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2011年10月27日

Electric Kool-aid acid testを読みながら年表を作成しているんだけど

いつもどおり、ついったからまとめ。


"Magic Trip" ついにケンキージーによるあのバス(The Electric Kool-Aid Acid Test)で撮影されたビデオが編集されて映画に。酷評されてる。メリープランクスターズが作った音楽と同様クソなんだろう。それでもいいから、俺は見ておくべきだと思った。

Gus Van SantがThe Electric Kool-Aid Acid Testの映画化を進めているという話があったけど、完成したという話を聞かない。どうなってんだ。


「あなたが選ぶWIRED大学 新・教養学部必読書50」をテーマごとに見ていったらそんなに読んでる本がなかったのだけれど、カウンターカルチャーHだけ10冊中6冊を読んでたんで、俺ってそういう人なのねとかスゲー笑った。

残りの本も全部読みたいやつばかり。Whole earth catalogを探すつもりはないが。いまKool-aid acid testを原書で読み直しているけど、Stewart Brandがプランクスターズの一員として出てくる。Stay hungry, stay foolish!


Neal Cassadyはオン・ザ・ロードの主人公として、そしてクールエイドアシッドテストの準主人公として生きて、ビートの時代とヒッピーの時代とを生きて、42歳の誕生日の直前に死んだ。

マジックバスを運転して山からの下りの道をブレーキを使わずに降りきった。ハンマーでジャグリングしながらずっとしゃべりつづけた。アシッドテストで瞑想してる参加者にアクションを起こせよと悪態をついた。


Electric Kool-aid acid testを読みながら年表を作成しているんだけど、何もかもが早くて驚く。いわゆるサマーオブラブは1967年夏のサンフランシスコのこと。1966年10月にLSDは非合法になっている。キージーがバストリップをしたのは1964年。グレートフルデッドを大フィーチャーしてアシッドテストを行っていたのは1965年の末。有名なトリップフェスティバルが1966年の1月。そのあとケン・キージーは9月までメキシコに逃亡していて、1967年には服役しているから、ほとんどすべてのことは1965年までに終わってる。

つまるところ、サンフランシスコのサイケデリックシーンなんてものが有名になってたときには、すべてはもう終わってた。むりやり一般化しなくてもいいんだけど、シーンなんてものができたときにはすべてはもう終わってる。だから、未だ名前のついていないなにかをやるしかないんだと思うんだよ。

年表についてさらに言うと、1,2章はメキシコから帰ってきて拘置所に勾留中のキージーにトム・ウルフが面会するところから始まる。3章ではそこからいったん1962年までさかのぼり、そこからは時系列順に描写が進む。ラホンダでプランクスターズ結成、バストリップ、アシッドテスト、メキシコ逃亡帰国して拘留、ここまできて第1章の記述まで戻る。そして保釈、アシッドテスト卒業式となり、エピローグでキージーの服役とカサディの死去とが触れられる。きわめてオーソドックスな描写であって、訳者が書いているような、時系列を気にせずにコラージュのように書き連ねたようなものではない。

また、ハンター・トンプソンのゴンゾジャーナリズムみたいなことをしているわけでもない。つまり、トム・ウルフはプランクスターズの一員として混ざり込んで活動していたわけではない。アシッドテスト卒業式の直前の<ウェアハウス>にしばらく滞在はしていたようだが、バストリップとかアシッドテストとかそういうものはトム・ウルフが取材を始めたときにはすべて終わっていた。なにしろトム・ウルフははじめは「あの「カッコーの巣の上で」を出した作家が没落してメキシコに逃亡中」みたいなストーリーで取材を始めたのだから。

たぶんそこから、宗教活動の一種の始まりと終わりとを捉える(「インターサブジェクティビティー!」からマジックを失ったプランクスターズのライブまで)を描くという方向で、関係者にインタビューをして、様々な資料を合わせて完成させたもの、というのが本質らしい。その名残ゆえか、メキシコ逃亡時の記載に4章分も費やしているのだが、正直つまんない。一章分にまとめてほしい。

それはさておき、この本のgradesaverとか出ているので笑った。それってつまり、大学だか高校だかわからないけど、この本が読本となって意味とか解釈してるってことでしょ? 「バストリップしているときのキージーの気持ちを答えなさい」とかw まあある種の古典となってるのでしょうね。

トム・ウルフのインタビュー:「私が...書くだけの意義があると思ったのは、それが宗教だったからなんだ。キージーのグループは、原始的な宗教集団だった。... 初期のキリスト教が形成されていった時期に、レポーターになったような感じだったよ。」

amazon調べてみたら、訳書って絶版になってないのな。


東海岸ではティモシー・リアリーが瞑想を助けるものとして使った。白い服を着て、30年後のあれを思い起こさせる格好で。まあ元ハーバード大教授だしな。一方で西海岸ではケン・キージーがもっと雑に使った。つまりパーティー会場でジュース(Kool-aidな)に混ぜて振る舞ったw バカすぎる。


クールエイドの最終章、誰もいなくなったギグでキージーとバッブは掛け合いをしながら、いつしか"We blew it!"に収斂してゆく。イージーライダーでもこれががキーワードだ。どんな訳がよいだろう。「俺ら、台無しにしちゃったな」とか? ドリフっぽく「だめだコリャ」っての考えた。


2011年10月21日

フィードバックとフィードフォワードにおける時間 (池上さんとのやりとりを含む)

ついったでいろいろ書いていたら、池上高志さんとのやりとりになって、考えていたことがまたもや確率論的世界と動力学系的世界の相克なのではないかなんてことに思い至った。池上さんの許可を得て、転載します。池上さんのツイートはalltblから始まるもの(リンク先はツイートのparmalink)。


つぎのJCで何を採りあげようか。いま考えているのはNature Neuroscience 2011の"Decoding the activity of neuronal populations in macaque primary visual cortex."で、Population codingによるprobabilistic codeというやつをちゃんと読んでおきたい。

話の流れ的には、Zemel et.al. Neural Comput. 1998でencoding-decodingの基本的なスキームがあって、Jazayeri M, Movshon JA. Nat Neurosci. 2006 でニューロンが独立でポアソン的ならば、Log likelihoodがチューニングカーブと発火頻度の掛け合わせになることを示した。

今回のNat NS 2011ではこのような単純なモデル(発火頻度を足し合わせるときの重みにチューニングカーブを使う)とニューロン間の相関を考慮に入れた場合の重み(重みをデータから学習させる)とを比較している。ぱっと見、correlationを考慮したときの重みがチューニングカーブと比べてどう変わるか、みたいな図がなかったので何が起こっているかよくわからん。

別のラインでさらにBayesian inference with probabilistic population codes [Nat Neurosci. 2006] とかも理解しておきたいが、そもそも「確率的コード」という概念自体が重要。おなじファーストのSignal detection theory, uncertainty, and Poisson-like population codes [Vision Res. 2010]も読んでおきたい。

著者が書いているとおり、SDTはpdfを使っているからこれも確率的コードの一種なわけで、そういう確率的表現をニューロン集団としてどのように持つことができるかということが、神経生理的には重要。単一ニューロンでuncertaintyをコードすることと確率的コードとの関係とか。

これは意志決定の問題でもあるし、メタ認知の問題でもある。単一ニューロン記録でuncertaintyやるのはKianiとかKepecsとかでもう行われたから、やるならニューロン集団での確率的コードみたいなことを考えるべき。でもRGCとかはもうデータがあるから、Pillow et.al. 2008みたいなかんじでどんどん進んでいくだろう。

高次の脳領域で、意識の問題と絡めてこういうことをやっていけるとしたら、私がやる意義はあるかもしれない。あんまShadlenの後追いみたいなことをやってもしょうがない。ただし、意識の問題をSDT側からいろいろ追っていたら、そういうところに突き当たったということだけど。(盲視でFC d' > YN d'となる問題)

確率表現の話も内部モデルの話も、私にとっての興味というか論点は同じで、単回でのフィードバック制御と、ヒストリーの分布を持った上でのフィードフォワード制御とは論理のレベルで別なのだというベイトソンの言い方を使って、なんかうまいこと整理できないかっていうこと。

どうも理系らしい言葉にならないけれども、フィードバック制御には過去がないから自己はない。フィードフォワード制御には過去があって、内部表現があるから一段高次。これが「なぜサーモスタットには自己がないと言えるか」の答えだと思う。

alltbl @pooneil すいません、FFとFBの解釈が、わからない。Recurrentは?

確率表現というやつもそういう意味で、現在のみに生きていない有機体でしか起こらないこと。だから尤度がなんか本質的なものなんだろうと思う。ベイズかどうかはpriorがあるかどうかだけの違いではあるけれども、渡辺澄夫氏の書いたものを読むかぎり、尤度-priorという対で一つのモデルということらしい。こういうことをもっともっと考えたい。たとえそれが望まれていなかったとしても。

石ころ単体に意識はない。意識があるとしたらそれはなんらか相互作用が必須で、石ころはほかの物体となんらか相互作用をして情報伝達をすることによってはじめて意識システムの一部となりうる。

alltbl @pooneil 電子1個の意識、というやつですか?

といいつつ、「情報」という言葉を不用意に使ってしまった。情報は読み、読まれるという意味で観察者が必要。内部的にはたんに物理法則に従っているだけなわけで。

@alltbl recurrentはFBではないですか。ただし、時間遅れがある。今の文脈で行くと、では時間遅れがあったら過去があると言えるか。無いんではないでしょうか。

alltbl @pooneil ぼくは、FBにはかならずtime delay があるし、FFは記憶はないと思いますが。

@alltbl 「電子1個の意識」ってことを言っている人がいるのですか? 今書いているのとはちょうど逆方向かと思いますが。

alltbl @pooneil そちらの文脈だと、電子1個の意識もあることになり、それと石の差は、かなり曖昧になる。

@alltbl いまの文脈からすると、電子一個でもほかのものと情報のやりとりをしているならば意識システムの一部となると言えるかもしれない。ただ、そうなると本質は電子や石ころではなくて、情報の方になる。すると「情報」自体をちゃんと考えないとこの話は意味がなくなる。

alltbl @pooneil ぜひ、研究室の Life Mind Seminar で話してください。歓迎します!

@alltbl 確率表現みたいな話と意識のオートポイエーシスの話がうまくつながったらぜひお話をしてみたいですが時期尚早かと。それとはべつにして一度Life Mind Seminar聞きに行かせてもらえませんか? 日時とか情報教えてください。

alltbl @pooneil 情報というのは、時間的な不可逆性が生まれること = 観測問題、では?

@alltbl なるほど、情報という概念を使うと観測問題になっちゃうのはわかっていたのですが、時間、過去という概念も使ったとたんにもういろんなものを先取りして入れてしまうことになるのですね。

alltbl @pooneil はい、不定期なのですが、是非。確率表現というのは、外からの視点で、Autopoiesisは、内部的な視点。ですよね? なぜなら、外から見たら、死ぬ確率が1/3という場合でも、本人にとっては0か1だから、つねに。

@alltbl なるほど、もっと精緻にして考える価値がありそうです。直接時間を扱っているのはFBで、FFは実行時は学習結果の重みを演算しているだけという意味では過去を直接利用しているわけではない。つまり、両者は時間への関わり方が違っている。

わたしが書いたのはFBはそのつど誤差を計算すればよいという意味で過去の蓄積を必要としない。FFは(実行時ではなくて)学習の段階で過去のヒストリーによって重み付けを変えるという意味で過去の蓄積を必要とする。ベイトソン本の例では、ライフルで照準を見ながら正しく標的を合わせるのがFBでライフルで複数撃った結果を元にライフルの癖とかを学習して狙うようになるのがFF。

alltbl @pooneil うーん、でも、いままさに生きている時間、というやつがなくなってしまうのでは? 時間は生きているから。

@alltbl ですよね、確率という概念は外からの視点ですよね。それで、この問題は本当は確率的表現と力学系との関係の話になる。津田先生の新学術に入れていただいていろいろ発表を聞いてきたのですが、神経科学で力学系ってどうやったらよいのだろうともやもやしていたのとつながってきました。

@alltbl 推測ですが、FBの時間遅れの方が、現在と重なりながら進んでいく、生きられた時間に近いものと捉えていたということでしょうか? そういう意味ならば納得がいきます。FBの時間は力学系的な時間で、FFの時間は確率表現の世界の時間、なんてまとめ方はどうでしょうか?

alltbl @pooneil FFはやっぱり力学系を走らせてるだけ、という感じですよね。FBは、おっしゃるとおりの解釈です。

@alltbl ありがとうございます。やりとり面白かったんであとでブログでまとめ直してみようと思います。転載させてください。お願いします。

alltbl @pooneil はい、光栄です。こういう話はtwitterだとむずかしいですね。はじめてそう思った。

池上さんとのやりとりを元に今日書いたことを見直してみる。内部モデル的なアイデアはMLE的、ベイズ的ひっくるめて確率表現の世界を前提としているようだ。となると力学系でのカオス的遍歴としての記憶というものが内部モデルのようなアイデアとものすごく離れていることがよくわかる。

これは本質的なことかどうかはわからないけれども、確率的表現の世界と力学系の世界とで時間の見え方が違って見えるだけでなく、お互いに隠蔽しあうような形になっているかもしれない。ある意味相補的なのかもしれないし、物事の捉え方が反転していることを反映しているのかもしれない。

@alltbl ありがとうございます。むずかしいですけど、twitterならではのやりとりだった気もします。Face-to-faceのスピード感だとこういう展開にはならなさそうで。

alltbl @pooneil なるほど。それはそうかな。twitterは研究の議論にも向いていますか? ちなみに僕の疑問は、ソフトウェア、ハードウェアという線引きは、どの程度、脳では明確だと思いますか?

@alltbl twitterで研究の議論するのは難しいですね。どうしても断片的になりますので、clarificationに終始してしまうでしょうし。詳細を突き詰めるよりはインスピレーションを得る方が実りがあるし、そういう意味では池上さんとのやりとりは楽しいです。

@alltbl 「ソフトウェア、ハードウェアという線引き」これの論点はいろいろありすぎてぱっとはわかりませんが、たとえば、あるニューロンの機能を決定づけるのは他のニューロンだという意味で関係主義的に捉えた方がよいというのは神経生理学的立場からも言えるのではないかと。

alltbl @pooneil コンピュータのメタファで脳が考えられるか、という意味です。TeXやCromeなどのアプリは、下のハードウェアを考えなくても乗せられるか、という問題が、脳にはあるか、ということです。

見直して考えるに「サーモスタットには自己がない」をもっとちゃんと言い直すと「サーモスタットには表象がない」となるだろう。つまり内部モデルとは表象のことであって、観察者を前提とする。「サーモスタットに生きられた時間がある」かどうかは観察者ではなくてサーモスタット自身の問題だ。

@alltbl それは「情報」の概念とかかわりますね。もし情報のやりとりだけが重要なのであったら、それの乗り物は脳である必然性はない。V1ではなくてA1が視覚を処理できるように、可塑性を使ってぜんぜん別のニューロンに機能を移し替えることはあるレベルまでは可能。

alltbl @pooneil そうすると、認知心理学的な現象は、ニューロンとかじゃなくても実装可能。だと思いますか? ロボットということだけれど。だとすると、逆に脳科学は、神経細胞で生じているから偉い、ということに?

ではこれはニューロン以外でも可能か。わたしは外在論的立場に親和性が高いので、環境との相互作用のループを保ちながら徐々に脳以外のものに機能?を移行してゆくことは可能だろうと予想して、BMI的研究がそれに寄与できるのではないかと考えてます。

@alltbl 機能は実装可能として、現象的側面が実装可能かどうかってのが論点かと。「実装」って言葉にかかわる問題ですが、オートポイエーシスは分岐させることは出来ても、丸コピーは出来ないのではないでしょうか。コンテキストがコピーできないから。機能と現象の違いはそこではないかと。

alltbl @pooneil 難しいこといいますね。個性はコピーできないけれど、新しい個性は作られるのでは? イーガンの黒い宝石、でしたっけ?それみたいだな。

@alltbl コピーは出来ないけど、新たにはじめることは出来る。池上さんがオートマタ動かしたり、油滴実験したりするのはまさに新たにはじめることが出来るからですね。となると論点は、コンテキストがないところではじめられたオートポイエーシスは新たな個性なのかそれとも生きてない偽物か。

alltbl @pooneil 生きていけたら、本物ですね。

ここまで書いて気づいたけど、私の書く「コンテキスト」にはちょっと生気論的な神秘が入っているようだ。オートポイエーシス的に言えば、維持されるかぎりは新たに生み出されたものでもなにかが生きていると捉えるのが正しいか。

伊庭幸人氏の「学習と階層」から:「階層、とくにあらかじめシステムに作り込まれた階層は、非線形動力学の陣営からは、旧弊な機構として厳しい批判をうけている(Kaneko and Tsuda(1994)) ..."表現とアルゴリズムが区別されていない動的な情報処理" のような理念のもとで研究を進めることで、階層の概念を脱却することが可能であろうか。それとも、( "確率"の場合と同じように)"階層"も、いつまでもどこかに潜んでいて、われわれがそこから脱却したと思った瞬間に再出現するような概念なのだろうか。」ここまで引用。

単回のイベント(FB)から複数回のイベント(FF)というイメージで、後者が現象的なものが出来るために必要なのではないかとぼんやり考えていたのだけれども、見直してみればこれもやっぱり表象だ。表象以前に現象はあるのだろうか。

でも、生成の過程をイメージするに、表象が出来るのと同時に現象が出来たと考える方がもっともらしい気がする。強い表象主義(現象というものはなくて、表象だけがある)には与しないけど、表象が出来る程度の複雑さが現象には必要といった弱い表象主義は知覚運動説となじみが良さそうに思う。

もちろん、このときの表象はカルテジアン劇場的なものではなくて、断片的なものでよくて、なんらか操作できさえすればよい。そしてそんなもんだったらわざわざ表象主義とか言わなくてもよさそう。


2011年10月16日

テキストジェネレーターで遊んでみた

テキストジェネレーターというのを知ったので、さっそく自分のついったの文章を入れて自動生成させてみる。なんとなく意味がつながったものをピックアップしてみることにする。

CORDUROYSMOODってユーザー名を使って背伸びしすぎの科研費の話題がつながって、そしてそれなりの地位を築いた人はみんなハカセくんもしくは火曜サスペンス劇場的なものが内部モデルのような理念のもとで研究の議論するのだろう。

空を飛びたいなことができるかとビビるが、そりゃわかる。ありがとうございます。転載させてしまった。まあ、他人の人生気にする前に、自分のことを考えて買い物に行かせてもらえませんか? 日時とか情報教えてください。

短期間の制御と予測というイメージで、後者が現象には必要とする。ん?これはニューロン集団での確率的表現という概念自体が重要なのではなくて、量が質に転換しただけではないでしょうか。

ここまで書いてある貼り紙全部はがしてみた。はがない。なんにしろすごい。これの論点は、コンテキストがない。Ubuntuをスリープさせてしまった。友達を探す: 自分やお友達の結婚式の二次会の司会をしたこれみたいなんてまとめ方はどうでもいい。

そっかあ、明日はサンマにしようと思う一方で、退場せずにワナビくんでもよかったでござるの巻(<-ぶっちゃけすぎ) リア充よか相当高いレベルで別なのだという意味ならば納得がいきます。

これがいちばん好き。バランス的に言えば、維持されるかぎりは新たに生み出された。人生が二度あればまた、耳を7針縫ったり、油滴実験したことはちと長い。もっと考えてます。なんと「やすらぎ」だ。これから自己はないです。

…意外と平常運転って感じもある。「これから自己はないです」とか気に入った。「転載させてしまった」とか、させんなよw こんな勢いで自然とジェネレータと役割交代してみるなんて人生も面白いかもしれない。それではひきつづき、メタレベルとかぶっ壊していこう…

単回のイベントが発生すんの? やっぱり表象だ。表象以前に現象はある。だから酒(発泡酒)買って帰った。二層までは可能。

でも、そのぶんが内臓脂肪かなんか対策出るまでこのまま放置。スナップショットは取ってあるのだろうか。ぜんぜんかっこよくなかったのと同じように思う。ちとインテリ臭が強すぎてぱっとはわかりませんか? それとも生きていかなければならなさそうに思う。

しかし未公開設定。そういう意味で観察者ではない。ある意味相補的なのだという概念自体が重要なので聞いたのとつながっていったいどうなってやっと生活に余裕が出来る程度の複雑さが現象的側面が実装可能かどうかはpriorがあるかもしれないし、物事の捉え方が反転していたりするのや止(や)めた。

あんまShadlenの後追いみたいな話と意識の問題をSDT側からいろいろ発表を聞いてきたw 深夜のLAの街を自転車で通って、誰もいない動的な情報処理 のように考えることです。

…「ちとインテリ臭が強すぎてぱっとはわかりませんか?」とかなんだよw 嫌みかよw 俺からはどれが生成させた文章かは自明だけれども、それは自分で書いた文章だからという理由でしかない。これこそがinternal monitoring。俺はこうやって雲散霧消してゆく、それにある種の喜びを感じる。それはこんなに単純で簡単なことだったんだ。…

とりあえずプシュケの涙と小早川さんとのやりとりだけが重要。重みをデータから学習させることは言えない者として使われているのと同じようにその中でのいろんなもんだったので何が起こっていいじゃん、とか会話のネタになってしまうこと。

「信じられるのw じゃあ飲もうぜ!」みたいなそういう展開にはならないことができないかと。「唯識入門」って刺さるフレーズだ。これって日本的な概念なのだとしたらそれは「情報」の概念とかかわりますか?マニラの美しい夕日を見てる。それで、なんらか相互作用を同時に現象が出来る。ちなみにジェファソーンエアプレイン好きですか? そういうところの話。そうだ、そういうところの話。


お勧めエントリ

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  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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