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■ Alva Noeの訳本「知覚のなかの行為」読んでます
Alva NoeのAction in perceptionについてちょぼちょぼ書いてきましたが(これまでエントリは「Alva Noeの知覚理論」へ)、訳本「知覚のなかの行為」が出ましたので読んでます。けっきょく訳本読む方が早いのよねー。
Alva Noeのsensorimotor contingency (-> dependency)は「環境への働きかけによってどのように環境が変化するかという「知識」が知覚をconstituteする」みたいな言い方なのだけれども、この「知識が知覚を構成する」って言い方が行動そのものが構成要因ではないとするための妥協の産物であって、超奥歯に物が挟まった感があるわけですが、「知識」とやらにそんなことができるだろうかと言いたくなるわけですが、「知識」を記憶、そして内部モデルとしてとらえればそんなに悪くない。
もう一度繰り返すけれども、知識=semantic memory=top-downのtemplate=内部モデルとしてとらえれば、それを知覚の構成要因とするのは悪くないんではないか。何度も書いてきたけど、ボトムアップのサプライズとそれを緩和するトップダウンの内部モデルという図式とじつはそんなに大きくかけ離れているようには思わない。ただし、内部モデルのアイデアはヘルムホルツ以降の「推論としての知覚」というアイデアと強固に結びついている。そしてNoeは直接知覚的立場からそれに強固に反対する。だから私は科学者としては内部モデル的アプローチにコミットしながら、手がかりとして哲学的な争点を脱臭するような方向へ進むことを考えながら、つまり、推論としての知覚をする際に内部に詳細な表象を作らないようにだけ考えればいいんじゃないかと。
じっさい、Raoの論文とかで出てくる図式は外部の推定をするように書かれてはいるけれども、それぞれの階層でローカルに誤差の計算をしているだけで、全体としての表象があるわけではない。だからこそ本当に問題なのはそのように分散して表象されているものをどのように行動に使うために読み出してゆくかということであって、視覚に閉じたモデルを行動に使うところまで行かなくてはいけない、っつうかもういつも書いていることと同じになってしまったのでやめる。
今日書いたことでの進歩はseosorimotor dependencyが「構成する」みたいな言い方であって、causationではないことに気づいた。あと「知識」という言い方をもっと計算論的にすればいいんだ、って考えたこと。
でもあれか、Raoのとかではまさに画像を再構成してやって、それがどのくらいうまくいっているかが議論されるんだよなあ。そこが階層ごとでなされているか、それとも全体としての画像ををpixelレベルで誤差を評価しているのか、とかうだうだ言ってないでやっぱじぶんでいじってみるべきだよな。
二つの視覚経路議論という意味では、Noeは触覚だけでなく、視覚に関しても視覚運動変換を媒介して経験が与えられるとしている。たとえば、距離や形態を「直接」経験として与えるのは要素の分析とかそういうのではなくて、「どのくらい手を伸ばしたらそれに届くか」とか「どういう風につかめるか」とかそういう「知識」によって構成されると考える。
これは神経科学者としてはけっこう興味深い提案で、ざっくりパラフレーズしてしまえば、ある物体の形態の認知はその物体のアフォーダンスの認知によって成立するという提案だ。これを神経科学と繋いでしまえば(Noeはそんなこと考えないだろうが)腹側経路の側頭連合野(IT)にある形態に選択的なニューロンの成立に、背側経路の頭頂連合野(AIP)にあるアフォーダンスに関わるニューロン(村田さんの仕事)の成立が先立つ、とまでは言わなくとも寄与する、なんて可能性を考えることができる。
これは反応性成立の前の発達のところで検証すべきことだけど。反応性がすでに成立しているadultで、AIPにムシモル入れてもITの反応性が変わるとは思えない。(もしそうなったらかなりインパクトのある仕事となるが。) LIPに平面の単純図形への選択性があるという仕事はすでにある: SerenoのNature98
まあここまで我田引水的に話を持って行かなくてもいいのだけれども、発達期の脳での相互作用というのはいろんな重要な問いがあって、NBRとかを使ってもっと積極的にやった方がよい。たとえば、幼年期の顔認識は皮質下から直接扁桃体へ入力する経路を使っているという可能性。
これもまず本当にそうか、そしてそれはどこで切り替わるのかという視点で考える。腹側経路と背側経路の相互作用についても同様な問いを複数考えることができる。ポイントはadultで反応性が成立してしまったあとで見てもわからないものを発達の過程を見ることで明らかにできないか、というような問いの作り方であって、発達自体を明らかにしたいということでもない。
本当は発達の研究というのはみんなそういった視点から捉え直すことができるはずで、ocular dominance columnとかorientation mapとかの生成の過程を明らかにすることは、どうしてそのような反応特性をニューロンが持つようになり、どのような刺激空間によってそのようなマップができたのかを明らかにすることは、adultでの応答特性とかそれがどのくらいoptimalであるかといった議論でなされていることをその形成過程からより直接的に示す仕事になるはずだ。
さらに神経科学的な捉え直しを進めてゆくけれども、Noeがあるものを(たとえば)球体として経験するのは「あるものの現れが運動の結果に応じて変化するから」と書くときに必要なのは反応選択性的なフィルターでは足りなくて、様々な向きからの見た方とかそういった確率分布みたいなものだ。
どうやってそのような分布を情報として持つことができるか。もちろんtextureの統計量みたいに次元圧縮してもいいのかもしれないけれども、それは反応選択性のパラダイムの中での簡便法だろう。(textureに関してはまた別エントリにて)
どうやってそのような分布を情報として持つことができるか。 もちろんNoeはこのような言い方はしないだろう。直接知覚派にとってはそのような多様性は現実世界そのものが持ってさえいればよいのだから。真にベイジアンな脳を考えるのであれば、確率密度分布を持つ必要があって、そのとき周辺尤度が計算できて、自由エネルギーが計算できて、フリストン仮説につながるはずなんだけど、まだちゃんと読めてないので正しいかどうか自信がない。
周辺尤度計算できるほどには情報を持ってなくて、ある程度近似的にposteriorを計算できるようになっているのだろう、というあたりが脳ネットワークにできることと考えるのが妥当なのかもしれない。ともあれこういうことがわたしはfundamentalなことであると思っていて、本当はこういうことを突き詰めていきたいし、間違っているのならさっさとその間違いに気づきたいと思っている。
Noeは「感覚運動変換のあり方についての知識」と言うとき、これが「命題的な知識」ではなくて「実践的な知識」であることを強調している。これも神経科学的な言葉へ変換可能だ。つまりこれは「宣言的記憶」ではなくて「手続き的記憶」なのだ。そうしてみると私がさっき書いた意味記憶としての捉え方は正しくなかったと言えるが、内部モデル説により近くなったと言えるだろう。まさに小脳などで内部モデルとして作られているものが手続き記憶なのだから。こうやって話は一挙に川人先生や伊藤正男先生の小脳意識説に近づいてくる。
ここで私はべつに小脳説にコミットするつもりもなくて、話は逆で、命題的記憶でない、実践的な記憶としての脳内メカニズムを探すというheuristicを使えばいいんだなということになる。そういう意味では小脳よりは頭頂連合野の方が興味深い。
“Conceptualism Revised: Through Criticizing Noë's Enactive Approach” Noeの理論と二つの視覚経路議論の関係というのはNoe自身も扱っているし、私の盲視の話も二つの視覚経路議論の範疇のヴァリアントであると言える。それをsensorimotor dependencyへの反論のように使うのはじつは私はあまり釈然としていない。
というのもそれはつまり意識としての脳は腹側経路で、それはsensorimotorとは独立している、みたいな感じで使われるからなんだけど、きっと事態はそんなふうにはなっていなくて、両者の相互作用を発達の段階で考えるべき。で、sensorimotor側が先に成熟して、それによってventralがshapeされる、みたいなのがたぶんホントのところだと思う(といいつつこれを証明すること自体が大ごと)。
だから、独立しているという議論よりはその相互作用を議論する方がたぶん良いだろうと思ってる。(<-もはや言及した話とは全然別だけど。)
(ついったに書いたことを元にして編集して作成した)
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- / 投稿日: 2011年05月30日
- / カテゴリー: [Alva Noeの知覚理論] [視覚的意識 (visual awareness)]
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