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■ 「お話としての説明」と「科学としての説明」という対比

Per BakのPNAS1995 Complexity, contingency, and criticalityの初めのほうを読んでた。History vs Scienceという対比があってなるほどと思った。

History(=進化とかそういった一回性の現象)にはnarrative accountつまり物語的なイベントの連鎖としての説明が行われる。ここでは砂山モデルで戯画的に説明されているが、砂山のシミュレーションで大きな雪崩が起きるとき、それはnarrative accountでは、「いくつかの悪い偶然が重なって予想外に大きい雪崩が起きた」といった説明がされる。

しかし物理学的説明からすれば「それはSOCであって、そのような大きな雪崩はpower lawからすればなにか特別なところがあるわけではない」ということになる。(因果的な説明ではなくて、統計的な描写でしかないところに注意)

ここでもhindsight (後付け)という表現が使われているが、けっきょくブラックスワンの特徴として挙げられる「あとから後付けでいくらでも説明できてしまう」という部分はたとえ科学的な言葉を使った説明だったとしてもnarrative accountでしかないのだということが分かる。

おそらく認知神経科学のほとんどの部分はそういったnarrative accountでしかないのだろう。たとえば脳のある部分が損傷したから、XXの処理が出来なくて、その結果YYの課題の成績が低下する。しかし様々な要因(脳内及び行動面での代償とか)があって予想通りとはならない。

だから、論理の連鎖をあんま長く続けることは避けた方がよい。もしくは関係ありそうなパラメータを全部突っ込んでシステムバイオロジー的に行うか。

前者の方策は問題をなるたけ細分化するかまたは禁欲的に操作的に行うという方策。たぶん行動分析というのもなるたけ説明変数を減らそうという方策で前者の範疇に入るのだろう。前者はどこか「禁欲的」な側面を持つ。


意識とかエピソード記憶といった一回性の事象を科学的に説明するというときに、事象の方だけじゃなくて、説明の方にもnarrative accountと物理的説明という、違ったものがあることを考えることは重要だ。narrative accountに頼らないのなら、脳と身体と環境との物理的因果の動力学を描写することこそが一回性の事象の説明となる。


あともうひとつ面白いと思ったのは、恐竜の絶滅も様々なスケールの絶滅がある中で考えれば確率的に起こりうるものだという話で、なるほど、なんだかものすごく特別なイベントのように思えたけど、これもpower lawでいいじゃん(本文中ではこういう書き方はしてないが)とけっこう得心した。


まあこうやって、揺れながら、人混みをうまくすり抜けるつもりで左右に揺れ動きながら、かえって人にぶつかってしまって遅くなるような(じっさいよくあるんだこれが)、無駄な動きをたくさんするのがどうやら私の行動原理らしくて、たぶんなんかメタなパラメータを最適化しているつもりなんだろう。


sandpile modelをmatlabで書いてみたくなったが、禁欲してコードを探すところまでにしておく。


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