SDTとpopulation coding (10/20バージョン)

Population codingの文脈で盲視のFC-YNの乖離について考えていた。SDT的に考えればFCとYNは統一的に扱えて、S1,S2という刺激に対して、blank-S1, blank-S2という二つの軸での検出があって、S1-S2の弁別がある。

この枠組みだと、d'(FC) > d'(YN)とはblank-S1, blank-S2の二つの軸が直行していなくて、>90degであるという理解になる。これはS1, S2のシグナルが逆相関しているということ。mutual inhibitionとかを入れれば作れなくもない。

一方で、受容野の広がりという問題があって、盲視では(おそらく)受容野が広がっているので、S1への刺激はS2受容器も刺激してしまう。この意味ではS1-S2には正の相関があり、直交というよりは<90degとなるように考えた方がよい。

(言い忘れたけど、いまの話はMacmillan and Creelmanとかにある、SDTを2Dで表現した図式のこと)

つまり、V1 lesionでRFが広がったことを考慮すると、逆にd'(FC) < d'(YN) ということが起きてしまうので、RFの広がりではこの現象を説明できない。これを棄却すべきモデルとして使う。

Population codingの文脈で私にとって重要なのは、検出では、たとえばS1の検出にはS1にpreferenceを持ったニューロンがいちばん寄与する。(最尤推定するためのニューロンへの重みはS1ニューロンが最大)。いっぽうで弁別では話が変わる。

S1-S2の弁別の際にはS1よりもS2から離れた位置にpreferenceを持つニューロンが寄与する。(たとえばS1, S2それぞれの刺激の位置(polar angle)が+30deg, -30degとすると、+45degにpreferenceを持つニューロンとかの方が寄与する。

つまり弁別では最尤推定するためのニューロンへの重みはS1ニューロンではなくて、+45degニューロンが最大。つまり、検出と弁別とでは判断をするために使うエビデンスが別物。それなの

にノーマルではFC-YNの乖離は怒らないわけで、両者のキャリブレーションが済んでいる。 しかし盲視ではそれがうまくいかない。さらに意志決定の際には、FCの場合には二つのエビデンスを持ったニューロン(+45degニューロンと-45degニューロン)の差を計算するが、YNの場合には二つのエビデンスを持ったニューロン(+30degニューロンと-30degニューロン)の和を計算した上で閾値との比較をする。

ハクワンとかは盲視はこの閾値の設定の問題であるという言い方をするのだが、問題はじゃあなんで閾値が正しく設定できないかということで、さっきキャリブレーションという言葉を使ったけれども、なにかがモニタできていないから最適な行動が取れてないのだ。

ハクワンの話はヒトでの話で、私が想定しているのはnhpでのeconomical decisionでの場面(どちらかというとpost-decising wageringに近い。nhpは内観報告をしているのではなくて、報酬のための意志決定をしている)なので、前者では閾値の調整が不要だというところが大きな違い。

Azzopardi 1998では、forced-choice detection (当てずっぽうでいいからあるかないか当てる)とするとバイアスが0になるというデータがある。(d'がどうなっているかは出てない。これがいちばんcriticalなのだが)

それで、なにがモニタできていないかというと、エビデンスが積み上がっていくことがモニタできてない。だから、それを待たずにサッカードする(nhp)とか逆に時間かけてサッカードするけどさっぱり確信がないってことになる。

JNS2008で使ったdiffusion modelの解析はそういう意味では、暗い刺激と明るい刺激とでadaptiveにthresholdを変えてdecisionする(normal)はずなのにそうならないってのを見た、というふうに解釈できる。

つまり、試行の中でも初めのうちは明るい刺激が出るものとして閾値を設定していて、それに引っかからないようだと閾値を下げて引っかかるのを待つ。そうなると、エビデンスがモニタできないことと、閾値を動かすこととをどうやって分離できるとというのがつぎにやるべきことかも。

話がとっちらかったのでまとめ気味に戻すと、population codingのスキームでは検出と弁別で使うエビデンスが違うのにd'(FC)=d'(YN)となるようなキャリブレーションが行われている。そのような問題解決をしたニューラルネットワークを作って、そのうえでそのモデルのどこをいじると盲視が再現できるか、という風なストーリーが作れる。でもって、RFが広がったから、という説明は結果は逆になるので棄却できる。それなりにリアリスティックなモデルになるから、刺激のコントラストを下げたときにノイズがどのように効いてくるかとかそのへんを押さえる。


そうして、このごろ1209

人生へのアティテュードというかなんというか、屈託がない方がよいとは思う。でも含羞はあった方がよいと思うんだ。マトリックス作ってみた:屈託-/含羞+=>サイコー、屈託-/含羞-=>恥知らず、屈託+/含羞+=>小物、屈託+/含羞-=>ダメ人間

夕食のときに国体のハンマー投げの部を見ていたら、次男が「いもむしとはちがうね」と言うのでワケわからなかったが、長男がすぐに「室伏のことね」と即理解したので、笑うとともに感心した。

長女といちばん好きな季節は秋、ということで意気投合した。ワビサビがわかっとる。(<-ドヤ顔)

「俺には俺の唄がある」には野島という謎の男が出てきて、質素な暮らしをしながら、高等遊民をやっている。高等遊民いいな! 俺も「先生」のように、野島のように、高等遊民をやりながら(ry ... ry)したい

ものすごく近くで秋の虫が鳴いている音がする。まるで部屋の中にいるかのようだ。しかも音源の位置が複数あることまでわかる。子どもたちはよく寝ている。寝息が聞こえる。歯ぎしりが聞こえる。よく耳を澄ませると、金魚のためにバブリングをしている音が聞こえる。

ほのめかしメソッドをやると、違う人が釣られちゃうので絶対やってはダメ。これ先生との約束な。

いちばん好きなギターコードはFmaj7 add9thだろうか。でもただひたすらにEmだけを弾きつづけたいときもあるものだ。EよりはEm、これだけはまちがいない。

なるたけ実生活で感情の上げ下げをしないようにしておいて、そのぶん小説とか読む。ふだん運動しないでおいてそのぶんジムで運動するのと似ているような似ていないような。

「みどりのそうげん はだしになろう」ここ泣くポイント。

「あー僕らの人生って、せんみつのセイ!ヤングみたいだね(みたいだね)」ってフレーズを考えたが、あんまり泣けない。オールナイトニッポンの方がよかったか。

夜に自転車で走っていると、道路工事用の移動型光源(あのなんか丸いやつ)が煌々と光っているのを見つけて、まるでビルの谷間に半月を見つけたときのようにギョッとする。やっぱり夜はいろんなものを空目するのでギョッとする機会が多い。

長女の新体操のお迎えに、車に乗ってセバドー聴きながら到着したら、音が漏れて恥ずかしいからやめて、と怒られた。長女にとって私はDQNなおっさんなのであった。がーん。

長男から「ピロカルピン」とか「andymori」とかを教わる。そんな俺の存在証明。

  • 投稿日: 2012年01月13日
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ハトの首振り

ハトの首振りを止める方法 - Yahoo!知恵袋 これ面白い。あのハトが地上歩いているときに頭を前後にヘコヘコするやつ。あれはヒトの眼球運動で起きていることと似た現象なのだな。

ヒトがなにかものを注視しているときに不意に頭を回すと、眼球は網膜像を変えないように頭の動きとは反対側に回る。これを前庭動眼反射VORという。また、動いているものを見るときにはヒトでは眼球が動きに追従して流れてゆくフェーズとずれた分を戻すフェーズとがあって、これをOKNと言う。

これと同様にして、ハトの首振りも歩行による視野の動きを打ち消すように後ろに動くholdフェーズと後ろに下がった頭を前に戻すthrustフェーズがあるらしい。ヒトのVORで頭の動きを眼球で補正するのと同様に、ハトの首振りでは体の動きを頭で補正している。

ハトの首振りについてのレビュー論文を見つけた。"Head-bobbing"って言うそうな。 PDFもリンクされてるけど、本文とビデオがあるこのページを読む方が役に立つ。

これのFig.1を見ると、holdフェーズとthrustフェーズの違いがよく分かる。Holdフェーズが平らになっているのは、視野の動きをほぼ0に抑えていることを意味している。つまり、視野のぶれを無くすることによって、地面にあるもの(エサとなる穀物とか)を見つけるのに役立つ。

面白いなと思うのは、thrustフェーズの方も無駄ではないということだ。運動視差を作るのに役立っているって説があるそうだ。ハトは目が横に付いているので両眼立体視がほとんど役に立たない。だから、奥行き方向の視覚情報を得るためには運動視差を使うしかない。

運動視差というのは、電車に乗っているときの景色の動きを思い出してくれればよいのだけれども、自分が動いているときには近くのものは大きく動いて、遠くのものはあまり動かない。これがあれば奥行き方向の視覚情報を得られる。

だからthrustフェーズは頭を前に動かすことで運動視差を作るのに役立っているのではないかという話があるんだそうな。これは面白い! じゃあ、逆にヒトでのfixation-saccadeの連関のうち、saccade自体はそういう意味で視覚に積極的に関与している可能性はないだろうか。

とは言っても、transsaccadic memoryとか、サッカードによって全体を把握するとかそういうのはあるとして、サッカードの動き自体を使ってこそpick upできる視覚情報というのはないのだろうか?

このレビュー論文にはほかにもいろんな面白いことが書いてあって、ではなんでハトは首振りするのにアヒルは首振りしないか。いろんなトリで比較した研究があって(322種!)、目の位置とか、歩きながらエサを探すかとか、いろんな条件が考察されてる。このようなデータから首振りの機能を推測する。

大元のYahooの記事の話に戻ると、こういった学問的な話はさておき、それを「どうやったらあのキモイ首振りを止めることができるだろうか? たとえば目隠ししたらどうなる?」みたいなかんじで料理してあるのでナイスだと思った。プレスリリースとか大学の授業とかそういうところで役立つ技だ。


トラルファマドール星人と永劫回帰

「スローターハウス5」は2/3くらいまで来たが、意図せずカラマーゾフの兄弟と繋がってきたので、この偶然の一致に感激したが必然だとは思わない。(スローターハウス5のテーマとからむネタ。) トラルファマドール星人が「あなたの人生の物語」と繋がるのはあらかじめ知ってた。

"He said that everything there was to know about life was in the Brother Karamazov ... "But that isn't ENOUGH any more", said Rosewater."

さらにまどマギやエンドレスエイトと絡めているのを見つけた。なるほど、ループものと自由意志とトラルファマドール星人的視点(すべてを永遠の相の元に眺める)で三題噺ぐらい作れそうだ。

わかったような顔をして「永遠の相の元」とか書いたがスピノザとか読んでいるわけがない。


「来世に託す」という考え方を完璧に打ち砕くために、「来世はあるけれども、今生とまったく同じものが繰り返されるだけである」というふうに認識したらどうだろう? この人生を生きるしかないなって気がしてこないだろうか? ていうかそれ永井均経由で俺が受容した永劫回帰をさらに転倒させたものか。

もしくは、記憶の持続とかそういうメカニズムがまったくないループもの。ゆえに、やり直ししてもうまくはならない。カタルシス無し、神の視点無し。

たとえ輪廻転生があったとしても、ふたたび1968年の公害と騒音と地盤沈下の町まで引き戻されるのだ。校内暴力とツッパリハイスクールロックンロールの時代を生き延びて、バブルを横目で見て、ふたたび入院したり、交通事故にあったり、耳を七針縫ったりするのだ。


トラルファマドール星人にはすべての時間の事象が一挙に見渡せるので、つらい事象に対してはただ無視するだけだ。つまり、空間的注意と同じような意味で「時間的注意」とでも言ったものを備えているということになる。

こういう眼で見直すと、arousalレベルの上げ下げというのは不完全ながら時間的注意の一種であるといえる。focal attention (空間/featureへの注意)とsustained attention (arousal)という注意の分類は空間と時間の違いであると言える。

"I was still alive somewhere and always would be."

あるとき俺は1000分の1、あるとき俺は1分の1、統計的な俺と実存的な俺。


スローターハウス5読了した。よかった。トラルファマドール星人的描写に慣らされて、静かな心でイベントが描写されるのを眺めてゆくところで、ついにドレスデン空襲が描写される。ちょっと他にはない感覚だ。そして、そのような状況になったら、そのように世界を眺めるような気もしてくる。

ヴォネガットの「乾いたユーモア」みたいなものは正直好みではなかった。ブローティガンの「アメリカの鱒釣り」も同じくだめだった。でも「西瓜糖の日々」が大好きだったように、「スローターハウス5」の静謐な世界は好きだ。たぶん「乾いたユーモア」ってのはそれを引き立てる効果があるのだろう。

つーか、スローターハウスとかギャツビーとかライ麦畑とか、向こうの高校生の課題図書みたいなのばっか読んでる俺ってのはバカみたいに見えるのだろうか? まあいいや。

  • 投稿日: 2011年12月31日
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知覚と行動の乖離-サッカード編

De Valois and De Valois 91みたいなmoving gaborで場所がシフトして見えるillusionでgaborにサッカードをしたときの結果を探しているのだけれども、なぜか見つからない。Goodaleの到達運動とかOFRみたいな広い刺激ではなくて。

Perceptionとactionの乖離みたいなストーリーで、結構あるだろうと思っていたのだけれど。 Motion-induced illusory displacement reexamined [Exp Brain Res. 2005] これにすこしサッカードでの結果の記載があるが、くわしいことは書いていない。意外に進んでないのかもしれないなと思った。

Goodale and Milnerの仕事(DF, それからエビングハウス錯覚)とかがあって、actionとperceptionの乖離が主張されて、でもそれは方法論的に問題があることが指摘されて(どうやって正しく両者を比較するか)、それでもsupportiveな論文としてATRの山岸さんの論文があって(でも効果が逆)、それでそれをreexamineしたのがこのEBR論文であるということのようだ。

そうして、EBRでは条件によって両者は乖離したり、知覚の方が正確だったり、行動の方が正確だったりといろいろぶれる。

こういう文脈とは別にして、サッカードが知覚の指標として使える、というような論文はある。J Opt Soc Am A Opt Image Sci Vis. 2003 これはサッカード課題を使ってnhpで心理物理をする根拠として押さえておく。

あとVision Research 2006 つうかこんなところでBrian White(共著者)が出てきた。

Eckstein MPってこの論文の人か。つながってきた。SDT applied to three visual search tasks-identification, yes/no detection and localization それよかこっちか:Vision Research 2009 "Statistical decision theory to relate neurons to behavior ..."

こういうことちゃんとやって、ニューロンまでつなげたい。


そうして、このごろ1001

ついったから転載。

自分はどのタイミングで全脳感を失ったんだろうか? ひとつ覚えているのは、小学校六年のときに生徒会長だったんだけど(正確には代表委員会委員長)、それが教師の傀儡として操られる存在であるという醒めた認識を持ったときだろうか? (小6で中2病ってかんじ。)

そういう状況事態をひっくり返すようなメタな発想と行動力を小学6年生に求めなくてもいいと思うけど、ともあれあそこが私の原点だったことを思い出す。徒競走が遅くたって、泣き虫だったって、投手として使い物にならなくてコンバートしたって、そういうことで自分の自尊心は揺るがなかったけど、「優等生」をやらなくちゃいけなくなった屈辱は忘れない。

そんなことを考える今日は次男の運動会の日で、両親がはるばる応援にやってきて、ビデオを撮影して、ステーキをごちそうになって、その店は今月で閉店となっていて、すっかり寒くなっていて、けっきょく私は帰るなり2時間ほど昼寝していた。そんな日のこと。

俺はこれだな:(15)の改変 何者かになりたいという欲望はあり、何者かになる強烈な快感をまだ味わってない自分をみじめだと思っていたが、仕事が忙しいのでどたばたしてたら年を取ってしまって、もはや何者かになれる人間ではなくなっていた。

だがここからが人生だ。俺の情熱はけっして消えないし、消えそうに思ったこともない。その時々の状況の中で、自分の疑問を磨き続けて、先鋭化させていく俺の旅はまだ終わっていないし、終わらせる必要もない。どんな状況にいようとも、だれも私のことを何者と認めなくても、それを続けていく力がある。

こういう抽象的な議論は好きではないのだが(<-おまえが言うな)、「何者かである」ということは「何者かであることによる強烈な快感」によってのみ定義される純粋に内的な価値であって、直接的には外的に決まらない。もちろん内的なものは外的なものによって影響を受け、規定されさえするが。

あーあ、でもさあ、率直に言って、世界が俺の思うとおりにならないなんて理不尽すぎる。ぷんすかぷーん。(<-キモッ)

  • 投稿日: 2011年12月10日
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Amazonのカスタマーレビューの「有用性の高い順」ってどうやって決めてる?

Amazonで本を探したりするときにはレビューの文章をけっこう読んだりするのだけれども、あれは「このレビューが参考になった」の数に基づいた「有用性の高い順」でソートすることができる。そうするとしょうもないレビューを読まなくてすむ。まさにwisdom of clouds。

ところであの「有用性の高い順」ってどうやって決めてるんだろう? たとえばUSアマゾンのSlaughterhouse 5のレビューで、Most Helpful Firstでソートしてみると、一位が257/286 (全投票数286のうち、helpfulが257)で、次が212/236、67/75, 16/16, 28/31, という順番になっている。

一番のものから順番に、「helpfulに投票された比率」をプロットしてゆくと図のいちばん上のようになる。もしこの比率だけで並べられているならこんなにはデコボコにならない。

sh5plot3.png

どうやら、「helpfulに投票された比率」だけではなくて、投票数も加味して順位を決めているっぽい。そりゃそうだよね。16/16と1/1ではデータの信頼度がぜんぜん違う。

そこで以前のエントリ(20090319)で作ったように、最尤法で95% credible intervalを計算してやって、エラーバーを付けてやったのが真ん中の図。それっぽくなってきた。ちなみにエラーバーが0-1になっているデータは0/0のもの。

「helpfulに投票された比率」は二項分布での最尤推定値だけど、そのかわりに尤度の分布で重み付き平均を計算して表示したのが下の図。(これをnon-informative priorでのベイズと捉えれば、前者がMAP推定に相当して、後者がベイズ推定に相当する。)

完全には同じでないのでなんかまだ違うことやっているようだけど、だいたい近づいたので満足した。

データ入りのmatlabスクリプトあり:sh5plot3.m ご自由にどうぞ。

…とここまで書いて、Amazonランキングの謎を解くという本があることを思い出した。関係あるんだろうか。まあいいや。(あとで図書館で見つけたが、売り上げランキングの話で、今回の話題とは関係なかった。)

余談だけど、順位が下のレビュー(helpfulの比率が10%以下)ってのはたいがいは読んでなくても書けるような文章、たとえば「退屈で難解、読む価値無し」みたいなやつだったりして、0/10とか付いても当然ってかんじでつまらん。でもたまにトラルファマドール星人に拉致られたとしか思えないようなものが見つかる。しかもレビューへのコメント欄が煽り合戦。まさに「いったい何と戦っているんだ」状態。

  • 投稿日: 2011年12月01日
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この厳然たる事実を祝福しよう

このあいだ農協の企画で次男と稲刈りに行ってきた。三十家族ぐらいが田んぼに入って横並びで鎌を使って稲穂の根元をじょりっと切ってやる。次男は30分で飽きて田んぼのカエルを探してる。ちょうど稲の花が咲いていた。終了して新米と豚汁を食べる。うまい。隣の大家族はお父さんがひとり大声でしゃべっている。「これうめえなあ、おまえももっと食べろ」「稲の花見たか?」いろんな家族があるなと思った。

稲の花はすっごくかすかな白い花で、二時間ぐらいしか咲かない貴重なものだそうだ。これから俺の中では「白い花」とは稲の花を指すことにした。

(ある者は医者になり、ある者は役人になり、ある者は裁判官になり、ある者は大学教員になった。ある者はサラリーマンになり、ある者は会社役員になり、ある者はニートになった。でも驚くべきことに、ほとんどみんな生きている。ほとんど統計的に当たり前なくらいに。)

(これは当たり前なんだろうか? では小学生のときの同級生はどうだろう? 大学生のときの同級生はどうだろう? これは当たり前なんだろうか? 驚いたことに驚いてもいいけど、けっこう驚くべきことなんではないかと思っている。)

(吉田、オメー変わんねーなー、と言われるとなんだか誉められたような気恥ずかしいかんじがしたりする。けっして誉められたわけでもないのに。女性に同じようなこと言われてうまく返せなかったことがある。正しい答えは「XXさんはきれいになりましたね」だ。でもこれがとっさに出てこないんだな。)

(ほとんどみんな、生きている。この厳然たる事実を祝福しよう。)

ぼくらの時間にはほとんど決定的な瞬間など含まれていない。それでも決定的な瞬間はあるし、それはあまりにもさらっと過ぎていってしまう。気にするまいと、目をふさいでしまえばなんどでも過ぎていってしまう。やり直しはきかない。やり直しのつもりでもそれは言い訳してるだけだから。

気心しれた人とあんまりお金かけないで、酒飲みながら語って、あんま人生の厳しい面とか思い起こしたりとかせずに、なんか楽しいことだけ話したり、頭空っぽにしてUNOとか大貧民とかやったりしたい。蚊のいない涼しい森でキャンプファイヤーしたい。

みんなが語っているうちに、知らぬ間に居眠りをしていて、また普通に話に参加したりして、それでもぜんぜん話に着いていくことができて、山盛りのハッピーターンとカントリーマアムつまみながら、あんま人生の厳しい面とか思い起こしたりとかせずに、たのしく酒盛りをしたい。

いつも通り単独行動していたら、みんなもう撤収してしまっていた。次に行くところが置き手紙してあって、俺はそれを頼りにして蒸し暑い夜の街を歩く。(イメージは池袋ロサ会館前)

  • 投稿日: 2011年11月25日
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国道でsaccadic suppressionについて考えた

夜、国道を車で走っていて、saccadic suppressionが無効になるのを経験した。国道なんで目の前基本的に暗闇なんだけど、中央分離帯に現在の気温を示す標識っつーか情報ボードがあった。それで、ちょうど右サッカードしたときにそれが視野に入ったらしく、左方向にたなびいて見えた。

面白いと思ったのは、それがつながった灯りじゃなくて、コマ送りみたいに複数(10個くらい)見えたということだ。その前になんでサッカード中の温度標識が見えたかというと、それは暗闇で高コントラストの刺激があったからだ。普段の我々の条件ではサッカードの前後には高輝度コントラストの刺激があるので、それによって前後方向からマスクされる。このVisual maskingによって、サッカード中の視覚(動きによってぼけているため、コントラストが低い)がマスクされるので、われわれはサッカード中のぼけた映像を経験することがない。

それとはべつのメカニズムでsaccadic suppressionというのがあって、サッカードをするというコマンドを内部的に活用することによって、視覚によるフィードバックが戻って来るよりも早く、サッカード中の視覚ニューロンの活動を一時的に弱めてやるという機能がある。

Saccadic suppressionはフィードフォワード制御が脳でも使われているという意味で面白い現象ではあるけれども、サッカード中の視覚の抑制という意味ではvisual maskingの方が寄与が大きいらしい。(Wurtzのvision researchのレビューより)

それで、私がそのとき面白いと思ったのは、サッカード中の視覚がぼやけた流れではなくて、コマ送りのように見えたことで、おお!知覚とはじつは断続的なものなのだな!とか感激したんだけど、その1分後ぐらいになって、端的に光源が高頻度でフリッカーしてただけではないかということに気づいた。

つまりあれ、アートでありますよね、サッカード中だけ模様が読めるやつ。未来館で見た。たぶんそれではないかとアタリを付けて、ためしにどのくらいの周波数でフリッカーしてたか試算してみる。

けっこう大きなサッカードをしていたから試しに30degだったとして、サッカードには50msくらいは要しているだろう。そこで10個以上は刺激が見えた。5ms=200Hzで発振してるってことになる。うーむ、60Hzだったら納得がいくんだが、それよりは速そうだ。

まだ釈然とはしないが、そんなことを考えた。


ショービズ臭と自尊心問題。

高一の夏に買ったIn-A-Gadda-Da-Vida、思い起こすに、はじめて聴いたときにはちょっと失笑した。ボーカルがなんつーか、今持っている語彙で言うなら、すごいショーヴィズ臭かったから。どうやら自分はそういったショーヴィズ臭になじめないのだな。

だから[80年代スタジアムロック] vs. [グランジ/シューゲイザー/ローファイ]でわたしは後者に入り込んだのだろう。シューゲイザーの自尊心問題というのもそういう点から考えると「ショーヴィズを否定しつつ自己表出を肯定する」と捉えることが出来る。これこそが「ベッドから革命を始める」という意味。

もちろんこれは自己矛盾から逃れられない。

Jefferson Airplaneでいうならば、Marty Balinだけあきらかにショーヴィズな人なので、バンド内の立ち位置として後期はどんどん浮いてくる。コマーシャルに成功したバンドであるにもかかわらず。

なんてことは高校生のときにはけっして言語化できなかったが、言語化できたところでどうにも陳腐だった。でもそのころのまだうっすらと消えずに残っていた万能感を思い出して(さよならボクのパステルズバッヂ)、恥じ入りながら、こんなはずじゃなかったと思いながら、焦燥感持って表出し続ける。

全部この二分法でいける。カンタベリー系はショーヴィズ臭くないが、メジャーなプログレはスタジアムロック的なショーヴィズ臭がする。アシッドなサイケデリック音楽と流行に併合したファッションサイケの違いはショービズ臭の有無でわかる。

そういえば「ミスター・ソウル」「クレイム・トゥー・フェイム」「ブロークン・アロー」で一貫して歌われているテーマでもあった。


あとで見直してみたら、これはまったくもって、中森明夫が「オミズ、オェッ」(正確な表現は忘れた)って書いたのと同じではないか。


じゃあここからオフレコね。

王様の耳はロバの耳! 王様の耳はロバの耳! 王様の耳はロバの耳! 王様の耳はロバの耳! 王様の耳はロバの耳!

オフレコ終了しました。


どうか、オレのことを単純化しないでくれ、オレもあんたのことを単純化しないから、とかカマをかけたりするような会話を全くしなくなるぐらいにはオレはオレ自身を単純化してしまっていて、自分の欲望をそれっぽい物語に落とし込んで語るようになったのだが、そんなのは嫌なんだ。それが出来るためには、それが伝わると思えるくらいの自信と目の輝きと無知とが必要だったんだ。

  • 投稿日: 2011年11月06日
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