能になる。この帰結として、ヘテロ現象学での意識の科学は哲学的ゾンビにとっての意識の科学となってしまう。それでよいのだろうか?

意識の科学的解明のためにはなんらかの一人称的なアプローチが必要なのではないだろうか? ヴァレラが提唱する「神経現象学」 (Varela 1996; Varela 1999)では、意識経験を一人称的かつ誰でも同意できる形で説明するためには以下の三つの手法の統合が必要であると提唱する。1) 意識経験のフッサール現象学的な分析、 2) 生物学的システムに関する経験的な実験、 3) 力学系理論による両者の統合。ルッツら(Lutz et al 2002)はヴァレラの神経現象学を実践するために以下の手段を執った。1) 認知課題を行っている被験者は現象学的還元によって、事項が経験される仕方に注目するように自分を訓練する。これによって被験者は課題遂行中の自分の準備状態について発見的に報告できるようになった。2) このときの脳活動を多点電極から脳波計測としてデータを取得した。 3) 力学系的な方法での解析として、脳波の位相が複数の電極の間で同期する現象を解析した。これによって現象学的に明らかにされた準備状態の違いに対応して同期の度合いが違うことを明らかにした。この方法は意識状態について「発見的にカテゴリー分けをする」点以外はヘテロ現象学と違いはない。よって結局のところcontrastive methodであって、力学系的な「内的に区別可能なカテゴリーの創発」とはなっていない。つまりこの仕事はヴァレラが提唱した神経現象学を実践できていない。ではどうすればよいか。もし現象学が意識経験Aと意識経験Bのあいだの「違い」ではなくて「構造的な関係」を明らかにして、神経科学が力学系的な解析の力を借りて二つの意識経験の間を行き来するプロセスを記述すればよいのではないだろうか。

盲視の例に戻って考えてみることにしよう。ザハヴィは現象的意識の構成的特徴として「前反省的自己意識」が不可欠であると書く(Zahavi and Parnas 1998)。前反省的自己意識とは、経験的現象が現象学的な意味での反省を経る前から直接的一人称的に与えられているということを指す。この意味においては、盲視の研究から示唆された視覚の二つのレイヤーはどちらとも前反省的自己意識を持っている。「視覚の現前性」とは無意識の過程ではなくて、「意識の内容」を図とするならば、それに対する地の関係として意識経験を構成するものなのかもしれない。ならばそれぞれに関連する脳活動がどのようなダイナミクスを持って関係しているかを明らかにすることで盲視の神経現象学を実践できるはずだ。

盲視の例で示したように、神経心理における患者の主観的経験から現象学的分析を深めてゆくという神経現象学は当事者研究ととても近い位置にある。当事者研究では、日常実践の中で問題を抱えた個人が、そんな自分の苦労を客観視しながら仲間に語り、仲間と共にその苦労が発生する規則性についての仮説を考え、対処法を実験的に探りながら検証してゆく(綾屋・熊谷2010)。これは生から乖離しないという原則のもとにあるという意味で現象学的であると言える。当事者研究での解析は、被験者と統制群との間での違いを探るcontrastiveな方法ではなくて、個人の状態変化への介入の効果を検証する単一事例研究法を元にしている。この方法を深化させることで力学系的なとらえ方ができるかもしれない。つまり、繰り返される現象を相空間で表現した上で、そのつど介入や環境や過去の影響によってその軌道が変化しているのを観察しながらその制御法を見つけ出すということはじつに力学系的なことなのだ。このような手法は幼児の発達や運動制御などの場面ではダイナミカルシステム理論という名で実際に活用されている。つまり、当事者研究を拡張することによって神経現象学的になり得るし、神経現象学を正しく実践すると当事者研究を拡張したものとなるのかもしれない。

参考文献



2013年10月07日

科学基礎論学会「神経現象学と当事者研究」でトークします

科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ@駒場(11/2)で話をすることになったので内容を考えてる。以前の一橋での「現象学的な心」合評会で話した「デネットのヘテロ現象学」と「ヴァレラの神経現象学」と「盲視」の三題噺を基本にして、「神経現象学と当事者研究」というテーマに沿って広げてみる予定。

前回できなかったのは「盲視の現象学的分析」を実践してみること。これまで出てる文献や私が調べた人から聞いた話とかそのへんの一人称的報告のデータを集めた上で、そのような報告から自然主義的な解釈を取り除いた上で、どのような経験なのかということについてなんらかこれまでと違った視点を提供できればとりあえずは良しとする。


「当事者研究の研究」 綾屋紗月 (著), 河野哲也 (著), 向谷地生良 (著), Necco当事者研究会 (著), 石原孝二 (著), 池田喬 (著), 熊谷晋一郎 (著), 石原 孝二 (編集) これがネタ本になりそう。読んどく。

それからこちら:リハビリの夜 熊谷 晋一郎 と現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

つか当事者研究について真摯に捉えるならば、脳損傷患者の一人称報告から他人が「現象学的解釈してやる」なんて超地雷踏んでいるような気もしてきた。なんか外さないように予習しておこうと思う。

まあいい機会かも。要は、私が今後脳損傷患者の意識経験の注目した経験を展開していくのにおいて、どのような態度で臨んでいくつもりですか、ということを明確にする機会に恵まれたということなのだな。


「当事者研究の研究」、1/3くらい読んできた。1章の石原氏の部分で、「べてるの家」での当事者研究が自分事を突き放して見るという「研究」の作法を使うことで日常生活の空間と治療の空間の断絶した部分を飛び越える、というのはなるほどと思った。つまり、世間話でもなければ、どうすれば「爆発」を直せるかみたいでもなく。

主観的経験を丹念に拾ってそれを構造化するというような現象学的な方法だけではなくて、「爆発」の例、「サトラレ」の例など、繰り返し起こってしまった事象を共有した上で、それがなぜ起こるのかの仮説を仲間内で立て(「サトラレ経験」は人との接触がない方がかえって起きやすい)、それを検証する。たとえばサトラレの研究 これとかなるほど単一事例法的だなあとか思った。

3章の池田喬氏のところで、客観性の問題をどう担保するかという問題について、科学的記述が主観的経験から乖離してしまっているという、まさにフッサール(「危機」) / ハイデガーの「生からの乖離」の問題であることを指摘していて、そうすると、意識研究で問題になっていることと同じであることもわかった。私のトーク的にはこのへんが接点に出来そうだ。

まだ分かっていないのは、石原氏が「半精神医学」(「反精神医学」ではなくて)と書いていたけど、実際に医療とべてるの家とがどういう関係にあるのかということ。べてるの家は反精神医学ではないのだから、参加者は薬は飲んでいるし、精神科にも通院しているはずだ。一方で、1章の年表を見ると「1988年 向谷地氏が浦河赤十字病院から出入り禁止」とか書いてある。そのような緊張関係は現在はどのようになっているのか。

もっと自分に近い問題として、ひとりの研究者として、当事者研究を読むとはどういうことか。3章ではそれは体験談集でもなければ、解釈するためのデータでもない、と釘が刺されている。じゃあどうすればよいか。3章では体験に寄り添って読みましょうってあるけどそれは方法論じゃあない。たぶん、寄り添って読んだ上で、なんらかの仮説を提出するのに寄与できたら、とかそんなことは考える。それを権威的でなく実践するにはどうすればよいか。

たまたま昨日「急性精神症状時の「サイケデリック」な経験」という論文を読んでいたけど、あれはまさに医師が体験談を集めたデータであった。しかし、この体験談はかならずしも当事者による構造化/理論化を欠いているわけではない。昨日書き写した部分なんかは、後から振り返っての当事者の考察ではあるものの、「気づきの亢進」が「妄想の形成」に先立っていることを描写していた。

そんなこんなで、今度の科学基礎論において、石原氏と熊谷氏がそういう方から当事者研究について話す場で、じゃあわたしは何を話せばいいかってことになる。ちなみに熊谷氏の5章を部分的に読んだけど、内部モデルと予測誤差の説にかなり依拠した議論をしていて、ここでも接点を見いだせそう。

トークに関して最大の問題は、動物実験について話すかどうかということ。それは私の研究者としての立場を明確に表明することになる。時間的にそこまで盛り込めるかって話もあるが、盲視の研究が「意識の研究」でありかつ「リハビリの研究」であるということ自体は科学の外でしゃべるからこそ強調したいことではある。

当事者研究的にアプローチからすれば、ヒト盲視での経験について体験談などをまとめるだけではやっぱ足んなさそうで、そこから盲視の主観的経験について何らか仮説が出せて、このようなやり方でそれを当事者研究的に研究できるのではないか、と提案するのはどうだろう?

トークのまとめの模範解答としては「神経現象学をちゃんと突き詰めると当事者研究になるよね」みたいなのかなあと思う。つまり「意識の研究をする側の問題意識として、現状ヘテロ現象学だけど、神経現象学を目指している人がいてあまりうまくいってない。今回の機会で当事者研究について知ったけど、もしかしたらこれが神経現象学を進めていくための方法論の一つとなるかもしれないし、翻っては、脳科学的な知見を当事者研究に役に立てるための道筋を作ることに寄与できるかもしれない」なんて感じでまとめることが出来るんじゃないだろうか。 なんかリップサービス臭いだろうか?

ここまで書いておいて「現象学的な心」合評会のスライドを見返してみる。あのときは35分くらいしゃべってトータル58枚。ぜんぜん時間が足りねえ。11/2のトークは25分程度となる予定。これにさらに盲視の主観経験を入れるならそれだけで時間が足りなくなる。うーむ、時間的には厳しいが、いったんスライドの構成をだいたい作り上げてから要旨書かないと無理だこりゃ。明日やることにした。


2013年06月28日

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 神経科学の立場から レジメアップしました

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 神経科学の立場から レジメアップしました。

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 第3報告:神経科学の立場から from Masatoshi Yoshida

とにかくスライド最後まで作って、レジメも作成しました。いちおう今トークしろって言われても出来る状態。

じつのところ、いろいろと間に合ってないのだけれど(ほんとのところ、志向姿勢ってなんだ?)、なんか達成感が出てしまって、緊張感が抜けた。ここからもう一段ギアを上げて、クオリティーを上げてゆく所存。Evan ThompsonがMind in Lifeでヘテロ現象学について言及している部分もコピーしておいた。これから読む。

ともあれ6月後半はなんだか怒濤の日々だった。来週から通常運転に戻るので、いろいろと生産性を上げてゆきたい。せめて週末はゆっくりさせてほしいと言いたいところだが、日曜は朝からフットベースの練習試合なのだった。ウェーイ。(<-マイブーム)


2013年06月26日

駒場学部講義「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」レジメアップしました

駒場学部講義 総合情報学特論III 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」レジメアップしておきました。

駒場学部講義 総合情報学特論III 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」 from Masatoshi Yoshida

1月の駒場大学院講義第4回、第5回のマテリアルを元にして、part 1ではcortical-subcortical, dorsal-ventralという二つの「二つの視覚経路」についての話をメインにさまざまなトピックを盛り込みました。

Part 2ではよりアグレッシブにフリストン自由エネルギー、アルヴァ・ノエのエナクション説、デネットのヘテロ現象学、ヴァレラの神経現象学、とかなり理論寄りというか哲学寄りにしてあります。こちらは1/3くらいは初めてしゃべることです。さてうまくいくかどうか。

後半部分の内容に関しては6/29(土)の第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会でも使う予定です。まさにイノベーション!

毎度ながらギリギリの準備ではありますが、いまこれが面白いと私が思うことを盛り込んで、いつも通り情熱的に語る予定です。自分が飽き飽きしていないということが、講義を面白くするために私が知っている方法の一つ、というわけです。

というわけで乞うご期待。


2013年06月21日

駒場学部講義「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」準備中です

今年も昨年に引き続き、東大駒場の池上高志さんに誘われて、駒場の学部講義の一回分(90分*2)を担当します。

  • 科目名: 「総合情報学特論III」
  • 曜 限:水曜3・4限(13:00~14:30,14:50~16:20)
  • 場 所:駒場キャンパス15号館1階104講義室

これはいろんな人が毎週喋るオムニバス講義というもので、こんなリスト:

  • 5/8   多賀 厳太郎  発達脳科学
  • 5/15  藤井 直敬   脳と世界
  • 5/22  三輪 敬之   共創表現と場のデザイン
  • 5/29  國吉 康夫   身体性情報構造と知能の創発・発達
  • 6/19  茂木 健一郎  システム認知脳科学
  • 6/26  吉田 正俊   意識の科学的研究 - 盲視を起点に

というわけで来週の水曜日は私が担当です。そんなわけで講義の準備してます。


駒場学部講義、前半部分はだいたい完成した。MIBを出して「網膜に映るものがすべて見えているわけではない」、これの極端な例が盲視、って導入で盲視、二つの視覚系(Ingleのカエル)、二つの視覚系(GoodaleのDF)、ふたたび盲視でvision for actionとしての盲視。

さて後半をどうするかだけど、意識の定義、ゾンビから入って、LogothetisのBRの神経相関の話までして、これがヘテロ現象学であることを示す。神経現象学のような試みはうまくいっていないが、一人称の神経科学というものをどうやればいいのかという課題は依然残る。

ノエのsensorimotor contingencyはそういうところから生まれていて、意識が脳の中にあるわけではないということを可塑性の議論から説明する。しかし夢の問題、色の問題などから考えるとノエの理論はもっと範囲を縮小するべき。背側経路のfeeling-of-something-happeningを作るものであって、意識の内容物そのものではない。また、意識経験を「構成する」のではなくて、「意識経験の前提条件となる」というところだろうという私見を述べる。

知覚は受動的なものではなくて常に行動とカップルした予想的なものであるということのempiricalなサポートとしてSommerの話をする。

そこから予想コード、フリストン自由エネルギーの話をして、active inferenceの話まですることで、decisionはconsciousnessではない、と高らかに宣言する(エー)。

まとめとしてはdorsal経路にノエ的な概念を押し込めて、dorsal, ventralのそれぞれにフリストン的な説明を入れる。(冬の大学院講義の最後のスライドのアップデート。) でもって池上さんに力学系入ってないじゃんってツッコまれる。ってそれでは予定調和でよろしくない。もうひと味加える必要がある。


力学系を入れるために考えていたのがヘテロ現象学への対抗策としてのヴァレラの神経現象学で、神経現象学では[フッサール現象学的な一人称データへのアプローチ]と[力学系によるモデル]と[神経科学的な計測]とを組み合わせることを目指している。

でも前から書いているようにこの試みはうまくいっているとは言えない。力学系的な神経科学とはどうあるべきなのかということはこれからの課題みたいな言い方にしかしようがない。「俺たちの戦いはこれからだぜ!」みたいな。

このあいだユーリッヒの伊藤さんが来たときにこのへんの話をしたら紹介してくれたのが、"Neural population dynamics during reaching"(PDF) で、なるほど非定常のものをどうやって相空間に表示できるように持ってくるかが課題なんだなということは分かった。

そんなわけで、書き出してみたらとてもではないがchronostasisまで話をしてらんないなということが判明したので、今の流れで説得力を書いている部分をちゃんと穴埋めする方向でスライドを作るとそのとき当日の朝になっていることが判明した!

それでもここでヘテロ現象学を入れておけば、来週の土曜の「現象学的な心」合評会にも使えるはず。そちらで言及するであろうHOTとpre-reflective self consciousnessについてはたぶん木、金でなんとかする。(なんとかなるかどうかは現在不明)


あと本当は入れたかったのはfeeling-of-something-happeningを突き詰めてゆくと、insulaのagency-presence経路のことを無視することは出来ないということ。

しかも最近統合失調症のサリエンス仮説についていろいろ読んできたので、上丘 -> (sensory salience) -> SNc -> (motivational salience) -> AI, ACCのsalience networkがまさに現象学でいうpre-reflective self consciousnessなんではないか(<-手近にあるモン全部くっつけただけだろ!)とか考えてる。

明示的な(後反省的な)社会性や自己は意識には必要ないかもしれないけど、前反省的な自己意識は意識の一人称的な性質のためには必須なんではないかと考えるようになってきた。だがすくなくとも今回の話に盛り込むのはちょっと無理。ぜひ別の機会ではそこまで到達したい。

今言ったような話に関しては"Two visual systems and the feeling of presence"という論文があって非常に関係ありそうなので、前から読もう読もうと思って今回も持ってきているのだけど、なかなかそこまで辿り着けない。

ともあれ後半の講義もスライドだけならすでに80枚で流れ作ってあるので今やれといわれても出来るようにはなっている。あとはこれをぶっ壊さないようにリファクタリングしてゆけばなんとかなるはず。(<-「リファクタリング」って言葉を使ってみたかっただけー)


わかった、順番を変える。予想脳、フリストン、神経相関、これらは全部ヘテロ現象学であって、一人称の神経科学となっていない。「神経現象学」という考えがこれこれこういう形で構想されているけれどまだ不充分な形である。そこでは現象学と力学系を入れ込む必要がある、俺たちの戦いはこれからだ、で締める。


2013年06月16日

総研大講義 「盲視の脳内機構」レジメアップしました

総研大講義2013 認知と運動の脳科学 6/14(金) 「#8 盲視の脳内機構」レジメアップしておきました。本番で使ったものにいくらか補充を行った増補版です。

総研大講義 「#8 盲視の脳内機構」レジメ from Masatoshi Yoshida

1月の駒場大学院講義第4回のマテリアルを元にして、生理研では意識の話は控えめに、cortical-subcortical, dorsal-ventralという二つの「二つの視覚経路」についての話をメインにしてさまざまなトピックを盛り込みました。

さらにこれを元にして、駒場の学部講義に活用というわけです。以下さりげなく宣伝。

  • 東京大学学際科学科 2013年度「総合情報学特論III」
  • 曜 限:水曜3・4限(13:00~14:30,14:50~16:20)
  • 場 所:駒場キャンパス15号館1階104講義室
  • 6/26  吉田 正俊   意識の科学的研究 - 盲視を起点に

そちらではもっと意識研究寄りで、さらに、最近取り組んでいる現象学的アプローチの話で、ヴァレラの神経現象学(=神経科学+フッサール現象学+力学系)をどう捉えるかとか、そういうことを盛り込んでみたいのだけど、どうなるかわからない。去年と同じものってのは避けたいけどあんま生煮えなことやっても申しわけないし。といいつつ果敢に突っ込む方向で。


2013年06月09日

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心」2,3章について

2013年6月29日(土)13:00~18:30 一橋大学にて、第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会があります。私も「神経科学の立場から」ということでしゃべります。

今回は2章(方法論),3章(意識、自己意識)についていろいろメモったことをまとめておきます。ツイートは話の流れのために順序など編集してあります。

@you_mlpty さん、@plastikfeld さんのツイートを使わせてもらいました。どうもありがとうございます。


「現象学的な心」再読していたが、2章の方法論のところの、ギャラガーのfront-load phenomenologyの説明を読んで、やっぱり納得がいかない。以前も書いたように、現象学的な、心の解明へのアプローチを標榜するなら、ヘテロ現象学(by ダニエル・デネット)では出来ないことでなければならないだろう。

それは厳しすぎる基準だろうか? そんなことは無いと思う。ギャラガーの例で出てくるのはsense-of-ownershipとsense-of-agencyの違いだが、「この二つの概念を説明した上でその内観を言語報告させて脳活動の差を見る」これならヘテロ現象学でも完全に可能だし、現に認知神経科学で行われているようなことの多くはこの範疇に入る。

私が他に挙げられる例としてはRK judgmentがある。記憶再認課題において、被験者はいろんな図形A,B,C,…を見せられた上で、新たな図形を見せられる。この図形がさっき見たものかどうかを答える(つまりold-newの二択)というのが課題。

ポイントは、このときにメタ認知的な報告を加えるということ。「さっき同じ図形を見たときのことを追体験して思い出せる」ときはR(remember)、そういうのはなくて「単に見た覚えがある」ときはK(know)。このように個々の試行を分類して比較してみると、RとKとで脳活動部位が違うという報告がある。こういう研究に対して「現象学的アプローチである」という必要は全くないように思われる。すくなくともやっている研究者は現象学的アプローチだとは思っていないだろう。

ヘテロ現象学では出来ないようなことをするのだとしたら、「言語報告」が「現象的経験」と乖離しているような状況について取り扱う必要があるのではないだろうか。ヘテロ現象学では「言語報告」の裏にあるようなものは認めないのだから。(認めてしまったらヘテロ現象学はなりたたない)

気をつけなくてはならないのは、問い方が悪くて言語報告にならないことはヘテロ現象学の瑕疵ではないということ。たとえばさっきの記憶再認課題にRK judgmentが付いていなければ、RとKのようなものは取り出せないのだが、それは内観の仕事であって、現象学の仕事ではない。現象学的アプローチが繰り返し「現象学とは内観報告のことではない」と強調するのだから、このような内観の区別自体を現象学的アプローチの手柄にするわけにはいかない。

私の理解が正しいなら、そのような内観を反省的に捉えて、反省を介して作り上げられるものとそうでないものとをより分ける、これは現象学の仕事だ。そういう意味では、RとKとの違いはRが反省的に過去の経験を追体験する(エピソード記憶でのメンタルタイムトラベル)のに対して、Kではそのような反省がなされないこと、この種の分析がもし神経科学に役立つなら現象学的と言えるのではないだろうか?

あと、ひとつフォローというか補足しておくと、RK judgmentには現象学は要らないだろうけど、Tulvingがエピソード記憶の特徴として挙げた"autonoetic consciousness"という概念には現象学的な前反省的自己意識の概念が入っているように思われる。


んで、なにを書きたかったかというと、ヘテロ現象学では説明できないようなものを持ってくるとしたら、あらゆる内観報告をface valueにとってしまうとじつはそれと現象的経験とが乖離してしまうような現象を持ってこないといけなくなる。ここで盲視の出番ということになる。

もしくは盲視の話でなくても、Ned Blockが議論していたoverflowのような、accessのないphenomenal consciousnessのようなものがあり得るかという問題になる。でも現象学自体はそのようなクオリアみたいなものは考えていなくて、現象的意識は志向性そのものである。

というわけでぐるっと回ってみたらなんか話がねじ曲がってきた。ここでもう一回まとめてみる。ヘテロ現象学は内観報告されたものをその内実を問わずに扱うことによって、消去主義的かつ機能主義的な意識観に立つ。現象学は現象的意識を志向性と同一視することによって非志向的なクオリアを否定する?

ああなるほど、このへんが私は分かっていないのだな。非主題的な、投射された現出はつねにそれが指し示す対象と共にあって主題的な意識として構成されるわけで、ってやっぱこのレベルの理解ではダメで、もうちょっと詳しいものを読まないとダメか。うーむ。


.@you_mlpty ありがとうございます。「経験の構造の違い」ここですよね。「経験Aと経験Bが違う」というだけでは内観にすぎないわけで。いままでに私が理解したところでは「反省を経ているか否か」というのがツールのひとつだということは分かったのですが、他に何が使えるのかがまだ分かってないという状況です。


.@plastikfeld 簡潔にまとめていただいてありがとうございます。スライドなどで活用させていただきます。


.@you_mlpty なるほど、昔の現存在分析みたいなのとは違ったアプローチがあるのですね。しかもParnasってParnas & Zahavi 1998 (前反省的自己意識の元ネタ論文)の人ですね。こうなると「自己」の章も読んだ方がよいのかも。

.@you_mlpty ありがとうございます。読んでみます。

最近、統合失調症の精神症状のサリエンス仮説あたりを読んでいるときに、空間に定位されないような自己と自明性の障害がsense-of-agencyがらみでinsulaの機能障害と繋がるのだろうとかそういうことは考えてた。また繋がってきた!(<-ジャンピングトゥーなんとかバイアス)


盲視を現象学的アプローチで見てみるとしたら何が言えるだろうか? 3章での議論はどうだったかというと、盲視にはメタ認知が欠けていて、それはhigher order theoriesと整合的であるという議論があるが、現象学的にはhigher-order theoriesが前提とするような反省的自己意識を想定する必要はなくて、ある種の前反省的自己意識がすでにあるのだ、みたいな話までで、直接的に盲視についてなにかを言っているわけではない。

盲視で重要な点は、「意識内容を伴わないなにかがある感じがする」ということで、しかもたぶんこれは端的に利用できる情報が少ない(たとえば、健常視覚に非常に暗い刺激を出したとき)とは違うということで、これはもっと積極的に現象学的に読み解けないだろうか? 対象を指示できるということと、なにかがある感じ(presence)だけがあることとを分けて考える必要があるとしたら、それは現象学側へも寄与しないだろうか?

これは周辺視野で起こっていることとも似ているが、同一視できるかどうかは分からない。William Jamesの意識の分析でもfringeの概念とかがあることを考えると、すでにそれなりに扱われているんではないだろうか?

盲視サルの意志決定の実験をやったときの知見は、盲視サルでは視覚刺激の強制選択は出来るのだが、刺激の明るさを変えて難易度を変えても反応時間が変わらないということだった。このことはつまり、確信度が上がるまで待ってから意志決定をすることが出来ないということを表している。

論文を書いたときは「deliberateでなくなる」という表現をした。普段われわれは視覚情報を用いて、それに働きかけ、というループを作ってそのつど見たものが正しかったということをverifyしているのだけど、盲視ではどうやら視覚入力がveridicalでないようなのだ。

veridicalではないという知見からすると、「盲視ではメタ認知的に閾値が高い、つまりなにかがあると決断することに慎重になっている」と結論づけるHakwan Lauの考え方はなにかが違っていると考えていた。現象学で言うキネステーゼが知覚に寄与する(Noe的に言うなら構成する)というループの部分で盲視ではなにかが起きているのではないだろうか、というのが以前から考えていることだった。そういうわけでNoeやVarela経由ではあるものの、盲視について、現象学的に親和性のある立場からの解釈を考え続けてきたのだった。


.@plastikfeld 1版と2版、読んだ部分だけ部分的に比較してみましたが、そもそもあまり大幅な変更があったかんじはしなかったです。副題を無くしたりとか、パラグラフ分けを増やして読みやすくしたりとか。5章ではNoeについての言及がやや増えていましたが。

ほんとだ、「2章の結論部分の冒頭4段落分」ここは変更があって、反省の前後という経験の構造を捉える方法論のひとつが言及されている。

あと、前倒し現象学の部分でもownershipとagencyに違いがあることだけではなくて、両者とも1st orderの前反省的な現象的経験である、とい記述が増えていた。でもこれは相違点ではない。両者は経験の構造としてどう違うか? 8章読んだ方がよさそうだ。


今日もいろいろ書いた。これらをまとめてブログのエントリにする。これまでに書いたことをまとめて、それに盲視について脳に立ち入りすぎない説明をちゃんと作るとそれで充分30分しゃべる分量にはなるだろう。あとは哲学者に向けてこれってどんな風に考えることが出来ますか?って話題を振る。

.@plastikfeld よろしくお願いします。もういろいろぶつけて、みなさまの反応を待つというかんじで行きたいと思います。


2013年05月18日

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心」合評会準備中

2013年6月29日(土)13:00~18:30 一橋大学にて、第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会があります。私も「神経科学の立場から」ということでしゃべります。2011年1月20日の南山大学の鈴木貴之さんのところでのトークしたとき以来の哲学者との対話企画です。カムカムエブリバディー。

それの準備でいろいろメモったことをまとめておきます。


2012/11/16

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心: 心の哲学と認知科学入門」の二章途中前。ここにあるような議論だけでヘテロ現象学がreject出来るとはちと思えない。守備力は期待していないから、攻撃力側、つまりこれだけ役に立つよってことの糸口を見つけられればよしとするしかないか。

2012/11/18

「現象学的な心」2章読み終えた。うーむ、前半はフッサール現象学だから、現象学の自然化とかお構いなしだし、後半での現象学の自然化はヴァレラの話はすでに知っていて、残りはヘテロ現象学でも置き換え可能じゃんとか思う。あとは最低限3章(意識、盲視への言及含む)と5章(知覚)を読む。

Sense of agencyとsense of ownershipの違いは現象学的分析によるものである、なんて言ってるけどそんなのメッツィンガーは同意しないんじゃないか?

ヴァレラのやっていることが一番現象学的であると思うんだけど(エポケーと現象学的還元を被験者自体が訓練した上で、被験者が発見的に知覚の性質を分類する)、それですらLutz以降だれもやっていないことから分かるように研究プログラムとして成り立っているとは思えない。

3章の盲視に関連する部分はHOT(higher-order theory)による説明が焦点。というわけでHakwan Lau and David RosenthalのTICでも読んどくか。

2012/11/24

「現象的な心」は3章の自己意識のところを読み進めている。HOTとの対決については、今のところ「現象学ではこう言うのである」みたいなフッサール訓詁学みたいな論調で、戦う気がまったく感じられない。たとえ入門書と銘打っているとしても。

とはいえ、論争的な本が好きかというと、そうでもない。論的に勝つために無理めな論理でも強弁したりされるとすごく徒労感を感じる。フェアで率直なのがいちばん好き。

そうだな、フェアなのが一番だ。そうしたら、翻って考えるならば、実験科学者が哲学書に文句付けるなんて傷つかない安全区域から文句言ってるだけでぜんぜんフェアでない。どうしたら痛みを抱えることが出来るか考えながら読んでみることにしよう。そのほうがスリリングな話に出来るはずだ。

2013/2/23

「これが現象学だ」谷徹の最初の方を読んでて、フッサールの「絶対的なねばならない」という表現が出てきて、ずいぶんといかめしいなあと思ったのだが、英訳の"absolute must"って「これだけは絶対外せない」たとえば「シューゲを聴くならラブレスが絶対マスト」くらいのことじゃんとも思った。

「現象学的な心」3章が終わったところだが、意味が取れないところがあって、けっきょく原書を参照して疑問を解消した。たとえば、「なんで運転しているとき、細かいことを覚えていないのだろう? それは注意が足りないということではなくて、実践的行為のある不可欠な側面なのだ。実践的行為というものは…」という記述があったのだが、ここが"It is X, that …"(非制限用法)なのに、"It is X that …"(制限用法)で訳されてないか?

2013/2/24

「現象学的な心: 心の哲学と認知科学入門」は1,2,3,5章を終了した。4章飛ばしたけど、ヴァレラと力学系とかの議論が出てくるようなのでこっち読んだ方がいいかも。あとは7章読む。全部読むよりは、これまで読んだところをもう一回原文と突き合わせて読む方がよさそう。

3章なんとか読んだけど、「前反省的自己意識」pre-reflective self-consciousness って概念がどうにも飲み込めないのでもう一回読み直さないと頭に何も残らない。

5章(perception)は椅子の図の話とenactionと相互主観性、と聞いたことのある話だったので比較的わかりやすかったけど、それでも「不在の射影absent profileを付帯現前appresentかないし共志向co-intendする」とか知らん概念三連発で死んだ。

「一人称的所与性」(first-personal givenness)とか言われるとブチ切れて、「一人称的に与えられているということ」くらいまでかみ砕きたくなる。「私有性」ってなんのことかと思ったらminenessの訳だった。「私秘性」privacyとはべつの概念らしい。

2013/2/26

「これが現象学だ」を1/3くらい読み進めた。「主題的」の概念が分かってきた。投影された面を非主題的な感覚として受け取り、それから立方体だという主題的な知覚として構成するのが志向性で、それを自分が見てるという感じが前反省的自己意識でこれは非主題的。

この志向性の部分が現象学を現象学たらしめているものなので、ここで表象は出てこない。(表象を志向性で置き換えているかんじ) だから、現象学は反表象主義的になる、というか反省する前の領域を大きめに取っている。ここがhigher-order theoryとの違いになる。

2013/3/9

「現象学的な心」いったんストップして、フッサール現象学の入門書を読みあさる。「これが現象学だ」谷徹、「フッサール ~心は世界にどうつながっているのか」門脇俊介、「現象学とは何か」新田義弘、「フッサールの現象学」ダン ザハヴィ、このあたり。

志向性+現象学的還元から、時間論(pretention, retention)、空間論(キネステーゼ意識)、相互主観性、という基本的な枠組みを「これが現象学だ」を読んでざっと把握した。自分が知りたいのは感覚・知覚論なので、論理学研究とか言語論的なところはすっとばして読んでる。

「フッサール ~心は世界にどうつながっているのか」は引用ゼロで、フッサール流のいかめしい術語がないのが私にとってはたいへんありがたい。この調子で現象学的還元やノエマ、ノエシス、コギトも消し去ってほしい。(<-むちゃ言うな)

フッサールの現象学的な知覚論がさらにどのようにメルロ・ポンティによって展開され、フランシスコ・ヴァレラやアルヴァ・ノエがそれをどのように認知科学に繋げていこうとしたのか、そしてそれはわれわれ神経科学者が使えるだろうか、というのがわたしが「現象学的な心」を読むにあたっての問題意識。

つぎは「フッサールの現象学」に向かう。ザハヴィは「現象学的な心」の著者のひとり。「現象学的な心」3章で出てきた「前反省的自己意識」(pre-reflective self consciousness)がフッサールの言葉で言うとなんなのか知りたいんだがまだ不明。

とりあえずこの3章の元ネタがJournal of Consciousness Studies 1998であるらしいところまでは分かった。Parnas & Zahavi 「現象的意識と自己意識:表象理論に対する現象学的な批判」

ザハヴィ本の紹介記事:「フッサールのいう対象やノエマといった概念が、脳内の「表象」の話なのか、それとも現実の「実在」なのか…この問題に直接的に言及し、フッサール自身の文章を引用しながら、代表的な解釈を紹介」これは読むべきだな。

2013/4/2

「現象学的な心」合評会の構想を練る。原さんからは「認知神経科学の立場から現象学が役に立つかどうか喋ってほしい」と言われている。じっさい、専門家じゃあないのだから「フッサールの現象学のうち超越論的側面を無視しないかぎり現象学の自然化なんて無理じゃないか」とかそういうのは無理。

とはいえ、現象学が意識の神経科学に役立つとしても、直接、方法論的に役立つかとか、なんらか研究プログラムとしてたらしい方向性が見えないかとか、そういうクリエイティブなことを言うのは簡単ではない。いままで読んだ1-3,5章で自分の中での論点となるのは二つで、

1) ヘテロ現象学との対比。認知神経科学が活用してきた内観報告的な方法(RK judgmentとかautonoetic consciousness)にはヘテロ現象学で足りるか。検出と気づきの問題では? ヴァレラの方法は研究プログラムたり得るか。

2) HOTと前反省的自己意識、どちらが盲視を理解するのに役に立つか? 正直ハクワンが言っているようなHOTから前頭皮質の関与みたいな話で盲視を説明しようとするのには同意できなくて、それに対抗する手立てを現象学が与えてくれるならそれは大歓迎。

でもこの「前反省的自己意識」ってやつがどのくらい説得的なのかがよく分からん。文献を調べたところ、どうやらフッサールの言葉ではなくて、Zahaviの言葉らしいので、もうちょっとcriticalに読んでおきたい。

さいきんはFristonにかぶれて、Shadlen/Dehaene的なevidenceの蓄積によるdecisionってのは意識とは関係ないなって気持ちが強くなってきている。つまり、自由エネルギー的に言って、視野像のサプライズを減らすってのと、目を動かして視野像を変えるってことの違いでしかないんだったら(active inference)、evideneが蓄積した閾値を超えたということをそんなに特別視しなくてもよいし、意識はもっと遅れてやってくるんで充分だっていう見方をするようになった。

メタ認知自体に対してはまだ態度を保留しているけど、これがフィードフォワードの統計的な世界であって、フィードバック的力学系的な世界とは別もんだってところまでは分かった。

前回の冬講義の最後に出したスライドを後で更新したんだけど、腹側経路の双方向の回路でサプライズとそれをexplain awayする意識があってこちらは意識内容に関わり、背側経路の意志決定のシグナルとそれをexplain awayする意識があって、こちらはintentionに関わるとか。

2013/4/14

現象学的に言うなら、透明でないこと(occludeされていること)、ある面からしかものが見えないこと、とかが視覚を他の感覚と区別する特徴であり、われわれに感覚として与えられているものは限られているにも関わらず、隠された向こうにいるネコとかコップとかを知覚するのが意識の作用である、みたいな言い方をする。だから遮蔽物の徹底的な透明化がなされたり、複数のカメラから物体をあらゆる方向から見ることが出来るようになったりとかすることで、視覚という感覚がどのように変容を受けるのか、みたいなことに興味がある。

でもそういう「意識の作用」が超越論的なものである云々とか言われるとさっぱり分からない。ゲシュタルトがゲシュタルト性とか言われてそれ以上なにも言えなくなってしまうのと同じような、20世紀前半の状況を引きずっているだけのようにも思えるのだけど。

2013/4/16

あいまにちょこちょこと現象学関係読んでいるのだが、やっぱり分からない。合評会は「神経科学者が現象学使えるかいろいろ読んで考えてみましたけど、けっきょく分かりませんでした」みたいなオチにするのがいちばん率直で正しいのかも。

「現象学的な心」2章でのエポケーと現象学的還元の説明を読んで、さらに「フッサールの現象学」ザハヴィの2章あたりにあるエポケーと現象学的還元の説明も読み進めている。現象学がしばしば内観と同一視されてきたこと、しかし現象学がいかに内観とはべつものであるかということが強調される。

つまり、内観というのはエポケーする前の自然主義的な態度(二元論を前提)を前提としたものであって(まだ、natural attitudeとnaturalistic attitudeの違いが分かってない。内観は明示的に後者を前提しているだろうか?)、一方、現象学とはある対象がどうやって現出するかの可能性の条件についての哲学的反省である、ということになる。だから現象学で出てくるのは時間の構造(把持/予持)とか間主観的な妥当性の正立とかそういうものが現象学的還元の成果であって、内観で対象を同定することではない。

だから、意識の脳科学への現象学の応用として挙げられているVarelaの仕事(Lutz et.al.)にあるような、認知課題中の準備状態に対する分類というのは、形こそ現象学的分析に似せてはあるけれども、じつのところこれは「精緻化された内観」に過ぎないのではないかと思う。

つまり、反省するべき対象を外界の刺激そのものではなくてその意識経験そのものに向けたからといって「内観ではない」とは言えない。それはたとえば、メタ認知における「信頼度」について考えてみれば分かる。

「信頼度」というのはまさに外界の刺激そのものではなくて意識経験に向けたものであるのだけれども、これは現象学的な反省とは言えない。なぜなら信頼度報告では意識経験を対象として報告しているだけであって、反省が為されていないから。

もしメタ認知を現象学的に扱うのならば、そのような信頼度が生まれる条件を知覚そのものとの関係から明らかにするといった理論的な仕事になるはずだ。ザハヴィの「前反省的自己意識」という概念は時間の現象学的分析から生まれて、それをGZ本ではHOT批判に応用したのだが、メタ認知というのはその文脈では「反省的自己意識」と捉えられることになる。

話を戻すと、Lutz et.al.の話もおなじこと。けっきょく、ヴァレラが構想したような「神経現象学」をやるためには、精緻化された内観で説明できないようなものを持ってこないといけない。

さらにLutz et.al.について言えば、精緻化された内観での条件AとBをさっ引く、という統計的やり方をしていて、力学系を媒介にして現象学と神経科学とを繋ぐというヴァレラの神経現象学の構想を二重に裏切っていると言える。

とはいえ、どうやったら脳科学を力学系的に取り扱えるのかということ自体が(計測も含めて)大問題なのでそこをつっこんでもしょうがない。

神経現象学の実践という意味でもう少し希望がありそうなのはヴァレラのべつの論文(哲学的な方)で書いてあった、現象学的な時間構造の分析(把持/予持)と脳内のコヒーレンスによるセルアセンブリの形成とが関連するかもって話。こっちは現象学的かつ力学系的でかつ脳科学が成り立ちそうだと思う。

いろいろ書いていたら、なぜかLutz et.al.を叩いて合評会の時間を保たすという卑劣なコンテンツが出来てしまった。こういうのじゃあなくて、現象学役に立ちます、と言いたい。誰も擁護してない、みたいな悲惨なのは避けたい。

いちばん避けたいのは、自信満々に現象学語って、あげく、現象学全然分かってないですねとか言われること。分かってないに決まってるんだから「この本からこう読み取ったんだけど」みたいな言い方にしないと私の心が折れる。

でも、正直なことを言えば、心が折れさえしなければどんどん不用意なこと言ってみたい。(<-エー) 無難なのは詰まらんし、とくに失うものがあるわけでもないし。

2013/4/18

「これが現象学だ」二周目だいたいすんで、かなり分かってきた。自然的態度と自然主義的態度の違いも分かった。先反省的自己意識という言葉自体は使っていないがそれと同様な概念(把持について非主題的に把持する)をフッサール自身が書いているということもわかった。

ただ、世界そのもののノエマ的意味の分析をしたことから、世界が意識によって構成されるという考えを断念して、言ってたことどんどんひっくり返して原構造とか原キネステーシスとか言い出しちゃったあたりから、ちょっとフッサールさん、考えすぎでおかしくなってない?と付いていけなくなった。

これでザハヴィの「フッサールの現象学」も読めそうだ。そのうえでもう一回「現象学的な心」に戻ってみることにしよう。盲視の話からのオチとしては、大学院講義でも話した、二つの視覚経路論とAlva Noeの折衷案で、キネステーシス意識が背側経路で自己と空間を作るって方向でまとめる。

Alva Noeみたいに色までaction説にするのは無理があると思うのだが、行動(と時間)は空間と自己を作るという意味で意識を構成している。そういう現象学的考えがわたしの意識の脳科学的モデルに影響を及ぼしてます、みたいな話にするのがいちばんウソがなくて、無理がない。

ついでに、そういう方向からenaction説を理論武装した上で、駒場講義でもその話題を深められないか試してみることにしよう。

2013/4/19

あしたは南山大学でやってる応用哲学会に行ってくる。人生初の経験なのだけれども、こういう集まりの雰囲気を知っておきたい。いちばん聞きたかったのは午後の「知覚」概念の臨界、だったのだけど、フットベースのコーチ今年度第一回があるので途中で抜ける。

行きの名鉄電車で「心身問題、その一答案」(大森荘蔵) を読んでいく予定。たぶん以前読んだけど覚えてない。脳から意識への因果って因果としておかしいから重ね描きにしましょうってのは分かるが、「予定調和」なのか「創発」なのかよくわからん。あと現象学との対比とか、違った風に読めるはず。

「心身問題、その一答案」読んだ。前読んだときよりはもう少し分かっただろうか。「意志とは元に行動を持続していることであり、よって意志は行動にあり、心の中にあるわけではない」とか面白かった。Schallの意志決定と行動選択の議論とか思い出した。

でも、肝となる「すなわち」の関係がまだわからん。さいしょこれは法則的関係なのかなと思った。「命令は不服従の可能性があるから命令なのであり、そうでなければ法則である」って表現があったけど、まさにそのような意味でisomorphicなんだろうと。でも、あとから日常生活と科学的描写の重ね描きはどちらかの描写が抜けることもあるとか、幻のときにはこの重ね描きにズレが生まれる、とか書いてあるのを見ると、そのような強い法則的関係があるということを言いたいのではなくて、場所と時間が同じものを指している、つまり存在論的側面について言っているだけのようにも思える。

だが最後の最後になって、幻のときには(正しく働いてない)脳が鏡像と同じ役割を果たしていて、脳科学者の役割はそこで「すなわち」の関係となっているものを見いだすことだ、というような締め方をしていて、やはり法則的関係なのか?とこのへんがわたしには明確になってこない。

2013/4/21

昨日南山大学まで応用哲学会に行ってきた。平行セッション4つで、大学の会議室を使ってワンフロアで開催という規模。

朝一9:55開始の大森哲学についてのトークのまえに部屋に入ったら観客が5人くらいしかいなくて超びびった。しかも全員壁際に座ってる。独特の文化? わからないがど真ん中に座って聞いた。トークの途中でパラパラ人が入ってきて最終的には15人くらいになった。どうやら哲学者は朝が弱いらしい。

玉川大の小口さんの話が聞けたので良かった。脳の並行処理でのサブパーソナルな表象で概念的かどうかの議論って出来るのか?ちょっと会って話したけど時間切れ。またの機会に。今日の本命は立教大の呉羽さんの話(enaction説への批判)だったのだけど、時間切れで途中退出した。

昨日の学会では、小口さんはスライドなしで配付した資料を読み上げる形式、他の方も文字が並んでいるスライドをほぼ忠実に読み上げるスタイルだった。実験科学をやっている者からするとどうして図がないのだろう?と不思議になるのだが、おそらくは文章で表現される論理に重きを置いているのだろう。

でも図がほしい。つかたとえ文章で書かれていたとしても、自分でメモ取るときに図にして理解しているし。想像するに、たとえば現象学だと、現出からtranscendして遮蔽されたところも込みでobjectを知覚するのが意識の作用、というのを図示したら二元論的になっちゃうからいかんとか?

合評会でスライドでなんか表現するとしても、これまでの自分の流儀で図にして説明すると思うのだけれど、なんか厳密でないように思われるのだろうか? どうにもわからん。ただ、そういう疑問というか違和感に突き当たっただけでも収穫か。Jakob Hohwyとかは比較的図を使ってたな。Alva Noeは完全に原稿読んでるだけだった。

ちゃんとトレーニングを積んでいくと、そのようなカント的な図式から、現出と対象とが分かちがたく結びついたノエマのイデアが頭にできあがって、そのころにはそういった図が全然不正確に見えるようになってくるって感じなのだろうか?

2013/4/27

門脇俊介『現代哲学の戦略―反自然主義のもう一つの別の可能性』「門脇氏はアンディ・クラークの『視覚経験と運動行為』を引用し、そこで紹介されるミルナーとグッデールの「二重視覚システム論」がマクダウェルやハイデガーの発想と親和的であることを明らかにしてうっちゃりをかますのである」 これは読むべきか。

ということで、「現代哲学の戦略 反自然主義のもう一つ別の可能性」門脇 俊介 著 図書館行って借りてきた。該当する部分は8章だったようだ。

ゼノン・W・ピリシン『ものと場所―心は世界とどう結びついているか』 「視野内の諸事物を同一のトークン事物として同定し、コード化による高次の概念的述定の基盤を提供するのが、初期視覚に組み込まれた、非概念的でサブパーソナルなFINSTの機能」これ見て、ああそういえば小口さんの発表の話に関わるなあとか思って「ものと場所: 心は世界とどう結びついているか」 作者: ゼノン・W.ピリシン をアマゾンで探してみたら、小口さんが翻訳者だった。なるほど。

門脇 俊介 「知覚経験の規範性」 (現代哲学の戦略 反自然主義のもう一つ別の可能性 8章)、OCRかけてテキストファイル作りながら読んでる。そしてら盲視への言及が出てきた。これは正解だったっぽい。

2013/4/30

Zahavi 2004 "Phenomenology and the project of naturalization" これとかにもあるように、ZahaviはPetitot,Varela, の"Naturalizing Phenomenology"の自然化には批判的なので、「現象学的な心」2章の後半にあるような現象学の自然化には批判的なはずだ。

ということでたぶん、「現象学的な心」の2章は前半をZahaviが書いていて、後半はGallagerが書いていて、このへんがちぐはぐになっているんではないかと推測する。これが、この本を読んでて、けっきょくどのような研究プログラムがあり得るのかがピンと来ない原因になっている。

最新の"Naturalized Phenomenology: A Desideratum or a Category Mistake?"ではこのへんもうすこし突っ込んだことが書いてありそうだが、そこまで話を追ってる余裕がない。

2013/5/1

.@ryo_tsukakoshi ありがとうございます! 昨日「ハイデガーと認知科学」を図書館で借りてきたのですが、こちらのほうの論文は自分が探している方向とは違っていたのを発見したところでした。

「表象なき認知」中村雅之 (シリーズ心の哲学II ロボット編)で、ヴァン・ゲルダーの力学系的アイデア及びA・クラークのコネクショニズム的立場からの返答の話を読んだ。けっきょく、ヴァン・ゲルダーの調速機の比喩はフィードバックコントロールで、A・クラークのエミュレーターはカルマンフィルター的な内部モデル(フィードフォワード)なので、池上さんと話題になったフィードバックとフィードフォワードの話と同型だなと思った。

ともあれ、元ネタに遡るために「ハイデガーと認知科学」に入っているヴァン・ゲルダーとクラークのそれぞれの論文を読むことにした。

これによって、「現れる存在」へのとっかかりも出来るだろう。A・クラークは過激な反表象主義を解毒しながらも環境との相互作用を重視するといった折衷主義によってヴァン・ゲルダーやAlva Noeに対して応答してきたことが分かってきた。

煮え切らないなとも思うけど、この態度にはかなり親近感を覚える。がゆえに眼を開かされるというかんじではないのだが…というほど読んでいるわけではないので、また読んでみることにしよう。

どうやったら神経科学で(計算主義的、統計的ではなく)力学系的であり得るのかということはずっと興味がある。

津田先生の新学術の前期に入れてもらったときにはそういう興味が大きかったけど、やっぱりわからなかった。 コヒーレンスを記録しても、それを条件Aと条件Bでさっ引いて有意差出しているならばそれは力学系的ではなくて、統計的な枠組みから出てないと思う。

2013/5/18

立命館のダン・ザハヴィ講演会行ったら収穫あるかもとか思っていたが、その日は大学院講義担当で、しかも翌日の子どもの運動会のためにお婆ちゃんが二人とも前日からはるばるやってくるという大変な日であることに気づいたので取りやめ。


2013年05月03日

「クオリア派」とか

2012/10/31

クオリアについて考えるのは愚かなことであると嘲笑的に書いてあるのを見るとかっとなるが、それでも誤解すべきでないのはそういう主張が「赤い色を経験するということ」自体を否定しているわけではなくて「そのような経験が機能的なものと独立していると考える二元論」を批判しているということ。

つまり、神秘を紛れ込ませる非科学的なやり方に対して否定的なのだ。それを前提とするのはおかしいという意味で私も同意する。

いっぽうでいわゆる「クオリア派」の人たちは意識経験を説明する代わりになにかべつのものに置き換えてしまうやり方に対して否定的なのだ。だからその二つの地雷を踏まないようなやり方はどこにあるかってことを考える。

意識研究がなんで重要なのかというと、それは脳の活動が体と環境との相互作用でやっていることを完全に解読するということは、意識経験の内容を説明できるように解読するということだから。つまり、それがファンダメンタルだと思っているからやっている。

そうすると、計算論的であろうとするのと同時に非還元的説明をめざす、という折衷案的なものになる。「地雷を踏まない」という書き方に反映しているように、どういう道が正しいかは分からないのだから、それは違うだろっていうheuristicsだけをもとに、いろいろやってみるしかない。

.@NaotakaFujii 説明のレベルの問題だから、無意識な行動でも同様なレベルでの説明がファンダメンタルだと思う。そういう意味では「意識」だからわかりやすくなっているだけで、無意識を除外しているわけではないのです。じっさいわたしの盲視の研究は無意識側からなのだし。

.@NaotakaFujii 無意識「だけ」だと行動の説明だけ出来ればいいってことになって、たぶんいま言っているようなレベルでの説明が抜け落ちてしまうと思う。SRでもどうして自明性が失われてしまうかを説明するレベルの記述が必要だと思うけど、

そのためには、SRで起こっている意識的、無意識的両方の側面を捉えることが不可欠だと思う。

つまり、「意識」を強調しないと、デフォルトでは無意識のゾンビモードだけで話が完結してしまう。

「地雷を踏まない」という言い方はネガティブに見えるかもしれないけど、いろいろやってみるのは阻害しない方向性で、「神秘を潜り込ませない」「意識という対象を見失わない」この二つだけ抑えておけばいいんじゃなかろうかというくらいのこと。

.@NaotakaFujii たしかに、いまは「記述する」みたいな言い方をしたから、どうしても「観察者問題」にぶつかってしまうとは思います。

.@NaotakaFujii その「題目」ってのの実態はいったいなんでしょう。機能? モデル?

.@NaotakaFujii ああ、モデルフリーにしたいってことですか? そこに意識を入れないと行動主義だし、入れるならそれをどう扱えばいいかが問題になる。

.@NaotakaFujii 次元圧縮はなるたけ後までやらないってのには賛成だけど、どっかの段階でやりますよね。なんかずっと前に「観察された行動をどう分節するか」って議論をしましたけど、そのときからずっと続いている論点ですね。

2012/11/19

俺クオリア派。でもって、まっとうな研究者から「厨二病」とか言われて笑われるのを忍従する役割。今後もあらゆる地雷を素足で踏み抜く所存。


2013年04月07日

脳科学辞典「盲視」の項目書いた

脳科学辞典の「盲視」の項目を書いた。査読されるまえの原稿をブログ用の記事として活用してみる。


盲視

英:blindsight

類語・同義語:

盲視とは、第一次視覚野(primary visual cortex: V1)が損傷した患者において、現象的な視覚意識がない(phenomenal blindness)にもかかわらず見られる、視覚誘導性の自発的な反応のことを指す。盲視という現象は視覚情報の処理(光点の位置を当てる)と現象的な視覚意識(光点が眼前に見えたという経験をする)とが乖離しうること、そしてそれらがべつの脳部位で処理されているということを示している。ヒトだけではなく、マカクザルにおいても盲視と同様な行動が見られる。盲視に関わる脳部位としては上丘を経由するとする説と外側膝状体を経由するとする説とがある。盲視の能力の発現には機能回復トレーニングと可塑性が関与していることを示唆する報告が複数ある。

盲視とは

盲視とは、第一次視覚野(primary visual cortex: V1)が損傷した患者において、現象的な視覚意識がない(phenomenal blindness)にもかかわらず見られる、視覚誘導性の自発的な反応のことを指す[1]

V1大脳皮質での視覚情報が最初に入ってくる領域であり、左右の半球でそれぞれ右左半分ずつの視野の情報を処理している。たとえば左側のV1全体が損傷すると、左右の眼ともに右半分の視野が見えなくなる。このような症状は同名半盲と呼ばれる。盲視はそのような患者の一部でのみ見られる。

盲視という現象は視覚情報の処理(光点の位置を当てる)と現象的な視覚意識(光点が眼前に見えたという経験をする)とが乖離しうること、そしてそれらがべつの脳部位で処理されているということを示している。気づきの項目も参照。

ヒトでのV1損傷後の残存視覚については1973年のPoppelらの仕事[2]によって最初に報告された。ひきつづきWeiskrantzらがBrain誌に詳細な報告を行い[3]、"blindsight" (盲視)と呼ばれるようになった[4]

歴史的にいえば、V1損傷後の残存視覚についてはじつはヒトでの知見の前にすでにサルでの知見がWeiskrantzらの研究グループから報告されていた[5]。しかし、厳密な意味で盲視の存在を証明するためには、「残存視覚があること」を証明するだけでなく、「現象的な視覚意識がない」ことを証明しなければならない。これは言語報告を使えないサルなどの動物の場合には原理的な問題となる。ヒト盲視で見られる現象と同様な行動の乖離を示した実験は、Weiskrantzの同僚であるAlan Coweyらによって1995年に報告された[6]

包括的なレビューとしてはPetra StoerigとAlan CoweyによるBrain 1997[7]がある。また、日本語で読むことができる総説としては[8][9]などがある。

盲視で出来ること、出来ないこと(1) ヒト

ヒト盲視患者では動き刺激の方向弁別の成績は非常に高い[10]。一方で、線分の方位弁別の成績は偶然のレベルに留まっている[11]

グレーティング刺激の検出課題において、輝度コントラストに対する閾値は通常と比べて上昇している[12]。また、空間周波数の影響を調べた論文[13]によると、盲視では空間周波数の高い成分(> 4 cycles / deg)への感度が落ちている。

色情報の検出、弁別は可能であるとする報告[14][15]がある。しかし一方で、V1損傷または半球皮質切除によるヒト盲視患者では青-黄の色拮抗チャネル(koniocellular経路)の刺激を検出することが出来ないという報告もある[16][17][18]

ポズナー課題による注意課題において、盲視患者は手がかり刺激の情報を使って見えない視覚刺激に対する応答潜時が短くなるなどの注意の効果が見られることが報告されている[19]

顔の表情の弁別においては、二択で偶然以上の成績で正解した[20]。このような表情の認知は"affective blindsight"と呼ばれる。一方で、おなじ患者は誰の顔であるか(identity)の弁別では偶然のレベルの成績であった。

盲視で出来ること、出来ないこと(2) 動物モデル

この項では、マカクザルの片側のV1を損傷させた盲視動物モデルでの知見をまとめる。

視覚誘導性サッカード課題において、損傷部位に対応した視野に提示した視覚標的に向けてサッカードすることが可能であることが示された[21]。また、レバープレス課題によって提示された刺激を検出することも可能であった。

視覚誘導性のリーチング課題によって、ディプレーに提示された視覚刺激の位置を二択で正しく選択することが可能だった[6]。一方で、視覚刺激があるか無いかを報告させる課題においては、視覚刺激が提示されていても、視覚刺激が提示されていないことを示す選択肢を選んだ。

視覚誘導性サッカード課題において、損傷視野に提示した視覚標的の輝度コントラストに対する閾値は正常視野と比べて上昇していた[22]。また、サッカードの終止点は不正確であり、軌道も正常視野へのサッカードと比べてより直線的になっていた。このことはV1損傷が視覚だけでなく運動コントロールにも影響を与えていることが示唆している。また、応答潜時は分布が狭くなっており、計算論的解析から、V1損傷が意志決定の過程にも影響を与えていることが示唆している。

記憶誘導性サッカード課題を用いて、盲視モデル動物が見えていない部分に提示された視覚刺激の位置を2秒間記憶することが出来るかどうかを検証したところ、盲視モデル動物はこの課題を90%以上の成績で行うことができた[23]。また、注意誘因課題において、キュー刺激を事前に提示することによって視覚誘導性サッカードの応答潜時は短くなった[24]。これらのことは盲視の動物モデルでは反射的な視覚情報処理だけではなく、高次認知機能も遂行可能であることを示唆している。

盲視モデル動物がムービークリップを受動的に見ている間の眼の動きをサリエンシー計算論モデルによって解析することによって、盲視で利用可能な情報処理のチャンネルを網羅的に調べた報告がある[25]。盲視モデル動物では「輝度」「赤-緑」「青-黄」「動き」の情報は利用できるが、「傾き」の情報は利用できなかった。同じ動物に等輝度色刺激を提示して刺激を検出できるかどうか検証したところ、赤-緑、青-黄どちらの刺激ともに偶然より高い成績で検出できることが判明した。この結果は盲視モデル動物で色情報の処理が出来るとするこれまでの報告[15]と整合的だった。

盲視の脳内メカニズム(1) 解剖学

盲視で網膜からV1を経由せずに視覚情報を伝えるルートとしては、解剖学的には以下の可能性がある。

LGNへの入力には網膜からの直接的な投射だけではなく間接的なものもある。LGNへの間接的な視覚入力としては、上丘のうち網膜から直接入力を受ける上丘浅層(stratum griseum superficiale: SGS)からLGNへの投射があることが知られている。しかもこのような投射はヒト、マカクザルを含むほ乳類のさまざまな種で保存されている[30]。よって、LGNには、網膜からSGSを経由した情報が入力している可能性がある。

マカクザルでMT野rabies virusを注入すると逆行性および多シナプス性に上丘が標識される[31]。このことは上丘からMT野までシナプス一つを介して入力していることを示している。上丘からMT野への間接的投射には、SGS 2b層 -> 視床枕 -> MT野という経路と、SGS 2b層 -> LGN -> MT野という経路の二つの可能性がある。はたして、ウイルスによって標識されたのはSGS 2b層であった。このことは上丘からMT野への投射は視床枕を経由していることを示唆している。よって、上丘からLGNを経由してMT野へ情報が入るという可能性は解剖学の知見からは否定的である。

盲視の脳内メカニズム(2) 生理学

V1損傷後のマカクザルのMT野ニューロンの視覚応答は、発火頻度は小さくなっているものの方向選択性はほぼ正常時と同じ程度に保持されていた[32]。一方で、V1上丘とを両方損傷させた場合にはMT野の応答は完全に消失した[27]。このことはV1損傷後のMT野ニューロンの応答が上丘を経由するものであることを示唆しており、LGNから直接MT野へ入力する経路によっては説明できない。

マカクザルを盲視の動物モデルとして用いた研究では、上丘を薬理学的に抑制すると、視覚弁別能力が消失する[21][33]。この実験結果は盲視が上丘を経由する回路で処理されている可能性を示唆している。一方で、V1の部分的除去のあとでも、視覚刺激への応答がV2MT野で見られることがサルでのfMRIを用いた研究から報告されている[34]。この状況では、LGNを薬理学的に抑制すると盲視が消失する。この実験結果は盲視がLGNを経由する回路で処理されている可能性を示唆している。この二つの説のどちらが正しいかを実証するためには、同じ動物で上丘LGNそれぞれを抑制する実験をする必要がある。

マカクザルを盲視の動物モデルとして用いた研究では、V1の切除後の上丘からニューロン活動を記録したものがある。損傷したV1と同側の上丘には、視覚刺激に応答するもの、サッカードの実行時に活動するものが見いだされた[23]。つまり、V1損傷の後も上丘は機能している。さらに、記憶誘導性サッカード課題遂行中の上丘のニューロン活動を記録したところ、上丘は短期空間記憶を保持している期間のあいだ持続的に活動していた。このことはV1の損傷からの機能回復によって、上丘が普段は行っていない、空間的短期記憶の機能を担うようになったということを示唆している[23]

機能回復トレーニングと可塑性の寄与

盲視の能力の発現には機能回復トレーニングと可塑性が関与していることを示唆する報告が複数ある。

Sahraieらの研究[12]では、視覚皮質損傷患者を被験者として視覚弁別のトレーニングを行った。視覚刺激が試行の期間1または期間2のどちらに提示されたかを被験者は答える。このようなトレーニングを被験者は自宅で継続して行うことでその成績は数ヶ月をかけて向上した。また、Huxlinらによる報告[35]では、ランダムドットモーション刺激の方向弁別のトレーニングを行ったところ、9-18ヶ月後には正常レベルに近いところまで感度が向上していた。これらふたつの研究での被験者は成人であり、脳損傷を受けてから年月が経っている。よって、これらの研究は、成人の脳でも大規模な構造的な変化によって機能回復が起こっている可能性を示唆している。

マカクザルを動物モデルとして用いた研究では、機能回復トレーニングとして視覚誘導性サッカード課題を用いて成績の時間経過を調べたところ、術後1週間では、損傷の反対側の視野へのサッカードは上下の2カ所を弁別できなくなっていた。継続的にトレーニングを行ったところ、およそ8週間程度で損傷視野の成績はほぼ正常視野と同等のレベルまで回復した。つまり、動物モデルにおいても数ヶ月の機能回復トレーニングによって、盲視の能力が回復することが明らかになった[22]。前述した、上丘の神経活動が損傷と同側では正常側と変わっているという報告[23]も、V1損傷後に大規模な構造的変化が起きた結果である可能性がある。

拡散テンソルイメージング(DTI)を用いることによって、盲視の患者では脳損傷後に投射経路の可塑的変化が起こっていることが示唆されている。たとえばLGNからMT野への結合がより強くなっている[36]。また、上丘から視床枕を経由して扁桃体へと入力する結合がより強くなっている[37]。また、半球皮質切除を受けた患者のうち盲視の能力を持つ患者では、通常では見られないような、切除側の上丘から反対側の大脳皮質へと投射する経路が同定されている[38]

盲視での意識経験

盲視の被験者は視覚刺激に対してまったく意識経験がないわけではないらしい。たとえば有名な盲視被験者のGY氏は、視覚刺激の強度が高いときにはしばしば「何かある感じ」がすると報告する[39]。しかしそれはいわゆる視覚経験とは違うらしい。たとえばGY氏はその感覚について「黒い影が黒い背景上を動いている感じ」と表現する(ただし、この表現はあくまで比喩であることを強調している)。Weiskrantzはこのような盲視をtypeII盲視と呼んで、このような意識経験を全く持たないtype I 盲視と区別している[1]

いっぽうでZekiはこのような感覚は視覚経験の一種であり、Riddoch症候群として捉えるべきであると主張している[39]。Riddoch現象とは、V1を損傷した患者で、静止した物体はまったく見えないのに対して、動いているものに関しては感知できる現象のことを指す[40]

ほかの感覚でも盲視に対応したものはあるか?

視覚で盲視があるのと同じように、ほかの感覚でも盲視に対応したものがあるのだろうか? 以下の論文ではそのような症例があることが報告されている。

  • 触覚での症例 ("Tactile ananogue of blind sight") [41]
  • 聴覚での症例 ("Deaf hearing") [42]
  • 嗅覚での症例 ("Blind smell") [43]

関連項目

参考文献

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2013年03月24日

トノーニの「意識の統合情報理論」について:予習最終回延長戦

ジュリオ・トノーニが来るワークショップ "Measuring Consciousness - Theory and Experiments"は京大で3/25開催。参加費無料、申し込み手続き不要。いよいよ明日。


トノーニのBiol. Bull. 2008 "Consciousness as Integrated Information: a Provisional Manifesto"のおわりの方を読んでた。

「内側からの情報」の議論が重点的にしてあったので役に立ったが、まだ判然としていない。ここでの議論だと、unity of consciousnessは外からしか見えなくて、内側からはただそのような情報処理が為されているのが見えるだけとならないだろうか。つまり、そとから計算されるPhiとしてではなく、内側から現象学的な統一性と主観性とがどのようにして実現されると言えるのか。

それから、effective information(EI)というものを使うことの妥当性。ここでの議論されていることは、全体と部分、外側と内側、メアリーの部屋、汎心論、このへんの議論自体はEIでなくてpredictive codingでも成り立ちそうなのだが。

あと、ある時点での情報量をすべて記述すればそれで必要なものはすべてあるという立場にある。力学的な軌道と履歴は考えてなさそうだ。x, xの時間微分、…というふうに記述しているのかもしれないが。

ワーキングメモリーやエピソード記憶や注意やそういうものと意識とは同時ではない。必ず例外が出てくる。そこでIITが意識そのものだと言ってしまうことで他の認知科学的概念を使った説明よりもより強い主張をしているのだが、肝心のIITが計算できないので突っ込みにくい。

いや、いろいろ突っ込みたいところはあるのだが、なんか妙にうまく躱されてしまうかんじ。思いつきの羅列ではなくて、長い間議論で鍛えられてきた様子はある。

とはいえ、IITには行動がまったく入ってこないから、完全に受け身のセンサーネットワークでも、ただしくPhiが高くなるようなネットワークをデザインできれば(それは簡単ではないと明記されているが)、意識は持てると言うことになる。

active vision/enactive viewとざっくり整合性を付けてしまうならば、Phiが高くなるようなネットワークを形成する過程にsensorimotor contingencyは必須だが、あらゆる意識にオンラインで行動が必要ではないというふうに議論することは出来る。

.@alltbl ただし、デジカメみたいに平行に情報処理されているだけだとPhiは大きくならない。もっと基本的な回路、たとえばランダムな結合、スモールワールド、それらでふつうにPhiが大きくなるようなネットワークが作れるのか、このへんはやってみないと分からないと書いてあります。

なんかいろいろやってみたら、けっきょく行動を入れないとPhiが大きくなるネットワークを学習できなかった、という事態にもしなったとしたら、けっこう得心がいくかも。

小脳は並行処理だからPhiは大きくならない、大脳はPhiが大きくなる、という議論をしている。どのくらい定量的な議論なのかは、そのへん飛ばし読みしたので分からない。

.@alltbl オンラインで整合性を取ることが「いまの」意識に必要なことなのかどうかというのが論点で、これは自明でないけど、オンラインで整合性を取ることが「将来の」意識にとって必要だってのはけっこう自信がある、というかんじです。私は。

たぶんいまの話は、以前池上さんと話題になった、フィードバックとフィードフォワードの話に繋がる。やっぱ私はすぐにフィードフォワードの方に目が向く。

これのこと:フィードバックとフィードフォワードにおける時間 (池上さんとのやりとりを含む)(20111021)


2013年03月23日

トノーニの「意識の統合情報理論」について:予習最終回

ジュリオ・トノーニが来るワークショップ "Measuring Consciousness - Theory and Experiments"は京大で3/25開催。参加費無料、申し込み手続き不要。


トノーニのBiol. Bull. 2008 "Consciousness as Integrated Information: a Provisional Manifesto"のはじめの方を読んでた。まとめると、

フォトダイオードには意識が無くて人間に意識はあるのはなぜかというと、「灯りが付いている、付いていない」という事象が、人間にとってはそれが光であって音でない、無彩色であり色はない、といったいろんなレパートリーの中から選ばれたという意味で情報量があるのに対して、フォトダイオードではそれは単なる1ビットの情報でしかないからではないか。いっぽうデジカメは情報量はたくさんあるが、センサー同士の間に相互作用はない。つまり統合がない。だから、情報量が多ければ意識があるというわけではない。

というわけで、情報量と統合との両方を考慮したものとして、まず要素間ごとに定義されるeffective informationを計算する。さらに脳の部分ごとに切り分けたときの情報量を計算して、[脳の部分での情報量の総和]と[脳の全体での情報量]との差を計算して、部分では説明できない分がPhi。まとめここまで。

あらゆる部分の切り分け方をするために、組み合わせの爆発が起こって、実際の生物のニューロン数では実質的に計算が無理となる。Sethの論文はこのへんを工夫して、実際の脳でも応用可能なindexを作っている。大泉さんもたしかはじめのうちはこのindexを使っていたと思うけどその後改良しているらしいのでそのへんは当日のお楽しみに。


でもって、わたしが以前問題にしたのは、ここでのeffective information (EI) が、外部からの情報量ではなくて、その要素にとっての情報量になっているのかということだった。つまり、神の視点がないようになっているのか。

たとえば、さっきのデジカメでは情報量が多いという話はあくまで観察者の視点であって、デジカメ自体にとっては要素を繋ぐすべがないのだから、それはデジカメにとっての情報ではない。

これについてはp.220で言及されていて、mechanism(要素間の関係)とstateが決まればEIはimplicitに決まるという意味で、 EIはそのシステムにとってのintrinsic propertyである、という言い方をしている。そのうえで、外側から見る際にはあらゆる可能なinputを入れてやることでエントロピーが最大のときを決めてやることでEIをexplicitに計算してやることが出来る、とある。そういうわけで、EIは要素自体がアクセスできる値ではないし、要素自体があらゆる可能な入力のレパートリーを知っているわけではない、ということになる。

だから、要素自体は入力を出力に変換するmechanismと自身のstateしか持ってない。Phiはそういったシステムが持っている創発的な、と言って悪ければ統計物理的な値である。

ただ、こういう言い方で内的/外的情報の問題が解決できるというのなら、EIでなくてほかの情報量的indexでもいいように思う。後述するが、Itti surpriseでも同様なものを構築することが出来るだろう。そうすると、フリストンの自由エネルギーと情報理論的にどういう関係になるだろうかとか一瞬想像してしまう。


EIの計算の説明名で書いてあることがよく分からない。t=1でstateが11 (二つの要素のそれぞれが01になる)だったとき、t=0では10または11しかとらないとあるが、これがなんでだかわからん。なんか説明欠けてないだろうか?

EIは要素間で決まる値であり、要素それ自体は自分のstateしかわからないし、相手の要素のstateはここでmechanismと呼んでいる関係(条件付き確率)を通してしか分からないはず。

ともあれ、EIはあらゆる可能性が当確率で起こるとするpriorと実際に起きているposteriorとの間のKL距離なので、直前の時間のstateとの差分を見ているpredictive codingとは別。EIは相対的ではなくて、絶対的な情報量の計算をしている。

もうちょっと正確に言うと、EIはKL距離なので向きがある。要素1->要素2と逆向きとのEIがそれぞれ計算される。

あとは新幹線の中で読む。中途半端だが、ここまででブログにしておく。


2013年02月28日

脳科学辞典「気づき」の項目書いた

脳科学辞典の「気づき」の項目を書いた。査読されるまえの原稿をブログ用の記事として活用してみる。


[気づき]

英:awareness

類語・同義語:意識、consciousness

要旨

気づき」は英語のawarenssの訳として用いられ、外界の感覚刺激の存在や変化などに気づくこと、あるいは気づいている状態のことを指す。心の哲学では「気づき」とは「言葉による報告を含む、行動の意図的なコントロールのために、ある情報に直接的にアクセスできる状態」のことであると議論されている。気づきの脳内メカニズムを解明するために、さまざまな現象(閾下知覚変化盲両眼視野闘争など)が用いられており、ある対象への気づきの有無に対応した神経活動がさまざまな脳領域から見つかっている。

気づきとは

認知神経科学の文脈での「気づき」は英語のawarenssの訳として用いられ、外界の感覚刺激の存在や変化などに気づくこと、あるいは気づいている状態のことを指す。「気づき」awarenessという語は「意識」consciousnessという語としばしば同義に用いられることがあるが、「気づき」という語は意識のうち、現象的な側面ではなくて心理学的側面、つまり行動を説明づける基盤としての心的概念としての意識を強調するために用いられる。

心の哲学の研究者であるデイヴィッド・J・チャーマーズ[1]によれば「気づき」とは、「言葉による報告を含む、行動の意図的なコントロールのために、ある情報に直接的にアクセスできる状態」(訳書p.281より改変)のことを指す。気づきの対象は外界だけではなく、自分の体の状態や、自分の心的状態であることもある。この定義に基づけば、気づきには言語報告は必須ではないため、人間以外の動物にも気づきはあり得る。

以上のような「何らかの対象に気づいている」(be aware of)という意味での気づきとはべつに、覚醒状態としての気づき(be aware)とがある。状態としての「気づき」は、意識障害の診断における、昏睡植物状態最小意識状態覚醒状態の区別をするための指標[2]で定義される。こちらの用法の場合には「気づき」と「意識」とは区別せずに用いられている。

気づきの視覚心理学

なにか対象に気づいている、という意味での「気づき」を心理学的に研究するためには、気づきと知覚情報処理とが乖離する現象を取り扱うのが一つのストラテジーである。以下、視覚心理学での知見を紹介するが、同様な現象は他の感覚、たとえば聴覚、触覚などでも見られる。

たとえば、閾下知覚(implicit perception)では、気づきがまったく見られないのにも関わらず、刺激情報を処理している。 閾下知覚の例の一つとして、マスクによるプライミング効果(masked priming)[3][4]が知られる。

また、知覚的には非常にサリエンシーが高いものかなかな気づくことが出来ないという現象として、変化盲(Change blindness)[5]不注意盲(Inattentional blindness)[6] (いわゆる「バスケット・コートのゴリラ」)などが知られている。

また、物理的にはまったく同一の刺激に対して、あるときは気づくがあるときは気づかない、という条件を誘導することが可能である[7]。このような条件を誘導するためには大きく分けて二つの方法がある。

  • 多重安定性の知覚 (Multistable perception)
両眼視野闘争(binocular rivalry)[8]運動誘発盲(motion-induced blindness)[9]などのように、知覚的には非常にサリエンシーが高いものが一定期間見えなくなったり、また見えるようになったりと気づきが交代する現象。
  • 閾値近辺での知覚 (Near-threshold perception)
提示する刺激強度を弱めて検出閾値ぎりぎりにすると、まったく同一の刺激が、ある試行では検出に成功する(気づきがある)のに対して、ある試行では検出に失敗する(気づきがない)という条件を作ることが出来る。前述のマスクによるプライミングの条件では、刺激の提示時間を非常に短くすることによって検出閾値近辺での知覚を見ている。

気づきの脳内メカニズム

上記の「気づきの視覚心理学」での知見は脳内メカニズムの解明にも活用された。たとえば、上述の意味的プライミング効果(semantic priming)を用いることで、文字刺激の気づきの有無が脳内のさまざまな領域の活動を変えることが明らかになっている[10][11]

上記の多重安定性の知覚および閾値近辺での知覚の条件を用いて、ある刺激に気づいているときと気づいていないときとの違いに対応した脳内活動を検出するという試みが数多く為されてきた。たとえば、多重安定性の知覚についての機能イメージングについてはGeraint Reesらの総説でまとめられている[12]。閾値近辺での知覚については、たとえばHeegerらによる初期視覚野の応答についての機能イメージングの仕事がある[13]

動物を用いた実験で単一神経活動記録を用いてこのような気づきの神経相関を見つけ出した仕事も複数ある。

  • 両眼視野闘争の条件を用いて、動物が左右の眼どちらに提示したものが見えているかを報告させる課題を行っているときに側頭連合野からの神経活動を記録すると、神経活動は何が見えているかに対応して活動を変える[14]
  • 第一次視覚野のニューロンの集団活動は、検出課題の成功(気づきがある)と失敗(気づきがない)とによって、視覚応答の比較的遅い成分(潜時が100 ms以上のもの)に違いが見られる[15]
  • マスクによるプライミングを用いた課題によって、前頭眼野([[frontal eye field]: FEF)の応答が、検出課題に失敗した試行(気づきがない)では検出課題の成功した試行(気づきがある)と比べて活動が低下する[16]
  • 閾値近辺の触覚弁別課題において、内側運動前野の応答が、検出課題に失敗した試行(気づきがない)では検出課題の成功した試行(気づきがある)と比べて活動が低下する一方で、初期体性感覚野ではそのような差が見られない[17]

気づきの神経心理

意識障害は覚醒状態としての「気づき」を失った、もしくは低下したものと捉えることが出来る。

また、脳損傷によって対象への「気づき」を選択的に失った疾患がある。

たとえば、半側空間無視では脳損傷と対側の視野や体位の刺激を無視する。これは視覚機能自体が正常に保たれている場合でも起こる。また、無視の起こる部分は必ずしも網膜依存的座標によっては決まらない。また知覚刺激だけではなく、記憶像においても無視が起こる場合もある(representational neglect)。半側空間無視は注意の障害ではあるが、世界の半分への気づきを失っているという意味では気づきの障害の一種である[18]

盲視では、脳損傷と対側の視野の視覚刺激の意識経験が失われているにも関わらず、その視覚情報を強制選択条件などにおいて利用することが出来る。よってこの現象は「意識のない気づき」と捉えることも出来る。このことは意識がどのようにして生まれるのかという問題において解決しなければならない難問となる。なぜならば、もし意識と気づきが同じものであるならば、心理学的な気づきの解明が現象的な意識の解明となるのに対して、もし意識と気づきがべつものであるならば、心理的な気づきの解明は現象的な意識の解明とはならないからだ。しかし、前述のデイヴィッド・J・チャーマーズ[1]は、盲視では強制選択条件のような特殊な条件でのみ視覚情報が利用可能であるということは、包括的なコントロールに情報を直接利用することが出来ていないとして、盲視では意識もなければ気づきもない、もしくは弱い意識と弱い気づきがある、ゆえに盲視は必ずしも意識と気づきの乖離を示しているとは言えない、と議論している(訳書 p.283)[1]

「暗黙の」気づき

「気づき」を行動で表すことが出来なくても、脳活動を計測することによって外からの指示に気づきがあるという証拠を見いだすことが出来る。植物状態 (vegetative state)の患者にテニスをしているところを想像してもらうように指示したところ、補足運動野(supplementary motor area: SMA)での脳活動の上昇が機能的核磁気共鳴画像法 (functional magnetic resonance imaging: fMRI)によって検出された[19]。この現象のことを「暗黙の」気づき(covert awareness)[20]もしくはcovert consciousness[21]と呼ぶことがある。

また、盲視(blindsight)や閾下知覚(implicit perception)のことの総称としてcovert awarenessという表現をすることもある[22]。しかしこのときのawarenessは知覚(perception)とほとんど同義である。

参考文献

  1. 1.0 1.1 1.2 D.J. Chalmers
    The Conscious Mind: In Search of a Fundamental Theory
    Oxford University Press.: 1996 (2001, 林 一訳 『意識する心』 白揚社)
  2. Joseph T Giacino, Kathleen Kalmar, John Whyte

    The JFK Coma Recovery Scale-Revised: measurement characteristics and diagnostic utility.
    Arch Phys Med Rehabil: 2004, 85(12);2020-9 [PubMed:15605342] [WorldCat.org]

  3. A J Marcel

    Conscious and unconscious perception: experiments on visual masking and word recognition.
    Cogn Psychol: 1983, 15(2);197-237 [PubMed:6617135] [WorldCat.org]

  4. A J Marcel

    Conscious and unconscious perception: experiments on visual masking and word recognition.
    Cogn Psychol: 1983, 15(2);197-237 [PubMed:6617135] [WorldCat.org]

  5. Daniel J Simons, Ronald A Rensink

    Change blindness: past, present, and future.
    Trends Cogn. Sci. (Regul. Ed.): 2005, 9(1);16-20 [PubMed:15639436] [WorldCat.org] [DOI]

  6. D J Simons, C F Chabris

    Gorillas in our midst: sustained inattentional blindness for dynamic events.
    Perception: 1999, 28(9);1059-74 [PubMed:10694957] [WorldCat.org]

  7. Chai-Youn Kim, Randolph Blake

    Psychophysical magic: rendering the visible 'invisible'.
    Trends Cogn. Sci. (Regul. Ed.): 2005, 9(8);381-8 [PubMed:16006172] [WorldCat.org] [DOI]

  8. Randolph Blake, Nikos K Logothetis

    Visual competition.
    Nat. Rev. Neurosci.: 2002, 3(1);13-21 [PubMed:11823801] [WorldCat.org] [DOI]

  9. Y S Bonneh, A Cooperman, D Sagi

    Motion-induced blindness in normal observers.
    Nature: 2001, 411(6839);798-801 [PubMed:11459058] [WorldCat.org] [DOI]

  10. S Dehaene, L Naccache, G Le Clec'H, E Koechlin, M Mueller, G Dehaene-Lambertz, P F van de Moortele, D Le Bihan

    Imaging unconscious semantic priming.
    Nature: 1998, 395(6702);597-600 [PubMed:9783584] [WorldCat.org] [DOI]

  11. S Dehaene, L Naccache, L Cohen, D L Bihan, J F Mangin, J B Poline, D Rivière

    Cerebral mechanisms of word masking and unconscious repetition priming.
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  12. Philipp Sterzer, Andreas Kleinschmidt, Geraint Rees

    The neural bases of multistable perception.
    Trends Cogn. Sci. (Regul. Ed.): 2009, 13(7);310-8 [PubMed:19540794] [WorldCat.org] [DOI]

  13. David Ress, David J Heeger

    Neuronal correlates of perception in early visual cortex.
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    The role of temporal cortical areas in perceptual organization.
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    Two distinct modes of sensory processing observed in monkey primary visual cortex (V1).
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    Neuronal correlates of subjective sensory experience.
    Nat. Neurosci.: 2005, 8(12);1698-703 [PubMed:16286929] [WorldCat.org] [DOI]

  18. J Driver, J B Mattingley

    Parietal neglect and visual awareness.
    Nat. Neurosci.: 1998, 1(1);17-22 [PubMed:10195103] [WorldCat.org] [DOI]

  19. Adrian M Owen, Martin R Coleman, Melanie Boly, Matthew H Davis, Steven Laureys, John D Pickard

    Detecting awareness in the vegetative state.
    Science: 2006, 313(5792);1402 [PubMed:16959998] [WorldCat.org] [DOI]

  20. Adrian M Owen, Martin R Coleman, Melanie Boly, Matthew H Davis, Steven Laureys, John D Pickard

    Using functional magnetic resonance imaging to detect covert awareness in the vegetative state.
    Arch. Neurol.: 2007, 64(8);1098-102 [PubMed:17698699] [WorldCat.org] [DOI]

  21. George A Mashour, Michael S Avidan

    Capturing covert consciousness.
    Lancet: 2013, 381(9863);271-2 [PubMed:23351798] [WorldCat.org] [DOI]

  22. A Cowey

    MacCurdy and memories: the origins of implicit processing and covert awareness.
    Brain Res. Bull.: , 50(5-6);449-50 [PubMed:10643478] [WorldCat.org]


2013年02月25日

トノーニの「意識の統合情報理論」について:勉強前の素朴な疑問

ジュリオ・トノーニが来るワークショップ "Measuring Consciousness - Theory and Experiments"は京大で3/25開催。参加費無料、申し込み手続き不要。


トノーニの'Phi'本がアマゾンから到着。原価30ドルだけどアマゾンでは1300円。お買い得(<-ステマ乙)。さっそく開いてみたが、ほとんどの見開きページに図が入っていてしかも図はファインアートだったりでむちゃくちゃ格好いい。フランシス・クリックの写真なんか、トリミングして眼のところだけにしてあったりして、ちゃんとデザイナーの仕事が入ってる。一見脳の本とは思えない。美意識徹底してるわ。

fMRIのアクティベーションの図を一つ見つけたけど、それが無粋に見えるくらい。数式も気づいたのはシャノンのエントロピーの式一つだけ(p.145)。糸綴じのハードカバーで紙質もよく、装丁も美しい。これは研究室で読む本というよりは自宅の書斎(そんなものねえorz)で読む本だな。


トノーニ本や論文読むとかの作業は3/25シンポの一週間くらい前から始めることにして、いまはほかのものにとりかかることにする。そういう意味でほんとに聞きかじり状態の現状での私が持っている統合情報理論についての素朴な疑問を書き連ねておく。

まず、トノーニの理論の大元はジェラルド・エーデルマンとともに行った仕事なので、thalamocortical loopを中心とした「意識のunity統一性」に重点を置いたモデルであると理解している。

Baars-Dehaene–Changeuxのglobal (neural) workspace modelではworking memory = consciousnessとなっていて、これはほとんどaccess consciousnessのほうのモデルなんだと思うのだけど、Edelman -Tononiも基本的には同じ系列だと思っていた。

だからPhi自体は意識のunityを説明するための指標であって、これはawakeかcomaかsleepかといった「stateとしての意識」の議論に関わっていて、両眼視野闘争やMIBのような意識のcontentについてなにかを言っているのか?という疑問があった。

ところがもっとあとになってTononiは"qualia space"という概念を出してきている。このあたりからはまったく議論を追えてないけど、どうやらstateだけではなくてcontentについてもなにか言おうとしているようだ。

Stateとcontentの議論を続けると、クリストフ・コッホがIITについて紹介しているScientific americanの記事で強調していたのはdifferentiationとintegrationの両方を脳が扱っているということをどう捉えるかということだった。ではIITがintegration (state)のほうだけでなく、differentiation (つまりはcontent)をどう扱っているだろうか、というのが私が興味を持っていること。


それからもう一段議論のレベルを変えると、トノーニの理論は「情報理論」に依拠したものなので、「情報」っていったい何よ? ってことになる。本当はこういうことにいちばん興味がある。「情報」とは観察者側から見たときにしか作り得ないし、力学系ではなくて確率論の世界に入る。

「情報」を取り扱うためにはその有機体がstateを持つ必要がある。「サーモスタットは意識を持つか」という問いを情報理論に依拠して議論するとき、サーモスタットがonであるstateとoffであるstateとを区別するのが観察者であってサーモスタットであるのならば、それはサーモスタットにとっての情報じゃあない。

これはメタ認知がどうのという問題とはたぶん違ってる。ぼくらは個々のニューロンのstateをモニターしているわけではないから。

そういう意味で、トノーニの理論には「環境と有機体の交互作用によってgenerativeに情報が生まれる」という視点があるかどうかに興味がある。

フリストン自由エネルギーには明示的にはそのような視点はないが、ヘルムホルツ的知覚をどうやって発生の段階で作るか、ということを考えたらたぶんどっかで必要になってくるはず。完成型だけを見ていたらたぶんわからない。でもこれはIITでも同じはずだ。

…というあたりが現在の理解。シンポジウムの当日までにここからもう少し進めておきたいと思う。


シンポジウムでの自分のトークのまとめ方で考えているのは、上丘でのNeural correlate of awareness (Hit vs. Miss)が皮質でのNCA (LammeとかHeeger)とどう質的に違っているかをIITは説明することができるのか?と問題提起にする。


2013年02月18日

トノーニの「意識の統合情報理論」について:大泉匡史さんからのコメント

ジュリオ・トノーニが来るワークショップ "Measuring Consciousness - Theory and Experiments"は京大で3/25開催。参加費無料、申し込み手続き不要。

前回のエントリのつづきで、京大意識イベント"Measuring Consciousness - Theory and Experiments"について。いまトノーニのラボに在籍していて、今回のシンポジウムのオーガナイズを一緒にやっている大泉匡史さん(ウィスコンシン大学、理研BSI)からツイッターでコメント(このあたり)をいただいたので、許可を得て転載します。ここから:


IITに関しての吉田さんのつぶやきは非常に率直で参考になったのだが、一点だけ補正しておきたい。「経験的事実からではなくて、情報理論的に天下りにphiというのを持ってきたのが特徴」というのは私の理解とは違っていて、むしろ経験的事実から考え出したのがphiという量である。

経験的事実からかけ離れている理論であれば、Christof KochがIITを”the only really promising fundamental theory of consciousness”とは評価しないだろうし、自分も今Tononiのところにいるということはないだろう。

もちろん経験的事実をベースにしながらも、「飛躍」は存在しているが、飛躍をできる創造力と勇気がある人が優れた理論家であると私は思う。理論の「飛躍」が正当化されるかどうかは実験的検証を待たなければならなくて、それが今自分がやろうとしていることである。

ただ重要なのは、吉田さんや多くの人がIITを「なんかよく分からない」理論と思っているということにある。実際自分も初めて論文を読んだ時は「なんかよく分からなかった」し、途中で何度も読むのをやめようと思ったほどである。これをどうすれば解消することができるかを考えたい。

原因の一つは、書いてある数式がいまいち良く分からないという点にあると思う。それが吉田さんの「情報理論的に天下りにphiという量を持ってきた」という印象を与えてしまっているのにもつながっている気がする。

誤解を恐れずに言ってしまえば、IITの論文に書いてある数式自体はある種どうでもいいものである。これを理解するのに時間、注意がとられてより重要なメッセージを逃してしまうのがもったいないと思う。はじめは式やシミュレーションなどは無視してもいいかもしれない。

論文の中で最も重要なのは、Tononiがなぜphiという量を意識に関連する重要な量と考えているかを読み取ることにある。といってもこれは論文に書いてあるといっても、ぴんとくるかどうかはまた別問題で、自分もTononiの真意が分かってきたのはここ最近のこととである。

というわけで、IITはまず論文を一度読んですぐ面白さがぴんとくるという類のものではないと思う。少なくとも自分はすぐには分からなかった。自分でじっくり時間をかけて考えたのと、Tononi本人からたくさん話を聞いてやっと自分なりの理解が得られたという次第である。

今回のワークショップでは吉田さんにIITの意味を分かってもらうことを自分の中の目標にしたい。ただ、意味を分かってもらうというだけで、それをpromisingな理論として評価してもらうというわけではない。

今回のワークショップが終わった際に吉田さんのIITへの評価が変わらなかったとしてももちろんオッケーで、十分有り得ることだが、どこが納得いかないかなどを議論できることが有意義であろうと思う。

最後に優れた理論とは何かということで補足すると、優れた理論とはその理論を基に多くの研究が行われ、科学が進展する理論のことであると思う。もちろんその理論が「正しい」のであれば一番良いが、仮に「間違って」いたとしてもその過程で科学が進歩すればそれは優れた理論と思う。

その意味ではIITは優れた理論だと私は思っていて、それが正しいとか間違っているとかに関しては二の次位に思っている。そもそも科学の中で「完璧に正しい」理論というものはなくて、「ほどほどに正しい」理論が生き残って、それが徐々に「より正しい」理論に置き換えられ進歩していくと思うので。


以上です。大泉さん、どうもありがとうございました。

ジュリオ・トノーニが来るワークショップ "Measuring Consciousness - Theory and Experiments"は京大で3/25開催。参加費無料、申し込み手続き不要。


2013年02月14日

3/25に京大でジュリオ・トノーニと意識のシンポジウム

大泉さん@oizumimから情報が出たので宣伝開始。ジュリオ・トノーニが3月に来日する際にシンポジウムを開催します。"Measuring Consciousness - Theory and Experiments" 吉田もオーガナイザー及び講演者として参加。

ジュリオ・トノーニは睡眠の仕事で有名。たとえば睡眠中にTMS打ってeffective connectivityを見た、Massimini et.al.のScience 2005 "Breakdown of Cortical Effective Connectivity During Sleep"とか。

だけど、基本精神科医で、しかしジェラルド・エーデルマンと90年代にcomplexity measureというのを出してるのがキャリアの始まりか。たとえばScience 1998

トノーニはASSC(国際意識学会)の前presidentでもあって、意識研究に深くコミットしている。ちなみに現presidentはVictor lamme。

トノーニは前述のcomplexity measureというのをさらに深めた結果「意識の統合情報理論」(Integrated Information Theory: IIT)というのを提案している。基本文献はこれ:"Consciousness as Integrated Information: a Provisional Manifesto" ほかにもwikipediaの"The Integrated Information Theory"の項とか。

これは脳が局所的に活動しているのではなくてグローバルに活動している度合いを評価しようというもので"phi"という値で定量化される。一時期「意識高い就活生」ネタが流行ったことあったけど、その頃には「よしphiで定量化しよう」というネタが一部で流行った。

トノーニは最近その名も"Phi"というタイトルの本を出版して、ガリレオに意識を語らせる、みたいななんかすごげなことを書いているらしいが、読んでないんで正直分からん。

統合情報理論がどのくらいpromisingかというと正直よくわからんのだが、経験的事実からではなくて、情報理論的に天下りにphiというのを持ってきたのが特徴で、私の印象としては、まあよくわからんがとにかくempiricalに検証してみればいいんでは?というかんじだった。

以前書いたブログの記事(20081017)ではもっと懐疑的なスタンスで書いていた。

いっときクリストフ・コッホもさんざん宣伝していた。トノーニと共著でいくつか書いてる:"The Neural Correlates of Consciousness An Update"、それからScientific Americanの"A Test for Consciousness"。後者は日経サイエンスに訳が出てる。

それで、ASSC14のときにクリストフ・コッホが統合情報理論を解説するトークを聞いたのだけど、結局のところ実際にphiを計算しようとすると、ほ乳類の脳のような複雑なシステムでは事実上不可能であるということを知って、正直そのあたりで私の興味は低下した。

しかし、Anil SethがPLoS Comp Biol 2011に"Practical Measures of Integrated Information for Time-Series Data"というのを出したり、さらに大泉さん@oizumimがphiを実際の脳データ(ECoG)でも計算できるような簡便なものにするという仕事を進めている。ASSC15での要旨 およびLISA2012の記事「温度計に意識はあるか?」

そんなこんなで、また興味が戻ってきたのだが、とにかくよくわからんので、この機会に理解したろう、というのが私のいまの意気込み。

今回のシンポジウムは大泉さん->北城さん(理研繋がり)->水原さん(新学術繋がり)、大泉さん->吉田(ASCONE繋がり)みたいなかんじで広がっていって、この四人で企画をオーガナイズした。あとは東大の四本さん、多賀さんと多賀さんのラボの笹井さん、というのが講演者の顔ぶれ。

年度末のこの時期であるにも関わらず、津田先生の新学術のサポート(ヘテロ複雑システムによるコミュニケーション理解のための神経機構の解明 )をいただくことができたのでここでお礼申し上げたい。

会場は京大 総合研究 8 号館 1 階 講義室 1 ( http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_y.htm の59番の建物)。参加費無料、参加登録不要。会場は120人くらい入るとのことなのでキャパ的にはよっぽど大丈夫でしょう。

というわけでカムカム・エブリバディー。 https://sites.google.com/site/consciousnessworkshop/


2013年01月11日

駒場集中講義「意識の神経科学」レジメアップしました

駒場集中講義「意識の神経科学」今日は二日目、最終日です。1月11日(金)3・4限(13:00-16:20)、講義室は駒場キャンパス15号館4階409号室。レジメアップしておきました。

広域システム科学特殊講義Ⅴ 「意識の神経科学」ハンドアウト from Masatoshi Yoshida

昨日の感想としては、時間的にはそれなりにうまくいったが、もっと準備かけてわかりやすくすることはできた。あと三連続は疲れる。第3回目は話が雑になっていた。体力重要。

第5回目はかなり意欲的に盛り込んでいるのだけれども、うまくまとまるかどうか。いまからあと5時間でなんとかするところ。ではまた。


2013年01月09日

信号検出理論の解説

駒場集中講義「意識の神経科学」いよいよ明日、明後日となりました。1月10日(木)3・4・5限(13:00-18:00), 1月11日(金)3・4限(13:00-16:20)、講義室は駒場キャンパス15号館4階409号室。

信号検出理論の説明をアップデートしました。要は、信号検出理論とはcriteriaを学習するだけのrecognition modelではなくて、信号の分布をgaussianで近似してそのパラメータ(d', c)を推定するgenerative modelですよ、って話。これをなるたけ説明飛ばさずにステップごとに図を作ってる。枚数多いのはそのため。英語だけどまあ分かるんではないでしょうか。

信号検出理論の解説 (Singla detection theory primer) from Masatoshi Yoshida

ひきつづきレジメなどもアップする予定。明日の朝あたりを目標に。それではまた。


2013年01月04日

大学院講義準備中 / 応答潜時と正答率をモデルするdiffusion model

駒場集中講義「意識の神経科学」吉田正俊(生理研)は1月10日(木)3・4・5限(13:00-18:00), 1月11日(金)3・4限(13:00-16:20)、講義室は駒場キャンパス15号館4階409号室。学務情報:広域システム科学特殊講義Ⅴ

なお、講義は英語で行いますが、途中質問タイム多めにとって(日本語質問可)、脱落しないように話をする所存。あとトピックごとの構成なので部分的に聴講しても意味が分かるようにする予定。(努力目標)


正月明けて、駒場集中講義モードへ。研究所所属の者としては、この講義をいいものにして、「教育歴」として胸を張れるようにしたい。そういうわけできっちり仕上げていくつもり。

以前「次回の駒場の大学院集中講義 90min * 5 「意識の神経科学」の構想を練る」というエントリを書いたけど、それがかなり形が見えてきた。思案していたのは、「盲視」をどのように使うかだったんだけど、第一回の講義から導入する。

構成としては、

  1. 意識とは何か。気づきの神経相関。盲視概説。
  2. 気づきを測る: 信号検出理論、意志決定。
  3. 注意の神経ネットワーク、半側空間無視、サリエンシーモデル、予想コード 。
  4. 二つの視覚システム仮説、盲視詳細。
  5. Enactive view / Active vision。内部モデル。可塑性と意識。

こんなかんじだったんだけど、それぞれのところで、私の盲視の話を織り込む。実際問題、今回の五つのテーマはみな盲視のことを明らかにするために使った道具立てだ。これを軸にして話をするのがいちばん分かっていることを話すことになると思うし、話の統一性が出るだろう。浅くあれもこれもではなく。

たとえば、

  1. ではhit-missの比較を盲視でやっている。
  2. ではyes-no detectionとfored choiceとでのd'の乖離についての議論をする。普段ここまでやるのは難しいが今回は出来る。
  3. ではサリエンシーモデルの応用についてのカラバイの話をする。
  4. ではJNS2008以降の仕事でヒトとサルとの話を整理した上で話をする。いま書いてるBrain and Nerveの原稿での議論を持ってくれば、解剖学についても話をすることが出来るだろう。
  5. をどうするかが難しいところだったのだけれども、Alva Noeの話とかは最後にして、もっとactive vision的なもの、たとえばsaccadic suppressionとかSommer and Wurtzのefferece copyの話とかそっちからempiricalに攻めていくことにしたい。頭頂葉の話SugrueとかHaggardとかそっちも行きたいが、あんま手を伸ばすと浅くなってしまうだろう。このへんはスライド並べてギリギリまで思案することにする。そのうえで、JNS2008で「なんでV1 lesionするとサッカードのコントロールが出来なくなってしまうのか」についてのinternal model仮説まで持ってく。

これで盲視を軸にして視覚と眼球運動を中心にしたストーリーにすることが出来る。たぶんこれでいける。


というわけで講義の準備中。視覚刺激への応答の意志決定過程を説明するdiffusion modelのムービーを作ってみた。

たとえば、画面の上下どちらかの場所に視覚刺激が点灯するのでそれをなるたけ早く選択する。このような二択の状況で応答潜時と正答率とを両方モデルするのがdiffusion model。

横軸が時間(ms)で、evidenceのシグナルはランダムウォークしながら蓄積してゆく。上の閾値(上)に辿りつけば正解(マゼンタ)。でも20試行目のように、たまには下の閾値に辿りつく。これは誤答(緑)。10000回繰り返すと、正答と誤答の応答潜時のヒストグラムが出来る。

ここで出しているのは反応閾値は+-20、slope(上方向への刺激の強度に相当)は0.15の条件。これらの値はランダムウォークのgaussianのSDからの相対値となっている。

このようなモデルを使って盲視サルでの応答潜時と正答率をモデル化して盲視ザルでの意志決定の過程を推定したのがJNS 2008(ブログでの解説はJNS論文「線条皮質の損傷は慎重な意思決定およびサッカードの制御に影響を及ぼす」)だった。



2012年10月17日

「外側である」ってどんなかんじかな?

okazaki.png

いつも使ってる絵だけど、盲視、というか同名半盲では、見えない右側の部分は暗黒(下)なのではなくて、端的に視野が狭くなっている(上)。自分の視野のなかで指先を動かして、視野の外に追いやってみてほしい。そこは暗黒ではなくて、端的に何もない、無であるということが分かるだろう。

視野の外がけっして「暗黒」ではなくて端的に「無」であるのと同様に、生の外は天国でもなければ地獄でもなって、端的に「無」だろう。その底のない無のなんにもなさを徹底的に思いを至らせるのもよい。そこに「なにかある感じ」を抱くのも生き物の特性だろうが、それはillusoryだろう。

okazaki_bk.png

視界の外に広がり(面積)はない。右の視界の切れたところから始まる無は左の視界の切れたところまで繋がっているとしても、その無の広がりを「経験」することは出来ない。360度から視野を差し引いて、みたいなのは推測であり、経験ではない。

広がりもなければ奥行きもない。つまり視野の外の無は「視覚的空間」ではない。視野の右端と左端とは無によって繋がっていない。これは当たり前のことではない。色の空間では、単一スペクトル光の青と赤とは視野の右端と左端のようなものだが、色では、紫を介して空間は閉じるように繋がっている。

これは何でかというと、色が三つの錐体を通して3次元空間を作っているのに、色環という二次元平面を考えているから。視野の空間は三次元を照らすサーチライトとしての円錐という、不完全な構造を持っている。

視覚ではふつう「無」は周りで埋められてしまう。それは盲点しかり、saccadic suppressionしかりで、我々の視野の「中」に穴が開くことは決してない。しかし我々の視野の「外」の無に対する対処法はどうやら違うらしい。それは埋められず、端的にないまま放っておかれる。

デネットは視野の中の穴は「埋められている」のではなくて、端的に放っておかれているのだというのだけれども、それは視野の中でも外でも同じルールに従っているという意味では納得いくかんじはある。視野の外が真っ黒にならないのと同様、盲点の中身はけっして真っ暗にはならない。

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# kohske

不可視光とか、非可聴域音とか、なんかいろんなものはもないままほっとかれますね。
立場を換えて、これをセンシング出来る奴らにとっては、ヒトはそこに何を感じてるのか、って問えるんだろうけど、その問は明らかにナンセンスだろう、とか、イーグルマンが意識は傍観者〜で書いてました。その通りと思います。

視野外の場合だけ決定的に違うのが、視野外に何かあることを我々が明らかに知っている、ということですかね。これは不思議なことです。
視野の縁を我々が自覚できる、という在り方も有りなのかと思うんですが、そうじゃない方が生きて行く上で何かと好都合なのかな。


2012年10月13日

次回の駒場の大学院集中講義 90min * 5 「意識の神経科学」の構想を練る


前回前々回と6月20日の駒場広域システム学部講義 90min * 2 「意識と注意の脳内メカニズム」のレジメを作ってアップしてみました。

今度は冬学期に大学院の集中講義 90min * 5をやることになりました。広域システム科学特殊講義Ⅴ 「意識の神経科学」 1/10の3,4,5限 (13:00-18:00)、1/11の3,4限(13:00-16:20)です。 というわけで、構想をツイッターに書いたのをここにまとめてみる。(20120712バージョン)

教科書的に体系的に行くのにしてはそういうものもなかなか無いし(「意識の探求」から何章か選ぶとかはあり)、あんま不得意な部分をやるよりかは、自分の問題圏に沿って体系化するのにこの準備を使う方がよいだろう。

Anil Sethの「意識の神経科学」コースのアウトラインというのがあって、これは参考になる。

とりあえず前回まるまるはしょったのは、「意識と意志決定」の部分。つまり、信号検出理論をまったく出さないことにしたので、subjective thresholdとobjective thresholdとかそのへんの議論をまったくしていないし、ゆえにメタ認知とかの話もしてない。これとevidence accumulation的なアイデアとを合わせて、これで90min一コマまるまる必要。

Noe and Hurleyの議論(consciousness and gpasticity)の議論もけっきょくはしょって、次の日のラボトークに廻した。これは逆さ眼鏡、点字、TVSS、Surのフェレット、Ingleのカエル、それぞれ丁寧に説明したら90min一コマまるまる必要。

あと、Goodale and Milnerのdorsal-ventral説を、進化的側面から説明する。このためにはカエルでのvisionの話とかハトでの新しい経路と古い経路とか、比較解剖学的な説明を加えた上で、Goodale and Milnerにつなげる。G&Mだけでは浅い。

それから、implicit perceptionの話も完全にすっ飛ばしてる。Dehaeneのprimingとかあのあたり。でもこれはdirect measure/indirect measureって話と、exhaustive/exclusiveであるかみたいなMerikleの話とつなげて話した方がよいことでもあって、さっき書いたdecision/metacognitionの回とどう切り分けるか、ということを考える必要がある。

Predictive codingの話はほんのさわりだけだったから、もっと膨らます。Feature detector批判と、RGCとかいくつかの場所でのpredictive codingのempiricalな話をして、HohwyのBRの説明を持ってくるという感じ。

睡眠とかあのあたりはちと無理か。でも概論として、state of consciousness (VS, MCSを含む)くらいについては説明すべきか。でも概論を第一回に持ってゆくというのは退屈なものだから、焦点絞ってストーリー作る方がたぶん後に残るはず。

半側空間無視の話はほんとうは身体性とかagencyとか自由意志とかLibetの仕事とかあのへんとつなげてひとかたまりの話になるだろうけど、そこまで辿りつくかどうか心許ない。でもあんまりvisionに寄りすぎるのも本意ではない。そのへんはミルナー・グッデール回でやるべきか。

ということで、90min * 5が余裕で埋まってしまうことは想像が付いて、どう取捨選択して、どう弱い穴を埋めてゆくか、みたいなことを考えればよさそうだ。時期は1月なので、たまに思い出したときにでも少しずつ形にしていくことにする。

信号検出理論の説明というのはなかなか鬼門なので、それなりに準備してゆく必要がある。以前村上郁也さんが生理研に大学院講義に来たときに覗いたんだけど、なんかでGUIのスクリプト書いて、その場でd'が変わったらROC曲線はどう変わるか、閾値を動かしたらROC曲線のどこを動くか、ってのを実演していて、あれはいいと思った。

あと、ASCONE2007での私のレクチャーのときに現ブラウンの柴田さんがチューターとして、機械学習的な説明(これまでの経験から分布を作った上で、単回の刺激を分類する判別問題)をしてくれて、あれもいいと思った。

というわけで、このへんはパワポ書いておしまいってんではなくて、いろいろ仕掛けを作るべき。

Accumulator model系の話も、いつも論文にあるような図(ノイジーなdecisionシグナルが閾値に達して、分布が出来る)を書いておしまいだけど、あれもランダムウォークする過程を例示して繰り返しながらだんだんSRTの分布が出来るのとか実演したらけっこう印象深いはず。

まあ、だいたいこれまでの経験からすると、こうやって構想描いたことの半分も実現されないんだけど(もっと基本的な説明が必要であることが判明したりとかなんとか)、今回はそれでも直前にちょちょいと準備して終わりって分量ではないので、こうやってネタ帳つけておくこと自体は悪くないだろう。

GUIで実演ってMatlabでやるのがいちばん手っ取りばやいか。GUIDってじつはまったく使ったことがない。

TVSSをanimal modelでやって、plasticityの起こってる場所を追う、みたいなことを考えたことはあるけれど、触覚がどうも気に食わん、というより、Lomoが論文で出してくるニューロン活動が異常すぎて(視覚ニューロンの応答と違いすぎて)、なんか鬼門っぽい気がしてる。

Goodale and MilnerのDFさんの現象をanimal modelで再現する、というアイデアも前から温めているものの一つだけど、bilateral lesionする必要があるというところで躊躇している。二重感染法とかそのへんの方法論にうまく嵌るといいのだけれども。


そんなわけで、いままとめるとこんな感じだろうか(この予定は絶対変更あり):

  1. 意識とは何か、注意とは何か、概論、デモンストレーション。心の哲学、心理学による定義。気づきのneural correlate。
  2. 知覚と気づきを測る -- 信号検出理論、メタ認知、evidence accumulator model
  3. 注意の神経ネットワーク、半側空間無視、サリエンシーモデル、ベイジアンサプライズ、予想コード
  4. Implicit perception。二つの視覚システム仮説。
  5. 盲視。Enactive view of consciousness。可塑性と意識。

うーむ、ここまで全部しゃべれたら最高だが、それにこだわるよりは、かみ砕いてしゃべって、誰一人眠らせない、ということを目指したいと思う。あと三ヶ月か…


2012年10月11日

駒場講義レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(2) 意識

前回の続きで、6月20日の学部講義 (教養学部広域科学科、生命・認知科学科「システム科学特別講義II」) のレジメの後半です。


意識と注意の脳内メカニズム(2) 意識

[What is consciousness?]

Let's start from a common-sense definition, not from an analytic definition. (John Searle)

Example: Water

  • A common-sense definition: water is a clear, colourless, tasteless liquid, it falls from the sky in the form of rain, and it is the liquid which is found in rivers and seas.
  • An analytic definition: H20

A common-sense definition of consciousness:

consciousness refers to those states of sentience or awareness that typically begin when we wake from a dreamless sleep and continue through the day until we fall asleep again, die, go into a coma …

[Two kinds of consciousness]

  • Access-consciousness (= awareness)
    • functional, psychological aspect
    • availability for use in reasoning and rationally guiding speech and action
  • Phenomenal consciousness (= qualia)
    • experience;
    • the phenomenally conscious aspect of a state
    • what it is like to be in that state

このふたつが独立したものであるということを前提しているわけではない。(「同じものの二つの側面」でよい)

「Qualia」という言葉は両者が独立していることを含意している。だから私はこの言葉はなるたけ使わない。

[What is awareness?]

David Chalmers (1996)による定義

  • 「われわれがなんらかの情報にアクセスできて、その情報を行動のコントロールに利用できる状態」
  • 「心理学的な意味での意識」

[Neural correlates of awareness]

An experimental manipulation is required by which a visual input is constant but perception of that visual stimulus varies.

  • Bistalble stimuli + Discrimination
  • Near-threshold stimuli + Detection

[Neural correlates of awareness (1): bistable percept]

デモ:両眼視野闘争

両眼視野闘争では、視覚刺激は同一であるにもかかわらず、「なにが見えたかの報告」=「気づき」(awareness)だけが変化する。

「気づき」の違いに対応したニューロン活動を見つければ、それは”neural correlates of awareness”であると言える。

Activity of IT neurons reflect the monkeys’ perceptual report. This is a strong evidence that IT neurons represents content of subjective experience.

Does it reflect visual awareness?

  • It can reflect a process of selective attention of competing objects.
  • Sheinberg and Logothetis wrote:
the phenomenon of binocular rivalry is also a form of visual selection this selection occurs … even in the absence of explicit instructions to attend to one stimulus or the other.

Attention can be manipulated externally.

  • Visual search – stimulus configuration
  • Posner cueing task – precue

(より正確に言うと、「precueによって応答潜時が早くなったりしたときに、precueにattentionの効果があった」と言うべきで、「precueがattentionを引き起こす」といった言い方はattentionを実体化しているので正しくない。)

On the other hand, Awareness can be modulated as a random variation.

  • Bi-stable stimuli – temporal variation
  • Operationally, they are different entities.

[Neural correlates of awareness (2): Near-threshold stimuli]

In the detection task, subjects are required to answer whether the sensory stimulus is present or absent.

Key comparison is Hit vs. Miss.

Strong modulation between Hit and Miss in early visual cortex (V1, V2, V3). (Ress D and Heeger DJ. 2001)

[Attention and awareness]

  • Bi-stable stimuli + discrimination
    • Always accompany selection of multiple objects
    • Confounded with selective attention
  • Near-threshold stimuli + detection
    • Always accompany trial-by-trial variation
    • Confounded with sustained attention (= arousal)

[What is consciousness?]

Awareness (=「気づき」) ではなくてconsciousness (意識経験)のことを明らかにしたいのだったら、少なくとも視覚情報処理と意識経験とを分離して扱うべき。

  • Implicit perception (閾下知覚) (今回省略)
  • Visual agnosia (視覚失認)
  • Blindsight (盲視)

[Two visual system hypothesis]

視覚の腹側経路と背側経路

Optic ataxia (視覚性運動失調)

  • Bilateral damage in dorsal visual pathway (Balint's syndrome)

Visual form agnosia (視覚失認)

  • Bilateral damage in ventral visual pathway (LO)

スリットの角度がどう見えるかの報告 (=「気づき」)と
スリットの向きにカードを入れる行動 (=「視覚運動変換」)
は脳のべつのところで担われている。

Case report: subject D.F.

  • Hypoxia from CO poisoning at 34 yrs old in 1988
  • Bilateral cortical damage in the ventrolateral occipital region, sparing V1
  • Most salient symptom was visual form agnosia

Perception & visual experience of D.F.

  • Degraded contour perception
  • Retained memory for form
  • She has difficulty describing her visual experience, only saying that objects tend to appear 'blurred' and that separate elements 'run into each other'.

[Blindsight (盲視)]

「盲視」とはなにか?

  • 第一次視覚野(V1)の損傷によって、視覚的意識が失われているにもかかわらず、随意的な視覚誘導性の自発的行動の機能が残存している現象。

進化的に古い脳が機能回復に関与する

  • 盲視は大脳皮質損傷によって原始的な脳(「カエル脳」)が甦える現象なのだ。

「盲視」からわかること

  • 「赤い点が見えるという経験」(「視覚意識」「赤の赤らしさ」「クオリア」)と「赤い点がどこにあるか当てる」(視覚情報を元に行動する)は別物であり、前者には視覚野が関わっている。

心の哲学での「盲視」

  • 「哲学的ゾンビ」の可能性
    • すべての知覚・運動の情報処理の機能はふつうの人間とまったく同じであるにもかかわらず、現象的意識はまったくない

では、本当の盲視とはどんなものだろうか?

Case report: GY

  • G.Y.は22歳の男性(1980年現在)で、8歳のときに交通事故で左半球を損傷して右半視野がblindになった。
  • 事故直後の診断でほとんど完全のhomonymous hemianopiaと診断。
  • 事故後14ヶ月経っても視野にはほぼ変化がなかった。
  • 事故の後は左視野にある物体を検出、認識することができず右視野がまったく見えないと自分では思っていた。

患者G.Y.さんの視覚能力

  • 単純な図形の弁別 (DB)
  • 動きの識別

[Blindsight in monkey]

  • どうして動物モデルの作成が必要か?
    • 限局した損傷を作成することが可能。(<==>ヒト患者)
    • 行動や脳活動を詳細に分析することが可能。 (<==>ヒト患者)
  • 研究の意義
    • 医療への寄与:同名半盲での機能回復の可能性
    • 意識の解明:気づきを他の視覚情報処理と分離する。

ニホンザルでの機能回復トレーニング (Yoshida et.al., JNS 2008)

このサルは盲視じゃなくて、視覚が回復して見えるようになっただけじゃないの?

  • 強制選択条件での位置弁別(discrimination)は上手。
    • 盲視の能力を持っている。
  • 刺激の有無を報告するのが下手。=> 検出(detection)能力の低下
    • ヒト盲視と同様、やっぱり見えてない!

Saliency in blindsight (Yoshida et.al., Curr. Biol. 2012)

  • 生活環境でも盲視は使えるか?
  • 外から指示されなくても視覚情報を利用できるか?
    • 生活環境でも盲視は使える。
    • ある意味で盲視は「哲学的ゾンビ」であると言える。
    • 盲視ではsaliencyが残っている。=>意識経験とサリエンシーはべつもの

[ハード・プロブレムのハードなところに直面する]

盲視 = カエルの意識? (省略)


2012年10月10日

駒場講義レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意

東大駒場の池上さんに誘われて、6月20日に教養学部広域科学科の学部講義で90分*2喋ってきました。(教養学部広域科学科、生命・認知科学科「システム科学特別講義II」)

これはいろんな人が毎週喋るオムニバス講義というもので、こんなリスト:

  • 5月9日 藤井 直敬  社会的脳機能を考える
  • 5月16日 茂木 健一郎 システム認知脳科学
  • 5月30日 國吉 康夫  身体性に基づく認知の創発と発達
  • 6月6日 多賀 厳太郎 発達脳科学
  • 6月13日 三輪 敬之  コミュニカビリティと共創表現
  • 6月20日 吉田 正俊  意識と注意の脳内メカニズム

ちょっと私が出てって大丈夫だろうかとビビりつつ、受講生の数は25人くらいということで聞いていたのでまあ気楽に、と行ってみた。そしたら、満員になって40人くらい(<-数えてやがる)となっていて、「意識研究」への興味が高いことをひしひしと感じました。

学部外から潜っている人がけっこういて、薬学部の後輩とか、あとなぜか藤井さんとかいたりして、なにやってんのと思いつつ悪い気はしない。

レジメを使ってブログのエントリを作ろうと思いつつずっと放置していたので、ここで思い立って作成してみました。これだけ読んでもあまり役に立たないかんじだけど、スライドを載せようとするといろんな図を使っているので許可取るのが手間なんでこのへんが労力的に最大限、ということで。まずは前半部から。


意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意

[意識と注意ってなんだろう?]

実例から始めてみよう。

  • Motion-induced blindness
  • Change blindness

非常に目立つ(salient)ものが消える。=> ちょっと見逃した、とかそういうレベルではない

  • 網膜に映っているものすべてを私たちは「見て」いるわけではない。
  • それにもかかわらず、私たちの視野には「穴」が開かない。
  • Attentionとconsciousnessとは密接に関係している。

[What is attention?]

William Jamesによる定義 (Principles of Psychology (1890))

It is the taking possession by the mind in clear and vivid form, of one out of what seem several simultaneously possible objects... It implies withdrawal from some things in order to deal effectively with others...

[注意の分類]

  • Selective attention: ability to focus on positions or objects (空間的)
  • Sustained attention: alertness, ability to concentrate (時間的)
  • Bottom-up: stimulus-driven (pre-attentive, pop-out)
  • Top-down: goal-directed

[Bottom-up vs. top-down attention]

ポズナー課題中の脳活動 (Corbetta)

  • Cueによってトップダウン注意を操作すると、視覚背側経路、視覚腹側経路の両方が活動する。
  • 脳の機能を理解するためには脳をネットワークとして捉えることが重要。

[半側空間無視]

半側空間無視とは?

  • 脳損傷と反対側の空間の感覚刺激(視覚、聴覚、触覚など) に対する反応が欠如・低下。
  • 感覚障害 (同名半盲)や運動障害 (片麻痺)によっては説明できない認知的障害。
  • 「自分の体とその周りの世界が半分なくなる。」
  • 「環境世界の中に位置する自己」の認知の障害。

原因部位はどこ?

  • 歴史的経緯: TPJ -> STG -> SLFII
  • 半側空間無視は脳内ネットワークの障害

半側空間無視の動物モデル

  • どうして動物モデルの作成が必要か?
  • SLFIIの損傷によって半側空間無視の症状を再現することができる。

[注意の計算論モデル]

Feature Integration Theory (Ann Triesman)から始まる

What is saliency map?

  • An explicit two-dimensional map that encodes the saliency or conspicuity of objects in the visual environment.
  • A purely computational hypothesis

サリエンシーマップの活用法

  • 視覚探索の成績を再現
  • MIBを評価する
  • ヒートマップの代替
  • サルの眼の動きを予測する

トップダウン注意はどうモデル化する?

[Bayesian surprise]

「サリエンシー」は二次元画像の中でどこが「目立つか」を「空間的配置」の中で評価する。

では、「時間的変動」の中でどこが「目立つか」を評価するにはどうすればよいだろう? => 「サプライズ」

(Itti and Baldiの説明。レジメでは省略。)

[Bayesian surprise and predictive coding]

ニューロンは特徴検出器(フィルタ,template)であるという考え (H. Barlow / Lettvin / Hubel and Wiesel)

でもニューロンの応答はすぐadaptする。=> サプライズ検出器なんじゃないか?

V1 response can be modeled by surprise (Itti and Baldi)

「予想脳」仮説

  • ヘルムホルツ的視覚観
  • サプライズ = ボトムアップ注意
  • 脳内のモデル = Conscious perception

2012年10月04日

「カエルである」ってどんなかんじかな?

カエルの視覚について調べてる。盲視について「カエル脳の復活」みたいなわかったようなことを言うわりにはカエルの視覚のことほとんど知らないことに気付いたから。

これまで知っていたのはせいぜい

くらいだった。

ところが、カエルの場合の二つのシステムというのはtectum(=上丘->orienting)とpretectum-thalamus(->avoidance)となっている。pretectumといいつつ、こっちはgeniculocortical系の前進なんだろって思ってた。

でもざっと調べてて、JP Ewertの一連の仕事があるってのを知った。Wikipediaだとこのへん:

神経生理学の仕事なんだけど、行動的にはニューロエソロジーなんで、出てくるジャーナルが違ったりして観測範囲から外れてた。

でもって、この図を見て混乱してきた。Pretectumからtectumにpresynaptic inhibitionが来ている。これ自体はIngleのもうひとつのScience 1973で分かっていたことをトランスミッターレベルで明らかにしたということらしいのだが、ともあれ、これでtoadのpretectum-thalamusをprimateのLGNとは同一視できなくなった。PrimateではSC->LGNという結合はあるが、LGN->SCは知られてない。

Goodaleの仕事にあるように、盲視ではobstacle avoidanceは残存している。(ただし、delayを入れるとその能力は消える) PNAS2009 これをIngleのストーリーとつなげようとすると、SC->orientingで、LGN->dorsal pathway またはSC->Pulv->dorsal pathwayでobstacle avoidanceなんて話になる。

Primateだとpretectumは視覚情報処理的にはあんまたいした仕事してないので(accommodationとかblinkとか)比較的無視されがちなのだけれども、盲視における役割として考えてみようと思う。

以前考えたことがあるのだけれども、盲視での「なにかあるかんじ」というのがなんらかの体の応答を(prorioceptiveに)モニタしている可能性というのはずっとあって、もしpretectumが寄与していて、accommodationとかがそのときに変わっているかもしれない。Pupil sizeの応答も知られてる。輝度揃えてもなるかは不明。

EwertのBBS1987ってのがあって、これは読む価値あるだろうけどアクセスできない。驚いたのはDaniel Dennettがこれにコメントしていることで、哲学者なのにすげー実験の知見を勉強している。

デネットのコメント、ざっと読んだが、要はホムンクルス/カルテジアン劇場批判で、カエルは単純な視覚運動変換しか持っていないのでZombieに見える。ヒトと脳はそんなには違っていないのだから、ヒトにホムンクルスがあるように思わせるのは脳ではなくてその行動なのだ、みたいな話か。(正確には、カエルの話だけに終始してる。) なんかカエルとprimateでの脳の可塑性の違いとかいろいろ突っ込みたいところはあるが、また読み返してみることにしてみよう。


2012年06月20日

盲視の感覚は視覚ではない。強いて言えば「盲視感覚」

盲視で起こる「なにかある感じ」とはなんなのかということがわかった気がする。ということで忘れぬうちにメモった。

つまりそれは左右逆転メガネで獲得した新しい感覚のようなもので、盲視では通常の視覚経験のその代わりに新たな感覚経験によって置き換えられたのだ。これを「盲視感覚」と呼びたい。「視覚」「聴覚」などと区別する意味で。

機能的に操作したのでは意味がない。感覚の空間的構造で考えるならばそれは上下左右のトポグラフィカルな構造を持っているという意味で視覚に近いと言えるが、それが指し示すもの(テクスチュア、色などの意識のcontent)を外界に投影した形で経験できないという意味では聴覚もほうがまだ近い。

共感覚は元の2つの感覚を指し示すことが出来るし、四次元色(SML+1)があったとしてそれは色だろう。もし視覚、聴覚、触覚といった感覚を機能を元に区別することを避けたとしたら、感覚質そのものの違いを使うか、その感覚の空間的構造を使うしかないだろう。

わざわざ別の感覚と分けて考えたいのは、この感覚ははっきりとしたものであるにもかかわらず、たまに裏切られるという特性を持っているからだ。Zekiはこの特性をgnosanopsia/agnosopsiaと読んだが、これがpost-decision wageringがうまくできない理由でもあるし、Yes-noとforced-choiceとで成績が乖離する理由でもある。つまり、一文で言うならば「盲視感覚はveridicalでない」ということなのだろう。

ここまで考えてみると、盲視での「なにかある感じ」が視覚なのかそうでないのかの議論自体は不毛であると言っていい。意識経験であるのは確かで、しかしそれがveridicalでないという意味で独特である、ここを解明するべき。

盲視がいわゆる哲学的ゾンビの例として適切でないことはデネットだってチャーマーズだってネッドブロックだって言っているので、いまどきそういうナイーブな人はいない。それでも盲視には意味があって、なんで我々は自分の感覚を信頼することが出来るのか、メタ認知と記憶と学習とにどっかで繋がる。(錯覚で裏切られたとしてもその場合にはこういうときは裏切られるってのがわかる。だからそれはべつもの。)

いままでの話はtype II blindsightの話しかしてなかったけど、type I blindsightは実在するし、それもたぶん今の話の延長上で考えられるんではないかと思う。まだそこまで頭が回ってない。

その昔、「逆転地球」論文とか読んだことがある(2000年のqualia-MLでのやりとり)。あと、Noe and Hureyも関係してくるだろう。Mriganka Surの一連の仕事とか、David Ingle 1973のカエルのrewiringの話とか、いくつか関連するものを元にして以前の議論をアップデートして、講義の締めに使ってみようかと考えている。


Youtubeで盲視関連の資料探していたら、盲視のGY氏が普通に名前と顔出ししているのを見つけた。Ramachandran on blindsight

それからあと、Brain Damage affecting Perception in multiple ways -part 2/2 あとこれの後半(3:17-)ではGY氏が普通に自転車こいでるとことか心理物理実験してるところとか。

(大変重要な資料だと思うのだけれども、著作権的にアウトだから授業に使うことは出来ないだろう。上記のRamachandranのBBCの番組なんてふつうにDVDとして売ってほしいのだけど。)

Milner and GoodaleのDFさんもそうなのだけど、これらの人はいろいろ不便ではあるもののふつうに日常生活を営んでいるわけで、patient GYとかpatient DFとかいう表現をするのはなんか違うと思ってる。なるたけparticipantとかsubjectとかそういうかんじで表記したい。


2012年06月15日

半側空間無視でのimplicit perception

Blindsight and insight in visuo-spatial neglect Nature 1988 タイトル見てギョッとして、なんか見逃していたかと思ったけど、ここでのblindsightはimplicit perceptionのこと。

つまり、hemineglectでawarenessがなくても視覚情報自体はちゃんと処理されているということを示した先駆けの論文で、二つの家の絵を上下に出して同じかどうか聞くと同じと答える。でもじつは上の絵の家の左の部分は火事になっている。そこでどっちに住みたいか聴くと下を選ぶ、というもの。

盲視と半側空間無視を比較するということを考えているわけだけど、もしかしたら、同名半盲による盲視と半側空間無視による盲視を比較する、ってのがいちばん形式的に揃っていて有意義かもしんない。金井さんの論文 (Consciousness and Cognition 2010)みたいにawarenessが無いときの二分類にうまく分かれるたりとかしないだろうか。

半側空間無視でのimplicit perceptionについては、Driver and MattingleyのNature Neuroscience 1998 に詳しく書かれている。盲視との違いで目を引くのはこの残存視覚がobject identification (腹側系)である点だ。

ちなみに前述のMarshall and Halligan 1988はこのレビューでは言及されていない。あと、Driverはこのレビューや後のcognition 2001などでも盲視との対比を議論している。(盲視は腹側系の情報を失い、半側空間無視は背側系の情報を失うという図式)

まあ、とにかくネタ帳に入れておく。要は、どのような対比にすればdouble dissociationが作れるかってこと。perceptionとattentionとをシリアルに置くような議論だと二重乖離にならないので、なんかパラレルになるところを見つけるのが肝要。


落ち穂拾い:Blindsightとimplicit perceptionとはべつものなので、implicit perceptionのことを示すのにblindsightって言葉を使うのはabuseだと思う。

Implicit perceptionでは間接法(刺激そのものに対する応答を使わない)で見えない刺激の情報による影響を調べる。たとえば見えない刺激を出したら、それによって同時に提示した見える刺激への応答潜時が変わったとかそういうやつ。

Blindsightでは、見えない刺激に対する影響を直接法 (刺激そのものに対する応答を使う)で調べる。たとえば2afcによる刺激の弁別とか。

Blindsightの能力自体は間接法でも見つけることが出来る。とくに、hemidecorticated subjectでのblindsightの場合では、間接法でしか出てこない。(affected fieldに刺激を出すと、同時に出したintact fieldへの刺激への応答潜時が短くなる。)

ちゃんと整理している人を見たことはないのだけれども、概念をはっきりさせるとこんな感じだろうか:

  • 一般に、間接法で見つかるものはimplicit perceptionと呼ぶべきで、盲視と呼ぶべきではない。
  • 盲視の能力のうちで、直接法で出てくるものをimplicit perceptionとは呼ばない。
  • 盲視の能力のうちで、間接法で出てくるものはimplicit perceptionと呼べる。
  • 直接法でその効果が見えるのが盲視の特長であり、implicit perception一般とは異なる部分。
  • ただし、hemidecorticated subjectでのblindsightの場合では、implicit perception一般と区別できるところはない。

このへんは将来的にレビューを書いたりする際には入れておくとよさそうだ。


2012年06月12日

駒場広域システム講義の準備中。

6/20に駒場広域システムの学部講義(たぶんこれ:61066 システム科学特別講義II)で「意識と注意の脳内メカニズム」と題して講義します。池上さんから依頼を受けて、いいですね!ありがたく引き受けさせていただきます!なんて返答をしたら、90分 * 2コマ連続であることが判明。泣きそう。だがベストを尽くそう。そんなわけで、いろいろアイデア練ってた。


DFさんはtextureとか質感とかは関知できる。Humphrey et al 1994では懐中電灯を見せたときの例(レクチャーのPDFのp.25)がある:「台所用品。赤いパーツが付いてる。赤いところはプラスチックで他は金属。」手渡されると「懐中電灯か」

盲視ではこのような質感はない。だから、同じように腹側経路が損傷しているとはいえ、両者の視覚経験はまったく違っている。V1こそがそのような基礎的な視覚経験に必須であると言えるし、これを「感覚」と「知覚」の区別で言えば、sensation without perceptionと言っていいのかもしれない。

メロポンの入門書を読んでいたら、視覚はゲシュタルト的構成を元に一挙に与えられるのであって、知覚の前の感覚のような段階説は間違っているとするような書き方があって、どういう文脈で言ってるか分からないが、(メロポン的にはセンスデータ説批判ではなくて「行動の構造」以来の、ゲシュタルト心理学の含意の敷延のはずだから)、本人の文章ではどういう言い方をしているのか見てみることにしよう。

ニコラス・ハンフリーはトーマス・リードを引いて、このような感覚と知覚の違いに基づいて議論を進めるのだが、これは哲学者にはとても受けが悪いとこぼす(「赤を見る」)。たぶんこのときはセンスデータ説批判のほうから来ているのだろう。わたしも盲視から発想するので同じような考えに至る。

つまり、sensorimotor contingencyによって決まるような技能としての視覚(背側経路)とpredictive codingしてsurpriseをtop-downのawarenessによって消してく、ヘルムホルツ的視覚(腹側経路)との折衷、ってアイデアになる。

じつはこのようなアイデアはJoel Norman のBBS2002にあって、両者の範囲を正しく限定するという意味でよいと思うのだけど(Noeがcolorについてsensorimotoroの議論を応用しようとかするのは無理だろとか思う)、BBS2002自体の反応見てるとイマイチ。

なにより肝心のGoodale & Milnerが出てこないもんだから、Normanの話の前にGoodale & Milner説自体の妥当性とかの話になったりして。David Ingle (retired)がコメントしてたので期待して読んでみたら、昔話に終始して、使えない奴だった。

まだ全部読んでるわけではないけど、どうやらギブソン的視覚観とマー的視覚観とを統合したい、なんて動機がそもそも共有されていないんではないか、という印象を抱いた。

Goodale & Milnerの中でいちばんきっつい主張(dorsalはunconscious)にも与しない。腹側系は意識のcontentであって、それが配置され、他者と環境を含めた世界として経験されるためには背側系が必要。

進化の過程では、背側系の方が先立つと考えた方がよいのではないだろうか? つまり、Goodale & Milnerにハンフリー的な進化の視点を導入する。視覚への応答がvisuomotor processingそのものであった状態(背側系)から、表象の世界(腹側系)がどうできるか。

こんなことを今度の講義のまとめに持ってくるつもり。Goodale and Milner成分をいくつか付加して、通りいっぺんな説明ではなくてそれなりに血の通った話をして(DFさんの「視覚経験」)、盲視の話への導入とする。ついでにJCでも再利用。

前半は「注意」。サリエンシーマップと半側空間無視の話をして、前者ではpredictive codingまで、後者では空間と身体との関係まで言及する。これが後半の伏線になる。

後半は「意識」。両眼視野闘争とNCCとGoodale & Milnerの話をして、盲視を最後に持ってくる。盲視では質感はないけどサリエンシーはあるのだ、という話をする。脳とかSDTとかテクニカルな話をするか、それとも外在論とかenactionとかの話をするかのバランスを考える。

つまり、ニコラス・ハンフリーの話で出てくる原始的生物の話は、背側系(手で物体を操作し、目で定位する)という過程が先立って、その生態学的な拘束条件によって決まるアフォーダンスそのもの(たとえば手に届くものを届かないもの)が弁別の材料となる。

そのような弁別能力が長期記憶となり、カテゴリー化の源となる、といった腹側系の機能が出来る。このような表象自体が独り立ちして表象間で操作を行うようになると前頭葉が必要になる。ってこういうおとぎ話をえんえんと書く必要はないのだけど、アフォーダンスが表象に先立つ、というのはVarela-Noe系列のenactive viewとしても筋が通っていると思うし、enactive viewの適応範囲を正しく決めるのにも寄与しているんではないだろうか?

「その生態学的な拘束条件によって決まるアフォーダンスそのものが弁別の材料となる。」つまり、この時点では弁別そのものをしているのではなくて、行動として本当に手が届くか届かないかという事実だけがある。そこから行動しなくてもあれは届かない、という判断が出来ればこれは弁別したことになる。

つまり、行動をせずに、あれは届かないと判断するのが弁別であって、弁別は経験からの学習を前提としている。ってそりゃあたりまえだった。Perceptual decisionではこれがもっと具体的に確率密度分布で持つのか、それとも判断基準で持つのかとかそういう問題になったり。


OBEで「痛み」はどちらの「自己」に帰属するのだろうか? たぶん答えがあるはず。調べておこう。どちらに帰属するにせよ、それによって痛みを他人事にしてしまうことはできないのだろうか?

ksk_S @pooneil RHIでラバーハンドの方に痛みを感じるというのはあるようですね。素朴には、痛みのような内受容性の感覚はそれを感じてるところが「こちら側」になって、他人事にならないような気がしますが。

@ksk_S なるほど、rubber hand illusionのほうで考えればよいのですね。まさに「痛みのような内受容性の感覚」と視覚のような外界に投射する感覚とではいったい何が違い、どこに限界があるのか、みたいなことを考えてました。ではまた。

ksk_S @pooneil まさにそれについて僕も考えていました。RHIやOBEで問題にしている身体的自己感覚は外受容性なんですよね。内受容性の感覚は、身体のように帰属させる自己じゃなくて、もっと意識体験のフレームそのものに直接関与してるような気がします。

(4/21のを吉田がリツイート) ksk_S あともう一つ最近の疑問。形式システムと、力学系と、確率論的世界の上下関係。力学系は形式システムを内包してそうだけど、確率の世界は可能性を扱えるので力学系を含んでいるといえるのか? 含んでるけど目が粗くて捉えられないものがあるということなのか?


講義スライド用に今まで持っているマテリアルを並べてみたら、209枚になった。セクション用の見出しとかもあるから実質180枚。これだけあれば3時間の講義には充分だろう。どちらかというと、これを使ってちゃんとストーリーが流れるように構成することに注力するのがよさそうだ。


ブログ更新: 「脳の生物学的理論」からの話の展開: 20111227のtwitterでの池上さんと藤井さんとのやりとり。 pooneilの脳科学論文コメント 20120516

alltbl @pooneil ちなみに吉田さんは、脳や意識についての論文をかなりきちんとフォローされてると思うのですが、脳はどういうシステムだと思ってますか?Alan Turingの考えたチューリングマシーン的なものではないでしょう?

@alltbl むつかしいこと聞きますね。脳を実際に見ているものとして、脳はコネクショニズム的な分散表現を行っているというのが前提なので、古典計算主義的な脳観は持たない。ただし、そしたらニューロンの活動はニューラルネットの中間層みたいなことやっているのかというとそんなことはなくて、じつはスパース表現がなされていることが多い。つまり、おばあさん細胞のようなニューロン活動というものは偶然に出来ているのではなくて、どっかのレベルで最適化の結果であるらしい。そうなってくると、脳で表象をするということがまた違って見えてくる。

@alltbl あくまで仮説ですが、分散表象とかポピュレーションコーディングのような表象が背側系で行動を引き起こすのに使われて、腹側系でのスパース表現というのは表象の操作を含むような認知活動に関わっているかもしれない、とか考えます。

alltbl @pooneil なるほど。コーディングのような表象が背側系で行動を引き起こすのに使われて、腹側系でのスパース表現というのは表象の操作を含むような認知活動に、というのは面白いですね。ただ聞きたかったのは、何をしているかという時に、世界を写しとるというコピーマシーンみたいなもの?

@alltbl ちょっと寄り道しましたが、このようなニューロン活動のあり方というのが、先日の鈴木さんのツイートにもあったような、「形式システム」と「力学系」と「確率論的世界」のすべてに対して寄与しているんではないだろうか、とか考えたりします。

@alltbl ニューロン活動がポピュレーションコーディングで確率論的な振る舞いをすると同時に、スパース表現でばらつきのない確実なニューロン間通信を行う、みたいに考えたら、確率論的な脳と力学系としての脳が同時に説明できないかなとか考えました。

@alltbl 強い表象主義だと外界のコピーを内的に表象することになるけど、それは無いと思う。まず、背側系は技能として視覚を使うのでコピーをしない(昨日書いた、enactiveな脳)。腹側系は外界をinferする表象を作成するけど(昨日書いた、ヘルムホルツ的脳観)

@alltbl 、実のところ注意を向けたところしかinferしてない。これこそがchange blindnessからわかったことで、われわれは注意を向けていない部分についてはコピーを作っていない。(これはpredictive codingの観点から説明するのが良いと思う)

alltbl @pooneil コピーマシーンなんだけど、自分で世界を変えてコピーしやすくしようとする? 必要以上に脳の仕組みが複雑に見えるので、他に何かしてるんじゃないかと。

@alltbl うーん、これは池上さんの言葉が分からない。

alltbl @pooneil すいません。運河を見てましたw Andy の読みましたが、どうなんだろう。ぼくはこのpredictive codingに賛同できないですね。というのも、生命は予測を最適化するならば、暗い部屋にじっとしてるはずだけどそうではないし、遊びこそが大事、だと。

@alltbl predictive coding的にいうなら、コピーを作るんではなくて、予想外だったときのサプライズを脳内に表象を作ることでキャンセルアウトする、というかんじで。(Andy Clarkもなんかこのへんについて言っているけど、まだ読んでない)

@pooneil これまではミクロには力学系で、疎視化すると確率論、とか考えてたけど、こういう可能性もないかという思いつき。

@alltbl predictive codingにしろ、ベイズ脳にしろ、最適化と言いつつ最適化しようのないノイズというか揺らぎがたくさんあるのに抗しているという状態なのだから、最適化と相反する作用とのバランスという図式を描かないと、池上さんの言うとおりになると思います。


predictive codingだと最適化した行動を前提としているとかいうのはニューロンレベルと行動レベルとのカテゴリー錯誤がありそう。predictive codingの重要度はニューロンの表象の意味を一変するところにあり、おばあさん細胞はおばあさんを表象しているのではなくて誰もいないというpriorからおばあさんが現れたサプライズがニューロンの発火として表現されて、それが緩和される過程を我々は観察者としてみているだけだし、脳内では、上流の細胞が下流の細胞のサプライズを消すように活動することが結果として情報をデコードしてことになってるんだと思う。


2011年11月14日

国道でsaccadic suppressionについて考えた

夜、国道を車で走っていて、saccadic suppressionが無効になるのを経験した。国道なんで目の前基本的に暗闇なんだけど、中央分離帯に現在の気温を示す標識っつーか情報ボードがあった。それで、ちょうど右サッカードしたときにそれが視野に入ったらしく、左方向にたなびいて見えた。

面白いと思ったのは、それがつながった灯りじゃなくて、コマ送りみたいに複数(10個くらい)見えたということだ。その前になんでサッカード中の温度標識が見えたかというと、それは暗闇で高コントラストの刺激があったからだ。普段の我々の条件ではサッカードの前後には高輝度コントラストの刺激があるので、それによって前後方向からマスクされる。このVisual maskingによって、サッカード中の視覚(動きによってぼけているため、コントラストが低い)がマスクされるので、われわれはサッカード中のぼけた映像を経験することがない。

それとはべつのメカニズムでsaccadic suppressionというのがあって、サッカードをするというコマンドを内部的に活用することによって、視覚によるフィードバックが戻って来るよりも早く、サッカード中の視覚ニューロンの活動を一時的に弱めてやるという機能がある。

Saccadic suppressionはフィードフォワード制御が脳でも使われているという意味で面白い現象ではあるけれども、サッカード中の視覚の抑制という意味ではvisual maskingの方が寄与が大きいらしい。(Wurtzのvision researchのレビューより)

それで、私がそのとき面白いと思ったのは、サッカード中の視覚がぼやけた流れではなくて、コマ送りのように見えたことで、おお!知覚とはじつは断続的なものなのだな!とか感激したんだけど、その1分後ぐらいになって、端的に光源が高頻度でフリッカーしてただけではないかということに気づいた。

つまりあれ、アートでありますよね、サッカード中だけ模様が読めるやつ。未来館で見た。たぶんそれではないかとアタリを付けて、ためしにどのくらいの周波数でフリッカーしてたか試算してみる。

けっこう大きなサッカードをしていたから試しに30degだったとして、サッカードには50msくらいは要しているだろう。そこで10個以上は刺激が見えた。5ms=200Hzで発振してるってことになる。うーむ、60Hzだったら納得がいくんだが、それよりは速そうだ。

まだ釈然とはしないが、そんなことを考えた。


2011年11月02日

盲視についてのガザニガの懐疑とゼキの懐疑

盲視の定義に意識が入るといちいちややこしくなるので、その手前の問題をまず片付けるのが先決。つまり、1)光散乱などの損傷側以外の視覚情報を使っている、2)損傷していない脳が部分的に残っている、3)degraded normal visionではない、この三つの可能性を排除しておく。

そのうえで、盲視で起きている経験が「視覚意識」なのかそうではないのか、これがWeiskrantzとZekiの間での論点。私にとってはべつにそれが盲視であろうがRidoch syndromeであろうがかまわない。どうやらそれは個人差とトレーニングとに関わる領域らしい。

前述1)2)3)のような懐疑(これはガザニガとかの論点)さえ除去できればよい。ここを混同するとわけの分からないことになる。

「個人差とトレーニングとに関わる領域」と書いたことの意味は、盲視で視覚刺激の位置同定ができるとどうやら、まさに位置同定ができるということに基づいてある種の意識経験を持つようだ(いわゆるtype II blindsight)。これはsensorimotor説とも整合的だし、デネットが言っていることともそんなに変わらない。

いっぽうでGY氏を被験者とした論文を読んでいると、縞模様を動きとして経験できてはいないようだ。つまり、視覚刺激の「位置」の情報は持っているけれども、「content」の情報を持っていない。

視覚刺激のうち処理できるチャンネルに応じて、その属性の意識経験が生まれる。MT損傷で動きという属性が失われるのと同様に、V1損傷は視覚刺激のcontent (<->位置)を失う。ゆえにより本質的な変化が起こっているように見える。

盲視の説明をするときは、この二つ(ガザニガの懐疑とゼキの懐疑)がぜんぜん別物であることを示さないといけない。両者を混同されて、盲視が怪しいものだと思われるのは困る。世の中に盲視に懐疑的な人はけっこういるので、その懐疑がどちらなのかを見極める必要がある。医者はたいがいガザニガの懐疑。ASSCで問題になるのはゼキの懐疑。

ガザニガの懐疑は「V1が損傷しているのに残存視覚があるなんてあり得ない」と書けて、ゼキの懐疑は「V1が損傷したら(すべての)視覚意識がなくなるというのはウソだ」と書ける。

そして、ガザニガの懐疑は排除できる。ゼキの懐疑は充分正当性を持っていると思う。わたしも「すべての視覚意識にV1が必須である」という考えには賛成しない。以前から「カエルの視覚経験」という表現をしているように、あるlow-levelの意識経験があるとは言っていたけどV1は視覚意識のうち、その場所にあるcontentの経験を失うという意味で非常に根本的ではあるけれども、それでもそれは「すべて」ではない。

どうしてこんなに盲視が少ないか、という質問に対しては「盲視の検査および機能回復トレーニングが医療のプロセスとして組み込まれていないから」というのが原因の一つであると答える。

ここから先はもっと医療の現場の実情をよく知った上で言った方がよいのだけれども、もし脳梗塞などで半盲が起きて、視野検査でscotomaの位置が同定されて、それが安定しているようなら、そのあと退院してから何かフォローアップがあるわけではない。そのへんでけっこう見逃されているのではないだろうか?

ガザニガの懐疑は完璧に排除できないと論文にならない。ゼキの懐疑はその境界領域を議論すればよい。ガザニガの懐疑はheminanopiaとblindsightの区別。ゼキの懐疑はblindsightとRidoch syndrome (もしくはgnosopsia/agnosopsia)の区別。

言語報告で利用できない属性がサッカードでは使えるというのが見つかったらおもしろい。出ないなら出ないで、盲視がある種の病態失認(「見えているということを否認する」ハクワンのBiasが変わっている説はそれのバリアント)ではないということを言うのに助けになるかもしれない。


2011年06月05日

盲視でtextureは弁別できるだろうか?

盲視で肌理(texture)は弁別できるだろうか? 以前これについて考えたときはあまりに直球的にグラント狙いすぎるなとそんなに追求していなかったのだけれども、今考えるにそんなに悪くない方向だと思ってる。というのも、盲視ではなんだかんだとほとんどのことができてしまうので、なにができないかを見つけることが大事で、texture弁別というのはその候補となる。

盲視はサリエンシーに基づけば色弁別だってできてしまう。ではなにができないかというと、decisionのためにevidenceをaccumulateしたり、刺激があるかないかのメタ認知だったりといった、ただのサプライズ検知ではなくて、なんらか刺激の(歴史的な)統計的構造が必要なものらしいという辺りを付けている。

そうするとNature 2007で出てきたみたいなtextureの空間的な統計的構造の弁別は盲視ではできないんではないだろうかと予想する。(これをきっちり示そうとするのは難しいことだ。たんにhigher-orderな視覚の属性、たとえばsecondary motionとかそういったものが全般的に難しいのとどう違いがあるのかを示さないと。)

そして、高次の視覚属性ではなくて、時空間の統計的構造を必要とするような情報処理こそが「視覚意識」にいちばん近いものなんではないだろうか。これが「意識の内部モデル説」に繋がる。

つまり、なんらかの形でposteriorを統計分布として持っておく必要があって、それはボトムアップのサプライズ検知ではなくて、トップダウンの内部モデルが必要になるというそういうイメージ。

とはいえふつうはそんな風には考えない。統計分布を持つということもけっきょくは空間での刺激の分布をその統計構造のフィルタでconvolutionすればいいだけだから。じっさい、J Vision 2010の論文ではそんなかんじのモデルを提出している。

だから私は今たぶんずいぶんとヘンなことを言っている。もっとヘンなことを言うと、質感処理をベイズ的に扱うことを考えたらなんか出てこないかなと思う。いま「質感処理をベイズ的に扱う」とかわかったような口をきいたけど、いったいそれで何を推定しようというのか、自分をはげしく問い詰めたい。

平均輝度を推定したとしてposteriorである分布が出てくるのだから、統計分布を推定しようとしてposteriorが出てくるとしたら、それは一次元じゃなくて、なんか情報幾何にでてくるような多様体みたいなものを考える? 自分で言っててワケわからん。

あとで自分で見てわかるように書き直すと、情報幾何みたいに多様体上の一点が輝度の分布を表していて、多様体上でそれらの分布がKL divergenceみたいな近接度で分布していて、でもってさらにそれの確率密度分布が雲みたいに広がっていて、ベイズ推定されるごとにだんだんその雲の広がりが収まってゆくとか。そろそろ「情報理論の基礎」村田昇著とかを読んでみよう。問題意識ができてきたので今ならもうすこし理解できるかも。


「モデル」とか言うけどそれは高次ではtemplateでしかなくて、filterでしかない。だからこそほとんどの場合には予測誤差はなくてsurpriseは起こらない。でも見ているものは階層構造での情報処理だから、なんかこれはベイトソン的に言えばタイプエラーを起こしているように気がしていて、ある階層からはフィルターにしか見えなくても別の階層からは来歴の蓄積したモデルみたいに違った風に見えたりしないかなとか考えている。

ベイトソン関連で前にも書いたように、フィードバックは単回のイベントに応じた学習というか応答であるのに対して、フィードフォワードは複数回のイベントの統計構造に基づいた行動であると言える。空間や時間をたたみ込んでしまうだけですむならそれはただのフィルターで話がすんでしまう。複数回のイベントは時間的には繋がっていないからたたみ込んで足してしまうわけにはいかない。イベントの検出を行ったうえでそれを登録する必要がある。わたしが意識と強く関連しているかもしれないと思うのは、後者のような単回では済まないもののことをイメージしている。

このへんまで突き詰めてみると、textureではそのような意味での統計構造を考える必要はないのかもしれない。また今度考えてみることにしよう。


だんだん自分が何をしたいのかわかってきたのだけれど、つまり、おばあさん細胞的な選択性(=フィルタ)のアイデアでは「いま、ここ」に反応するautomata的な捉え方から抜け出すことができないのではないか。「いま、ここ」を越えるようななにかを導入する必要があるのではないか、と言いたいのだな。Noeのような直接知覚論の人はそのようなものはすでに環境にあると考えるけど、それならそれで、どうやってそれをpick-upするのかと考えないと先に行けるアテがない。

ベイズ的脳観ではそのようなモデルが埋め込まれているのではないかと思うのだけれども、実際にそれが回るときにはカルマンフィルタのようにまさにフィルタとして働く。経験はフィルタの特性として埋め込まれている。そしてもちろん脳はほとんど常にただのフィルタなのだ。(自律的なリズムで揺れながら外界からの摂動によってその安定状態を移動させたりするというリアリスティックな像を保持したうえでも。)

だから、process(内部モデル)とrepresentation(予測信号と予測誤差)とを行ったり来たりしていて、それじたいはプログラミング言語が[evalとapply]によって[procedureとexpression]を行ったり来たりするのと同じことで、その基質自体は何も変わらず、個々のニューロンにとってはただの神経発火のシグナルのやりとりでしかない。ただし、プログラミング言語を使う際にはいまどっちにいるのかわかっていなければいけないように、内部モデルを学習し、情報を読み出す際にはこのクラスを混同しないように読まなければならないはずだ。

うーむ、僕は正しい方向に間違っているだろうか? 掘り進めてこれは違うとどんどん陣地を広げていくような。一年ぐらいこういうことだけ考えて突き詰めてゆく時間が取りたいとか考えたりする。


(ついったに書いたことを元にして編集して作成した)


2011年05月30日

Alva Noeの訳本「知覚のなかの行為」読んでます

Alva NoeのAction in perceptionについてちょぼちょぼ書いてきましたが(これまでエントリは「Alva Noeの知覚理論」へ)、訳本「知覚のなかの行為」が出ましたので読んでます。けっきょく訳本読む方が早いのよねー。

Alva Noeのsensorimotor contingency (-> dependency)は「環境への働きかけによってどのように環境が変化するかという「知識」が知覚をconstituteする」みたいな言い方なのだけれども、この「知識が知覚を構成する」って言い方が行動そのものが構成要因ではないとするための妥協の産物であって、超奥歯に物が挟まった感があるわけですが、「知識」とやらにそんなことができるだろうかと言いたくなるわけですが、「知識」を記憶、そして内部モデルとしてとらえればそんなに悪くない。

もう一度繰り返すけれども、知識=semantic memory=top-downのtemplate=内部モデルとしてとらえれば、それを知覚の構成要因とするのは悪くないんではないか。何度も書いてきたけど、ボトムアップのサプライズとそれを緩和するトップダウンの内部モデルという図式とじつはそんなに大きくかけ離れているようには思わない。ただし、内部モデルのアイデアはヘルムホルツ以降の「推論としての知覚」というアイデアと強固に結びついている。そしてNoeは直接知覚的立場からそれに強固に反対する。だから私は科学者としては内部モデル的アプローチにコミットしながら、手がかりとして哲学的な争点を脱臭するような方向へ進むことを考えながら、つまり、推論としての知覚をする際に内部に詳細な表象を作らないようにだけ考えればいいんじゃないかと。

じっさい、Raoの論文とかで出てくる図式は外部の推定をするように書かれてはいるけれども、それぞれの階層でローカルに誤差の計算をしているだけで、全体としての表象があるわけではない。だからこそ本当に問題なのはそのように分散して表象されているものをどのように行動に使うために読み出してゆくかということであって、視覚に閉じたモデルを行動に使うところまで行かなくてはいけない、っつうかもういつも書いていることと同じになってしまったのでやめる。

今日書いたことでの進歩はseosorimotor dependencyが「構成する」みたいな言い方であって、causationではないことに気づいた。あと「知識」という言い方をもっと計算論的にすればいいんだ、って考えたこと。

でもあれか、Raoのとかではまさに画像を再構成してやって、それがどのくらいうまくいっているかが議論されるんだよなあ。そこが階層ごとでなされているか、それとも全体としての画像ををpixelレベルで誤差を評価しているのか、とかうだうだ言ってないでやっぱじぶんでいじってみるべきだよな。


二つの視覚経路議論という意味では、Noeは触覚だけでなく、視覚に関しても視覚運動変換を媒介して経験が与えられるとしている。たとえば、距離や形態を「直接」経験として与えるのは要素の分析とかそういうのではなくて、「どのくらい手を伸ばしたらそれに届くか」とか「どういう風につかめるか」とかそういう「知識」によって構成されると考える。

これは神経科学者としてはけっこう興味深い提案で、ざっくりパラフレーズしてしまえば、ある物体の形態の認知はその物体のアフォーダンスの認知によって成立するという提案だ。これを神経科学と繋いでしまえば(Noeはそんなこと考えないだろうが)腹側経路の側頭連合野(IT)にある形態に選択的なニューロンの成立に、背側経路の頭頂連合野(AIP)にあるアフォーダンスに関わるニューロン(村田さんの仕事)の成立が先立つ、とまでは言わなくとも寄与する、なんて可能性を考えることができる。

これは反応性成立の前の発達のところで検証すべきことだけど。反応性がすでに成立しているadultで、AIPにムシモル入れてもITの反応性が変わるとは思えない。(もしそうなったらかなりインパクトのある仕事となるが。) LIPに平面の単純図形への選択性があるという仕事はすでにある: SerenoのNature98

まあここまで我田引水的に話を持って行かなくてもいいのだけれども、発達期の脳での相互作用というのはいろんな重要な問いがあって、NBRとかを使ってもっと積極的にやった方がよい。たとえば、幼年期の顔認識は皮質下から直接扁桃体へ入力する経路を使っているという可能性。

これもまず本当にそうか、そしてそれはどこで切り替わるのかという視点で考える。腹側経路と背側経路の相互作用についても同様な問いを複数考えることができる。ポイントはadultで反応性が成立してしまったあとで見てもわからないものを発達の過程を見ることで明らかにできないか、というような問いの作り方であって、発達自体を明らかにしたいということでもない。

本当は発達の研究というのはみんなそういった視点から捉え直すことができるはずで、ocular dominance columnとかorientation mapとかの生成の過程を明らかにすることは、どうしてそのような反応特性をニューロンが持つようになり、どのような刺激空間によってそのようなマップができたのかを明らかにすることは、adultでの応答特性とかそれがどのくらいoptimalであるかといった議論でなされていることをその形成過程からより直接的に示す仕事になるはずだ。

さらに神経科学的な捉え直しを進めてゆくけれども、Noeがあるものを(たとえば)球体として経験するのは「あるものの現れが運動の結果に応じて変化するから」と書くときに必要なのは反応選択性的なフィルターでは足りなくて、様々な向きからの見た方とかそういった確率分布みたいなものだ。

どうやってそのような分布を情報として持つことができるか。もちろんtextureの統計量みたいに次元圧縮してもいいのかもしれないけれども、それは反応選択性のパラダイムの中での簡便法だろう。(textureに関してはまた別エントリにて)

どうやってそのような分布を情報として持つことができるか。 もちろんNoeはこのような言い方はしないだろう。直接知覚派にとってはそのような多様性は現実世界そのものが持ってさえいればよいのだから。真にベイジアンな脳を考えるのであれば、確率密度分布を持つ必要があって、そのとき周辺尤度が計算できて、自由エネルギーが計算できて、フリストン仮説につながるはずなんだけど、まだちゃんと読めてないので正しいかどうか自信がない。

周辺尤度計算できるほどには情報を持ってなくて、ある程度近似的にposteriorを計算できるようになっているのだろう、というあたりが脳ネットワークにできることと考えるのが妥当なのかもしれない。ともあれこういうことがわたしはfundamentalなことであると思っていて、本当はこういうことを突き詰めていきたいし、間違っているのならさっさとその間違いに気づきたいと思っている。


Noeは「感覚運動変換のあり方についての知識」と言うとき、これが「命題的な知識」ではなくて「実践的な知識」であることを強調している。これも神経科学的な言葉へ変換可能だ。つまりこれは「宣言的記憶」ではなくて「手続き的記憶」なのだ。そうしてみると私がさっき書いた意味記憶としての捉え方は正しくなかったと言えるが、内部モデル説により近くなったと言えるだろう。まさに小脳などで内部モデルとして作られているものが手続き記憶なのだから。こうやって話は一挙に川人先生や伊藤正男先生の小脳意識説に近づいてくる。

ここで私はべつに小脳説にコミットするつもりもなくて、話は逆で、命題的記憶でない、実践的な記憶としての脳内メカニズムを探すというheuristicを使えばいいんだなということになる。そういう意味では小脳よりは頭頂連合野の方が興味深い。


“Conceptualism Revised: Through Criticizing Noë's Enactive Approach” Noeの理論と二つの視覚経路議論の関係というのはNoe自身も扱っているし、私の盲視の話も二つの視覚経路議論の範疇のヴァリアントであると言える。それをsensorimotor dependencyへの反論のように使うのはじつは私はあまり釈然としていない。

というのもそれはつまり意識としての脳は腹側経路で、それはsensorimotorとは独立している、みたいな感じで使われるからなんだけど、きっと事態はそんなふうにはなっていなくて、両者の相互作用を発達の段階で考えるべき。で、sensorimotor側が先に成熟して、それによってventralがshapeされる、みたいなのがたぶんホントのところだと思う(といいつつこれを証明すること自体が大ごと)。

だから、独立しているという議論よりはその相互作用を議論する方がたぶん良いだろうと思ってる。(<-もはや言及した話とは全然別だけど。)


(ついったに書いたことを元にして編集して作成した)


2011年04月18日

僕らって基本的にゾンビモードだよね?

自転車に乗って帰ろうとチェーン鍵を外してさあ出発と思ったら動かない。そういえば今日は朝来たときは雨でチェーン鍵が錆びて動かなかったので、チェーン鍵を外しっぱなしにしていたのだった。つまり、いまわたしは自転車に乗ろうとして、外してあったチェーン鍵をわざわざはめていた。いかに無意識にこの作業をトグルオンオフしてるだけかがわかる。


昼ご飯買うつもりで生協に行ったのだけど、ずっと考え事していたので、気づいたら生協のトイレに行ってそのままなにも買わずに帰ってきていた。まさにゾンビモード。たまにこういうことあるけど(車を運転しているときでさえ!)、たぶんサリエントな刺激(知り合いが前から歩いてくるとか)があればゾンビモードは解除されるんだろうなあと思う。

これってわたしだけじゃない一般的なことだと思うのだけど、浪人生の時にボウっとしながら自転車漕いでいて交通事故にあったことがある(*)ので若干心配。(<-「若干」使ってみたかっただけ。)

(* 走ってる車に横から激突して頭打って気絶したらしいのだが、なにせ事故直前の記憶がないもんで、なんでそんなことになっちゃったのか自分でもわからない。記憶の定着には時間がかかるのだということを身をもって経験したという話でもある。)

ゾンビモードについては小学生の時に発見したな。夜にそろばん塾からの帰り道、団地の脇の通りをずっとまっすぐ歩いて行くのだけれど、ふとなんでいまこの道を歩いているのだろう、塾の出口からそこまでの500メートルをどうやって歩いていたかわからない、ということに気づいた。これがわたしのはじめての「クオリア経験」とでも申しましょうか。

という話を家族にしたら、そんな経験ないし、ちょっと大丈夫? と問われた。そういうもんなの?

だったら、酔っぱらってどうやって帰ったかはわからないけど気づいたら家で寝てた、これならだれだってあるはず。こっちの場合は意識経験がなかったというよりはその経験の記憶が定着しなかったと説明する方が尤もらしいけど。

「われわれには自由意志などなくて、後付けで自由意志で行動したように感じるだけなのだ」説ってのがあるけど、わたしにとってはこのような経験からほとんど自明のように思えるのだけれども、もしかしたらこの実感のレベルは個人差があるのかもしれないな、なんて思った。

(ついったに書いたことを元に編集して作成した)


2011年04月13日

「解明される意識」の翻訳にツッコミ

南山大学セミナーにあわせて「解明される意識」で盲視に言及しているあたりについてまとめておこうかなと思って読んでるんだけど、さっぱり読めない。訳がけっこうぼろぼろだと思うんだけど。訳者は哲学の人だから脳科学の知見のあたりは不得意なのだろう。

しかたないので原書の方に行ったらそっちのほうがわかりやすかった。訳書 p.402 刺激の「突出」が増大 => 原書p.338 stimulus "salience" increases とか。

訳書の同じページにはこうある:

また別の被験者たちは、「暗い影」が明るく眼を引くものとして現れて、それがどんどんはっきりしていくのだと、報告している。

どうも言っている意味がわからない。ここは原書を見ると誤訳だ。

Other subjects report "dark shadows" emerging as brightness and contrast are increased to high levels.

ここはじつはtype IIの盲視についての説明なのだ。(type IIの盲視については以前書きました:「盲視でおこる「なにかあるかんじ」) だからわたしが訳すとしたらこんなかんじになる:

ほかの被験者たちは、(視覚刺激の)明るさとコントラストが高くなるにつれて現れる「暗い影」について報告している。

これだと直訳調なのでもうすこしかみ砕くと:

ほかの被験者たちは、(視覚刺激の)明るさとコントラストが高くなるにつれて「暗い影」が現れる、と報告している。

この部分に関してはたまたまわたしは予備知識があったので、意味的に言ってこういうことだろうってわかる。

でもそうでなくても、文法的に考えてみても、元訳のようにbrightnessがshadowsのbrightnessであるという解釈はありえない。もしそうならas THEIR (or THE) brightness and contrast となるはずだからだ。すくなくとも無冠詞にはならないだろう。

あ、わかった。文法レベルで誤解してるんだ。

Other subjects report (that) ["dark shadows" emerging as brightness and contrast] are increased to high levels.

って読んでるんだ。ほんとうはこうでしょう:

Other subjects report ["dark shadows"] (that is) emerging / as brightness and contrast are increased to high levels.

それはそれとして、日本語でこういう本の翻訳が出るということは得難いことであって、わたしもいろいろ洋書を買ったりするけど、けっきょく積んでて、訳書が出てからそっちを読むことになる。やっぱ読めるスピードがぜんぜん違う。たぶんほかの分野の本もそうなのだろう。訳書はとばして読んで、原書で精読するってのがよい。訳書で精読するってのは戦略的に正しくない。原書でとばして読めるなら訳書はいらない。そして、わたしには訳書が必要だ。

(ついったに書いたことを元に編集して作成した)


2011年03月16日

JNS論文が出ました:「見ていると意識できなくても"覚えている"脳」

総研大(当時)の高浦さんに進めていただいたblindsightの電気生理の仕事がJNS に出ました。明日オンラインになる3/16号に出ます。タイトルは"Neural substrate of spatial memory in the superior colliculus after damage to the primary visual cortex"です。

どういう話かといいますと、見えなくなっているはずの視覚刺激の位置を憶えることができて、しかもその記憶情報が上丘になった。正常の条件では上丘は眼球運動や注意に関わるところですからそんな情報はありません。脳損傷によって上丘の機能が変わったのだろう、というわけです。意識研究の側面からいえば、視覚的気づき(visual awareness)と短期記憶(作業記憶とまでは言えない)とが別ものであることをこのデータは示唆しているのが重要な点です。

生理研のサイトにあるプレスリリースは「見ていると意識できなくても"覚えている"脳」です。

ではまた。


2011年02月16日

南山大の鈴木貴之さんからコメントいただきました

先日の南山大学哲学セミナーでの盲視についてのトークおよびそれについての報告エントリに対して南山大の鈴木貴之さんからコメントいただきました。独立したエントリとして掲載させていただきます。それではここから。


南山大学の鈴木です。先日は大変興味深いお話し、どうもありがとうございました。まだまだ議論したいことがあったので、もっと余裕のある時間設定をしておけばよかったと反省しています。学期末試験やら入試業務やらですっかり時間が経ってしまいましたが、当日のお話しとブログの内容について、いくつかコメントさせていただきます。言いたいことがどうにもうまくまとまりませんが、その点はどうぞご容赦ください。

【哲学者にとっての盲視】

そもそも、なぜ意識の問題に取り組んでいる哲学者が盲視を気にするのかというと、盲視は意識を自然科学的な枠組の下で理解する(意識を自然化する)うえで都合が悪い事例であるように思えるからです。

通常、ある意識経験(現象的な意識経験、クオリアを伴う意識経験)が生じているときには、それに見合った識別行動や言語報告も可能です。そして、識別行動や言語報告は、何らかの脳の活動によって可能になっているはずなので、ある意識経験が生じることと、ある脳の活動が生じることのあいだには密接な関係があるだろう、言いかえれば、意識経験には何らかのneural correlateがあって、それが識別行動や言語報告を可能にしているのだろう、と考えられます。もちろん、そう考えるだけでは、なぜ、そしてどのようにして意識経験がneural correlateから生じるのかという、いわゆる意識のハードプロブレムは解決しません。しかし、われわれの意識経験に、識別行動や言語報告を可能にするという役割(因果的機能)があるということは、neural correlateを特定する手がかりになり、さらには意識のハードプロブレムを解決する手がかりとなるだろう、と考えられます。

ところが、盲視患者は、識別行動が可能であるにもかかわらず、意識経験が生じていることを否定します。これが事実だとすれば、(少なくともある種の)識別行動には意識経験は必要ない、ということになります。そうだとすれば、意識経験にはどのような役割があるのか、そもそもなぜ意識経験が存在するのか、ということがわからなくなります。また、盲視患者においては、意識経験と、ある因果的機能を持った脳活動との結びつきが失われているわけですから、ハードプロブレムを解決する手がかりも失われてしまうように思われます。

逆に言えば、意識を自然化しようという哲学者は、健常者と盲視患者の間には(識別能力などにおける)なんらかの実質的な違いが存在するのだ、意識経験の有無というのはたんなるオマケの有無ではないのだ、ということを示す必要があるわけです。

ここで、盲視を何とかうまく処理したいという哲学者には、二つの選択肢があります。

(1) 盲視患者の報告を文字通りに受け取ったうえで、健常者と盲視患者には何らかの行動能力に差があり、その違いが意識経験の違いをもたらしているのだ、と考える

健常者と盲視患者では、識別能力をはじめとする行動能力のうえで、大きな違いがあります。ですから、この路線にも、十分な可能性があります。たとえば、inferior temporalをはじめとする腹側経路の活動の有無が、意識経験の有無にとって重要なのだ、と考えることができるかもしれません。しかしそうすると、なぜ背側経路の活動ではダメなのかを説明しなければならず、その理由はそれほど自明ではない気がします。

(2) 盲視患者の報告を文字通りには受け取らず、実は盲視患者も何らかの意識経験を持っているのだ、と考える路線

こちらの路線をとれば、盲視患者も、その識別能力に応じた何らかの(おそらくはぼんやりとした)意識経験を持っているのだということになり、意識経験の有無は識別能力の有無に対応するという路線は維持できるので、その点ではすっきりしています。しかし、被験者自身の報告を否定することになるという代償もあります。吉田さんはお話しの最後で、(2)の路線に沿った解釈を示唆されていましたが、実は私もこちらの可能性に魅力を感じています。

盲視という現象をどちらかの路線でうまく説明できるか、できるとしたら、どちらがよりよい説明なのか、ということが、哲学者にとっての基本的な課題ということになります。しかし、どのようなデータによってこの問題に決着をつけることができるのか、そもそも決着をつけることが可能なのかということ自体も、大きな問題です。デネットであれば、そもそも間違った前提から出発しているからこういう問題が生じるのだ、と言うかもしれません…

【タイプ1の盲視患者とタイプ2の盲視患者】

いずれにせよ、通常の盲視をめぐる議論では、

  • 健常者:識別能力○、意識経験○
  • 盲視患者(タイプ1):識別能力○、意識経験×

という図式で考えられています。ところが、今回のお話しでは、何らかの感じを抱くという盲視患者のお話がありました。

  • 盲視患者(タイプ2):識別能力○、意識経験△

といった感じでしょうか。では、このタイプ2の盲視患者はどう位置づけたらよいのでしょうか。

論理的には三つの解釈が可能でしょう。

(3) タイプ1の盲視患者は意識経験を持たないのにたいして、タイプ2の盲視患者はぼんやりとした意識経験を持つ

そうだとすると、両者の違いは、意識経験の有無を決める違いだということになります。これは、上の(1)の路線に沿った考え方と言えるでしょう。

(4) どちらの盲視患者もぼんやりとした意識経験を持っているのだが、タイプ1の盲視患者はそのことを自覚できていないのにたいして、タイプ2の盲視患者は自覚できている

このとき、両者の違いは、意識経験の有無ではなく、自覚の有無をもたらすのだということになります。これは上の(2)の路線に沿った考え方です。

(5) タイプ1の盲視患者もタイプ2の盲視患者も意識経験を持たないが、タイプ2の盲視患者は間違って自分が意識経験を持つと考えている

アントン症候群のような症例を考えれば、このような可能性がないとも言えません。しかし、盲視患者とアントン症候群の患者では脳の損傷部位が異なるでしょうから、このことは、この解釈をとる積極的な理由にはならないでしょう。いずれにせよ、この解釈によれば、意識経験の有無を決めるのは、二つのタイプの盲視患者が共通に損傷している部位だということになります。

では、いったいどの解釈が正しいのでしょうか?そもそも、どのような方法でどの解釈が正しいかを決定できるのでしょうか?現時点では、私にはなんとも言えません。(両者の間に、どれだけの解剖学的、機能的な違いがあるのでしょう?そのへんも気になるところです。)

ただし、どちらの解釈をとるにせよ、一つ問題があります。それは、吉田さんもお話しの中で言及されていましたが、タイプ2の盲視患者は、かすかな刺激を見ている健常者とは違うらしい、ということです。健常者の場合には、意識経験が生じているという自覚と識別能力の間には強い相関が見られるのにたいして、タイプ2の盲視患者の場合には、それほど強い相関が見られません。そうだとすれば、タイプ2の盲視患者は、たんにかすかな意識経験を持っているということではないようです。タイプ2の盲視患者は、健常者のかすかな意識経験とは違った種類の、ぼんやりとした意識経験を持っているのでしょうか?あるいは、意識経験がないにもかかわらず、あるように感じているだけなのでしょうか?(ここでも、デネットであれば、そもそもこういった区別には意味がないのだ、というのかもしれません…)

【感覚入力か脳活動か】

さて、いよいよ吉田さんが最後にお話しされた話題です。

ここでは、タイプ2の盲視患者が、自ら報告している通りに何らかの意識経験を持っているとして、それがどのようなものであるのかが問題になっています。そして、Hurley and Noeの議論を手がかりに、二つの解釈を検討されています。

二つの点についてコメントします。

第一に、講演の際にも少しコメントしましたが、脳活動と運動出力の関係を重視するモデルがあってもよいのではないか、そして、実はそれが一番説得力があるのではないか、と私は考えています。

このモデルでは、幻肢に感覚を感じる患者が触覚的な経験をしているのは、体性感覚野が健常者と同じような仕方で出力と関係しているからであり、全盲の人が点字を読むときに触覚的な経験をしているのは、その人の視覚野が、晴眼者とは違った仕方で出力と関係している(おそらくは、晴眼者の体性感覚野と似たような仕方で出力と関係している)からだ、ということになります。

このモデルでは、たとえば逆さ眼鏡への順応のような現象も、うまく説明できるように思えます。上下逆転眼鏡をかけてしばらくたって順応した人の場合、感覚入力は通常と逆転していますし、(少なくともV1などでは)脳の活動も上下逆転した内容に対応しているはずです。それにもかかわらず、正立した世界が経験されるとすれば、視覚経験の内容は、感覚入力によって決まるわけでも、脳活動によって決まるわけでもなく、むしろ、脳活動と運動出力との関係によって決まるように思われるのです。

ちなみにこのような考え方は、最近翻訳の出たAction in PerceptionでNoe主張している考え方のようにも思われます。(彼は脳活動が外界の表象として機能するというような語り方には反対するかもしれませんが、経験内容は身体運動の可能性との関係によって決まるというのが、彼の基本的な考え方だと思います。Hurley and Noe 2002とNoe 2004の関係がどうなっているのかは、今後チェックしてみようと思います。不勉強なもので前者は未読でした…)

もちろんこれも経験的な仮説なので、実際にそのような投射関係の変化が生じているのかを調べれば、間違っていることが簡単に示されるのかもしれませんが。

第二に、これらのモデルを盲視に適用したときにどうなるか、という点について。

吉田さんが提示した二つのモデルのどちらが正しいかについては、ある程度経験的に判定できるかと思います。たとえば、脳活動重視説では、V1損傷直後から何かある感じが生じるはずであるのにたいして、感覚入力重視説では、網膜から上丘に至る経路が強化されるにつれて、「なにかあるかんじ」が生じることになります。おそらく、実際の盲視患者は後者のパターンを示すことが多いと思われます。さらに、実際に上丘への投射が強化されていることが示されれば、盲視患者は微弱な視覚経験を獲得したのだという説が有力になります。

しかし、盲視患者には二つのタイプがあるということで、話がややこしくなります。どちらにおいても、網膜から上丘に至る経路は保存されているわけですが、タイプ1の患者では、(時間が経過しても)「なにかあるかんじ」が生じません。これが、タイプ1とタイプ2のどのような違いに由来するのか、網膜から上丘に至る経路に実は違いがあるのか、あるいは上丘より後の処理に違いがあるのか、このあたりを明らかにしなければ、「なにかあるかんじ」の正体ははっきりしないかもしれません。

ちなみに吉田さんは、ブログのNote 4で、「なにかあるかんじ」は、視覚経験ではなく、視覚入力によって生じた身体反応の知覚かもしれない、という仮説も提案されています。これもたいへん興味深い仮説ですが、もしこの仮説が正しいとしたら、タイプ2の盲視患者は、視覚刺激の有無の検出はそれなりにうまくできるはずです。実際にはタイプ2でも刺激の検出能力はそれほど高くないのだとしたら(たしかそうですよね?)、この仮説は正しくないのかもしれません。(もちろん、視覚刺激を提示されたときの身体変化はかすかに知覚されるだけなので、刺激の検出能力が100%に遠く及ばないのだ、と考えることもできるので、これだけでは決着はつきませんが、このあたりは経験的に検証していくことが十分可能でしょう。)

まとまりがありませんが、コメントは以上です。とにかく、いろいろと勉強になり、考えさせられることも多く、とても有意義な研究会でした。どうもありがとうございました。今度は私が神経科学者に情報提供できる機会でもあるとよいのですが…そのときに備えて、いろいろ勉強したいと思います。


ここまでがコメントです。鈴木さん、どうもありがとうございます。


2011年01月26日

盲視でおこる「なにかあるかんじ」

南山大学哲学セミナーというので話をしてきました。心の哲学の鈴木貴之さんのラボのサイトでの報告。話の内容はそれなりに哲学者向けにチューンしてみたんですがうまくいったかどうか。

トークの内容だけど、神経生理学と信号検出理論を除外して、そのうえでGoodale & Milnerの話とかを入れて脳の回路についての入門をしっかり話して、Noe & Hurleyの話やらスーパー盲視の話とかを入れて哲学的なところに繋げてみました。

それでは、トークの最後の考察の部分のスライドを再録してみましょう。ちょっとしたオンライン講義録です。(追記1/28: 元のエントリでは前提をはしょりすぎていたので「なにかあるかんじ」についての説明を加えておきました。)


[盲視でおこる意識経験]

第一次視覚野を損傷した患者で見られることのある「盲視」では、脳損傷によってできた視野欠損(端的にそこは見えてない)の部分に視覚刺激があるときに、それを選択肢を与えられて選ぶような条件だと刺激の位置を当てることができたりする。

でもよくよく調べてみると、盲視を持っている人でも視覚刺激が欠損視野に提示されたときに、「なにかがあるかんじ」を経験する場合があるという。患者本人に説明してもらうかぎり、それは位置情報や形の情報を持っているわけではなくて、「視覚」経験とは言えないようなものらしい。とはいえ、これはあきらかに意識経験だ。Zekiの論文(1998)から引用する。

His experience resembles that of a normal person when, with the eyes shut, he looks out of the window and moves his hand in front of his eyes. It was like a ‘shadow’.(1993年。のちに彼はこの表現はあくまで健常者にも理解できるような言葉を使っての表現であり、本当にそういうものが「見えて」いるわけではない、と説明している)

He has a ‘feeling’ of something happening in his blind field and, given the right conditions, that he is absolutely sure of the occurrence.(1994年)

He described his experience as that of ‘a black shadow moving on a black background’, adding that ‘shadow is the nearest I can get to putting it into words so that people can understand’.(1996年)

なんというか、言葉を絶してますよね。伝えようのないものを伝えようと苦労する様子が忍ばれて、「意識の私秘性」なんてことを考えたくなる。脳損傷の話を聞くといろんな衝撃的な話が出てきて、我々が直感に基づいて議論するのがいかに危ういことか、なんて思わされる。


[ヒトの盲視はカエルの意識経験だろうか?]

さてさて、この「なにかがあるかんじ」とはいったい何だろう?

hurley_noe1.png

ちょっと回り道してみる。哲学者のトーマス・ネーゲルの論文で"what is it like to be a bat?"というのがある。つまり、われわれはコウモリの意識経験を科学者として第三者的に調べることはできる。また、それによってコウモリの意識経験を類推することもできるかもしれない。しかしそれはコウモリの意識経験をヒトとして追体験するような形としかなり得ない。しかし、コウモリがエコロケーションによって作る世界はヒトが主に視覚によって作り上げた世界とはまったく異なっているだろう。(ここが「コウモリ」を選んだポイントだ。) つまり、コウモリの意識経験をコウモリの意識経験として我々ヒトが理解するなんてできるの?って話になる。

いまの話を踏まえると、盲視という現象で独特なのは、もしかしたら上丘の活動で生成するようなカエルの意識経験をヒトが経験する、という特殊な状況が起こっているのかもしれないということだ。つまり、カエルは視蓋(=上丘)に虫検知器ニューロンというのがあって、動いているものに対しては虫だろうがなんだろうが活動する。カエルはこの活動に対応して、虫だろうがなんだろうが反応してそっち向いたりベロ伸ばしたりする。そうしたら、カエルの意識経験というのは「なにかがあるかんじ」みたいなかなりおおざっぱなものなんではないだろうか? (ところでこれは全くの偶然なんだけど、なんだか図を遠くから見るとカエルの顔のようだ。)

とはいえ、このような考え方(「上丘の活動で生成するカエルの意識経験をヒトが経験する」)はまさにデネットが指摘する「カルテジアン劇場の誤謬」という地雷をモロに踏んでいるようにも思える。それでは、ここで起こっていることについてもう少し考えてみることにしよう。


[Hurley and Noëの議論]

そこで役に立つのが、以前ブログ(20060503)で言及したHurley and Noëの論文("Neural Plasticity and Consciousness")で行われた議論だ。

hurley_noe2.png

つまりこういう問いがある:意識経験を決めるのは、脳の領野だろうか?それとも感覚入力の属性だろうか? Hurley and Noëにとっては意識経験が脳の中だけでは決まらないというための議論だ。そしてこれは実験的に検証可能な問いでもある。

左にあるのが幻肢の例だ。幻肢では腕からの入力を失うことによって、体性感覚野の腕領域は(たとえば)顔からの感覚入力を受けるような可塑的変化が起こる。幻肢では顔を触ると失ったはずの腕を触られたような感覚が生まれる。つまり、意識経験が脳部位によって決まっている例であると言える。

右にあるのが点字の例だ。全盲の人が点字によって字を読むとき、視覚野が活動することが明らかになっている。(生理研の定藤先生の仕事だ。) どういう経路でか、体性感覚の入力が視覚野に入力するような可塑的変化が起こっているらしい。ではこの視覚野の活動は視覚だろうか、触覚だろうか? 磁気刺激によってこの被験者の視覚野を活動させると触覚が生まれた。つまり、意識経験が感覚入力によって決まっている例であると言える。(=> Note 1)

さてさて、それではこの議論を盲視に援用してみよう。じつのところ、両方の方法で説明することが可能なのだが、どちらがもっともらしいだろうか? どうやったらそれを検証できるだろうか?


[説明1:脳活動が重要説]

図の左が健常者の視覚で、右が盲視で起こっていることを推定したもの。

hurley_noe3.png

視覚野の活動によって「ビビッドな赤=クオリア」(検索で引っかかるようにクオリア入れといた)のような意識経験が引き起こされる。一方で上丘の活動によっては「なにかがあるようなかんじ」という意識経験が引き起こされるのだけれども、それは微弱なもので、健常者では「ビビッドな赤」にoverrideされてしまうので気づくことはない。

しかし、盲視の患者では「ビビッドな赤」が脳損傷によって失われてしまうので、「なにかがあるようなかんじ」という意識経験がunmaskされてくる、という説明だ。(=> Note 2)


[説明2:感覚入力が重要説]

さっきの図と同じで、図の左が健常者の視覚で、右が盲視で起こっていることを推定したもの。

hurley_noe4.png

健常者では「ビビッドな赤」を経験するのだけれども、それは視覚入力として視覚野が処理している情報の幅広さを反映している。健常者では上丘は使われているとしてもsaliencyのようなかなり限局した情報しか扱うことができない。

一方で、盲視では機能回復に伴って処理できる情報のレパートリーが増える。つまり、形や色や顔といった、正常脳では処理されないであろう情報が処理されるようになる。とはいえ、その情報処理は正常のものよりはdegradeしている。盲視での「なにかあるかんじ」というのは、機能回復に伴って環境の操作可能性が拡大したことによって生成した、ある種の視覚意識ではないだろうか。

論調からおわかりのとおり、わたしは後者の方を支持したい。後者の方が機能回復をよりうまく取り込んだ議論ができるように思う。(=> Note 3)

さてではこの二つの違いをどうやって検証したらよいだろうか? そもそもこれは検証可能な問いだろうか? (=> Note 4) そんなこと考えながらいろいろ新しいネタ画策してます。というところでこの話終了。


Ustream (http://www.ustream.tv/channel/pooneil68)のほうは通信環境的にうまくいかなくて、断念しました。これはいつかリベンジしておきたい。

準備としては、Ustream Producerでデスクトップの配信をするようにしておいて、外部マイクでしゃべりを拾うようにしておく。こうすれば一円もかけずにライブ放映できる。このへんの試行錯誤の様子はtwitterのこのあたりにあります。たぶん、スライド見せるにはこのやり方がいちばん良いはず。

ただ、誤算だったのは会場ではイーモバもWiMaxも電波が弱くて、Ustream Producerがサーバに繋がらなかったこと。唯一ネットにつながっていたのはiPhoneの3G回線だったんで、じつはiPhoneで放映すればとりあえず音声だけでも流すことはできた。でもその準備はしてなかった。やっぱ経験積まないとね。一発ではなかなかうまくいかない。(<-これを全体の話のまとめにしたいらしい)


ともあれそのあとの飲み会も含めて、すごく楽しかった。(そのへんの様子はこちら:1/20および1/21) 参加した方にも楽しんでもらえてたらよいのだけれど。


Note 1: なお、empiricalに検証できるからにはempiricalにいろんなツッコミが可能だ。それはさておき、発表時に鈴木さんが指摘していたけど、この図式は入力から意識経験までしか考えていない、つまり、どう行動がなされ、どうやってそのような知覚経験がverifyされるか- 視覚的な遠隔地を含んだ空間把握なのか触覚的なperipersonal spaceでの空間把握なのかということは考慮されていない。ただし、そのようなことを考えることこそが身体を含んだ系で考えるということであり、ここではどちらかというと「脳だけで決まる説」を極端に図式的に捉えた上でその枠組みを批判する、という意図があるのだろう、というのがわたしの理解。

Note 2: 盲視患者でも、有名なGY氏による報告では、「なにかがあるようなかんじ」は実生活で経験することはなくて、実験室で非常に高輝度の視覚刺激が提示されるときしか経験されないらしい。「なにかがあるようなかんじ」が微弱なものである、ということは強調した方がよさそうだ。ちなみにこれは論文になってる。Consciousness and Cognitionに載ってる論文("Direct assessment of qualia in a blindsight participan")だけど、GY氏にFrank Jacksonの"epiphenomenal qualia"とかDennettの"Consciousness explained"とかStanford Encyclopedia of PhilosophyのQualiaの項目を読ませて(<-読ませたのかよ!)、氏のblind fieldでの経験が視覚のクオリアかどうか聞いたら「違う」ってのが答えだったそうな。これは哲学者にこそウケるネタということで紹介してみた。ちなみにStanford Encyclopedia of PhilosophyのQualiaの項目ってのはqualia-ML時代の私がML読書会をしたことがあって、いまでもブログのエントリとして残ってる:クオリアについての「心の哲学」

Note 3:とはいえ、後者の方がリアリスティックになるように議論してあるので、正直フェアではないのは確かだ。これは以前からの持論なのだけれど、ヒトを研究している人は内面を重視するので表象主義的方向に傾きやすい。動物を研究している人のほうがもっと環境との相互作用とか考える方に行くのではないかと思うのだけれど。いっぽうで、神経生理学をやっていると「neural correlate」という思想に強烈に染まるので表象主義的になるとも言える。行動分析やアフォーダンスや身体性的な考えが内面を問わずに話をしやすい動物研究など(<=「など」な。)で成功してきたのは偶然ではないので、その応用範囲だけ間違えなければいい、って話にもなる。

Note 4:「なにかがあるかんじ」についてあんまり額面通りとらえるのも正しくないかもしれない。たとえばの説明としてこんなのが考えられる。盲視が不思議なのは随意的な行動として能力が出る点なのだけれど(強制選択条件で正解する)、意識下で体の方はいくらでも情報を持っているし、反応もしている。たとえば視覚刺激が提示されたら、たとえそれが意識的には見えなかったとしても、瞳孔は収縮しているだろうし、vergenceとかも変わっているかもしれない。だったら訓練を積むことによってそのような体の変化を内的に(proprioceptiveに-内臓感覚みたいに)awareすることができるかもしれない。たしかにそれは視覚経験とは異なっているかもしれないけれども、それは意識下の体の変化を知覚したということであって、なんにも不思議なことではない。

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# kita-san

ご講演聴けなくて残念です。「ヒトを研究している人は内面を重視するので表象主義的方向に傾きやすい。動物を研究している人のほうがもっと環境との相互作用とか考える方に行くのではないかと思うのだけれど。」そうですね。二つの方向性は、単にアプローチの違いにとどまらず、そもそも意識経験の内実も違うという感じがします。言語的なレポートとの関係から規定できるような意識経験とそうでない意識経験との間に線を引きたい気がします。2009年のNIPS WorkshopでN.ブロックもそのあたりを気にしていたような気がします。たしかハクワンのトークと吉田さんのトークについてもちょっとそんな反応していたように記憶してます。

多分吉田さんのような科学者の線引きは、こういう日常的概念を使った哲学者が好む(というか哲学者が安心してやれる)線引きとはちがってくるでしょうね。そのため、心の哲学者は心の科学者との対話に尻込みするということもあるかもしれません。

それはともかく、もしアフォーダンス系のアプローチに動物の意識経験もヒトの意識経験も収めようとすると、こういう風になるのかなというお話が一つ。2010年9月の日本心理学会でアフォーダンスの河野哲也先生のオーガナイズしたセッションに参加したとき、アフォーダンスの人たちの「運動ショーヴィニズム」からすこし距離をとって、意識経験に注目することを提言してみました。ヒトの内面的な意識経験というのは、記憶や推論に関係づけられることも多いですが、言語コミュニケーションの一部に組み込まれたものとして見て、人的コミュニケーション環境との相互作用だと考えたほうがいいのじゃないかと提言してみました。人的環境というのがなんなのか研究するのもたいへんでしょうが。

# pooneil

(kita-sanにはFacebookのほうに書き込んでくださったことをこちらにも転載していただきました。どうもありがとうございます。)
コメントありがとうございます。これは重要なポイントですね。
この件、nohuman primatesでニューロン活動を見て研究している者としては、ヒトでもnhpでも共通するような意識経験の部分に話を限局するのが得策かと考えております。たとえば両眼視野闘争での側頭葉のニューロン活動を使った議論というのはそういう前提を置いているかと思います。(もっと極端な言い方をするなら、言語や思考などの要素を混ぜるべきではない、とも言えます。つまり、ヒトの実験で意識を研究する際にも、刺激に文字を使ったりして不用意にセマンティックな要素を加えるべきではない。)
しかしそれはひとつの立場でしかないのもたしかです。
あとぜひ、「アフォーダンスの人たちの「運動ショーヴィニズム」からすこし距離をとって、意識経験に注目することを提言」、この話をASSC15の方にも演題として出していただけたらと思います。よろしくお願いします。

# 佐藤

ちょうど盲視について調べていて
母校南山の名前を見つけたため、アクセスしています。
コメント興味深く拝読させていただきました。

当方、一ヶ月ほど前に20代で脳梗塞のため、同名半盲になりました。
視野の拡大について調べています。

# pooneil

佐藤さん、はじめまして、生理学研究所の吉田です。一ヶ月前ということはまだたいへんな時期ですね。お大事にしてください。
わたし自身は医師ではありませんので、具体的にこういうリハビリがよいというようなことを言うことはできませんが、以前わたしが関わった同名半盲や盲視に関する記事がいくつかありますのでメールに添付しておきました。それでは。


2011年01月19日

[告知] 1/20(木)に南山大学哲学セミナーでトークします

こんど南山大学哲学セミナーというので話をしてきます。心の哲学の鈴木貴之さんに声をかけていただきました。1月20日(木)17:00-19:00、場所:南山大学名古屋キャンパス第1研究棟4階415号室。参加申込は不要。テーマは「盲視(blindsight)研究の最前線」です。

Ustream流す予定です。通信速度的にうまくいくかどうかわかりませんが、ぜひ覗いてみてください:http://www.ustream.tv/channel/pooneil68


2010年04月26日

Second-person perspective toward consciousness

In "I and Thou" Martin Buber wrote that

"the world as experience belongs to the basic word I-It. The basic word I-You establishes the world of relation." (Martin Buber, I and Thou, Translated by Walter Kaufmann. (New York: Scribner’s, 1970), p. 56)

Yes, I-It contains what we calls "first-person perspective"(subjective / phenomenological) and "third person perspective"(objective / scientific). The idea of I-You relationship led me to think about SECOND-person perspective, or we would call it EXISTENTIAL perspective.

I am not fully devoted to social neuroscience but am a proponent of the idea that social relation precedes phenomenal world. At this level, emotion, reward, goal-directedness etc. can be regarded as a SOURCE of consciousness - which is somewhat Buddhistic view (*). This idea may also change the realm of what is experience and what is relation.

Thinking about the existential perspective more extensively may be the way to extend sensorimotor view of consciousness to reconcile with the view of people who believe that nonhuman animal does not have consciousness. For them, sensorimotor view seems to be an explanation of PROTO-consciousness.


2010年03月23日

三段階のモデルの議論

ブログに書いたネタの続き。Neurobiological theoryについて。
2004年の生理研COEシンポジウムの時に川人先生と小田先生と一緒にお酒を飲む機会があって、川人先生にサッカードの計算論的モデルというものはありますか? と聞かれたことがあります。
(注:設楽さん、五味さん、小林さんの仕事)
FindlayのモデルのようないわゆるNeurobiological modelはあるけど、Marrがいうような計算論的モデルはない、という趣旨のことをもっとしどろもどろになりながら答えた憶えがあります。それ以来のその質問は私の中で宿題として残っていました。
たとえば、Dola Angelakiがsaccadeのfeedforward modelとfeedback modelの議論をしていましたが、これはかなり計算論的モデルに近いところの議論です。
また、SparksとWurtzの間で上丘codeしているのはsaccadeのdisplacement か、retinal errorか、という論争がありましたが、これもサッカードをする際にどのようなアルゴリズムの実装で行っているかという議論と考えることができるでしょう。
しかし、reachingの議論でいうところの、end pointのvarianceの最小化とか、軌道のなめらかさを最大化するとか、そういう意味での計算論的な価値関数みたいな議論は見ない気がします。 varianceの最小化とかはいかにもやってそうですけど。
たぶん、サッカード単体での最適化を考えるのはあまりエコロジカルに意義のある問題が出てこないので、たとえばウォーリーを探せ課題みたいな条件で、いかに探索を効率よくやるか、みたいな問題設定をした上で計算論的な価値関数を見つけるということをやった方がいいんじゃないかと思います。
つまり、overt-covert両方のattentionまで併せたくらいの大きさの問題を考える方がよいような。
「複数のアクションや他者との協調を考えた問題」みたいなこともブログに書きましたが、けっきょくMarr の図式はある単体の問題ごとに作られる図式だから、どうやってより複雑な問題に当てはめるかということ自体がひとつのチャレンジになるのではないかと思います。
こうやって書くと、三段階のモデルの議論は (まとまらないのでこのままアップ。20120122)



2010年03月17日

Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する(2)

前回からの続きです。では、これを使って、以前書いたMarrの3x2の静的構造(三つのレベル * process/representation)を、弁証法的にメタに上っていけるような構造として捉え直すことができるんではないか、なんてことをわたしは考えた。まだかなり生煮えなアイデアなのだけれど、書いてみましょう。書いてると整理できてくる。

marr2.png

例として、decision taskをやっているときのLIP-FEF-SCニューロンの活動をrise-to-thresholdモデルを使ってモデル化する状況を考えてみる。われわれはLIP-FEF-SCニューロンの活動を記録する。単一ニューロンかもしれないし、集団かもしれないし、LFPかもしれない。また、発火頻度を扱ってるかもしれないし、correlationやcoherenceをあつかっているかもしれない。どうあれ、これらは観察者の我々から見た情報表現だ。

ShadlenやSchallの仕事とかで、LIPやFEFのニューロンはdecisionが済んでサッカードをする直前にある一定の発火頻度まで上がることがわかっている。たとえば、reaction timeが短いときはその発火頻度まで上がってくるのにかかる時間が短かったりする。こういうのを使ってneural correlate of decisionだ、みたいな主張をする。

しかし、常々思っていたのだけれど、こういうときのthresholdの実体とはなんだろうか? つまり、計算論的モデルでthresholdというパラメータを設定したとして、これのneural correlate of thresholdのようなものはありうるのだろうか? どこでサッカードが始まるかの発火頻度の値のことだから、やっぱりFEF/LIPニューロンの活動でしょ、というのが大方の意見だと思うのだけど、なんか変だとずっと思ってた。これがいまの図式だともっとうまく説明できる。

つまり、decision thresholdの変化というのは、(たとえば)LIPニューロンからの入力がFEFニューロンで統合されて発火として出力されるときの変換関数(=process)の形の変化のことだ。だから、decision threshold (representation)を直接ニューロン活動(representation)で説明しようとするのはクラスからクラスのクラスへ飛ぶような誤りをしているのであって、かならずやprocessを介して考えないと見誤る。変換関数(process)じたいはもちろん実体(representation)を持っていて、膜電位レベルとかそういうものによって決まっている。でもthresholdの調節はあるニューロンの応答特性を他の入力によって変える(shunting inhibitionでもtonicなinhibitionでもup-state-down stateでも)というようなprocessとして説明しないと、充分な説明にならない。

このようにして決められたdecision thresholdがパラメータとなっているrise-to-thresholdモデルというアルゴリズムがあって、それは計算論レベルでは何らかの評価関数を最適化している。いまの場合だったらreward rate (=payoff: しかも時間あたりの労力を加味した上での)だろう。そうしてそれはspeed-accuracy tradeoffによって拘束されている。拘束されているという表現からもわかるように、ここはエコロジカルな意義によって決定づけられている。Marrの三つのレベルではあくまで工学的な捉え方からこのレベルを「計算論のレベル」と読んだけど、我々生き物がembodiedしたcognitionを行うときの階層として捉え直すならば、「エコロジカルな意義のレベル」と呼んでもいいんじゃないかと思う。

たぶん、この階段はさらに上に上ることができて、社会的な意義とかのところまで行ける。単一のcognition, actionでここまで考える必要がある機会は少ないかもしれない。でも、いろんなcognition, actionが協調した上でなにかを最適化するという場面(複数の行動の連携、他者の行動との協調など)ではこのメタなレベルの出番が出てくるのではないか。

ともあれ、上の階層に行くほどにそんなにバリエーションは多くなくなる。MarrのVisionでの計算論レベルでの目標というのも「外界の画像から、不適切な情報によって乱されない、観察者にとって有用な記述を作り出す」というところに収束する。「観察者にとって有用な記述」ってのはMarrの表現だけど、もろにエコロジカルな意義そのものだ。

いまの図では実験データから抽象する側に矢印が書いてあるけど、もちろん実際の作業ではこのレベルを上ったり降りたりしながらモデルがrefineされてゆく。

たとえば、rise-to-threshold modelと書いたけどその中にはさらにいろんな実装があって、複数のdecision signalがthresholdまで競争するrace modelやらdecision signalの差分だけを評価して決めるモデル(Ratcliff modelはこっち)などがある。これらを選択するときには、これらのモデルで使われるパラメータのどっち(差なのか絶対値なのか)が脳内のプロセス作り出されているか、という風に決めてやるのが一番強い。この意味でいわゆるneurobiological model (生理学的データに整合性のある挙動を示すように作った神経回路モデル)の重要性がある。心理物理だけで、つまり、行動とモデルとの対応付けだけでは脳での実装が考えられていないから、充分な拘束条件を与えないままに問題を解いていることになる。それでも解けてしまう問題もあるのだろうけど。(そもそも元の図式にも「行動」がないというのが変な話だ。正確に言うと、中間のレベルは心理物理によって明らかにすることができる、という言い方で取り込まれてはいるのだけれど。)

いわゆるneurobiological model、たとえばの例ではDoug Munozのmoving hill hypothesisとかは計算論的視点がないので(なにを最適化しているかということに対する答えを持っていない)、Marrが言う意味での計算論モデルにはなっていない。だからといって軽視する必要はなくて、そのようなneurobiological modelというのはある意味、ハードウェア実装レベルでのprocessについての記述となっていると言えるかもしれない。(たとえそんなに精密なものではなかったとしても。) あ、いま書いてて気づいたことだけど、これは意義深いかもしれない。ハードウェア実装レベルのprocessを記述するというのは難しいことであるけれど、プリミティブなものはすでにある。Sommer-Wurtzのcorollary dischargeだって、Naya-Yoshida-Miyashitaのbackward spreadingだって、fMRIで出てくるfunctional connectiityだって、脳間のinteractionを見ているものはみんなそういう方向を目指している。

この図式はほかの場面でも使える。Saliency mapでのwinner-take-allがどのようなモデルのパラメータで表現されるものを統合していて、それのneural correlateを考えるためにはどんなニューロン間の相互作用を考えるべきなのか、というふうに考えていけばよい。

あと、「ニューロン間相互作用」というのはもちろん、シナプス伝達によるdendriteでの統合だけを考える必要はなくて、LFPレベルの電場が揺れて同期発火するとかそのあたりも併せて考えればよい。ニューロン活動のレベルと、もっとglobalなstateと、計算論的問題とをどうつなげればよいかを考える際にも、いまの図式は役立つはずだ。

いま書いていることをスローガン的に言えば、システムニューロサイエンスをneural correlate探しの博物学(representation)から計算論的アルゴリズム解明のためのモデル化(process)へ移行させよう、ということになる。こういう言い方ならたぶん多くの人が同意してくれると思う。いま作った図式はそのムーブメントを進めていく上でのフレームワークとなりうるのではないだろうか。

たぶんいろいろと疑問が出ると思う。はたしてこの階段のステップは飛び越せないのだろうか? じっさい、これまでの多くのシステムニューロサイエンスの仕事はこのステップをいくつか飛ばしているように思う。たぶん、そのときにはいろんなimplicitな過程をおいて飛ばしている。そこにはtrivialなものもあれば、見逃せないものもあるだろう。なんにしろ、具体例を持ってきて考えることができそうだ。

たとえば、decodingとかneural correlateとかはどちらかというと確信犯的に途中のステップを飛ばしている。Perceptual decisionの結果がMTの活動と相関しているのは確かで、それを直接結びつけることができたのはすごいことだけど、MTの活動自体はretina->LGN->V1->MTと順番に統合が進んでいく中でのconnectionist model的に言えば中間表現に過ぎない(注)。だから、それがどうしてperceptual decisionの結果と一致するかを「相関」ではなくて操作可能な「精密科学」として解明してゆくためにはこの図式にあるようなステップを上り下りする必要があるのではないだろうか。(ここをちゃんと突き詰めると、neural correlate of XX批判になる。Opinion論文を作るときには喧嘩を売ることが重要なので、ここを研ぎ澄ませる意義はある。それはまた今度。)

(注:そこにexplicitなrepresentationがある必然性はない。なのになぜかそうなっている。これ自体はsparse codingの機能的意義として考える必要がある。)

たぶん、process-representationの分け方はハードウェアによる実装のレベルではより重要だ、というのも、測定系の限界ゆえに、representationを調べられるのはほんの一部分だけだし、それを使ってprocessを明らかにするということはまだ方法論的に非常に難しい。いまのBMIやoptogeneticsが切り開こうとしているのはこの領域だ。

一方で、計算論のレベルや計算論モデルの実装のレベルなどではこのprocess-representationを分けて取り扱うということ自体はそんなにcriticalではない。両者は同時に行うことができる。(Speed-accuracy tradeoffを考えずにpayoffを評価してもあまり意味がない。) それでも、Ullman-Koch 1985でアルゴリズムとしてのsaliency mapが提唱されてからItti-Koch 1998でそれを計算モデルとして実装してそれぞれのパラメータを決めて動くようにするまでには10年以上の時間が必要だった。だから、たぶん必ずしもtrivialな問題なわけではない。(ちなみにそれをさらに脳損傷モデルによって、そのモデルパラメータの挙動を調べることで、このアルゴリズムをrefineする、つまりハードウェア実装レベルと繋げようというのがまさにいま私がやっていることだったりする。)

Marrの表現では二番目のレベルは「表象とアルゴリズム」のレベルだが、表象自体はほかのレベルにもあるので、言い方を変えてみた。計算論的なレベルをより具体的にどういうアルゴリズムでimplementeするか、というのが本質だと思う。

もはや大学院講義で話すべきネタではなくなっている。こんなことが頭の中をぐるぐる回っていて、宿題はどんどん拡散してゆく。まあ、得てしてこういうときがいちばん面白いこと考えつくんで、こうやって書き付けておく。どんどん加筆していったので、前提とかの順番はひっくり返ってるかも。

あとはいくつか文脈的につなげられなかったメモを落ち穂拾い。

Hebbのorganization of behaviorからcovariance ruleだけでなくcell assemblyが再評価されたように、Marrも三つのレベルの話だけでなく、process-representationの軸の方も見直したらいいのではないかと考えてる。

ベイトソンは数学を使えなかったけど、いろんなところに構造とその相互関係を見いだした構造主義者としてとらえることができる。レヴィ・ストロースの構造主義的人類学の先駆者と言えるわけだし。でもって、ベイトソンはそういうブーツストラップを考えていたんだから、静的な構造主義ではなくて、「構造と力」というところまでたどり着いていたとは言えないの? 「構造と力」でメルロ・ポンティが予定調和と批判されるからには、たぶんわたしの誤読なんだろうけど。

Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する(1)

以前ブログに書いた、attentionはprocessで awarenessはrepresentationであるという話をもっとrefineして、大学院講義に使えないかと考えてたらいろいろ話が広がってきたのでそれについて書きます。まず、これまでにこれまでにどんなことを書いてたかまとめておきます。

  • まずattentionとawarenessは説明のレベルが別だから、同じものか別のものかを議論するのはそもそもカテゴリーエラーである。(20070710)
  • Binocular rivalryでのITの応答はほぼ100%のcellで見えと一致しているが(見えたときに活動する)、V4では逆向きのもの(見えたときに活動が抑制される)も同じくらいある。だから、ITの活動は内的なrepresentationを反映していて、V4の活動はselectionのprocessにおける中間表現を反映しているのではないか。 (20071212)
  • David MarrのVisionに書いてあるrepresentationとprocessの関係についてまとめて、脳内の活動にもrepresentationとしての活動とprocessとしての活動があるのではないか、さらに[順モデル-逆モデル]とを[process-representation]と対応づけることができるのではないか。 (20071213)

それをいま読み返してみたのだけれど、あのとき、ITの活動はrepresentationで、V4は processと書いたけど、あれは間違いだった。どっちともコードとして読みとる限りはrepresentationであって、processはニューロンとニューロンの間での変換過程にしかない。格好つけて表現すれば、processは不可視である。

そこで、計算機科学に興味がわく。Eval-applyによってprocess-representationの違いを飛び越すということの意味をもっと知りたい。Processは不可視だけれど、それはすぐに名前が与えられ、representationになる。Evalによってrepresentationがprocessに変換される。(スピード感出すために、expression-procedureをrepresentation-processと同一視しました。正しいかどうかはあとで確認。) 余談だけど、SICP読んでると(<-読むな)、フレーズがかっこよすぎて震える。"The Metacircular Evaluator"とか。メタ! サーキュラー!! エヴァリュエーター!!! アクセル!!!!みたいな。

それで、ここからが本題なのだけれど、20071213でほんのすこしベイトソンに言及した。ここをもう少し先に進めてみる。

ベイトソンは「精神と自然」において、process-representaionがブーツストラップしてどんどんメタになってゆく図式を示している。(以前書いたレジメ)

もうちょっと正確に書くと、ベイトソンは7章の"from classification to process"において、クラスからクラスのクラスへとメタに扱うときには、「名付けられる現象」(process) <- 「分類したクラス」(form) <- 「クラス間の相互作用」(process) <- 「相互作用の分類」(form)というふうにprocessとformとが互い違いに関連していく図式を書いている。名付けることによってprocessからformに論理レベルを一つ上るところがrepresentationであって、processとnameとのmapping(=ベイトソンの表現で言うとトートロジー)のことだ。(図式を書いている時間はないので省略。)

さらにこの図式を使ってMittelstadtのcalibration-feedbackの弁証法的関係も説明している。calibration-feedback!!! 内部モデルと繋がった!!! キタキタ!!! そりゃそうだ。Mittelstadtはvon Holstとの共著でefference copyの概念をはじめて導入した人ですからね。(同時期にSperryのcollorary dischargeがあり、概念そのものはHelmholtzのときからあった。) いっぽうで、ベイトソンはメイシー会議にも出席した、サイバネティクスの時代の人だし。(ちなみに原書で読むと、どうやらベイトソンはvon HolstとMittelstadtが別人であることをわかってない節がある。 )

興奮してないで説明を続けると、targetへのreachingを例に取ります。手を伸ばしながら、targetとのずれをオンラインで補正しながら正確にtargetにたどり着く。これはfeedback。このようなactionの統計的データ(actionのクラス)に基づいてreachingの向きを学習、補正するのがcalibration (feedforward)。よって、feedbackで行っていることと比べて、calibrationで行っていることはよりメタなものを取り扱っている。さらに、ここでのfeedback-calibrationがprocess-formの関係と同義であるとベイトソンは主張している。ここはとてもエキサイティングだ。このようなジグザグの階段の関係がperceptionにも当てはまるとして、エアコンのサーモスタットによる温度調節(物理的コントロール)からその部屋にいる人間の地位(社会性)までつなげた図式を書いている(「精神と自然」図11)。

では、これを使って、以前書いたMarrの3x2の静的構造(三つのレベル * process/representation)を、弁証法的にメタに上っていけるような構造として捉え直すことができるんではないか、なんてことをわたしは考えた。まだかなり生煮えなアイデアなのだけれど、書いてみましょう。書いてると整理できてくる。

長くなったのでここでいったん切ります。つづく。

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# y-ichisugi

The Metacircular Evaluator とかはかつての専門だったので、コメントいたします。(^_^;)

Marr の言う representation-process が scheme 言語の expression-procedure (プログラミング一般の用語で言えば「データ構造」と「アルゴリズム」)に相当する、というのは私もそう思います。
ベイトソンとの関係はよく理解できなかったです。

eval というのは、たとえば JavaScript の場合は "2+3" という文字列を関数 eval の引数に渡すと 5 が帰ってくる、というものです。別にたいそうなものではありません。

Lisp の The Metacircular Evaluator は、 (+ 2 3) というデータを引数に渡して呼び出すと 5 を返してくれるような関数 eval を、 Lisp を使って定義したものです。これも別に大したものではありません。 Lisp のインタープリタの構造を知る教材としては手頃ですが、哲学的・計算機科学的に深淵な意味があるものではありません。

# pooneil

>> Marr の言う representation-process が scheme 言語の expression-procedure (プログラミング一般の用語で言えば「データ構造」と「アルゴリズム」)に相当する、というのは私もそう思います。
そう言っていただけると、もうすこしこのへんを掘り進めてもよいかなという気がしてきました。どうもありがとうございます。
ちなみに本文を読んでいただければわかりますように、Metacircular Evaluatorはフレーズがかっこいいって言ってるだけで、それ自体についてはとくになにか言っているわけではありません。


2009年10月31日

研究集会感想からアクティブな知覚へ:コメント返答

前回のエントリにいただいたコメントに返答を書いてたら長くなりましたので、べつにエントリにしておきました。

>> 土谷さん、

こういう話をもっとしたかったですね。当日はほんとゆっくりしてられなかったですから。これはいつもこういう会を運営するときのジレンマです。

さてそれで返答ですが、わたしとしては土谷さんの指摘する点については逆だと思っていて、なんで夢や幻覚やimageryでの意識体験が普段の意識経験とそれぞれちょっとずつ違っているかを説明しようとしたら、そのような表象がどのように行動とつながっているかがそれぞれで違っていることを考慮しなければ足りないと考えています。

顔ニューロンから記録していたとして、表象としては夢でもimageryでも普段の意識経験でも同じようなものとしてしか取り出せないと思います。Imageryで活動するニューロンは同じものを見たときに同様なパターンで反応するし、だからこそそれがimageryについての応答と考えられるわけですから。そのような情報がどのように読み出されて行動につながるか、働きかけることが可能であるか、というところでこそ違いが出ると思います。

だから、夢の例は意識のpremotor theoryみたいなものからすれば反論というよりかは逆にそれを補強する材料となると思ってます。

また、sensorimotor theory的なものは、onlineで運動といつもカップルしていることを想定していないと思います。視覚運動変換による経験と学習とがofflineで脳内のニューロンに表象を作り、それをどうやって読み出すかということを規定する、という形で寄与していると考えています。じっさい、意識に機能があるとしてもonlineでなんかするというよりは、経験、学習、記憶のようなofflineのところでしか効いてこないことでしょう。(これは意識の機能の議論ではなくて、クオリアが入力によって自動的に生じるというよりは、学習や記憶の過程で後付け的にあったことにされるんではないだろうか、という意識の生成メカニズムの議論です。)

Alva Noeとかが好む説明だと、生まれつき目が見えなかった人が開眼手術直後にはものを見ることができないという話が出てくると思います。ある物体のアフォーダンスを獲得しないとその物体に対するクオリアはできないだろう、なんて作業仮説が作れるかもしれません。

だからそれを「ここでは、発達、発生、進化の話しは除外しています」という捉えてしまうのならば、私たちは別の話をしていることになります。私はneural correlate of XXを見つけるだけでは足りなくて、その先をどうすればよいかというところを考えているのですから。

以前ここで紹介した本に載っていたクリストフのインタビューでも、

ブラックモア:それらのニューロンを刺激して、患者が車をイメージしたと言ったら、あなたにとってはそれで話はおしまいですか?
クリストフ:いやいやまさか。そうするとそれらのニューロンがどこに投射しているか知りたくなるだろ。もしそのニューロンを取って、その対象を不活性化したらどうなる? (中略) 脳全体を歩き回ってNCCの特性をもっと明らかにしたいんだ。

という下りがあったのですが、そこで考えていることに近いといえるかもしれません。

それでread-outの問題も出てきてたわけです。ventral pathwayの高次視覚野にある脳内表象があったとして、行動につながる回路(dorsal pathwayやPFC)にそれがつながってゆくか、フィードバックで初期視覚野に伝わってゆくのか、その寄与が夢、imagery、普段の視覚経験でどう異なっているか、というようなempiricalな問題になると思います。

まあまたこんなことが議論できたらと思います。

>> nishiokovさん、

たぶん似たことを考えておられるのだと思うのですけど、「成立させるための条件」みたいな言い方だと間接的なものとして捉えられてしまうようです。「酸素がないと死んでしまうから酸素は意識経験の「成立させるための条件」だが、意識の解明で酸素について考える意義がない」のと同じで、「成立させるための条件」よりもっと直裁的な言い方が必要なのだろうと考えてます。

>> ふじーさん、

藤井さんの書いてあることはたぶん私の書いたことに関連したうえでの持論なんだと思うんですが、ちょっと文脈がとれませんでした。とはいえ、私のこのエントリも、藤井さんのエントリを見てインスパイヤされて書いた持論なんで、やってることは同じではあるのですが。

視覚意識の研究者が「ツールを作るという強烈な指向性がない」から「結局2番煎じの仕事しか出来ない」というふうに思ったということなのでしょうか? それともわたしがそうだというのでしょうか?

わたしじしんはSDTの拡張とか計算論的モデルへの志向を持ってますし、なんか哲学かぶれなことも書きますので、それを「既存技術の精緻化」とか「言葉はツールじゃないです」と批判されうるとは思いますが、それも私としては使える道具を増やすという意図でやってます。


2009年07月27日

ASSC13 Berlinの感想

6月にASSC13@Berlinに行ってきたんでその感想を書こうと思ったまま放置してました。記憶をたどりつつ書いてみます。
今年のミーティングは前半はほとんどひとりで過ごしてました。空き時間はホテルでスライド作りっていうかMatlabいじってたり(ギリギリすぎ!!!)。後半の方はUCLの金井さんと東大渡邊研の高橋さんとメシ食ったり語ったりしてました。いつも通り演説口調だったけど。今回はそのときがいちばん面白かったかな。
なんというか今回は端的に面識のある人があまりいなかったんですよね。Alex MaierもMelanie Wilkeもいなかったし、Olivier CarterもHakwan Lauも土谷さんもいなかったし。今回はちょっとニューロサイエンス色が弱くて、それよりかは心理物理って印象でしょうか。あと、Ned BlockもChristof Kochも会場でほとんど見かけなかったし。(サボりをいいつけるオレww)
私の発表の方は今年もトークでアクセプトされたのですが、今年入ったセッションはなんかanimal consciousness系というかんじで、私の次のトークは「魚には意識はない、なぜなら視床がないからだ」っていう突っ込みどころ満載の人で、そのつぎはソーク研究所のDavid Edelmanで、「タコに意識はあるか」というよりは「どのくらい知的な行動ができるか」というもので、こちらはおもしろくてまっとうな仕事なのだけれど(もうすぐTICSにレビューが出るとのこと)、基本的に行動についての仕事で、ニューロンの話はなし。ともあれ、それだけ動物での話というのが全体でも少なかったということです。これは会場がヨーロッパであるが故えのことですかね?
というわけで、私はゴリゴリに電気生理の話(「盲視のnhpにはある種のawarenessがあって、それが上丘で表象されている」)をしたらなんか浮いてた。ただ、それなりにオーディエンスは多かったし、chair personはPetra Stoerigだったし、Ned Blockも見に来てたし(あとたぶんAnil Sethもいたような)、John-Dylan Haynesも一番前で聞いてくれて、質問してくれた。というわけで届けたいと思った人には届いたのでよかったのではないかと思います。(2年前のラスベガスのときと比べたらpresenseという意味では大進歩ですよ。)
John-Dylan Haynesの質問は、「普段の行動で見えてないと思えるような証拠はあるのか」というもので、それは想定内なので返答をしたけど、ともあれあまり深い話にはなりませんでした。
Petra Stoerigと会うのも初めてだったので、hemianopiaの人のどのくらいがblindsightになり得るのか聞いてみたんだけど、リハビリのモチベーションがあって十分トレーニングできればだいたいresidual visionがでてくるみたいな話をしてくれた。あと、nhpのblindsightはtype II的なものなのではないか? PetraのCerebral Cortex 2002のRosieのデータなんかはそのように見えるけど?みたいな質問をしたら認めてた。とくにRosieは長期間トレーニングをしているからtype II-likeなのだろう、みたいな話になった。そういう意味ではうちのがtype II-likeなのと整合性がある。種差の問題とかもそれで解決しそうな印象。そういうわけで、Petraと私との間でこの点に関する争点が消失してしまった!!! Petra自身はなんつうかおっとりとした方で、がんがん論争をぶつけるとかそういうかんじではないのでちょっとつかみ所のないのだけれど、ともあれ今回のドイツ行きの目的の大半はこれで済んでしまった。(あとは、もしVSSに行けてたらPaul Azzopardiと議論できたはずなのだけれど。)
今回の学会で印象深かったのは、Tononiのintegration theoryがものすごくフィーチャーされていた点でしょうか。Prenary lectureがTononiだっただけでなく、Kochもこれの解説と簡単なシミュレーションとかをトークでしゃべってたし、Anil SethもTICSの内容(integration theoryと自身のgranger causalityについての研究をまとめたネットワーク的振る舞いについての計算論的研究とかをまとめたもの)をしゃべってた。以前わたしはTononiのinformation integration theory of consciousnessでこういう話は好きだけどempiricalな問題への応用可能性の点で懐疑的だ、みたいなかんじで書いていたのだけれど、こういう状況を見てたら、なんかもう少し時間をかけてしっかり勉強してみようという気になりました。これが最大のポイントですかね。あとは上記の通り、ニューロン活動記録のような話がほぼ皆無(fMRIとかEEGとかはたくさんある)だったんで、ちょっとこの状況は気になりましたね。もうSFNのほうはだれかが呼んでくれるときに行くことにして、VSSとASSCに積極的に行き続けようとか思っていたのですけど、ここは心配。(次回はcosyneにも行っておきたい。)
今年のミーティングはひきこもり気味だったのであんまり観光に行ってないですけど、会場が市内の中心地(ミッテとか自由大通りとかそっち)だったんで、美術館島とか行ってきました。やっぱドイツだし、ということでiPhoneにはAmon DüülとかCANとかクラウトロック系を入れておきましたけど、これが正解。ペルガモン美術館ってヘレニズム系のでかい遺跡がたくさん並んでるところが有名ですけど、バビロニアのあれ(頭が鷲で体が兵士みたいなやつとか)が並んだ「イシュタール門」ってのがあるんですよ。これはかなりキタ。さっそく博物館の説明用のヘッドホンのふりしてAmon Düülの"Psychedelic Underground"を一曲目から通しでずっと聞く。すげーよく合う。見るもの全部なんかサイケデリックなかんじにさせてくれました。残念ながら音量は控えめにしてましたけどね。良い経験でした。歩き疲れて、ペルガモンの大祭壇に座ってAmon Düülの"Paradieswärts Düül"の気怠いの聴いたり。あと、行く前はテクノ系クラブ行こうとか気合い入ってましたけど(Tresorとか調べてたんですけど)、ちょっと無理でした。時差ボケで夜10時には寝てたし。
さて、学会の終わりには次回の会場が発表されていて、ASSC14 (2010)はトロントでMervin GoodaleがPresidentだそうです。そして、いよいよ来ましたよ! ASSC15 (2011)は京都で霊長研の松沢先生がPresidentです。さーキタキタ!!! これは忙しくなるよ!!! (なんか勝手に準備体操とかしてる。)
というわけでそんなASSC15に向けてという面からも、今年の岡崎のワークショップNIPS-SSCをどんどん盛り上げて盛況でいきたいと思います。(NIPS-SSCという名前からわかるように、ASSCから名前をパクってます。Olivier Caterはべつにいいって言ってたんでありってことで。そういうわけで、NIPS-SSCは非公式pre-ASSC meetingという位置づけにしてあるのです。) というわけでぜひポスター応募(締め切り7/31)の方をよろしくお願いします(宣伝にも抜かりなし)。


2009年05月22日

ベイズ脳とsensorimotor contingency hypothesisとワイシャツと私

こういうメモをたくさん作ってるんだけど、死蔵せずに表に出しておきます。まったく威勢だけはいいんで、ま、ある種のマニフェストですな。

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[フィルタとしての視覚]

特徴抽出をするdetectorを作る、というのがスタート地点だった。

これ自体は一見問題ないように思える。
しかし我々の感覚と認知と行動はクローズドループだ。

# 行動によって周りの環境が変わり、
# 感覚入力も変わる、これがクローズドループ。

クローズドループである影響を取り扱うために、
感覚入力以外のすべてが「トップダウンの要素」
に押し込められてしまう。

# 「受動的」な要素の抽出と
# top-downによるその修飾

よって、その修飾を議論することは出来ても、それより先に行けない。
(top-downはなにを「表象」しているか?)

これが視覚野での応答とそのmodulation、
前頭葉から来る「トップダウン信号」というパラダイムが
早晩スタックするだろうとわたしが思っている理由だ。

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[ベイジアンな視覚]

クローズドループでのコントロールを扱うためには、
「なにかを表象している」という言い方ではなくて、
「外部の環境 - 内部状態」
をともに併せたダイナミクスの記述
をするのがより自然なアプローチだ。

# その意味では[ベイジアンな視覚]は
# [フィルタとしての視覚]が記述の複雑さを押さえるために
# 受動的側面から開始したのに対する
# 自然な拡張である、という言い方ができる。

内部状態とは
ニューロンの状態の記述であって、
「心理的表象」を必ずしも要請しない。
ニューロンの状態をすべて記述できれば
それとは独立した「心理的表象」がないのであれば、
「外部の環境 - 内部状態」
は「心理的表象」を含める必要がなくなる。

というわけで、
sensorimotor contingency hypothesis
は表象批判として始まり、それの徹底によって
「心的表象」をそもそも不要とするシステムになる。
(ここで前回のShadlenの話を思い出す。)

ただ、ここでの機能主義の徹底は
「クオリア、意識」どころか「心的表象」すら排除してしまうことになるので、
これはおかしい。

たとえば「言語活動」はどうなるか?
sensorimotor contingency hypothesis
はこれを排除するような形で成り立っているのではないか?

よって、「意識のsensorimotor contingency hypothesis」と言うときには、
以上では収まりきらないような、
極端行動主義ではない状況への当てはめが必要になる。
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ちなみに「カルマンフィルタ」としての視覚と言うときの「フィルタ」は
視覚刺激から表象へのフィルタではなくて、
視覚刺激から行動へのフィルタと言うべき。
もはや「フィルタ」という言葉を使う必要はなくなっているとは思うのだけれど。
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意識、awarenessの概念の安易な使用を防ぐために、
単なる表象、codingの問題のときにはそれを分けて考えるべきだ。

その意味でいちばんやっておくべき仕事は
「neural correlate of consciousness (NCC)」の
"neural correlate"っていったいなによ、ってこと。
これはconsciousnessの問題ではなくて、
表象とencoding/decodingの問題なんだと思う。
こっから片付けていこう。
--------
こういうことを、神経生理学者が言って、
それを神経生理学の実験として落とし込むところこそがチャレンジ。
「言うだけなら誰でもできるさ」とまでは言わないけど、
こっから先にこそ意味があると思ってるし、
それがこっから10年先の俺の仕事だと思ってんの。
(<-宣言しちゃったYO!)

2008年12月25日

Alva Noeのfilling-inと入不二氏の「クオリアの不在」

ラボの大掃除をしてたら、昔書いたメモ書きが出てきたので写し取ってみます。

Logicには時間がない。
Recurrentなネットワークは常に時間的遅れを持って自己言及するため、そのlogicはトートロジーではない。
常にメタの立場になるような形で、自己言及する。
(これこそが「オートポイエティック」--そのつどメタを作り出す。)
つまり、時間性とはメタになりつづける性質のことである。
(「進化」についてもコメントできる。)

たぶん2001年くらい、qualia-MLで活動してた頃のものでしょうか。ベイトソンから始まってオートポイエシスを発見した頃のことだと思います。「Logicには時間がない。」ってのはベイトソンの「精神と自然」のフレーズです。(以前作った要約が20000819にあります。)

あともひとつ。こちらはもうすこし長いです。あちこちから矢印が延びてわかりにくいので、(A),(B)などで繋がりを表記しときます。

filling-in.png

Edgeのqualiaというものはない。(A)
Edgeからfilling-inされたところにのみ、qualiaができる。(図左)
逆に、そのqualiaから仮想的なedgeを我々は見る。(図右) (B)
ゆえに我々はpureなedgeに対するqualiaを持たない。
Pureな線、点というものをqualiaとして持ちえない。(C)
このことは、qualiaがedge detectionではなくて、それによるfilling-inのレベルにneural correlateを持っていることを示している。
これは視覚では当てはまるが、聴覚では当てはまらない。他のmodalityと共有できる原理が必要。
(->空間のfilling-inと時間のfilling-inとを考える。)
Visualは空間を埋めるqualia。Auditoryは? Somatosensoryは? (D)
そもそもfilling-inはなにかを「表象」しているか? <--> qualiaはある。(E)
Edgeは「表象」している。<--> qualiaなし。(F)
((E)と(F)のあいだに)ここにねじれ、相互隠蔽の構造がある。
->表象とqualiaは互いを隠し合う。

((A)と(C)は)Abduction的にlogicがcircularになっている。橋本治的に、問題がcircularなときには答えもcircularであるべき。(->これは脱構築なのか?) 入不二(表象とqualia)とかも同じか?
(B) 色のクオリアは「面」でのみ有効であるということ? (->色だけではない。)
(C) これはプラトン的世界。経験からは離れている。
((D)と(E)は)ここには循環がある。

こちらはいろいろ考えてみたんだけど、けっきょくのところ、Alva Noeのfilling-inのBBS(PDF)と入不二基義氏の「クオリアの不在」とをつなげて考えてた、ということが書いているうちにわかってきた、というメモです。たぶんこれも2001-2003年あたりでしょう。

以前はこういうことが夜寝る前にいきなり浮かんできて、周りの紙にものすごい勢いで書きつづったりしたものなのですけど、さいきんはもっと実務的なことに頭が行きがちです。(あとでラボに行って、こういう解析をしてみよう、とか。) こうやって考えつづけてきたことと、今やっているempiricalなアプローチとがいつかconvergeすればよいと思っているのですけど。

そういう意味では、「qualiaがedge detectionではなくて、それによるfilling-inのレベルにneural correlateを持っている」、これは有効なアイデアだと思ってます。Kochを含めて、現在NCC (neural correlate of consciousness)をやっている人たちが言うようなNCCは、見ているレベルが違うんではないか、というのがおぼろげながらイメージとしてはあって、まだそれを完全に言語化できないでいるんです。

だから、「edge detectionのレベルでのneural correlate」と「filling-inのレベルでのneural correlate」との関係というのが、一つの入り口にできるのではないかと。後者では、表象として取り扱えないようなものを見ようとしているので、このまま後者のneural correlateを見つけたところで、それはたぶんこれまでのNCCと変わりはない。でももしかしたら、前者と後者の関係の関係には意味があるかもしれない。前者と後者の関係を、まさに上記の「相互隠蔽をするような構造」として捉えられるように問題を取り扱うことができたら、それがわたしがいまここで捉えようとしていることを達成できたことになると思う。


2008年10月16日

JNS論文「線条皮質の損傷は慎重な意思決定およびサッカードの制御に影響を及ぼす」が出ました

生理研で進めていたプロジェクトから最初の論文がやっと出ました。
Yoshida M. et.al., "Striate Cortical Lesions Affect Deliberate Decision and Control of Saccade: Implication for Blindsight" The Journal of Neuroscience, October 15, 2008 28(42):10517-10530
要はV1 lesionによって、サッカードの軌道は真っ直ぐになるし、サッカードの応答潜時は早くなる、だからV1 lesionによってvisionだけではなくてsaccade controlやdecisionまで影響を受けるのだ、という話です。
内部モデルとかdiffusion modelとかいろんなこと言ってます。いろいろコントロールデータも取ってます。本編のfigureが11個でsupplementaryにさらに7個。論文3本分のデータをつっこんであります。そのままだと一つの論文には一つのテーマという一般ルールから外れますんで、それらを全部合わせて、「visionだけでなくそれ以降のprocessing (decision makingやmotor control) も変わる」という一つのストーリーにしました。
いろいろ書いてありますが、わたしがいちばん言いたいことは、「V1 lesion後のvisionはnormal visionでのnear-threshold条件とは違う」ということでして、そのためのサッカードの解析です。その意味ではこの論文もblindsightの研究です。
苦節5年でここまで来ましたが、これはあくまで実験系の確立と基礎的データの記述を行った論文でして、本丸はこれまで学会などで発表してきた電気生理です。こちらにもどうかご期待を。
要旨は以下の通り:
Monkeys with unilateral lesions of the primary visual cortex (V1) can make saccades to visual stimuli in their contralateral ("affected") hemifield, but their sensitivity to luminance contrast is reduced. We examined whether the effects of V1 lesions were restricted to vision or included later stages of visual– oculomotor processing. Monkeys with unilateral V1 lesions were tested with a visually guided saccade task with stimuli in various spatial positions and of various luminance contrasts. Saccades to the stimuli in the affected hemifield were compared with those to the near-threshold stimuli in the normal hemifield so that the performances of localization were similar. Scatter in the end points of saccades to the affected hemifield was much larger than that of saccades to the near-threshold stimuli in the normal hemifield. Additional analysis revealed that this was because the initial directional error was not as sufficiently compensated as it was in the normal hemifield. The distribution of saccadic reaction times in the affected hemifield tended to be narrow. We modeled the distribution of saccadic reaction times by a modified diffusion model and obtained evidence that the decision threshold for initiation of saccades to the affected hemifield was lower than that for saccades to the normal hemifield. These results suggest that the geniculostriate pathway is crucial for on-line compensatory mechanisms of saccadic control and for decision processes. We propose that these results reflect deficits in deliberate control of visual–oculomotor processing after V1 lesions, which may parallel loss of visual awareness in human blindsight patients.
記者会見もやってきました。GFPの下村教授のノーベル化学賞受賞の次の日でしたが、記者の方には集まっていただけました。
昨年10月から小泉周さんが生理研の広報展開推進室の准教授に就任して積極的に広報活動を行ってくださっています。EurekAlertにも出してもらいました。同じ内容がPhysOrg.comにも。生理研のサイトのプレスリリースにも出ました。
さてさてさっさと次へ行きますので。

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# knh

おめでとうございます。私もがんばります。

# pooneil

どうもありがとうございます。nhkさん、改名した?

# knh

頻繁に変異しますが気にしないで下さい。

# viking

おめでとうございます。ご自身でreviewはなさらないんでしょうか?(期待感に満ちた目)

# pooneil

ども。しない予定です。


2008年09月20日

James DiCarloのuntangled representation space

こないだの神経科学大会のときに招かれたJames DiCarloが生理研にやってきてトークをしました。私もラボツアーに入れてもらって、宮下研時代の仕事についての話をしたり、いまの自分の仕事を説明したり。(hit-missでeye positionに差がないかチェックしたほうがよいと言われた。)

James DiCarloは以前はJohn MaunsellのところにいてIT neuronの反応選択性とeye movementの関係についての一連の仕事をしてきました。

要はIT neuronの反応のinvarianceの形成(ニューロンの反応が、たとえば顔の向きや網膜上の位置やなどに依らずに一定の関係を持っている)に興味があったのだと思いますが、いまいち地味な仕事だと思ってました。

そのあとMITで独立してからは

といったinvariant representationとdecodingに特化した仕事を進めていて、今回はそのへんの話をしてました。

いつもどおり論文を印刷して、それを広げながらセミナーを聞いて、あれこれ質問してみたり。

まず、Science 2005では、ITからMUAを記録して、複数のサイトからの活動を使ってobject刺激のclassifierを作ってやる。SVMを使ってるらしい。原理的には判別分析だから、ある刺激Aが出てるのか、それ以外なのかを判別するということをしているはず。(n個の刺激からひとつの刺激を選ぶidentificationのときにはどうしているのか、n個のclassifierを使っているのか、論文を読めばいいんだけど不明。)

いったんclassifilerを作ったあとで、刺激の位置を変えたり、大きさを変えたりして、同じclassifierの性能を調べてみるとそんなに悪くならない。という話。

invariance.png

ここで判別分析を使っているということから、IT neuronのrepresentationが刺激空間において線形的な構造をしていて、position invarianceなどを達成している、という作業仮説が入っているわけです。

つまり、ITとかでは発火パターンは図の1)のようになっていて、positionの違いによってface Aとface Bのfiring rateが交差したりしない(図の2)のように)、というわけです。Invarianceといってもfiring rateがまったく変わらないという意味ではなくて交差しなければよいというわけですね。(ここでは1個のニューロンからの記録を使った説明になっていますが、原理的には多点記録して次元が増えても同じです。)

いっぽうで、V1とかでのrepresentationの空間はlocalなedgeによるからstimulus positionとかにものすごい影響を受けて、face Aでの発火とface Bでの発火とは交差しまくってるわけです。

だから、V1からITまで顔表象の処理が進んでいくあいだに起こっていることはそのようなfiring rateによる空間をdisentangleすることだ、というわけです。このへんがTICSに書いてあることだと思われ。印刷して図を見ただけなんで詳しいこと知ってる方は助けてください。

それではほんとうにそのようなinvarianceを積極的に作るようなメカニズムがあるのかどうかを検証するために、経験の影響を見る実験を作ったのがNature Neuroscience 2005。Position invarianceを短期的にひっくり返してやるために、図形Aと図形Bのどちらかが右か左に提示されて、それに向けてサッカードする。左に提示したときだけ、サッカード中に図形をswapする。つまり、図形Aを提示してたのにサッカードが終了すると図形Bになってる。Saccadic suppressionが効くから、このswapに被験者(ヒト)は気づかない。

それでここからがunpublished dataだけれども、nhpでニューロンを記録して同じことをやってやる。図を再利用すると、ITニューロンの応答は左視野(横軸の左側)に提示しようが右視野に提示しようが、face Aのときに強い(図の1)。そこで左サッカードの時だけ図形のswapをする。すると直後は図の2)のようにfiring rateは交差する。しかし、しばらくトレーニングを続けていると、また図の1)のように新しい関係の上で交差しないような発火になる、という話。これは強烈。Nature行ったっしょ(こればっかり)。

ポイントとしてはrewardには依らないこと。だからunsupervisedで経験に従ってlearningが起こるわけです。銅谷先生の大脳皮質の学習則の話ともconsistent。わたしはawarenessの有無は寄与しないのかを質問したんですが、上記のNature neuroscience 2005をreferして、すくなくともヒトではawarenessは無かった、って答えてました。

だいたい以上がセミナーでの話です。私が興味あるのは、このuntanglingということとKochのいうようなexplicitなrepresentationとsparse codingとの関係です。KochがNCCはexplicitなcodingをしている、つまりおばあさん細胞的なcodingをしているであろうと書くときにわたしはどうにも素朴なアイデアだなあと思ってました。もっとfiring rate以外も入れた複雑なcodingがありうるし、そういうものを積極的に排除する必然性に欠けていると思っていたからです。

しかし、今回のdisentanglingの話のように、ITのような複雑な視覚刺激を表象するところで、そのclassificationの性能(=decodingの性能)を上げるために、そのようなexplicitな(線形分離可能な)表現が使われているのだとしたら、そこには合目的性があります。(あくまでも意識そのものと直結する話ではないのだけれど。)

また、ここでのdisentanglingというのはけっきょくのところ表象空間での重なりを低減するということですから、個々のobjectの表象の独立性を上げる、つまりsparse codingをするように処理が進む、ということです。大脳皮質のニューロンでの情報処理がそのような独立性を上げることに寄与しているんだという話はHorace BarlowからBruno Olshausen (Nature 1996: 自然視覚情報のICAでできたbasis functionがgabor-patch, simple-cell-likeになる)の流れで言われてきたことでして、これがITでの複雑な視覚objectについても当てはまるということになると、そのようなexplicitなcodingというのにはやはり意味があるのかもしれません。

また、この話はまえにLogothetisのbinocular rivalryの話題をしたときに私が言ったこと(20071213などawareness関連のスレッド)と関連しそうです。つまり、ITニューロンでは90%がawarenessがあるときに反応が大きくなる。一方でV4などでは反応が大きくなるものと小さくなるものとが半々だった。だから、ITニューロンは処理の結果としてのrepresentされているまさにcontentを、V4ニューロンは処理の途中、いわばprocessを反映していると言えるのではないか、と書いたわけですが、今回の話と繋げてみれば、awarenessに上っていくようなかたちでdecode=read-outされる対象となるようなニューロン活動はsparseかつexplicitな表象をしている、というふうに言えるんではないだろうか、と思ったのです。ITニューロンのrepresentationとdecodingの問題をどうawarenessと結びつけることができるか、という問題意識です。

また論文を精読せずに書いてしまった。手癖だけでギター弾くみたいな、これはあまりよろしくない状況なのだけれど。

ではまた(唐突に)。

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# コラムが好き

どうも初めまして。いつも勉強させて頂いてます。という話はどうでもいいのですが、DiCarloのunpublishの話というのは最近Scienceに出たUnsupervised natural experience rapidly alters invariant object representation in visual cortex.とは違うのでしょうか?この論文もnhpの話で、ひとの心理物理と違うのは上下に刺激を出している点だったと思います。で、それも刺激選択性が完全に変化するのを示したのはマルチユニットデータのみという話。まぁ、マルチでもいいのかもしれませんが・・・・
それから、この話と直結しているのは、Dicarloが2007年のJNSにTrade-off between object selectivity and tolerance in monkey inferotemporal cortex.という論文を出しています。そこで、刺激選択性がsparseなneuronはinvarianceな性質(position,size,contrastなど)が低いということを示しています。
でexplicitな表象という話ではsheinbergの所から2007年のJNSにActivity of inferior temporal cortical neurons・・・・という論文と関連していると思うのですが、人のコメント欄で延々書き続けても申し訳ないので、これくらいで。

# pooneil

どうもありがとうございます。そうです、そのScience論文です。
このエントリ、じつは7月にDiCarloが来たときに書いておいたものだったのですが、公開するのを後回しにしているうちに出版されてしまったようです。しかも出版されたのを見逃しているし。

>>人のコメント欄で延々書き続けても申し訳ないので

ということはけっしてないので、ぜひもっと書いてください。いろいろ読んでおかないといけない論文があるのですが、ぜんぜん手が回っていないので、この話題を続けてくださるとたいへんありがたいです。

もし長文になるようでしたら私宛てでメールで送っていただければ、それを掲載しますので。たとえばこれまでの例として、ハーバードの内田さんが寄稿してくださった
http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/permalink/000688.php
とか東大の池谷君が寄稿してくださった
http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/permalink/000487.php
などがあります。ぜひぜひ。
あと、コメントの重複分は削除しておきましたので。

# 通りすがり

SVMは非線形のデータの識別もできますよ。特徴ベクトルを非線形関数で変換した後、線形の識別を行います(カーネルトリック)。そしてその性能が高いことがSVMが広く用いられているゆえんです。DiCarloの論文は読んでませんが。

# コラムが好き

 確かに中途半端なところで止めてしまってすいません。Pooneilさん、ありがとうございます。それではお言葉に甘えて続けさせていただきます。
 稚拙な文章で、良く分からないと思うのでガツンガツン指摘して下さい。
先ほど挙げたSheinbergの論文はLogothetisとPNASに出したbinocular rivalryと関連しています。あの論文は、見たという認識をした時には高い神経活動を示すことから、ITは視覚による物体認識の中心部位ということを見事に示しました(すいません、ここはわざと歯切れの悪い言い方をしています)。ただし、binocular rivalryという通常ならば経験し得ないような実験状況下の話だったので、もう少し自然状況下?に置くことで、どうなるかを問題にしています。
タスクは、刺激画面に3つの刺激が出てきます。そのうちの1つがターゲット刺激で、あと2つがdistractorです。そしてターゲット刺激にsaccadeしてレバー押しするタスクです。ターゲット刺激は右レバーを押すものと左レバーを押すものとをトレーニングをして覚えさせます。また、distractorもトレーニング時に呈示しています。
 タスクは2つあります。分かりにくいので具体例を示します。タスク1は右レバーを押すターゲット刺激に対して選択性を示すITのニューロンがあるとします。そこで、画面には選択性を示した刺激が1つとdistractorが2つ呈示されます。そして、saccadeをして右レバーを押せば正解として報酬がもらえます。タスク2では、刺激呈示は同じですが、saccadeしている間にターゲット刺激は左レバーを押すと学習させた刺激にswapします(swap後に呈示される刺激には選択性を示さないことを事前に確認しています)。そして、レバーを押すのですが、この時には右でも左でもどちらでも正解になります。
そこでタスク2に関してですが、saccade onset前後200msのニューロンの活動を比較するとswap前の刺激と判断した時には、神経細胞は高い活動を示します。これをchoice probabilityで見てみると、非常に高いCPを示していました。
また、レバー押しのreaction timeを見ている限りでは、reaction timeが速いほどswap前の刺激と連合したレバーを押しています。一方、reaction timeが遅いとswap後の刺激と連合したレバーを押しています。このことから、筆者らはswap前の刺激を明確に認識しているからreaction timeが短く、認識していない時にはswap後の刺激を見ているからreaction timeが長いと解釈しています。まぁ、多分そうなのでしょう・・・。
 長々と続けましたが、この論文のミソは、刺激を明確に認識している時にはITの神経細胞は高い活動を示すが、そうでなければ高い活動は見られないというものです。
 ただし、解析しているのがsaccade onset 200ms 前後が妥当なのかとか問題は、いろいろあると思います。正直、saccade前に物体認識はしているはずで、むしろsaccade onset前の100msもしくは200msの解析をすべきではとも思います。その数字は、あまり考えた数字ではないのですが・・・。
 いや、この論文苦労のあとが見られるし、個人的には好きなのですが、果たして、どこまで妥当性のある議論が出来るのか私では判別つきかねます。単なる論文紹介になってて申し訳ないです。
 それで、もう少しだけ続けます。話がそれてしまっている気がしますが、気になっているのが、2006年のJNSに出ていたSuzuki, Matsumoto, TanakaのNeuronal responses to object images in the macaque inferotemporal cortex at different stimulus discrimination levelsという論文で、タスクの難しさが変化してもITの刺激選択性や応答が変化しないという論文です(もう少し詳しく書くと、基本的にはsample-to-match taskで2つタスクがあります。一つはfine & coarseのdiscrimination taskで2つめのタスクではsampl-to-matchの規則が変化します)。ただ、Koida , Komatsuの2007年のNature neuroscienceの論文では色刺激のdiscriminationとcategorization taskでITの神経細胞の活動が異なるという結果もあります。つまり、前者の論文では結局ITでrepresentされているものは単純に刺激の形ということになると思います。Task demandに変化するわけではないのだから、ITの神経活動を読みだして、taskに利用しているのは、その下流(Prefrontal cortex?)ということになるはずです。必ずしもITでは”awarenessに上っていくようなかたちでdecode=read-outされる対象となるようなニューロン活動はsparseかつexplicitな表象をしている”とは言えないと思います。しかし、後者の論文やbinocular rivalry、先に挙げたsheinberg論文の話を考えるとは矛盾しているように思えます。
 自分で書いていて、pooneilさんの書かれていることや論文をちゃんと理解せずに書いているのでおかしなことを言っている部分もありますがご容赦の程をお願いします。
 


2008年08月16日

意識と信頼度 (Awareness and confidence)

わたしの仕事はawarenessとperceptual decisionとの関係がツボのひとつです。つまり、awarenessのことをきっちり扱おうとすると必ずやperceptual decisionとの関係を考えざるを得ません。
そういうなかで最近出た
Nature Neuroscience - 10, 257 - 261 (2007) "Post-decision wagering objectively measures awareness" Navindra Persaud, Peter McLeod and Alan Cowey
はawarenessの有無の評価としてSDTで使われるようなconfidence ratingに代わる方法として、お金を賭けてもらう、という単純な方法がうまくいくことを示した論文でした。
わたしはちょっと単純に過ぎるんではないかと思いましたし、ある種confidence ratingの簡便法ということかな、という理解でした。(GYさんのコメントでは、confidence ratingをやるのはたいへんだけど、bettingをするのは簡単だし、楽しい、とのこと)
しかし、Kochの紹介記事("Betting the house on consciousness")では、confidence ratingだとawarenessのcontentそのものへのアクセスによってcontentそのものを変えてしまうのではないか(明示的には言ってないけどattentionの影響とか)、それと比べると優れている、というようないい方をしていて、もうすこし読んでみようかと考えておりました。
しばらくするとTICSに
Volume 12, Issue 2, February 2008, Pages 54-58 "Getting technical about awareness" Colin W.G. Clifford, Ehsan Arabzadeh and Justin A. Harris
が出てきて、decision criteriaとの関係の議論が出てきたり、Anil K. Sethとのあいだでいろいろやりとりが始まったり:
Consciousness and Cognition Volume 17, Issue 3, September 2008, Pages 981-983 "Post-decision wagering measures metacognitive content, not sensory consciousness" Anil K. Seth
Consciousness and Cognition Volume 17, Issue 3, September 2008, Pages 984-985 "Experiments show what post-decision wagering measures" Navindra Persaud, Peter McLeod and Alan Cowey
Consciousness and Cognition Volume 17, Issue 3, September 2008, Pages 986-988 "Theories and measures of consciousness develop together" Anil K. Seth
Sethはhigher-order thought theoryとかそっちのひとですね。このへんのネタを仕込んでHakwan Lauと議論しとこう。
このへんを一度まとめておこうかと思ったのですが、事態がどんどん進んでいてフォローできない。
ともあれ、SDT的にアプローチしてこの問題を明確にしておく必要があるのではないかと思います。ここでいうSDT的というのはSDTをよりrealisticにしたうえでのことですけど。(Criteriaにもjitterを考慮する、reaction timeを組み込む、分布にgaussianを仮定しない、historyのeffectを考慮するなど。)
現時点で私として言えるのは、
* awarenessのneural correlateについてモデルベースで考えようとすると、perceptual decisionの枠組みに入り込む。
* awarenessのneural correlateはdecisionの結果よりは上流にあるべきで、sensory stimulusそのもの(retinaのレベル)よりは下流にあるべき。
* よって、awarenessのneural correlateは、perceptual decisionの枠組みでは、decisionのevidenceのレベルにある。
というかんじになります。
Post-decision wageringの話に戻しますと、論文の結論は、awarenessがないときは賭けによるgainをoptimizeできない、というものでした。よって、heuristicとして、そのdecisionは最適行動なのかという方向から考えることができます。このへんがわたしがやっていること。
今回はこのへんまでで。
ちなみにこのへんで二つくらいセミナーのネタが作れますね。たとえばこんな感じ:
Awarenessとconfidenceとの関係:
Consciousness and Cognition Volume 10, Issue 3 , September 2001, Pages 294-340 "Confidence and Accuracy of Near-Threshold Discrimination Responses" Craig Kunimoto, Jeff Miller and Harold Pashler

Nature Neuroscience - 10, 257 - 261 (2007) "Post-decision wagering objectively measures awareness" Navindra Persaud, Peter McLeod and Alan Cowey
Volume 12, Issue 2, February 2008, Pages 54-58 "Getting technical about awareness" Colin W.G. Clifford, Ehsan Arabzadeh and Justin A. Harris
動物でどうやってconfidence ratingをさせるか:
"Rhesus monkeys know when they remember" PNAS | April 24, 2001 | vol. 98 | no. 9 | 5359-5362
Confidence judgments by humans and rhesus monkeys. J Gen Psychol. 2005 Apr;132(2):165-86
Confidence judgments by rhesus macaques on a serial memory task(PDF)
Nature 2008 "Neural correlates, computation and behavioural impact of decision confidence" Adam Kepecs, Naoshige Uchida, Hatim Zariwala and Zachary F. Mainen
後者の方がやってて面白そう。
ではまた。


2008年01月15日

明日は土谷さんのセミナー

あしたはカルテクの土谷尚嗣さんが岡崎にやってきてセミナーをしてくださいます。生理研でのアナウンス
土谷さんはこのブログにも何度か書き込みをしてくださっています。カリフォルニア工科大学のChristof Kochのところで注意と意識の関係に関する心理物理学的実験を行い、現在はカリフォルニア工科大学のRalph Adolphsのところでawake craniotomyでの硬膜下電極による側頭葉からの神経活動記録を行っています。今回は後者に関する講演をしていただきます。セミナーへの多くの方の参加をお待ちしています。
前者の注意と意識に関する話の参考文献はこの二つ:
Trends in Cognitive Sciences Volume 11, Issue 1, January 2007, Pages 16-22 "Attention and consciousness: two distinct brain processes" Christof Koch and Naotsugu Tsuchiya
Nature Neuroscience 8, 1096 - 1101 (2005) Published online: 3 July 2005; | doi:10.1038/nn1500 "Continuous flash suppression reduces negative afterimages" Naotsugu Tsuchiya & Christof Koch
ちなみにググっていたらTICSのセミナー用レジメを発見しました。参考までに。
後者のawake craniotomyに関しましてはSFN2007で発表したての新データでして、表面電極によるventral visual cortexからの記録の話です。
土谷さんがRalph Adolphsと一緒に書いたレビューがあります。これはemotionとconsciousnessについて、というもの:
Trends in Cognitive Sciences, Volume 11, Issue 4, April 2007, Pages 158-167 doi:10.1016/j.tics.2007.01.005 "Emotion and consciousness" Naotsugu Tsuchiya and Ralph Adolphs
こちらはconsiousnessのcontentだけでなくlevelの議論もしています。ま、これから読みます。
ちなみにRalph Adolphsはもともとダマジオと一緒に仕事をしていた人でして、扁桃体損傷の患者さんの研究で有名です。たとえば、
Adolphs R, Tranel D, Damasio H, Damasio A. "Impaired recognition of emotion in facial expressions following bilateral damage to the human amygdala."(pdf) Nature. 1994 Dec 15;372(6507):669-72.
Adolphs R, Gosselin F, Buchanan TW, Tranel D, Schyns P, Damasio AR. "A mechanism for impaired fear recognition after amygdala damage." Nature. 2005 Jan 6;433(7021):68-72.
など。扁桃体の活動に関してはDolanの仕事などとも併せて、どちらかというと無意識に関する場所なのかなあと考えていました。
Ralph Adolphsの仕事でも
Nature Neuroscience 8, 860 - 861 (2005) "Preferring one taste over another without recognizing either"
これなんかはそういう側面を強調しているように見えます。
先月富山大に出張に行ったときに西条先生たちとお酒を飲む機会があって、扁桃体は意識と関連するのか、無意識と関連するのか、みたいな議論になりました。
このへんについても興味があります。

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# 土谷

吉田さん、及び関係者の方々、

今日は体調不良(下痢と発熱によりフラフラ)のためトークをキャンセルさせて頂きました。すいません。病院で検査を受けた結果、インフルエンザではなく、恐らくウィルス性の腸炎だということです。ただ、友達の看護婦によると、症状がノロウィルスのそれに酷似しているので、感染させないように気をつけるべし、とのことです。

今は、点滴とクスリのお陰でだいぶ回復しました。

1/30までは日本にいるので、アミグダラの話しとてんかん患者でのintracranial recordingの話し、させてもらえると、嬉しいんですが、日程的にどうなるか分かりません。またメールしますね。

# pooneil

どうもどうも、昨日は残念でしたね。まずはよく休んでください。もしよければ来週末あたりにでもトークをしていただけたらありがたいと思います。まずは完治してからということで。


2007年12月13日

MarrのVisionの最初と最後だけを読む

以下のエントリ、またもや下書き状態で放置してたんですが公開します。自分としては超力作なんですが、これを読むと私が「ビジョン」を読んでないことがばれるという次第でして。


このあいだのエントリで、MarrのVisionがうんぬんとか言ってるのは、ASCONE2007で岡田真人さんが講義でMarrの話をしてたのの受け売りでして。ちょうどその次の日の自分の講義でなんとか話を繋げられないかなと考えていたのでした。わたしの講義の方は「視覚的気づき」(visual awareness)というものをどう実験に落とし込んだらいいのか、detection taskでいいのか、というのがひとつのハイライトだったのです。そういうわけで、generalなまとめとしては、

  1. ある認知的概念(今回は「気づき」)の操作的定義の作成とそのrefinement。
  2. 実験による検証、とくにメカニズム的説明の作成、他の認知機能との関係の発見をつうじて。
ascone.gif

というこのふたつがお互いに影響し合ってrefineしつづけてゆく、というもの(左図)を作っていたのですが、その講義の前日に、岡田真人さんがMarrの話をしてくださって、これがとても印象深かった。三つのレベルの議論をなんとか上記のスキームと繋げて話せないかなと思ってあがいたのですが、だめでした。ざっくりと、上記の1)と2)を回すことが、ある認知概念を計算論のレベルで記述するのに役立つのでは、なんて書いて終わったのです。

というわけで訳書を見直してみました。じつはギブソンへの言及もあったりして驚かされる。(*注1)(*注2)

んで、p.21-26のrepresentationとprocess、というところにピンと来て、p.362の図6-1に釘付けになった、てのが今回のお話。ちょっとベイトソンを思い出したり。

もともと[計算理論のレベル]-[アルゴリズムのレベル]-[ハードウェアによる実現のレベル]という三つのレベルの議論(下図)というのは、「ある情報処理装置を完全に理解したと言うためにはこの三つの水準を理解しなければならない」という文脈で出てきたわけです。(*注3)

three_level.gif

それで、それぞれのレベルでrepresentationとprocessの組み合わせがある、という話をしているのですね。これは知らなかった。超重要。つまり、3x2で考えているのです。それがp.362の図6-1。

Representationとはなにか。Representationとはある実体(entity)もしくは情報を明示的にする形式系(formal system)のこと。なにかべつのものを写し取っているわけです。ここでは数というentityをrepresentする系としてアラビア数字の系やローマ数字の系がある、という例を挙げています。つまり、同じことをrepresentするのにいくつかべつの系を使うことが可能であるということ。

Processとはなにか。Processとはそのようなrepresentationを入力としてそれを変換したrepresentationを生成すること、だと思うんだけどあんま明示的に書いてない。例としては足し算を挙げてます。3+4=7というのはつまり、足し算(+)というprocessが(3,4)という数の対を7へ写像している、ということなのですね。この場合だったら入力と出力は同じ数というrepresentationを使っているけれど、フーリエ変換というprocessの場合だと時間ドメインから周波数ドメインへrepresentationが変わってる。

あるprocessを行うには[それの入出力となるrepresentation]と[その変換を実現するアルゴリズム]とが決まらないといけない。よって、process-representationが対等なレベルになってないし、アルゴリズムが出てきてややこしくなってきているのですが。

ともあれ、representationとprocessの関係に関するポイントは、1)上記の通り、representation自体はいくつか選択の余地がある。2)processを実現するアルゴリズムは採用されたrepresentationに依存する。3)あるrepresentationに対して同一のprocessを実現するアルゴリズムは複数ありうる、となります。

じつはこのprocessの項はいつのまにか三つのレベルの話に移行していて、非常にわかりにくい。ほんとうはrepresentationとprocessとの関係を示したあとで、三つのレベルの話に移行すればよいと思うのだけれど。

ともあれ、キャッシュ・レジスタの例を使って三つのレベルの議論を導入しています。[キャッシュ・レジスタがなにをしているのか、なぜそうするのか](what and why)、これがいちばん抽象的な、計算論のレベルです。何をしているか、足し算をしているわけです。なぜそうするのか、買い物の合計支払金額を決めるためです。これが拘束条件となって、行われている演算が決まる。これが計算論のレベル。

このようにしてprocessが決定する。次のレベルでは[どのようにしてそれをするのか](how)を決めます。これがアルゴリズムのレベル。上記の通り、あるprocessを行うには[それの入出力となるrepresentation]と[その変換を実現するアルゴリズム]とが決まらないといけない。たとえばキャッシュ・レジスタでは、アラビア数字をrepresentationとして使って、一の位から足し算して繰り上がった分を十の位に加える、というアルゴリズムを採用している。

このようにして採用されたアルゴリズムをどう物理的に実現するかが、ハードウェアのレベル。同じアルゴリズムを実現するにも複数のハードウェアで可能。たとえばキャッシュ・レジスタでは電子回路によって実現されるが、人間が足し算をするときは脳によって実現される。逆に、実行されるハードウェアの制限によってアルゴリズムの選択は影響を受ける。(電子回路だったら2進法での足し算をするけど、人間だったら10進法を使うとか。)

うーむ、だんだん3x2でなくなってきた。気を取り直して。計算論のレベルでは、どういうprocessを行うかが決定される。アルゴリズムのレベルではそのprocessがどういったrepresentationとアルゴリズムによって行われるかが決定される。ハードウェアのレベルではそのrepresentationとアルゴリズムがどのように物理的に実現されるかが決定される。

さて、そのような三つのレベルはどうやって明らかに出来るか、視覚の問題について書きます。(本文はこんな構成をしていないのでかなりパラフレーズ。)

ハードウェアのレベルは解剖学や細胞レベルの生理学によって明らかにできる。神経生理学はどういうrepresentationが使用されているか、どういうアルゴリズムが使われているか、について明らかにするのにも役立つ。ただ、Marrは実現すべきprocessが明らかになるまでは神経生理学の知見からrepresentationやアルゴリズムについて推論するには十分な注意が必要だと言っている。

アルゴリズムのレベルは心理物理学によって明らかに出来る。たとえば、ある視覚的問題を解くアルゴリズムのうちどちらを使用しているかとか、どういう座標系(representation)でその視覚的問題が解かれているか、とか。

計算論のレベルはどうか、というと明確には書いてないけど、たとえば、RGCやLGNのニューロンの受容野はなぜあんな形(メキシカンハット型)をしているか。これを明らかにするには、ニューロンの記録や結合様式の解明だけではダメで、この受容野の形がある種のフィルタ(ラプラシアン)として働いていることを理解しなくてはいけない、ということになります。

Marrにとっての視覚とは「外界の画像から、不適切な情報によって乱されない、観察者にとって有用な記述を作り出すprocessである」ということになります。計算論のレベルで行っているprocessを明らかにすべし、というMarrの考えが反映しているわけです。じつはここで、計算論のレベルに一番近いことをやっていた人としてギブソンが挙げられるのです。ただし、ここでとりあげられるのは変化する環境から不変項を抽出するという側面であり、以前(20061004)も書きましたが、計算論的ニュアンスのあるほうなのです。そして、その面においてはツッコミが甘いと指摘し、不変項の検出は情報処理の問題として扱うしかない、とそういう話になるのです。

だいたいこのくらいで。けっきょく、このような視覚を記述するにあたって、問題を分割するために、画像、原始スケッチ、2+1/2次元スケッチ、3次元モデルによるrepresentation、という話になるのですが、すべて読み飛ばして(エー)、図6-1へ。これは3x2なんです。

かなりわたしの解釈を入れて改変した図を作りました。本物の図6-1とはべつものなのでご注意を。あと、じっさいにはrepresentationの問題とprocessの問題とは繋がっているから、右端と左端は繋がります。2次元での表現ということで多少簡略化。

marr4.gif

これがいきなりprocessとrepresentationのduality、と言ってる。(*注4) さあここにわたしが探していた答えがあった。もうここは全訳で。

「Processとrepresentationの解明のどちらにおいても、一般性のある問題設定は、日常の経験や心理物理的もしくは神経生理学的な知見のうちごく一般性のあるものによって示唆されているものである。そういった一般性のある知見が特定のprocessやrepresentationの理論を定式化する。そのような理論のうちあるものは詳細な心理物理学的テストが組まれて実施される。このレベルで特定のprocessやrepresentationの理論について充分正しいという自信が出来たなら、それがどのように実現しているのかを調べることが出来る。ここに最終的かつとても難しい問題である、神経生理と神経解剖学の問題がある。」

自作してみたけどダメでした。原文で。

In the study both of representations and of processes, general problems are often suggested by everyday experience or by psychophysical or even neurophysiological findings of a quite general nature. Such general observations can ofteb kead to the formalation of a particular process or representational theory, specific examples of which can be programmed or subjected to detailed psychophysical testing. Once we have sufficient confidence in the correctness of the process or representation at this level, we can inquire about its detailed implementation, which involves the ultimate and very difficult problems of neurophysiology and neuroanatomy.

というわけで、結論としては意外に私がその場で言ってたことは間違ってなかったみたい。ここでは「日常の体験」みたいに言っているけれども、ある認知的概念を抽出してゆく段階でどういうprocessを行っているかを定式化する、という意味においてはそんなに違ってないみたい(*注6)。そのときわたしが例に挙げたのは「注意」の問題で、注意を(意識に上るものには量的に限界があるという問題から)ある種のリソースを効率的に使う、という計算論的問題に落とし込む、というような話をしました。ただ、これでいいのだろうか、とも思う。とってつけた感がある。心理物理や神経生理がどのようにしてこの計算論的問題に繋がるのか、そのへんがまだこの図ではうまくかけてないように思う。あと、こうしてみるとここでのrepresentationの問題ってなんだろうか、って思う。本編読めばわかるんでしょうか。ともあれ、以前のLogothetisの話のときにもありましたけど、ニューロンのデータから両眼視野闘争の知覚のcontent(=representation)と選択の過程(process)との神経メカニズムがあるのかもしれない、なんて話と繋げられるかもしれません。じつはここに現象的意識が来るんではないか、なんて思うんですけど。すくなくとも知覚のcontentであるとは言えないでしょうか。(一番重要なことを書いてここで終了。)

追記:ここまで書いてからふたたび川人先生の「脳の計算理論」と「脳の仕組み」を読んでみるといろいろなことがわかってきていろいろ書き直したくなるのですが、このまま出しちゃいます。ひとつだけ書いておくと、Marrの理論が視覚だけに閉じていて、行動と結びついた視覚という観点がないという批判は当時からすでにあって、川人先生の双方向理論はそれを乗り越えようという意図を持っていることとか。

追記2:要は今回"Vision"をちょっと読んでみて、「Marrのrepresentationの問題とはなにか」という疑問に行き着きました、というのが今回のエントリで書いてることです。

(*注1) 正直言って、"Vision"は昔買って積んだままでした。白血病になったMarrが本の前書きで「とある理由でこの本を早く書き上げなければならなくなった」と書いたところとか、最後のクリックとの会話とかそういうところしか読んでなくて、数式をほとんどスキップしてるのです。岡田さんも、そのような理由からものすごく書き急いでいて読みにくい、むちゃくちゃ頭いい人だから飛躍して書いているところがある、というふうに話をしてました。そういうつもりで読めばいまなら読めるかも。

(*注2) 同時期にナイサーもギブソンを重要な論敵としていたことからしても、当時はギブソンが認知科学にとってかなりシリアスに受け止められていたことがよくわかります。いまはよくわからん。どちらかというとべつの学問的ドメインみたいになっているように思えるのだけど。スキナリアンみたいに。

(*注3) 血気盛んだったかつてのわたしは「行動するわれわれ有機体は情報処理装置として捉えるだけでは取りこぼすんではないか」とか言ってMarrをきっちり読まなかったりしてたのですが、やっぱりえらい人は深く考えているのです。(とか書くとこんどはそういうオベンキョウ癖止めろ、という言う声が聞こえてきたりしてもうどっちにしたらええねんってニセ関西弁で。)

(*注4) Dualityって数学的には「双対」みたいな概念なので、ここでどのくらい厳密に使っているかはさっぱりわからないのだけど、representationとprocessがある種裏返しの関係にあることを意味しようとしているのだとしたら興奮するところです。図的にはたんにパラレルに走っているようにしか見えないないけど。ちなみに川人先生の「脳の計算理論」でも順モデルと逆モデルの双対性、みたいな表現は出てきます。こちらは明白に意味がある。もし、順モデルがrepresentationで逆モデルがprocessならばそれはdualityとでも言える関係にあるのではないかと思うのです。

(*注5) この文脈だと抜けてしまうけど大切な部分:この三つのレベルは比較的独立しているだろう、それからどのレベルの問題を解こうとしているのか誤らないようにしよう、というのがここで書いてあることです。たとえば、ネッカーキューブの二つの安定した知覚について明らかにしたいならば、神経回路網のレベルで二つの安定した状態があることを示すこと(ふだんは日常言語で「メカニズム的説明」とか言ったりしますが)よりは、ひとつの二次元図形から二つの三次元的解釈が生まれることを説明する必要があるというわけです。ってさっそく後者はどのレベルでしょうか? 計算論のレベルでしょうか。

(*注6) この「日常の体験」を「現象学」とまで言ったら(知らないのに)言い過ぎかもしれませんが、その方がじつは階層構造的には尤もらしいかもしれません。


2007年12月12日

LammeのV1記録からはじまってV1と注意の関係へ。

このあいだのpresentationに関する話などでnhkさんとメールのやりとりをしていたのですが、面白い方向に展開してきましたので許可を得て掲載します。多少編集、加筆してあります。

教えていただきたいのですが、pooneil blogで、Lammeらの一連の仕事のうち、MUAをfilterにかけたDC成分を使ったものは信用できんと書かれていますが、どうして信用できないのかをお教えくださいませんでしょうか。

以下が私からの返信:

いえいえたいした話ではないのですが、single-unitでの記録との比較を問題にしているのです。

まず、同じニューロンをとり続けているかどうかの保証がもてないこと、それからburst発火が起こるとfieldの波形が潰れるのでLammeのMUAの値はsingle-unitのfirng rateとは少なくともlinearには相関していないし、場合によっては単調増加ですらないかも知れません。

というわけでわたしのlammeらの仕事に対する意見は、「MUAで見たことがsingle-unitで確かめられない限り信用することができない」というものです。

たとえば、V1から記録してshort-term memory taskでdelay activityを見つけた(Science)という論文があります。ここで見ていることに対応したsingle-unit activityがあるかどうかは確かめられていないし、たぶんそういうものはないでしょう。なんらかのsubthresholdのactivityを見ているという可能性はありますが。(初期のfigure-groundでのlate responseのmodulationに関しては single-unit, MUA両方の活動を見ているはずですが、 short-term memoryに関してはそれはなかった。)

そういう意味で、Lammeの仕事をsingle-unitの仕事と並べて理解するのはまずいと思っています。Lammeが見ているものはField potentialの動態を見た仕事のほうにたぶん近いのではないでしょうか。その意味では、Field potentialの動態自体は重要で面白いと思っているのですけど。

たぶんlammeのMUAは高次視覚野からのfeedback入力にたいしてよりsensitiveであって、feedbackのシナプス入力みたいなものも寄与しているんだと思います。そういう意味では、Human fMRIでV1のattentional modulationが見られるのにnhpのsingle-unit recordingではV1のattentional modulationが見られる、という問題があって、これはfMRIで見ているものとsingle-unitで見ているものが違うからではないか、という議論があるのですが、それと同じことなんではないかと考えております。

そうしましたらさらにこういう返信をいただきました。

お返事ありがとうございました。Lammeの話、よくわかりました。V1が意識に果たす役割について考えているところで、私的にはこの話が出てきました。

すこし話はとびますが、attentionとawarenessの関係を考えると、話が難しいなと思っています。

Heegerの、traveling waveのV1でのattentionによるgatingの話も、どう解釈するのがよいか。一つの解釈は、pooneil blogにあったとおり、あの場面でのawarenessは、V1の活動と一致しない。従ってV1なしでもawarenessは成り立ち得る(contentsは決まる)という考えだと思います。妥当な解釈だと思いますが、それでいいのかなという思いもあります。

これはawarenessの定義によるのかも知れませんが、attentionが逸らされた視覚刺激のawarenessは低下する、すなわちこの場合はattentionとawarenssが正方向に相関していると考え ると、Heegerの結果の解釈はなんとも言えない。atttentionが逸らされているため、traveling waveのawarenessは弱まっている。それはV1の活動が意識されないためだ、したがってV1の活動はawarenssに重要かも知れない。

V1のawarenessへの関わりの有無を決定付けるような実験ができないものかと考えています(むろん大した考えはありません)。

うーむ、端的に言えば質的な差ではなくて量的な差の問題ではないの?ということですね。いかにしてawarenessと(top-down) attentionを分離するか、という問題でもありますね。その意味ではこれまで何度か言及してきたカルテクのKochと土谷さんの仕事(Nat Neurosci. 2005 Aug;8(8):1096-101. "Continuous flash suppression reduces negative afterimages."およびTrends in Cognitive Sciences Volume 11, Issue 1, January 2007, Pages 16-22 "Attention and consciousness: two distinct brain processes")の意義は重要で、あれの場合、attentionがあるとかえってawarenessが下がってしまうわけです。ゆえにattentionとawarenessが正方向に相関しているとは必ずしも言えない場合がある、このことを示したのがあの論文のいちばんの意義だと思います。これに関しては「量的な差」の議論はしにくいのではないかと思います。

もひとつ追記で、Kentridgeの論文でblindsightの患者さん(G.Y.さん)がawarenessのない光刺激の弁別で、top-down attentionを向けることでその成績が向上する、というのもあります(Kentridge RW, Heywood CA, Weiskrantz L. "Attention without awareness in blindsight."Proc Biol Sci. 1999 Sep 7;266(1430):1805-11)。これなんかもawarenessとtop-down attentionとをdissociateした例と言えるでしょう。わたしの学会発表もありますが、これに関してはまた論文になったら、ということで。

そしたらさらにnhkさんから返信が。

Tsuchiya and Koch (NNS)は、私ももちろん重要論文だと思います。原稿の中の吉田さんのコメント「あれの場合、attentionがあるとかえってawarenessが下がってしまうわけです。」ですが、より正確には、attentionがあるとafterimageが下がってしまう。一方CFSでawarenessを消すとafterimageが下がってしまう。「ゆえにattentionとawarenessが正方向に相関しているとは必ずしも言えない場合がある」と理解していますが、これで正しいでしょうか。

attentionとawarenessが正方向に相関しているとは必ずしも言えない場合があることから、attentionとawarenessは違うメカニズムに基づくという考えはとても面白く、多分正しいと思います。

他方、多くの場合のphychophysiocsの実験では、attentionがdivertされた状態をawarnessがない状態と考えて実験している、つまりattentionとawarenessが正方向に相関している場合を実験に使っています。

ここではあたかも量子力学における観測問題のように、awarenessを生じるとattentionも生じている、ゆえにattentionとawarenessは違うメカニズムに基づくとすると、awareness本態のneuronal correlateを捉えがたいと。

そこでTsuchiya and Koch (TiCS)は両者を別々にmanipulateすることを提唱しているという理解で正しいでしょうか?

はい、そのように理解しています。"Attention and consciousness: two distinct brain processes"はそのへんを明示的に扱っていて、[top-dwon attentionが必要/必要でない] * [consciousnessが発生する/発生しない]という4通りに分けています。上記のG.Y.さんの話も"Attention without consciousness"の例として挙げられています。

ところでこれはわたしの持論なのですが(まえにLogothetisの話のところでも書いたかも知れません)、consciousnessとかawarenessという言葉を使うときにはそのcontentの議論をしていて、いろんな脳内活動の「結果」だと思うんです。いっぽうで、(top-down) attentionというのはselectionのprocessであって、さまざまなattentionのneural correlateというのはその「過程」を見ているのだと思うのです。つまり、Marrが言うところの「representationとしての神経過程」が「consciousnessのcontent」でして、「processとしての神経過程」が「attentionにおけるselection」だと思うのです。(わたしはこの文脈でのrepresentationという言い方は好きではありませんが。) このように分けてしまえば両者を同一視するのはカテゴリカルエラーだ、ということになります。

問題は「Marrが言うところのrepresentationとしての神経過程とprocessとしての神経過程とがなんで混ざっているのか、ということになります。わたしがMarrの「ビジョン」の最終章の図を見ていていちばんよくわからないところなんですが。ざっくりとしたアイデアですが、川人先生の双方向理論からの連想で考えれば、bottom-up(逆モデル)がprocessでtop-down(順モデル)がrepresentationだ、とか言えたら面白いのではないかと思うのですが。ただ、すくなくともそのニューロン活動を受け取っている別のニューロンが情報を読み出すときにそのような区別を付けることができなければこのような分け方の意味がなくなってしまいます。(そのむかしOKさんとメールのやりとりをしたときにそういう話をしたことがあります、というかほとんど教わるばかりだったのですが、そのころからずっとこういうこと考えてます。)

ところでMarrの話はまだエントリにしてませんでした。じつはASCONEの後に書いた物を下書きとしておいたままでした。そのまま公開すると私が「ビジョン」を読んでないことがバレバレになるので暖めていたのですが、上のパラグラフの意味がわかるようにそちらも公開します。


2007年07月14日

Binocular rivalryおよびgeneralized flash suppression その4

前回(20070711)のエントリへの土谷さんのコメントに対して応答を書いていたら長くなったのでこちらに作りました。
ご指摘の論文の一番目はAlex MaierのPAS 2007 "Context-dependent perceptual modulation of single neurons in primate visual cortex"です。これは20070629にも書きましたように、金井さんのブログの5/28に記載があって、それを見てからわたしも論文をざっくり読んでみたのですが、どう評価したらよいものかわからなくて、前回をセミナーにはこれを入れない方向でまとめた次第です。
この論文で面白いのはFig.2bのなかに黒矢印で示してあるところで、CFG1とCFG2とで同じ向きのpreferred directionのgratingの与えられているのも関わらず、CFG1とCFG2とで違う向きのnon-preferred directionの刺激との組み合わせを使うことによってmodulationのされ方が違うのです。ただ、下の段のphysical alternationの条件を見るとこれでも差が出ているように見える。そういうわけで、なんらか二つの刺激のあいだでのselectionの過程での中間型みたいなものとして捉えた方がよいようにも思えるのです。そういうわけでこのmodulationの差の意味についてはちょっと現状では評価しがたいという印象をそのときは持ちました。
Fig.4は非常に重要な結果で、刺激の組み合わせをいくつか試してみると、MTで記録した90%以上のニューロンでmodulationが見られたということです。これはLogothetis 1998のレビューなどで使われる、V1-V2-V4/MT-ITという順番でmodulationのかかるニューロンの比率が増えてゆく、というスキームとは一見矛盾します。しかし、使われている刺激が違うので、directionに関してはMTでほぼ決着が付いているというのは驚きではありません。また、Logothetis 1989の実験では刺激はニューロンのpreferred directionによらず、上向きと下向きのgratingでした。よってmodulationの見られるニューロンの比率がunderestimateされているであろうことは明らかだったろうと思います。
今さらっと言ってしまいましたが、motion directionに関してはMTがほんとうに最終であるか、その辺についてはV1-V2-MT-MST-LIPくらいで追えると楽しいのではないかと思います。一方で、awarenessに上がってくるようなmotionの成分というやつがほんとうにdorsal pathwayのほうでV1-V2-MT-MST-LIPという方向で処理されるのでしょうか。阪大の藤田先生がdisparityに関して行っていることからのinspirationですけど、motionに関しても、形態視が必要となるsceneの分析のような過程(ventral pathwayでの処理が必要となる)でのみawarenessに上がってくるということになっていたりしないのでしょうか。これはつまりSheinberg論文にあったようなimage segmentation, perceptual groupingを越えたところにあるものに対応するのではないかと思うのですが。
連想は続きます。わたしが見ているようなある種のweakなawarenessとITで見られるようなsceneの解析まで済んだものとして捉えられるawarenessとはそういう意味でcontent of consciousnessがかなり違うのであろう、と考えています。それはtype II blindsightの患者さんがもつ"feeling of something is happening there"みたいなものと私たちが持つconsciousnessとの違いと対応しているのではないか、というわけです。このへんについては以前セミナーで作ったパワーポイントがあるのでそのうち編集してエントリにします。
話を戻します。Logothetis 1989やLeopold 1996で見られたような逆向きのmodulation (physical conditionで決めたpreferredでflashのときのmodulationが下がる)ということがあるのか、supplementaryまで見ればわかるかもしれないけど確認できませんでした。そういうのがある限り最終段階の処理ではないだろうというのが予想です。
あと、Logothetis 1989ではphysical conditionではmodulationが起こらないけれども、rivalryではmodulationが起こるニューロンというものを見つけていました。今にして思えば刺激条件が上下の二通りしかないからと言えるでしょうが、今回のMaierのを見てから考えると、そもそもphysical conditionでのdirection tuningとambigous conditionでのdirection tuningはかならずしも同じではないんじゃないでしょうか。さらに、AsaadのNatureにもあったように、LIPまで行けばどう報告するか(刺激のcategorizationに依存する)にもさらに影響されるわけで。このphysicalとperceptualでのdirection tuningの比較ってだれかやった人はいないんでしょうか。Systematicだし、回路の議論をするのにも使えそうな、いい仕事になりそうな気がするのだけれど。
ご指摘の論文の二番目はLee, S-H., Blake, R. & Heeger, D. (in press) "Hierarchy of cortical responses underlying binocular rivalry."(PDF) Nature Neuroscienceですが、Heegerのラボからpreprintが落とせるようになってますね。リンクしておきました。じつはこの話、以前Heegerが生理研に来たときのトークで聞いたことあります。以前のエントリ(20060202)にも記載があって、こっそりコメントアウトして書いてあります(HTMLのソース参照)。もうpublishされたようなのでここに再録しておきますと、「binocular rivaltyの左右の切り替え自体はV1内で起こっているのだけれど、attentionが向いてないとそのような意識の(潜在的な)contentが実際の「見え」に反映しない、というかreadoutされてこない、とでもいう話になりそう。」ということでした。んで、この話自体はすっかり忘れていたのですが、なるほど、ドンピシャ関係ある話でした。これでV1のneuronal activity自体がconsciousnessのcontentに対応しているわけではない、というストーリーは補強されますね。私自身の意見としては、V1を通る信号(bottom-upかtop-downか両方か相互作用かはそれじたいが研究対象)自体は我々が体験しているようなconsciousnessには必要不可欠だけれども、V1のニューロン活動として(mappingの意味で)representしているものがNCCの主役ではないだろう(脳の各部位と環境とのネットワークとして考えた拡張版のNCCにおいても)、というものです。
Steve Macknikのbackward masking のレビュー、というのはProgress in Brain Research 2006の"Visual masking approaches to visual awareness"でしょうか。Abstract読むと後半はBRについても言及しているようですし。あいにくProgress in Brain Researchはうちではavailableでないのですが、この巻はほかにもPetra Soterigの"Blindsight, conscious vision, and the role of primary visual cortex"とかも入ってますので、入手して読んでおきたいと思います。ざっと考えて、maskingもtemporalにはズレているけどspatialには重なっているわけだし、本当によい系だろうか、とか思ったりもしますが。
ご紹介どうもありがとうございました。それではまた。


2007年07月11日

Binocular rivalryおよびgeneralized flash suppression その3

さてさて今回で締めます。疲れてくるとだんだん仕事が雑に。


PNAS, 94, 3408-3413 (1997) "The role of temporal cortical areas in perceptual organization." D. L. Sheinberg and N. K. Logothetis

この論文の後半の方ではflash suppressionの実験も行っています。というか、non-rivalrousな刺激のシークエンスの中にrivalrousな刺激を入れると自然にそうなります。つまり、図形AとBがnon-rivalrousで出るのをA, B, rivalrousをABと表現するとして、たとえばA-B-A-B-AB-Bというシークエンスだと、B-ABの移行のところでBが消えてAだけが見える、ということが起こるわけです。実際のニューロンのデータでも、Bにpreferenceを持っているニューロンだとB-ABでsuppressionが起こり、A-ABだと発火するわけで、おなじABでも大違いとなる例が示されています。

Flash suppressionは明白に提示した刺激にlockしてsuppressionが起こるのでbottom-up attentionとawarenessとの絡みが重要になるものと思われます。Binocular rivalryでは、左右の同じretinotopicalな位置に刺激を提示してconflictが起こっているため、selectionの過程の関与を仮定せざるを得ないという問題を起こします。彼らはこれ以降の論文ではgeneralized flash suppressionを使うようになりました。Wilke et.a l.のNeuron 2003はまだ読んでないのでスキップで。


PNAS, 103, 17507-17512 (2006) "Local field potential reflects perceptual suppression in monkey visual cortex." M. Wilke, N. K. Logothetis, and D. A. Leopold M. WilkeもASSCのポスター会場でいろいろ話を聞きました。Alex Maierと同様にいまはNIMHのLeopoldのところにいるようです。

Generalized flash suppressionでは片眼にターゲット刺激が提示され、もう片眼にはなにも提示されません。左右の視野のコントラスト差が大きいのでこの条件ではターゲット図形が見え続け、binocular rivalryは起こりません。ターゲット刺激提示後1400msで左右の視野にランダムドットが提示されます。そうするとターゲット刺激が消えます。ランダムドットはターゲット図形のあるところには提示されないので二つの眼のあいだでターゲット刺激のある視野位置ではconflictは起こっていません。ランダムドットの条件を変えてやると、ある試行ではvisibleで、ある試行ではinvisibleという条件が作れます。

んでターゲット刺激の位置に受容野を持つニューロンから記録(multi-unit)してやると、V4では、物理的にターゲット刺激を消去したときにactivityが下がるニューロンでは、flash suppressionでinvisibleになったと報告した試行でactivityが下がりました。一方で、物理的にターゲット刺激を消去したときにactivityが上がるニューロンもあって、こっちの場合はflash suppressionでinvisibleになったと報告した試行でactivityが上がりました。多少傾向は違いますが、前述のV4, MTでbinocular rivalryのときに見られる、preferenceが逆になるニューロンと同じクラスであるようです。同じ電極でLFPを記録してやると、V4のgamma band (30-50 Hz)はperceptual reportでmodifyされていました。V1/V2はmulti-unitでも、gamma-bandでもmodificationなし。面白いのは、alpha-band (9-14Hz)ではV4だけでなく、V1, V2でも同様なmodificationが見られたということです。Human fMRIでのbinocular rivalryの実験ではV1の活動もperceptによってmodityされることが知られています。いっぽうでLeopold 1996にもあったように、spikeではあまりmodificationは見られません。なんでかというcontrovercyがあるわけです。議論としては、fMRIのBOLD acitivityはその領野への入力をその強く反映していて、LFPと近いのに対して、spikeは出力を強く反映しているから、というのがあるわけですが。今回のASSCでAlex Maierは同じ課題をhumanとnon-human primatesとで行って比較することで、この論文で見られるalpha-bandのLFPがhuman fMRIで見られるV1のactivationと対応しているのだろう、と議論しています。この論文自体でも結論としては"These findings, ..., suggest that mechanisms shaping the contents of our perception may involve large-scale, coordinated processes that are most prominently reflected in low-frequency changes of the local field."としています。

なお、WilkeのほうはASSCではこの論文での結果に加えてさらにLGN、pulvinarでも記録を行って、LFP powerのmodificationがこれらの視床でも起こっていることを示していました。大脳偏重主義から逃れるために逆張りしたい私としては、V4->V2->V1というフィードバックを考えるよりは、pulvinarを介して回っていると考える方が面白いのではないかと考えたり。

さてattention問題再訪。ディスカッションではこう言ってます。"Although a contribution of attentional factors on the low-frequency LFP modulation during perceptual suppression cannot be excluded, ..., perceptual modulation was observed well before the lever response. ... Thereby, it seems at least unlikely that the neural modulation was directly related to the execution of the monkey response and, thereby, related to a general release of attention." かなり弱い議論であると思います。General releaseはどうでもよいんではないでしょうか。一方で、Binocular rivalryの弱点はperceptのスイッチがspontaneousに起こるため時間的変動の議論をするのが難しい点にありました。その点、どのようにしてperceptual suppressionが起こるのか、というメカニズムの議論を進めるのにはflash suppressionのパラダイムのほうが向いているのかもしれません。


また、flash suppressionとawarenessの議論をするならば土谷さんの"Continuous flash suppression reduces negative afterimages" Naotsugu Tsuchiya & Christof Kochについて考える必要があるでしょう。Continuous flash suppressionでは、刺激にattentionを向けないとafterimageのvisibilityが上がるということが示されています。つまり、Continuous flash suppressionがselective attentionとawarenessとを分離するのに有用な道具となることを示しているのです。このような方向性でまとめられたレビューがTrends in Cognitive Sciences Volume 11, Issue 1, January 2007, Pages 16-22 "Attention and consciousness: two distinct brain processes" Christof Koch and Naotsugu Tsuchiyaで、ASSCではこれを元にして昨年と今年tutorialが行われたようですが、私は参加できず。ちなみに昨年のtutorialのパワーポイントが入手可能です。

だいたいこのへんまででしょうか。Attentionのeffectをどう除くか、というのがこの方向性では大きく問題となることがよくわかります。Ventral pathwayであるため、行動とカップルする部分の解釈に困らないところがまた利点のひとつでもあります。Dorsal pathwayでやったらすぐにmotor preparationだのなんだのとたいへんなんです。だからこそこっち方向ではより行動とカップルさせたことを積極的に考えていくのが正解なのだと思うのだけれど。それから、以前もHeegerについて書いたときにも言及しましたが、Newsome/Shadlen的なperceptual decisionの系にawarenessの議論というのはどうも食い合わせが悪い。というか入る余地がない。最終的に戦うのはこのへんとかな、とか考えています(謎めき系)。それではまた会う日まで。

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# 土谷

素晴らしいレビューですね! 最近このブログをRSSに登録したのでずっと経過を見守っていました。面白かったです。 

相当レベルの高い議論なので、このままreview としてpublish したらいいんじゃないでしょうか??。


ところで、
Maier 2007 PNAS (私にとっては一連の論文のなかで最も面白い)
と もうすぐ出るらしい 
Lee, S-H., Blake, R. & Heeger, D. (in press) Hierarchy of cortical responses underlying binocular rivalry. Nature Neuroscience.

もチェックしてみてください。
特に、後者は、もし噂が本当で、去年の ASSC@Oxford で Sung Hung Lee が James Prize を受賞した時に発表していた話しであれば、

「attention の影響を取り除いたら、
V1での rivalry が無くなった」という話しのはずです。
まさにここでの話しそのものです。

Steve Macknik も我々の議論に賛同していて、
彼なんかは、

"Binocular rivalry is the worst stimulus for the study of neuronal correlates of consciousness because it totally confounds the effects of attention and the effects of consciousness!"

と ASSC のトークでも声高に叫んでいました。もうすぐ backward masking のレビューが出ますが、そこでも rivalry の問題点を
激しくついています。

# pooneil

コメントどうもありがとうございます。応答を書いていたら長くなったのであらたにエントリを作成しました。よければご覧ください。


2007年07月10日

Binocular rivalryおよびgeneralized flash suppression その2

つづき。長いです。タグは「あとで読む」推奨ということで。論文を時系列順で追っていきます。いちばんよく知られているのはITニューロンの結果だと思うのですが、それは一番最後(PNAS 1997)なのです。ちなみにcatだとFJ Varelaが1987年の段階でExp Brain Res.にbinocular rivalry中のLGNニューロンの記録とか出してます(1987;66(1):10-20. "Neuronal dynamics in the visual corticothalamic pathway revealed through binocular rivalry." Varela FJ, Singer W.)。さてさて。


Science, 245, 761-763 (1989) "Neuronal correlates of subjective visual perception" NK Logothetis and JD Schall。

いちばんはじめに発表された実験はMTからの記録によるものでした。左右別々の目に上下それぞれの向きのmoving gratingを提示して、上向きと感じたら右へサッケード、下向きと感じたら左へサッケードさせるという、当時としては洗練された報告の仕方です。それから、fixation pointがない条件だとOKRが起こるので、perceptにしたがって目の位置がドリフトするのでそれを行動の指標とすることも可能です。 Non-rivalrousな刺激条件(片眼にのみ刺激を提示していて、rivalryは起こらない)に答えさせるトレーニングが完了したところで(こちらは正しい応答だけがrewardで強化されている)、半分のtrialではrivalrousな条件(別々の目にべつの向きのgrating)としてやって(こちらはどっちにサッケードしてもrewardがもらえる)、non-rivalrous条件からの般化を見てやろうというわけです。

実験の結果としては、22%のニューロンでperceptの報告にしたがってニューロンの発火が変わるものが見つかったのだけれど、そのうちの半分はpreferredな方向を報告したときに発火が上がるけど、残り半分は逆に発火が下がります。ここはポイント。まず前者は"neural correlate of subjective visual perception"と言えるかもしれない。しかし後者のような逆向きニューロンがあるということはこの場所はawarenessとして現れるcontentをrepresentしているというよりは、suppressionのprocess自体に関わると考えたほうが自然です。この論文自体ではそういう言い方はしてませんが、のちにITニューロンの結果まで出てきたところではそういう言い方がなされます。


Nature, 379, 549-553. (1996) "Activity changes in early visual cortex reflect monkeys' percepts during binocular rivalry." Leopold, D.A., Logothetis, N.K.

同様の実験をstatic oriented gratingで行って、V1/V2およびV4から記録したというものです。Science 1989と比べると、(1) 行動データが加わった点、それから(2) perceptual alterationでの発火の切り替わりのデータを示したところが進歩しています。

(1) 行動データとしては、ほんとうにnon-human primatesがbinoclar rivalryでのperceptを忠実に報告しているかどうか保証が必要です。このため、rivalryのときのそれぞれのperceptでのstay timeの分布を取ってやって、これがhuman psychophysicの結果と同様、gamma functionでfitting出来ていることを示しています。また、片方の刺激のコントラストを下げるともう片方の刺激が見えている時間のほうが長くなりますが、これも再現できています。よって、rivalrous条件のときのrever pressはデタラメに行われているわけではない、ということが示せました。行動についてはこれ以上のことをやるのはなかなか難しそうだけれど。

(2) 電気生理のデータのまとめですが、Science 1989ではrivalrous刺激が提示されたときの最初のperceptを報告させるものでした。しかしbinocular rivalryの面白いところはずっと見ていると1-2秒間隔くらいでperceptが入れ替わるところですので、この入れ替わりに関連した神経活動を見るのに成功したのがこのNature 1996のいちばん強いところです。このため、課題は25secくらいまでの刺激シークエンス(non-rivalrous刺激の切り替えを答える)の中にrivalous条件を少量入れてやって(4-12secまで)、そのときの報告を集めてやって、左のレバーから右のレバーへ切り替わるところ、それから逆でもってニューロン発火を平均してやるのです。すると、レバーによる報告に先立ってレバー切り替えの500ms前くらいにピークがあるような活動があるのが見つかりました。こいつがperceptual reportを反映しているというわけです。今回の場合もV4では逆向きの活動つまりnon-rivalrousな刺激でのpreferenceとrivalrousな刺激での条件が反転しているものが見つかりました。


PNAS, 94, 3408-3413 (1997) "The role of temporal cortical areas in perceptual organization." D. L. Sheinberg and N. K. Logothetis

んで、ニューロン活動のmodulationとしてはいちばんstrikingなのがITニューロンでの記録についてまとめたこの論文です。日経サイエンスとかレビューとかに出てくるようなデータはだいたいこの論文からです。やってることじたいはNature 1996と比べてそんなに新しくありません。Leverの報告でalignしたときの活動変化の図もありません。

メインの実験結果は、80%以上のニューロンでmodulationがみられるというもので、それまでのV1/V2/V4/MTとはかなり違います。また、V4, MTで見られたようなrivalrousとnonrivalrousとでpreferenceが反転しているようなニューロンがなかったという点も特筆すべきでしょう。ゆえに著者は"These areas thus appear to represent a stage of processing beyond the resolution of ambiguities---and thus beyond the processes of perceptual grouping and image segmentation---where neural activity reflects the brain's internal view of object"と結論づけています。ここでいう"a stage of processing beyond the resolution of ambiguities"っていうのがV4やMTで見られたような極性が反転しているニューロンがある領野と今回のIT野とのコントラストを強調した表現でしょう。

あと、この論文では一工夫してあって、図形A(preferred)と図形B(non-preferred)のほかに図形AとBのブレンドというのをnon-rivalrous conditionでは見せていて、このときはどちらのレバーも引かないようにさせています。これは重要。これがcatch trialの役目を果たして、forced choice taskとして答えさせないようにしてあるのですね。この論文でこれがどのくらい有効かが明確に示されているわけではないのだけれど。Binocular rivalryを経験してみるとわかるのですが、切り替わりはall-or-noneではなくて、ゆっくりと変わってゆきます。その間をどう答えさせるかというのが難問です。Nature 1996で出したようなレバーでトリガーして平均発火、というやつもそのperceptが見えてからどのくらいでレバーを引くかというのが自明でない以上、なかなかデータがきれいになりません。これはbinocular rivalryとflash suppressionの利点難点の議論に関わることになります。

それから、この論文でははじめてattentionとの問題が議論されます。Desimoneの論文とLogothetisの論文はどちらも1980年代でして、その当時ではどちらの説明がよりparsimoniousであるかということはもしかしたらそんなに意識されていなかったのかもしれません。しかし1990年代にはattentionで説明できるものはawarenessで説明できてもダメというコンセンサスは出来ていたといます。んでディスカッションの最後のパラグラフですが、

"Our view is that the phenomenon of binocular rivalry is also a form of visual selection, but that this selection occurs between competing visual patterns even in the absence of explicit instructions to attend to one stimulus or the other. ... Decades of research have failed to reliably demonstrate that the perceptual alternations experienced during rivalry are under the direct control of voluntary attention. ... As such, we believe that rivalry accentuates the selective processing that underlies basic perceptual processes including image segmentation, perceptual grouping, and surface completion."

つまり、なんらかの刺激に依存したselectionの過程であることは認めつつも、voluntary controlの使えるようなtop-down attentionの関わる過程ではないことを明言し、もっと刺激の分析に関わるようなselectionの過程である、と主張しているわけです。

Top-down attentionとconfoundしてしまうのはこの種の実験では致命的なわけですが、はたして他の種類のattentionとの関わりはどうでしょうか。Binocular rivalryでもその揺らぎ自体はarousalやsustained attentionのような要素を考えた方がよいでしょう。Backward maskingなどのnear-threshold conditionでのtrialごとのばらつきでも同様です。ですのでわたしの理解としては、タスク中のinstructionなどの操作によってawareness, visibilityがmanipulateされるとしたらそれはtop-down attentionとconfoundしていると言われても仕方ないけれども、trial中およびtrial間でのゆらぎのような成分はそれらをもとにした結果awarenessがmodulateされると言って問題がないのではないかと考えています。

さてさて、そうしたらbottom-up attentionとの関わりはどうでしょうか。Flash suppressionはbottom-up attentionとの関わりを無しに考えることは出来ません。これについては次回考えてみましょう。

なお、ここでいうattentionとawarenessとは事象のレベルとしては同じものではありません。たとえばselective attentionによってawarenessがmodulateされるということは言えるけれども、awarenessによってattentionがmodulateされるとは言えないことなどからもわかると思います。つまりattentionという認知科学的な概念が課題の条件によって操作されて、その結果は反応潜時だったり、visibilityのスコア(=awareness)だったりという形で行動として出てくる、ここで使っているawarenessはそうして計測される行動のレベルにある、というわけです。(Consciousnessからawarenessに移った段階でその種のeasy problemをあつかっているのです。) と書いてみたものの、このへんは専門家に意見を聞いてみたいものです。その議題は研究会へも持ちこんでみたり(この件はまた別でアナウンスします)。

なお、この論文の中ではじめてflash suppressionの結果が出来てきますが、それは次回。


なげーなげー。つづきます。この文章だけ読んでもほとんど話がわからないので原文を参照していただいたほうが。


2007年07月09日

Binocular rivalryおよびgeneralized flash suppression その1

Logothetisのbinocular rivalryおよびflash suppressionでの神経生理実験をジャーナルクラブで採りあげました。詳細をきっちり押さえておこうというわけです。
そもそもLogothetisはbinocular rivalryを使ってなにをしたかったかと言えば、"neural correlates of awareness"を探したかったと言えるでしょう。もっとも、表現はそれぞれの論文でいろいろ違っていて、"subjective visual perception"だったり、"monkeys' percepts"をニューロンが反映している、だったり"neural activity reflects the brain's internal view of objects"だったり"conscious vision"みたいな言い方をしたりするわけですが。
んで、awarenessとはなにかというと、David Chalmersは"Conscious Mind"の中では"I define awareness...as the state wherein some information is accessible for verbal report and the deliberate control of behavior."みたいに言ってます。また、"Psychological correlate of consciousness"という言い方もしています。わたしは"Awareness is a functional aspect of consciousness."であって、Ned Blockのphenomenal consciousnessとaccess consciousnessという分け方のうちのaccess consciousnessの方を指すものという理解をしています。実験条件で言えば、"Awareness is reportable consciousness."というのがいちばん操作的定義に乗せやすいでしょう。Thompson and Schall のvision research 2001("Antecedents and correlates of visual detection and awareness in macaque prefrontal cortex" PDF)では"To identify neural correlates of visual awareness an experimental manipulation is required by which a visual input is constant but perception of that visual stimulus varies."と言ってます。かれらはbackward maskingでこのような状況を作っていますが、このような実験パラダイムを最初に作ったのがLogothetisのbinocular rivalryだったというわけです。
ちなみにbackward maskingのようなnear-threshold visionにおけるimplicit perceptionの実験は刺激がとてもfaintであるために、awarenessの報告が出来なかったときにそれはno awarenessだったからかweak awarenessだったからかという問題がつきまといます(これがASSCでも話題になっていた、Snodgrassらが関わっている、SDTを使った議論です)。いっぽうで、binocular rivalryやflash suppression、それからmotion-induced blindnessのような実験パラダイムでは刺激はとてもsalientであるにもかかわらず、これが消える。このことがものすごい利点なわけです。
Binocular rivalryとかの説明は省略。ラボでは通販で一枚80円で買った赤-シアンのanaglyph glassesを使ってデモしました。Randolph Blakeのラボサイトの図を使用。Flash suppressionについてはいい材料が見つからなかったのでGIFで自作。それから土谷さんのところのcontinuous flash suppressionのデモページからmovファイルを落としてきてこれも実演。
うお、前置きですでに長いのでいったんここで切っときます。また明日。


2007年06月29日

ポスター見に来てくれたひと

見に来てくださった順に名前がフォローできた分だけ。


まず見に来てくださったのは茂木研の方々。それからあと、茂木さんも見に来てくださいました。2000年ごろはqualia-MLでいくつかコミュニケーションを交わしたことがありますが、リアルで会うのははじめて。握手を交わしました。


うちのブログとも何度も交流させていただいているShuzoさんも訪れてくださいました。分野は離れているのですがよく理解してくださって感謝。やはり握手を。


大阪市立大学経済学部の橋本文彦さんとはバンケットなどでもお話をさせていただきました。哲学と数学のバックグラウンドを持っていて、経済学部の教授で、逆さメガネのプロジェクトへの参加などによって知覚と環境の関係を研究されているというすごく幅広い方です。こういう方とお知り合いになれるのもASSCならではというかんじで。そういう立場からコンセプチュアルな問題点を指摘していただきました。


土谷尚嗣さん。ものすごくenthusiasticに評価していただいて感激しました。後述のAlexander Maierと一緒に食事に行ってさらにいろいろ議論しました。土谷さんは元Kochラボ@Caltechで、Kochの"quest for consciousness"(「意識の探求」岩波書店)の訳者(現在Shimojoラボの金井良太さんとともに)としても有名。現在は同じCaltechのRalph Adolphsラボ(Damasioのところでのamygdala損傷患者の研究で有名)に所属しています。金井さんのブログの5/14のエントリでわたしのVSSのポスターに言及してくださったところにわたしがコメントして、それを見た土谷さんがポスターを見に来てくださった、といいかんじに繋がった次第。

Trends in Cognitive Sciences, Volume 11, Issue 4, April 2007, Pages 158-167 doi:10.1016/j.tics.2007.01.005 "Emotion and consciousness" Naotsugu Tsuchiya and Ralph Adolphs

Trends in Cognitive Sciences Volume 11, Issue 1, January 2007, Pages 16-22 "Attention and consciousness: two distinct brain processes" Christof Koch and Naotsugu Tsuchiya

Journal of Vision, 2006 Volume 6, Number 10, Article 6, Pages 1068-1078 doi:10.1167/6.10.6 "Depth of interocular suppression associated with continuous flash suppression, flash suppression, and binocular rivalry" Naotsugu Tsuchiya, Christof Koch, Lee A. Gilroy and Randolph Blake

Nature Neuroscience 8, 1096 - 1101 (2005) Published online: 3 July 2005; | doi:10.1038/nn1500 "Continuous flash suppression reduces negative afterimages" Naotsugu Tsuchiya & Christof Koch


Hakwan C. Lau。OxfordのWellcome TrustのPassinghaのところに所属していたのですが、現在はニューヨークのColumbia UniversityでAssistant Professorになっています。この方にも私がやろうとしていることをものすごくわかってもらえて、非常に良く評価していただけて感謝。もう少し話をする機会があったら良かったのですが。Decision関連のことをやってる人だと思っていたのですが、彼のサイトを見るともうconsciousness一直線というかんじで驚きました。たとえば、"A Higher-Order Bayesian Decision Theory of Consciousness"(PDFファイル)とか"Are we studying consciousness yet?"(PDFファイル)とか。また、blindsightのこともよく知ってる。というかほぼ当事者。いろいろ教わりました。

The Journal of Neuroscience, May 23, 2007, 27(21):5805-5811; doi:10.1523/JNEUROSCI.4335-06.2007 "Unconscious Activation of the Cognitive Control System in the Human Prefrontal Cortex" Hakwan C. Lau and Richard E. Passingham

PNAS | December 5, 2006 | vol. 103 | no. 49 | 18763-18768 "Relative blindsight in normal observers and the neural correlate of visual consciousness" Hakwan C. Lau and Richard E. Passingham

Science 20 February 2004: Vol. 303. no. 5661, pp. 1208 - 1210 DOI: 10.1126/science.1090973 "Attention to Intention" Hakwan C. Lau, Robert D. Rogers, Patrick Haggard, Richard E. Passingham。この論文に関しては20040225のエントリで言及してます。


Alexander Maier。現在はNIMHに所属。もともとはMax Planck InstitutのLogothetisのところにいたのだけれど、David A. LeopoldがNIMHに異動するのといっしょにNIMHに来たらしい。彼はnhpでのデータを持っていて、かなり近いところにいます。こちらのこともよくわかってます。土谷さんと3人で食事をしながらunpublishedなデータなど見せてもらって興奮。こういう方たちとこれから一緒にこの分野を切り開いていければ良いなあと思います。じつのところわたしはこれらの方たちよりはたぶん年食ってるのですが、ま、同世代と言ってよいでしょう。

PNAS | March 27, 2007 | vol. 104 | no. 13 | 5620-5625 "Context-dependent perceptual modulation of single neurons in primate visual cortex" Alexander Maier, Nikos K. Logothetis, and David A. Leopold。この論文の意義については金井さんのブログの5/28のエントリに記載があります。

Journal of Vision, 2005 Volume 5, Number 9, Article 2, Pages 668-677 doi:10.1167/5.9.2 "Global competition dictates local suppression in pattern rivalry" Alexander Maier, Nikos K. Logothetis and David A. Leopold

Current Biology, Volume 13, Issue 13, 1 July 2003, Pages 1076-1085 "Perception of Temporally Interleaved Ambiguous Patterns" Alexander Maier, Melanie Wilke, Nikos K. Logothetis and David A. Leopold


Alison Gopnik@UC Berkeleyはbabyのconsciousnessについてトークをしてました。McGlll大学の院生のDiego MendozaはChardhuri研でcontinuous flash suppressionをやってるそうですがトークは見れず。などなど、あとほかにも何人か話をしたのですが名前をメモれず。

みなさまどうもありがとうございました。

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# 土谷

吉田さん、

なんか色々書いていただいてどうもありがとうございます。
(論文の宣伝もしていただいて!)

Alex と3人での昼ご飯は、今回の学会のイベントの中で、
イチバン興奮しました。

正直、吉田さんのポスター一番面白かったですよ。意識の問題がよけいわけわらなくなった。

1.Hakwan が言ってた、DB(original blindsight)はできないが、
有名なGYは3秒待ちサッカードができること。
2.吉田さんのblindsightサルが2秒間待ってサッカードできること、
3.Petra Storig の3人のblindsightが全員 cueless でdetection できること。

この一連のblindsight spontaneous behavior は、
今の意識のモデルには、大概大問題なんじゃないでしょうか?
意識ってなんの為にあるのか?

最終日は一泊してからクリストフとクリストフのポスドクと3人で車で
5時間かけて帰ったのですが、そのときに、これらの blindsight が提示する
「意識の機能とは?」という謎に、クリストフは相当困ってました。
(ところで、彼がポスターに来れなかったのは、朝8時発でUCLAの学会に
向かっていたかららしいです。次の日の夜には帰ってきてたけど)

まだ心かわりしておられなければ、10月の学会の話、もうちょっとつめましょう。
メール頂けますか?

土谷

# pooneil

コメントどうもありがとうございます。
Petra Storigの話は驚きでしたが明らかにひとつの線で繋がる現象だと思います。残念ながらStorigとは話が出来なかったのですが。
DBさんの症例はあまりにstrikingすぎて、その後のblindsightの印象を決定づけてしまいましたが、DBさんはV1切除手術前から偏頭痛で対応する視野に幻覚を見るなどのこともあったようですし、かなりV1切除以外のhistoryの要因が大きい、特殊な例なのではないかと思ってます。たとえば、DBさんはtype I blindsight(どんなに明るい刺激でもawarenessが報告できない)なのに二択の弁別能が90%を越えていますが、それ以降報告されているtype I blindsightでの弁別能はだいたいずっと低いです。(たとえば、StoerigのCerebral Cortex 2002でのHKさんの弁別は二択でせいぜい60%程度。)
それではまたあとでメールしますので。

# Shuzo

ポスター発表お疲れさまでした。内容的に馴染みのない私にも丁寧に説明して頂きありがとうございました。私は表面的にしか理解できていないと思いますが、大変精力的な、非常に面白い研究だと思いました。

あれは?これは?と次々とシンプルな疑問が湧く研究というのは、なかなかないです。今後のご発展、非常に楽しみにしております。

# pooneil

Shuzoさん、どうもありがとうございました。以前もgeneralized flash suppressionを採りあげていたり(http://blog.livedoor.jp/brain_network/archives/50649530.html)、この分野のことをよく調べてらっしゃると思っておりました。それではまたの機会に。


2007年06月25日

ASSC出張終了

無事発表を終わらせました。でもって次の日丸一日参加して、翌日早朝6時53分ラスベガス出発。中継地のサンフランシスコでこれを書いてます。
ポスター発表の方は2時間割り当てられていて、一部屋に40枚のポスターが貼られて、けっこう混雑した状態で行われました。残念ながらKochとStoerigとは話を出来ず。というかポスター会場にいなかったような。でも、同年代か若いくらいの人たちがたくさん来てくださって、ひじょうに面白がっていただけたのでとても勇気づけられました。こちらについては次回に。
講演はキーノートのときはひとつの会場で、他のオーラルセッションに関しては二つ並行して走らせるというかんじで基本的にはほとんどすべての人が同じ場所にいます。全部で300人くらいでしょうか。ほどよいサイズと言えます。
今回の大物はガザニガとデネットでしょうか。ガザニガのキーノートがあって、その次の日にガザニガが言ってた話(splitted brain関連)に関してコメントするという内容。スライドがほとんどないので理解に苦労します。英語英語。Global workspace theoryに関連させて、「いくつかの感覚や認知的内容がcompetitionをしてwinnerが意識に上る、と言うとき、そのwinnerは元のものからなにか意識を付与された何者かに変容するのではなくて、"it just wins"なのだ」(超いい加減理解)、というあたりは"Consciousness Explained"から繋がるデネット節というふうに理解しましたが。
ポスター会場はかたや心理学、かたや現象学、というかんじで混ざっていていいかんじだったのですが、哲学者と話をする機会を充分に活用できなかったあたりは残念。ジョン・サールもアルバ・ノエもいなかった。残念。
Implicit perceptionをきっちり定義して心理物理やイメージングを行う、というのがひとつの大きなトピックでした。前述のSnodgrassらの議論、subjective thresholdとobjective thresholdのどちらを使ったらよいのかという論争がありましたが、Luis Pessoaはimagingに応用させて両方使って比較する(type I, IIのROCの両方を使うとか)というアプローチなどをしていて、かなり仕事が進んでいる様子でした。ここに私が神経生理学を加えようというわけです。
二日目の夜はスペシャルセッションで"the magic of consciousness"と銘打って、、ラスベガスの有名マジシャンがそれぞれのマジックを披露しながら、マジックがいかに意識と注意の操作を意識して作られているかということを議論しました。単なる余興のマジックショーではなくて、マジシャン自身が実演しながらどうやって注意をそらしているかということを説明して、その後で研究者から質疑を行うという形式です。これはよかったです。気が利いてる。VSSでも研究者それぞれが開発したillusionなどをプレゼンする「デモナイト」というのがあったのですが、あれもよかったです。サイエンスを楽しむという形式は、なにか国内の学会や研究会などでもうまく取り込めたらいいなあと考えたり。
んで"the magic of consciousness"に話を戻すと、プレゼンターのひとりのTellerは説明用のハンドアウトを作ってきていて、「actionとはintentionを持った動きのことであり、人間は他者の行動のintentionを読み取ることができる。たとえば混雑した町で人と人がぶつからないのはお互いに他者のintentionを理解しているからだ。上手なマジシャンは観客にそのようなintentionを読み取らせる(誤解させる)能力に長けている」(超意訳)みたいなレクチャーをしていて、これはかなりアカデミックな雰囲気なわけです。
ちなみにTellerはPen and Tellerの片割れで、ラスベガス空港にも大きく看板が出ているような有名人。ふだんはデブのPenがしゃべってる横にいるチビで無口ないたずらっ子キャラという感じらしくて、本人がしゃべってるのを見て観客の中からTellerがしゃべってる!と歓喜の声が。でも普段を知らない私にはわからないのでした。
最後に長老的存在として、日本でも有名なジェームズ・ランディが出てきて、縄抜けのマジックを披露。白髪にあごひげ。引っ張り出されてきた観客のひとりがダニエル・デネットでこちらも白髪にあごひげだったもんでなんかいい絵が。写真とっとけばよかった。
これで私の参加は終了。学会はもう一日続きますが、早めに帰ります。
総評:幅広い分野の人が集まるというメリットをあまり生かせなかったのは残念。大物がポスターを見てくれなかったのも残念。しかし、同年代の志を等しくする研究者との出会いを持つことができたこと、これはなにものにも代え難いことでした。参加してほんとうに良かったです。来年は台湾で開催ですが、ぜひまた参加したいと思います。
次回に続きます。


2007年06月23日

ASSC11に行ってきます

なんとかポスターを印刷して、中部国際空港に行ってみたら、岡崎で売ってなかった本はここにもなくて、けっきょく持って行った本はGTDとNHKへようこそだけとなりました。予習用にSnodgrassの論文などを読んで青空文庫からダウンロードしたのをX01HTで読んでたらサンフランシスコに到着したので待合室でこれを書いてます。
Snodgrassの論文は以前リストしていたこれ:
Am J Psychol. 2002 Winter;115(4):545-79. "Disambiguating conscious and unconscious influences: do exclusion paradigms demonstrate unconscious perception?" Snodgrass M.
Perception & Psychophysics, Volume 66, Number 5, 1 July 2004, pp. 846-867(22) "Unconscious perception: A model-based approach to method and evidence" Michael Snodgrass; Edward Bernat; Howard Shevrin
Unconscious perceptionを示すための方法のdissociation paradigm + subjective threshold method ([detection (yes-no test) できないのにforced choiceができるとき、それをunconsciousなperceptionによるものと示す方法])で示せる成分がSDTを正しく運用するとなくなってしまう、つまりartifactであると主張し、彼が主張するobjective threshold methodを使うと正しく評価できる、みたいな話です。Exclusion paradigmでも同様な議論をしてる。まだ完全には理解してないのだけれど。Detectionをawarenessの指標としてよいか、というあたりの議論を読むつもりでいたのだけれど、論文読んでるうちに、以前も採りあげたRK judgementでの二つのプロセスとそれに対応したROC曲線の話と、今回持ってくニューロンのデータとが繋がってストーリーが出来ました。興奮してメモ。
ASSCのほうはどういう反応をしてもらえるか楽しみ。Kochが見にきてくれて面白がってくれるかどうかと、Petra Stoerigがどういった反応をするか見るのが今回の最大の目的かと考えております。
宿泊するところはラスベガスのメインの通りのカジノホテルです。ここから予約確認のメールが来るとおもいっきりスパムブロッカーに撥ねられてしまうという。
それでは行ってまいります。


2007年06月13日

ASSCの予習

来週末はラスベガスで開催されるASSC11(the Association for the Scientific Study of Consciousness)で発表をします。6/22夕方到着で6/23午前発表。6/25早朝にあちらを発って帰るという強行スケジュール。死んだ。
ちょうどプログラムもアップデートされたので、いくつか要旨など読んでおきましょう。かんじとしては去年の方が顔ぶれが面白かったような。
"The Exclusion-Failure Paradigm and Signal Detection Theory - P without A consciousness?" Elizabeth Irvine。これは以前のエントリ(20050905)で言及した、signal detection theoryとexclusion paradigmを組み合わせるとPhenomenal consciousnessとAccess consciousnessとを分離出来るのでは、という話です。論文集めてある程度読んでたのだけれど、放っておきっぱなしになってました。ちょうどいい機会なのでここでキャッチアップ。
"Cueless Blindsight" Petra Stoerig
Blindsight patientのvisionというのはforced choiceの状況で出てくるものなので、go signalのようなcueingにとても依存します。でもこの発表ではcueなしでも視覚検出detectionが可能だと言ってます。デネットも「解明される意識」のなかで似たケースを用いた議論をしてます。つまり、cueingなしでも自発的に視覚認知行動が出来るようなケースを仮想的に考えて(superblindsightと呼んでいます)、もしそういうことがあったらそれは意識があるのと違わないとかそういう議論。この問題、私自身は実験的環境においては"where to go"と"when to go"との関係として捉えられるのではないかと考えているのだけれど。
つづくかも。


2007年01月29日

Blindsightでの弁別能は刺激提示の繰り返しによって向上する

PNAS "Increased sensitivity after repeated stimulation of residual spatial channels in blindsight" Arash Sahraie et.al.で、Lawrence Weiskrantzが自分でcontributeしたもの。
V1に損傷があってscotomaがある患者さん11人のデータで、scotoma内のある位置にgratingを提示して、二択の弁別課題(gratingがtaskの前半に出たか、後半に出たかを報告するtemporalな二択)トレーニングというかリハビリというかを3ヶ月繰り返したところ、scotoma内のgratingの弁別能が上がった、というもの。しかも、トレーニング中に正解だったかどうかのフィードバックは与えていないから、これはあくまで刺激提示の繰り返しによるのであって(blindsightの場合、明確なawarenessがないのでこれを「経験による」と言ってよいかどうかはわからない)、residual visionのわずかな手がかりをフィードバックと対応づけて強化した、ということではありません。また、scotomaの中で練習していない部分の弁別能はこのトレーニングによっては向上しない。だから、このトレーニング効果はretinotopicalに特異性があると言えます。
これまでにもscotomaの端っこの方でトレーニングするとscotomaが小さくなるというような話はありますが、今回の話はそれがscotomaの真ん中でも起こるし、しかも正解だったかどうかのフィードバックを与えなくても弁別能が向上する、という点が新しいです。
さて、しかしこれはblindsightか。Fig.1上段で出てくる、トレーニング途中の例は明確にtype I blindsightであると言ってよいと思います。しかし、populationデータを扱っているfig.2-4はどうも変です。というのも、この課題を行うときに被験者はgratingがtaskの前半に出たか、後半に出たかの弁別を報告するだけでなく、そのgratingが見えたかどうか、awarenessを報告します。だから、たとえば50%のtrialでawarenessがあって、残り50%は推測で答えたとしても弁別課題の成績は75%になります(*注へ)。ですので、弁別能が75%でawarenessの報告が50%だったとしたら、弁別能とawarenessの報告とのあいだに乖離は見られません。つまりblindsightではない、ということです。そういう目でfig.3を見ると、どのcontrastでも、トレーニングの前でも後でも、弁別能とawarenessの報告とのあいだに乖離はありません。よって私が示したようなcriteriaでは、この論文は全体としてはblindsightを扱ったstudyであるとは言えません。
ただ、ここでのawarenessの評価はbinaryであって、なにかがあるかんじ、のようなものでもawarenessありに判定されています("only if they had no awareness whatsoever of the visual stimulus")。一方でscotomaの範囲を決定するときにはHumphrey Visual Field Analyserを使った検出課題を用いて、いちばん明るい刺激を提示しても刺激の存在を検出できなかったところ、としていますので、これは上記のawarenessの報告とは違った基準であって、検出能がより少なく見積もられています。そういう観点からは、今回のstudyはHumphrey Visual Field Analyserで検出能なし、と判定されたところなのに、チャンスレベル以上で弁別ができている、という点でblindsightであると言うことは可能です。ちょっと甘くするならば。
なんにしろ、awarenessの評価は検出課題と基本的に同等ですので、signal detection theoryでいうところのbiasの影響をもろに受けます。つまり、被験者がawarenessがあったかどうかを決める基準が厳しければawarenessのあるtrialは増えるし、逆も真。この問題を明示的に扱おうとするためにこそsignal detection theoryが使われるわけです。
なお、この問題(弁別能とawarenessの報告の乖離があるかどうか)についてはWeiskrantzは90年代後半に患者G.Y.さんを被験者にした論文をいくつか出して議論しています。たとえば、"Parameters Affecting Conscious Versus Unconscious Visual Discrimination with Damage to the Visual Cortex (V1)" L Weiskrantz, JL Barbur and A Sahraieなど。そういうわけで、私としてはこの論文および前報のEuropean Journal of Neuroscience 2003 "Spatial channels of visual processing in cortical blindness" Arash Sahraie et.al.で、患者G.Y.さん以外でのpopulation dataが出てくることを期待して読んだのですが、それには答えてもらえませんでした。(この件については20051027のエントリで言及しております。)

(*注: なお、このような考え方は素朴で実感にマッチしますが、これはhigh-threshold modelと言われるもので、signal detection theoryが仮定するような、decision signalにgaussian noiseが加わったものを想定していません。)


2006年09月03日

Ideal observerモデルとHeegerのprediction

セミナー準備。HeegerのNature Neuroscience '03 "Neuronal correlates of perception in early visual cortex"を元に。Signal detection theoryの説明用の図を作ってみました。まだ途中で、説明もいろいろ足りないけど、とりあえずぜんぶ自作です。ラスターもrand()を使った単純なもの。不応期なし。

02b.png

03b.png

04b.png

というわけで、明示的になるようにモデルを作ってみると、decision processとevidenceのsignalとの関係あたりがずいぶん曖昧であることがわかります。じっさい、Heegerもevidenceとかそういう言い方はしていなくて(そういう言い方をするのはShadlen)、あくまでinternal statesという言い方になるのです。そもそも、purely sensoryからpurely motorまで遷移してゆくあいだに、その中間型みたいな応答パターンが出てくるのは自然なことだし、それに明示的に外界との対応付けをしてなんらかの表象であると言う必然性があるのか、という毎度の議論にもなります。そういうわけで、いちばんニュートラルなのはinternal statesとかinternal representationみたいな言い方かもしれません。


2006年08月31日

Christof Koch

セミナーの準備でdetection taskをfMRIで使ってるやつとしては、以前採りあげたHeegerのNature Neuroscience '03 "Neuronal correlates of perception in early visual cortex"を使おうと思ってます。Detection/perceptionのneural correlateとしては、activation patternがhit=false alarm>miss=correct rejectionになってるところが重要なポイントなのですな。Early visual cortexであるにもかかわらず。これが運動系だと、たんなるmotor-related responseである可能性を排除するのが大変なわけだけど。

VikingさんがとりあげているShulman and CorbettaのJNP 2003 "Quantitative Analysis of Attention and Detection Signals During Visual Search"およびその元となっているPNAS 2001 "Multiple neural correlates of detection in the human brain"はstimulus+/-とresponse+/-とが直交する形になってないので、少なくともわたしの目的にはそぐわない。Ventral pathwayがdetectionでdorsal pathwayがsearchであるというストーリーは、本当かどうかは置くとして重要なので読んでおかなくてはならないのだけれど。

ともあれ、Heegerのみたいな結果のものを探していたら、Oliver SacksによるChristof KochのThe Quest for Consciousnessに関する記事を発見。調べたところ、まだ未発表みたい。でも、スゲー関連してるじゃんか。がぜんKochまわりを押さえておこうということに。これで本題へ。前置き長い。

まずcaltechのラボサイト

表紙画像

ご存じのとおり、さいきん、Kochの"The Quest for Consciousness: A Neurobiological Approach"の和訳が岩波から出ました。「意識の探求―神経科学からのアプローチ」。ざっと見、これまでの研究のまとめ的な部分がけっこう多い。上記のOliver Sacksの記事にもあったけど、クリックの"The Astonishing Hypothesis"のsequel (=続編)的な側面が強いようです。訳者であるコッホラボの土谷尚嗣さんのサイトに一章のサンプル有り。これと原著の一章のサンプルとを見比べてみたら、和訳に原著にない文章がある。どういうことなんでしょう。和訳時にコッホがappendした?

Kochはかなり多岐にわたる仕事をしているけど、以前言及したLaurent IttiはKochの仕事のうち、saliency-baseなattentionのcomputational modelの方向を伸ばした人です。ほかにも、ニューロンのcompartment model的な取り扱いについては、local field potentialのモデルの話のところでSTさんの紹介でHoltの論文に言及しました。さいきんもGyörgy Buzsákiとの共著でJNP 2006に関連する論文が出てましたね。(コッホラボから落とせるpdfへのリンク:"On the Origin of the Extracellular Action Potential Waveform")

UC BerkeleyのConversations with Historyでのインタビュー。Transcriptあり。Real audioインストールしてないけど。サールのインタビューもあって、これについては以前なんとかしてoggに変換して、iRiverで聞いてたのだけれど、どうやったのか忘れた。

Strange Angelsでのコッホとクリックとのインタビュー。mp3ファイルへの直リン。クリック味わい深い。おすすめ。音悪いけど。


2006年08月18日

Unconscious cognitionの三つのcriteria

今日も今日とてレコーディングしてから統合脳班会議のポスター作り。ギリギリまでポスターに入れられるspecimenのデータを狙っていたのだけれども、思うようにはいかず。ま、こうやって集めたデータがあとで役に立つはず。

vikingさんのエントリでPerception & Psychophysicsに出た"Criteria for unconscious cognition: three types of dissociation" Schmidt and Vorbergというのを知りました。

これは以前わたしのところで取り上げた"Implicit perception and signal detection theory"に関連する話題ですな。

そのときのエントリの話をすると、awarenessの報告を元にしたdirect measureと、awarenessに依らない行動としての報告indrect measureとのdissociationとしてimplicit percetionを捉える、という話でした。Awarenessというのはおそらく、all-or-noneな現象ではなくて、もっとgradedなものである、というかall-or-noneであるというのはあくまでassumptionでしかありません。だから、direct measureにはsignal detection theoryによるsensitivityを使うべきであり、awarenessのあるなしの報告のような二分法(DehanneのprimingのfMRIで使われているような)では不充分、というのがNature Reviews Neuroscienceのメインのメッセージのひとつでした。

Awarenessがgradedな現象であるかということに関していえば、たとえば、BlindsightのG.Y.さんのawarenessの報告では、awarenessの強さは4段階のスコアに分けて解析されていました:

  • score 1: Unaware - There was no feeling of something being there. A total guess.
  • score 2: Aware - There was a feeling that something was there and guessed the direction.
  • score 3: Aware - Fairly confident of the direction.
  • score 4: Aware - Certain of the direction.

(Zeki S, Ffytche DH. "The Riddoch syndrome: insights into the neurobiology of conscious vision." Brain. 1998 121:25-45より。)

こういうことを踏まえて、awarenessをgradedなものとして分けて扱おうとするhuman imaging studyもあります。NeuroImage 2006 "An fMRI study of the neural correlates of graded visual perception."

んでもって、Nature Reviews Neuroscience 2005 "IMAGING IMPLICIT PERCEPTION: PROMISE AND PITFALLS"では、direct measure (D)とindirect measure (I)との関係をプロットしてやって、D=0のときにI>0であることを示すことによって、implicit perceptionのobjectiveなcriteriaとすることを提唱していました。

んでやっと今回の論文ですが、Nature Reviews Neuroscience 2005で言っているような方法(この論文では"simple dissociation"と呼んでいる)以外にもう二つの方法があることを示しています。2番目が"sensitivity dissociation"で、単に、D<Iであることを示すというもの、つまり、D=0でIの値を直接測定したり、外挿したりしない方法ですな。これでオッケーなら話は楽だが、なかなかそうはいかない。3番目が"double dissociation"で、ある操作(lesionをつくるとか、maskingをかけるとか)がDを大きくするのにIを小さくするとか、その逆とか、とにかく効果の向きが違う。この3番目がいちばんassumptionが少ない、というのが著者の意見だというのがabstを読んでわかったことです。

重要なので、読んでみます。

このへんの話題はラボセミナーでとりあげるネタとしてキープしておいたのだけれど、次回はもう少し初歩的なところでアプローチする予定(hit/miss/false alarm/correct rejectionの分類を使ったsingle-unitやBOLDの解析)。前提を共有することがとにかく重要なのです。


2006年02月02日

David J. Heegerのトーク聞いてきました(最終回)

前回の続き。これで終了。

んでもって、activationの伝播のlatencyとしてactivationのpeak timeを使ってます。しかしこれは非常によろしくないやり方で、peak timeはactivationの大きさの影響をもろにかぶります。端的に言って、同じretinotopicalな位置に刺激を出して、contrastを上げてゆけば、activationが大きくなって、peak timeは後ろにずれる。だからそのeffectをさっ引くような処置をしていないのか、ということをHeegerに質問してみました。答えは、それはやっていて、supplementary dataではbinocular rivalryではなくて実際にgratingが動くような刺激での応答を取って、それをモデルに組み込んでさっ引いている、というものでした。それで完全に取り除けているかまではよくわからないけれど、とにかく処置はしているようでした。これはMethodological issueだけれども、データの解釈に根本的に響く問題でして、こいつは話がわかった上で聞いてるな、という印象だけ持ってもらえれば私の目的は達したというものです。

最後の方ではpreliminaryなデータを披露。なかなかおもしろい。同じ系でattentionの効果を見たというものですが。くわしいことはいちおうコメントアウトしておきます。昨年のSFNでも出してないようなので。

セミナー後のラボツアーにむりやり押し込んでもらって、自分の話をすこし聞いてもらいました。相手は専門家だからこちらの用意した図を見てすぐに話はわかったようで、評価は良さそうだったのだけれど、(あちこち回った一番最後だったから)いかんせんお疲れのご様子で、あまり深いことは話せず。でも、出来るだけのことは出来たのではないかと。コツコツと宣伝活動でした。以上です。


2006年02月01日

David J. Heegerのトーク聞いてきました(つづき)

前回の続き。

話の内容はNature Neuroscience '05 "Traveling waves of activity in primary visual cortex during binocular rivalry"でした。これはどういう話かというと、binocular rivalry(=両眼視野闘争がなにかは省略。とりあえず見つけたリンクとしてはこのpdfの8ページを参考にしてください)では、右目と左目に別々に入った視覚刺激が一定の時間を持って入れ替わるのだけれど、その切り替わりの時間帯では片方の視覚刺激からもう片方へ一挙に切り替わるのではなくて、数秒かかってある視野の位置からだんだん広がるように切り替わってゆく、ということが知られています。んでもって、この切り替わりの過程をfMRIで見てやることで、視覚入力が同一な状態で、「見え」の切り替わりが起こるのを、V1のretinotopicalなmap内での活動の伝播として捉えてやろうとした、というのが今回の話です。

この切り替わりのタイミングを再現よく起こすために、視覚刺激にはリング状のgrating(縞模様)を使い、低コントラストのgratingを片目に提示してから、高コントラストのgratingを反対の目に提示します。んでもって、リング状の刺激の切り替わりが伝播したタイミングを被験者に報告させます。このタイミングとV1のactivationとを対応づけてやる、というわけです。たとえば、右上から右下に向かって低コントラストのgratingから高コントラストのgratingに切り替わってゆくのを見たときには、V1の右上視野に対応した部分から右下視野に対応した部分に向かってactivationの高いところが動いてゆく、というのを見ることが出来ます。

んでもって、被験者が伝播の速度が遅いと報告したときにはV1内でのactivationの伝播の速度も遅いし、被験者が伝播の速度が速いと報告したときにはV1内でのactivationの伝播の速度も速かった、というのがmain findingです。細かいことは省略。次回でこの話締めます。


2006年01月30日

David J. Heegerのトーク聞いてきました

David J. Heegerはcomputational neuroscientistで、90年代から活躍してますが、有名な仕事は、以下の二つでしょう。

V1のsimple cellの反応特性が、LGNからの入力のsimpleなsummartionだけでなく、lateral inhibitionやfeedforward inhibitionなどによるnormalization(division)によって形成される、とするものです。当時のFersterのcoolingの論文(linear summationだけでできているとする説)とかで論争になっていたものです。んで、FregnacのNature '98でin vivoのsimple cellでのintraで視覚刺激によってshunting inhibitionが起こることが報告されて、そのあとにFersterも追従して、summation + normalizationということでほぼ決着が付いた、という話もあります。別件でした。

んで、それ以降はもっぱら、human fMRIでearly visual cortexに関して仕事を進めてきました。今回の話の内容はNature Neuroscience '05 "Traveling waves of activity in primary visual cortex during binocular rivalry"でしたが、わたし的に重要な仕事はNature Neuroscience '03 "Neuronal correlates of perception in early visual cortex"です。これは、contrast-detection taskをしているあいだのV1/V2/V3の活動をfMRIで調べたものでして、簡単なsignal detection theoryのパラダイムを使っています。つまり、visual stimulus+/-とdetectionのresponse+/-の2*2=4通り(hit, miss, false alarm, correct rejection)のactivationを取得しています。んでもって、これらの領野ではfalse alarm > missだったから、これらの領野の活動は、物理的な刺激の有無よりも、被験者の「見え」と対応しているのだ、というわけです。(Fig.4より。Hit=[視覚刺激があって、「見えた」と報告したとき]とfalse alarm=[視覚刺激がないのに「見えた」と報告したとき]のactivationが同じくらいであるのに対して、miss=[視覚刺激があるのに「見えない」と報告したとき]にはV1/V2/V3でactivationが小さくなる。) Early visual cortexがawarenessに関わっているかどうか、という問題意識から、今回のNature Neuroscience '05で両眼視野闘争の話へ行く、という流れは納得がいきます。

さて、このぐらいでHeeger自身のショートヒストリー紹介は終了。長くなったので、つづきは次回。


2005年10月27日

homonymous hemianopia

Blindsightのpatient studyというのは初期はほとんどDBさんだし、ここ10年くらいのものはほとんどがGYさんを被験者としたものです。もちろんこのような現象が見られるのはこの二人に限ったことではないのですが、実際のところどのくらいの頻度で起こる現象なのか、というのが気になります。とくに、同名半盲homonymous hemianopiaの患者さんのうちでどのくらいの割合で見られるものなのか、というようなstudyはわたしが知る限りではありません。ようするに、hemineglectの場合で言えば"The Anatomy of Spatial Neglect based on Voxelwise Statistical Analysis: A Study of 140 Patients" Hans-Otto Karnath et alとかに相当するようなものがないのです。
んでさいきん見つけたのが子どもでの症例に関するこれ、
Dev Med Child Neurol. 2005 Oct;47(10):699-702. "Blindsight in children: does it exist and can it be used to help the child? Observations on a case series."
です。この雑誌を購読してないので論文は入手できなくて母集団がよくわからなかったのですが、hemianopiaなのは4人で、しかもそこで示されているblindsightの証拠はあくまで"evidence of perception of movement in the blind visual field"であって、stationaryなものに対するものではありません。つまり、RiddochによるBrain 1917とかで描写されているものと同様なものであって、DBさんやGYさんが示すようないわゆるblindsightではありません。というわけで、けっきょくのところわからずじまい。
というわけで、だれかメタアナリシスでもやれば、それだけでも価値ある論文になるのではないでしょうか。もしくは、上記のHans-Otto Karnath論文ででも、neglectのない純粋なhemianopiaの症例を解析しているわけでして……と考えるとなかなか難しい問題がありそうな予感も。じっさい、hemianopiaの症例の論文を読んでても、blindsightに関する記述がないものなんてざらだし、というかどうやら存在を認めていないようすもうかがえるし。


2005年09月08日

nonhumanで信号検出理論(SDT)

nonhumanでSDTってどのくらいあるだろうか? こないだのEichenbaumのratでrecognition memory taskでSDTというのはあったけど。あ、ちなみにニューロンの反応をROC解析するというやつ(Schallとかがやるやつ)は単なるノンパラの解析の代替物であり、SDTではありません。nAFCの成績をd'にするだけ、というやつもほとんどSDTを使っているとは言えません(以下に混ざってるけど)。いや、もちろん、古典的なthresholdの概念から脱するということだけで充分価値があるわけですが。Criteria(=bias)をふってempirical ROCカーブを書くようなやつがどのくらいあるか、ということを私は知りたいのです。そういえば、これなんて
PNAS | April 24, 2001 | vol. 98 | no. 9 | 5359-5362
Rhesus monkeys know when they remember
Robert R. Hampton
Confidence ratingをしているといえるんではないでしょうか。ともあれ以下羅列。


Uncertain responses by humans and Rhesus monkeys (Macaca mulatta) in a psychophysical same-different task.
by Shields, Wendy E.; Smith, J. David; Washburn, David A.
from Journal of Experimental Psychology: General. 1997 Jun Vol 126(2) 147-164
Behavioural Processes
Volume 64, Issue 1 , 29 August 2003, Pages 121-129
Signal detection behavior in humans and rats: a comparison with matched tasks
Brain Res. 1974 Nov 29;81(1):119-32.
Signal detection analysis of stimulus discrimination in normal and split-brain monkeys.
Kulics AT, Carlson KR, Werner G.
J Acoust Soc Am. 1999 Mar;105(3):1784-800.
A signal detection analysis of auditory-frequency discrimination in the rat.
Talwar SK, Gerstein GL.
Percept Psychophys. 1997 Jul;59(5):774-82.
A signal detection theory analysis of gap detection in the rat.
Leitner DS, Carmody DP, Girten EM.
The Journal of Neurophysiology Vol. 83 No. 5 May 2000, pp. 2639-2648
Discrimination of Line Orientation in Humans and Monkeys
Pablo Vazquez, Monica Cano, and Carlos Acuna
Nature 431, 188-191 (9 September 2004)
Recollection-like memory retrieval in rats is dependent on the hippocampus
Norbert J. Fortin, Sean P. Wright and Howard Eichenbaum
Volume 26, Issue 1 , April 2000, Pages 273-278
Sensing without Touching: Psychophysical Performance Based on Cortical Microstimulation
Detection thresholds for intensity increments in a single harmonic of synthetic Japanese macaque ( Macaca fuscata) monkey coo calls.
by Le Prell, Colleen; Moody, David B.
from Journal of Comparative Psychology. 2002 Sep Vol 116(3) 253-262


2005年01月13日

ニコラス ハンフリー

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体 ニコラス ハンフリー(原著は"The mind made flesh" Nicholas Humphrey)喪失と獲得―進化心理学から見た心と体 ニコラス ハンフリーがあったのではじめのほう(意識関連の部分)を少し読んでみました。意識のハードプロブレムのハードさ(コリン・マッギン流の)をいったん受け入れ、デネット流の消去主義やペンローズ-ハメロフ流の説明を行きすぎとして、進化的説明に持っていこうとするあたりの感触は悪くなさそうなので、もう少し読んでみようと思います……年度末のあれこれが無事済んだら(いやマジで)。

意識の進化的説明(「内なる目」も含めて)に関しては、身体化された心 フランシスコ ヴァレラ(The embodied mind" Varela)での9章「進化の道程とナチュラル・ドリフト」とつき合わせて読んでみる必要があることでしょう。

ちなみに1/6のエントリーで言及した"WHAT DO YOU BELIEVE IS TRUE EVEN THOUGH YOU CANNOT PROVE IT?"でのニコラス ハンフリーの答えはこんなかんじ。超訳、ということで勘弁。

"WHAT DO YOU BELIEVE IS TRUE EVEN THOUGH YOU CANNOT PROVE IT?"に対するニコラス ハンフリーの答え

人間の持つ「意識」とは手品の一種であって、これによってわれわれは説明のしようのない神秘があるかのように考えさせられている、そう私は信じている。誰が手品師で、なにが目的かって?手品師はnatural selectionであって、その目的はというと、人間の持つ自身への信頼と尊厳とを支えること、そうすることによって私たちが自分と他者の生命への価値を高いものとしておくことだ。

もしこの説が正しいなら、この説は私たち(科学者であろうとなかろうと)が「意識のハードプロブレム」をなんでそんなにもハードなものであると思うのか、簡単に説明してくれる。つまり、自然は意識をわざとハードなものとしたのだ。じじつ、「神秘主義的哲学者」たち(コリン・マッギン("mysterious flame")からローマ教皇まで、眼前の不可思議にひれ伏して、意識が物質的な脳から生じるということを理解するのは原理的に無理なのだと断ずる人たち)、彼らはまさに自然がそう望んだとおりに反応してみせているわけだ(衝撃と畏怖付きで)。

この説を私は証明できるかって?どうして人間がそのような経験をするのかを説明するような適応主義的な説明というものはどんなものでも証明するのは難しいのだけれど、この場合、加えて難題があるのだ。その難題は何かといえば、意識を合理的説明の届かない範囲に置くことに自然が成功したのと同じ程度に、それが自然が行ったことであるということを示す可能性そのものも自然はうまく隠しているに違いないのだ。

でもなんだって完璧ではない。抜け穴はあるかもしれない。どうやって脳で起こっている過程が意識の質的なものを持つようになったのか、をわれわれが説明するのは不可能なように見える(もしくはじじつ不可能である)いっぽうで、どうやって脳で起こっている過程がそのような質的なものを持つような印象をもつように作り上げられたかを説明することはまったく不可能なわけではないのかもしれない。(考えてみよう。わたしたちはなぜ2+2=5であるかを説明することはぜったいできないけれど、なぜあるひとが2+2=5であるというような錯覚を起こすのか、ということを説明するのはそれと比べればより容易であるだろう。)

この説を私は証明したいかって? それは難しい質問だ。もし意識が不可思議なものであるという信念が人間の希望の元であるとしたら、そのような手品の仕掛けを暴くと私たち全てが地獄に送られてしまうような危険があるのかもしれないのだから。

なお、今年の質問はニコラス ハンフリー自身が作ったものらしい。


2005年01月03日

JNP 1月号

E. J. Tehovnik, W. M. Slocum, C. E. Carvey, and P. H. Schiller "Phosphene Induction and the Generation of Saccadic Eye Movements by Striate Cortex" J Neurophysiol 93: 1-19, 2005 [EndNote format]
ここ数年V1のMicrostimulationをやってきたE. J. Tehovnikによるレビュー。これが重要なのは、William Dobelleがやっているような人工視覚の応用と大いに関連があるからです。William Dobelleに関しては稿を改めていつか語りましょう。
んで、このレビューはここ最近Tehovnikがやりつづけている、V1へのmicrostimulationによって起きているであろうphospheneの生成に対してnonhuman primateがどのようにして応答するかを調べた一連の仕事についてまとめています。
はじめに彼がやったのは、二つの刺激刺激を出して刺激の出現時間を変えてやることでどちらの視覚刺激を選択するかを操作してやり、microstimulationによって選択がどうバイアスされるかを調べたもの。しかしこれはNewsomeとかがやっているperceptual decisionと似たようなもので、そんなに面白くはない。
重要なのはmicrostimulationによるphospheneを視覚刺激とどのくらい混同して、microstimulation単独の条件でphospheneへサッケードするかどうか、というあたりであって、そのへんに関するタスクのデザインが重要なのだと思うのだけれど、タスクとしてはしょぼい。あくまでこの人はmicrostimulation屋さんなのです。すくなくともいまのところ。
むしろこの人がいまのところいちばん得意としているのは、microstimulationのパラメータを調節していかにカラムレベル以下の小さな領域を刺激できるようにしているか、というあたりで、ここにかんして参考にすべきかと思われます。たとえばNewsomeの実験なんかでも1秒間とかmicrostimulationしっぱなしだったりして、いったいどこが刺激されているか(MTの方向カラムどころかMT外まで繋がるネットワークを刺激している可能性がある)さっぱりわかりません。同様なことはTirin MooreやGrazianoなんかあたりでも該当することでしょう。いっぽう、Tehovnikはfineですよ。刺激の効果を片目からの入力だけに限局するのに成功してたりする。つまり、ocular dominance columnの片方のほうだけを刺激しているといえるようなデータを持っているのです。
この仕事といまAOPになっている David C. Bradley, Philip R. Troyk, Joshua A. Berg, Martin Bak, Stuart Cogan, Robert Erickson, Conrad Kufta, Massimo Mascaro, Douglas McCreery, Edward M. Schmidt, Vernon Towle, and Hong Xu "VISUOTOPIC MAPPING THROUGH A MULTICHANNEL STIMULATING IMPLANT IN PRIMATE V1" J Neurophysiol (September 1, 2004) [EndNote format]、これらとhumanでのV1 microstimulationとをつなげる…ああもう誰かやってるんだろうなあ。
P. H. Schiller@MITと連名で論文を出す前からMITには所属しているみたい。私が知っているのは1996年のJ Neuroscience Methods("Electrical stimulation of neural tissue to evoke behavioral responses.")だけど。
レビューに関連するTehovnikの最近の仕事のリスト:


European Journal of Neuroscienceに出しつづけてレビューをJNPに出すというものすごく渋い仕事ぶり。見ている人はちゃんと見ている、ということでもあるのだけれど。


2004年08月03日

Francis Crickの脳科学への寄与

つづき。

  • Nature '95 "Are we aware of neural activity in primary visual cortex?" by Francis Crick & Christof Koch。この組み合わせになってはじめての論文のはず。これも基本的には領野レベルの議論なんだけれど、前頭前野でのワーキングメモリー(これは悪しき「意識の劇場」概念の継承なんだけど)がアクセスできる領野しか意識には関わらないと考えると、V1は前頭前野とは直接結合がないので、意識には直接関わらない、とする作業仮説を提出したのです。作業仮説なので、著者としてもrejectされてぜんぜん構わないとしているのですが、もちろんいろんなやり方で反論が可能で、じっさいPollenがのちにコメントしています。私もこっちに付きます。この辺は以前のJon Driverのレビュー関連とあわせて、あらためてきちんと書いておくべきことなのでここではやらないでおきます。
  • Cerebral Cortex '98 "Consciousness and Neuroscience." Francis Crick and Christof Koch。LogothetisのBinocular rivalryでの"visual awarenessのneural correlate"を大々的にフィーチャーしています。
  • Nature '98 "Constraints on cortical and thalamic projections: the no-strong-loops hypothesis." FRANCIS CRICK AND CHRISTOF KOCH。大脳皮質の領野間の結合は大胆に単純化すれば、layer 2/3 -< layer 4 (forward)、 layer 5 -< layer 1/6 (feedback)となっていますので、興奮性ニューロンだけで領野間でlayer 4 -< layer 4のループができることはありません。そういうものがあっても、興奮性ループに抑制性ニューロンでのrecurrentの回路を入れておけば適当なところでoscillationするようになるのでそれでいいようにも思いますが、実際問題そういうふうにはなっていないのです(これは領野内のlayer間結合でも同じで、layer 4 -, layer 2/3は興奮性ニューロンですが、layer 2/3 -< layer 4は抑制性ニューロンしかないようです。このへんに関する参考文献はCerebral Cortex '03 "Interlaminar Connections in the Neocortex."。Fig.1は印刷して机に貼っておく価値があります。また、The Journal of Comparative Neurology '98 "Area-specific laminar distribution of cortical feedback neurons projecting to cat area 17: Quantitative analysis in the adult and during ontogeny."を見ると、feedbackの起点はほとんどlayer 5で、layer 6やlayer 2/3はadultではほとんどないことがわかります。)。んで、それと同様に、大脳皮質と視床との間でもそのような興奮性ニューロンが直接つながったstrong loopはないであろう、ということを予言しているわけです。それはそうかもしれないけれど、あまりインパクトはありません。どこがNatureなんだろうか。
  • Nature Neuroscience '03 "A framework for consciousness." Francis Crick & Christof Koch
  • "The zombie within." Christof Koch & Francis Crick
    これら二つは、CrickがChalmersの議論(視覚運動変換の情報処理の全てを備えたうえでしかし視覚意識を持たないような「ゾンビ」を考えることができること)を通過してより慎重な態度にアップデートしたCrickとKochの理論の最新バージョン。読んでないけど。このへんはおそらくはKochがメインでやっているのではないでしょうか。
うーむ、尻切れトンボだけど、というわけで、追悼。


2004年08月02日

Francis Crickの脳科学への寄与

Francis Crickが亡くなったことはすでに各地でニュースになっていると思います。Crickは1970年代あたりから脳科学に移行してとくに意識について考えつづけていました。そこで、Crickが脳科学の分野で(おもにChristof Kochといっしょに)発表してきたことについてクリップしておきましょう。

  • PNAS '84 "Function of the thalamic reticular complex: the searchlight hypothesis." by Francis Crick。「注意」の機能が、空間や属性のなにかにfocusを向けるものであることを元に、そのようなサーチライト的な役割をはたせる脳の領域はどこかというと、視床のreticular complexではないか、と提案した論文。大脳皮質と視床の間との相互作用を重視することにはまちがいなく意味があって、Sillitoなどがさかんにやったことでもありますし、以前言及しました(5/12)ように、この仮説はStewart Shippによってreticular complectではなくてpulvinar complexがそのような注意とsalience mapの中継地点としての機能を果たしているものとして発展的に継承されています。
    とはいえ、PNASに自分でcontributeした論文であって、内容自体はノーベルプライザーである大御所の思い付きであると捉えるべきでしょう。もちろん、Crickはそういう仮説を出すことができる(出すことが許される)貴重な存在としての役割を果たしてきたといえます。ともかくCrickはこの空間スケール(脳領域間の相互作用)と機能レベル(注意を向けるものと向けられるもの)での仮説を以降も提出してゆきます。
  • "DNAに魂はあるか―驚異の仮説." DNAに魂はあるか―驚異の仮説 '94 "Astonishing hypothesis: the scientific search for the soul" by Francis Crickの邦訳。二重らせんの発見者としてのクリックの知名度から付けた邦題は科学書ファンを馬鹿にするものだと思うが、出版社はそうすれば売れると思ったのだろうか(いや、「バカの壁」をベストセラーにしたのは科学書ファンではないのだから、それでいいと思っているのだろうなあ)。ってそれはどうでもよいのだが。
    んでこの本はじつは視覚情報処理の基本を抑えるという意味で実によい本です。Crick自身、脳と意識を解明するためには一番研究が進んでいる視覚系に絞ったほうがよいと考えてのことなわけで、これは非常にまっとうだったと思います。そして最後はcingulate cortexが自我の座であることがもうすぐわかるかのようにして閉じるわけです。うーむ、うまい。こういうのはベストセラーを書くためには外せないポイントかもしれない、ほんとうのところがどうかは別として。実際、この本の出版以降、cingulate cortexが脳機能マッピングの最終フロンティアとしてさかんに研究されてきたのはたしかなのです。
    それからもうひとつコメントしなければならないこととして、少なくともこの時点までではCrickの基本思想は、意識のneural correlateを脳部位のどこかに見出そうというものであり、意識のハードプロブレムのハードさを了解しなかったと思うし、この点で私はCrick的アプローチとは最終的には敵対せねばならないと思っています。しかしそれにしてもこの本は、1990年代前半あたりの意識を研究対象にしようという流れ(リストを下のほうに別のエントリとして入れておきます)の一端を担ったものとして重要であることは間違いありません。
つづきは明日貼ります。
追記:Obituaryは以下のとおり。


2004年06月01日

Nature 5/27

"Object-based attention determines dominance in binocular rivalry."
両眼視野闘争(binocular rivalry)とは、[右眼と左眼のそれぞれに別々の絵を見せたときに、その見えは両者が混ざったようなものではなくて、右眼に呈示しているものと左眼に呈示しているものとが時間的に交互に現れる]、という現象だ。この見えの変化が起こっているときに、網膜上で処理されているものはまったく変わっていない。しかし大脳皮質のどっかで、この見えの変化に対応しているところがあるはずである。それが腹側視覚路(とくに側頭視覚連合野)であることがLogothetisによって明らかになった。つまり、顔を見たときに選択的に活動するニューロンを記録しながら、顔の写真と太陽の絵とかで両眼視野闘争の状態を作って報告させる。すると、顔が見えている報告しているときにのみその顔ニューロンは活動するのだった(PNAS '97 "The role of temporal cortical areas in perceptual organization."*1。またこの実験パラダイムはhuman fMRIへと移植され、Nancy Kanwisherがfusiform face areaでの顔への応答が両眼視野闘争での見えに時間的にロックしていることを示した("Binocular Rivalry and Visual Awareness in Human Extrastriate Cortex.")。以上、両眼視野闘争とそのneural correlateについて。
んでもって、それとはべつに両眼視野闘争のpsychophysicsはいろいろあって、なにによってその見えの切り替わり、つまり左右の入力の選択が起こっているか、ということがいろいろ議論されてきていた。たとえば、両眼視野闘争の状態で片方の視覚刺激をフラッシュさせると、そっちの方に見えが切り替わることがわかっている。この場合だったらおそらくabrupt onsetによるbottom-upのattentionが効いているのだろうと予想される。
というわけで今回の論文は両眼視野闘争とattentionについてのpsychophysicsだ。図1にあるように、ある方向に回転するランダムドットと逆に回転するランダムドットとが重ねあわされた刺激を使っている。これは最初の段階では両眼に呈示され、両眼視野闘争にはなっていない。この二つのランダムドットは重なり合っているから、このどちらかのランダムドットのグループへ注意を向けるのはspatial attentionではなくてobject-based attentionだ。このランダムドットのグループの片方は一瞬別の動きをしてまた戻る。このことで片方のランダムドットのグループにattentionが向けられる。それから片方のグループが右眼に、残りの方が左眼に呈示されて両眼視野闘争を引き起こす。するとその見えはattentionを向けられた方がそうでないほうよりもより多かった。つまり、両眼視野闘争はobject-based attentionによって影響を受ける。
つまり、ランダムドットがそろって同じ方向に回転するということがそのランダムドットのグループを一つのobjectとして捉える作用を持っており、そのことは両眼視野闘争の切り替えが起こっているプロセスと密接な関係を持っているということだ。じつはこのようなobjectの形成と両眼視野闘争との関係というのはすでに報告されており、著者らもreferしている。たとえば、両眼視野闘争で左右の眼に相補的な刺激パターンを呈示する。たとえば右眼にはパターンAB、左眼にはパターンB'A'を呈示して、右眼のパターンと左眼のパターンを組み合わせるとパターンAA'とBB'とが交互に見える、ってまどろっこしい。PNASのfull textが読める人はここのBを見てもらえばわかるでしょう。つまり、object / featureとしてのひとかたまりとして処理されたものが両眼視野闘争で見えたり見えなかったりする、ということだ。
著者はこの論文によって両眼視野闘争にattentionが影響を及ぼすかどうかという論争に終止符を打ったものと謳っている。これがこの論文がNatureに値する部分だ。よって、いままでの論争で本当に決着はついていなかったのか、今回の論文はattentionによる効果以外のもので説明できないか、というあたりについてcriticalに読むことが、この論文をjournal clubで取り上げる人にとっては重要であると見た、なんて勝手に宿題与えてみたりする(<-誰によ)。


*1:実際にはLogothetisの最初の報告はSTSでのmotion stimulusを使った両眼視野闘争(Science '89)、つづいてV1,V2,V4でのgratingを使った両眼視野闘争(Nature '96)があってから側頭連合野ニューロンでの形態を使った両眼視野闘争(PNAS '97)の順で発表されている。


2004年05月28日

Tirin Moore

Mooreはこれで全部かというと、まだそうではない。PNAS '01はCharles Gross (側頭葉での顔ニューロンの第一発見者)によってcommunicateされている。また、シンポジウムではacknowledgementに入れてた。なるほど、Princetonつながりか、などと思っていたのだが、シンポジウム帰ってきて調べてみたら、共著があった。なんとTirin MooreはGross門下だったのだ。(Grazianoとの共著があることから考えればそれは当然予測できることだった。)
それで見つかってきたのが

いやー、私すべて読んでました。なんつーか、世界は狭い!
なお、Tirin Mooreは独立して現在はStanfordにいるらしい。Webサイト。というわけでWilliam Newsomeとここで繋がってしまうわけだった。なるほどこうやって人脈が出来てゆくのか。


2004年02月12日

信号検出理論

Yonelinasの論文でさかんにreferしていたDetection theory : a user's guide by Neil A. Macmillan and C. Douglas Creelman (1991)を取り寄せていたのだが、きょう届く。無事間に合った。なるほどこれは便利そう。
昨日書いたLATER modelとSDTの話は、LATER modelでのdecision signalの分散とSDTでROC curveを書くときのnoiseまたはnoise+signalの分散とを同一視してよいかという問題になるのかも。


2004年02月11日

昨日のはようするに

Signal detection theoryとdecisionに関するLATER modelを繋げられないか、というようなことを考えているというわけ。


2000年02月15日

サール:意識を科学的に研究するには(要約)

"How to study consciousness scientifically" John R. Searle

Phil. Trans. Roy. Soc. London Ser. B (1998) vol.353, 1935-1942

(訳注: この論文は自然科学系一般に関する学術誌の"The conscious brain: normal and abnormal"という特集号に出たもので、この特集自体は1997/12/5-6にあったAmerican Association for Research into Nervous and Mental Diseasesによるmeetingの内容を編集したものです。

同じ号には、Logothesis, Ungerleider, Singer, Llinas, Ramachandran, Damasio, Posner, Zekiなどが書いてます。Searleの書き方は基本的に平易ですが、この文は特に、科学者たちに向けて哲学的問題に深入りせずにわかりやすく書いている、という感じで読みやすいです。)

序論意識を科学の問題として捉えるとは、「どうやって脳の過程が意識を引き 起こすのか、どうやって意識が脳で実現されているか」を説明することである。 この論文ではその進歩の障壁となっている哲学的誤りのうちの9つを採りあげ、 ひとつひとつ取り除く。
命題1意識は定義できないので科学的分析に向かない。
1の答え分析的な定義(ある概念の本質を伝えるもの)と一般常識による定義(今何に ついて話しているかを明らかにするもの)を区別すべきである。意識の科学的研究 で必要なのは一般常識による定義の方だ。その意味では意識とは、目が覚めてか ら再び眠るまで続く、感覚のある主観的状態のことだ。
命題2意識は主観的だが科学は客観的である。ゆえに意識の科学はありえない。
2の答え二つの意味の客観―主観区別を分けて考える必要がある。認識論的な意味 での客観―主観区別とは、その正しさを好みや態度によらずに決めることができ るかどうかだ。一方に存在論的意味での客観―主観区別がある。全ての意識的状 態は私が経験することによってしか存在しないという意味で、存在論的に主観的 である。よって存在論的に主観的な意識について認識論的に客観的な科学分析を することは矛盾していない。
命題3客観的現象である神経発火と主観的な意識とを結びつける方法はない。
3の答え脳の過程が意識を引き起こすことがどうやって可能になるのかを説明する 理論を現在我々は持っていないが、そのことは脳の過程が実際に意識を引き起こ すという可能性を否定しない。心臓が血液を循環させていることはかつては神秘 的であった。脳に関して今のところ欠けているのは、脳が意識を引き起こすこと についての同様な説明だ。
命題4意識を主観的要素(クオリア)と客観的要素とに分けることができて、クオ リアについては無視できる。
4の答え意識的状態とは質的な状態そのものことであり、意識の問題とクオリアの 問題は同一である。意識を何らかの第三者的、存在論的に客観的な現象として扱 い、クオリアをわきに退けるというやり方は単に問題を変えることである。
命題5意識は生物の行動に対して因果的には働いていない随伴現象だ。
5の答え私が腕を上げるとき、意志決定というマクロレベルの説明もあれば、シナ プスと神経伝達物質によるミクロレベルの説明もある。そしてマクロレベルでの 特徴がそれ自身ミクロな要素の動態によって引き起こされるという場合は、マク ロレベルの特徴が随伴現象的なものであることを示してはいない。
命題6意識には進化的な機能はない。意識を欠いて行動するゾンビを想像するの はやさしいからだ。
6の答え翼の進化的機能を検証する際には、翼がなくても飛ぶことができる鳥を想 像できるからといって、翼が無用であるなどと議論することはだれも許されると は思わない。意識がなくても人や動物が同じようにふるまうのを想像できるから といって、意識が無用であると議論することはできない。
命題7意識の因果的説明は必然的に二元論であり、ゆえにつじつまが合わない。
7の答え因果的説明には、因果的に創発する特性によるものもある。分子が格子構 造の中で振動するとき、その物体は固体である。固体性は分子の動きの総和以上 の因果的に創発する特性である。意識も固体性と同様、システムのミクロな要素 の動態による創発的な特性である。このような因果的説明は脳と意識との二元論 を含意しない。
命題8意識の科学的説明は意識をニューロン活動に還元する。
8の答え熱や色の還元ではそれについての主観的経験を削り落としてその概念をそ の経験の原因から定義しなおす。しかし現象が主観的現象それ自身であるときに は、主観的経験を削り落とすことは不可能だ。このような創発的特性の場合には 現象を取り除かずに因果的説明を与えるべきだ。
命題9意識の説明は情報処理過程についての説明である。
9の答え意識とは人間や動物の神経系の内因的な特性である。一方、情報処理は観 察者の心の中にある。コンピューターにある情報はそれを見ている人にあるので あって、それにとって内因的にあるのではない。内因的情報と観察者による情報 とに区別をつけるためには意識の概念を必要とするため、意識の概念を情報処理 の面から説明することは出来ない。
結論避けるべき誤りは「意識を捉えそこなって問題を変えてしまうこと」およ び「意識のことを真剣に捉えようとしないこと」だ。

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