駒場講義2018「意識の神経科学と自由エネルギー原理」無事終了

駒場でのオムニバス講義「意識の神経科学と自由エネルギー原理」ですが、無事終了しました。講義スライド(画像及び未発表資料の削除をしたもの)をslideshareにアップロードしました。併せて生理研の講義資料ページもアップデートしております。

駒場学部講義2018 「意識の神経科学と自由エネルギー原理」講義スライド from Masatoshi Yoshida

ここ数年の講義ではだいたい前半に「視覚失認」「盲視」、後半に「自由エネルギー原理」「統合失調症」という構成で行ってきたのだけど、全体に詰め込み気味になって良くないなあと思っていたので、自由エネルギー原理部分の資料が充実してきたのを機に、今回は前半を「統合失調症」、後半を「自由エネルギー原理」と明確に分けて行いました。

執筆中のFEP入門の総説(後半でFEP意識論を展開)で議論が整理できたので、そのあたりは昨年12月の「感覚運動随伴性、予測符号化、そして自由エネルギー原理 」よりは明確になったと思う。あのときは反実仮想と介入がまだごっちゃだったけど、これも明確に分けた。

以下反省事項というか振り返ってのメモだけど、途中質問込みでだいたい狙ったとおりのことをしゃべることができた(part 1のinsulaとpresenceだけスキップ)。時間配分、内容の量的にはこのくらいでよいみたい。自分のライフワークである盲視の話をしないのって奇妙な感じだけど。

前半の統合失調症パートは「意識経験の変容」の部分に重点を置く構成だった。統合失調症のベイズ脳アプローチについてベイズの図を書いたただのお話、みたいなパートが長すぎたので、もっとFletcherとかあのあたりの実験報告のエビデンスを足したほうが説得力が出るだろう。

あと、視覚サリエンスについては深追いせずに通り抜けるつもりだったけどそのあたりの質問が何個かあったので、ちゃんと知覚サリエンスと動機サリエンスの違いを明確に分けて、それぞれサリエンシーマップの概念についての説明、動機サリエンスについては松本さんのDAニューロンによるサリエンスのコーディングについて言及するところまでやると収まりが良さそう。そうすると視覚サリエンスはNMDAとGABAで、動機サリエンスはDAなので、統合失調症のglutamate説、dopomine説、GABA説についても言及できる。このあたりは次回の宿題。

後半の自由エネルギー原理パートについても、國吉研オムニバス講義のときよりは「FEPと意識論」については散漫にならずにちゃんと論理の道筋を作ってしゃべることはできたと思う。ただし、Bogacz 2017を参考にして作成した予測符号化の説明はもっと簡略化できた。あそこで言うべきことは「推測と予測誤差は神経発火、生成モデルとaccuracyはシナプス重み」これに尽きるのに。あと、脳で予測符号化していることのエビデンスを足すことのほうが必要そう。このあたりは次回の宿題。


そのあとは池上さんと池上研の院生の方と夕食。毎年ここで話をするのが楽しみ。今回もいろいろな話が出たが収穫のひとつは「意識は次元縮約であるかどうか」という話題。FEPの基本構造は、VAEのような生成モデルを用いたニューラルネットとほぼ同じ。VAEでは入力画像Xに対してhidden varianble Zとして次元縮約をして、そこから生成モデルで入力画像Xを復元してやる。FEPでの感覚入力sはVAEの入力画像Xに、FEPでの外界の原因xはVAEでのhidden variable Zに対応する。ということは我々の意識経験は多様なようでいて、じつは次元縮約した原因xから生成された感覚入力sであるなら、次元は低いという結論になる。しかし我々の説では意識とは「復元した感覚入力」ではない。カメラのような古典的表象説ではないので。

そうではなくて我々の説では、イマココの志向的対象q(x)と非主題的な前提条件p(x,s)とそれらの相互浸透によってひとかたまりの意識経験となっている。Change blindnessの実験からもわかるように、われわれは視線を向けないと変化に気づくことはできないが、そのような視野の部分も視覚クオリアは欠けていない。たぶんここの部分は盲点のfilling-inの現象と同じように「視覚経験はあるつもりでいるし、見ようと思えばいつでも視線を向けることができる」というようなもので、イマココの推測と生成モデルから「こうなっているはず」で埋められている存在なのだろう。Flash-lagでのpostdictionと同じ。 そうしてみると、われわれの説はかならずしも「意識を次元縮約だと考える」説にコミットしていないし、「意識を次元縮約だと考える」説というのはWM的なアクセス意識の考えではないかと思う。「FEPと現象学に基づく意識論」ではそのように考えないし、それゆえに正しく現象的意識の理論になっているのではないだろうか、こんなふうに議論できるのではないかと考えた。

あと別の話題では、池上さんは空間に定位しないクオリア経験の重要さを強調してた。視覚と眼球運動から考える私には無い視点だが、考えてみれば盲視での「雰囲気で上か下かわかる」とはまさに空間に定位しない意識経験だ(空間の情報なのに!)。そういう意識経験がたくさん折り重なっているというのが正しいのかも。

あと別の話題では、池上さんの他者論では他者の予想不可能性を強調するのだけど、ToM的な社会性の研究ではいかに予測をするかを考える。すると池上さんが言おうとしている他者性とは、ToM的な予測をしつつも予測不可能な部分なのだろう。でも思うのだけど、この他者性においても、同時にその予測不可能性には開けている。どういう意味かと言うと、田口茂さんの本にあった、我々の視覚が予想に基づくものでありつつも予想を裏切られることは織り込み済みであるのと同じ意味で。今回の講義や総説ではそのような知覚の特性がベイズ的であると 言ってはみたけれども、ほんとうのところこの面はベイズでは取り扱えてないと思う。

まだいろいろあるのだけど、こんなところで。


自由エネルギーの「期待値」を下げるということの意味(つづき)

昨日のエントリの続きです。大羽さんのコメントの「FEからdistributed FE(DFE)への拡張」ここを昨日は触れてなかったのでもう少し考えてみます。

Perceptual inferenceのみで考える場合FEは推測qと生成モデルpのKL距離としてひとつのFEが計算されるだけ。でさらにFEの分布を考える必要が出てくるのはactive inferenceを考慮する場合。複数の可能な行動の選択肢があって、それぞれでサンプルされる感覚入力sが変わりうるので複数のFEが出てくる。

そうしてみるとFEからdistributed FEへ拡張するのは、active inferenceを考慮に入れて、しかも可能な行動の選択肢が複数ありうるときということになる。「可能な行動の選択肢」というのが曲者で、いくつかの捉え方がある。

外界の条件によってその行動が一意に決まるならばそのような選択肢など無く、FEは一点に定まる。眼前に提示された黒丸に必ず飛びつくカエルについて考えてみよう。こんな場合でも運動自体は誤差を伴うからFEは一点とガウシアン的な誤差の分布を持つ。こういうときは確率的な期待値をとるというので問題ない。

でも我々がふだん想定する「行動の選択肢」とはそういうものではなくて、右に100円があって、左にケーキがあるときにどちらを先に見るか、みたいなdiscreteな選択肢を想定していると思う。このようなときは確率的な期待値をとる以外の方法もありうるだろう。

ここで問題にしたいのは昨日ブログの最後に書いた自由意志、主体性との関係で、そのそも我々がその二つを選べると思うからこそその二つのFEの期待値を計算することになるわけだけど、その選択自体は環境と脳状態とそれらのノイズによって決まっているなら、行動選択とは自然選択であり、主体はない。

どう選択するかよりも、複数の選択肢がありうるかのほうがこの状況を決めている。進化における自然選択においても、表現型が連続的でなく離散的であること(たとえばある遺伝子の欠失による酵素の欠損)が選択の幅を作ること、そのどちらもが生存可能で、選択の対象となりうること、これこそが自然選択を可能にしている。

世界への「介入」における 行動a -> 世界x -> 感覚入力s という因果の連関では予想外のことが起こりうる。この不確定さには、誤差的なものと、複数の離散的な選択肢からの一つを選ぶことによるものがある。世界を「観察」する際には誤差的なものが大半で、これが介入と観察の違いと言えないだろうか。

だんだんグダグダになってきたのでここまで。


自由エネルギーの「期待値」を下げるということの意味

以前のブログ記事「スライド「感覚運動随伴性、予測符号化、そして自由エネルギー原理」作成しました」のスライドに書いた話だけど、p.64-71 にもあるように、単回の行動では自由エネルギー原理(FEP)は成り立たない。あくまでも「適応的なagentは、可能な行動選択から計算される自由エネルギーの「期待値」が下がる方向へ行動選択する」ということになる。このスライドの例だと行動選択は止まっているか目を右上に動かすかだけなので、どちらを選ぶかというと眼を動かす方を選ぶ。

でもこれを反実仮想に結びつけるというのがどうにも大げさすぎないかと気になっていた。ちょうどそのときTwitterで大羽さんが関連することを話題にしていたので、そこからやり取りが始まった。

(略語表記: FEはfree-energy (情報理論的な自由エネルギー)の略語。FEPはfree-energy principle(自由エネルギー原理)の略語。)


shigepong: ここでは自然言語であるところの「期待する」という日本語を使うのがピッタリくる事案であり、テクニカルタームであるところの「期待値」を使うと意味がズレる。

pooneil: これと同じ話かわからないけど、Fristonの言う“expected free energy”のexpectedに釈然としない感じを持ちます。「複数の行動の選択肢から計算された期待値」という側面と、「現在の推測ではなくcounterfactualな未来の推測をする」という側面の両方をexpectedの語でいっぺんに言おうとしているので。

shigepong: あー。とてもわかります。そこらへんも言葉を整理しないと。

shigepong: いや、そこは矛盾なかったかも。全てはcounterfactsだという立場に立てば、expectationは1つのことを言ってる。factは無い。recognitionとsenseの間のsurpriseだけがある。

shigepong: recognition as a distribution of counter facts これだけが本質という立場

pooneil: 「全てはcounterfactsだという立場に立てば」ここがポイントでしょうね。最近のFristonは、FEPとはあくまでexpected FEの最小化として扱っているようにみえるけれども、それは「counterfactual predictionをしない細胞や進化すらも推測をしている」という本人の主張とは相容れないように思うので。

pooneil: これは以前 @ksk_S さんとやり取りした時の話と関わる。Fristonの最新の記事 https://t.co/Df0g9B95b4 でも強調されていたけど、細胞や進化ですら推論過程でありFEPの枠内であると主張している。しかし進化が意識を持たないのは反実仮想的な時間の厚みがないからだと。https://t.co/tI7YdGXmwf

ksk_S: いずれにしろ、確率的推論過程と、生命の原理が同一視できるとすると、生物にしか意識を認めない派と深層学習で意識できてるじゃん派との妥協点が生まれるのかもと考えています。

shigepong: 正方形は長方形の特別な場合として含まれ、
factはcounterfactsの特別な場合として含まれ、
FEはdistributed FEの特別な場合として含まれてるという意味で、
じゅうぶんに一般化することでひとつのtheory of everythingに向かっているように見えます。

pooneil: でも進化の過程を考慮すると、まだ細胞や単純な生物しかいない段階で成立するFEPが、将来的に意識を持つ生物が生まれてきたときには、じつはcounterfactualなものまで含んでなりたつものだったっていう説明になるので、なんだか人間原理っぽい説明に思える。

shigepong: そこまでの必然性は主張されてなくて、単に複雑な対象を説明するための容量の大きなモデルが、より単純な対象を説明するのにも使えてるというだけのことでは?

pooneil: 京大のトークでも喋ったけど、期待値でのFEPの成立というのは行動(選択)の結果の不確定性を考慮してFEPの条件を緩めたものと考えられるので、元のFEPに含意されていたという説明はしにくいと思う。

pooneil: ただし、単純な生物や進化のときにはFEPが成り立たないような選択の結果は死につながっていたので、行動(選択)の不確定性というものは顕在化していなかったから、とは言えるのかも。

pooneil: ダーウィン型生物(選択されなかった表現型は死ぬ)->スキナリアン型生物(選択されなかった行動は死ぬ)->ポパー型生物(選択されなかった仮説は死ぬ)という変化の中で、より安全にFEを下げる方法を編み出した、とは言えるかも。

pooneil: そうするとここからはspeculationだけど、ポパー型とはさらに違ったやり方でFEをもっとうまく下げる方法を我々が見つけることができたなら、それはいま我々が持っている意識とは違った何か(共同主観的なものとか)を生み出すことになるかもしれない。なんだってー!!!

pooneil: 世界初のFEPに基づくSFを構想してしまった。

pooneil: FEがかえって上がるような行動選択は意識を持たない動物でもしている。たとえば火のあるところに近づくとか。けれども、それによって一発で死に至るわけではない。あくまで平均的に死ぬ可能性が上がる。

pooneil: 逆に、(平均的に=期待値としての)FEを下げる行動選択をしたものが結果的に生存確率を上げる、ということになるだろう。そういう意味では単純な動物においてもある種のexpected FEをやっているという議論は成り立つかも。(ここでの「平均的」が時間の平均だか、個体群の平均かという疑問はあるが。)

shigepong: FEの分布まで考えたところで十分にgeneralであって、「その期待値を取るのだ」はspecificな一例という位置付けになりますね。

shigepong: 「それはいま我々が持っている意識とは違った何か(共同主観的なものとか)を生み出すことに」
将来的にそれを生み出すというよりは、それがすでに目の前や身の回りにあったということを発見するんだと思う。


とまあこんなかんじで、一挙に頭が整理された。つまり、自由エネルギー原理が単回の行動選択で成り立つのではなくて期待値として成り立つということは、原始的な動物でも当てはまる。(原始的な動物でも単回の行動選択では自由エネルギー原理は成り立たない。) つまり自由エネルギーの「期待値」を下げるというときに、そこにcounterfactualな行動選択の結果を推測しているということを前提として考える必要はない。

人間やその他の動物のようなポパー型動物ではまだ起きていない行動の結果の推測をするような「時間的厚み」を持つことができるようになって、FEPの期待値を下げるということをもっとうまくできるようになった。そしてこの「時間的厚み」をFristonは意識を持つ動物の条件として提案している(Front. Psychol., 24 April 2018 “Am I Self-Conscious? (Or Does Self-Organization Entail Self-Consciousness?)”)。

「ポパー型とはさらに違ったやり方でFEをもっとうまく下げる方法を我々が見つけることができたなら、それはいま我々が持っている意識とは違った何か(共同主観的なものとか)を生み出すことになるかもしれない」これいいでしょ。「地球幼年期の終わり」的な感じで。「シンギュラリティー」ってこういうものなんじゃないの?(<-瞳孔が開いてる)

いま「FEPについての解説と意識の理論」という内容で日本語総説を書いているところなのだけど、そちらのほうもいまの考えでアップデートできそう。乞うご期待。


なんだか目が冴えて眠れないのでもうすこし書いてみる。こうして考えてみると、FEPがダーウイン型動物からポパー型動物まで包括的に説明可能だということは重要な含意を持っていることがわかる。つまり、我々ポパー型動物の「行動選択」とダーウィン型動物での「自然選択」が同じ役割を果たしているということだ。

ダーウイン型動物では、自由意志で行動選択しているのではなくて、自然選択によってその表現系の選択という形でFEを下げたことがあとになってわかる。

それならばポパー型動物でも同じだろうというわけだ。ある行動が選択されたことで結果としてある仮説が選択される。その行動選択とは結局のところ環境と脳活動による物理的な因果の結果(つまり、自然選択!)でしかなかったとしても、ダーウイン型動物は、行動選択の結果としての仮説の選択という形でFEを下げたことがあとになってわかる。

まだ表現が変だけど、自由意志と主体性の問題は、進化での自然選択の問題と並べて考えられるんではないだろうかと思う。まだ生煮えだけど、とりあえず書き残しておく。


駒場講義2018「意識の神経科学と自由エネルギー原理」準備中

東大駒場の池上高志さん(大学院総合文化研究科 広域システム科学系)から依頼を受けて、例年6月あたりに大学院のオムニバス講義を一回担当しているのだけど、今年度も日程が決まった。

  • 人間情報学VI
  • 6/20(水) 13:00-16:40
  • 駒場15号館1階104講義室
  • 吉田正俊「意識の神経科学と自由エネルギー原理」

例年通り準備状況をブログにアップロードしてゆく予定。これまではこんなかんじ:

さて今年度はどんな構成で行こうか。これまで数年の構成は、前半が「視覚失認、盲視、サリエンシー」で、後半が「自由エネルギー原理、統合失調症」だった。

でも自由エネルギー原理パートも統合失調症パートも、二倍の時間をかけてじっくり丁寧に説明するほうが参加者にとって有益なんではないかと考えてる。盲視を外すのは不安だけど。

そういうわけで今年度の講義では、話す内容を統合失調症と自由エネルギー原理に絞ってみようと思う。

前半に統合失調症の前駆期の意識経験(中井久夫)、異常サリエンス仮説(Kapur)、自己の障害、随伴発射、コンパレーター仮説(Frith)まで説明して、後半に自由エネルギー原理について昨年12月に國吉研で行ったオムニバス講義で使った題材を元に説明した上で、統合失調症のベイズ的説明(Adams)で閉じる、という方針で考えてる。

いま書いている総説でsensorimotor contingencyについてはもっと丁寧な説明を作ることができそう。導入部分に関してはいつも逆転スペクトルとaccess / phenomenal consciousnessなので、これは刷新したい。先日の新川拓哉さんの話を参考にして、意識の理論のおおまかな地図作成を作ってみるというのがいいかも。でもこれは時間がかかるから(もしあるなら)来年度以降で。

アウトラインとしては以下のかんじ。

[Part 1]

1-1. 意識を科学的に研究するってどういうこと?

  • 「意識は定義できないから科学の対象にならない」というのは正しくないよ!
  • 「意識」という言葉で指している対象が共有できていれば充分。
  • 「意識のハードプロブレム」という問題群があるよ!
  • 意識を科学的に解明するためには「意識を科学的に理解する仕方」そのものを拡張してゆく必要があるよ!
  • そのようなアプローチとして意識経験自体の構造とか変容に注目する神経現象学があるよ!
  • そこで今日は意識経験自体の構造とか変容に注目して、統合失調症とその理論について紹介するよ!

1-2. 統合失調症(1)

  • 統合失調症は発達の段階から前駆期を経て発症に至る過程をたどることがわかってるよ!
  • 統合失調症では自己、世界に対する意識経験の変容が起きているよ!
  • 統合失調症での妄想、幻覚はサリエンスの経験の変容で説明できるよ!
  • 統合失調症での視線の変容は視覚サリエンスの変容で説明できるよ!
  • 統合失調症での自己の変容は予測誤差に基づいて説明することができるよ!
  • ところで予測誤差の概念は随伴発射という概念で昔から提唱されてきたよ!
  • 統合失調症で予測誤差がうまく計算できていないというデータがいろいろあるよ!
  • 統合失調症では世界と自己の関係が変容しているという説があるよ!
  • 世界と自己の関係は主体性と現実感の予測誤差モデルで説明できるよ!
  • 統合失調症での世界と自己の関係の変容はサリエンスネットワークの変容で説明できるよ!

[Part 2]

2-1. アクティブビジョンと自由エネルギー原理

  • 意識は受け身の反応ではなくて環境への働きかけで成立するという考え方があるよ!
  • 同じ考え方はフッサール現象学にもあるよ!
  • 脳が仮説を作ってそれを検証することで知覚を構成するという説(無意識的推論)があるよ!
  • 無意識的推論は「予想コーディング」としてモデル化できるよ!
  • 予測コーディングを脳でやるならトップダウンとボトムアップの相互作用になるよ!
  • 予測コーディングを知覚だけでなく行動に拡張したものがactive inferenceだよ!
  • 知覚、行動、注意、価値、みんな自由エネルギー最小化で説明できるって!
  • 自由エネルギー原理 (or予測処理)で意識も説明できるって!

2-2. 統合失調症(2)

  • 統合失調症で起きていることが自由エネルギー原理で説明できるよ!
  • サリエンスという概念は自由エネルギー原理での予測誤差とほぼ同じだよ!
  • ということは統合失調症のサリエンス説と自由エネルギー原理説は同じことを言ってるんじゃね?
  • 統合失調症の動物モデルもこのような観点から見直すべきでない?
  • 自由エネルギー原理を用いて脳を理解するためには充分な解像度の脳活動データと介入が必要でしょ!
  • だから行動中の動物での他ニューロンカルシウムイメージングと光遺伝学による介入が必要になるよ!
  • いまうちでそういうこと始めているから大学院生募集してるよ!

口調はウザイがだいたい合ってる。これが講義で話したいことのエッセンス。

ひきつづきハンドアウトとスライドもアップロードしてゆく予定なので、乞うご期待。


マニフェスト20180311

「人生何者にもなれなかった、けど」という記事を見た。この記事自体はどうでもいい。でも恥ずかしながら告白すると、私もいい歳して「何者にもなれなかった」みたいな気持ちを持つことはある。ただその表現では正確でないので、もうすこし言葉を費やしてみる。

私は薬学部に入って研究者としての訓練を始める前から、ベイトソンみたいな、ヴァレラみたいな、領域を自由に動き回る教養人になりたかった。偉い先生になって教え子から尊敬を集めたかったのでもないし、本を書いて文化人として扱われたかったわけでもなかった。

大学院に入った私は、ベイトソンみたいにやるためには、清水博が実践したみたいに(注1)PIになって自分の陣地を作ってから己の道へ進めるという戦略がよいのではないかと考えて、神経生理学者としてPIになることを目指した(注2)。

でも出世ルートから外れて年老いてしまい、どうやら計画は「まずPIになる」という段階で頓挫したようだ。それならば代替策はと、「高等遊民になりたい」と冗談めかして書いてきたのだけれども、それは「なろうと思えばいつでもなれる、仕事と家族を捨てればなorz」っていう苦しい思いを裏に貼り付けた上での発言だったのだ。

だから「高等遊民」になりたい、という表現も正確ではない。私は好事家や「プロのお客さん」(by 大槻ケンヂ)になりたいわけではない。ベイトソンみたいに、生きること、心を持つこと、優美であること、尊いこと、それらを「結びつけるパターン」を見つけ出すような生産的な活動をしたいのだ。私はいまでもこの目標に向かって進んでいるつもりだし、その意味では諦めているわけではない。

生きていることと心を持つことを繋げるような、なんだか分からない枠組みに向かうことは、ひとことで言うならばそれは「意識研究」だと思うので、自分のライフワークは「意識の解明です」と説明してきた。

でもそのように説明すると、心の現象のほんの一部である意識だけを研究したいのかと誤解されることがある。そうではなくて、(現象学的に言えば)心の構造が、「注意を向けられ、意識化されたもの」を氷山の一角に、「非主題的な意識」があり、それをさらにたくさんの「無意識」が取り囲んだ地平としてなりたつ仕組みをこそ知りたい。そもそもわたしは盲視という無意識の知覚を研究してきたのだから。

それをあらためて表現しなおせば、ベイトソンが言った「結びつけるバターン」であり、そういった、なんだか得体の知れないものに取り組みたいというのが私の行動原理になっている。

でもそのために自分が持っている道具はあまりに少なすぎて、道具を揃えているあいだに人生の大半が終わってしまいそうだ。「永遠に生きるように学び、明日死ぬように生きる」これは正しい考え方だと思うけど、「永遠に生きるように学ぶが、明日死んでも悔いはない」というやり方にしか自分にはできないなと思う。

そういうわけで、いまの自分にとって「何者かになる」とかそういうこと自体はどうでもよいことなのだけど、研究の道に進む際にひそかに立てた目標からどんどん遅れていっていることに焦りを感じている、というのが正確なところだろうか。


ここまで書いてこの原稿は放置していた。公開するにしてはちょっとぶっちゃけ過ぎているかと思ったので。以前信頼できる友人から、ジョブ探しの際にはwebサイトの内容に極力気をつけた方が良い、とアドバイスをもらったことがある。まったくそのとおりだなと思って、精神状態が悪いときに書いたものはほぼ非公開にした。あと自分の文章作成の方針として、原稿(Twitter含む)を見直してみて、自己憐憫や自己欺瞞や自己正当化や愚痴が含まれていることに気づいたら即削除するようにしてきた。

このような自己ルールの帰結として、このブログは研究に関わる告知や報告が大半を占めるようになって、風野春樹氏のウェブ日記にある「銀河通信」の感覚はまったく失われてしまった。

でも昨年末に祖母と叔父と父親がたて続けに亡くなり、親しくしていた研究者たちが若くして亡くなるのに遭遇して、自分の人生について振り返る時間が多くなった。偶然だが今日は3月11日だ。すくなくとも今回は、自分はどう生きるのか、それを語って消さずに残しておこうと思う。この文章には自己憐憫や自己欺瞞や自己正当化や愚痴が明らかに含まれている。それを完全に脱臭できたらよかったのだけど、自分がどう生きるかを書くにはそれは避けられないことなのかもしれないよ。自己正当化だけど。

注1: 清水博氏が1970年に九州大学の教授になったときはあくまで生物物理(自己組織化現象の物理)の枠内での仕事をしていた。「情報の創造」(場とかホロンの概念)を目指してラボの方針を転換したのは1976年に東大薬学部に移って以降の話。この経緯については氏の「生命と場所」のあとがきに書かれている。

注2: いまでもエリック・ホッファー的な「在野の研究者」の可能性についてよく考える。それをおおっぴらにするわけにはいかないのだが。


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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