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■ 「クオリア派」とか
2012/10/31
クオリアについて考えるのは愚かなことであると嘲笑的に書いてあるのを見るとかっとなるが、それでも誤解すべきでないのはそういう主張が「赤い色を経験するということ」自体を否定しているわけではなくて「そのような経験が機能的なものと独立していると考える二元論」を批判しているということ。
つまり、神秘を紛れ込ませる非科学的なやり方に対して否定的なのだ。それを前提とするのはおかしいという意味で私も同意する。
いっぽうでいわゆる「クオリア派」の人たちは意識経験を説明する代わりになにかべつのものに置き換えてしまうやり方に対して否定的なのだ。だからその二つの地雷を踏まないようなやり方はどこにあるかってことを考える。
意識研究がなんで重要なのかというと、それは脳の活動が体と環境との相互作用でやっていることを完全に解読するということは、意識経験の内容を説明できるように解読するということだから。つまり、それがファンダメンタルだと思っているからやっている。
そうすると、計算論的であろうとするのと同時に非還元的説明をめざす、という折衷案的なものになる。「地雷を踏まない」という書き方に反映しているように、どういう道が正しいかは分からないのだから、それは違うだろっていうheuristicsだけをもとに、いろいろやってみるしかない。
.@NaotakaFujii 説明のレベルの問題だから、無意識な行動でも同様なレベルでの説明がファンダメンタルだと思う。そういう意味では「意識」だからわかりやすくなっているだけで、無意識を除外しているわけではないのです。じっさいわたしの盲視の研究は無意識側からなのだし。
.@NaotakaFujii 無意識「だけ」だと行動の説明だけ出来ればいいってことになって、たぶんいま言っているようなレベルでの説明が抜け落ちてしまうと思う。SRでもどうして自明性が失われてしまうかを説明するレベルの記述が必要だと思うけど、
そのためには、SRで起こっている意識的、無意識的両方の側面を捉えることが不可欠だと思う。
つまり、「意識」を強調しないと、デフォルトでは無意識のゾンビモードだけで話が完結してしまう。
「地雷を踏まない」という言い方はネガティブに見えるかもしれないけど、いろいろやってみるのは阻害しない方向性で、「神秘を潜り込ませない」「意識という対象を見失わない」この二つだけ抑えておけばいいんじゃなかろうかというくらいのこと。
.@NaotakaFujii たしかに、いまは「記述する」みたいな言い方をしたから、どうしても「観察者問題」にぶつかってしまうとは思います。
.@NaotakaFujii その「題目」ってのの実態はいったいなんでしょう。機能? モデル?
.@NaotakaFujii ああ、モデルフリーにしたいってことですか? そこに意識を入れないと行動主義だし、入れるならそれをどう扱えばいいかが問題になる。
.@NaotakaFujii 次元圧縮はなるたけ後までやらないってのには賛成だけど、どっかの段階でやりますよね。なんかずっと前に「観察された行動をどう分節するか」って議論をしましたけど、そのときからずっと続いている論点ですね。
2012/11/19
俺クオリア派。でもって、まっとうな研究者から「厨二病」とか言われて笑われるのを忍従する役割。今後もあらゆる地雷を素足で踏み抜く所存。
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- / 投稿日: 2013年05月03日
- / カテゴリー: [視覚的意識 (visual awareness)]
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