[カテゴリー別保管庫] Alva Noeの知覚理論

UC Berkeleyの哲学者Alva Noeによる「perceptionとは、行動と結びついたactiveな過程である」という考えについてarational agentさんがコメントしています。

2013年01月11日

駒場集中講義「意識の神経科学」レジメアップしました

駒場集中講義「意識の神経科学」今日は二日目、最終日です。1月11日(金)3・4限(13:00-16:20)、講義室は駒場キャンパス15号館4階409号室。レジメアップしておきました。

広域システム科学特殊講義Ⅴ 「意識の神経科学」ハンドアウト from Masatoshi Yoshida

昨日の感想としては、時間的にはそれなりにうまくいったが、もっと準備かけてわかりやすくすることはできた。あと三連続は疲れる。第3回目は話が雑になっていた。体力重要。

第5回目はかなり意欲的に盛り込んでいるのだけれども、うまくまとまるかどうか。いまからあと5時間でなんとかするところ。ではまた。


2011年05月30日

Alva Noeの訳本「知覚のなかの行為」読んでます

Alva NoeのAction in perceptionについてちょぼちょぼ書いてきましたが(これまでエントリは「Alva Noeの知覚理論」へ)、訳本「知覚のなかの行為」が出ましたので読んでます。けっきょく訳本読む方が早いのよねー。

Alva Noeのsensorimotor contingency (-> dependency)は「環境への働きかけによってどのように環境が変化するかという「知識」が知覚をconstituteする」みたいな言い方なのだけれども、この「知識が知覚を構成する」って言い方が行動そのものが構成要因ではないとするための妥協の産物であって、超奥歯に物が挟まった感があるわけですが、「知識」とやらにそんなことができるだろうかと言いたくなるわけですが、「知識」を記憶、そして内部モデルとしてとらえればそんなに悪くない。

もう一度繰り返すけれども、知識=semantic memory=top-downのtemplate=内部モデルとしてとらえれば、それを知覚の構成要因とするのは悪くないんではないか。何度も書いてきたけど、ボトムアップのサプライズとそれを緩和するトップダウンの内部モデルという図式とじつはそんなに大きくかけ離れているようには思わない。ただし、内部モデルのアイデアはヘルムホルツ以降の「推論としての知覚」というアイデアと強固に結びついている。そしてNoeは直接知覚的立場からそれに強固に反対する。だから私は科学者としては内部モデル的アプローチにコミットしながら、手がかりとして哲学的な争点を脱臭するような方向へ進むことを考えながら、つまり、推論としての知覚をする際に内部に詳細な表象を作らないようにだけ考えればいいんじゃないかと。

じっさい、Raoの論文とかで出てくる図式は外部の推定をするように書かれてはいるけれども、それぞれの階層でローカルに誤差の計算をしているだけで、全体としての表象があるわけではない。だからこそ本当に問題なのはそのように分散して表象されているものをどのように行動に使うために読み出してゆくかということであって、視覚に閉じたモデルを行動に使うところまで行かなくてはいけない、っつうかもういつも書いていることと同じになってしまったのでやめる。

今日書いたことでの進歩はseosorimotor dependencyが「構成する」みたいな言い方であって、causationではないことに気づいた。あと「知識」という言い方をもっと計算論的にすればいいんだ、って考えたこと。

でもあれか、Raoのとかではまさに画像を再構成してやって、それがどのくらいうまくいっているかが議論されるんだよなあ。そこが階層ごとでなされているか、それとも全体としての画像ををpixelレベルで誤差を評価しているのか、とかうだうだ言ってないでやっぱじぶんでいじってみるべきだよな。


二つの視覚経路議論という意味では、Noeは触覚だけでなく、視覚に関しても視覚運動変換を媒介して経験が与えられるとしている。たとえば、距離や形態を「直接」経験として与えるのは要素の分析とかそういうのではなくて、「どのくらい手を伸ばしたらそれに届くか」とか「どういう風につかめるか」とかそういう「知識」によって構成されると考える。

これは神経科学者としてはけっこう興味深い提案で、ざっくりパラフレーズしてしまえば、ある物体の形態の認知はその物体のアフォーダンスの認知によって成立するという提案だ。これを神経科学と繋いでしまえば(Noeはそんなこと考えないだろうが)腹側経路の側頭連合野(IT)にある形態に選択的なニューロンの成立に、背側経路の頭頂連合野(AIP)にあるアフォーダンスに関わるニューロン(村田さんの仕事)の成立が先立つ、とまでは言わなくとも寄与する、なんて可能性を考えることができる。

これは反応性成立の前の発達のところで検証すべきことだけど。反応性がすでに成立しているadultで、AIPにムシモル入れてもITの反応性が変わるとは思えない。(もしそうなったらかなりインパクトのある仕事となるが。) LIPに平面の単純図形への選択性があるという仕事はすでにある: SerenoのNature98

まあここまで我田引水的に話を持って行かなくてもいいのだけれども、発達期の脳での相互作用というのはいろんな重要な問いがあって、NBRとかを使ってもっと積極的にやった方がよい。たとえば、幼年期の顔認識は皮質下から直接扁桃体へ入力する経路を使っているという可能性。

これもまず本当にそうか、そしてそれはどこで切り替わるのかという視点で考える。腹側経路と背側経路の相互作用についても同様な問いを複数考えることができる。ポイントはadultで反応性が成立してしまったあとで見てもわからないものを発達の過程を見ることで明らかにできないか、というような問いの作り方であって、発達自体を明らかにしたいということでもない。

本当は発達の研究というのはみんなそういった視点から捉え直すことができるはずで、ocular dominance columnとかorientation mapとかの生成の過程を明らかにすることは、どうしてそのような反応特性をニューロンが持つようになり、どのような刺激空間によってそのようなマップができたのかを明らかにすることは、adultでの応答特性とかそれがどのくらいoptimalであるかといった議論でなされていることをその形成過程からより直接的に示す仕事になるはずだ。

さらに神経科学的な捉え直しを進めてゆくけれども、Noeがあるものを(たとえば)球体として経験するのは「あるものの現れが運動の結果に応じて変化するから」と書くときに必要なのは反応選択性的なフィルターでは足りなくて、様々な向きからの見た方とかそういった確率分布みたいなものだ。

どうやってそのような分布を情報として持つことができるか。もちろんtextureの統計量みたいに次元圧縮してもいいのかもしれないけれども、それは反応選択性のパラダイムの中での簡便法だろう。(textureに関してはまた別エントリにて)

どうやってそのような分布を情報として持つことができるか。 もちろんNoeはこのような言い方はしないだろう。直接知覚派にとってはそのような多様性は現実世界そのものが持ってさえいればよいのだから。真にベイジアンな脳を考えるのであれば、確率密度分布を持つ必要があって、そのとき周辺尤度が計算できて、自由エネルギーが計算できて、フリストン仮説につながるはずなんだけど、まだちゃんと読めてないので正しいかどうか自信がない。

周辺尤度計算できるほどには情報を持ってなくて、ある程度近似的にposteriorを計算できるようになっているのだろう、というあたりが脳ネットワークにできることと考えるのが妥当なのかもしれない。ともあれこういうことがわたしはfundamentalなことであると思っていて、本当はこういうことを突き詰めていきたいし、間違っているのならさっさとその間違いに気づきたいと思っている。


Noeは「感覚運動変換のあり方についての知識」と言うとき、これが「命題的な知識」ではなくて「実践的な知識」であることを強調している。これも神経科学的な言葉へ変換可能だ。つまりこれは「宣言的記憶」ではなくて「手続き的記憶」なのだ。そうしてみると私がさっき書いた意味記憶としての捉え方は正しくなかったと言えるが、内部モデル説により近くなったと言えるだろう。まさに小脳などで内部モデルとして作られているものが手続き記憶なのだから。こうやって話は一挙に川人先生や伊藤正男先生の小脳意識説に近づいてくる。

ここで私はべつに小脳説にコミットするつもりもなくて、話は逆で、命題的記憶でない、実践的な記憶としての脳内メカニズムを探すというheuristicを使えばいいんだなということになる。そういう意味では小脳よりは頭頂連合野の方が興味深い。


“Conceptualism Revised: Through Criticizing Noë's Enactive Approach” Noeの理論と二つの視覚経路議論の関係というのはNoe自身も扱っているし、私の盲視の話も二つの視覚経路議論の範疇のヴァリアントであると言える。それをsensorimotor dependencyへの反論のように使うのはじつは私はあまり釈然としていない。

というのもそれはつまり意識としての脳は腹側経路で、それはsensorimotorとは独立している、みたいな感じで使われるからなんだけど、きっと事態はそんなふうにはなっていなくて、両者の相互作用を発達の段階で考えるべき。で、sensorimotor側が先に成熟して、それによってventralがshapeされる、みたいなのがたぶんホントのところだと思う(といいつつこれを証明すること自体が大ごと)。

だから、独立しているという議論よりはその相互作用を議論する方がたぶん良いだろうと思ってる。(<-もはや言及した話とは全然別だけど。)


(ついったに書いたことを元にして編集して作成した)


2008年12月25日

Alva Noeのfilling-inと入不二氏の「クオリアの不在」

ラボの大掃除をしてたら、昔書いたメモ書きが出てきたので写し取ってみます。

Logicには時間がない。
Recurrentなネットワークは常に時間的遅れを持って自己言及するため、そのlogicはトートロジーではない。
常にメタの立場になるような形で、自己言及する。
(これこそが「オートポイエティック」--そのつどメタを作り出す。)
つまり、時間性とはメタになりつづける性質のことである。
(「進化」についてもコメントできる。)

たぶん2001年くらい、qualia-MLで活動してた頃のものでしょうか。ベイトソンから始まってオートポイエシスを発見した頃のことだと思います。「Logicには時間がない。」ってのはベイトソンの「精神と自然」のフレーズです。(以前作った要約が20000819にあります。)

あともひとつ。こちらはもうすこし長いです。あちこちから矢印が延びてわかりにくいので、(A),(B)などで繋がりを表記しときます。

filling-in.png

Edgeのqualiaというものはない。(A)
Edgeからfilling-inされたところにのみ、qualiaができる。(図左)
逆に、そのqualiaから仮想的なedgeを我々は見る。(図右) (B)
ゆえに我々はpureなedgeに対するqualiaを持たない。
Pureな線、点というものをqualiaとして持ちえない。(C)
このことは、qualiaがedge detectionではなくて、それによるfilling-inのレベルにneural correlateを持っていることを示している。
これは視覚では当てはまるが、聴覚では当てはまらない。他のmodalityと共有できる原理が必要。
(->空間のfilling-inと時間のfilling-inとを考える。)
Visualは空間を埋めるqualia。Auditoryは? Somatosensoryは? (D)
そもそもfilling-inはなにかを「表象」しているか? <--> qualiaはある。(E)
Edgeは「表象」している。<--> qualiaなし。(F)
((E)と(F)のあいだに)ここにねじれ、相互隠蔽の構造がある。
->表象とqualiaは互いを隠し合う。

((A)と(C)は)Abduction的にlogicがcircularになっている。橋本治的に、問題がcircularなときには答えもcircularであるべき。(->これは脱構築なのか?) 入不二(表象とqualia)とかも同じか?
(B) 色のクオリアは「面」でのみ有効であるということ? (->色だけではない。)
(C) これはプラトン的世界。経験からは離れている。
((D)と(E)は)ここには循環がある。

こちらはいろいろ考えてみたんだけど、けっきょくのところ、Alva Noeのfilling-inのBBS(PDF)と入不二基義氏の「クオリアの不在」とをつなげて考えてた、ということが書いているうちにわかってきた、というメモです。たぶんこれも2001-2003年あたりでしょう。

以前はこういうことが夜寝る前にいきなり浮かんできて、周りの紙にものすごい勢いで書きつづったりしたものなのですけど、さいきんはもっと実務的なことに頭が行きがちです。(あとでラボに行って、こういう解析をしてみよう、とか。) こうやって考えつづけてきたことと、今やっているempiricalなアプローチとがいつかconvergeすればよいと思っているのですけど。

そういう意味では、「qualiaがedge detectionではなくて、それによるfilling-inのレベルにneural correlateを持っている」、これは有効なアイデアだと思ってます。Kochを含めて、現在NCC (neural correlate of consciousness)をやっている人たちが言うようなNCCは、見ているレベルが違うんではないか、というのがおぼろげながらイメージとしてはあって、まだそれを完全に言語化できないでいるんです。

だから、「edge detectionのレベルでのneural correlate」と「filling-inのレベルでのneural correlate」との関係というのが、一つの入り口にできるのではないかと。後者では、表象として取り扱えないようなものを見ようとしているので、このまま後者のneural correlateを見つけたところで、それはたぶんこれまでのNCCと変わりはない。でももしかしたら、前者と後者の関係の関係には意味があるかもしれない。前者と後者の関係を、まさに上記の「相互隠蔽をするような構造」として捉えられるように問題を取り扱うことができたら、それがわたしがいまここで捉えようとしていることを達成できたことになると思う。


2006年06月11日

Alva NoëとかEvan Thompsonとか。ここまで。

2月に書いたまま放置してたやつを貼ります。もともと060220のつづきのつもりで書いていた(だからタイトルがそんな感じ)のだけれど、なんだかわからなくなってきてます。


そろそろとりとめなくなってきたので、このへんでいったん締めます。

本棚を整理していたら入不二基義氏の「qualiaの不在」を印刷して真っ黒に書き込みを入れたやつが出てきました。これをまとめておくのもそのうちやらなくては。(なお、この論文は以前は山口大学のサイトにありましたが、現在は心脳問題rfcからのみオンラインでアクセス可能です。) 話のもっていき方(あるアポリアを持ってきて、それの解決しようとする二つのやり方がじつはお互いを前提としていることを明らかにして、問題の捉え直しをする)は「相対主義の極北」と共通しているようなので読んでおきたいのだけれど、ま、ちとこれは10年たってもむりか。

現象学はわかるようになりたいなあ。これはかなり優先度が高いです。でも、フッサールを読まずにメロポンだけ読もうなんてバカにされるだけなんだろうなあ。途中で止まってる「行動の構造」。

大森荘蔵も腰を据えて読んでられないから、「流れとよどみ――哲学断章」で「心身問題、その一答案」だけ読んでみたりとか。Causal relation (「脳が心を生み出す」や「脳が外界を投射する」)ではなくて、重ね合わせ、「即ち」の関係 (リンゴが見える、即ち脳と環境とがある記述可能な関係にある、とか)なんだと、たしかにそうだ。しかしなあ: 前にトレーニングコースに来てた学生さんたちと飲んで話したときに、心身問題はWittgensteinで終わっているんだ(疑似問題なのだ)というふうに主張してた哲学科出身の方がいたんだけれど、そういう意味では心身問題はカントの第三アンチノミーで疑似問題であることがわかっているということなのでしょう(元ネタ: 「心脳問題 - 「脳の世紀」を生き抜く」 山本貴光、吉川浩満)。でも、「心脳問題 - 「脳の世紀」を生き抜く」 のいいところはそのような疑似問題が繰り返し問題として捉え直されつづける、「回帰する」点に注目してるところです。重ね合わせ、による解消法もそのときには納得はいくんだけれども、問題は回帰する。これってなんなんだろう、と思います。しかしそれにしても、わたしはカントを読むところまでは一生たどり着けないだろうなあ。

「身心問題」廣松 渉を読んでたときも似たようなことがありました。ライルによる「カテゴリミステイク」の議論を持ってきて、いっぽうで現在の心の哲学者たちはその辺がわかってないのではないか、とデネットの文章を引いて、「議論のレベルはこれでだいたいわかるであろう」なんて書いてます。ですけどね、デネットはライルの弟子ですよ! そんなことわかってないわけないじゃん、……たぶん。

ともあれ、現代の意識論をやってる人は、そういうところからふたたび議論を起こそうとする、「回帰する問題」をやってる人たちなんだと思う。だからこそ、arational agentさんの文章にもあったように、分析哲学者が扱うのは「意識を現在手持ちの自然科学的手法や理論装置で説明できる見込みがあるかというメタ的なテーマ」だったりするわけで。……ま、だからといって、カントやウィトゲンシュタインやライルを読まなくっていいって話じゃないわけだけど、すべてをやることは無理だ。

こっち系の話はやりたいことも書きたいこともいろいろあるのだけれど、と に か く じ か ん がー た り な い(「すばらしい日々」のメロディーで)。論文書きしながらrecordingの準備してるところですよ、これで。


2006年06月05日

Alva Noë講演行ってきました

おもしろかったです。内容には立ち寄らずに手短かにレポート。時系列的に整理されてないけど。
Alva Noëはサイトの写真よりはもっと老けた感じ。人の質問を受けるときにものすごい険しい顔をするのですが、答えるときには笑顔を絶やさない。険しい顔は真剣に人の話を聞いているからだということがわかって安心しました。真摯に質問に答えていたと思います。
セミナーの様子がわからなかったんで、その場での質問は止めておきました。あとで考えれば、その場で質問しといても外していなかったようですが。Arational Agentさんの力添えでセミナー後にAlva Noëとサシで質問させていただける時間を作っていただいて、10分くらい歩きながらいろいろ質問したり、わたしの仕事をすこし説明したりさせていただきました。だいたいこちらの目的は果たせたのではないかと。あとは、めざせ来年のASSCということで。
セミナーでは信原幸弘先生が質問してましたが、sensorimotor contingencyの概念をかなりよく了解している様子でした。(わたしは『心の現代哲学』(勁草書房)は読んだことがあるのですが、Churchland以降の、connectionistを導入して認知主義の命題的取り扱いを乗り越えて表象主義に至る、という道筋にいる方と理解していたので、この種のembodiment的なviewについてどう考えているのかに興味があります。岩波の「思想」に出た「クオリアとアフォーダンス」読んでないのだけれど、たぶん関係するはず。) 休み時間にArational Agentさんに信原先生を紹介していただきました。このサイトのことをご存じだったようです。
050211でコメントしてくださったiiさんにも遭遇(今回が二度目)。セミナー後にNoëの発表について、あれって実験結果の理解としてどうなのよ、みたいな話をしたり。
Arational Agentさんとは今回初めてお会いしました。お茶か食事でもしながらお話ししましょう、ということで、渋谷原宿あたり歩きながら終電までけっきょく延々7時間語りまくり。楽しかったです。
Arational Agentさんは疑問点に頭が到達するといきなりその場で考え込みはじめたりして、まさに哲学者、というかんじでした。わたしの実験に関してもよく話を聞いてくださって、いいヒントをもらいました。感謝しております。もう少し考えてみます。
セミナーの内容などについてはまた後日。

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# Arational Agent

ご研究に関わる興味深いお話をたくさんお聞かせくださって、私も楽しかったですし、啓蒙されました。どうもありがとうございました。残りのNoeセミナーの内容や様子については、後日ご報告申し上げますので、期待して待っていてください。


2006年05月30日

"Neural Plasticity and Consciousness"前半読みました

"Neural Plasticity and Consciousness"
さてさて、前半部分を読んできたんで、まとめておきましょう。
前述のように、cortical dominanceとcortical deferenceという二つの区分を考えると、具体例ではどちらの区分も起こりうることがわかります。
Cortical dominanceの例1: 幻肢。腕の切断などによって腕からの感覚入力を失った場合、体性感覚野で腕を表象している領域には隣の顔を表象する領域へ投射する線維が入力するようになります。つまり、顔への触覚刺激がもともと腕を表象していた体性感覚野へ入力するようになります。その結果、顔への触覚刺激によってあるはずのない腕への触覚刺激を感じる、これが幻肢です。つまり、腕を表象している大脳皮質の活動が顔を触られているときに持つ感覚を決定づける、cortical dominanceなわけです。(じっさいには、決定づけるdetermineという言い方を著者はしていません。Dominateという言葉を選択することで、このへんの扱いに気を遣っている様子がうかがえます。つまりあくまで、cortexが感覚入力を支配するというかovercomeするdominanceと、cortexが感覚入力に服従するというかovercomeされるdeferance、という対比なのです。)
Cortical dominanceの例2: 共感覚。耳から聞いた言葉に色を感じるsubjectでimagingを行うと、視覚野のうち、色の経験に関わる領域が活動する。聴覚入力から視覚野への投射が可塑的変化によって形成されているのだろうと考えられています。
Cortical deferenceの例1: Ferretの視覚入力が聴覚野に投射するように操作した例。Intactな側の大脳半球で視覚刺激と聴覚刺激で違ったように応答するよう訓練しておきます。さて、操作をした方の大脳半球で視覚刺激を提示するとferretはどう反応したか、intact側で聴覚刺激を提示したときと同じように行動した、というのです。
Cortical deferenceの例2: 生後早くからのblind subjectでの点字の読み取り。定藤先生の仕事です。点字を読むとき、つまり触覚刺激があるときに視覚野が活動するのがPETで明らかになった(Sadato et al 1996)、というものです。さらに、点字を読んでいるときに視覚野にTMS刺激を与えると、点字の読み取りを間違えたり、触覚の知覚への影響が起こる(Cohen et al 1997)、というものです。ただ、点字を読んでいるときに視覚刺激として感じているのかどうか、これはおそらく難しい問題で(early blindであるため、そもそも視覚刺激を感じる、という報告をどうverifyするか、という問題になるはず)、ここでは言及を回避してます。なんにしろ、論文に直接あたって確認しないと。
んで、四つの例を挙げた後で、この二つの区分のどちらになるかはどうやって説明できるか、という問いを立てます。
説明1: intramodalなとき(たとえば幻肢での体性感覚のうちの顔と腕)はdominanceで、cross-modalなとき(触覚入力が視覚野に入る)ではdeference。これは端的に共感覚の例が反証になってます。
説明2: 生後間もないときに可塑性が起こる(点字の例)とdeferanceで、より遅いときの可塑性ではdominance(幻肢)。これも反証があって、生後間もないときに腕の切断があった場合でも幻肢がおこります。よってこの説明は「生後より遅い時期の可塑性ではdominanceがおこる。生後間もないときの可塑性はdeferanceの必要条件だが十分条件ではない」と修正することでまだ生き延びます。
どちらにしろ、そのような現象論的な説明では不充分で、「では_なぜ_それらの条件のときにdominanceがおこり、別の条件ではdeferanceなのか」という問いが生まれることになります。
ここまで読みました。
あと、哲学的issueで洩らしたことをすこし:
Cortical dominance/deferenceという問題を扱うことで、「なぜ、ある入力と脳活動の因果的パターンが聴覚でなく視覚を引き起こすのか」といった相対的な"explanatory gap"の問題に取り組むaddressことができるのではないか、というのがこの話題の心の哲学的な意義です。(ところで"address"って問題を解ききれないときにも使える便利な言葉ですよね) 「なぜ、ある入力と脳活動の因果的パターンが感覚を引き起こすのか」という絶対的な"explanatory gap"の問題と切り離そうというわけです。これはSteven Palmerのcolor conversionの話とも通じる。科学は、というかempiricalな検証可能性を考えるとこのような相対的な問題に持ってこないとなんか原理的に無理なようにも思うし。ところで相対的はここでは"relative"ではなくて"comparative"なんですよね。なんか意図があるんだろか。
あと、哲学的にはneural correlate of consciousness (NCC)の問題とも関わります。ある経験のtype (tokenではなくて)がある脳部位の活動にsuperveneする、というときには、ある脳部位の活動をNCCとするcortical dominanceを前提とした考え方もあるけど、cortical deferanceの考え方も同じくらいにありうるでしょう、というわけです。(ある経験のtypeがある脳部位の活動にsuperveneするとは、あるふたつの条件AとBで同一の脳部位の活動がおこっているときはその経験のタイプも同一である、ということ。脳部位の活動が異なっているときにのみ、その経験のタイプが異なる。参考1参考2。ああ、論理学。)
セミナー聞きに行ったら、Alva Noëにはblindsightについてもこの議論が適応できるかどうか聞いてみようと思っていました。この論文自体、Alan CoweyやLarry Weiskrantzへの謝辞があるくらいなので、議論したことがあるのは間違いありません。また、dominance/deference議論をblindsightやGoodaleのtwo cortical pathwayの議論とつなげて考えるのは意義のあることです。なんてことを考えていたら、ちょうどこのタイミングでBrain 2006 "Unconscious vision: new insights into the neuronal correlate of blindsight using diffusion tractography"というのが出ているのを知りました(vikingさんのところに言及あり)。Hemianopiaの患者さんにblindsightがあるかどうかは可塑的変化による半球間の投射の形成があるかどうかによって決まるらしい、というものです。にわかにここで扱っている問題と近づいてきましたよ! (<-興奮してる。)
さて、間に合えばつづけます。

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# Arational Agent

今日第一回レクチャーを聴いてきました。講演内容は私のところで短く報告していますので、ご覧ください。これから、Neural Plasticity and Consciousness を読んで、予習しないと。それでは、金曜日にお目にかかるのを大変楽しみにしております。

# pooneil

ご連絡どうもありがとうございます。ぜひぜひ。
神経倫理学日記の方、がんがんエントリが増えてますね。正直追いつけてませんが、ぼちぼち拝見させていただいております。神経疾患や精神病理への分析哲学的アプローチ、興味あります。


2006年05月22日

Alva Noëが東大に来ます

これまでに記事を寄稿していただいているArational Agentさんから、Alva Noëが来週末から東大に来て連続セミナーをする予定(5/31-6/9)を教えてくださいました。どうもありがとうございます。
Arational Agentさんの日記の5/19のところにセミナーのタイトルと参考資料へのリンクがあります。
ざっと見たところ、Real PresenceはAlva Noëの知覚理論の最新版である様子。"Neural Plasticity and Consciousness"のほうはSusan Hurleyとの共著で、もっとニューロサイエンス寄りです。
神経科学者は"Neural Plasticity and Consciousness"のほうが取っつきがよいのではないでしょうか。取り上げられているメイントピックは、Mriganka Surのferretでvisualのinputをaudotory cortexにつないだ話。Ferretは視覚入力を聴覚野で処理するわけですが、はたしてferretは視覚入力を光として感じるのでしょうか、それとも音として感じるのでしょうか。(この問いは下條先生の「 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 」でも取り上げられていました。)
聴覚野が活動するのだから聴覚として感じるのだという考えと、視覚入力を処理するのだから視覚として感じるのだという考えがあります。Alva Noëは前者に"cortical dominance"、後者に"cortical deferance"と名を付けます。Sensorimotor contingency / dependencyとvisual awarenessとの関係を重視するNoëは"cortical deferance"の方を支持するわけですが、ともあれ、さまざまな例を挙げて、empiricalな問題に落とし込むような議論の形です。ほかに出てくる例としては、定藤先生の仕事でblind subjectが点字を読むときに第一次視覚野が活動した話とか、左右反転めがね、共感覚、phantom limb、というわけです。
予習がてら続く予定。

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# Arational Agent

今日主催者から、Noe セミナーの実施時間が変更されたという連絡を受けましたので、早急にご報告申し上げます。最新の予定ですと、6月2日、9日(金)両日のセミナー開始時刻が1時間30分繰り上げられています。

6月2日(金)セミナー2, 13:00-14:30、セミナー3, 14:40-16:10
6月9日(金)セミナー5, 13:00-14:30、セミナー6, 14:40-16:10

場所の変更はなく、6月2日は、東大駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム3で、6月9日は同じ建物、同じ階のコラボレーションルーム1です。以上、よろしくお願い申し上げます。

# pooneil

ご連絡どうもありがとうございます。
けっきょく6/2だけ参加できることになったのですが、うーむ、残念ながらセミナー2の途中から、ということになりそうです。
それでは東大でお会いしましょう。

コメントの重複分は削除しておきました。


2006年03月08日

Noë の知覚理論2

060210のエントリのつづきをarational agentさんが送ってくださいました。どうもありがとうございます。(じつは一週間まえにいただいていたのですが、私が寝込んでいたのでお待たせしておりました。) さっそく以下に記事を掲載します。というわけで今日はarational agentさんによるゲストブログです。ここから:


Noë の知覚理論2

pooneilさん、cogniさん、先日の記事にコメント下さって、どうもありがとうございます。 pooneilさんが盲視についてのノエの議論に触れていらっしゃいますので、私もノエのBBS論文の該当箇所を読み直しました。で、機能主義と現象的意識、スーパー盲視との関係については、話として大掛かりになるのでちょっと脇に置いておくとして(鈴木貴之「クオリアと意識のハードプロブレム」『シリーズ心の哲学1:人間編』勁草書房がこの問題を詳しく論じています)、ブロックのいうP意識(現象的意識)とA意識(アクセス意識)の区別と行動理論との論理的関係についてだけ、押さえておきたいと思います。

ブロックによると、現象的意識とは、主観的意識体験のことで、アクセス意識とは、思考や行動制御、言明による報告等に利用されている意識状態のこととされています。ブロックが1995年にBBSに発表した論文、"On a Confusion about a Function of Consciousness"の趣旨は、現象的意識という概念とアクセス意識という概念を分けて考えるようにと、脳科学者や心理学者、哲学者に警告することでした。そこで、ブロックは現象的意識とアクセス意識が明確に分離する事例(つまり、一方は保持するものの、他方はもたない事例)を指摘しようとします。で、想像上のスーパー盲視は、知覚者がアクセス意識は保持しているものの現象的意識をもたない場合の例で、何かに気を取られていて騒音が耳に入っているのに気がつかない場合などが、知覚者が現象的意識はもつているのにアクセス意識をもたない事例として挙げられています。

さて、話題をノエの行動理論に移しましょう。ノエの行動理論によりますと、ブロック的な区別ではアクセス意識に分類されると思われる知覚対象の検索的行為を知覚者が行っていることが、とりもなおさず、知覚者が対象を現象的意識体験において見ていることに他ならないわけです。したがって、行動理論が正しい場合には、ブロック流の区別は否定されます。ノエの理論によれば、知覚者がアクセス意識をもっている場合には、現象的意識をもっているし、アクセス意識を持たない場合には現象的意識ももたないとされるはずです。スーパー盲視の人は(アクセス意識を持っている以上)現象的意識をもっているだろうし、ボーッとして騒音に気がつかない人は(アクセス意識をもっていないのだから)現象的に騒音を聞いてはいないと言われることになります。

では、反対に、ブロック流の区別を否定した場合には、行動理論のような反表象主義的な知覚理論を採用せざるをえなくなるのか?これは必ずしもそうではないですね。比喩的な言い方をすると、ノエは、アクセス意識に現象的意識を埋没させるような仕方で両者の区別を解体するわけですが、現象的意識にアクセス意識を併合するような仕方で両者の区別を否定する道筋もあるからです。例えば、次の論文:

では、「現象的意識は、脳内の明示的表象の担い手と同一だ」とする理論が展開されています。より詳しくは、「すべての現象的意識は表象的であり、また、脳内にコード化されているすべての情報は意識的に体験される」(128頁)ということです。この前半はいわゆる「意識の表象理論」で、何人かの有力哲学者が支持してますが、後半は結構過激なのではないでしょうか。脳内での情報処理過程の多くは内観的にアクセス可能ではないというのが現在では常識的な見方でしょうから。この見解は、意識の担い手理論—つまり、意識体験が志向内容の担い手に他ならないとする理論—とよばれており、あからさまに表象主義的で、意識の行動理論とは全然毛並みがことなります。そうではあったとしても、オピーたちは、ノエと同様、盲視を、知覚者が現象的意識はもたないけれど対象の心的表象は形成している事例として解釈することに批判的です(130頁以下)。以上のように、ブロック流の意識の区別を受け入れないとしても、知覚に対して表象主義的なアプローチをとることもできれば、反表主義的なアプルーチをとることもできるわけです。

cogniさんは、ノエとトンプソンによるNCCリサーチ・プログラム批判論文(2004)をお読みになって、今一つピンとこなかったみたいですね。私には、ノエには非常に共感する部分と全く納得できない部分の両方があって、反表象主義やNCCの否定にはあまり馴染めません。で、私のこの論文に対する感想は、私のボス、トーマスのかなり批判的なコメント( Journal of Consciousness Studies 11: 67-72, 2004)の内容とだいたい同じです。

でも、この論文には(私のような者から見ても)結構いいなと思える点はあって、チャルマーズの NCC 論文:

の最終節(Should We Expect an NCC?)に登場するThe Content Mirror Argumentに対する批判的吟味をおこなっている箇所(ノエ・トンプソン論文19、20頁)は、短いですが、説得的に感じられました。チャルマーズのような仕方でNCCの存在可能性を擁護することにはやや無理があるということがわかっただけで、私としては、かなり満足でした。(原典にあたらなければ判読できないようなコメントの書き方をしてすいません。NCCについての議論は結構錯綜していますのであまり深入りしたくないもので。)

先に進みます。行動理論に対する批判を取り上げてみたいと思います。一つ目は、change blindness(CB)の扱いについてで、pooneilさんが2月7日のエントリーで取り上げていらっしゃいます次の論文で展開されています。

この論文は、ノエの行動理論を論証する手続きに異議を申し立てる内容を含んでいます。さて、ノエの論証を振り返ってみましょう。CBは、知覚についての正統的見方—つまり脳内に外界の詳細なパノラマ的表象が存在し、それが豊かな知覚体験の基盤となっているという見方—とは相容れないということがまず確認されます。ノエは選択肢として、正統的見方と行動理論の二つのみを考慮しています。そこで、CBにより正統的見方が否定されるので、行動理論が正しいのではないかと推定されます。最後に行動理論がCBを適切に説明できることが示され、行動理論の正しさが証明されるというわけです。

従って、ノエの論証の誤り、ないし不足を証明するためには、以下の三つのうちいずれかを示せばよいということになります。

  1. CBと正統的見方は両立可能
  2. CBと行動理論は両立不可能
  3. 正統的見方とも、行動理論とも異なるが、CBと両立する知覚理論の存在

上記のノエ批判論文は、このうちの1の可能性を検討しています。報告者の自作でかつ架空の例ですが、例えば、被験者に3枚のスライドを連続して見せたとしましょう。一枚目はおおきな神社が背景に見える都市風景の写真で、二枚目で画面いっぱいに閃光が走ったように見えるようにし、三枚目は神社がお寺に置き換わっている他は一枚目と変化がない都市風景写真です。被験者の多くが1と3の変化に気がつかないとします(CB)。脳内に詳細な表象が存在するという仮定の下でも、以下の四つの事態が生じれば、CBが起こると論文の著者たちは言います。

  1. 神社込みの風景の詳細な表象が形成されるのだが、3枚目のスライドが提示されるまでの間に消滅してしまう。
  2. 神社込みの風景の詳細な表象が形成されるのだが、その表象は、寺込みの風景の表象との照合を行うシステム(変化検出メカニズム)には送られない。
  3. 神社込みの風景の詳細な表象が形成されるのだが、その表象の書式が変化検出メカニズムに利用可能なものではない。
  4. 神社込みの風景の詳細な表象が形成され、適切な書式で表現されたものが変化検出メカニズムに送られるのだが、何らかの理由でメカニズムが作動しない。

現在までのCB研究では、これらの可能性を排除していない。従って、ノエの論証が正しいと決まったわけではない(反論終わり)。なるほど。すっかり納得してしまいました。ところで、私にとって、この論文で最も印象的だったのはCBに関するノエの論証に対する反論ではなく、著者による感情的ともいえるノエのBBS論文に対する批判です(18頁左コラム第2段落)。自然科学の雑誌論文でこういう批判がおこなわれるのは珍しいのではないでしょうか。 二つ目の反論は行動理論とミルナー、グッデイルらによるTVS理論との整合性の観点からのものです。行動理論は、dorsal経路での情報処理については考慮しているけど、ventral経路の情報処理は無視しているのではないかという疑念です。以下に論争状況についての簡潔な記述があります。

この論文に述べられていることの中で、行動理論の枠組み内で長期計画に従った行為の連鎖のメカニズムを明らかにするためには、心的表象ならざる実践的知識と行動計画という心的表象とのインターアクションを適切に説明しなければならないというのは結構重要な指摘ではないかと思います。

ノエは、2004年に Action in Perception という著書を出版しています。この本を見ると、BBS論文以降の論争を咀嚼して、ノエが自身の見解をかなり大きく軌道修正していることがわかります。まず非常に目立つものとしてCBの取り扱いがあります。著書の52頁に見られるように、ノエは、CBの現象が詳細な心的表象の存在と両立可能であることを積極的に認めるようになっています。このことはBBS論文での論証を放棄したことを示していると思います。次に、TVS理論との整合性についてなのですが、ノエは、行動理論とTVS理論との整合性にもはやこだわろうとはしなくなっていますね(19頁)。あと、 pooneilさんのご指摘の通りで、sensorimotor contingencies という用語の使用は控えて sensorimotor dependency と言うようになりました。これはトリウ゛ィアルな用語上の変化とみなすべきではないと思います。ノエは、知覚についての定義をかなり大幅に変更していて、用語の変化はこれを反映しているんだと思います。BBS論文では、見ることと知覚対象を実践的知識によって検索する行為とを同一視していたわけですが、著書では、これらが同一だとは言わなくなります。例えば次ぎのように述べています。

The basic claim of the enactive approach is that the perceiver’s ability to perceive is constituted (in part) by sensorimotor knowledge (i.e., by practical grasp of the way sensory stimulation varies as the perceiver moves) (Noë 2004: 12).

見ることは知覚者の検索行為に依拠するのだということですね。これを、次のように解釈します。

  1. 「知覚者が何かを見ているときにはいつでも、その対象の検索行為を行っている」は正。
  2. 「知覚対象の検索行為を行っているときにはいつでも、その対象を見ている」は否。

つまり、対象の検索行為をおこなっているだけでは、対象を現象的に見たことにはならないわけです。では必要なのは何か?これがちょっとまだよくわかりません。ノエは、1については懇切丁寧に説明してくれるのですが、2については多くを語らないので。常識的には、「対象を表象すること」が知覚には必要だと考えられるのだろうと思われます。

また、行動理論にとっての標的なのですが、もはやマッハ的表象主義は敵役としてのすごみを失っています。むしろ、古典的認知科学(フォーダーの1983年の本『心のモジュール形式』あたり)に見られた認知システムを入力側と出力側に分断する見方(input-output picture)、哲学ではヒューム主義と呼ばれるものが批判対象になっています。pooneilさんが2月16日のエントリーでとりあげていらっしゃいます批評論文で、批評者のCreem-Regehrはノエ自身が導入した、perception for action と perception by action の区別をとりあげています。これらのうち、前者が古典的知覚理論で、後者がヒューム主義を否定するノエの立場を特徴づけるものです。この路線変更には、ノエも認めているように、Susan Hurleyの1998年の著作Consciousness in Action、特にその最終章の影響が強いように思われます。この章は論文として発表されています。

この論文のなかでハーリーは、行動主義やギブソン的生態心理学を好意的に扱いながらも表象主義的観点から批判していたはずです。そのハーリーなのですが、dynamic sensorimotor approachをノエと共有していると最近言っています。それが正しいとするなら、ノエは何らかの表象主義を受け入れる用意があるのではないかと思われます。

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# arational agent

お久しぶりです。今日からUTCPのPDをやっています。なんと偶然にも、Noeを受け入れる側に所属することになってしまいまして、なんともはや驚いています。で、Noe来日情報をキャッチしましたので書き込みです。5月27日に来日して、6月12日まで日本にいるみたいです。セミナーを行うのは、水曜日と金曜日になりそうだと聞いています。また詳しい情報を入手しましたら、お知らせします。

# pooneil

どうもお久しぶりです。この話題、放置中ですみません。
Nöeのセミナーの件、ちょうどおとといサイトを見たら東大に来るのが5月から6月に変わってたので、まだみたいだな、と思ってたところです。なんとか参加したいと考えております。
んで、UTCP、おお、たしかにお名前がありますね。無事帰ってこられたということですね。おめでとうございます。

# Arational Agent

Alva Noeの連続セミナーの詳しい予定が明らかになったので、ご報告します。(UTCP事務局に確認を取ったところ、もう宣伝してもよいということでした。)
5月31日(水)セミナー(1) 14:40 - 16:10
(東京大学教養学部18号館4Fコラボレーションルーム1)
6月2日(金)セミナー(2) 14:40 - 16:10
       セミナー(3) 16:20 - 17:50
(18号館4Fコラボレーションルーム3)
6月7日(水)セミナー(4) 14:40 - 16:10
(18号館4Fコラボレーションルーム1)
6月9日(金)セミナー(5) 14:40 - 16:10
       セミナー(6) 16:20 - 17:50
(18号館4Fコラボレーションルーム1)
セミナーの題目についてはまだNoeの側から連絡が来ていないということです。6月2日だけ、開催場所が他の日と違うことにご注意ください。pooneilさんのご参加、期待しております。

# pooneil

どうもありがとうございます。
6/7,9のほうはちょうど研究会とぶつかっているので(自分の仕事の発表をします)残念ながら参加できませんが、6/2は参加できます。初回5/31に参加できるかどうか、検討してみます。さて、"action in perception"を読まなくては。
Windowの機種依存文字が含まれていたので(丸1とか)、そこだけコメントをいじりましたので。

# Arational Agent

ご訂正ありがとうございました。お手数かけてすいません。お会いできることを楽しみにしております。

# Arational Agent

Noe連続セミナーの題目の詳細がUTCP事務局から送られてきました。最近、私は神経倫理学日記を書き始めたのですが、そこの5月19日のエントリーに題目を掲載しました。ご確認ください。


2006年02月20日

Alva NoëとかEvan Thompsonとか。つづき。

前回のエントリの続き。そういうわけで、いろいろ読まなきゃなあ、と思いつつもなかなか進まない。

郡司 ペギオ‐幸夫氏の「原生計算と存在論的観測―生命と時間、そして原生」もぴらぴら読んでます。私にとっては、とにかく第2章(「オートポイエシス―認識論的観測から存在論的観測への萌芽」)を消化できるかどうかです。なにしろ、私はオートポイエーシスという概念から心脳問題に入ったもんで。言い換えれば、それまで素朴な意味での心脳同一説かよく言って創発説の位置にいた私は、オートポイエーシスという概念を知ったことで心脳問題に切り込める余地があると考えたのですから。ともあれ、字面だけならもうこの章までは読んだのだけれども、消化しきれてません。半分くらいはわかる。

オートポイエーシスが問題を抱えてる、という指摘はよくわかる。それはオートポイエーシスが取った視点の位置と記述/観察との相容れなさという、この概念そのものに関わっているというのも納得がいきます。「オートポイエーシス」の過去ログ説明のところでも書いたけれども、オートポイエーシスが自己組織化理論とかの影響でなにかを定式化しようとしつつそれがうまくいかない、という問題を抱えていた、というとらえ方に通底していると思うのです。河本英夫氏はそのへんの問題を回避するためにオートポイエーシスをある種の「行為論」として扱う方向に話を展開させた。……ルーマンのことは知りません。

Varela自身はといえば、そのような袋小路から神経科学の方向に舵を切って、enactionと言ったりneurophenomenologyと言ったりしてきたわけです。そしてそれをNoëやThompsonは継承しています。だからここで問題とされていることはNoëの議論ともどっかでつながってくるだろうと予想しているのです。つまり、"enaction"の概念で言われていることは認識論的観測から存在論的観測へ、というスローガンには対応してないか、「記述の地平」から「行為者を構成」への移動を目指してはいないか、と。

んで、この2章ですが、そのへんの視点の問題にかんしては明確に書かれていて素晴らしいです。「外部からの決定不能性を契機として、内部による決定、システム自身による境界決定が結論づけられる」p.36 あたりとか。わたしは、境界を決定するのは内部だけれど、その境界を観察するのは産生プロセスの循環を見渡せる外部だけだ、という理解あたりで満足していたから。やっぱクリプキとか読まないと無理か……

しかし、オートポイエーシス自体に関してだけは原著にあたってそれなりに読んできた私からしてもオートポイエーシスに関する記述はかなり飛ばしているという印象です。たとえば、あそこに書かれている記述だけで、「構造的カップリング」の概念がオートポイエティックなシステムに接ぎ木されてゆく、というような言い方を理解できるとはとても思えません(オートポイエーシスは構造的カップリングの概念がないとほとんど意味をなさないものだし…)。ということは、ほかの事項(たとえば存在論的観測というときの「存在論」とか)でもかなりすっ飛ばしているであろうことが予想されます。

でも、ここでの「存在論的観測」が消化できないとこの章(オートポイエーシスは認識論的観測から存在論的観測へ向かおうとする萌芽は見られたが、けっきょくは認識論的観測でしかありえない)を読めたことにならないと思ってるのです。ま、第3章までを繰り返し読んでゆく予定です。

まだつづきます。じぶんでもびっくり。


2006年02月16日

Alva NoëとかEvan Thompsonとか。

arational agentさん、寄稿どうもありがとうございます。ぼちぼち読んでなにか応答できればと思っております。つづきの部分に関しても期待しておりますが、プレッシャーかけるつもりはございませんので、もし気が向いたら、というくらいのつもりで寄稿していただければ幸いです。

具体的な事例から話をするのが良かろうと思いますので、BBS論文のblindsightに関する項目あたりまとめてみようかな、と思ったのですが、この部分はNed BlockのBBSで想定されたsuper-blindsightに対する議論に終始していてあまりおもしろくありませんでした。ともあれ、どっかとっかかりを見つけようと考えております。(「かれらの論文への批判は機能主義に対する批判ですべて済んでしまうのではないか」とかそういうことも言ってみたいけど、私の手には余るんで、そっち方面はよろしくお願いします。)

cogniさんのところで言及がありました。Alva Noëの Action in Perceptionに関しては、draftでwebで公開されているときからチェックしていて、昨年のSFNで購入してからすこしずつ読んでいるところなのですが、まだはじめの方です(いま、自分のサイトを検索したら、まったく言及がなかったことを発見しました)。Richard Gregoryのnatureでのレビューはたしかそんなに好意的な採りあげ方をしてなかったような記憶があります。記述はBBSでのFilling-inに関する論文についてだったりして、ちゃんと読んだかも怪しいかんじがします。ま、この本はVarelaからの系統で反表象主義的ですし、そんなもんでしょう。Trends in Cognitive Sciences '05のレビューのほうがしっかり内容の説明をしている様子で好感を持ちました。

Evan Thompsonの方の話はenactionというよりはneurophenomenologyに関する話のようですね。Lutz et al(PNAS '02)に関してはPNAS '04ととも以前のエントリ20041203言及したことがあるのですが、あれがneurophenomenologyなら、げんざいの人での研究で行われていることとあまり違いがないなあ、と思ってます。Recognition memory testでfamiliarityを感じたか、recollectionを感じたかを報告させて解析する、なんてのでも同じことが必要で、あとはどのくらい被験者がその現象的な側面を分析できるか、程度の問題のように思います。

とはいえ、このことは軽視すべきことではないとは思っています。実際問題、familiarityかrecollectionかの報告がどのくらい信用に足るのか、というあたりがPhil. Trans. Roy. Soc.のepisodic memory特集のときに問題になっていたはずです。また、たとえばさまざまな脳損傷の患者さん(半側空間無視や病態失認や盲視)にさまざまな心理テストが行われて論文が出てきているのだけれども、そこでどのくらいその患者さんの現象的報告を活用できているか、という考え自体は重要だと思います。

たとえば盲視の患者さんは、awarenessの報告はないけれども弁別が出来るだけではなく、awarenessがあると報告するのだけれども弁別が出来ていない、ということが起こるらしいです。(Zekiはこの二つの現象を併せて、Riddoch syndromeと呼んでいます。) このことからすると、この患者さんのawarenessの報告はずいぶんと違った性質および構造(という言葉を使ってよいものやら)を持っていると言えそうなわけです。もっとも、科学に組み込まれた現象学ってありえるのか(現象学をnaturalizeするという問題)未だによくわかってないのでこれ以上言えないのですが。

といいつつ、現象学をnaturalizeするという問題については以前に調べたことがあるのでメモ。"Naturalizing Phenomenology"にはThompson,Noë,PessoaのFilling-inのBBS論文が再録されていて、Varelaの"The Specious Present"も入ってます。日本では、野家伸也氏がこのへんの問題を扱っています(「思想」の「認知論的転回 ―認知科学における現象学的思惟―」、オンラインで行けるのは、要旨だけだけど"ヴァレラの「自然化された現象学」をめぐって""「現象学の自然化」とメルロ=ポンティ"など)。

つれづれと。まだすこし次回につづきます。

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# arational agent

pooneilさん、cogniさん応答ありがとうございます。こちらは記事書き楽しみながら、気楽にやっていますので、ご安心下さい。注文していたNoëの新著(Action in Perception)が最近手元に届いたので読み始めたところです。で、2001年のBBS論文では論証の過程で重要な役割を担っていたchange blindness、inattentional blindnessの扱いを確認してみたら、これがまるで別物になっている!かなり驚いています。はみ出たしっぽは自分で切ってしまったということなのでしょうか。

# pooneil

Indexを見た限りですと、BBSでの"sensorimotor contingency"も"sensorimotor dependency"になっているようですし、いろいろupdateさせているんでしょうね。まあ、こちらのほうもぼちぼち進めてゆきますので。


2006年02月10日

Noë の知覚理論

060111 のエントリにも登場されたarational agentさんからAlva Noë の知覚理論に関する記事を投稿していただきました。どうもありがとうございます。それでは以下に投稿記事を掲載します。というわけで今日はarational agentさんによるゲストブログです。ここから:


Noë の知覚理論

知覚や意識の哲学の分野でインパクトのある仕事を最近連発している研究者として、Alva Noëがいます。Noëは哲学者としては珍しく共同研究を好む人なのですが、今回は、彼が Kevin O’Regan と行った研究を取り上げます。文献としては以下のものがあります。

知覚や意識については数多くの伝統的哲学理論が存在します。現在の分析哲学で行われている意識についての議論に特徴的なのは、分析対象が意識現象そのものであることまれだということです。このことは、哲学的手法で意識現象を説明できると考えている人はあまりいないということを反映していると思います。分析されるのは、主に意識現象とそれを説明する科学理論との関係です。で、現在の議論の軸になっているのが、意識を現在手持ちの自然科学的手法や理論装置で説明できる見込みがあるかというメタ的なテーマです。例えば、ハード・プロブレムや説明のギャップに関する議論は科学的手法による意識の説明可能性の評価に関わっています。また、意識研究のリサーチ・プログラムを提案し、そのプログラムの意義を検討するというタイプの仕事も見られます。この手の議論では、まず意識とは本質的に何であるかについて暫定的な定義が大まかに提起され、その定義と意識について現在わかっていることとの整合性が検討されます。Noë & O’Reganの議論は後者にあたります。

さて、現象的に見ることとは何かという問いに対する答えとしてありがちなのは、表象することだというものです。例えば、赤いリンゴの現象的な知覚像が目の前に立ち現れたときに、その像は外界にある赤いリンゴを表象しているというわけです。トンプソンと共同で編集した上記の論文集の序文で、ノエ(以下で「ノエ」と呼ばれるのは、ノエと共同研究者たちの略号とお考え下さい)は、このような定義を正統的見方と呼んでいます。対照的に、ノエは見ることとは、何かすることなのだという見方を提示します(以下で、行動理論と呼びます)。ちょっと引用すると、

Seeing is an exploratory activity mediated by the animal’s mastery of sensorimotor contingencies. Tha is, seeing is a skill-based activity of environmental explanation. Visual experience is not something that happens in indivisuals. It is something they do (Noë & O’Regan. 2002: 567).

で、ノエは、センサーで目標物を追尾するロケットの例やポルシェの運転などの事例に基づいて、意識現象について比喩的な説明をおこなっています。ところで人の行為には多くの種類があります。ノエによると、見ることに本質的なのは sensorimotor contingencies についての実践的知識を持つことによって可能となっていることです。つまり、感覚情報と運動情報を神経中枢で適切に組み合わせることで、感覚的に把握された状況に応じて適切な運動を行いうる動物は、知覚的意識をもつことができ、また現にそのような振る舞いを行っているとき、動物は知覚体験を持っているということです。その上で、環境内での活動そのものを意識体験と同一視します。

さて、二つほど注釈です。ノエは、感覚情報と運動情報を統合することで知覚体験のどのような性質がどのように規定されるのか、細かくは議論していません。ですから、行動理論は、意識体験の生成について具体的な説明とはなっていません。知覚体験の空間的内容について、ノエと類似した観点から、より具体的な立論をおこなっているものとして、以下があります。

次に、知覚体験を環境の検索活動と同一する理論に対する強力な反例として、夢の存在があります。夢は現象的な意識体験だと思われますが、夢を見る人は環境の検索活動などは行っていません。この点、2001年BBS論文に対するコメントで、Revonsuoが指摘しています。夢は、意識をバーチャル・リアリティーに例える別タイプのリサーチ・プログラムで、典型的な意識現象の例として取り上げられるものです。例えば、以下をご覧下さい。

  • Revonsuo, A. 1995. Consciousness, dreams, and virtual realities. Philosophical Psychology 8: 35-58.

さて、行動理論の説得力は、どんなものでしょうか?私にはいま一つピンと来ないという感じです。というのも、センサー付きロケットが巧みに目標物を追尾していたとしても、そのロケットが現象的な知覚的気づきや意識をもっているという感じはしないですから。

そこで、ノエは、彼のいう知覚の正統的見方では扱いにくいいくつかの意識現象を取り上げて、行動理論のほうがそれらをうまく処理できることを示そうとします。特に重要なのは、change blindness (CB)の扱いです。

知覚の正統的見方について説明しましょう。ノエが念頭に置いているのは、知覚の表象理論のうちのマッハ的描像のことです。マッハの『感覚の分析』の冒頭に、寝転がっている人が部屋を眺めたときの知覚像の図解が載っています。これによると、知覚者は外界に対する詳細な知覚表象を頭の中に持っているということになります。正統派によると、豊な知覚体験に対応する詳細な知覚表象を形成することが見ることであるということになります。最近では、ピリジンはこのような見解を表明しています。

The phenomenology of visual perception might suggest that the visual system provides us with a rich panorama of meaningful objects, along with many of their properties such as their color, shape, relative location, and perhaps even their “affordance.“ (Pylyshyn, Z., 1999. BBS 22: 362)

続けて、CBについてご説明しましょう。極めて衝撃的な例として、Simon & Chabris が1999年の論文で発表した実験があります。ただ、この実験は、ノエが来日時に見せてくれる可能性があるので説明しないことにします。ノエがBBSの論文で紹介している例(954頁)では、フライト・シュミレータで着陸の訓練をしている被験者に、滑走路上に他の飛行機が侵入する像を提示した場合、8例中2例で、被験者が侵入する飛行機に気づかなかったというものがあります。目を向けているはずのシーンでおこる大規模な変化に対して、ある種の条件下では、知覚者が全く気がつかないというのがCBのポイントです。

CBは確かに正統的知覚論と両立しにくいと思われます。もしも外界を見ているときにシーンの詳細な知覚的表象が脳内に形成されているのならば、外界に大きな変化が生じたときに、知覚者がそれに気づかないというのはもっともらしくないからです。それに対して、行動理論では、外界はそれ自身の外部に存在するモデルであり、知覚者は、自身が保持している実践的知識に基づいて、注意を向けている外界の部分についての情報をピックアップすることができると想定されています。従って、変化が起こっている箇所に、知覚者が何らかの理由によって注意を向けることができない場合、CBが起こりうると容易に想像できます。

知覚の行動理論は、意識研究のリサーチ・プログラムとしていくつかの重大な帰結を持ちます。一つ目は、説明のギャップは存在しないということです。運動理論によれば、赤いトマトの赤という性質は、知覚者による赤の検索活動そのものと同一なわけですから、自然科学的理論によって説明困難な特殊な性質であるわけではないというわけです。次に、ノエは、NCCを探すという現在主流の神経科学的意識研究のスタイルは誤りだと主張しています。これは、現象的意識体験とcorrelateすると想定されている神経的表象のようなものは実は脳内には存在しないとする意識の行動理論からの帰結です。この論点は、以下の論文でさらに追求されています。

ノエはまた、binding問題は疑似問題だと考えています。これは、豊かな知覚体験を説明するためには、それに対応する詳細な心的表象の存在を脳内に仮定する必要はないとノエが考えているからです。

最後に、行動理論と、Milner & Goodaleらによる「二つの視覚システム」理論(TVS理論)との整合性について、ノエの見解を確認したいと思います。ノエは全体としてはTVS理論は、行動理論と不整合ではないと考えているようです。それは、TVS理論が(特にdorsal経路に関して)知覚的気づきと知覚者の振る舞いとの強い結びつきを示唆しているからということ、それから統合的パノラマ表象が脳内に存在することを否定していると解釈可能だからです。ただし、ノエは、Milner & GoodaleによるDFさんの症状の解釈に関しては異議を唱えています。DFさんは視覚的に振る舞いをコントロールする能力の多くを保持しているのだから、視覚的気づきを持っていると見なしてよいのではないかというのがノエの言い分です。

まとめです。行動理論の正否とは中立的な論点として結構重要と思うのは、CBの存在が、外界の詳細な表象が脳内に形成されているという想定とは両立しづらいという指摘です。(この想定に対する批判は、1998年のfilling-inに関するBBS論文から継続しています。)

CBを説明するためには、ノエが言うように、外界をそれ自身のモデルとして使用するという発想は重要だと思われますし、知覚における注意の役割をより積極的に評価する必要があるというのも納得できます。行動理論の正否と相関する論点として、もしも行動理論が正しい場合には、現代の意識研究の動向ー意識全体がどのように統合されるのかとか、ハード・プロブレムが解決可能かどうかは個別の問題として登録しておいて、まずは現象的意識の要素的性質それぞれのNCCを発見するべくつとめるというものーが誤って方向づけられていると結論づけられるという指摘があります。これらは、少なくとも報告者にとって、見逃せない論点です。


2006年01月11日

Rational agency、それからMilner and Goodale

2004年01月08日のエントリにマインツ大学哲学科の方からコメントが。というわけで目立つように最新のページにも貼り付けておきます。

arational agentさん:

pooneilさん、新年あけましておめでとうございます。初めてご挨拶申し上げます。私、マインツ大学哲学科にrational agencyを主題とする博士論文を年明けに提出いたしました。その執筆の過程でpooneilさんのサイトを日々読み、おおいに助けられました。大変感謝しております。この夢に関する議論やMilner&Goodaleのtwo visual systemsに関して、pooneilさんのご高論を参考にさせて頂きましたので、お名前(「pooneil」さんではなくご本名)を注で挙げてしまいましたが、ご了承頂けないでしょうか。(提出するまで、論文を提出できるかどうか確信が持てなかったため、ご連絡するかどうか躊躇しておりました。)事後承諾をお願いすることになってしまったこと、ご容赦下さいますようひらにお願い申し上げます。pooneilさんのサイトからの助けがなければ、博論をいまだ完成できなかったと思います。誠にどうもありがとうございました。

わたし

はじめまして。Rational agencyで哲学科に博士論文で、Milner and Goodaleも関わってくる、とはおもしろそうな話ではないですか。Rational agencyじたいはAIの分野での議論ですよね。どんなストーリーなのだか興味があるので、紹介してもらえませんか。たぶん、論文自体はドイツ語ですよね。直メールででも、コメント欄への書き込みでもけっこうですので、解説していただけるようでしたら、このサイトで紹介させていただきたいと思います。
承諾の方はなにも問題ございません。事実と反していないかどうかは確認しておいた方がよいかもしれませんが。
ご存じのとおり、Milner and Goodaleの議論は心の哲学ではいろいろな人に採りあげられている話題だと思います(すぐ思いつくところでAndy ClarkAlva Noë)。このへんの話をすることが出来たら、とてもうれしいです。
あと、ここだと目立たないので、現在のトップページにもこのコメントを貼り付けておきました。
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# arational agent

pooneilさん、注の件ご快諾下さいましてありがとうございます。注の内容についてお知らせしたいと思いますので、メールアドレスをお教え下さいませんでしょうか。履歴のページを開いても見つけられませんでした。博論の要約を日本語で作成してありますので、添付してお送りいたしたいと思います。 論文は英語で書きました。下手なんですけどね。Alva Noë といえば、2年半ほど前に、私のボス(Thomas Metzinger)が主催する研究会に招待されて、マインツで sensorimotor account of visual consciousness についてのセミナーを行っています。私が知覚の哲学に興味をもったのもそのセミナーの影響です。(その研究会で、生まれて初めて英語で講演をしてみたんですけど、なんというべきか、惨憺たる結果に終わりました。あまりの不出来さに Noë さんは呆然としていましたし。)で、論文中でも Noë の知覚論を Milner & Goodale がらみであつかっています。では、よろしくお願いします。

# pooneil

おお! Thomas Metzingerといえば"Neural Correlates of Consciousness: Empirical and Conceptual Questions"の編者ではないですか。わたしこの本持ってますよ。というわけでバリバリphilosophy of mindではないですか。
ASSCは参加されますか? わたしは今回は無理ですが、次回ぐらいにはデータを持って行けるのではないか、という状態です。。
Alva Noëは5月に東大にしばらく滞在するらしいので(http://ist-socrates.berkeley.edu/~noe/presentations.html)、話聞きに行きたいなあと思ってます。東京が心理的に遠く感じていたのだけれど、ドイツ、とか聞くとなんか東京がすごく近く感じてきました。
アドレスはメールしました。Spam避けにアドレスを記載しなくなったのを失念しておりました。

# arational agent

メール届きました。ありがとうございます。そうか、Noë さん日本に来るんですか。日本に帰って講演聞いてみたいですね。Noë さんは話がうまいですし、サーヴィス精神旺盛で、レクチャーを聞いていて楽しかったですから。ASSCは、Thomas に参加するようたびたびすすめられているのですが、私にはどうも敷居がやや高く思われて近年出席していません。ただ、今回は行為論に関して新ネタをもっているので、発表に応募するかもしれません。


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