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■ ワークショップ「神経現象学と当事者研究」 河島 則天さんのコメント

科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ「神経現象学と当事者研究」に河島 則天さん(@KWS456123 国立障害者リハビリテーションセンター研究所)が参加してくださいまして、ツイッターで長文コメントを書いておられました。そこでツイートまとめを作成して転載させてもらうことをお願いしました。

河島さん、転載許可どうもありがとうございました。河島さんのツイートまとめ、ここから始まります:


科学基礎論学会例会に吉田さん@pooneilと熊谷さん@skumagayaのお話を聴きに行った。僕が勝手に理解したところでは、熊谷さんとは立場は違えど問題意識のかなりの部分共有できると感じ、吉田さんとは立ち位置というか、やってみたいことがかなり一致しているような印象を受けた。

熊谷さんの話を聞く前後で、当事者研究に関しての考え方がかなり変わった。僕がやっているsingle case studyはある部分、当事者の主体的体験を引き出し、記述することを軸にしているし、僕の立場はその情報の集約と客観化の部分を担っている。これって当事者研究じゃん、と思った。

そして午後は先天性無痛症の集まりに来てる。この関わりももう8年になるけれど、年に一度しか会わないのに親近感をもって接してくれるというのは嬉しいことで、同症との関わりは年を経るごとに当事者研究的な要素が出てきてるな、思ったりする。こういう関係ではないとできない研究というのがある。

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昨日の科学基礎論学会ワークショップのことが頭を離れなくていろいろ考えている。正直なところややネガティブな感じで捉えていた「当事者研究」が、昨日の話を聴いてこうもコロリとややポジティブに転じている理由って何なんだろう、、、と。

当事者研究の代表事例の「べてるの家」の対象とアプローチ、その特殊性、効果と限界についての理解が、イコール当事者研究に対する印象、と(勝手に僕が)なってしまっていたのが理由の一つか。(もっともらしい理由を探すよりもむしろ率直に、当事者たる熊谷さんが発する言葉の力や説得力、ということに尽きるのだろうけれど)

熊谷さんは現代思想の対談でも著作でも慢性疼痛について触れていて、その現象学的記述(というのは正しいのかな?)は他者が知り得ないところがあって、表現のすばらしさもあってやはり主体的体験の言語化、客観化というのはなによりパワーがあるな、と改めて思った。

同じ印象(当事者の語りというのは症状や病態の理解に何より重要だという・・・)は、菊澤律子さんのCRPSの寄稿を読んだときにも感じたこと。

ただし、僕らが接する患者さんたちが、主体的経験を明確に語りとして/言語記述として明確明瞭に示すことができるかというとそうとは限らない。ゆえに、当事者研究においては「当人に現象学的記述が可能となるようトレーニングをする」必要があるのだと。

熊谷さんは「当事者をトレーニングさせる」ということへの違和感を、冒頭に問題意識として挙げており、それは僕にとってはすごくすんなりと共有できる部分だった。

「痛みは主観的な意識経験である」けれども「痛みへの共感なくして痛みの治療はできない」というこの距離感を繋ぐのは「痛みの意識経験を患者が語ること」だというけれど、当人が言語化し得ない部分、そして昨日の熊谷さんの話にあった過剰一般化をここに位置付けると問題はそう簡単ではない。

これまた以前の現代思想のポンティの特集の中である医療関係者が「医療者は共感を前提に科学的な知識と技術を適応しなければならないことを肝に銘じておくべきであろう。」と書いている。表面的には正しいんだけど、これは真なのかな?少なくとも僕には具体的を伴わない理想論としか受け取れなかった。(本質的に自身の経験や想像の及ばない、耐え難い痛みを共感することなどできるのか?という意味で)

患者さんが訴える耐え難い痛みを僕は同じように感じることはできない。そもそも本人は「他人にはおよそ想像できないだろう」、あるいは「この痛みを本当の意味での共感というのは難しいだろう」と思っているかもしれない(あくまで推測)。

熊谷さんの話の中に、当事者が研究に参加することの明確な動機/理由として、その症状や病態が改善することへの期待、ポジティブな態度というのが必要だという指摘があった。その上で、当事者研究は『自分自身の経験に関する真な知識を得ようとする実践』であるということでこれには納得感大だった。

僕もこれはすごく重要だと思っていることで、痛みを共感すること以上に大切だと思うのは、患者さんが持ち得ない痛みに対する考え方/捉え方をしてみて本人に照らし、その考えに患者さんが関心と期待をもってくれるとすれば『このヒトは痛みを理解してくれているのでは』という感情が生まれるのでは?という可能性。

つまり僕が自分が経験したこともない耐え難い痛みを本当の意味で共感することは難しいけれど、患者さんがこちらの考えに共感や期待をもって接してくれるとすれば、共同注意や共感というような第二者的感覚を超えて、もっと近い視点で痛みという事象を考えていくことができるのかもしれない、と。

思いつくままにかなり長々と書いてしまった。。。終わりー


河島さん、どうもありがとうございました。

河島さんも熊谷さんも石原さんもVarelaの現象学における「training, stabilization」という表現に当事者研究に近い立場から違和感を表明していたけど、ここについてコメントしておきたい。

Varelaのtrainingってのは、現象学的還元ってのはだれでもすぐに出来るようなものではない微妙な気づきを得るための技法だから、仏教の僧侶がマインドフルネスの境地に至るのがすぐに出来ないのと同じように、その技法を自転車に乗ることができるのと同じような意味で習熟するというというのがトレーニングだ、という意味だと思う。(この点で現象学的還元に基づいた描写は内観報告とは違っている。)

その意味では当事者研究においても、「自分の言葉で語る」「価値判断を入れない」というような場の力を維持するためには習熟が必要だと思うので、この点で神経現象学と当事者研究とがそれほど違っているわけではないのではないかと思う。

とはいえ、神経現象学と当事者研究との動機が違うという論点は私も理解している。ワークショップ後の昼食の時にも話をしたけど、神経現象学のヴァレラがもともとチベット仏教とかをから強く影響を受けているという点からもわかるけどものすごく「求道的」であって、あくまで真理探究が優先されていると思う。

一方で、べてるの家の当事者研究が「八方手詰まりだから研究でもやってみるか」というところから始まったように、実際に役立つことが何より優先される状況とは違っている。

トークで取り上げたてんかん発作の神経現象学でも、現象学的インタビュー(VermerschのExplicitation Interviewを下敷きにしている)が行われていたけど、それはあくまで患者側の立場からてんかん発作の前兆というものが一体どういう経験なのかを明確にすることによって、認知的予防法に役立てるという目的があった。インタビューにおいて、言語化を繰り返し、内面に目を向ける方法に習熟し、また新たな発作の経験のあとでさらに前兆としての経験が繰り返されているかを検証してゆく、こういった繰り返しによる習熟の作業のことをVarelaは「トレーニング」と言っていたのだと思う。

とはいえ、Petitmenginは同時に、このようなインタビューがはたして患者さんの為になっているのか、無力感も告白している(Petitmengin 2010)。じっさい、発作経験というつらい経験を根掘り葉掘り聞かれることになるわけだから。

けっきょくのところ、患者さんとともに研究をしてゆく二人称的研究法においてはこの問題を解決する簡単な解はなくて、その都度二人称的関係を作り上げながらやっていくしかないんではないかと思う。その意味で河島さんが後半に書いていたことには共感する。

記述を深化させることによって当事者の経験をよく理解してもらえるようになること(=「トレーニング」)よりも、二人称的関係を作り上げて「わかってもらえている」という信頼関係を作ること、こっちのほうが当事者にとっては優先するだろう。でも経験の記述が本当にその当事者にとって役に立つ状況にあるならば(これは必ずしも真ではない)、どちらかを選ばなければいけないという話でもない。両方必要。けっきょくそこに尽きるのではないかと思う。

ちなみに二人称的研究法というときの「二人称」という言葉にはブーバーの「我と汝」(二人称)と「我とそれ」(三人称)という考えが反映していると思う。原理的に本当に理解できるわけではない。一方で二人称的であること、「我とそれ」ではなくあり続けるということ、このことは個人的にはずっと考えている人生のテーマだった。

神経現象学の場面においてはEvan Thompsonはempathyという言葉を使っていて、Dennettにはその部分軽く一蹴されていた。まだ十分に理解できたわけではないけれども、でもいつか私はEvan Thompson側の方に付くことになるだろうと思った。(追記:これは正しくなかった。あとで探してみたら、"Shall We Tango? No, but Thanks for Asking"には該当する部分が見つからなかった。正確にはこの中では、トンプソンの言う二人称的方法はけっきょくのところデネットの言うヘテロ現象学なのであるとデネットは主張していた。)


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