[月別過去ログ] 2014年12月

« 2014年11月 | 最新のページに戻る | 2015年01月 »

2014年12月17日

eye tribeで試行錯誤中(2014年4月版)

なかなかeye tribeのMac用APIがリリースされないので、パラレルズ上のWindows 8.1から動かしてみた。仮想OSからUSB3を認識して動作した。ハードウェアはけっこう熱くなるので、ラップトップの上に置くには気になる。画面キャプチャー動画も上げておいた。

マウス・カーサー・コントロールもちゃんと効いた。Tobii X2-60も使っているけど、そちらと比べると頭の動きの許容範囲は半分くらいだろうか。

あとはアイトラッキングのデータをprocessingから読めるかどうかなのだが、残念ながらまだだれもそういうライブラリーは作ってないみたい。Leap Motionとかだとすでにあるのだけれど。

SDKのドキュメントを読んでみたら「TCP Socketsを開けることができて、JSONをパースすることができるプログラム言語だったら、理論的には接続可能」と書いてある。つまりprocessing.netとJSONObjectを使えばよいのだな。

The Eye TribeでのアイトラッキングデータをJSONで出力したものをProcessingで描画してみた。

850319772.png

あとはこれをリアルタイムでdataIn = myClient.read(); とかやればよい。


2014年12月11日

さうして、このごろ 20140430

いぬのおまわりさんが「困ってしまってわんわんわわーん、わんわんわわーん」ってもう少しなんとかしろよ、使えないにも程があるだろこいつ、とか思った。

走りながらセバドーの「磁石のコイル」を聴いていたら、"soon our little brain is gonna boil"って歌詞が出てきたので、これって「頭がフットーしそうだよおっっ」じゃんとか思ってフイた。

ジョギングからの帰り道、ローソンの向こうにギリギリの三日月が見えて、月の暗い部分が薄暗く見えて、光っている部分が本当に端っこだけで、まるで月食が始まる直前で時が止まったかのようだった。

ことわざを日本式に直しておいた;「米のとぎ汁を捨てるときに米粒まで流すな」…つか本当にある気がしてきた。

「チャーリー・ブラウン・イズ・デッド」っていう痺れるタイトルを思いついたが、どう見ても「ジェイムス・ブラウン・イズ・デッド」のパクリだった。


今日は新年会兼送別会。なんというか、自分の身に引き寄せて考えてみた。どの道だって、「幸せ」になれるかどうかはわからないけれども、その道を「正しく」歩くことはできるんではないだろうか、事実かどうかというより祈りのような気持ちだった。

シロツメクサで花冠を作るんだ。たくさん作って、無造作に並べて、雲も風もなくて、空は平坦に絵の具で塗られていて、遠近感は失われて、それでも生命の感覚は残り、灰色は世界から追放されてゆくんだ。熱と鼓動が中から外から、いくらでも押し寄せてくるんだ。


ポプラ通りを統合バイオセンターに向かって車を走らせていると、T字路の手前で「この先通り抜け出来ません」の看板があるのだが、後半が生け垣に隠れているために「この先通り抜け出来」という東スポ技法がなされているのがすごく気になる。

「溯源」とかそんな言葉しらネーヨ!とか思って調べてたら知恵袋の記事を見つけて興味を惹いた。「逆上る/遡る」「爪突く/躓く」「紐解く/繙く」「色取る/彩る」「散り嵌める/鏤める」「片寄る/偏る」「型取る/象る」なんか、カッケー! 後者は中二病感あるぞ。

研究所のエレベーターホールにポスター掲示用のパネルが設置されて、マグネット類が貼り付けられているのだけれども、誰かは知らないがそのマグネットを使ってさまざまな絵が描かれている。しかも日替わり。各フロアで違った作品が掲示されていて、私は密かに「せいりけんギャラリー」と命名した。

「ドグマ」って言葉の語感の力強さはなかなかに素晴らしいと思う。今気づいたけど、もしかしてsulpirideの商品名の「ドグマチール」って「ドグマ」+「散る」ってことか?

Precuneus (プレクネウス)には、ヘラクレス的な、ロゴセティス的な、ギリシア感を強く感じる。(<-ドヤ顔)


2014年12月03日

ジョン・マクダウェル「『心と世界』レジュメ」から抜き書き

以前ラットの因果推論のあたりをいろいろ調べたときに考えたのは、「意識どころか因果推論という『思考』でさえも純粋に行動からは定義することは出来なくて、われわれは言語や自分自身の直感に照らし合わせることで自分のやっていることを『思考』だと思っているだけなのでは?」ということだった。

そんな理由で「『心と世界』レジュメ」を見ながらジョン・マクダウェルの「心と世界」訳本の該当部分を追ってる。マクダウェル(+エヴァンス)の言う意味での「概念能力」をもたない(人間以外の)動物における「動物の経験」という議論がある。

経験を概念能力と結びつけるような厳密な意味での経験の観念を、自発性を持つ人間には適応できるが、自発性を持たない動物では適応できない。(p.112)

自発性:なにを考えるべきかを経験の引き渡すものに照らし合わせて決めるという能動的な自己批判的活動において行使される能力(p.92)

人間は(人間以外の)動物とおなじく[環境の諸特徴に対する知覚的感応性]を持っているが、人間の場合その[…知覚的感応性]は自発性の能力の勢力圏内に組み込まれているという点が(人間以外の)動物と比べて違う。(p.114まとめ)

第6講義の4:動物は環境に対応する感応性によって自分の環境に見事に対応している(環境のうちに生きている)という意味では主観性という観念に似たものがあって、デカルト的な自動機械ではない。=> 主観性というよりもむしろ原主観性 (p.193-194)

それに対して人間は世界から我々への干渉として追ってくるものを乗り越えて「自由で離れた態度」を世界に対してとることができる。=>世界のうちに生きている (p.192-193)

こうなってくると「自発性」ってけっきょくなによってところが理解すべき点か。「心と世界」の主題の非概念的、概念的内容についてはすでにグッデールの二つの視覚説からの言説が複数ある(信原氏、門脇氏、小口氏)ので一見取り組みやすそうだが、分析哲学知らずに概念を語るのは無理なのでパス。

第6講義の6:ネーゲルの「コウモリにとって反響定位をするとはどのようなかんじか」という問いはコウモリには(マクダウェルのいう)原主観性しかないのに、あたかも十全な主観性があるようにネーゲルが扱っているがゆえの(誤謬)。

ということで(人間以外の)動物には自発性に基づいた概念能力によって世界の中に生きられないがゆえに人間のような経験を持たず、あくまで環境のうちに生きている、ということになる。

第6講義の7:じゃあどうやって進化で自発性が出来たのって話になるわけだが「意味への応答を含む第二の自然は人間がふつうに成熟する中で獲得されるという事実を進化論的に説明することは、意味に応答できるとはどういう子とかを構築的に説明することとはまったく別であろう。」(p.205)


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

月別過去ログ


« 2014年11月 | 最新のページに戻る | 2015年01月 »