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■ 「オクラホマ・ミキサーってプロレスの技っぽい名前だよね(<-イケメン声で)」(さうして、このごろ2017年7-9月版)
サリエンスの定義として「そこに行けば どんな夢も かなうというよというcounterfactual expectationを持たせる場所」というのを考えた。(<-それパクリ)
「ブタにゃん」ってのを考案した。ブタなの。ネコじゃない。(<-論理的)
皆既日食の映像を幾つか見たけど、みんなわかってねえっつうか、そんな拡大した映像でフレアとか見てもしょうがないだろ。端的に、昼間だったのが暗闇になってしまうっていうこの世ならぬ異様さを露出の自動補正なしに記録するってのが見たいんですけど。(<-なにもしてないくせにエラソー)
明け方まで散々飲んで語って、始発電車に乗って帰り道、もう喋ることもなくて、なんか手持ち無沙汰で、なんてことがあったような気もするし、無かった気もする。あっても無くてももはやどちらでもよいのだし、そのとき雨さえ降っていなければ、万事問題なしなのだ。
先日5年ぶりくらいでカラオケに行ったのだけど、選曲に遠慮があって不完全燃焼だった。次回のために候補曲をリストしておく:“Lay Your Hands On Me”,“人間発電所”,“The Nights”,“New York City Boy”,“Built To Last”,“Snowdome”,“スターライトパレード”,“なないろびより”,“コネクト”,“アルクアラウンド”,“Birthday song, Requiem” だいたいJoysoundにしか入ってないということも判明した(<-検索してるし)。
(Kフォーラムでの講演の終了後)そのあとカラオケへ。今回は「ダンシング・クイーン」「招待状のないショー」「New York City Boys」「ロビンソン」で。「コネクト」「The nights」「アルクアラウンド」はなかったので断念。「さよなら」と「12月の雨の日」は時間切れで歌えず。楽しかった。
「ぼくのフレンド」と「ようこそジャパリパークへ」も歌えるようにしておかないと。
「40歳になるころには 単著の一つも出して ひとりで地下室のある家を買い 週末はギターを弾いたり、 メロン、 メロンはどうでもいいや。」http://twilog.org/pooneil/date-080909
ストーン・ローゼズの再結成にも来日にもさっぱり興味はなかったが、このグラスゴーのスタジアムでのライブで、観客がリフから歌まで全部大合唱しはじめちゃうこの現場には居合わせてみたいと思った。I Wanna Be Adored https://www.youtube.com/watch?v=YthoNkDAWkw
ネットを彷徨っていたらウィキペで「ダダイズム」の項目で「萩原恭次郎」なんて懐かしい名前を見つけた。こんなものまでネットにはあるのか。 https://ja.wikisource.org/wiki/ラスコーリニコフ
中学生の頃に中原中也経由でダダイズム・シュルレアリスムに目覚めて(<-まさに厨二病)、それからアンドレ・ブルトンの「溶ける魚」(当時は全集にしか入ってなかった)とか探して読んだものだった。
それはサイケデリック音楽を知るのと同じくらいの時期で、私はアルチュール・ランボーの「詩人は長期間の、破壊的で計算された錯乱によって見者になる」を本気で受け止めて、そういう表現を追い求めていたのだった。そういった「反自然主義的」なものへの志向(嗜好?)は現在に至るまで変わらず続いているようだ。
その頃マン・レイの展覧会に行った記憶がある。http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000135536 横浜美術館美術情報センター https://yma.opac.jp/opac/top (追記:2019年現在サービス利用不可能)の情報を参考にして調べてみたところ、1986年、高1の夏の小田急グランドギャラリーと判明。水泳部の練習の合間に行ったらしい。元気だ。
今週のYAで三月のライオン読んだら、幸田香子のモノローグ回だった。形式としては幸田母のモノローグ回(Chapter 97)を踏襲している。あの回は幸田母の贖罪意識が表現された神回でラストのページ読むと毎回泣けるんだけど、それはそれとして、今回の幸田香子のモノローグ回はどうだろう?
香子が贖罪意識を持ってました、で終わりでは済まないと思うんだな。そうするとあれは壮大な前フリなんじゃないかと思う。香子がそのように「わかって」いたとしても、いざ桐山零と対峙したときに再びコンフリクトが起きるのを避けられない、そういう業がないと香子らしくないだろう。
そこを零と香子が乗り越える過程で、ひなたもいまのオコチャマ状態から自分の手で掴み取る行動を起こすところまで行かなければきっとこの話は閉じないだろう。作者がそこまでごまかしなしに書いてくれるのを期待してる。
今日は岡崎の花火大会なんだけど、次男はママと泊りがけでソフトボールの大会、長女は友達と遊びに、というわけで独りの夜を迎えている。この20年くらいで初めてだろうか。家で肉でも焼くかと買い物に行ってみたら大渋滞。しかたなくチャーハン山盛り作って全部食ってうたた寝して目覚めたところ。
夜中に車を運転していて、道路標識とかが人の顔にパレイドったりすることはまああることだけど、一昨日遭遇した事案では、大きな黒い牛が見えたと思ったら、暗い道に駐車してあるワンボックスカーだった。流石にそれはねーよ!と思った。
休暇二日目。奈良美智展@豊田市美術館。 http://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/2017/special/narayoshitomo.html 実物を見るのはこれがはじめてだったけど、とても良かった。ついでに、入り口のレコードジャケットのニール・ヤングのセレクションがソロのファーストとオン・ザ・ビーチだったのが気が利いてると思った。
長女の文化祭の手伝いとやらで、あちらこちらに買い物連れて行ったり、写真の印刷手伝ったりとか、なぜか俺まで忙しい。(<-うれしそう)
伊賀に行ってすき焼き食べたい。10年ぶりの「金谷」で、あれ?こんなもんだったっけ?とかがっかりするもよし、やっぱりうまかったと感激するもよし、どちらでも後悔はしないだろう。いざ生きめやも。
太陽からの熱線も、紫外線も、大粒の雨も、雹も、煉瓦も、蛙も、すべてのものが、すべて同じ強度で降り注げばいい。手を上げて受け止めることすらできず、全てが平等に破滅させられ、全てが平等に生き残る機会を与えられ、海の深いところまで、浸透され、貫通され、透徹され、埋葬される。
リハビって理蔓延る。
俺は根本敬作品で言うところの村田藤吉で、吉田佐吉みたいなのに見つかっては喰いものにされる人生を繰り返してきた。自分なりに工夫はしているけれども、事態は好転せず、いつぶん殴られるかと怯えながら日々を暮らしている。ホントだよ。
こんなに「敗北主義者」をやっていても、予想外の悪意にぶつかれば、胸は痛むし、眼は廻る。だから、自虐と自己弁護で、固く固く自分の身を守りながら、終わりのない退却戦をつづけるのだ。
ハシビロコウの嘴焼きが食べたい。身は要らない。
カリフォルニア・ロールはもう飽きた。シカゴ・ロールが食べたい。シカゴ・ロールには◯◯◯ウナギが入ってる。まで書いてから念のためググってみたら、シカゴ・ロールって本当にあんのかよ。https://www.tripadvisor.co.uk/LocationPhotoDirectLink-g39588-d405790-i89077491-Malone_s-Lexington_Kentucky.html https://www.yelp.com/biz_photos/annas-asian-grill-and-sushi-bar-chicago?select=DWKf-tIweKcoR6_zqYggDA
念のため「嘴焼き」もググってみたら、「あひるのクチバシ揚げ」ってのがあることを知った。http://blog.livedoor.jp/ma888tsu/archives/51711852.html 世界は、俺の想像力よりも、ずっと広い。
「オクラホマ・ミキサーってプロレスの技っぽい名前だよね(<-イケメン声で)」ってツイートをしようとしたが、念のためググってみたら「オクラホマ・スタンピート」と混同していることがわかった。スッキリした(<-スッキリすんな!)。
「動物の賢さがわかるほど人間は賢いのか」ってタイトルには、なんで俺人間代表として責められなきゃならないの?って涙目になる。「意識はいつ生まれるのか」ってのもいつになったら生まれるんだと責められて動揺した。「森田はいつになったら一流になるんだ?」とか言われながら杖で殴られる感じ。
「会計680円で1180円出すのが気持ち悪い?」ってのをみて、なるほどそういう人もいるのかという「気づき」を得ることができた。なんなら、私は会計688円で1243円出したりするけど。
2019年09月09日
■ 「圏論の道案内」のはじめの方を読みながら考えたこと(つづき)
「「圏論の道案内」のはじめの方を読みながら考えたこと」のつづき。
圏論の初学者としてひとつ面食らったのが、恒等射のときに同じ対象が2回出てくること。私はベイズの因果グラフの表現に慣れているから、同じものが2ヶ所に出てくるのは違和感なのだけど、圏論では対象はあくまでも射の性質を規定するものだから、同じ対象が別のところに出てきてもよい。これは初学者にとっては自明でない前提だ。
つまり、ベイズの因果グラフというのは、あくまでも対象のほうが先にあって、それらのあいだの因果関係として有向グラフの矢印が付加されるものなので、こちらでは同じ対象が別の場所に2度出てきてはおかしい。当たり前だと思うかもしれないけど、こうやって言語化してみて、初めて納得がいく。
こうやって書いてみると、圏論で同じ対象が複数出てきてもよいのは、あくまでも射が主役であって、それの性質を規定するものとして域と余域があるからで、恒等射では A=dom(f) かつ A=cod(f) という表現も、そこまで考えると(私にとってはやっと)納得いく。
なるほど!これは素晴らしい。因果グラフが実体論を引きずっているのに対して、圏論はあくまで射・矢印がすべてなので、object は二の次。矢印の方からdomain とcodomainが引き出されてくる。表面的にはわかっていたが、吉田式の噛み砕き方で理解が深まった。 https://t.co/LtdCZJy1ty— @ShigeruTaguchi September 8, 2019
そうです、さらにいえば、その下のf1とf2が同じかどうかは可換であるかどうかで決まるので、射の方すら、空間的に同じところを占めているかでは同一性を決めてない。この意味でも実体論から離れてる。たぶん。
うん、なるほど、射の実体論さえ抑止するという点で、圏論は本当に徹底してますね。西郷・田口本でも、数学は「固定」したら終わりで、むしろ徹底して「自由」でなければならない、という話をしています。「この特定の三角形」から離れられなければ、幾何学もありえない。こうした方向性の権化が圏論— @ShigeruTaguchi September 8, 2019
2019年09月08日
■ 「圏論の道案内」のはじめの方を読みながら考えたこと
西郷さんの「圏論の道案内」 を読みはじめた。とても面白いが、ハマりすぎないように、家からの行き帰りの時間だけに限って読んでる。
p.28で圏論の初学者が「任意の対象A,Bについて、AからBへの射はないか、あっても一つだけだ」と誤解しがちであることについて書いている。
私は圏論の初学者として、誤解する気持ちはわかる。圏の定義2.1(p.20)に戻ると「どんな射についても域と余域がただ一つ存在する」(要約)とあるが、読者(私)はここをさらっと読んでしまうので「この文章がいったいどういう可能性を排除しているのか」に心が及んでいないのだ。
文章がなにか意味のあることを言うときには、なんらか他の可能性を排除している。たとえば「岡崎は暑い」という文章は「岡崎は暑くない」というあり得たかもしれない他の可能性を排除している。
だから圏の定義2.1の話では、即座にどういう可能性を排除しているのかを例示してやることで、読者は圏の定義2.1を自分の中でパラフレーズして、意味のあるものとすることができるようになる。つか私はそういう操作ができないと「理解」できた気がしない。
さてそれでは圏の定義2.1はどういう可能性を排除しているか、私が好きな「プログラム学習」方式で例示してみたい。「プログラム学習」の例としては「Scheme手習い」がある。Google Booksに本文のいちばんはじめの部分(p.3)があるので、そこを見てもらうと、だいたい言いたいことが分かると思う。
では「Scheme手習い」の方式を踏襲して、定義2.1をコッテリ確認してゆく例を作ってみよう。私としては、こんなふうに手元にノートを取ることができれば、自分で理解できたなという実感が持てる。
というわけで、これは圏論本についての批評ではなくて、私はどのようにパラフレーズできたら理解できたことになると思っているか、についての話だった。
FEPの説明についてもそういうことを考えた。私のFEP解説での蝶と蛾の例にしても、state * observation * actionを最小限の組み合わせで操作してはじめて(私自身が)わかった気になった。
だから、強化学習の教科書でいきなりベルマン方程式が出てくるのが納得いかない。でも人によっては写経のように頭から読み下してしまえばそれで理解できるらしい。じつのところ私はそういう理解を疑っているのだけど、そうではなくて、そのように理解できる人こそがその分野に進むという生存バイアスの結果なのかもしれない。ともあれ私の理解の仕方が特殊である可能性を排除できないので、ここでは例示して理解する方法の有効性だけを主張するのに留めておきたい。
強化学習について勉強していたときに同様なことを考えてtwitterに書いたことがある(Twilog20190813)。そのとき書いたことについてもここでまとめておく。
TDアルゴリズムからQ-learningまでについての動画をいろいろ見てた。この動画がいちばんわかりやすかった。まず行動選択無し、報酬の不確定性なしで説明してから、徐々に要素を追加してゆく。スゲー親切。パート1から3まであるけど合計42分で終わる。視聴数少ないのが不思議。
Grid world問題がどれもこれも複雑な3 * 4マスの例を使って説明しようとするのが、私にはぜんぜん訳わからない。1 * 3マスでよくね?
あと、とりあえずベルマン方程式書いて始める動画がほとんどで、ぜんぜん訳がわからない。まずクソかんたんな状況(1 * 3とか)を説明して、それから帰納的に式導入すればいいのに。これって情報科学勉強している学生にとっては、まず式から入るほうがわかりやすいとかあるのか?
1x3だと簡単すぎて当たり前になっちゃわないかなぁって。真ん中の状態だけpolicyが効くし。でもline state の例はsuttonの教科書にもあったような。— @KazuSamejima August 12, 2019
@KazuSamejima 「簡単すぎて当たり前」な問題を解くところを見せて、そこから読者に帰納的にベルマン方程式を「発見させる」ように進めたらどうかということなのです。グリッドワールドの説明は、ベルマン方程式を与えておいて、意味のある最小限のリアルな問題を解けることを見せることに注力しているようだけど。
そうですね。ベルマン方程式は方策を決めたときの価値関数が満たすべき式として導出してしまって、ダイナミックプログラミングのアルゴリズムがどう動くかのデモとして格子空間を使う、説明がほとんど。帰納的に発見させることができるのなら、そちらのほうが自然ですね。うまいデモはわからないけど。— @KazuSamejima August 13, 2019
以前も書いたけど、プログラミング言語でのfor文だって、まず
ii=1; disp(ii); ii=2; disp(ii); ... ii=100; disp(ii);
(matlabでの例)みたいなことをやらせて、いい加減馬鹿らしくなったところでfor文を導入してほしかった。どうやらそういうことをしなくても分かる人は分かるようだが。
以前書いたけど、私が新しいことを学ぶときに最適だと思うのは「プログラム学習 有機合成化学」のような短い設問形式でステップを細かく刻みながら学ぶやつ。「Scheme手習い」も同系統だけど「風変わり」とか「クセがある」とか書かれている。
この話に私がこだわっているのは、べつにいまある解説とかに文句をつけたいとかではない。数物系特有のアタマの使い方というのがあって、どうやら私はそれから弾かれているようなのだけど、向いていようが向いてまいが自分で知りたいので、なんか流れに逆らうように感じるということだ。
同じ話は哲学の人の話を聞くときにも感じていて、学会とかで原稿をそのまま読み出すというのに遭遇して異分野の人間として面食らうのだけれど、どうやらあの分野の人達は、ゼミの文献購読でひたすらそういうことをし続けてきているので、苦に思わないようだ。
私にとって哲学のような概念を使う話は、複数のargumentがマインドマップのように矢印でつながっているものだと思っていた。だからそれを人間が読める形にするために(人間は一次元的に文字を追って読むことしかできない)文章という形式に変換して、聞く側はそれをデコードしてマインドマップに戻しているのかと思っていたのだがそうではないらしい。
これもいろんなタイプがいます。文字を文字のままで理解するほうが向いている人もいれば、言語で言われたことをイメージ化して理解している人もいます。私は後者。抽象的な概念も、図に描けない変な形をして見えたり、個性的な「味」があったりします。— @ShigeruTaguchi August 13, 2019
しかしいずれにせよ、哲学業界の人は、それぞれの思考の特性をもとにしながら、しゃべりだけで抽象概念やargument をいじくる訓練を受けてきているのは確かですね。— @ShigeruTaguchi August 13, 2019
ちなみに、頭の中の変なイメージは、2次元, 3次元の図形にうまく落とし込めないので、言語的表現の方が相性がよかったりします。言語はわりとアクロバティックなことも可能で、「入ってくる前に出て行く」(レヴィナス)とか、色々変なことが言えます。— @ShigeruTaguchi August 13, 2019
同様に、数物系の人たちは、式が与えられると、たとえばベルマン方程式に具体的な数字を入れて実際に動いている様子まで戻してやらなくても、抽象的な式のままで操作ができるということなのだろうか。ここまで書いて気づいたけど、どうやら自分は抽象的なものをそのまま操作することが不得意なようだ。
(この話の続きの部分を別エントリとして作成しました。こちら:「「圏論の道案内」のはじめの方を読みながら考えたこと(つづき)」)
2019年09月05日
■ ロサ会館の大黒屋。(さうして、このごろ2017年4-6月版)
「石鹸みたいなカップケーキ」「フィラデルフィアからフィラデルフィアへ」
「猫に小判」をバレないように「コヴァン」と発音する技法を開発した。
今日は花見。ウクレレ引きながらコード進行を考えていたら、こんなのが気に入ったので、乙川の土手を演奏しながら歩いた(<-不審者)。|X543|X542|*2 |X220|X120|*2
このあいだの花見で思いついたコード進行でギターを弾いてSoundCloudにアップしておいた。|Cm |Cm7b5 on Ab |A |AM7 on E |
進化論で出てくる系統樹って、いま生存しているものから遡るんではなくて、絶滅したものまで入れて作れば、たえず枝分かれしては絶滅してゆく繰り返しのなかで、ほんの僅かな偶然を辿っていまここに生存しているというのが見えるはず。これ見つけた:https://j.p.gogarten.uconn.edu/
さっきのツイートの図を見ると「生存バイアス」を可視化できたようなかんじがしてなんだか面白い。 https://j.p.gogarten.uconn.edu/ToL.gif
その昔池袋ロサ会館でジンギスカンの安い肉食べ放題のチェーン店があって、正直美味しくなかったけど、とにかくたくさん肉食って、たくさんビール飲んで、たくさん吐いて、それで幸せだった。あの店の名前が思い出せない。歌舞伎町コマ劇場近くにもあった記憶があるのだけど。
(追記:同じ疑問を持っている人を見つけた。答えは「大黒屋」だった。そう言われるとそうだった! https://twitter.com/tsuyu2011/status/781250650113998848 )
長女が一眼レフカメラ買いたいっていうんで情報集めているところ。カメラに興味持ったことがなかったけどいろいろ調べてみたら面白くなってきた。とくに標準レンズキットでどれ選ぶかとかはあらかじめ決めておかないと割高になるので悩ましい。
今日はカメラを買いたいという長女に付き合っていたら午後から夜までまるまる費やすことになってたいへんだった(<-満更でもない様子)。でも買うところまでたどり着けたので良かった。
Miku-gazer 2011 (Vocaloid2) https://soundcloud.com/pooneil68/miku-gazer-2011 6年くらい前に初音ミクでシューゲっぽく作ったもの。
「最後のバスはもう出ていってしまった。私は真夜中の道を記憶だけを頼りにして進まなければいけなくなった。バスならすぐ到着する場所へ、私は夜通し歩きつづける羽目になった。私は自分の愚かさを恥じて、誰にも相談せずに、登り坂の向こうにかすかに見える街の明かりへと引き寄せられていった。」
「The 13th Floor Elevators 47年ぶりの再結成ライヴ」http://amass.jp/56251/ もう2年前のニュースだけど、今知った。トミー・ホールが壺をトゥクトゥク鳴らしてるのが聴こえる!こんなことってあるんだ!
わたしのエレベーターズ愛はこちらを参照「俺がもし人生をもう一度やり直せるなら、the 13th floor elevatorsで壺にマイク突っ込んでトゥクトゥクいう役、あれをやりたい。」http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/permalink/001392.php http://pooneil.sakura.ne.jp/archives/permalink/001400.php
"Eleanor Rigby"の歌詞ではエレノア・リグビーという老婦人とマッケンジー神父の生活が1番と2番で別々に描写されて、3番で初めてふたりとも描写される。それで死んだエレノアの葬式には「誰も来ず」埋葬をしたマッケンジー神父が手の泥を拭うわけだけど「誰も救われなかった」。
なんか舌っ足らずだと思ってた。じつは叙述トリックで二人は邂逅してなくて、もし 二人が出会ったいたならば「誰も来なかった」「誰も救えなかった」は回避されたかもしれなかったけど、それすら起こらなかった、っていうドラマチックさが排除されてよりいっそう侘しいものになったってのでどうよ?
もしかしてそういうふうに読めないか3番の歌詞を再読したが、"wiping the dirt … as he walks from the grave"でtheがついてるからやっぱエレノアの埋葬としか解釈できないか。
実家が立て直しをするので家に置きっぱなしにしてきたものを片付けてきた。JAのフィルモアライブのポスターのレプリカ https://www.wolfgangs.com/jefferson-airplane/posters/poster/BG042.html がずっと壁に貼りっぱなしだったのだけどそれも剥がした。そのとき自分のかさぶたを剥がしたような痛みを感じた。(<-ウソ)
酔っ払った頭で阪大の西入口を出て、阪大病院前のモノレールにいくよりは歩いたほうがいいはずと池の周りを歩いたら、山田駅のつもりが北千里駅で(どうして勘違いした?)、もう時間が間に合わないのでタクシーで千里中央まで(幸い1000円以下だった)いって、新大阪に出たら東京行き最終だった。
「地獄に仏の喩えもあるさ さよならだけが人生だ」
岡崎行きの空港バスに乗り込んでみるとなんだか憶えのある臭いがして、いったいこれはなんでながあったらうかと思案していたが、ブックオフの臭いだ、と合点がいって満足した。
おととい久々に夢の内容を覚えている夢を見たのだけど、その中で私はUS西海岸のサイケデリック・ロックとUKのサイケデリック・ロックのどっちが好きかを誰かにコンコンと説明をしていた。色も音もなかった。つまりそれはいつも通りほとんど「思考」で、知覚経験らしきところはなかった。
VSSのときからちびちび読んでた「人間の大地」 (光文社古典新訳文庫版)を読了。新潮文庫の堀口大学訳と比べると格段にわかりやすくてよかった。新潮文庫で読んだときはそもそも初めの章で乗っているのが市電だってことすらわからなかったから(バスか何かだと思ってた)。
それでもまだ本当のところ、この話での飛行機ってのがどういう規模のものかという情報が足りなくてイメージが定まらない。宮﨑駿のイラストで書かれるようなものでイメージしてたけど、どうもそれは正しくなさそう。
カーディガンズの"Life"を買ったときのことはよく憶えている。宮下研から派遣されて岡崎に住むようになる直前に日本薬理学会年会が1995年3月に名古屋で開催されて、帰りに近鉄パッソにあったタワーレコードに寄ったらこれがヘビロテされていて、即購入したのだった。当時の新生活への高揚感と混ざっている。
いちおう裏とりをしてみたら(<-律儀)、 http://www.pharmacol.or.jp/society_infomation/chairman/kaicho.html を見てみたら第68回は1995年3月に名大の日高先生が会長で、Lifeの日本での発売日は1995年3月25日だった。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ライフ_(カーディガンズのアルバム)
中高生の頃の私の口癖は「要するに」で、吉田お前要するにって言うけどぜんぜん短くなってないじゃんとよくツッコミ入れられたものだった。今にして思えばこれは私の本質を突いている。結局のところ私は今でも「要するに」って言いたいだけなのだろう。そんな詰まらない奴だとは認めたくないけど。
ブログに書いていることもそういうことで、論文とか本とか読んで、「要するに」こういうことだろ?って書いてみるのだけど、凡庸なまとめだったり、的外れだったり、はたまた独特な理解だったりということを蓄積しているのだろうなと思う。
気持ちいい季節の、我が家に誰もいない時間が3時間ほどあったが、昼寝で使い果たしてしまった。でも幸せ。
近所のローソン100円ショップは昭和50年台に建った住宅地に入居したご老人をメインターゲットとした立地だが、現代アイドル歌謡がヘビロテされていた。別のバイトの人のときはアニソンで、また別の人のときはビジュアル系なので、どうやらある程度自由が効くらしい。労働者のQOL的にいい話だ。
ブクオフとか行くと同じ放送がずっと流れているので何度もイノセントワールド聞かされたりする。客は一瞬だからどうでもいいだろうけど、従業員にとっては辛かろう。
やっとこさ「河合荘」最新刊読んだけど、最高だな!「世界が美しく見える」の描写のところとか、超共感した。そうだった、俺もそれを知っていた。さあ頑張ろう。
「【昭和時代】昔、お風呂入る前に棒でかき混ぜてなかった?」https://togetter.com/li/1124785 うちは築40年でボイラー式だからいまだにお湯かき混ぜてる。子供と一緒に風呂入って追い焚きしながら火傷しないようにブロックして足でかき混ぜつつタオルくらげ作って遊んだものだが。
東京の昔ながらの鰻屋に行きたい。独りで行って、本も携帯も持っていくのを忘れて、することもなくぼんやりして、1時間くらい待たされて、でも全然美味しくなくて、しかも7000円くらい取られて、でもぜんぜん惨めではなくて、暑い夏に空気が揺れて、お迎えがきて、そのまま消え去りたい。
2019年09月04日
■ 暗い部屋で、「優しい世界」に浸りながら、千年眠りつづけたい。(さうして、このごろ2017年1-3月版)
寝息の音がするから誰かなと思ったら、自分の呼吸が窓に反射して聞こえるのだということに気がついて、試しに息を止めてみたらたしかに音が消えた。(<-いったい何が言いたいの?)
今日の節分はひさびさにパパが鬼になってみたが、鬼のお面がないので、恐竜が飛び出すホログラム加工してあるウチワをお面代わりにして鬼になった。皆さん容赦なく鬼に落花生をぶつけてくれて、今年もつつがなく節分が終了した。
ハシビロコウが動かないのは怠け者だからなのではなく、奴が動かない間にも頭の中はフル回転、最大のepistemic valueを得るために奴にとってのベストを尽くしてるんだな。つまりexloration-exploitionのバランスが我々と違うだけのことなんだ。(<-FEP小咄)
田嶋さんのセミナーが来週金曜日にあるとのこと。この機会にPLoS Comp BiolとNature Comm論文を予習して理解できるようにしておく予定。 https://twitter.com/satohirotajima/status/828776630915067909
はぁ…他人の金で寿司食べたい…あと自分の金で浅草今半で両親にご馳走して感謝されたい…無理だけど…(<-いますぐやれ!)
FBとかでオモシロ動画みたいなのが流れてくると、それを楽しむ前に、データのソース情報なしにクリック数だけ増やそうとしているサイトに加担するのが嫌で、元ネタ探しの旅を始めてしまう。そしてたいがい元ネタは見つからない。
はやくgoogleがパクリサイト追放の一環としてオリジナルの素材(画像、動画、文章すべてについて)の同定をして検索結果に反映するようにしてほしい。
いろいろ思い通りにいかなくてしんどいことばかりではあるけれど、このあいだのFrontier論文を読んだ人が賞賛のコメントのメールを送ってくれたので、なんだか元気が出てきた。
もっともっと、ニュートラルに、無邪気に、なんなら非人間的に、日々のよしなしごとが通り過ぎてゆくさまを書きたい。
(ニュートンプレスに民事再生手続のニュースを受けて)「ニュートン」誌ってほとんど読んだことがないので、正直スマンかったとしか言いようがない。小学校の時は元素の周期表が大好きな化学(not科学)少年だったが、そのあとは詩とか小説とか音楽とかそういうのばっかで、高校3年で有機化学に開眼した。化学と文学!
そういうわけで、ホジキン・ハックスレー方程式を理解して感動したとか、デヴィッド・マーの「ビジョン」を読んで世界が変わったとかそういう正統派的な経験はない。ベイトソンと岸田秀とヴァレラから入っちゃったから。もしあそこで清水博経由でまじめに生物物理を学んでいればと思わなくもない。
長男は無事合格して、この春から東京へ向かう。子どもが家を出るとは、俺の人生も終盤に差し掛かったなという実感がある。俺自身がまだ何者にもなっていないというのに。
ふと見渡すと、岡崎は山に囲まれていることを実感する。
「新入生たちに送るξ(グザイ)の書き方」https://togetter.com/li/1092915 グザイ嫌い。フリストンのFEP論文読んでてもグザイが出てくると全部xiに置き換えてノート取るくらい。全てのグザイを生まれる前に消し去りたい。全ての宇宙、過去と未来の全てのグザイを、この手で。
恵文社一条寺店好き。ちくさ正文館も好き。働かず、気を使う相手もいず、何故か生きるだけのお金はあって、食欲もなくガリガリな草食キャラで、レコード屋と書店とを往復しながらそれにも飽き飽きしているような高等遊民として人生を過ごしたい。来世はその方向で。(<-ついに諦めた!)
「勝ったな!ガハハ!!」っていいな。
洗濯してベランダに干して、ラボに向かってたら、いきなり雨が降ってきた。オイオイオイー、雨降って地固まる!
もりの、くまさん!
すっごーい!(<-心が浄化された)
「リサフランク420 / 現代のコンピュー」ってのを見つけて気に入ったが、youtubeにあるのもsoundcloudにあるのもどれが公式かわからないからリンクできない。
暗い部屋で、「優しい世界」に浸りながら、千年眠りつづけたい。
たしかに、砂漠のシーンで「なにもないね」ではなくて「砂がいっぱいだね」って反応したところはハッとした。
飛行機は無事新千歳に到着した。これから札幌に向かうところ。
シースー(<-うざい)も済ませて、ホテルにチェックイン。スライドを手直ししたくなってきたが、あんまり難しい話にもしたくないのでバランスを考える。質問の答用資料に回すか。
雪がやんで真っ白な街を見ながらの帰り道に「Last regret」とか聴きながらメランコリックな気分に耽溺した。空港には雪ミクミュージアムがあったがグッズはあまりなかったので、手ぶらで帰ってきた。(雪まつりになってからが本番だろう。)
2019年09月03日
■ 王と王子と神と天使のどれになりたい?(さうして、このごろ2016年11-12月版)
コンビニで「ハッピーターン250%」を手に取ったときに急に思ったけど、なんでホコリを被っている商品が皆無なんだろう。昔は埃かぶったカビ臭い店でおばあちゃんがもの売ってたはずだ。強烈な効率化でこれが成り立ってるんだな。でもそういえばこないだの昭和な温泉宿の食品店は埃かぶってた。
今日は子どもたちとスバカマナで60分食べ放題コース。久しぶりに和んで会話した。長男の「小5でアジカン、中2でシューゲ」という名言も出た。
夜中にトイレに起きて、家族がみんな寝静まっていて、体温と寝息で人の気配があるのを感じると、これは奇跡のような事実で、今この一瞬に誰もいなくなってしまったら、この家は幽霊屋敷だなとか思った。
自転車での帰り道には「累積ガウシアン関数、ロジスティック関数、ワイブル関数、などまあ数多くございますが、どれをお使いになってもねえ、同じような、もんですが(<-スネークマン・ショーネタ)」という返答を考えていたが、展開上、使う場所がなくなったのでここに貼る。(<-貼るな)
明日は早起きして次男のソフトボールクラブチームの試合のお手伝い。スコアボードに点数を書くだけのカンタンなお仕事で、特等席で次男のプレイを見ることができて、あとで指導に役立てることができる。俺の人生にとってこれがいちばん大事と言っても過言ではない。それでも早起きは辛い。
「王と王子と神と天使のどれになりたい?」私は天使かな。ひれ伏されたいのでもなければ、ちやほやされたいわけでもなければ、全知全能の力を振り回したいのでもない。よき知らせをもって世界にふれまわりたい。
俺も出世コースを外れたらアラーム鳴る機能つきのゴーグル欲しかったよ(<-正直すぎ)。と言いたいところだけれども、自分の体が出しているアラームのほうがもっと大事だからなあ(<-マヂレス)
次男のソフトボール大会のお手伝い終了。次男のチームは残念ながら予選敗退。チーム全体としてまったく打ててなかったのでヤキモキしながら得点係やってた。次男の遊ゴロ内野安打が唯一のチーム打点となった。
山の上にある中央総合運動場からの帰り道に谷を渡る橋から見下ろす道がビルの15階くらいから見下ろすような高さで見えるのだけれど、そこを自転車で下りながら「ここからいま飛び降りる理由なんてまったくないな」と唐突に思った。ほんとうに唐突だったので、なんでそう思ったかもわからない。
行くも地獄、引くも地獄なら、そのときの報酬を最大化するのではなくて、取りうる選択肢が増える方向を選択したつもりなのだけれど(<-FEP)、もちろん後から振り返らないと、本当のところはよくわからない。
ヘドバとダビデ(「ナオミの夢」)で有名なダビデのフルネームはDavid Rosenthalであることが判明した。だからなんなのだと言われても困る。
「三三七拍子というけれども実はあれは普通に八拍子だよね。ということでガチで三三七拍子やります」と言って3-3-4-3の変則ビートを手拍子で刻むっていうネタを実践したことがあるのだけれど、あれは自分で思いついたオリジナルで、あのときの俺は冴えていたと思う。
あと、「指切りげんまんで『針千本飲ます』っていうけど、あれを『針一本飲ます』って言い直すと、ガチで飲ます気が出て怖いよね」っていうネタもあったけど、あれも自分で思いついたオリジナルで、あのときの俺は冴えていたと思う。
という話をツイッタに書いたことあったっけと思ってtwilog調べてみたらそれはなかった。
サンレコの最新号はプライベート・スタジオ特集。https://www.amazon.co.jp/gp/product/B000LE0RKS/ 高校生くらいのときに漠然と将来のことを考えながら、地下室のある持ち家で防音設備があってギターが弾けて、みたいなことを夢見ていたことを思い出した。
世界がもう少し良くなってくれたらいいなあ(<-ネット見ながら思ったことを書こうと思って、エッジを削り、オブラートに包みまくったら、まったくなにも言ってない表現になってしまった状態)
俺は、俺の「ズッコケ道中」を、クサらず、卑下せずに、ただ進み、目的地に辿りつく手前で退場してもいいんだと、最終地点などないのだとわかったうえで(<-途中でどうでもよくなった)
「アインシュタインが黒板の前で6-3=6と書きながらベロを出している」という画像をネットで見たが、それは当然コラなのだけど、ソースはどこかと調べて、でも簡単には答えが見つからず、ふと「そんなことは俺の人生にとってはどうでもいい」ということに気がついて止めた。(<-よくある)
田中一村は「白い花」が好き。中央画壇に背を向け、奄美で極貧の中作品を書いて「日本のゴーギャン」となった一村に対して、画壇に受け入れられた最後の作である「白い花」を好きと言うことはたいへんダッサいことかもしれない。俺の感受性は彼の人生選択を裏切っている。でもこれがいちばん好き。
短い曲っていいなあとあらためて思う。Tyranosaurs Rexの"Salamanda Palaganda"ってヴァースとコーラスの構成で3番まであって、アウトロで違った展開もあるのに2:16で終了する。美しい。こういうのを目指したい。
素朴な驚きとして、弦の振動や太鼓の震えや声帯の響きが、スピーカーの振動板というぜんぜん違う素材によって再現できることって、ほんとうに不思議だ。液晶ディスプレーに光る蜜柑や人の顔や這いずるワニが画面に写ったものにしか見えないことを考えると、まったくありない奇跡のように思える。
Likeよりもリツイートしろよ!ってのはごもっともだけど、ツイッターの仕様的にリツイートするとツイート数が加算されるのが気に食わないのでリツイートはしないことにしている。今の仕様でのツイート数はオリジナルなコンテントの数になってないので間違ってる。同じ意見を聞いたことはないけど。
ツイッターより前にブログを始めていたせいか、ツイートをフローというよりはストックとして扱いたい気持ちが強い。だから自分にとってツイートは140文字ギリギリに収まるように繰り返し推敲したミニブロクのエントリであり、いまの18,430ツイートをリツイートで薄めたくないという気持ち。
いま部屋にある除湿機は、稼働しているときはずっとモーター音がしているのだけど、除去した水が満タンになるとファンを停めて静かになってしまう。つまり、満タンになった水を捨てて再稼働させるためには「無音であること」に気づかないといけない。これってけっこう難しい。サリエンシーがないから。
同じように、誰か特定の人のツイートがしばらくないなあとかいうことも気づきにくい。なんかの拍子に、そういえば最近見てないなあ、みたいなかんじになる。ここから導き出せるのは、「自分のツイートを待っている人がいるから書かなくては」なんて考えはまったく不必要ということ。
だから、いつでもフェードアウトしていいのだけど、なんだかんだと書きたくなることがあるから書き続けてしまうんだなあ。(<-変な締めかた)
今日は長女が昨日の余りご飯でチャーハンを作ってくれた。たいへん素晴らしい。iPod Touchが台所にあったところを見ると、作成過程だか成果物の写真をインスタに上げたらしい。パパはツイッターで娘はインスタ。
お勧めエントリ
- 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
- 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
- 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
- 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
- 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
- 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
- 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
- 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
- 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
- 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
- DKL色空間についてまとめ 20090113
- 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
- ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
- Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
- 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
- MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213