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■ "Neural Plasticity and Consciousness"前半読みました

"Neural Plasticity and Consciousness"
さてさて、前半部分を読んできたんで、まとめておきましょう。
前述のように、cortical dominanceとcortical deferenceという二つの区分を考えると、具体例ではどちらの区分も起こりうることがわかります。
Cortical dominanceの例1: 幻肢。腕の切断などによって腕からの感覚入力を失った場合、体性感覚野で腕を表象している領域には隣の顔を表象する領域へ投射する線維が入力するようになります。つまり、顔への触覚刺激がもともと腕を表象していた体性感覚野へ入力するようになります。その結果、顔への触覚刺激によってあるはずのない腕への触覚刺激を感じる、これが幻肢です。つまり、腕を表象している大脳皮質の活動が顔を触られているときに持つ感覚を決定づける、cortical dominanceなわけです。(じっさいには、決定づけるdetermineという言い方を著者はしていません。Dominateという言葉を選択することで、このへんの扱いに気を遣っている様子がうかがえます。つまりあくまで、cortexが感覚入力を支配するというかovercomeするdominanceと、cortexが感覚入力に服従するというかovercomeされるdeferance、という対比なのです。)
Cortical dominanceの例2: 共感覚。耳から聞いた言葉に色を感じるsubjectでimagingを行うと、視覚野のうち、色の経験に関わる領域が活動する。聴覚入力から視覚野への投射が可塑的変化によって形成されているのだろうと考えられています。
Cortical deferenceの例1: Ferretの視覚入力が聴覚野に投射するように操作した例。Intactな側の大脳半球で視覚刺激と聴覚刺激で違ったように応答するよう訓練しておきます。さて、操作をした方の大脳半球で視覚刺激を提示するとferretはどう反応したか、intact側で聴覚刺激を提示したときと同じように行動した、というのです。
Cortical deferenceの例2: 生後早くからのblind subjectでの点字の読み取り。定藤先生の仕事です。点字を読むとき、つまり触覚刺激があるときに視覚野が活動するのがPETで明らかになった(Sadato et al 1996)、というものです。さらに、点字を読んでいるときに視覚野にTMS刺激を与えると、点字の読み取りを間違えたり、触覚の知覚への影響が起こる(Cohen et al 1997)、というものです。ただ、点字を読んでいるときに視覚刺激として感じているのかどうか、これはおそらく難しい問題で(early blindであるため、そもそも視覚刺激を感じる、という報告をどうverifyするか、という問題になるはず)、ここでは言及を回避してます。なんにしろ、論文に直接あたって確認しないと。
んで、四つの例を挙げた後で、この二つの区分のどちらになるかはどうやって説明できるか、という問いを立てます。
説明1: intramodalなとき(たとえば幻肢での体性感覚のうちの顔と腕)はdominanceで、cross-modalなとき(触覚入力が視覚野に入る)ではdeference。これは端的に共感覚の例が反証になってます。
説明2: 生後間もないときに可塑性が起こる(点字の例)とdeferanceで、より遅いときの可塑性ではdominance(幻肢)。これも反証があって、生後間もないときに腕の切断があった場合でも幻肢がおこります。よってこの説明は「生後より遅い時期の可塑性ではdominanceがおこる。生後間もないときの可塑性はdeferanceの必要条件だが十分条件ではない」と修正することでまだ生き延びます。
どちらにしろ、そのような現象論的な説明では不充分で、「では_なぜ_それらの条件のときにdominanceがおこり、別の条件ではdeferanceなのか」という問いが生まれることになります。
ここまで読みました。
あと、哲学的issueで洩らしたことをすこし:
Cortical dominance/deferenceという問題を扱うことで、「なぜ、ある入力と脳活動の因果的パターンが聴覚でなく視覚を引き起こすのか」といった相対的な"explanatory gap"の問題に取り組むaddressことができるのではないか、というのがこの話題の心の哲学的な意義です。(ところで"address"って問題を解ききれないときにも使える便利な言葉ですよね) 「なぜ、ある入力と脳活動の因果的パターンが感覚を引き起こすのか」という絶対的な"explanatory gap"の問題と切り離そうというわけです。これはSteven Palmerのcolor conversionの話とも通じる。科学は、というかempiricalな検証可能性を考えるとこのような相対的な問題に持ってこないとなんか原理的に無理なようにも思うし。ところで相対的はここでは"relative"ではなくて"comparative"なんですよね。なんか意図があるんだろか。
あと、哲学的にはneural correlate of consciousness (NCC)の問題とも関わります。ある経験のtype (tokenではなくて)がある脳部位の活動にsuperveneする、というときには、ある脳部位の活動をNCCとするcortical dominanceを前提とした考え方もあるけど、cortical deferanceの考え方も同じくらいにありうるでしょう、というわけです。(ある経験のtypeがある脳部位の活動にsuperveneするとは、あるふたつの条件AとBで同一の脳部位の活動がおこっているときはその経験のタイプも同一である、ということ。脳部位の活動が異なっているときにのみ、その経験のタイプが異なる。参考1参考2。ああ、論理学。)
セミナー聞きに行ったら、Alva Noëにはblindsightについてもこの議論が適応できるかどうか聞いてみようと思っていました。この論文自体、Alan CoweyやLarry Weiskrantzへの謝辞があるくらいなので、議論したことがあるのは間違いありません。また、dominance/deference議論をblindsightやGoodaleのtwo cortical pathwayの議論とつなげて考えるのは意義のあることです。なんてことを考えていたら、ちょうどこのタイミングでBrain 2006 "Unconscious vision: new insights into the neuronal correlate of blindsight using diffusion tractography"というのが出ているのを知りました(vikingさんのところに言及あり)。Hemianopiaの患者さんにblindsightがあるかどうかは可塑的変化による半球間の投射の形成があるかどうかによって決まるらしい、というものです。にわかにここで扱っている問題と近づいてきましたよ! (<-興奮してる。)
さて、間に合えばつづけます。

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# Arational Agent

今日第一回レクチャーを聴いてきました。講演内容は私のところで短く報告していますので、ご覧ください。これから、Neural Plasticity and Consciousness を読んで、予習しないと。それでは、金曜日にお目にかかるのを大変楽しみにしております。

# pooneil

ご連絡どうもありがとうございます。ぜひぜひ。
神経倫理学日記の方、がんがんエントリが増えてますね。正直追いつけてませんが、ぼちぼち拝見させていただいております。神経疾患や精神病理への分析哲学的アプローチ、興味あります。


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