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2012年06月29日

サルの盲視は生活環境でも使える --- Current Biologyに論文掲載されました!

私が生理学研究所の認知行動発達研究部門で進めていた盲視のサルの研究の成果がCurrent Biologyのオンライン版に出版されました!

Yoshida et.al., "Residual Attention Guidance in Blindsight Monkeys Watching Complex Natural Scenes" Current Biology vol.22 (2012) DOI 10.1016/j.cub.2012.05.046

わかりやすさ重視での説明はプレスリリースを見てもらうとして、このブログではこのブログらしく書くことにしよう。こんなかんじになる:

graphical_abstract5jp2.png

  • [ムービークリップ] 盲視のマカクザルにムービークリップを見せて、好きに見てもらっている間の眼の動きを計測する。
    • おサルにとっては、好きに見ているだけ。なにかを探す必要とか無し。報酬無し。強いて言えばムービーが報酬。
  • [特徴マップ] ムービークリップのどこが「目立つか」を計算論的モデルから予測してやる。
    • 目立つってどういうことか。白い背景の中に黒いマルがあれば目立つ。つまり、明るければ目立つのではなくて、周りと違っていれば目立つ。「目立つ」かどうかは空間的配置によって決まる。
    • この予測は個々の動物でみんな同じ。画像だけから計算している。
  • [サリエンシー・マップ] 計算論モデルの結果としてよく目立つ部分(白色)を図示したのがサリエンシー・マップ。サルの視線が向く場所はよく目立つ部分だった。
    • つまり、盲視のサルは見えない視野(「損傷視野」)に向けてテキトーに眼を動かしているのではなくて、「目立つ」(=ボトムアップ性の注意を誘引する)という視覚情報を使っていることが分かった。
  • さらに、特徴マップのうちどの特徴を使っているかを推定することが出来る。つまり、動きの寄与を知りたかったら、「すべての特徴を使った予測」と「動き以外のすべての特徴を使った予測」の差を評価すればよい。
    • たんに「動きだけのモデル」を評価したのではダメ。なぜなら、ムービー上で各特徴の間には相関があるから。たとえば、動いているパックマンは周りと色が違うので、色の面からも目立つ。
  • こうやって評価してみたら、盲視ザルでは「輝度」「色」「動き」で目立つという情報は利用できるが、「傾き」は利用できないことが分かった。
    • 「傾き」という情報はまさに今回損傷したV1で処理されていることが分かっている。よってこれは理にかなってる。
    • ところで「傾き」で目立つってどういうことか。縦縞の背景の中にぽつんと横縞のパッチがあれば目立つ。とりあえずは形を認識する際の要素の一つだと思ってもらえればいい。
  • 盲視ザルでは「色」で目立つという情報は利用できるらしい。直接検証してみた。つまり、灰色の背景に、同じ輝度の色パッチを出して、それに眼を向けたらジュースがもらえるというテストをした。
    • 色は脳内では「赤-緑」と「青-黄」という二つのチャネルで処理されている。これをDKL空間という。以前ブログで「DKL色空間についてまとめ」という記事を書いたけど、それはモニタのRGB値からDKL空間への変換を自力で計算していたから。伏線回収キタコレ!
  • たしかに色を見つける能力があることを確認した。つまり、計算論モデルによる予測を実験で実証した。以上!

自分の話だとつい長くなる。前提として盲視とはなんぞやとかは省略。一点だけ補足しておくと、盲視ってのはふつうは「何も見えないのだけれども、縦棒と横棒のどちらかがあるから当てずっぽうでいいので答えてみて、と言われて答えたらなぜか当たってしまった」というような「強制選択」の条件で起こると信じられてきた。

でも、左右視覚野損傷で全盲の人が障害物を避けて歩く、という報告(deGeleder 2008)のように、強制選択の条件でなくても盲視は使えるって可能性があることが分かってきた。これをムービー刺激で検証しよう、ってのがこの研究のスタートポイントであり、これが検証されたってのがメインの結果の一つ目。

意識研究としての意義で言えば、生活環境下で盲視が使えるとなるとこれは「哲学的ゾンビ」の概念に近い。どういうことよ、って話になる。(この論点は今日は膨らまさない。)

研究の枠組み的な意義として強調したいのは、動物実験 <=> 計算論モデル での双方向でのやりとりがあるという点。実験屋さんがデータを計算屋さんに渡して解析してもらって終わり、ではない。っていうか解析のメインなところにもわたし吉田(実験屋)がかなり関与した。(吉田の寄与については後述)

つまりこういうこと:[ムービーと眼の動き]->[計算論モデルとの対応]->[計算論モデルからの予言(色への感度)]->[色検知課題での実証]

計算論モデルを作成したのはLAにある南カリフォルニア大学(USC)のLaurent Itti。これまでにもこのブログでいろいろ言及してきた。このカテゴリとか見てくれれば分かる。Laurent Ittiはそれまでconceptualな存在だったサリエンシーマップを実際にコンピュータ上で動かして使えるようにした人で、Koch-IttiのNature Reviews neuroscience 2001はこの分野では必ず参照される論文だし、いまでもコンピュータヴィジョンの論文ではIttiのモデルをリファレンスとして、それよりも何倍速く計算できるとかそういう議論がなされる。

そんなかんじの本家の人と一緒に仕事が出来たのは非常にラッキーなことで、それはHFSPでの国際共同研究事業の中で、[日本・生理研・伊佐教授] - [カナダ・クイーンズ大学・Munoz教授] - [米国・南カリフォルニア大学・Itti助教授] - [オランダ・アムステルダム自由大学・Theeuwes教授]というコラボレーションの中で生まれた。

この共同研究でいくつか論文が出たけど、今回の仕事はそのなかではいまのところいちばんいいところまで来ることが出来たと思う。さあ、どんどん次行こう!


計算論の部分における私の寄与としては、もともとのサリエンシーモデルでは色チャネルはRGBだったりYuvだったり、コンピュータ・ヴィジョンの発想でモデル化されていたので、そこにより神経科学的に尤もらしいDKLチャネルを用いてモデル化することを提案した。(コード書くのはLaurentだった。わたしもC++勉強したけど、ぜんぜん無理だった。)

それから、もともとのモデルではそれぞれの特徴は単純に足しあわされるだけだった。そこで私は、特徴量の寄与を計算するために、この特徴量を足し合わせる部分の重みを振って、予想成績を最大化する重みを見つけて、さらにFullモデル - マイナスワンモデル(上述)の差から各特徴の寄与を計算する、という方法を提案した。(cross validationはしてない。そこはサボってる。)

けっきょくコードを書くのはLaurentだったけど、ペアプログラミング的に、コード書いてるLaurentの横で私があーでもないこーでもないとか言ってコードを確認して、自分がイメージしたとおりにimplementされているかどうか責任を持った。(サリエンシーの評価にDL距離がいいか、ROCがいいか、ROCのばあいにはタイの扱いをどうするか、そういう細かいところまで一緒にやった。) Matlabとかについてはわたしもコード書いた。このためにLAに滞在したのだけど、なかなかextensiveな経験だった。


[社会的意義について] (ここから口調変えます) この研究結果から言えることは「ムービー見ているときの眼の動きを記録するだけで、同名半盲の方が盲視を持っているかどうかを調べるのに使うことが出来ます」ということなのですが、これはあくまで動物実験の結果なので、まだ患者さんからの要望にすぐに応えることは出来ません。

研究発表をする度に、患者さんまたはその家族の方から問い合わせの連絡をいただくのですが、毎度「直接お力になることは出来ません」と返答しています。お医者さんとの共同研究による検証がその前に必要です。

患者さんからいただく問い合わせの中でよくあるのが、盲視とは「トレーニングによって見えなかった視野がまた見えるようになる」ことであるという誤解です。そうではないのですが、このことはなかなかご理解していただけないので繰り返し説明しています。そのような意味での機能回復トレーニングに関する研究はあるのですが、効果は無いか、あったとしても非常に小さいことが分かっています。

もし医師の方で興味のある方がいらしたら吉田までご連絡いただければ(アドレスは生理研のサイトにあります)、本研究成果の患者さんへの応用の可能性について議論させていただきたいと考えております。

盲視は同名半盲の患者さんの中で稀に起こる現象と考えられてきましたが、最近ではトレーニングによってこれまで考えられているのよりも多くの患者さんで盲視の能力が現れることが報告されています。たとえばJNS 2009 "Perceptual Relearning of Complex Visual Motion after V1 Damage in Humans"および著者の大学でのプレスリリースそれからその他の報道 Discover Magazine.comthe guardianなど。

JNS2009の場合には具体的には何をしているかというと、ラップトップにトレーニング用のプログラムを入れたものを患者さんに持って帰ってもらって、毎日家で損傷視野での視覚刺激の弁別課題(ランダムドットの方向弁別とか)を行ってもらうと、はじめは成績が偶然当たるレベルなのに、数ヶ月で二択で9割正解くらいまで上がるというのです。

おそらく盲視自体は医師にとってまだ懐疑的に見られているようにも思うので、まずはこの現象に興味を持っていただけたらありがたい、このへんからスタートしようと考えております。盲視という能力が開発できるとしたら、患者さんにとってはいいことなのかもしれないし、でも患者さんにとってはさっぱり意義を実感できないのかもしれない。(気付かぬうちに見えない視野から飛んできたものを避けたとして、それで得したと実感できるだろうか?) まずはいったいなにが起こっているのかをもっと知りたいし、その上で本当に役立つのかを考えたいのです。


2012年06月27日

「科学手品セット」などもうないし、なくてよかったんだ。

流水の中に白熱電球をそっと沈めて、ただ祈る。亀裂が入ったところで、時が止まり、空気が留まり、心臓が停まる。

水浸しのコンクリートの床にピアノが置いてあって、長靴とツナギで入り込んで、デッキブラシで床を掃除しなければならない。最悪なことに、床は傾いていて、ピアノのストッパーが壊れていて、ピアノがぐらぐら動くのを止めることが出来ない。塩素の臭い、水の臭い。ホワイトノイズが流されている。なんのために?

無謬性の誤謬が云々かんぬん。

押し寄せるのは、竜巻? 嵐? 雪崩? それともXXX? 言葉は失われたが、またあらためて分節し直されて別なところに生まれ落ちるだけなんだ。


思い立って、レイモンド・カーヴァーの「大聖堂」を借りてきた。表題作だけ読んだ。なんてことはない話だけど、そして主人公はまったく普通に、嫌なところもある人だけど、それゆえになんかいいかんじで終わるのが気に入った。原文でまた読んでみることにしよう。

ついでにカポーティの「クリスマスの思い出」も読む。これはなんども読んだが、今回は村上春樹訳のやつだ。「そして僕らは思い出すのだ、すべての鳥たちが南に渡ってしまったわけではないのだということを」 キタワー

原文では、"Here, there, a flash, a flutter, an ecstasy of shrillings remind us that not all the birds have flown south."というくだり。

Here, there, a flash, a flutter, an ecstasy of shrillings" ここの圧縮の具合ったらないわな。感涙する。「そこかしこで、何かがさっと前をよぎり、ぱたぱたっという音が聞こえ、感極まったような鋭い啼き声が響く。」

"As for me, I could leave the world with today in my eyes."


そういえばこのあいだの出張のとき、かわいそ犬3号と名付けたくなるようにのを見つけた。年老いて毛並みがぼさぼさになってしまうだけではない何かがあるんだろうと思うのだけど、何かは分からない。とにかくそれは私の自己憐憫回路を揺さぶるんだ。

そのような「何か」の正体など私の中にしかないのだろう。「世界を再魔術化する」ってのが俺の中での「脳内革命」でしかないのなら、そんなものは要らない、いや要るか。要ります、要ります。「科学手品セット」などもうないし、なくてよかったんだ。


ここまでエントリ書いてしばらく放置していた。そしたらあとで気付いたのだけど、まだ我が家には「科学手品セット」は捨てられずにとってあった。なんだろう? 砂浜から潮が引いてゆく感じだ。自分が9年前の自分と繋がっているのを感じる。こんど次男に「科学手品セット」を使って見せてやることにしよう。


2012年06月20日

盲視の感覚は視覚ではない。強いて言えば「盲視感覚」

盲視で起こる「なにかある感じ」とはなんなのかということがわかった気がする。ということで忘れぬうちにメモった。

つまりそれは左右逆転メガネで獲得した新しい感覚のようなもので、盲視では通常の視覚経験のその代わりに新たな感覚経験によって置き換えられたのだ。これを「盲視感覚」と呼びたい。「視覚」「聴覚」などと区別する意味で。

機能的に操作したのでは意味がない。感覚の空間的構造で考えるならばそれは上下左右のトポグラフィカルな構造を持っているという意味で視覚に近いと言えるが、それが指し示すもの(テクスチュア、色などの意識のcontent)を外界に投影した形で経験できないという意味では聴覚もほうがまだ近い。

共感覚は元の2つの感覚を指し示すことが出来るし、四次元色(SML+1)があったとしてそれは色だろう。もし視覚、聴覚、触覚といった感覚を機能を元に区別することを避けたとしたら、感覚質そのものの違いを使うか、その感覚の空間的構造を使うしかないだろう。

わざわざ別の感覚と分けて考えたいのは、この感覚ははっきりとしたものであるにもかかわらず、たまに裏切られるという特性を持っているからだ。Zekiはこの特性をgnosanopsia/agnosopsiaと読んだが、これがpost-decision wageringがうまくできない理由でもあるし、Yes-noとforced-choiceとで成績が乖離する理由でもある。つまり、一文で言うならば「盲視感覚はveridicalでない」ということなのだろう。

ここまで考えてみると、盲視での「なにかある感じ」が視覚なのかそうでないのかの議論自体は不毛であると言っていい。意識経験であるのは確かで、しかしそれがveridicalでないという意味で独特である、ここを解明するべき。

盲視がいわゆる哲学的ゾンビの例として適切でないことはデネットだってチャーマーズだってネッドブロックだって言っているので、いまどきそういうナイーブな人はいない。それでも盲視には意味があって、なんで我々は自分の感覚を信頼することが出来るのか、メタ認知と記憶と学習とにどっかで繋がる。(錯覚で裏切られたとしてもその場合にはこういうときは裏切られるってのがわかる。だからそれはべつもの。)

いままでの話はtype II blindsightの話しかしてなかったけど、type I blindsightは実在するし、それもたぶん今の話の延長上で考えられるんではないかと思う。まだそこまで頭が回ってない。

その昔、「逆転地球」論文とか読んだことがある(2000年のqualia-MLでのやりとり)。あと、Noe and Hureyも関係してくるだろう。Mriganka Surの一連の仕事とか、David Ingle 1973のカエルのrewiringの話とか、いくつか関連するものを元にして以前の議論をアップデートして、講義の締めに使ってみようかと考えている。


Youtubeで盲視関連の資料探していたら、盲視のGY氏が普通に名前と顔出ししているのを見つけた。Ramachandran on blindsight

それからあと、Brain Damage affecting Perception in multiple ways -part 2/2 あとこれの後半(3:17-)ではGY氏が普通に自転車こいでるとことか心理物理実験してるところとか。

(大変重要な資料だと思うのだけれども、著作権的にアウトだから授業に使うことは出来ないだろう。上記のRamachandranのBBCの番組なんてふつうにDVDとして売ってほしいのだけど。)

Milner and GoodaleのDFさんもそうなのだけど、これらの人はいろいろ不便ではあるもののふつうに日常生活を営んでいるわけで、patient GYとかpatient DFとかいう表現をするのはなんか違うと思ってる。なるたけparticipantとかsubjectとかそういうかんじで表記したい。


2012年06月18日

マカクでTET-on/TET-off --- 伊佐研からNature出ました!

私が助教を務めている、生理学研究所の認知行動発達研究部門(伊佐研)からNature出ました!

Kinoshita et.al., Nature 2012 "Genetic dissection of the circuit for hand dexterity in primates"

詳しいことはプレスリリースを見てもらうとして、要は、

  • マカクでTET-on/TET-offシステムを使った経路選択的な機能遮断に成功した。
  • マカクで、解剖学的に同定されたある経路だけに発現するようにベクターを二重感染させてやる。
    • 順行性のベクターを領域Aへ、逆行性のベクターを領域Bへ注入すると、領域Aから領域Bへ投射しているニューロンだけで二重感染が起こる。
  • でもって、DOX(抗生物質)入りの水を飲ませてやると、その時期だけその二重感染した経路が遮断される。
  • これによって、損傷実験や薬理学的抑制よりもより選択的かつ可逆的に、ある経路がある機能に関連しているかどうかを切れ味よく示してやることが出来る。
    • 損傷実験では機能回復や機能代償の効果が無視できない(だから私は機能代償の方に主眼を置いている)。
    • ムシモル注入などの薬理学的抑制実験ではムシモルがどのくらい広がったかといったコントロールが難しいし、そもそもどこに注入できたかをあとで確認するすべがない。

こういう系をはじめてマカクで実現したということが重要。原理的には解剖学的結合が分かっていればどこにでも応用できる。マカクでこの方法が使えれば高次脳機能についてのこれまでの知見に応用が可能になる。よってそのインパクトは大きい。だからNatureに掲載された。

けれども、マカク用のベクターを開発する、といった各ステップがたいへんなので、このような仕事には大々的なコラボレーションが必要で、今回のこの仕事は脳プロ課題Cの枠組みを最大限に活用することによって実現した。そのへんに関しては文科省ライフサイエンス課の資料(PDF)が詳しい。

方法論の論文じゃんってのはその通り。今回の実験系は脊髄にチャンバーつけて行動中にムシモル入れるとかしないかぎりこれまでの方法では難しいし、ゆえに急性実験のレベルまででしか明らかになっていなかったことを明らかにしたという意味では、この方法ならではとは言える。しかし、ムシモル注入ではなくて、原理的にこの方法でないと見つけられないものを出せるかどうかというのがおそらくは次の課題となるのだろう。たとえば…まあ思いつくでしょ?

ともあれ、木下さん、おめでとう!(ラボの部屋の私の席の真後ろにいる。)

コメントする (2)
# やまだ

おめでとうございます。読売オンラインで知って、武井さんや大矢さんと盛り上がってました。すごいですね~Nature。
 この方法はムシモルと比べてかなり画期的ですよね。ある二つの領域を繋いでいる細胞だけ機能を可逆的に落とせるんですから。
アポトーシスがどの程度起こるのか知りませんが、ほとんど完全に可逆的そうですね。この方法なら、あるネットワークの一部の経路を落とした時のネットワークの状態とか議論できますよね。最先端を切り開いていってるのは本当に尊敬します。意思決定のような曖昧さの高い研究にこそ、いろいろ使えるように思います。

# pooneil

どうもありがとうございます! まあわたしはオーサーではありませんが、このテクニックが今後いろんなところで使われていくといいなと思います。
どのくらい機能補償が起こるのかとか(図を見るとDOX飲ませているあいだにも成績は回復してる)、感染効率どのくらいだと認知的課題に影響及ぼせるかとか、いろんな場面でこれから検証されていくと思います。


2012年06月15日

半側空間無視でのimplicit perception

Blindsight and insight in visuo-spatial neglect Nature 1988 タイトル見てギョッとして、なんか見逃していたかと思ったけど、ここでのblindsightはimplicit perceptionのこと。

つまり、hemineglectでawarenessがなくても視覚情報自体はちゃんと処理されているということを示した先駆けの論文で、二つの家の絵を上下に出して同じかどうか聞くと同じと答える。でもじつは上の絵の家の左の部分は火事になっている。そこでどっちに住みたいか聴くと下を選ぶ、というもの。

盲視と半側空間無視を比較するということを考えているわけだけど、もしかしたら、同名半盲による盲視と半側空間無視による盲視を比較する、ってのがいちばん形式的に揃っていて有意義かもしんない。金井さんの論文 (Consciousness and Cognition 2010)みたいにawarenessが無いときの二分類にうまく分かれるたりとかしないだろうか。

半側空間無視でのimplicit perceptionについては、Driver and MattingleyのNature Neuroscience 1998 に詳しく書かれている。盲視との違いで目を引くのはこの残存視覚がobject identification (腹側系)である点だ。

ちなみに前述のMarshall and Halligan 1988はこのレビューでは言及されていない。あと、Driverはこのレビューや後のcognition 2001などでも盲視との対比を議論している。(盲視は腹側系の情報を失い、半側空間無視は背側系の情報を失うという図式)

まあ、とにかくネタ帳に入れておく。要は、どのような対比にすればdouble dissociationが作れるかってこと。perceptionとattentionとをシリアルに置くような議論だと二重乖離にならないので、なんかパラレルになるところを見つけるのが肝要。


落ち穂拾い:Blindsightとimplicit perceptionとはべつものなので、implicit perceptionのことを示すのにblindsightって言葉を使うのはabuseだと思う。

Implicit perceptionでは間接法(刺激そのものに対する応答を使わない)で見えない刺激の情報による影響を調べる。たとえば見えない刺激を出したら、それによって同時に提示した見える刺激への応答潜時が変わったとかそういうやつ。

Blindsightでは、見えない刺激に対する影響を直接法 (刺激そのものに対する応答を使う)で調べる。たとえば2afcによる刺激の弁別とか。

Blindsightの能力自体は間接法でも見つけることが出来る。とくに、hemidecorticated subjectでのblindsightの場合では、間接法でしか出てこない。(affected fieldに刺激を出すと、同時に出したintact fieldへの刺激への応答潜時が短くなる。)

ちゃんと整理している人を見たことはないのだけれども、概念をはっきりさせるとこんな感じだろうか:

  • 一般に、間接法で見つかるものはimplicit perceptionと呼ぶべきで、盲視と呼ぶべきではない。
  • 盲視の能力のうちで、直接法で出てくるものをimplicit perceptionとは呼ばない。
  • 盲視の能力のうちで、間接法で出てくるものはimplicit perceptionと呼べる。
  • 直接法でその効果が見えるのが盲視の特長であり、implicit perception一般とは異なる部分。
  • ただし、hemidecorticated subjectでのblindsightの場合では、implicit perception一般と区別できるところはない。

このへんは将来的にレビューを書いたりする際には入れておくとよさそうだ。


2012年06月14日

Why Am I So Short?

「行列の出来ない大学生」か。でも自分のこと考えてみると、固有値とか未だに意味が分かってないな。Cはポインタから先はわからない。Rはいつまでたってもワナビ。変分法を学んでいないから、変分ベイズも分からない。Marrの本読んでない。プリゴジンの本読んでない。ハーケンの本読んでない。医学教育受けてないから解剖実習も出来ない。でもそんなことぜんぶ吹き飛ばすくらいだめなんだ。

逆上がりができたことがいちどもない。木登りできたことがいちどもない。徒競走はいつもビリ。英語聞き取れない。英語で世間話できない。論文は未だに印刷して書き込まないと読むことが出来ない。経済のこと分からない。株のこと分からない。土地のこと、相続のこと、法律のこと、税金のこと、なにも分からない。でもそんなことぜんぶ吹き飛ばすくらいだめなんだ。

世の中のことを世間話するほどには何も知らない。震災のこと、原発のこと、捕鯨のこと、基地のこと、領土問題のこと、欧州経済のこと、北アフリカのこと、ハイチのこと、なにも語れない。ブログではそういうことは語るまいと誓ったことが徒になって、そもそもなにも語れない。でもそんなことぜんぶ吹き飛ばすくらいだめなんだ。

下級生をうまい店に連れて行っておごってやったこととかない。親身になって相談に乗って感謝された記憶がない。そういえば俺告白されたことがないな。(今書き出して愕然とした。) 恫喝が怖くて仕方がない。暴力が怖くて仕方がない。自分で吐いた暴言を夜な夜な思い出しては苦しむ。でもそんなことぜんぶ吹き飛ばすくらいだめなんだ。

本当に重要なことは全部迂回して、なんだか深刻そうに、あれもない、これもないとあげつらってみる。でも本当に重要なことを全部迂回しているかぎり、こんなことぜんぶ吹き飛ばすくらいだめなんだ。


“You may laugh at me / say I don’t deserve all the things I’ve had”

"Whenever you feel like criticizing any one," he told me, "just remember that all the people in this world haven't had the advantages that you've had."


こういう書き方でしか伝わらないことをただしく伝えたいのだけれども、伏線とかコンテキストとかそういうものが足りない。だから今は、見つけるべき公式を求めて、なんどでも書き直しを自分に命じる。


2012年06月12日

駒場広域システム講義の準備中。

6/20に駒場広域システムの学部講義(たぶんこれ:61066 システム科学特別講義II)で「意識と注意の脳内メカニズム」と題して講義します。池上さんから依頼を受けて、いいですね!ありがたく引き受けさせていただきます!なんて返答をしたら、90分 * 2コマ連続であることが判明。泣きそう。だがベストを尽くそう。そんなわけで、いろいろアイデア練ってた。


DFさんはtextureとか質感とかは関知できる。Humphrey et al 1994では懐中電灯を見せたときの例(レクチャーのPDFのp.25)がある:「台所用品。赤いパーツが付いてる。赤いところはプラスチックで他は金属。」手渡されると「懐中電灯か」

盲視ではこのような質感はない。だから、同じように腹側経路が損傷しているとはいえ、両者の視覚経験はまったく違っている。V1こそがそのような基礎的な視覚経験に必須であると言えるし、これを「感覚」と「知覚」の区別で言えば、sensation without perceptionと言っていいのかもしれない。

メロポンの入門書を読んでいたら、視覚はゲシュタルト的構成を元に一挙に与えられるのであって、知覚の前の感覚のような段階説は間違っているとするような書き方があって、どういう文脈で言ってるか分からないが、(メロポン的にはセンスデータ説批判ではなくて「行動の構造」以来の、ゲシュタルト心理学の含意の敷延のはずだから)、本人の文章ではどういう言い方をしているのか見てみることにしよう。

ニコラス・ハンフリーはトーマス・リードを引いて、このような感覚と知覚の違いに基づいて議論を進めるのだが、これは哲学者にはとても受けが悪いとこぼす(「赤を見る」)。たぶんこのときはセンスデータ説批判のほうから来ているのだろう。わたしも盲視から発想するので同じような考えに至る。

つまり、sensorimotor contingencyによって決まるような技能としての視覚(背側経路)とpredictive codingしてsurpriseをtop-downのawarenessによって消してく、ヘルムホルツ的視覚(腹側経路)との折衷、ってアイデアになる。

じつはこのようなアイデアはJoel Norman のBBS2002にあって、両者の範囲を正しく限定するという意味でよいと思うのだけど(Noeがcolorについてsensorimotoroの議論を応用しようとかするのは無理だろとか思う)、BBS2002自体の反応見てるとイマイチ。

なにより肝心のGoodale & Milnerが出てこないもんだから、Normanの話の前にGoodale & Milner説自体の妥当性とかの話になったりして。David Ingle (retired)がコメントしてたので期待して読んでみたら、昔話に終始して、使えない奴だった。

まだ全部読んでるわけではないけど、どうやらギブソン的視覚観とマー的視覚観とを統合したい、なんて動機がそもそも共有されていないんではないか、という印象を抱いた。

Goodale & Milnerの中でいちばんきっつい主張(dorsalはunconscious)にも与しない。腹側系は意識のcontentであって、それが配置され、他者と環境を含めた世界として経験されるためには背側系が必要。

進化の過程では、背側系の方が先立つと考えた方がよいのではないだろうか? つまり、Goodale & Milnerにハンフリー的な進化の視点を導入する。視覚への応答がvisuomotor processingそのものであった状態(背側系)から、表象の世界(腹側系)がどうできるか。

こんなことを今度の講義のまとめに持ってくるつもり。Goodale and Milner成分をいくつか付加して、通りいっぺんな説明ではなくてそれなりに血の通った話をして(DFさんの「視覚経験」)、盲視の話への導入とする。ついでにJCでも再利用。

前半は「注意」。サリエンシーマップと半側空間無視の話をして、前者ではpredictive codingまで、後者では空間と身体との関係まで言及する。これが後半の伏線になる。

後半は「意識」。両眼視野闘争とNCCとGoodale & Milnerの話をして、盲視を最後に持ってくる。盲視では質感はないけどサリエンシーはあるのだ、という話をする。脳とかSDTとかテクニカルな話をするか、それとも外在論とかenactionとかの話をするかのバランスを考える。

つまり、ニコラス・ハンフリーの話で出てくる原始的生物の話は、背側系(手で物体を操作し、目で定位する)という過程が先立って、その生態学的な拘束条件によって決まるアフォーダンスそのもの(たとえば手に届くものを届かないもの)が弁別の材料となる。

そのような弁別能力が長期記憶となり、カテゴリー化の源となる、といった腹側系の機能が出来る。このような表象自体が独り立ちして表象間で操作を行うようになると前頭葉が必要になる。ってこういうおとぎ話をえんえんと書く必要はないのだけど、アフォーダンスが表象に先立つ、というのはVarela-Noe系列のenactive viewとしても筋が通っていると思うし、enactive viewの適応範囲を正しく決めるのにも寄与しているんではないだろうか?

「その生態学的な拘束条件によって決まるアフォーダンスそのものが弁別の材料となる。」つまり、この時点では弁別そのものをしているのではなくて、行動として本当に手が届くか届かないかという事実だけがある。そこから行動しなくてもあれは届かない、という判断が出来ればこれは弁別したことになる。

つまり、行動をせずに、あれは届かないと判断するのが弁別であって、弁別は経験からの学習を前提としている。ってそりゃあたりまえだった。Perceptual decisionではこれがもっと具体的に確率密度分布で持つのか、それとも判断基準で持つのかとかそういう問題になったり。


OBEで「痛み」はどちらの「自己」に帰属するのだろうか? たぶん答えがあるはず。調べておこう。どちらに帰属するにせよ、それによって痛みを他人事にしてしまうことはできないのだろうか?

ksk_S @pooneil RHIでラバーハンドの方に痛みを感じるというのはあるようですね。素朴には、痛みのような内受容性の感覚はそれを感じてるところが「こちら側」になって、他人事にならないような気がしますが。

@ksk_S なるほど、rubber hand illusionのほうで考えればよいのですね。まさに「痛みのような内受容性の感覚」と視覚のような外界に投射する感覚とではいったい何が違い、どこに限界があるのか、みたいなことを考えてました。ではまた。

ksk_S @pooneil まさにそれについて僕も考えていました。RHIやOBEで問題にしている身体的自己感覚は外受容性なんですよね。内受容性の感覚は、身体のように帰属させる自己じゃなくて、もっと意識体験のフレームそのものに直接関与してるような気がします。

(4/21のを吉田がリツイート) ksk_S あともう一つ最近の疑問。形式システムと、力学系と、確率論的世界の上下関係。力学系は形式システムを内包してそうだけど、確率の世界は可能性を扱えるので力学系を含んでいるといえるのか? 含んでるけど目が粗くて捉えられないものがあるということなのか?


講義スライド用に今まで持っているマテリアルを並べてみたら、209枚になった。セクション用の見出しとかもあるから実質180枚。これだけあれば3時間の講義には充分だろう。どちらかというと、これを使ってちゃんとストーリーが流れるように構成することに注力するのがよさそうだ。


ブログ更新: 「脳の生物学的理論」からの話の展開: 20111227のtwitterでの池上さんと藤井さんとのやりとり。 pooneilの脳科学論文コメント 20120516

alltbl @pooneil ちなみに吉田さんは、脳や意識についての論文をかなりきちんとフォローされてると思うのですが、脳はどういうシステムだと思ってますか?Alan Turingの考えたチューリングマシーン的なものではないでしょう?

@alltbl むつかしいこと聞きますね。脳を実際に見ているものとして、脳はコネクショニズム的な分散表現を行っているというのが前提なので、古典計算主義的な脳観は持たない。ただし、そしたらニューロンの活動はニューラルネットの中間層みたいなことやっているのかというとそんなことはなくて、じつはスパース表現がなされていることが多い。つまり、おばあさん細胞のようなニューロン活動というものは偶然に出来ているのではなくて、どっかのレベルで最適化の結果であるらしい。そうなってくると、脳で表象をするということがまた違って見えてくる。

@alltbl あくまで仮説ですが、分散表象とかポピュレーションコーディングのような表象が背側系で行動を引き起こすのに使われて、腹側系でのスパース表現というのは表象の操作を含むような認知活動に関わっているかもしれない、とか考えます。

alltbl @pooneil なるほど。コーディングのような表象が背側系で行動を引き起こすのに使われて、腹側系でのスパース表現というのは表象の操作を含むような認知活動に、というのは面白いですね。ただ聞きたかったのは、何をしているかという時に、世界を写しとるというコピーマシーンみたいなもの?

@alltbl ちょっと寄り道しましたが、このようなニューロン活動のあり方というのが、先日の鈴木さんのツイートにもあったような、「形式システム」と「力学系」と「確率論的世界」のすべてに対して寄与しているんではないだろうか、とか考えたりします。

@alltbl ニューロン活動がポピュレーションコーディングで確率論的な振る舞いをすると同時に、スパース表現でばらつきのない確実なニューロン間通信を行う、みたいに考えたら、確率論的な脳と力学系としての脳が同時に説明できないかなとか考えました。

@alltbl 強い表象主義だと外界のコピーを内的に表象することになるけど、それは無いと思う。まず、背側系は技能として視覚を使うのでコピーをしない(昨日書いた、enactiveな脳)。腹側系は外界をinferする表象を作成するけど(昨日書いた、ヘルムホルツ的脳観)

@alltbl 、実のところ注意を向けたところしかinferしてない。これこそがchange blindnessからわかったことで、われわれは注意を向けていない部分についてはコピーを作っていない。(これはpredictive codingの観点から説明するのが良いと思う)

alltbl @pooneil コピーマシーンなんだけど、自分で世界を変えてコピーしやすくしようとする? 必要以上に脳の仕組みが複雑に見えるので、他に何かしてるんじゃないかと。

@alltbl うーん、これは池上さんの言葉が分からない。

alltbl @pooneil すいません。運河を見てましたw Andy の読みましたが、どうなんだろう。ぼくはこのpredictive codingに賛同できないですね。というのも、生命は予測を最適化するならば、暗い部屋にじっとしてるはずだけどそうではないし、遊びこそが大事、だと。

@alltbl predictive coding的にいうなら、コピーを作るんではなくて、予想外だったときのサプライズを脳内に表象を作ることでキャンセルアウトする、というかんじで。(Andy Clarkもなんかこのへんについて言っているけど、まだ読んでない)

@pooneil これまではミクロには力学系で、疎視化すると確率論、とか考えてたけど、こういう可能性もないかという思いつき。

@alltbl predictive codingにしろ、ベイズ脳にしろ、最適化と言いつつ最適化しようのないノイズというか揺らぎがたくさんあるのに抗しているという状態なのだから、最適化と相反する作用とのバランスという図式を描かないと、池上さんの言うとおりになると思います。


predictive codingだと最適化した行動を前提としているとかいうのはニューロンレベルと行動レベルとのカテゴリー錯誤がありそう。predictive codingの重要度はニューロンの表象の意味を一変するところにあり、おばあさん細胞はおばあさんを表象しているのではなくて誰もいないというpriorからおばあさんが現れたサプライズがニューロンの発火として表現されて、それが緩和される過程を我々は観察者としてみているだけだし、脳内では、上流の細胞が下流の細胞のサプライズを消すように活動することが結果として情報をデコードしてことになってるんだと思う。


2012年06月10日

二つの視覚システム説についていくつか。

Goodale and Milerによる、DF氏の症例報告というのがあるんだけど、両側のLOが損傷したDF氏はvisual form agnosia (視覚形態失認)なので、形とか線分の角度とかそういうのがまったく分からない。だから、perception task (スリットの角度同定)はできない。それにも関わらず、visuomotor task (スリットへのカードの投函)ができてしまう。これを元にして、Goodale and Milerは背側視覚経路がvision for action、腹側視覚経路がvision for perceptionである、という「二つの視覚システム説」を提唱したのだった。(このへんについてはこのブログの「腹側視覚路と背側視覚路」のスレッドで繰り返し取り上げてきた。)

しかし、もっとあとに出版された、Goodale and Milerの「もうひとつの視覚」を読むと、DF氏は課題に習熟するに従って、visuomotor task (スリットへのカードの投函)だけでなく、perception task (スリットの角度同定)を解くことが出来るようになったということが書いてある。

これはどういうことかというと、「visuomotor taskでどのように手を動かすか」を想像してしまえば、そのときの手のイメージをperceptual taskに使えるというわけだ。

このように、vision for perceptionとvision for actionは密接に関連していて、vision for actionはvision for perceptionのおぼろげなものを作ることが出来てしまう。

たぶん、同様にして、盲視に関してもproprioceptiveなフィードバックが「なにかあるかんじ」を引き起こしているんではないだろうか、と想像している。

あらゆるaccess consciousnessにはどういうかたちであれphenomenal consciousnessが付帯する。もし「何かある感じ」というのまでphenomenal consciousnessに含めてよいなら。


(Ingle 1973の準備。)

Annu Rev Neurosci. 2008とか見てた。オタマジャクシ(tadpole)では視交差で完全に交差するけど(右目の入力はすべて左へ)、大人のカエルになるとほ乳類と同様、半交差になる。魚類、鳥類は完全交差で、ほ乳類は半交差。カエルだけ中間で面白い。

正確な分かれ目はしらんけど。両眼視が必要かどうかとかいろいろ要因はありそうなもんだけど。(今はじめて知ったことばかり。)

Ingle 1973思い出した。完全に忘れてたけど、これはtectum lesionしたあとで、ipsiの結合が出来た後で、contraの入力とipsiの入力を比べるって話で、単なるlesionじゃなくって可塑性の入る話だった。つまり、Hurrey and Noeネタに足せる。


Milner/GoodaleのDFさんの仕事とかでdelayがあると残存能力が落ちる(obstacle avoidanceとか)とかそのたぐいの仕事があるけど、これとmemory-guided saccadeとは同じように見えてかなりやっていることが違いそうだ。

とか思ってたら、DFさんでmemory-guided saccadeってのが出版されているのに気付いた。EBR2010 わけわからないのは、左右の刺激での差がある(両側性障害なのに)。MGS出来ないってのを強調しているけど、 チャンスレベルではない。


2012年06月07日

タフグリップ

「タフグリップ」ってフレーズなかなかいいな。チャールズブロンソン的かつがっちりグリップ。タフでマッチョ。わずかにに開いたドアから入ってくるドブネズミなど気にもしないんだ。空は快晴、壁掛け式の黒電話。ヘリコプターの着陸する音。なにかの始まる兆し。タフグリップ。


「疾走感と喪失感。」大事なのは、音だけ聞いてもその意味が取れるかどうかなんだけど、そういう意味では悪くないか。でも手垢にまみれたフレーズか。ロキオン的な。やーめた。

「焦燥」も好きな言葉だがロキノンすぎて使えねえ。


もっと突拍子ないかんじで、ちょっとプレコックス感出てるかんじで、話聞いてる方が焦燥感煽られちゃうようなかんじで、「そこに置いてあるのは塩ですか?」「本末転倒ですね」「なんでこんなところにエスカレータがあるのですか?」「ハトに糞をかけられました」「奥歯がずきずきと痛みます」「白魚の踊り食いははじめてです」「布団が足りないんでこたつで寝てもらえる?」「急転直下の展開だったね」「鉛筆削るの上手ですね」「これから私がやることをよーく見ておいてください」「よく聴かないと倍音が聞き取れないな」「お湯が沸かしっぱなしだ、火をとめないと」「辞書に載ってないよ」

ターヘルアナトミアの翻訳の挿話で出てくる「フルヘッヘンド」とはオランダ語のverheffenだそうだが、「なんであそこに鉄球がぶら下がってるの?」「掃除が全部終わるまで帰れないよ」「オブラートって口の中で残るよねえ」「雨乞いについて世界大百科事典で調べてみよう」「急ブレーキかけると危ないよ、鼻が前のシートにぶつかる」「フルヘッヘンド」


「オッティ」が南風に乗って、川をさかのぼってやってくる。浅瀬なのに大挙してやってきて、乙川は大変なことになる。

「オッティ」はたいへん貪欲で、川底の石を全部ひっくり返して、それでも足ることを知らない。雨が降り続けていて、このままだと水かさが増して、また予想できないことが起こる。


オグデン、オグデン。”Ogdens' Nut Gone Flake”のオグデンって地名だったのだな。

Bの音をVに置き換えてしゃべってみる。イヴォイノシシ、とか。


以前、「プライベート・ジェット」って言葉がすごくいけてると書いたことがある。なんツーか、ゴージャスかつ70年代っぽいっていうか。

それで、今日思ったけど、「トップ・ブリーダー」ってのもかなりいいんではないかと思っている。犬がたくさんいるデカい家に住んでて、トロフィーに囲まれてて、しかもすっげー金歯たくさん入ってんの。


終電で寝過ごしたら高尾駅で駅員に「お客さん、耳からハミルトンシリンジが出てますよ」と言われて、はっと目覚めた。


2012年06月04日

二元論/オートポイエーシス/Enaction

ついったでのやりとり。2012/4/14


なにか大事故や不祥事が起こるとそれの反動で厳罰主義になる。これは役人や政治家だけでなくて、世論自体もそうだ。科研費運用から原発、津波から祇園の事件まで。科学者としてはもっと合理的に行こうぜと思うのだけれども、ここにも「お話」と「演算」とのウロボロス的構造があるのだろう。

世界は二元論なのだけれども、間違っていない二元論というものは、その二つの要素が独立せずに、互いに影響を与え、互いを要請するような構造になっている。

alltbl @pooneil 独立してなくて、からまったものなのに、なぜ一元論ではなくて二元論?

@alltbl けっきょく言葉の問題ではありますが、からまったものとして統一的に理解できる(メタな視点からの統合が可能)ならば一元論だけど、絡まっていることだけが分かっていて、それぞれを整合的に説明する枠組みが共約不可能なのが二元論、ということでどうでしょうか?

alltbl @pooneil 同意します。ただ起源を問うときにも、二元論のままですか?

池上さんは一元論でやっているであろうとは思います。

オートポイエーシスでいう「カップリング」の概念というのは「絡まっていることだけが分かっていて、それぞれを整合的に説明する枠組みが共約不可能」という状況を独特の表現をしたものではないかと思ったりする。つまり、オートポイエーシスは機械論を目指しているけれども、徹底できていない。

@alltbl ちょうど今カップリングの概念に触れたところでしたが、なるほど、カップリングの生成ってどうしたらいいのか分からなくなりました。それは卵でも鶏でもないものから卵と鶏への分化であって、片方から創発するってんではないのでは?というのが私のヒューリスティックです。

alltbl @pooneil はい。では、もとはひとつなのに、途中から変わるのは、「こちら側の記述」の問題でもある訳ですね?

カップリング自体は静的な概念、というか観察者側からのものの言い方でしかないのだろうし。

池上さんのコメントに込められたメッセージは、世界の二元論的構造というものは静的に捕らえたがゆえのことであって、生成論的に考えればその絡まりを解くことが手がかりを見つけられるかも、てことかなって思った。

@alltbl もし生成の際に変わるのが「こちら側の記述」だけだったら、オートポイエーシスの動作側からは何も変わらず、一元論は保持されることになります。でも動作側と観察者側の二元論が先に導入されているので、動作側がどうやって観察者の視点を獲得するかを考える必要があるかと。

ksk_S @pooneil @alltbl 横から失礼します。ヴァレラは動作はそれ自体が観察者で もあると考えてたようですが、「卵でも鶏でもないもの」は動作として記述されませんかね。カップリングは本質的だ思うんですが、観察側も動作として説明しないといけないと思います。

@ksk_S ありがとうございます。「動作はそれ自体が観察者でもある」ここがわからないです。池上さんの前のお仕事で外界の情報を分節化するモデルがありましたが、たとえばあれは観察者を動作として記述したことになるのか、もしくは表象を作ったことになるのか私にはまだ判然としてないです。

ksk_S @pooneil Embodiement、Enactionを突き詰めると、表象と一人称的体験は同じものを表と裏と考えるのだと思います。そうすると、温度計にも主観はあるのか問題になってしまうのですが。ただ言えるのは、特権的立場のホムンクルスを仮定しないという了解はあると思います。

alltbl @ksk_S @pooneil 卵でも鶏でもないもの。混沌とかchaos?

補足として、わたしの理解は河本英夫氏の書籍経由なので、いろんなところでヴァレラが考えていたことと違っているかも。ヴァレラはもっと機械論的だけど、河本氏はもうちょっと違う感じがあるので。

ksk_S @alltbl @pooneil おっしゃるように、ヴァレラは二元的に語られやすい自律性を一元論から説明しようとしましたが、河本さんの最近の本は、自律性の魔法を機械論的な世界に再度吹き込もうとしているように思えます。

ありがとうございます。やはり私の理解はもっと階層的創発的なものでした。「Embodiement、Enactionを突き詰めると、表象と一人称的体験は同じものを表と裏と考える」Embodied mindではそのような取り扱いでしたっけ? 見逃してるのかも。

@alltbl どういう文脈だったかというと、[動作のドメイン]と[観察者/表象のドメイン]とが分化するとしてそれの起源はそのどちらでもないものであるのが尤もらしくないか、つまり、動作から表象が創発するって考えかたに留保を置きたいって話です。強い根拠はないです。

ksk_S @alltbl カオスは外側かもしれませんね。オートポイエーシスやホメオスタシスはシステムの内部に外側をうまく取り込んでいる。内的な自然淘汰という形で。

alltbl @ksk_S 現実世界のカオス?と、コンピュータのカオス、との違いについて、考察すると? ビット表示を持ち込んでカオスを語るのは、外側を取り込むことではないか?

ksk_S @alltbl それは本質的に離散化が、創造の源であるという意味でしょうか?ロバートショーの話?

alltbl @ksk_S いや、僕らが観察するには、なにかゲージがいる。コンピュータに読めるようにするというのはそのひとつ。創造の起源かどうかは分からないけど、観察っていうのは創造的行為という意味ではそうですね。

ksk_S @alltbl なるほど。観察には比較対称となるものが必要と。意識の問題は、自己の問題だと思ってるんですが、それも同じことかもしれませんね。意識体験には対象と、ものさしである自己=ホメオスタシスの両方が必要。その間のずれとしてしか観察は存在しない。

追記:見直してみたら、「Embodiement、Enactionを突き詰めると、表象と一人称的体験は同じものを表と裏と考える」ってのと「[動作のドメイン]と[観察者/表象のドメイン]とが分化するとしてそれの起源はそのどちらでもないものであるのが尤もらしくないか、つまり、動作から表象が創発するって考えかたに留保を置きたいって話です。」てのとはほとんど同じことを言っていることに気付いた。


2012年06月02日

トミーと四重人格をちゃんと読んでみる

今度のASSC16はBrighton。気分出すためにquadrophenia (さらば青春の光)とかDVDで見てたときのツイート:


What are the blue pills in Quadrophenia? Benzodiazepineだとか答えているが、これはあり得ない。夜を徹してバカ騒ぎしているんだからこれはamphetamineでしょう。


昨日の夜は年越し前にquadropheniaの映画の方をDVDレンタルにて。大昔見たままだったのでこんどBrightonに行くし、気分出していこうということで。始まりと終わりの部分についての解釈とかどうだっけとか思ってwebの感想を当たっていたが、どうにも画一的だ。俺が考えるに…とかなんか書こうと思ったけど、そもそも元のレコードのインナースリーブに書いてある文章(”I had to go to this psychiatrist every week”から始まるやつ)をちゃんと読んだことがないなと気づいた。ということで読む。


追記:読んでみたら、昔読んでたことを思い出した。つまり、いろんなむしゃくしゃすることあって、ブライトンの海岸に来て、舟でRock(岩、っていうか岩礁?)に辿りついて、大雨が降っていて、気づいたら舟が流されている(<-イマココ)、っていう文章で、だから所々に挟み込まれる風雨のSEはまさに今の状況を表していて、そこからそれまであった過去を回想している(cut my hair, dirty job, 5:15, bell boy)。そして最後にLove reign on meという啓示を受ける、という流れなのだ。


Tommyの歌詞解説とか読んでる。この物語が時代的にWWIのあとあたりであることからすると、Acid QueenのacidがLSDではないってのはなるほどと思った。

オリジナル版TommyでのWe're Not Gonna Takeで、信者の反乱があった後に"see me, feel me"が始まるのだけれども、なんか強引にフィナーレにいちばんいいフレーズ持ってきて終わらせて曖昧だなとか思ってた。でもそれではぜんぜん読めてなかった。

ニコ動のやる夫シリーズで、ここの部分が「再び自分の世界に閉じこもり、自分のなかで自分(=you)に問いかける」悲しい結末なんだという解釈を知って、激しく衝撃を受けた。この曲を20年以上聴いていて、まったく読めてないことが分かった。なるほどたしかにオリジナル版トミーではここはとても悲痛なかんじで演奏される。songmeaningsでも同様な解釈は見られる。

amazing journey - sparksでの内面の旅("each sensation make some note")、そしてgo to the mirrorでより具体的にlistening to you ...と語られるある種の叡智をtommyは得た。tommyが伝えたかったのはどうやってawakenしたかではなくて、内面世界で得た、感覚を超えた叡智だったのだと思う。だがそれは失敗し、tommyはそのすべてを抱えて、再び内面世界に戻っていった。このように理解した方が感動的だと思った。

それでもまだ納得いかないところがあって、わたしはsee me, feel meは最初はwoodstockバージョンで聴いたのだけれども、この版ではどんどんクレッシェンドしていくまさにフィナーレの盛り上がりの部分であって、「トミーの興亡」って感じはまったくしないのだ。というかこの印象にずっと引きずられてきて、このフィナーレがたんなる「トミーの内面への語りかけ」ではなくて、反逆する弟子たちの意志も含めたようなもっと複数の声だと思ってた。曖昧だけど。

映画版ではどうだったろうか? もう昔すぎて覚えてないが、映画自体はあんま出来のいいものではなかったはずだ。だって"christmas"の場面(10歳のトミー)をロジャー・ダルトリー本人が演技しちゃうみたいなけっこうおぞましいものだった覚えが。

まあでも新しい方の解釈でよいようだ。あんま深掘りするのもなんだが、Pete Townshendのインタビューではこんな言葉が並んでる:

The need in "Tommy" was to create a sense of loneliness and depravation leading to spiritual absolution. And so what actually happened was that somehow the ending of "Tommy", which was really about being destitute, being spiritually empty, being useless, it didn't reach the audience.

その次の文では四重人格でジミーが岩に一人取り残され、"Love Reign O'er Me"を歌うというのが、トミーが拒絶の元で"Listening To You I Get The Music"となるのとまったく同じ状況であるとまで種明かしされてる。

I use exactly the same device at the end of "Quadrophenia". Here is this boy who's spiritually destitute. He sings "Love Reign O'er Me" which if you like is the epiphanistic prayer to equal "Listening To You I Get The Music" at the end of "Tommy" in under exactly the same circumstances.

そうすると、トミーのラストは必ずしも悲しい終わりではなくて、フィナーレの"Listening To You I Get The Music"は啓示なんだと受け取ることもできる。つまり、救世主としてではなくて、拒絶と孤独によってふたたび"Listening To You"の意味を知る。

すると、元通りの三重苦に戻ってしまうという理解よりかは、自分の世界の閉じこもっていたときの経験を取り戻した、という理解の方がよくないだろうか? 前述のsongmeaningsでも、このように書いている人がいて、けっこう賛同できた:

The meaning of "See me, feel me/Listening to you" is a symbolic isolation rather than a literal deafness and blindness. This isolation is actually worse than the first one- "We forsake you Gonna rape you Let's forget you, better still".

もひとつ参考資料: PETE AND TOMMY, AMONG OTHERS by Rick Sanders & David Dalton -- Rolling Stone (no. 37 July 12, 1969)


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