「意識研究ネットワーク」の年会(CoRN2019)を1月に岡崎で開催します

こんど1月に岡崎で意識研究に関する国際シンポジウムを開催します。参加申し込み、ポスター発表申し込みを受付中です。ぜひご参加ください。情報は以下の通り。各分野のMLに流しているのと同じ文章です。このブログではもう少しシンポジウムの狙いなどについて書いてみましょう。

Consciousness Research Networkは、意識研究のアジア・パシフィック地域での共同研究推進のネットワークづくりをめざして活動をはじめました。WebサイトでAdvisory Boardのメンバーを見てもらうとわかりますが、だいたい国際意識学会(Association for Scientific Study of Consciousness, ASSC)に関わっている人が多いです。しかし、ASSCおよびツーソンとは異なる第3の極となることを目指して、まずはアジア・パシフィック地域でのネットワークづくりをしているという状態です。

昨年第一回の年会を台北にある国立陽明大学で行いましたが、講演者19人、参加者100名以上という盛況な会となりました。第二回の年会はこの日本で、このわたし吉田がlocal organizerを行うということになりまして、アラヤの金井良太さんと相談しながら、そして途中からは名古屋外大の佐藤亮司さんにも加わっていただいてプログラムを作成してきました。

本年会の特色は「討論セッションとそれに先立つチュートリアルセッション」の時間を設けた点です。昨年の神経科学大会後のサテライトシンポジウムでBeyond NCCで4つのお題について議論する、というものだったのですが大変盛り上がりました。盛り上がりすぎてけっきょく3つしか終わらなかったっていう。これの発展形を今回加えたいと思ったというわけです。

テーマに関してですが、私のこだわりで、科学者と哲学者がもっと会話できるようにしたいということから討論セッション#1のテーマは「意識研究のために哲学者と科学者はどのように協力すればよいのだろうか?」、討論セッション#2のテーマは「意識研究において理論的なアプローチは必要だろうか?」というものにしました。

討論セッションのテーマを考えるにあたって、はじめに持っていたイメージは「科学を語るとはどういうことか —科学者、哲学者にモノ申す」だったんだけど、そんでもって討論セッション#1のテーマは「意識研究のためには哲学なんて要らないんじゃないの?」「意識研究のためには科学なんて要らないんじゃないの?」みたいな荒れそうな感じを考えてました。でも荒れるだけだと相互理解が深まらない。そこで議論をする人には前提知識を共有しておいてもらいたい、そう考えて、チュートリアルセッション#1では「心の哲学と意識のハードプロブレム」について哲学者(東大のJohn O’Deaさん)にレクチャーしてもらって、参加者はそれを同じ日の午前に聞いておく、というふうにしたというわけです。

討論セッションではパネリストの方に5-10分程度話題提供をしてもらって、そこから議論を始めるということにしています。討論セッション#1のパネリストの一人は東海大学の田中彰吾さんが確定してます。田中彰吾さんはリハビリテーションの現場などで哲学者として関わってきた方ですので、どのように哲学側から寄与できるかお話いただけることでしょう。もうひとりのパネリストを探しているところなのですが、科学者側から語れる人がいいですね。自分がやりたいという人は吉田まで連絡ください。

もうひとつの討論セッション#2としては、Beyond NCCのときに盛り上がった(紛糾した)情報統合理論IITについてもう一度、海外の人も含めた上で議論したいと考えました。ただし、あのときの議論を考えると、情報統合理論IIT自体の理論構成の細部に立ち入って議論するよりは、より一般性の高い問題、つまり「意識の理論というものはありうるのか、あるとしたらどういう形になりうるのか」ということこそが議論するべきところではないかと思いました。パネリストとしては科学者側がアラヤの金井良太さん、哲学者側が広島大学の宮園健吾さんに話題提供と問題提起をしていただけることになってます。討論セッション#2に先立つチュートリアルセッション#2では、そのような理論的アプローチのひとつとして、大泉匡史さんに意識の統合情報理論についてレクチャーを行っていただきます。

今回のシンポジウムの裏テーマは科学者と哲学者の対話となっています。ひとつの理由はConsciousness Research Networkの前回参加者が日本はほとんどが科学者で、台湾、中国はほとんど哲学者だったということがあって、国際共同研究を促進する際には科学者と哲学者との対話がそもそも必要だろうと考えたというのがあります。

もう一つの理由としては、私がASSC15(2011年に京都で開催、代表は松沢哲郎先生)でプログラム委員をやっていたときの印象ですが、私自身が科学者ということもあって、日本国内の哲学者に十分リーチできていない、十分議論できる機会を持てていないというものがありました。今回はそこをなんとかしたい、ということでそれ以降にできた繋がり、とくに北海道大学の田口茂さん、名古屋外大の佐藤亮司さんを通して意識研究に関連性のある哲学者に声をかけていった次第です。

さあどうでしょう?討論セッションもチュートリアルも面白くなるんではないでしょうか?討論セッションが盛り上がるかどうかは参加者しだいですので、ぜひナイスなツッコミができる方の参加をお待ちしております。岡崎でお会いしましょう!

ポスターセッションもやります。ぜひ演題出してください。意識研究そのものでなくても大丈夫。将来意識研究をしたい人が自己紹介するつもりでいまやってることを持ってきてくれればよいです。こちらもぜひよろしく。


  • 日時: 平成31年1月23日(水)13時 ~ 25日(金)18時
  • 会場: 岡崎コンファレンスセンター(名鉄東岡崎駅より徒歩10分)
  • 参加費:無料
  • 研究会webサイト:https://www.conresnet.org/
  • 基調講演:
    • 北澤 茂 (大阪大学)
  • 一般講演:
    • Qiufang Fu (Chinese Academy of Science, China)
    • 本城 咲季子 (筑波大学)
    • Po-Jang (Brown) Hsieh (Duke-NUS Medical School, Singapore)
    • Hakwan Lau (UCLA, USA, University of Hong Kong, HK)
    • Ying-Tung Lin (National Yang-Ming University, Taiwan)
    • 田口 茂 (北海道大学)
    • Lu Teng (NYU Shanghai, China)
    • 渡辺 正峰 (東京大学、マックスプランク研究所)
  • 討論セッション
    • #1 “How to collaborate philosophy and science for consciousness research?”
      • パネリスト: 田中 彰吾 (東海大学) + TBA
    • #2 “Theoretical approaches to consciousness research: Is it necessary? Is it possible?”
      • パネリスト: 金井 良太 (株式会社アラヤ) + 宮園 健吾 (広島大学)
  • チュートリアルセッション
    • #1 “Introduction to philosophy of mind and the hard problem of consciousness” by John O’Dea (Univ Tokyo)
    • #2 “Introduction to integrated information theory (IIT)” by 大泉 匡史 (株式会社アラヤ)
  • オーガナイザー:
    • 金井 良太 (株式会社アラヤ)
    • Ying-Tung Lin (National Yang-Ming University, Taiwan)
    • 南部 篤 (生理学研究所)
    • 佐藤 亮司 (名古屋外国語大学)
    • 吉田 正俊 (生理学研究所)

参加費無料。参加登録、ポスター申し込み受付中。

くわしくは研究会webサイトから:https://www.conresnet.org/


さうしてこのごろ201601

今日は昼から実家に弟一家も集結して11人で乾杯。近くの公園でサッカーボールで遊んだり、8人でババ抜きしたり。あと初めて「4人制スピード」をやってみた。試行錯誤の結果、参加者は4人で場のカードは2枚でやるのがちょうどよいことが判明。場のカードが4枚だと一発で終わってしまう。

あと、参加者が5人だと接触プレーが多すぎて危険。

あと、場にプレーヤーの手札が重なりまくって正しく手札が置けてないという問題が発生するので、レフェリーをひとり置いて訂正をさせると、プレイを止めなくて済むので良いということもわかった。横で見ている方が面白いってのもあるので。

あともう一つのポイントはトランプは2セット使って、ジョーカーは除いておくとよい。(<-マニュアルみたいになってきた)


Tychoが気に入ってこういう音(リヴァーブかけまくり+シンセパッドでもやもやの音像)の作リ方調べていたら、Chillwaveというキーワードを発見した。それでwashed outとかToro Y Moiとかを知った。ジャンル分けもこういうときには役に立つ。

私自身はシューゲでサイケな方が好きなのだけど、いわゆるChillwave、たとえばWashed outはもうちょっと80年代ディスコサウンド的な要素が入るようで、あまり趣味ではないのだけれども、聴いてれば慣れるかもしれない。

60年代サイケからChillwaveへの系譜という意味では、ソフトサイケのGundalfでのヴォーカルにリヴァーブかけまくりの音とかは近いんではないかと思った。そういう見方で聴いてみると昔の音だからスッカスカではあるけど。


正月も終了してしまったけれども、この時期になると想い出すのは「スカスカおせち」と「サンタクロースミュージックFES」だ。なんでこんなに気になるのかはわからないが、いまでもあれはけっきょくどうなったのだろうと気になる。

今日は次男を連れて吉良町の屋内プール(ホワイトウェーブ21)へ。年始だからかガラ空き。流れるプールで前後5mに人がいない!というわけで3時間みっちり次男と遊んできた。家に帰ってすぐに爆睡したけど、これからまたさっさと寝る。レジリエンスを涵養中。(<-テキトー)

昨日ひさびさに(たぶん10年ぶりくらいに)Space OddityをiTunesで聴いたところだったので、訃報には驚いた。この偶然に意味を見出したいところだが、ぶっちゃけ偶然。

やれやれみたいなポーズで「負けそ。」って言いながらドヤ顔でカメラ目線で、お茶の間の笑い声が重ねられる、っていう記憶の断片があって、多分昔の海外のコメディードラマなんだろうけど、わからん。たぶんこのエピソード記憶を支えていた細胞は3個くらいしかなかったんだろう。


以前は東岡崎駅前で夜9時以降営業している飲食店といえばココイチしかなかった。でも昼に行くと家帰ったときに奥さんに外食したのが臭いでバレるので次第に行かなくなった。ここ数年では、カレー欲が高まったときはステーキガストの日替わり定食のカレー食べ放題を利用する。味にこだわりは無い。

そうしたら、学食とかふつうのカレー屋とかであるような、ルーとご飯の比率を考えながら食べる必要がなくなって、ルー2:ご飯1 (通常の比率と比べて) くらいでいけるようになって幸せになった。ルーの味よりも、ルーの比率が低いことのほうが俺を不幸にしていることがわかったので、最近は学食の380円カレーでも、ルー比の高い状態でカレーを食って、余ったご飯は残すという方法を編み出した。これで人生の幸せが二倍になった。

Matthew Sweetの"Girlfriend"のドラムが好きなんで、アウトロのブレーク後のドラムだけのところをDAWで切り出して、ループにして120bpmを100bpmに下げてベースとエレピ入れたら、Fatboy Slimみたいなビッグビートになったのでなるほどと納得した。

「ぶももも」みたいな擬音ってなんだったかと思案していたが、「できんボーイ」(田村信)の「ずもも」のことだったようだ。Kindleで1巻読んで確認してみた。少なくともこの擬音のセンスは私の心の奥底に埋め込まれているのは確かだ。


さうしてこのごろ201512

うちの次男が「安心して下さい、穿いてますよ」をわざわざ実演して説明してくれるのがウザいながらも愛おしい。

「49%の職業が機械や人工知能によって代替することが可能」のニュースを見ながら長男と「ベーシックインカム」とか「蔓延する自己責任論」とかそういうことについて語った。

昨日は長女が英語のリスニングの勉強の仕方を知りたいと言っていたので、ESLPodcastを薦めたがまだ難しそうで、洋楽の歌詞カード読んで歌えるようにすればというのが長男との結論だった。


「藤田嗣治、全所蔵作品展示」に行って戦争画見てきた。これはすげー。玉砕の美化かつ戦争の悲惨さだった。縮小サイズで見てたら折り重なる人々と暗い色調に目が行くのだけど、 実物で見たら日本刀の威力が強くて、敵とともに互いに喉元を押さえあって刀を突き立てるというモチーフがいちばん心に来た。

実際の戦争はこんな肉弾戦ではなくって、兵站の軽視による餓死と病死だったことを知っている我々にとってはこれは見てきたようなウソなのだけれども、でもそういうのを超えたものに圧倒された。そういう何重にも読み取れるものがここには入っていて、これを見て「玉砕の美化、戦争協力、イクナイ!」と言うわけにもいかないし、「戦争の悲惨さを訴えた名作」というのも正しくない、ということを実物を見て感じて帰ってきた。

補足すると、敵も見方もわからないような入り混じった状態で(顔はどちらも迷彩のため赤茶色に描かれている)、唯一それを知る鍵が日本刀を握っているかになっているということ。西洋画の意匠の借用が多いもの(「神兵の救出…」「ソロモン海域…」とか)よりもただただ暗く塗られたものが良かった。

その一連の作品で一番いいと思ったのは「ブキテマの夜戦」というやつで、これはもはや肉弾戦をしているところは山の端に見える細い赤色で暗示されているだけで、前面は打ち捨てられた野営所か何かで、暗い画面をよく見ると3人くらい死者が横たわっているというもの。これには心が震えた。

これは1944年、最後の最後のあたりの作品なので、どう解釈しても戦争賛美を読み取ることができない。戦争協力側に入りながら、大衆の支持を集めたことで、軍部の怒りを買ってもおかしくないような相当きっついところを攻めている作品のように思えた。


MogwaiのTravel Is Dangerousがロシアの潜水艦クルスクの沈没をテーマにしていると読んで、アウトロの音の意味が理解できてしまった。あと歌詞の聞き取りが英米人でもめちゃめちゃだということが分かって拍子抜けした。

Sing, Singじゃあおかしいもんな。Sink, Sinkだ。「沈む、沈む、母国によって溺れさせられ。この古いマシンは呪われ、忘れられ、二度と浮上することなく。」こうなのだな。


今日の午前は実家で今日の午後のプレゼン資料づくり。両親が仕事をしながらかけているAMラジオから「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が流れてきて、思っていたよりもバッキングがかっこよくてシビレた。

世間ではスター・ウォーズが盛り上がっているけど、告白してしまえば全く見たことがない。つか80年代辺りの洋画を全く見てないことに気がついた。E.T.、バック・トゥ・ザ・フューチャー、トップガン、シュワルツェネッガー出演作、スタローン出演作、ダイ・ハード、エイリアン、ジョーズ、ゴーストバスターズ、ロボコップ、インディ・ジョーンズ、マッドマックス。これは教養に欠けるという意味で恥じるべきなんだけど、なぜか全く興味が無い。ってここまでピックアップしてみて気づいたけど、アクション映画を見るという習慣が(レンタルですら)無いということか。

なんか70年代後半のギャグマンガで「ぶももも」みたいな擬音があったよなと思って調べてみたが見つからない。代わりに「ぶももベーカリー」という名のパン屋を見つけた。香椎神宮駅前だそうな。俺の人生と交錯してまた去っていった。


ついにサンタクロースの正体を知ってしまった次男のために自転車を買いに帰宅ラッシュの国道248号線を行ったり来たり。日、水、木と三回目でやっと買えた。次男も満足、私も満足。よいクリスマスイブとなった。

長女が「サンタクロースは本当はいるんだけどその正体を疑ったがゆえに来てくれなくなったので、代わりにパパとママがプレゼントを買ってくれるんだよ」という論理を展開したが、次男は聞いちゃいねえ。


「けれどもかれらの存在は彼らにとって無限であり、意識の枠がなく、おのが状態に向ける眼をもたないそれはかなたへ注がれているかれらの眼差に等しく純粋なのだ。かれらが未来をみるとき、かれらはいっさいを見る。そしていっさいのうちに自己を、永遠にまったき存在である自己を見ているのだ。」

「けれど動物も、その身はつねに警戒にほてり、かれらのなかには大きい優秀をはらんだ重さと不安がひそんでいる。つまりかれらにも常にまつわりついているものがある、それはわれわれをしばしば圧倒するもの、ーーー思い出だ。」(第八の悲歌)

ここで「思い出」と言っている部分の原語はErinnerungなのでこれはふつうにmemory一般を指していて、recollectionとかそういった含意はないようだ。

ここでいう「開かれ」(das Offene)ってのが「行為的連関のモード」にあり続ける動物であり、反対向きに(内向きに)死の恐れを見るのが表象によってできた「反省的試行のモード」の世界であり、(フッサール)現象学ってのはそういう開かれ(直接的な経験)への志向っていう俗っぽいご利益があるってことなんではないだろうか。

第8悲歌で動物にもErinnerungがある、ということを書いてあって、これはふつうにmemory一般と理解していたが、「経験の構造」を読んでたら「『受動的総合の分析』における『想起(Erinnerung)』の理論」という記述が出てきた。


家族と一緒に食卓を囲む日常を過ごしていて、当たり前のようでいてこれ以上なく幸せなことだなと思う。正直今日は悪いニュースもあったけど、そんなの吹き飛ぶくらい、毎日が幸せだ。(<-涙目)


さうしてこのごろ201511

薬品会社の工場が移転した跡地に新興住宅街ができていて、きれいにライトアップした家が立ち並ぶところを自転車で通りかかったら、子どもたちが列を作って練り歩いていて、いちばん先頭のやんちゃっぽいのらしきが「トリックオアトリート!」と叫んでいるのを通り過ぎた背後で微笑ましく聞いた。


「『俺たちの旅』の歌詞はラブソングではないところが良い」って書いたけどこれは正確ではなかった。「背中の夢に 浮かぶ小舟に あなたが今でも手をふるようだ」には「あなた」への憧憬の情がある。でも「憧憬」ってとても良い。ライドっぽい。

と言いたいところだが、アンディ・ベルの曲はだいたい甘ったるいラブソングで最高(Vapour trailとか)。マーク・ガードナーの曲は寂寥感あふれてて至高("Seagull"とか"Leave them all behind"とか)。たぶん。歌詞全部再確認する必要があるが。

確認のためにアンディ・ベルによる解説を再読した。 Seagullはアンディ・ベルだそうです。さきほどの説はretractしたいと思います、と言いたいところだが、Unfamiliarがマーク・ガードナーなので、だいたい合ってる。


近所の100円ローソンショップでご老人達が生活用品をたくさん買い込んでレジが行列になってた。400m先にAEONがあるのだけど、徒歩圏であることが重要なのだろう。竜美のこの辺は1960年代に住宅造成がなされて移り住んだ人たちが(私の両親と同じくらいの)70-80歳になっている。

名古屋に通うために岡崎に家を購入する若夫婦は、以前は竜美に家を建てたのだろうけど、私が来た頃は緑丘だったし、さらに上地にも新築の住宅がたくさん建った。いまは福岡町と中島町のあいだに広い道路ができて(わたしの自転車コース)、そのあたりが住宅建築ラッシュとなっている。


ひさびさに次男と「人生ゲーム極辛」をプレイ。父は順調に社長へとステップアップして裕福な人生を歩み、次男は途中でフリーターにジョブチェンジして借金だらけでゴール。終了後に「ジョブチェンジのところはおまけしてほしかった」とか言いながらため息ついて片付けしてた。甘ったれてやがる。

昨晩は久々に子どもたちと外食。今どきの中高のスクールカースト状況とか、ヒップホップの4大要素とか、シャドーイングの仕方とか、森羅万象について長男と長女と語り合った。そのあいだ次男は食い過ぎでダルそうにしながら、ストローでサイフォンの原理を再現するなどの科学的偉業をうち立てていた。

太宰の言葉を借りて表現するならば、「けれども私は、ハムレット話法というものを処世術みたいな打算的なものとして考えていた矢先であったから、」批判者の曖昧であるという言葉を意外に感じた、というところになる。(<-いろいろ考えた挙句のこの表現)

今日は次男を体操教室に連れて行って、車の中で「アルクアラウンド」を二人で熱唱。一番のヒラウタ部分の「僕は歩く〜」が四回繰り返されるところが良いと言っていて、よくわかってるじゃんと関心した。


なんとなく詩が読みたいと思って先週借りてあったリルケの「ドゥイノの悲歌」を読んでる。案外覚えてた。大きい数字がきっちり割り切れるところとか、軽業師についての言及とか。以前読んだのは学部の頃だろうか。当然岩波文庫の改版前のものだ。どっかにドイツ語の原書があるのだが、実家だったか?

「ドゥイノの悲歌」の第8悲歌は「動物と人間」がテーマで、「動物にとって開かれている」という表現がハイデガーの批評の対象となったとかは知らなかった。さらにまさにこれをテーマとした「開かれ 人間と動物」アガンベンという本もあることを知った。読めるかどうか分からないが借りてこよう。

『ドゥイノの悲歌』の第八悲歌の解釈 独語独文学科研究年報, 16: 53-66 良い資料も見つかったので、ドイツ語で読むか。(<-ぜったいやらない系)


Saint Etienneを聴きながら帰宅。「こんなにいい気分なのははじめて、こんなに自分が強く感じるのははじめて、何人も私たちを止めることは出来ない!」とセカンド・サマー・オブ・ラブのMDMAで多幸感出まくり感あって最高。

「アウトロなんて「完璧!(perfect)」ってリフレインしてるし。」って書くつもりで、でも念のため歌詞サイトチェックしてみたら、アウトロのウィスパーは「何人も!(nothing)」って繰り返していることが判明。俺24年間ずっと勘違いしたまま聴いてた。どっこいそれでも生きている。


今日は家族5人全員で上和田町のスバカマナ。食べ放題をやってた ので、というかそういう時しか行かない。こうやって家族5人で外食というのも長男が高校を卒業したらなかなか無いだろう。じつはあと数えるくらいしかこういう機会はないのだ。きっと今日のこともいつか懐かしく思い出すことだろう。

今日は子どもたちのひいおじいさんが天パーだったのでうちはみんな癖っ毛とか、長女がいつも写真取っているのはinstagramにアップしているからとか、そういうとりとめのないことを話したが、あとでそれを想い出せるように、ここに記して永遠の記録とする。


急に思い出した。私は中学か高校くらいの頃、父親はまだ酒を飲んでいて、いつも行く寿司屋の「たけさん」でビール飲んで将棋打って、酔っ払って帰ってきて、たまに「マスオさんが持ってくるアレ」を持ち帰って、みんなで寿司(鮪の赤身)を食べたのだった。

「たけさん」はおやじさんの体調が悪くなったかなんだかで店じまいをして、いまは別の店になっている。その隣りにあった古い本屋も、さらに隣りにあったスポーツ用品店も、その向かいにあったレンタルビデオ屋も、みんな無くなった。

俺の人生が停滞しつつ徒に時が過ぎてゆくばかりであるあいだに、2年8ヶ月ぶりの「よつばと!」の13巻が出た。買いに行こうっと。

「みかんの心ぼし」をひさしぶりに聴いてみたら、3番の歌詞の展開がPixiesのMonkey Gone To Heavenの3番の展開を完全に先取りしていたことを知って、あのねのねの偉大さに驚いた。当時は不二家歌謡ベストテンとかでワンコーラスしか聴かなかったから気づかなかったのだ。


生理研研究会「知覚学習と運動学習」提案代表者の柴田和久さんからコメント

生理研研究会「知覚学習と運動学習」のほうは参加申込受付中。ポスター発表もぎりぎり前日まで受け付けてます。ぜひいますぐ。

昨日のブログ記事を受けて、提案代表者の柴田和久さんからもTwitterで研究会についてコメントしていただきました。許可を得たので以下に転載します。(リンク情報などに編集あり)


@kazuhi_s_ 吉田さんのブログに乗っかって、僕も研究会についての個人的ないきさつとか考えを書いてみる。すでに参加予定の方、参加を検討してくださっている方への参考になれば。(以下連投)

@kazuhi_s_ ここ数年ずっと頭にあったのがこの論文

知覚学習と運動学習の共通点を議論した論文で、知覚学習のSagi、そして運動学習のLeo Cohen、両者をつなぐCensorによるもの。Fig 1がよくまとまってる。

@kazuhi_s_ 知覚学習も運動学習もダイナミックな過程で、訓練、固定、再活性、再固定というステージを経る。従って、知覚学習も運動学習も干渉 interference が起こったり、固定までに時間を要したりする。睡眠も重要な役割を果たす。

@kazuhi_s_ MC研究会に参加したりすると、さらに記憶研究ともつながりがあることがわかる。個人的な印象では、記憶研究がもっとも歴史が古く知識の蓄積も多い。記憶に運動学習が続き、そのあとにさらに知覚学習が続く。

@kazuhi_s_ たとえば干渉は記憶の場合古い研究がたくさんあり、運動学習の干渉は90年代に隆盛を迎え、知覚学習で干渉研究が増えたのは2000年代以降。でも、記憶と運動学習と知覚学習では実験的にできることが違うからか、互いに局地的に進んでいるトピックもあったりする。

@kazuhi_s_ 互いに似ている部分はあるけど、運動学習と知覚学習の研究は結構独立している。だからそれぞれの分野の人から話を聞いて議論したら、互いに得るものが大きいのではないかと思った。

@kazuhi_s_ 共通性とは別に、最近脳の興奮抑制のバランスと可塑性の関係が気になっている。講演者のひとりであるHenschさんは、90年代の終わりから、臨界期のげっ歯類の視覚野などで興奮抑制バランスと可塑性の関係を示してきた。

@kazuhi_s_ 興奮抑制バランスが重要なのは臨界期だけではないようで、最近は成体でも興奮抑制バランスと可塑性/学習が関係しているという仕事が結構出てきた。僕が渡邉武郎さんのところでやっていた仕事もその流れの一部と考えることができる。

@kazuhi_s_ ということで、干渉、固定、再活性といった学習プロセスが記憶、運動、知覚で共通していそうなこと、そして可塑性や安定性の調整は興奮抑制バランスが担っているんじゃないかという枠組みがおぼろげながら見えているのが現状だと思う。

@kazuhi_s_ 個人的には、共通性や興奮抑制バランスをキーワードに研究会を楽しめればいいなと。


柴田さん、ありがとうございます。

柴田さん@kazuhi_s_ も書いていたE-Iバランスの話はわたしも非常に興味があります。脳が「刺激に対する応答」ではないこと、脳でのコーディングを理解するための本質だと思うので。偶然だけど、ちょうど昨日のエントリの前にRenart et alのScience 2010 Asynchronous State論文をJCでやったときのメモを書いてた。「Asynchronous State」

van Vreeswijk and SompolinskyのScience 1996にあるみたいなカオスとか、neuronal avalanchesでself-organized criticality出てくる話 (J Neurosci. 2009 Dec 9; 29(49): 15595–15600)とか、このあたりにはいろいろあるけれど、とにかくE-Iバランスを保った状態にあることが脳の正常な機能には必須で、だから可能な脳状態というのはおそらくずっと少ないだろう(ref忘れた)とかそういう話に興味がある。


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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