「西瓜、千石自慢らーめん、第一農場」(さうして、このごろ2022年7月版)

業スーに行ったら、なんだか西瓜みたいな香りがしてきて、日曜日の夕方に笑点を観ながら西瓜を食べて、もう週末終わっちゃうなと感じていた、そんな記憶が蘇った。じつのところ、笑点なんて観てたのはずっと昔、小学生くらいのときしかないはずなのだけど。

このままビールでも飲んでそのまま爆睡して、といきたいところだが、まだやらなければならない仕事があるのだった。先週も本気出したはずなんだけど、どうしてこうなるのだろう?明日から本気出す。


[今日の俺通信0702] 2日目の抽選当たった。8月まではがんばって生きる理由ができた。石狩湾新港樽川ふ頭までは16kmなのでチャリで1時間くらい。あらかじめ予行演習しておこうと思う。

Alvvays - Pharmacist これ好き。映像もよい。

「異世界おじさん」面白かったので視聴継続する。セガネタはまったくわからなかったが、それでも楽しめた。自分は家庭用ゲーム機をやったのはファミコンまで(弟とファミリーテニス1987)、アーケードゲームはゼビウス(1983)までという人間なので、ドラクエもFFも触ったことがない。後悔はしてない。

でもジャンプ黄金期を逃したのはいつか取り戻したい。「ジョジョ」は1期までしか読んでない。「幽遊白書」も「ボボボーボ・ボーボボ」も「DEATH NOTE」も「BLEACH」も「NARUTO」も「銀魂」も「HUNTER×HUNTER」も「ONE PIECE」も読んだことがない。追い出し部屋で毎日ジャンプ読むだけの仕事がしたい。

コミックを読む能力が衰えてきているのを実感する。このあいだ一念発起して(<-?)、積んでたごちうさ4巻を読んだら、読み終えるのに2時間弱かかったのにはびっくりした。


「千石自慢らーめん」閉店だって。ホープ軒とともに私の心の故郷だった。大学生の頃にけっこう通った。(附属水泳部コーチの帰り道で。1988年開店だから当時は新しかったみたい。) ここ数年は東京に出張しても近くを通ることがないので、なかなか行く機会がないままだった。

自分はいまでも背脂チャッチャ系を探しているけど、いい店が見つからない。だいたいどの店も「臭く」ない。いま調べたら、ホープ軒ですらあっさりめに振ってるみたい。

背脂系の代替として二郎系を選んでる側面がある。だから自分にはモヤシが邪魔。ほんとうは「野菜抜き」で注文したいけど、対応してない場合面倒なので、いつも「野菜半分」でコールしてる。家系はぜんぜん良さがわからない。吉村家でさえピンとこなかった。必要なのは鶏油やラードではなくて背脂。


この図好き。自分は「カンデル本にぜんぶ載ってるよ」よりはこういう「一枚絵にとりあえずぜんぶ載ってるよ」っていう提示法に惹かれる。パズルのピースを埋めたい欲求を刺激するというか。(研究の話ではなくて教育の話をしてる)

物理でこういうのがほしい。でっかい紙にmaxwell方程式とか熱力学の基本方程式とか数少ないものが中心に書いてあって、そこから派生してすべてのことが説明できます、みたいなやつ。


[今日の俺通信0705] ウォーキング再開して3ヶ月経った。時間を40分に固定して、平均心拍数が130-140をキープするようにする。以前半月板を痛めたので、今回は極力上下動無しのウォーキングにしてる。メトロノームを使ってピッチを180step/minに固定する。これで1stepの長さだけが操作できるパラメータになる。

時速6.5kmくらいまで上がってきて、歩きから走りに移行する直前まできたが、膝を傷めないこと優先で慎重にやってる。幸い膝の痛みを感じることはない。ダイエットの効果は劇的ではないけどちょっとずつ減ってる。それよりはウォーキング後に頭がはっきりするのでもう一仕事できるのがメリット。

これがあって40分走にした。以前は60分走かつ運動強度が高かったので、汗が引くまで時間がかかり、走った後仕事をする余裕もなかった。19時くらいで集中力が切れたタイミングでウォーキングすると20時くらいからもう1時間ちょい集中して仕事ができる。難点は夕食が遅くなる点だがこれは未解決。

メトロノームを使ってピッチを180step/minに固定する、は以前読んだ本から取ってきたもの。以前は大股で走って踵を痛めてしまったので、それを防止する役割、あと、ピッチを固定すると歩幅だけが操作可能なパラメーターになるので、心拍コントロールがしやすい。ただ問題はメトロノームをかけながらだと音楽を聴けない。

骨伝導イヤホンで小さく音楽かけながらメトロノームに合わせるというトリッキーなやり方をしてた。でもここ最近Hammockというアンビエント/ポスト・ロックバンドを知ったので、ヘビーローテーションしてる。ドラムがほとんどなくて、アンビエントなギターと弦楽器が延々続くので、ふだん聞くには退屈だけど(バンド自体も「就寝用プレイリスト」を作ってたりする)、夕焼けから夜の街に変わる時間帯に聴くとなんだかすごくよく響く。ちょうど走り終わったところで始まったこの曲"Razorback Drug Town"を聴いたら、なんかすげーチルアウトっていうか夜空に心が飛んだ。

音楽の構成としては「ニューエイジ・ヒーリング」的なアレに近くて、あまり自分が聴く分野ではないのだけど、出てくる音がギターに深いリバーブかけた、ポスト・ロック的な音なのでなんか聴けてしまう。そんな今日このごろ。


ひさびさにwindows PCのセッテイングをしたら(5年ぶり?)、BTOのPCだったので、ライセンス認証の仕方がわからなくてドハマリ。けっきょく「ライセンス認証 > ライセンスキーを変更する」をすればいいということに気づくまで1時間くらいかかった。

スナックバス江、「北海道最大の繁華街すすきの――から5駅離れた」なんて書いてあるから平岸あたりかと思ってたら、北24条か。ご当地ものじゃん。だいたいどのへんのことか想像がついた。Mohan Dishからちょっと東に入ったあのあたりに昔ながらの飲み屋街がある。入ったことないけど。

自律性におけるprecariousnessについて考えていたら、進化においてもたまたまいま生き延びているのを適応的と呼ぶだけで、環境が変わったときに生き延びることは保証されていない。ここにもprecariousnessがあるのだなと気がついた。たぶんどこかに書いてありそうだけど、自分で思いついたのでメモ。

たまに買っている「フルタ製菓 生クリームチョコ」をスーパーでカゴに入れようとしたら、なんか妙に軽い。これはもしかしてシュリンクフレーション?と思って家に帰って調べてみたら、ほんとうに184gが174gに減ってた。気づけた自分にびっくりしたわ。

生理研のプレスリリース。窪田さん。イラストレーションに鯉田孝和さんの最新作が出てる。私も以前、盲視の論文のときにイラスト書いてもらったことがある。こちらにあり: ギャラリー

一週間くらいmatlabに触っていなかったら、"hold on"のフレーズが出てこなくて1分くらい難儀した。幸いググる前に、手が思い出した。それにしても、歳取るってのはこういうことか…

八軒の業務スーパーでの買い物の帰り道、平成ポプラ並木に寄ってみたら、北大第一農場の牛と羊たちがいるのが見えたので、記念撮影しておいた。いまこちらの気温は21度くらいで、なんだか秋が来たような寂しい空気を感じる。


雪の季節が来る前に食品宅配サービス使ってみた。でも第1回目の配達が今日なのを忘れてて、7時間後の輸送箱開けたら牛乳と納豆がぬるくなってた。号泣しながら処分した。水2L*6本1箱とかを運ばなくて済むのはすごくよい。

宅配一回ごとに220円なんだけど、これは一人暮らしではペイしないな。ついでに他のネットスーパー(イトーヨーカドー、イオン、西友)も調べてみたが、配送料は同じくらい。Amazonフレッシュは北海道では利用できない。

たぶん、大きい冷蔵庫を買って2週に1回ペースで宅配注文、が正解か?


CHAINセミナー 鈴木健「複雑な世界を複雑なまま生きることはいかにして可能か」に参加してきた

[前口上]

北海道大学人間知・脳・AI研究教育センター(CHAIN)では定期的にCHAINセミナーというものを開催していて、学際的な研究をしているさまざまな人にトークをしてもらってる。これまでにCHAINセミナーについてはCHAINのwebサイトの情報を確認してほしい。

それで第29回となるCHAINセミナーでは「なめらかな社会とその敵」の著者であり、スマートニュース株式会社の代表取締役・CEOでもある鈴木健さんにトークをしてもらった。ちょうど10月に「なめらかな社会とその敵」がちくま学芸文庫から文庫版として加筆されたものが出た、というタイミングでもあった。

講演のタイトルは「複雑な世界を複雑なまま生きることはいかにして可能か」というもので、これは氏の「なめらかな社会とその敵」での主要な問いを持ってきてる。セミナーの要旨などはこちら: https://www.chain.hokudai.ac.jp/events/3059/

講演はCHAIN公式Youtubeチャンネルから視聴可能になってる。動画はこちら: 第29回 CHAINセミナー 鈴木健「複雑な世界を複雑なまま生きることはいかにして可能か」 ついでに埋め込んでおきます。


このセミナーが実現したのは、CHAINの専任教員の鈴木啓介さんとCHAINの兼務教員の飯塚博幸さんが鈴木健さんと(東大駒場の)池上高志ラボの同窓生であるという繋がりがあったからだ(注1)。

私自身は鈴木健さんの活動については2000年代後半にisedでのPICSYの話とか、CNET Japanブログとかを読んでいた。それで2013年に「なめらかな社会とその敵」が出版されたときはけっこう話題になっていたのだけど、途中に数式が出まくる場所があるのを見て、ずっと読まずにいた。

それで今回のCHAINセミナーがある機会に「なめらかな社会とその敵」文庫版を読んで、講演に参加してきたので、この本と講演について考えたことをメモしておきたい(注2)。以下鈴木健さんの本については「なめ敵」と略することにする(ページは文庫版のページを示す)。


[講演の概要]

講演は「なめ敵」の章立てに沿ったものになってる。まず1,2章は基礎論で、オートポイエーシスの考えをもとに、核-膜-網という構造が生命システム、認知システム、社会システムなどで反復して現れることを提示している。それを踏まえて、鈴木健さんが提案する伝播投資貨幣(PICSY)の話(3-5章)、分人民主主義(Divicracy)の話(6-7章)、構成的社会契約論(10-11章)について紹介される。

あいにく1時間のトーク(15分ほど延びたけど)でかぎりがあるので、それぞれについては細かい話はせず、おもにその動機とかについての話をしてる。あと8-9章ははしょってる。ここでは人工知能の研究の歴史を、核-膜-網になぞらえるということをしていて、個人的にはツッコみたかったのだけど。

最後に「なめ敵」の文庫版で追加された「なめらかな社会への断章 2013-2022」について話をしてる。ここでは「なめ敵」が出版された2013年以降の動向についてコメントがされている。まずは本書で提案されたものと近いものが実現していることを説明する。つまり暗号通貨が使われるようになった。イーサリアムのスマートコントラクトは、構成的社会契約論で議論された「契約の自動実行」が実現している例だ。いっぽうで「なめらかな社会を作るために膜を緩やかにしていこう」という本書の主張に対して、じっさいの世界はむしろ逆に分断へと進んだことが指摘される。

このような現実について、鈴木健さんはさらなるイノベーションが必要であるという立場にあり、「わたしたちがイノベーションを起こさない限り世界は変わらない」と表明して講演を閉じる。「なめ敵」で提唱された考えがじっさいに世界に影響を及ぼすのには300年かかるかもしれないという見積もりを、グーテンベルグの印刷技術(1445年)が宗教革命を経て市民革命(1789年)が起きるまで300年かかったということからの類推で議論している。

こんなかんじの講演が行われて、会場では活発な質問が飛んだ。わたしもいろいろ聞きたいことはあったが、CHAINの学生たちが活発に質問を投げかけていたので、みんながんばれ、とおとなしくしてた。(<-後方彼氏ヅラ)

そのあとの懇親会でわたしも多少鈴木健さんとは話ができたので、いくつかコメントしてみた。あまり時間がなくてまとまった話はできなかったので、以下で考えたことをまとめてみる。


[第1,2章について: 核-膜-網の関係]

第1,2章では、がっつりとオートポイエーシスの話をしている。生物の生きている特性を取り出すために、オートポイエーシスの理論そして「なめ敵」では「膜」に注目する。ちょっとここでわたしがいま田口茂さんと書いている本のために作った説明を書いておこう。(こちらの本は来年度の出版を目指して執筆中。乞うご期待。)

単細胞生物は細胞膜を持っていることで代謝反応が可能になっている。これは、代謝反応が可能になるためには物質が拡散せずに細胞膜の中で充分高い濃度を保つことが必要になるからだ。そしてこのような代謝反応によって細胞膜自体も作り上げられる。このように[細胞膜による濃度の維持というプロセス]と[代謝反応というプロセス]が互いに互いを可能とするような関係にあるということが、Varelaの言う「生物学的自律性 biological autonomy」だ。

このような生物学的自律性によって細胞は「内」と「外」とを区切り、「単体unity」と「世界world」を区別するようになる。これがミニマルな自己(個体性individuality)の起源となる。このようなミニマルな自己が視点を持つことがミニマルな主観性の起源であり、さらにそのミニマルな自己にとっての意味が生成される(sense-making)。

いっぽうで単細胞細胞で行われていることを虚心坦懐に見るならば、それはただの化学反応の集まりにすぎない。このようなネットワーク「網」を「なめ敵」では「膜」に対置するものとしてもってくる。

そしてさらに細胞の「核」の概念を持ってくる。細胞核はDNAに遺伝情報を持っていて、それがmRNAに転写され、タンパク質に翻訳される。いわゆるセントラルドグマというものだが、このような意味で「核」は中央からの制御をするものとして捉えられる。しかし「なめ敵」での語られているように、このような「制御」的な視点というのはあくまでも外側からの見方だ。生物にとっては、生物学的自律性の中で、あたかも制御をする中心としての役割を果たすようになっただけであり、じっさいには「網」の中で「制御するもの」は「制御されるもの」から切り離せないような形でその役目を果たしているにすぎない。

このようにして単細胞生物が、本質的には「網」であるものが「膜」を持つことで個体性を獲得し、あたかも「核」が司令して制御されるようなものとして取り扱われる。より正確に言うなら話は逆で、あたかも「核」で制御されているように見えるものが「膜」によって維持される自律性であり、そしてそれをさらに微細に見てゆけば化学反応の「網」にすぎない。このようにまるで仏教での瞑想のステップを進むように解像度を上げてゆくプロセスがあるということだと思う。(この「解像度」というところは「なめ敵」ではなくてわたしの読みなのだけど、「解像度」についてはのちほど再訪する。)

このようにして「なめ敵」では「核」-「膜」-「網」という関係を持ってきて、これが単細胞生物だけでなく、神経系を持つ個体(=多細胞生物)、他者、社会、というところで繰り返し出てくる構造であると議論する(「なめ敵」第1章p.45の表1.1など)。ここで「膜」-「網」を対置するのはオートポイエーシスの中でよく出てくる話だけど、「核」を持ってくるのは「なめ敵」特有のアイデアだと思う。

また、単細胞生物がオートポイエーシスであるのと同様に、神経系を持つ個体や社会がオートポイエーシスである、というような議論はMaturanaやLuhmannとかがしてきた。私自身はオートポイエーシスの概念を社会とかに当てはめるのを避けるVarelaの立場の方を支持している。では「なめ敵」ではどうか、Luhmannと同じなのか、というとそうではないと書いてる。

生命システムと社会システムがにているのはアナロジーや形式的同型性ではなく、一方がもう一方を包摂する現象であることに由来する。したがって、社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核のアナロジーではない。社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核の進化的展開なのである。(「なめ敵」第1章p.31)

この「進化的展開」というところがすごくいいなと思った。生命システムと社会システムがそれぞれオートポイエーシスであり同型的な構造を持っているという話は、それだけではどうしてそうなるかの必然性がないし、同型的な構造を持っていると主張するためにいくらでもこじつけが可能だ(注3)。でもそこに進化的展開があるのならば、神経システムにも社会システムがどのような基盤的構造によって拘束条件を与えられたうえで、進化的に(歴史的展開として)多様な実現可能性がありえることを排除しない。

この議論は「なめ敵」においては以下の理論的要請がある。つまり、「なめらかな社会」をつくるためには「膜」の部分を自他の峻別するようなものでなく、もっとゆるやかなものにするように社会制度をデザインしようとしている。それがPICSYであり、分人的民主主義だ。でも社会システムはオートポイエーシスであり、単細胞生物のオートポイエーシスと同型であるということになると、そのようなゆるやかな膜がまるで論理的に不可能であるかのように見えてしまう。

でもそうであるならば、生命システムと神経システムと社会システムとはもっと緊密な構造であるべきで、「核」-「膜」-「網」という構造の反復だけでは不十分ではないだろうか?このようにわたしは考えた。つまりこれらのシステムは平行に構造を持っているのではなくて、らせんのように構造化されているのではないかということだ。ちょっと説明してみよう。

(12/26追記: 図を作って追加した。)


まず社会システムからはじめよう。ソーシャルなネットワーク「網」では個人は点となって他人とつながっている。ソーシャルなネットワークの挙動はリンクの強さなり取引の量なりで扱えるかもしれないが、それはただの点だ。そのような点として扱ったとき個人は「核」でもある、つまりあたかも自由意志を持っているかのように行動し、自由意志の存在を前提に故意か過失かに基づいて責任が問われるような存在でもある。でもそのような個人について解像度を上げてみると(これがさっきの「解像度」の話のつづき)、個人とは「膜」である、つまり身体を持ち、内受容感覚と感情を持って行動している。このような「膜」としての特性を支えているのが、神経システムとしての「網」だ。

おなじような関係は神経システムと生命システムの間でもあるだろう。このようにして生命システムと神経システムと社会システムはらせんのような構造を持っているのであって、「核」-「膜」-「網」はけっして一方向的なものでもない。

いまの話をパラフレーズしてみる。他者と自分がべつべつの離散的なオブジェクト(点)と捉えたとき、「核」で言うような因果による関係、支配、制御による記述が可能になる。しかし、他者と自分の間が「膜」によって切り離されているのが見えるようになったとき、身体性と自己の拡張が見える。この「膜」による自分と他者との境界をとっぱらって観るならば、そこにあるのは関係によってそれらの意味がそのつど規定されるような縁起で成り立っていることを知る。このように空間的な解像度を上げてゆくことで仏教で言うマインドフルな見方が可能となる。

このようにしてみると、いわゆるネットワーク科学的な見方はあまり縁起的とは言えない。他者と自分がべつべつの離散的なオブジェクト(点)と捉えたものとして扱っている。ネットワーク科学的に扱われたもの(ソーシャルネットワーク)は、個人のレベルにとっては「網」ではなくて「核」だ。いっぽうで社会システムの中では政治グループなり、国家なりさまざまなある種の意志を仮構できるような「核」があるのに対して、でもそれは個人と個人のつながりにすぎないものであり、なにか静的な固定した関係があるのではなくて、そのつどのコミュニケーションに寄って動的に関係が構築されるものである。こういう見方は「網」だろう。

こうしてみると、社会レベルにおいて「網」だったものが、個人レベルにおいては「核」になっているということがありうる。このようにして生命システムと神経システムと社会システムはべつべつの同型システムではなくて、らせんのようにつらなった構造をしているということが言えたのではないだろうか。

なんて話を講演後の懇親会で鈴木健さん、鈴木啓介さん、飯塚博幸さんたちと話していたら、それって"Powers of ten"だね!なんて話になった。そのときはあんまり長々と説明する時間はなかったけど、上みたいなことを考えていたというわけ。

(Varelaはこのような複数のオートポイエーシスについての関係について深入りすることは避けていたように思う。「無記」を貫いていたというか。注3にも書いたけど、このような話をすると「構造的カップリング」の話を避けることができない。このあたりについては別の機会に文章化したい。)


[第8,9章について1: ネットワーク主義と「網」]

つぎは8-9章について。今回の講演でここは端折られていたけど、ここでは計算機/コンピューターの歴史を、核-膜-網になぞらえるということをしている。つまり認知主義的な人工知能の時代はチューリングマシンを推定した万能機械主義であり、「核」の発想だと。それにつづく身体環境主義の時代はアラン・ケイによる、コンピューターをインタラクションの相手として考える「膜」の発想だと。そしてWWWによるネットワーク主義の時代はよりプリミティブに自然現象の相互作用を繋げた「網」の発想だという(「なめ敵」第8章 表8.1, p.276など)。

ここは非常に面白いけど、そのネットワーク主義はほんとうに「網」と言えるようなものだろうか? 上にも書いたけど、いわゆるネットワーク科学が身体を持ち感情を持つ人間を抽象化して点として扱うとき、それはむしろ「核」として扱っていることになる。だから、いまのネットワーク科学がそのまま「網」となるわけではない。鈴木健さんもそこはわかったうえで、だからいっけん突飛な"Internet of cells"という発想が出てくるんだと思う。

胃の生理学的状態(を内受容感覚としてモニタしたものが"Gut feeling")のような、人間の個体レベルよりももっと微細なものをモニタし、相互作用させる網の中に入れるというのが"Internet of cells"の動機だ。そしてそれは人間という個体を、自由意志を持ち、意思決定するものとして捉えるところから、さらにサブパーソナルな過程を身体として持っていて、それらを意思決定に参加させようという考えだ。そしてそれは理性と感情の統合について技術を使ってイノベーションを起こそうという動機を持ってる。

そういう意味で、「網」となるネットワーク主義はまだ到来してない。それを実現するためにはやはりなんらかのイノベーションが必要であり、個人というスケールに閉じずに、個人より大きい集団、個人より小さい単位、器官、細胞、さらには人間以外の存在を加えたような、そんな膨大な数のネットワークからものを見る、という発想がここにはある。


[第8,9章について2: 「膜」と身体性の同一視]

あと8-9章について、「膜」と身体性との同一視がなされるのはどうにもこじつけを感じる。もともとの話での「膜」とは生物学的自律性によって内と外を切り分けるということだ。そしてこうして切り分けつづけることが、生命システムとか心的システムとかがその同一性を維持し続けることそのものだ、というのはオートポイエーシスの考えだ。そのような意味においては個人を個人として捉え続けているかぎり、認知主義も身体環境主義も現在のネットワーク科学もどれも「膜」であり続けていると思うので。

とはいえ、1-2章および8-9章は駆け足でのまとめであって、充分そのアイデアを展開する余裕はなかったのではないかと思う。(と指摘したら鈴木健さんも認めていた。) じっさいこの本の主眼はそのような世界観を踏まえて世界を変えるためにあらたな制度を提案してゆくところにあるのだろうから。そういうわけで、わたしとしてはこの本は非常に面白かったし、ここで提案されている制度そのものよりは、1-2章および8-9章でスケッチされたアイデアをさらに深めてゆくことに貢献できるかもしれないと思った。

いま田口さんと執筆している本は意識がテーマなのだけど、脳科学の知見の紹介だけではなく、オートポイエーシス論から媒介論を経て、エナクティブ・アプローチから環境と相互作用する主体として意識を捉え直すというものになってる。そういうわけでわたしにとって「なめ敵」で提示されたアイデアは非常に有意義だったし、私と田口さんの本はある意味「なめ敵」で展開されたアイデアへの注釈であり、それを発展させたものになりそうだ。というかそうなってくれるとよいのだけど。


[提案された制度について]

これで終わってしまうと、PICSY、分人民主主義、構成的社会契約論という本論にまったく触れないことになってしまうので、もうすこし書いておく。

これらの制度の提案は大胆で面白いけど、実現可能性はあるのだろうかとか、そのような制度はじつのところ世界を良くするだろうかとか、いろいろ思うことはある。じっさい、PICYについては第5章でそれまでの反響、反論などに答えるパートがある。

これらの制度について、本書では世界を変えるために新しい制度を作って、その新しい制度が世界というか我々の人間観を変えてゆく、というループを想定している。だからこそイノベーションが必要だというわけだ。その理屈はわかる。であれば、そのような制度は現在の人間観から新しい人間観に変えてゆくことを促進するような機構が入っていることが必要に思う。しかし、この本で提案されている制度は、すでに新しい人間観を持った人々に切り替わったあとで初めて成立するようなものであるように思った。現在の我々の人間観は誰か個人の責任を追求したくなるような強い傾向を持っている。そこで暗号通貨や新しい制度が導入されてもそれは分断をより促進する方向にしか働かないのではないか。たとえば社会契約が自動的になされる世界が強制的に来たとき、行き場のない憎しみ、恨みは消えることなく、だれかに向かってゆくだろう。この点についてもっと具体的に考えるために、そもそもその新しい人間観とはどういうものかについて書いてみよう。

現在の人間観とはこういうものだ。われわれは「個人」という強固な「膜」を持ち、自由意志を持ち意思決定し、それがゆえに責任を問い、責任が問われると思っている。じっさいには逆であることが本書では指摘されてる。つまり、責任という概念を成立させるためにこそ自由意志が仮構される。これは非常に納得がいく。そして新しい人間観では、人間は個体というレベルからより小さいスケール、さらにより大きいスケールへとどちらの方向にもいくらでもばらばらになり、つながるものとして捉えられる。

なお、「なめらかな社会」「膜を緩やかにする」という言葉から、個体のレベルから国家や集団のレベルへの意識の従属のような全体主義を想定していると読んだ人をいくつかネットで見たけど、それはタイトルだけ見て想像しているか、この本をちゃんと読めてないのではないかと思う。むしろ逆方向に、個体のレベルをバラバラにしてしまうことに重点が置かれていることが、前述の"internet of cells"の発想からもわかる。

ともあれ、ここで提示された人間観はじつは非常に仏教的なものであり、そしてそれは、ブッダが「人間にとっての自然な傾向に逆行するもの」(魚川祐司氏の「仏教思想のゼロポイント」のどこかに書いてあったはず)と説明したものではないか。なんかそういう、ある意味非人間的で不自然なところに向かおうという世界観がここには内包されているのではないかと思う。(仏教的というとイメージが湧くかと思って書いた。そこで自己は解体されるけど、我々の自己がなくなるわけではない。ブッダだって個体としての人間は死んだ。それと同じように、けっして自己を無くした人間が生まれるのではないと思う。)

だから間違っていると言いたいわけではない。じつはわたしはこのような人間観に惹かれている。でもその人間観は、たとえばこんなものではないか: 愛する人が亡くなったときに(自分にもなにかできたのではないだろうかと)自分を責めたりせずに、かといってその原因を作った人を見つけて憎み恨むとかでもなく、そういうものだ(“so it goes”)と言って事務的に必要なことを処理して、ふつうに次の日を生きるようなものだ。繰り返すけど、わたしは人類学的スケールではそういう方向に人間が変化してゆくほうが望ましいのではないかと思ったりする。いまの分断、歴史的禍根に基づく憎しみ、そういうものを思い起こすならば。でもそういう世界ではゲーム理論的な意味で、古い人間観を持つ人間がより適応的であるようにも思う。

ってなんかすごいこと言い出したぞ、俺。そんなわけで、私は「なめ敵」が悪しき全体主義を志向しているとは読まなかったけど、かといってその新しい人間観が多くの人に受け入れられるような穏当なものとも思わない、というわけ。今日はここまで。

(追記: 階層の話はもっと整理できることに気づいた。あるオートポイエーシスなシステムについて「網」というのを考える時は常にその構成要素を観ている。だから社会システムについて「国」「集団」を実体化せずに「個人」(ルーマン流なら「コミュニケーション」)を観るのが「網」である。心的システムについて「意識」を実体化せずに「感覚運動カップリング」と「ニューロン間ネットワーク」を観るのが「網」である。生命システムについて生きてる細胞を実体化せずにその代謝反応を観るの「網」。だから「なめらかな社会」とはあくまでも「網」としての社会(社会を構成する個々の人のつながり)であって、自己と他者が溶け合って一つになる世界ではない。同様に「なめらかな個人」というのを構想するならば、それは網としての個人(個人を構成する器官や細胞のつながり)であって、理性と感情が統一された精神とかではない。)


脚注

注1: この3人は池上研所属時にVarelaの"Principles of Biological Autonomy"の勉強会をしたというメンバーで、ガチでオートポイエーシスを数理的に勉強している人たちだ。余談になるけど、この話を私は2012年の国際意識学会ASSCでブライトンに行ったときに鈴木啓介さんと飯塚博幸さんから聞いて、すごい驚いた。わたしは2000ゼロ年代から独学でMaturana & Varelaの「オートポイエーシス」「知恵の樹」だけでなく、80年代以降のMaturana単独での論文やVarelaのPrinciples …やそれ以降の論文を読んでいるところだったので。このあたりを思想としてでなく、科学者として読んでいる人がほかにもいるんだと世界が広がる思いだった。

注2: あらかじめじっくり読む時間が取れなかったけど、第1,2章と文庫版加筆部分だけはちゃんと読んだので、そこを中心に書いてみる。メインコンテンツであるPICSY、分人民主主義、法と軍事の部分は数式はとばしてざっと読んだ。

注3: そうはいっても、ルーマンがこれらのシステム間の関係を考えていないというわけではなくて、むしろその関係こそがルーマン社会システム論の本体というところがある。ルーマン自体は心的システムと社会システムとが構造的カップリングの関係にあるという話をしている。つまり、心的システムと社会システムはそれぞれが有機構成organizationの面からは閉じている(これがオートポイエーシスであることの定義そのもの)。このため、社会システムが心的システムから創発するみたいな言い方にはならない。あくまでも社会システムの構成要素はコミュニケーションであって、心的システムではないので。ただし、社会システム論を構築したいという観点からか、進化的な発想はあまりないように見受けられる。すくなくとも「自己言及性について」(二クラス・ルーマン)の1章を読んだかぎりでは。


「pooneilさんのもやもやクリニック」(さうして、このごろ2022年6月版)

家からちょっと離れた、行ったことがないコンビニで買い物して店を出たら、夜の街がまるで知らないところのように見えて、オフィスビルが立ち並ぶ街並みに、一瞬LAの街並みを感じた。Little Tokyoの紀伊國屋書店に行った帰りに自転車で西に向かうあのあたり。その感覚はあっという間に消えた。

以前車を運転しているときに同じ感覚を抱いたことがあったなと思って検索してみたけど見つからない。

ついでに昔のツイートを発掘した。「pooneilさんのもやもやクリニック」好き。誰も評価しなくても、俺が評価する。

「pooneilさんのもやもやクリニック」ってのを考えた。モヤモヤしてるの。しかもべつにそれを治療してくれるわけでもない。ただただモヤモヤしてる。迷惑。

[今日の俺通信0619] 今日の休日仕事はつらかった(心理的に)。チャリで業スー八軒店まで行って、肉買って、号泣しながら焼いて食べた。

自分は大学教員に異動してから、「ネオリベ的価値観」と不可避に直面(もしくは片棒を担ぐ)しなければならない場面が増えてきた。でもそこで逆に肩入れしてもそれは自己満足だ(いわゆる「バラモン左翼」問題)。さっきの記事での「9割と1割」は、よい現状認識と行動指針を提示していると思った。

わかる。いっそのこと北大を苫小牧に移転しようぜ!


ちょっくら定山渓温泉まで自転車でエクササイズしてきた。往路が28km/93min(18km/h)。復路が29km/91min(19km/h)。行きは藤野(15km)で休憩してそこから13kmが山道。右手に八剣山が見える。激坂ってほどではないが、時速11kmまで落ちた。帰りは下り坂メインで、ブックオフ川沿店(20km)で休憩。 https://pic.twitter.com/ncUMoJ12GB


川沿から藤野あたりの平らな道は自転車レーンが無くて車が寄せてくるのでストレスが溜まる。山道は2車線あって舗装がちゃんとしていたが、車が制限速度を守らず飛ばしているので命の危険を感じる。北海道は自転車に優しくない。ロードバイクの集団とかは見なかった。往路で一人に抜かされたくらい。

ついでにワーケーションしてきた。Varela 1997を印刷して再読。ホテル周辺で謎な吊り橋を発見。ウィキペによると、橋の向こうの建物は廃墟とのこと。いい休暇だった。明日から本気出す。


[今日の俺通信0602] Chromeの検索欄に「ここが」まで入れたら「ここがあの女のハウスね」と補完されたので、ひさびさに観た。なにを検索しようとしていたのかは忘れた。

[今日の俺通信0607] ヴェンチュラハイウェイ インザ サーンシャイン〜 (<-略

これでCHAINからのアナウンスは @ChainHokudai から出るようにしたので、@pooneil のほうは元通り鬱々とした「俺通信」を継続する予定。そういえば今日(ry

[今日の俺通信0610] セコマのポテサラ、うめえなあ(<-万感の思いを込めて)

[今日の鬱々俺通信0614] グリコポッキーアーモンドクラッシュなのだっ…と久しぶりに買ってパッケージ開けてみたら、こんなに短かったっけ?こんな長さだったっけな? こんな長さだったっけな? (<-くどい)

[今日の俺通信0616] 自転車で夕食に出かけたが、帰りは雨に降られた。濡れたまま仕事したら風邪ひくかもしれない。コロナ以降ずいぶん用心深くなった。そういうわけで今日は諦めてそのまま帰宅して、即風呂に入った。たぶん正解だったと思う。

「雨に振られた」って言葉おもしろいよなあ、これ自動詞なのに受け身?と調べてみたら、日本語文法的にいろいろややこしいということを知った。

[今日の俺通信0617] あるときは「藁人形論法」だったり、あるときは「主語が大きすぎ」だったりするけど、そしてそれは批判されるべきものなんだけど、問題はそういうふうにズラすことができるのが人間の認知の特性だということだよなあ。(<-なんか知った風)


途中の道でうろこ雲?的なものと電線が並ぶ風景があったので、記録しておいた。琴似駅から北上してツルハドラッグの手前を左折したところ。なんてことない風景だけど、いつか札幌から去ったときにこういうのを懐かしく思うんではないかと思って、自分用に記録しておく。


3年前に撮影した、西尾に南下するバイパスの夕焼けを懐かしく思い出す。感情が鈍麻しているので、べつに心が震えたりはしないのだけど、認知的にこれは懐かしいものだと考えることはできる。


Atomが開発終了、のニュースを見て、やっとVSCodeをインストールしてみた。これまでブログでLaTeXの数式入りの文章を作るときはAtomでmarkdownで書いてプラグインでMathJaxのプレビューをしていた。昔ならVSCode出たら即試していただろうけど、ずいぶん好奇心が低下しているのではないかと思う。

ともあれVSCodeセットアップして、markdownでLaTeXの数式書いてみたらエラーが出た。数式モードへの切り替えを

\[ \]

でやっていたのだけど、

$$ $$

にしないとエラーが出る。この二つは完全に同じではないらしい。(現在ではプラグイン入れなくても数式はプレビューできるけど、KaTeXで描画されてる。)

ブログの方はMathJaxで書いているので、VSCodeのプラグインを入れてMathJaxで書くか、それともこれからはVSCode上でKaTeXで書いて、ブログでもKaTeXで描画するようにするか。調べたところ、KaTeXのほうが描画は速いが、MathJaxのメリットもあるらしい。


[今日の俺通信0623] カワイスギクライシス、毎回だいたい面白いが、今回はすべて最高だった。ああ幸せ。

Kindleでハヤカワ書房のセールをやっている。「順列都市(上)(下)」グレッグ イーガンを買った。まだ「息吹」テッド チャン を積んでるので、先は長い。なんだかんだ言いわけして積んでばかりなので、自分、じつは本読むの好きではないんだなとうすうす気がついてきた。

[今日の俺通信0623] 「ドラえもん」を「アサヒィスゥパァドゥルァァァァイ」みたいに発音する技法を考案した、まで書いて、以前も同じこと書いた気がすると思って検索してみたが見つからない。たぶんツイ消ししたんだと思う。なんで消したかはよくわからないけど。(<-よくある)

[今日の俺通信0624] 積んだ本が消化できない〜とかいいつつ、ついついyoutubeで「イチナベさん、なにやってんの」「ニンニクを剥いてます」とか、アゼルバイジャンの山でラム肉焼いてるのとか、そういうのダラダラ観てる。頭使いたくない。スーペル!

Robert Wyatt “Little Red Robin Hood Hit the Road”の中間のギターソロ、ずっとFred Frithだと思っていたけど、Mike Oldfieldだった。んでFred Frith – viola ということは、この曲の最後の最後に弦楽器をかき鳴らす音(VUのジョン・ケイルみたいなあれ)がFred Frithの音か。(30年後にはじめて理解)

ワークマンまで夏物を買いに出かけた。コンビニでLeDouxの総説読了。帰りにメガドンキ新川店に寄ったら意外によかった。狸小路のドンキは狭くて混んでるうえに安くもないのでもう行かなくなったが、こっちのドンキは広くて楽しい。コーチャンフォー->ワークマン->メガドンキという巡回ルートができた。


「喫茶マウンテン、分離色、意志と表象としての世界」(さうして、このごろ2022年5月版)

ライジングサン、今年はやるみたい。https://rsr.wess.co.jp/2022/artists/lineup/… 2019年以来3年ぶり、しかも2019年の1日目は台風で中止(でナンバガなし)だったので、たぶん今回はチケットめちゃ競争率高いはず。当選したら私は行くけど、もし行ったとしても、twitter上では黙っている予定。

3大「声に出して読みたい科学者・哲学者の名前」と言えばこれは「ミハイ・チクセントミハイ」が一強すぎるなあ。神経科学者としては「サンティアゴ・ラモン・イ・カハール」を推しておくけど。

劇場版「輪るピングドラム」が4/29から始まっていることを知った。北海道でやってるかなと調べてみたら、旭川と北見のみで札幌は無し。よーし、ちょっくら北見まで行ってくるわ。


きかんしゃトーマスOP曲のコード進行についての解説。C-Abは転調ではなくてキーCの借用和音だった。同主調のCmからの借用和音(モーダルインターチェンジ)で、CmのダイアトニックコードからEb, Fm, Gm, Ab, Bbが使える。EbやBbの例にも言及してた。以前こんなふうに書いてたけど、転調は勘違い。

きかんしゃトーマスOP曲の場合、モーダルチェンジでAbを提示しておいて、あとでほんとうにAbに転調するのがかっこいい。モーダルインターチェンジはビートルズっぽいと言うけど、C-Bbはむしろミクソリディアンのイメージ。 C-Fmはたしかにビートルズっぽい。ユニコーンの「すばらしい日々」とか。


岡崎に20数年住んでたけど、けっきょく「喫茶マウンテン」には行ったことがない。どうしてか考えてみたけど、あそこって「友達と連れ立って行くことで経験を共有する」ところがミソで、一人で行っても面白くもなんともないからだと気がついた。自分は、食事に他人と行くという発想がないもんで。

Slowdiveの"Sleep" (Eternalのカバー)というのを知って繰り返し聴いてる。なにがいいって、サビが間奏なの。なに言ってるかわからない表現だけど。明日はこれを歌おうと思う。ヴァースがEm-F-Am-FでサビがC-Am-Em-Gこれだけ。

大学院講義(意識の科学入門)で動画を見せようと思ってyoutubeを開いたら、 関連動画のところが「パリピ孔明」「【ガリハラ】にんにく餃子」「古田の方程式」みたいに丸見えだったので、あわててgoogleをログアウトした。あらかじめ準備しておいて正解だった。

水彩絵の具の「分離色」というのを知った。元々は不具合と捉えられる存在が、アナログならではの味として再評価されて、意図的に分離色を作る絵の具が開発されているという話。色の配合とか乾く過程とかいろいろ考えることがありそう。面白い。

「ハーゲンダッツとスーパーカップの差がわからない」 すごく同意。自分はJR生鮮市場でハーゲンダッツ1個190円を見つけてしばらく買っていたのだけど、週2でハーゲンダッツ食うより週5でエッセルスーパーカップ食うほうが幸せじゃね?と気づいて切り替えた。(<-食い過ぎ)

Elon Muskがtwitterを買収したら、ヘイトスピーチとかデマツイートとかが制限されない野放図になると思う。そろそろtwitterからの移行を考えておこうと思う。とはいえ今からマストドンじゃないしなあ。

アセスルファムKと苦味受容体の遺伝子多型の話、面白い。

自分は人工甘味料をまずいと感じないが、わざわざダイエットコーク買おうとも思わない。つか、ビール飲むの止めたら、炭酸飲料を飲む習慣もなくなった。


この動画 "Fluctuation theorems from Bayesian retrodiction"に興味を持った。JaynesのMaxEnt TP (ベイズ推論としての熱力学)を援用しながら、熱力学第2法則とゆらぎの法則はベイズ推論の問題であり、物理システム以外(情報とか)でも成り立つ。

平衡状態では予言と遡言が拮抗するが、平衡から離れたところでは両者のバランスが崩れて不可逆性、 遡言不可能性(=時間の矢)が生まれる。


「少女終末旅行」(つくみず)のラスト部分を見返していたら、チトが「意志と表象としての世界II」と題された本を見つけるシーンがあるを思い出した。これは趣味の小ネタとかではなくて、この物語に通底する思想であることは、最終回にチトの「(ネタバレにつき略)」という台詞があることからもわかる。

ネタバレ気にしない人には、ここに抜書きがある。

ここ最近つづけている、渡辺慧を読み込むプロジェクトで、(「生命と自由」や「時間と人間」で) 渡辺慧がショーペンハウアーに強く影響を受けているのを知ったので、いつか(or 来世で)読まなければと思っていたのだった。

ちなみにチトが見つけた本には「II」と書いてあるが、中公クラシックスの表紙と似せてはいないので、第3巻の芸術論ではなくて、原書の第2巻「意志としての世界」に相当するんだろうと思う。(わざわざ「II」と書くからには、それには意味がある)


プランAはもう無理であることが判明したので、プランBでいく。やけくそになってプランCを選ばないようにする。


「ちくさ正文館書店、やきまる2、ギャッツビーの葬式」(さうして、このごろ2022年4月版)

札幌に来てすぐコロナだったので映画館にはまだ行ってない。札幌に「TOHOシネマズ」が無いことをいま知った。札幌にあるシネコンは「ユナイテッド・シネマ」(サッポロファクトリー)と「札幌シネマフロンティア」(ステラプレイス)の2つみたい。(もっと小規模なのが「シアターキノ」と「サツゲキ」)

遅ればせながら第7話の蛇森さん回を見て感涙した。自分が初めて弾き語りできた曲は「四季の歌」だった。Am, Dm, E7だけなので。叔父さんから借りたのはクラシックギターにフォーク用の弦を張ったやつで、セーハコードなんか押さえられないので、やっと弾けたのがこれだった。ということを思い出した。

The Beach Boys “All I Wanna Do” ほんとだ。50年前の曲なのに、Chillwaveみたいな音してる。


調べてものをしていて、そういえば昔(1990年代)、ポピュラーサイエンスの本で「科学の危機と認識論」と「醜い家鴨の仔の定理」とを激推ししている箇所があって、ものすごく影響受けたのだけど、なんだったか思い出せない。沼田 寛「ヒジョーシキな科学」を開いてみたが違う。たぶん別冊宝島でもない。

「トンデモ科学の世界」や「オムレット」も開いてみたが違った。もうちょっとマイナーな感じの本だった気がする。

「複雑系入門」(NTT出版)でもなかった。ついでに池上高志さんが語ったことを見つけたので抜書きしておく(p.185)。

「詩人というのは、すべて言葉の世界(言い換えれば言語ゲーム一元論)であり、数学者は言語ではなく共通理解が保証された数学の世界で戯れる。物理学者はこれに対して『自然』というものをくっつけてマージナルな立場でありつづけている。しかしこの立場はマージナルなので壊れやすく、突き詰めれば詩人か数学者になってしまう。しかし、ここで『ふんばってがんばる』のが複雑系の立場。ただし『自然』を『計算機の中の現象』というふうに拡張はするが。自然とはなにか。それはわれわれのリアリティーの問題でありわれわれはそれを構築しようとしている。」(「複雑系入門」井庭、福原 NTT出版 p.185)


愛知県道56号名古屋岡崎線(平針街道)が延伸したとのこと。まだ未完成。岡崎から名古屋に行くには国1があるけど、豊明あたりで1車線になって生活道路を兼ねていて大渋滞になるので、自動車どころか自転車でも走るのが辛い道だった。

まだ長男が小さかった2000年代初頭、岡崎にイオンモールもウィングタウンもない時代、文化の香りを求めて名古屋まで車で行っていた。まだ伊勢湾岸道の全通前(豊田南IC - 豊明ICが2003年)で、東名高速で本郷ICで降りて、千種経由で大須、栄に行っていた。(忘れないうちにメモっておく)

ちくさ正文館書店に寄って、ペヨトル工房の月刊誌を立ち読みした。名古屋のラーメン屋を探訪した。大須を周回しているときにおむつを替える必要が出てきて、やむなく駐車場でスタンディング交換したのをよく覚えている。行き帰りの車でさまざまな音楽をかけて、長男に英才教育(?)を施していた。


「何でもやれると勘違いしやすい…「43歳」に多くの冒険家が命を落とすのは偶然ではない」ここが面白かった。自分の行動の予測が「成長込みでの予測」になっているという点で。「ところが経験値が増して世界が大きくなると、その外側にある未知の領域のこともなんとなく予測できるようになり、いわば疑似既知化できる。予測可能領域がひろがり、本当は未知なのに、なんだか既知の内側にとりこんでしまっているような感覚になり、それなら対応可能だろう、と思えてくるのだ。」

居室にギターを持ち込んで誰もいない時間に歌ってたりするのだけど、「いまそんなことばかり考えてる なぐさめてしまわずに」ってところが、息継ぎせずには歌えない。これまでは好きに歌っているだけだったのだけど、ちゃんと歌えるようにしようと思って、bpm確認して、メトロノーム鳴らしながら歌ってる。「ある光」はbmp = 134。

佐藤友哉は「水没ピアノ」で衝撃を受けてから、デビュー作から鏡家サーガはだいたい読んでた。岡崎という地方都市に住みだした時期と重なっていたので、そういうファスト風土的風景と重ねて読んでいた気がする。でも「世界の終わりの終わり」を積んだあたりから読んでない。ということを思い出した。

これはいい話。ただのzoom会議だったら、ちょっと画面消してミュートしておけばよいだけのこと。そうではなくて「絶対に集中して喋り倒さないといけない会議中」というのがミソだよね。自分も「議長として会議招集して意見集約してあとでXXXXに報告書提出」みたいなのをやることが増えてきて、もしいまこのタイミングでtogetterでいうような状況が来たときに、自分は正しく対処できるだろうか、なんて思った。

岡崎という地方都市のメリットは職住一致(家まで自転車で5分)なので、子供の発熱とか怪我とかで学校まで迎えに行ったものだった。昼に電話がかかってくれば、子どもになにかあったか?とビビるし、夜に電話がかかってくれば、動物になにかあったか?とビビる。そういう生活だった。

岩谷産業の「やきまる2」を買いたくなってきた。6500円くらいするので微妙に高い。セカンドストリートとかで中古が売ってないか探してみることにする。


家族との交渉によって仕送りの増額に成功したので、もうすこし健康的な食生活を営むように、野菜をもっと買うことにした。いままで目もくれなかったけど、グリーアスパラがあったので金額見たら、太めの3本で300円とか書いてあって、ブラジル産冷凍鶏ももよりも高いのか!とショックを受けた。

けっきょくグリーンアスパラを買って塩ゆでにして食べた。たしかに幸せだけど、300円で一食分で使い切ってしまうのがつらい。そのあとで業スーでグリーンアスパラ 400gで350円買ってきた。冷凍野菜で不満が出てくるまでは、これで行こうと思う。

あと三つ葉を買うようになった。いまは季節なので3束入って98円とか心が傷まない。以前は三つ葉というものの存在意義が分からなかったのだけど、親子丼を作るときに三つ葉ってけっこう存在感があることを知った。でも3束買うとだいたい腐らす。カットして真空パックして売ってほしい。


明日は薬学時代の人達の集まりで話題提供。ひさしぶりなので楽しみ。対面だと生活レベルの格差に直面して惨めな気持ちになったかもしれない(同年代はだいたい大学教授か会社の管理職なので)。でも今回はリモートなので気楽。いつもどおりBBCパパ方式で、上だけ背広、下はジャージで華麗にこなす予定。

今週はオペも無事終わったし、大学院講義もだいたい軌道に乗ったし、論文もだいぶ進んだ。いろんなことがダメだったけど、それはいつものこと。今日のプレゼンも無難に終了して旧交を温めることができたので、帰りに回らない寿司(=スーパーの割引のやつ)でも買って帰ることにしよう。

思ったよりも集客が悪かったときは、「でもまあギャッツビーの葬式よりはマシだよな」と言えば心が休まる(<-号泣)

[今日の俺通信0425] 「ゆず白菜の塩漬け」というのがマイブームになってる。買いだめしたいんだけど、賞味期限が短いのが難点。(<-それがどうした?)

[今日の俺通信0427] 今日は強い風が吹いている。ああこれが「春一番」かとググってみたら、北海道に春一番はないということを知った。(<-それがどうした?)

より正確には、北海道と東北と沖縄については、気象庁が春一番を発表しない。 参考: 「北国に「春一番」はない?」

[今日の俺日記0430] ひさしぶりにガンボ(スープ)を作った。このレシピを基本に、圧力鍋を使うレシピと合体させてみたけど、とろみがつきすぎて、底が焦げてしまった。今度やるとき圧力鍋かけたあとでトマトソース加えて煮る作戦で考えてる。(<-それがどうした)


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

月別過去ログ