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■ Noë の知覚理論

060111 のエントリにも登場されたarational agentさんからAlva Noë の知覚理論に関する記事を投稿していただきました。どうもありがとうございます。それでは以下に投稿記事を掲載します。というわけで今日はarational agentさんによるゲストブログです。ここから:


Noë の知覚理論

知覚や意識の哲学の分野でインパクトのある仕事を最近連発している研究者として、Alva Noëがいます。Noëは哲学者としては珍しく共同研究を好む人なのですが、今回は、彼が Kevin O’Regan と行った研究を取り上げます。文献としては以下のものがあります。

知覚や意識については数多くの伝統的哲学理論が存在します。現在の分析哲学で行われている意識についての議論に特徴的なのは、分析対象が意識現象そのものであることまれだということです。このことは、哲学的手法で意識現象を説明できると考えている人はあまりいないということを反映していると思います。分析されるのは、主に意識現象とそれを説明する科学理論との関係です。で、現在の議論の軸になっているのが、意識を現在手持ちの自然科学的手法や理論装置で説明できる見込みがあるかというメタ的なテーマです。例えば、ハード・プロブレムや説明のギャップに関する議論は科学的手法による意識の説明可能性の評価に関わっています。また、意識研究のリサーチ・プログラムを提案し、そのプログラムの意義を検討するというタイプの仕事も見られます。この手の議論では、まず意識とは本質的に何であるかについて暫定的な定義が大まかに提起され、その定義と意識について現在わかっていることとの整合性が検討されます。Noë & O’Reganの議論は後者にあたります。

さて、現象的に見ることとは何かという問いに対する答えとしてありがちなのは、表象することだというものです。例えば、赤いリンゴの現象的な知覚像が目の前に立ち現れたときに、その像は外界にある赤いリンゴを表象しているというわけです。トンプソンと共同で編集した上記の論文集の序文で、ノエ(以下で「ノエ」と呼ばれるのは、ノエと共同研究者たちの略号とお考え下さい)は、このような定義を正統的見方と呼んでいます。対照的に、ノエは見ることとは、何かすることなのだという見方を提示します(以下で、行動理論と呼びます)。ちょっと引用すると、

Seeing is an exploratory activity mediated by the animal’s mastery of sensorimotor contingencies. Tha is, seeing is a skill-based activity of environmental explanation. Visual experience is not something that happens in indivisuals. It is something they do (Noë & O’Regan. 2002: 567).

で、ノエは、センサーで目標物を追尾するロケットの例やポルシェの運転などの事例に基づいて、意識現象について比喩的な説明をおこなっています。ところで人の行為には多くの種類があります。ノエによると、見ることに本質的なのは sensorimotor contingencies についての実践的知識を持つことによって可能となっていることです。つまり、感覚情報と運動情報を神経中枢で適切に組み合わせることで、感覚的に把握された状況に応じて適切な運動を行いうる動物は、知覚的意識をもつことができ、また現にそのような振る舞いを行っているとき、動物は知覚体験を持っているということです。その上で、環境内での活動そのものを意識体験と同一視します。

さて、二つほど注釈です。ノエは、感覚情報と運動情報を統合することで知覚体験のどのような性質がどのように規定されるのか、細かくは議論していません。ですから、行動理論は、意識体験の生成について具体的な説明とはなっていません。知覚体験の空間的内容について、ノエと類似した観点から、より具体的な立論をおこなっているものとして、以下があります。

次に、知覚体験を環境の検索活動と同一する理論に対する強力な反例として、夢の存在があります。夢は現象的な意識体験だと思われますが、夢を見る人は環境の検索活動などは行っていません。この点、2001年BBS論文に対するコメントで、Revonsuoが指摘しています。夢は、意識をバーチャル・リアリティーに例える別タイプのリサーチ・プログラムで、典型的な意識現象の例として取り上げられるものです。例えば、以下をご覧下さい。

  • Revonsuo, A. 1995. Consciousness, dreams, and virtual realities. Philosophical Psychology 8: 35-58.

さて、行動理論の説得力は、どんなものでしょうか?私にはいま一つピンと来ないという感じです。というのも、センサー付きロケットが巧みに目標物を追尾していたとしても、そのロケットが現象的な知覚的気づきや意識をもっているという感じはしないですから。

そこで、ノエは、彼のいう知覚の正統的見方では扱いにくいいくつかの意識現象を取り上げて、行動理論のほうがそれらをうまく処理できることを示そうとします。特に重要なのは、change blindness (CB)の扱いです。

知覚の正統的見方について説明しましょう。ノエが念頭に置いているのは、知覚の表象理論のうちのマッハ的描像のことです。マッハの『感覚の分析』の冒頭に、寝転がっている人が部屋を眺めたときの知覚像の図解が載っています。これによると、知覚者は外界に対する詳細な知覚表象を頭の中に持っているということになります。正統派によると、豊な知覚体験に対応する詳細な知覚表象を形成することが見ることであるということになります。最近では、ピリジンはこのような見解を表明しています。

The phenomenology of visual perception might suggest that the visual system provides us with a rich panorama of meaningful objects, along with many of their properties such as their color, shape, relative location, and perhaps even their “affordance.“ (Pylyshyn, Z., 1999. BBS 22: 362)

続けて、CBについてご説明しましょう。極めて衝撃的な例として、Simon & Chabris が1999年の論文で発表した実験があります。ただ、この実験は、ノエが来日時に見せてくれる可能性があるので説明しないことにします。ノエがBBSの論文で紹介している例(954頁)では、フライト・シュミレータで着陸の訓練をしている被験者に、滑走路上に他の飛行機が侵入する像を提示した場合、8例中2例で、被験者が侵入する飛行機に気づかなかったというものがあります。目を向けているはずのシーンでおこる大規模な変化に対して、ある種の条件下では、知覚者が全く気がつかないというのがCBのポイントです。

CBは確かに正統的知覚論と両立しにくいと思われます。もしも外界を見ているときにシーンの詳細な知覚的表象が脳内に形成されているのならば、外界に大きな変化が生じたときに、知覚者がそれに気づかないというのはもっともらしくないからです。それに対して、行動理論では、外界はそれ自身の外部に存在するモデルであり、知覚者は、自身が保持している実践的知識に基づいて、注意を向けている外界の部分についての情報をピックアップすることができると想定されています。従って、変化が起こっている箇所に、知覚者が何らかの理由によって注意を向けることができない場合、CBが起こりうると容易に想像できます。

知覚の行動理論は、意識研究のリサーチ・プログラムとしていくつかの重大な帰結を持ちます。一つ目は、説明のギャップは存在しないということです。運動理論によれば、赤いトマトの赤という性質は、知覚者による赤の検索活動そのものと同一なわけですから、自然科学的理論によって説明困難な特殊な性質であるわけではないというわけです。次に、ノエは、NCCを探すという現在主流の神経科学的意識研究のスタイルは誤りだと主張しています。これは、現象的意識体験とcorrelateすると想定されている神経的表象のようなものは実は脳内には存在しないとする意識の行動理論からの帰結です。この論点は、以下の論文でさらに追求されています。

ノエはまた、binding問題は疑似問題だと考えています。これは、豊かな知覚体験を説明するためには、それに対応する詳細な心的表象の存在を脳内に仮定する必要はないとノエが考えているからです。

最後に、行動理論と、Milner & Goodaleらによる「二つの視覚システム」理論(TVS理論)との整合性について、ノエの見解を確認したいと思います。ノエは全体としてはTVS理論は、行動理論と不整合ではないと考えているようです。それは、TVS理論が(特にdorsal経路に関して)知覚的気づきと知覚者の振る舞いとの強い結びつきを示唆しているからということ、それから統合的パノラマ表象が脳内に存在することを否定していると解釈可能だからです。ただし、ノエは、Milner & GoodaleによるDFさんの症状の解釈に関しては異議を唱えています。DFさんは視覚的に振る舞いをコントロールする能力の多くを保持しているのだから、視覚的気づきを持っていると見なしてよいのではないかというのがノエの言い分です。

まとめです。行動理論の正否とは中立的な論点として結構重要と思うのは、CBの存在が、外界の詳細な表象が脳内に形成されているという想定とは両立しづらいという指摘です。(この想定に対する批判は、1998年のfilling-inに関するBBS論文から継続しています。)

CBを説明するためには、ノエが言うように、外界をそれ自身のモデルとして使用するという発想は重要だと思われますし、知覚における注意の役割をより積極的に評価する必要があるというのも納得できます。行動理論の正否と相関する論点として、もしも行動理論が正しい場合には、現代の意識研究の動向ー意識全体がどのように統合されるのかとか、ハード・プロブレムが解決可能かどうかは個別の問題として登録しておいて、まずは現象的意識の要素的性質それぞれのNCCを発見するべくつとめるというものーが誤って方向づけられていると結論づけられるという指摘があります。これらは、少なくとも報告者にとって、見逃せない論点です。


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