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■ 身体性と不変項:一人称的世界と三人称的世界

ひさびさに更新したのはこれが書きたかったから。前置き長いです。

論文書き関連で「モデル選択とAIC」関連をwebで漁っていたら、 統計数理研究所の伊庭幸人氏の「モデル選択とその周辺」(pdfファイル)を発見。(伊庭幸人氏はMCMCに関する解説のモノグラフ、岩波講座「ベイズ統計と統計物理」の著者。)

これに

「階層ベイズ法についてのレビュー[2]の中で、「解釈モデル」と「生成モデル」の関係についてEM アルゴリズムや学習方程式、川人らの順逆モデルによる認知の理論に絡めて述べた。」

なんて書いてあるものだから、はげしく興奮して「学習と階層 ― ベイズ統計の立場から」(pdf)を見てみると、

「実際のところ、ベイズの枠組における事前分布や事後分布が脳内にそのままの形で実在するとは考えにくい。脳はアクティブエレメントの集まった力学系にどちらかというと似ており、それを使ってベイズ的な計算をするのは無駄が多すぎる。しかし、ここであげた問題は、ある程度枠組を越えた一般性を持つかもしれない。」

なんて書いてあって興味深い。これが書かれたのが1996年で、10年経ったいま、ベイジアンが脳科学でも大流行で、ShadlenとかはLIPがprior probabilityを計算しているとか考えているとか、昨今のneuroeconomics的な議論もかなりそういうneural correlateを想定しています。しかし、そもそもどういうneuro-computationalなモデルがあり得るのか、力学系としての脳がどうやってベイズ的な取り扱いが出来るようになるのかという問題への手がかりにこの論文はなりそうです。読まなくては。(ここでそういう議論を始められると楽しいのだけれども、「メモメモ」とか書いて終わってしまうのでありました。)

んでもって、やっとタイトル関連だけど、「無時間の思想 (附:反身体の思想) 」を読んでて、

「世界が実在するのはいいとして、それはどのような世界なのであろうか.ギブソン派が本来指向する筈の、濃密で解読困難な「身体性」の世界なのだろうか.それとも物理的、幾何学的な身体の世界、「不変項」という表現が文字通りの意味を持つような世界なのだろうか.どちらでもよいが、ここでも、両者が無批判に等置されることが、ギブソン派の独特の実在論の基盤となっているように思われる」

という文章を見つけました。なるほど。ようするに、ギブソン的な考えの中にエコロジカルであろうとするなんというか現象学的な立場と、実在論的立場というふたつの食い合わせの悪い二つの立場を共存させようとする側面があるのですな。前者は「身体性」という概念に、後者は「不変項」という概念に特徴的に現れているのだけれど、前者の現象学的ニュアンスと、後者の計算論的ニュアンスとが混ざり合っているのがギブソン心理学の特徴なのですな。そういうわけで両者をごっちゃにせずに分けて扱う、というのがひとつの賢明な(かどうかわからないけどスクエアかつ生産性のありそうな)やり方で、以前私が書いたように(20040313)、ギブソンが扱ったoptic flowとかが部分的に認知科学的に取り扱えるのも、その計算論的な部分のみを持ってきたからなんだと思います。同様に、アフォーダンスという概念も、20040314で使った表現を使えば、存在論的含意を取り除いた「行為の記憶とコンテキストに基づいて事物からピックアップされる行為の可能性」みたいな、ある種の情報としての取り扱いがあり得るというわけです。それにアフォーダンスという名を付けるべきかどうか、という疑問をくっつけてつつ。

そういうわけで、たぶん話としては、「ではなぜギブソンはエコロジカルであることと実在論的であることとを同時に主張する必要があったのか、それはその時代のコンテキストや本人の志向に依るようなものではなくて、議論の一貫性としての内的必然性があったのか」という問題になるのでしょう。そして、ギブソン心理学のエコロジカルな側面のことを考えるには、たぶんもっと現象学的アプローチについて私が理解しないといけない。「現象学の自然化」っつー話になってもうよくわからないところになってしまうのでここで打ち止めにしときます。

追記。「実在論的」と「認知科学的」と「計算論的」あたりの繋げ方が上のままだとよろしくありません。伊庭氏の表現の「物理的、幾何学的な身体の世界、「不変項」という表現が文字通りの意味を持つような世界」というほうが適切に思えます。うーむ。

そうか。そしたら、一人称的世界、三人称的世界という対立のさせかたの方がよいのかもしれない。つまり、ギブソンは、自分の論の中で、身体性のような現象学的一人称の世界と不変項のような物理的な三人称の世界とを吟味せずにそのまま繋げようとしているために無理が出ている。ひとことでいえば、「カテゴリーミステイク起こしてないですか」ということですな。問題はそれをどうつなぐかであって、それが疑似問題であるにせよ、心の哲学だったら両者を混同せずに明示的に取り扱うであろうところを曖昧にしている、という言い方です。いや、より正確には、以上の批判の可能性をもって「生態学的知覚論」を読んでどこかにそういうことを言及してあるか探すことにします、というのがフェアですな。「ギブソン心理学の核心 」(勁草書房)はエコロジカルな側面に専念しよう、という立場ですな。

追記が長い上にそっちのほうがマシなこと言ってる気がしたけど、文章の構成を整えるつもりなし。そういうのはべつの機会で、という方針。

コメントする (3)
# 伊庭

はじめまして,伊庭です.いろいろ読んでくださってありがとうございます.明日,奈良先端大学のNC研究会でベイズの話をするんですが,なんか20年前の記憶がよみがえってきて,川人さんと乾さんが車で高の原の駅まで学生の私を迎えにきて,ATRにつれていってくれたのとか思い出してました.なんかそれから進歩ないなあ.

# 伊庭

#「進歩ない」のは自分の話なんで世の中のことではないですよ.

# pooneil

どうもはじめまして。とばし読みで浅いことしか書いてないので恐縮です。
NC研究会(http://staff.aist.go.jp/h.asoh/NC200610.html)の講演タイトル、「ベイズ統計の流行の背後にあるもの」、興味ありますが参加できませんでした。
20年前ですか…川人先生もまだATRに移られてすぐか阪大基礎工にいたかくらいの頃のことですね。


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