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■ 研究集会感想からアクティブな知覚へ

生理研国際研究集会のアンケートを今受付中です。参加された方でまだの方はworkshop surveyまでどうぞ。遅ればせながら神経科学者SNSにもトピックを作っておきました。

Webでの反響を探していたのですが、あまりありませんでしたね。わたしの方で把握しているのは以下の方たちです。どうもありがとうございます。もしほかになにか書かれた方はお知らせいただけるとありがたいです。

言及されている部分になんらか応答してみたいと思います。藤井さんもVikingさんも岡崎のworkshopのほうには参加されていないので、神経科学大会のシンポジウムの方を見ての感想だと思いますけど、実のところ、あんまり異論はありません。

私自身は視覚に絞るの自体は悪くないと思っていて、神経科学大会でのillusionのシンポジウムは視覚に集中することでこういうことができるよ、と研究プログラムを呈示するという意義を果たしたと思います。

これはもともとクリックとコッホの"astounishing hypothesis"にもあったように、視覚の研究系が基本的な構造・機能に関する知見がいちばん進んでいるので、そこをもとに進めてゆくということが研究プログラムとしていちばん向いているであろうということです。

(以前も書きましたが、海馬での記憶研究がその前にどういう知覚情報を保持しているのかということをすっ飛ばして海馬のplace cellもしくはせいぜいその周辺でのhead direction cellまでの話だけで閉じているというのはどうにも変だと思ってます。そういうわけで、昨今の匂い知覚の処理を使った仕事などは正しい方向へ行っているのではないかと思うのです。)

ただし、受動的な知覚研究に閉じてしまうのはよくないと思っていて、どうしたら知覚から行動までとつなげた研究になるだろうか、というのがあのシンポジウムで私が質問したことでした。もう少し具体的な質問に出来たら良かったのだけれど。(この部分は以下で膨らませます。)

藤井さんがブログで書いていることもそれとけっこう近くて、視覚オタク云々のところよりも大事なのは、「意識研究っていうなら、やっぱり視覚も身体の一部として統合しないとダメだろ。」ってところで、ここは私と問題意識が一致してます。

ただし、このふたつの問題(視覚オタク、受動的)は独立ではなくて、視覚研究は視覚入力に対してその表象がどのようにできているか、といった受動的な側面の解析に終始しがちです。その意味では、Olaf Blankeのやつとか触覚の仕事はよりアクティブな働きかけを重視していると思うので、そういう研究も紹介できたらなおよいとは思いました。

さてここからはわたしの持論をずらっと書くんですが、意外と今まで考えてきたことを総動員したものとなりましたので長いです。よければおつきあいください。

これまでもわたしはこのブログでAlva Noeのsensorimotor contingencyとかそのへんの話をしてきましたけど(関連スレッド)、知覚というものは受動的なものではなくて、環境との働きかけによって成立するだろうという作業仮説を持った上で、受動的にできる表象の議論だけしていたら足りないのであって、そのような情報をどうやって行動に利用するか、というところまで考える必要があるのではないか、というのがわたしの問題意識です。

たとえば、Milner and Goddaleの仕事(関連スレッド)に出てくるvisual agnosiaの患者DFさんはスリットの角度を報告することは出来ないけれども、そのスリットにカードを差し込むことが出来るわけです。つまり、どういう行動で視覚情報を報告するか(=どのように環境に働きかけるか)によって、使える情報は違っているわけです。しかも、どうやら患者がどのように感じているか自体はventral pathway側の情報が使われているらしいので、行動に使える情報と意識的にアクセスできる情報とは食い違っているということも起こります。

(この意味において、sensorimotor contingency理論は正しくないというかもしれないけど、sensorimotor contingencyの成立が進化的発達的にも先立ち、それによってventral pathwayを使うようなある意味受動的な心表象が成り立つ、というふうに考えればよいと思います。これがわたしが意識の「内部モデル」理論として考えていることです(関連エントリ)。つまり、内部モデルの生成は必須だけれども、普段は内部モデルの学習は済んでいて、フィードフォワードでやっていけるのです。内部モデル自体が意識に関わっているという話ではなくて、内部モデルの学習には意識的かつdeliberateな行動が必要となる、と考えているわけです。(これがわたしのJNS論文のタイトルにdeliberateが入っている理由なのだけれど、そのへんの議論は飛躍がありすぎるのでけっきょく消えました。) ちなみに小脳の内部モデルが心的表象にも関わっているというのはControl of mental activities by internal models in the cerebellumがありますが、わたしはparietalの方のことをイメージしてます。)

この話は脳内にある情報をどう読み出すか(read-outするか)という問題でもあります。その意味では順天堂の宇賀さんがDeAngelisのところに行ったときから続けているread-outの仕事は興味深いのだけれど、それはいつも「ニューロンがchoice probabilityの情報を持っている」といったようなある種の表象としての話になります。なんかもっとほかのアプローチがあるのではないかと思うのです。(とお会いするたびいつも絡む。)

以前のエントリ「MarrのVisionの最初と最後だけを読む 」でわたしが注目したのは例のマー流の三段階論というのは、representationの問題とprocessの問題というふたつのパラレルな問題設定があるという点でした。多層ニューラルネットワークの中間層には明示的なrepresentationは必ずしも出来ないのと同様に、実際の脳でもそういう中間表現みたいな活動がたくさん見つかります。MTやITのように外界の情報をまんま写しとっているようなrepresentationをしているニューロンはどちらかというと例外的なものなんだけど、うまいことやるとそういうのが見つかる。(そういうものをうまく見つけるということがシステム神経科学でのneural correlate of XXXを見つけるための奥義だったりする。) これはつまり、representationそのもののようなニューロンとprocessを表しているようなニューロンがあると便宜的に(個々のニューロンがそんなこと知ったこっちゃないのであくまでも便宜的に)言えるんではないか、というのがそのとき考えたことでした。そのエントリでは、

以前のLogothetisの話のときにもありましたけど、ニューロンのデータから両眼視野闘争の知覚のcontent(=representation)と選択の過程(process)との神経メカニズムがあるのかもしれない、なんて話と繋げられるかもしれません。

なんて書きました。ここで言及していたのは、以前のbinocular rivalryについてのまとめ「Binocular rivalryおよびgeneralized flash suppression その2」で書いていたことです。つまり、binocular rivalryでは、ITでbinocular rivalryに関連するニューロンはほとんどが、見えたときにだけ活動し、見えないときには活動しない。いっぽうで、V4のようなもっと中間的な表現をするところでは、見えたときにだけ活動するニューロンもあるけど、見えたときにだけinhibitionがかかるニューロンもある、という記述がありました。これをもってV4とかは二つの競合する入力のselectionのprocessに関わっているのであって、selectionの結果(=representation)はITにある、というような議論がPNASなどでは行われていたわけです。

さてさて、話がとっちゃらかっちゃいましたが(いつもどおり)、そういうわけで、デコーディング(=read-out =読み取り可能な情報の最大量)だけでは足りない。「Processとしての神経活動」を扱いたい。そのためには、ニューロンの活動を複数記録した上で、そのダイナミクスをモデル化した上で、どういう知覚情報が入力し、表現され、使われて環境に働きかけて、その環境変化が知覚情報に影響を及ぼすというループを予想可能なものとして記述して、そのモデルの正しさを制御可能性によって検証すればよい、ということになります。これがわたしがBMI的アプローチが応用のために方向性というよりは、現在のシステム神経科学のアプローチの壁を破ってもっと拡張していくために必須なものであるという理由です…っていつのまにかなんかのプロポーザル書いてるみたいになっちゃったんですけど。

「そのダイナミクスをモデル化した上で」なんて簡単に書きましたけど、これをどのレベルでやるかというあたりが重要だと思います。1個のニューロンの発火レベルでの議論だと、例の海馬ニューロンのカオスの制御の話というのがありますが、このレベル(力学的モデルによるアプローチ)で脳内ネットワークを記述しようとしたらずいぶん先の話になるでしょうね。ですのでわたしは、ってちょっとここでする話題ではないな。コメントアウト。また議論しましょう。

えーと、なんでしたっけ、話を戻しますと(Milner and Goodaleの話まで戻る)、わたしのやっているblindsightの仕事というのはこの問題に直結していて、普通だったら「ある刺激のdetection (有るか無いかの報告)」と「その位置のdiscrimination (上にあるか下にあるかの弁別)」は乖離し得ないのに、それがblindsightだと乖離する。これはMilner and Goodaleが見たものと関連しつつもっとawarenessまでギリギリ近づいているものだと思うのです、なんて話をこのあいだの東北大電気通信研究所に行ったときに議論しました。いまできる範囲でアクティブな視覚についてアプローチしているんだけど、つぎどっちへ行こうかみたいなことをずっと考えてて、いろいろネタ出ししているところです。

あと、藤井さんが書いておられた

結果はヒストグラムとかで示すんじゃなくて、「体感せよ!」って感じになるんじゃないかな。

というのはすごく共感できる。ポイントは、意識についての操作はその結果としてやはり意識への影響として捉えるのが正しいということ。他の報告とか行動とかに翻訳するのではなくて。

でもたぶん、TMS打ったら幽体離脱が起こったとかいうシンプルなものでは足りないと思う。つまり、わたしが上で書いた言い方でいえば、「そのモデルの正しさを制御可能性によって検証す」るってことをしてゆかないと脳の話とつなげられない。そうするとけっきょくpsychophysics的にいろんなパラメータ振ってそれぞれの内観を報告して、予測と整合的なものとなるか検証する、みたいな「視覚オタク」的な作業が必要になる。こう言ってしまうと再び意識のreportabilityの問題に戻っていることがわかる。

(Binocular rivalryやchange detectionが成功したのはall-or-none的に説明が出来て、「見えたかどうか微妙」みたいな領域を排除したことにあるのだけれど、それでも確率的な表現は排除し得ない。)

このへんの、脳に結びつけるために機能的側面を記述するということと、それによってけっきょく心の内的状態(意識だけでなく、注意や意図なども含めた上でのことなので、これはハードプロブレムではない)がまったく排除されてしまうという状況については「ベイズ脳とsensorimotor contingency hypothesisとワイシャツと私」で書きました。これはつまり単純に言えば、「心の内的状態」というものは機能の記述のレベルにあるのではなくて、それを第三者が観察者として解釈するレベルにあるということであって、わたしが「オートポイエーシス」で得た気づきを違った言い方にしただけのことです。でなければ、仏教でいうさまざまの心的状況(「サティ」とか)について考えてみるのでもいいかもしんない。あんま怪しいキーワード入れると読んでもらえないんでこのへんまでにしておきますが。

BMIの話までぐるっと回ることによってしていたのは、あくまで機能的な側面から問題を追い詰めただけなのだから、この問題が解決するわけではない。そういうわけで、この問題は独立して進めていったほうがよい。我田引水だけど、blindsightの話をやっているうちにわかったのは、awarenessってなんなのかというとdetectionでもdiscriminationでもないということでした。Consciousnessを出さなくたって、awarenessの段階ですでに情報処理とその報告というところに収まらないところが出てくる。(以前"Confidence in LIP"および"意識と信頼度"でも書いたけど、perceptual decisionの議論の中にawarenessは出る幕がない。) だからこのへんはもっと進めていってみようと思ってる。

というわけでこうやって書きながら浮かんだことをまとめておくと、意識の現象的側面というハードプロブレムにいかなくても、すでに心の内的状態の記述と脳のダイナミクスの機能的記述とはすでに二元論的な状況にあるわけで、そういうところをちゃんとやることはシステム神経科学全体にとって役立つのではないかと思う。これまでも注意や意図や意思決定をどうやって定義するか議論しつつ、ある種の不毛さを感じたりして、「注意なんてものは操作的概念でしかない」なんて考えたりするわけだけど、そこをきちんと推し進めて、実のところすべての心的状態を表す言葉が操作的概念であることを理解した上で、どうしてそのようなひとかたまりとして我々は心的状態を捉えるのか、と問う必要があるのではないだろうか。以上の解釈学的ドメイン(というような言い方をオートポイエーシスではするのだけれど)を考えるときには心の中の表象をメタに扱う(内的モニタリングを行う)みたいな側面が出てくる。意識でのhigher-order theory的な表象主義アプローチの出番もそこなのでしょう。

わたし自身は動物を扱っているということもあって、そういうメタな表象みたいなものについて正直充分深く考えているとは言えないのだけれど、awarenessにおけるconfidence ratingやrecognition memoryにおけるrecollectionとfamiliarityの問題のように、内観報告の問題のいろんな場面にそういった内的モニタリングが出てくるのは間違いない。

というわけで、これまで書いてきたことをつなげるようなおしゃべりを意識的にしてみたのだけれど、読み直してみるとまだ道途上という感じがします。いつかちゃんとひとつながりで書いてみたいとは思うのだけれど、それよりかは、俺ははやく次のステージに行かないとね。

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# 土谷

土谷です。

私は、クオリアがなぜ脳内の神経活動から生じてくるのか、という謎を解くには、「アクティブな知覚」とか、Alva Noe, Kevin ORegan の sensory motor hypothesis とかは、あまり意味がないと思っています。

一番シンプルに、この類いの説に対しての痛烈な批判を言うと、「じゃあ、なんで、全く動けない、外部からの入力が閉じた状態である、睡眠時に、あんだけはっきりした意識的な夢をみるのか?」という問いにつきます。これらの類いの説はこの問いにちゃんと答えられない。

外部からの入力がなくても、自分が能動的に動かなくても、はっきりした意識は成立する。神経活動があれば、クオリアが生じる。神経活動が必要かつ十分条件。外部の世界への働きかけ、もしくは外部世界からの入力は、必要条件でもなく(i.e., 夢)、十分条件でもない(i.e., 様々なイリュージョン、rivalryなど)。

だから、極端なことを言えば、クオリアの神経科学研究をするなら、

目を完全に閉じていて、体を全く動かさずになんらかの映画の場面を想像している人が、どんな場面を想像していたかをニューロン活動をもとに当てて(=ディコーディング)、その後にどんな場面を想像してたかを実際にその人に聞く、

とかいう完全受動的実験でいいわけです。私には能動的なコンポーネントが、意識の、クオリアの研究に入ってくる余地がわかりません。

ここでは、発達、発生、進化の話しは除外しています。大人の我々が今感じている意識を支えるのに、現時点での外部からの入力と、能動的なコンポーネントが全く必要ないということだけが重要です。もちろん、大人として意識経験をできるように正常に発達するには、発育の過程において、外部入力が必要だし、外部への能動的な働きかけも大事でしょう。進化の過程でも、意識をもつようになるまでには、外部入力が必要だったろうし、外部への能動的な働きかけがクリティカルだったのは疑いません。

sensory motor contingency とか、「視覚も体の一部」とかそういう考えは、人間の人間らしい振る舞いや、生きていることの意義とか、よりでかい話しへとつなげていくには、もっともらしく聞こえるアプローチかな、とかすかに私は思ったりもします。意識があることの意義とか、意識の機能とか、そういうのもこの辺の話しとそりがあうでしょう。

私は、クオリアは、ある一定の条件がそろえば勝手に生じてしまう類いの、案外、シンプルな、この世に存在するメカニズムだと思っていて、上のようなたいそうなテーマとは全く関係ないと思っています。ただ単に、どんなメカニズムか全く想像がつかないので興味があるのです。

ただ、シンプルに、何で夢を見るのか、どんな脳活動が夢のクオリアを経験させているのか。それを知るには、能動的研究アプローチから得るものってあるんでしょうか? 私には想像できません。 

私自身は視覚は研究の道具としてしか見ていません。夢の中で感じる触覚や聴覚がなんで生じるかを知りたいのであれば触覚や聴覚の研究をすれば良いと思うし、それはただ、研究がやりやすいかどうかだけの話しでしょう。視覚のイリュージョンより、感情とか社会性の話しとかの方が現実生活に近いので面白いと思いますし。

同じように、能動的なことを取り入れた研究の方が現実に近くなるし面白くはなるとは思うけど、それが意識の、クオリアがなぜ神経活動から生じるか、という謎の解明につながるとは思いません。意識がどういう風に役立っているか、のような機能的なことはわかる鴨知れませんが、それは別の問題意識でしょう?

なんか事務的なこととか、そういうのに追われてこういう話し、全然しませんでしたね。(私としては議論の余地はないと思ってますが。。。。)その辺また今度会うときにはなしましょう。

アンケート集計作業もお疲れさまです。

土谷

# nishiokov

 ブログを楽しみに拝見させて頂いている者です.
 意識のワークショプにも参加させて頂きましたが,わたしも意識の神経科学研究のvisual psychophysics主義に少々違和感を持ちました.

「じゃあ、なんで、全く動けない、外部からの入力が閉じた状態である、睡眠時に、あんだけはっきりした意識的な夢をみるのか?」
「外部からの入力がなくても、自分が能動的に動かなくても、はっきりした意識は成立する。」

...しかし,外部からの入力,能動的な行為の経験・記憶がなければはっきりとした意識や夢は成立しないのではないでしょうか? このような経験・記憶は,クオリアが勝手に生じてしまう」前提となる「一定の条件」になる思います.
 クオリアが成立する前提条件を明らかにすることは,その神経基盤を明らかにすることと不可分であると思います.幻覚・妄想を有する患者においては,この前提条件が健常者と異なるため,知覚,クオリアに変容を来します.知覚における能動性,もしくは内的・外的な事前バイアスの神経基盤と,意識・クオリアの神経基盤とはオーバラップするのではないでしょうか?

# ふじー

何を対象にするにしたって、科学者がやることなら、それに最適な道具立てを準備しないと駄目です。ツール無しに科学は成り立たない。言葉はツールじゃないです。

視覚を用いたアプローチは一つのツールに過ぎなくて、別な切り口はきっとある。でも、みんなツール探しの努力をしないから、安易にすでにあるツールに頼る。2匹目のドジョウはいないっていうことを、もっと意識した方がいい。

ツールのユーザーじゃなくて、ツールを作るという強烈な指向性がない科学者は、結局2番煎じの仕事しか出来ないんじゃないか?既存技術の精緻化では、次のステップには進めないっていうことが分からないヒトが多いのが残念。

# pooneil

家族でリンゴ狩りに行って帰ってきてみたら、たくさんコメントが。みなさんどうもありがとうございます!
ウィークデー始まっちゃったので、週末にまたレスポンスします。
ではまた。

# pooneil

先週は風邪で寝込んだりしてお返事遅れました。
返答を書いてたら長くなりましたので、べつのエントリにしておきました。


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