[月別過去ログ] 2013年06月

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2013年06月29日

「現象学的な心」合評会、無事終了!

「現象学的な心」合評会、無事終了した! 来てくれた皆さんどうもありがとうございました。飲み会などでの反響を見たかんじからすると、けっこう楽しんでもらえたのではないかと思う。心配だったのは哲学者向けの話にできていたかどうか(理系向けに専門的になりすぎてなかったか)だったのだけど、石原先生にはよく分かったと言ってもらえた。

こんなにたくさん「ヘテロ現象学」とか「神経現象学」とか言ったのは人生初めてだ。しゃべり声がまだ頭の中を反芻している。

会の途中では、現象学自体の課題としてはなかなか行き詰まってるんではないかみたない、重苦しい話も続いた。演者の一人の植村さん@uemurag のように「フッサールがこう言った」ではなくて現象学発生時に戻って考える人がおられるというのを知ったのも収穫だった。(とはいえ、あくまで哲学的問題からのことであって、自然化の問題のためではないようだ)

原さんが採りあげておられたownership-agencyの問題が現象学的アプローチの成果として利用できそうであること、石原先生から説明のあったギャラガーの仕事の背景などもとても役に立った。このへんの一つのテストケースとして考えていくというのがよさそうだ。

今回のトークをきっかけにまたいろいろと話も広がっていきそうなかんじ。俺たちの戦いはまだこれからだ!(<-今後の吉田正俊先生の活動にご期待ください。)

今回のトーク、そして池上さんのところの講義を通して分かってきたのは、けっきょくのところ、わたしが問題としていたような「一人称的な意識の神経科学を進めるのにはなにが必要か」という問いの答えとなりそうなのは「神経相関を越える方法論」を作るということであるようだ。まあある意味堂々巡りではあるのだが、この目標のためには、神経現象学を正しく実践する、つまり現象学と力学系を正しく使うということが必要になるようだ。

力学系を通して現象学的な二元論の克服を目指すという研究プログラムについてもっと考えてみようと思った。今日の議論の途中ではなぜか、私がヴァレラの神経現象学を擁護するみたいな展開になったけど、じつのところVarela 1996, 1999, Lutz et al 2002まで読んで、わたしも正直この先を考えてみようというつもりはなかった。ずっとLutzの仕事は現象学を徹底できてないんではないかと思っていたのだが、今日の議論で実際その通りであることが分かって大きな収穫だった。

それと同時に、「内観主義的に意識状態Aと意識状態Bを比べる」というのが半分は神経相関の問題であり、「意識状態Aと意識状態Bの構造を分析する」といったやり方でヘテロ現象学ではない分析をすること、「状態AとBでの脳内ダイナミクスを解明する」ということを組み合わせれば神経現象学を実践することは出来るのではないか、という考えに辿りつくことが出来た。これも大きな収穫だった。

思えば1990年代後半に「オートポイエーシス」を読んで超ハマリ、超精読してたころから、いつかこれが自分がやっている実験的な仕事とconvergeする日が来ないものかと考えてきた。今日はその野望が一歩進んだ日だと言えるだろう。とはいえなんの成果もあるわけでもない。その野望を実現するためには清水博先生の道を手本にしようと心に誓ったものだったのだが、未だに実現できてない。さっさとたくさん仕事をして、次のステップに進むしかない。俺たちの(ry


2013年06月28日

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 神経科学の立場から レジメアップしました

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 神経科学の立場から レジメアップしました。

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 第3報告:神経科学の立場から from Masatoshi Yoshida

とにかくスライド最後まで作って、レジメも作成しました。いちおう今トークしろって言われても出来る状態。

じつのところ、いろいろと間に合ってないのだけれど(ほんとのところ、志向姿勢ってなんだ?)、なんか達成感が出てしまって、緊張感が抜けた。ここからもう一段ギアを上げて、クオリティーを上げてゆく所存。Evan ThompsonがMind in Lifeでヘテロ現象学について言及している部分もコピーしておいた。これから読む。

ともあれ6月後半はなんだか怒濤の日々だった。来週から通常運転に戻るので、いろいろと生産性を上げてゆきたい。せめて週末はゆっくりさせてほしいと言いたいところだが、日曜は朝からフットベースの練習試合なのだった。ウェーイ。(<-マイブーム)


2013年06月26日

駒場学部講義「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」レジメアップしました

駒場学部講義 総合情報学特論III 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」レジメアップしておきました。

駒場学部講義 総合情報学特論III 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」 from Masatoshi Yoshida

1月の駒場大学院講義第4回、第5回のマテリアルを元にして、part 1ではcortical-subcortical, dorsal-ventralという二つの「二つの視覚経路」についての話をメインにさまざまなトピックを盛り込みました。

Part 2ではよりアグレッシブにフリストン自由エネルギー、アルヴァ・ノエのエナクション説、デネットのヘテロ現象学、ヴァレラの神経現象学、とかなり理論寄りというか哲学寄りにしてあります。こちらは1/3くらいは初めてしゃべることです。さてうまくいくかどうか。

後半部分の内容に関しては6/29(土)の第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会でも使う予定です。まさにイノベーション!

毎度ながらギリギリの準備ではありますが、いまこれが面白いと私が思うことを盛り込んで、いつも通り情熱的に語る予定です。自分が飽き飽きしていないということが、講義を面白くするために私が知っている方法の一つ、というわけです。

というわけで乞うご期待。


2013年06月21日

駒場学部講義「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」準備中です

今年も昨年に引き続き、東大駒場の池上高志さんに誘われて、駒場の学部講義の一回分(90分*2)を担当します。

  • 科目名: 「総合情報学特論III」
  • 曜 限:水曜3・4限(13:00~14:30,14:50~16:20)
  • 場 所:駒場キャンパス15号館1階104講義室

これはいろんな人が毎週喋るオムニバス講義というもので、こんなリスト:

  • 5/8   多賀 厳太郎  発達脳科学
  • 5/15  藤井 直敬   脳と世界
  • 5/22  三輪 敬之   共創表現と場のデザイン
  • 5/29  國吉 康夫   身体性情報構造と知能の創発・発達
  • 6/19  茂木 健一郎  システム認知脳科学
  • 6/26  吉田 正俊   意識の科学的研究 - 盲視を起点に

というわけで来週の水曜日は私が担当です。そんなわけで講義の準備してます。


駒場学部講義、前半部分はだいたい完成した。MIBを出して「網膜に映るものがすべて見えているわけではない」、これの極端な例が盲視、って導入で盲視、二つの視覚系(Ingleのカエル)、二つの視覚系(GoodaleのDF)、ふたたび盲視でvision for actionとしての盲視。

さて後半をどうするかだけど、意識の定義、ゾンビから入って、LogothetisのBRの神経相関の話までして、これがヘテロ現象学であることを示す。神経現象学のような試みはうまくいっていないが、一人称の神経科学というものをどうやればいいのかという課題は依然残る。

ノエのsensorimotor contingencyはそういうところから生まれていて、意識が脳の中にあるわけではないということを可塑性の議論から説明する。しかし夢の問題、色の問題などから考えるとノエの理論はもっと範囲を縮小するべき。背側経路のfeeling-of-something-happeningを作るものであって、意識の内容物そのものではない。また、意識経験を「構成する」のではなくて、「意識経験の前提条件となる」というところだろうという私見を述べる。

知覚は受動的なものではなくて常に行動とカップルした予想的なものであるということのempiricalなサポートとしてSommerの話をする。

そこから予想コード、フリストン自由エネルギーの話をして、active inferenceの話まですることで、decisionはconsciousnessではない、と高らかに宣言する(エー)。

まとめとしてはdorsal経路にノエ的な概念を押し込めて、dorsal, ventralのそれぞれにフリストン的な説明を入れる。(冬の大学院講義の最後のスライドのアップデート。) でもって池上さんに力学系入ってないじゃんってツッコまれる。ってそれでは予定調和でよろしくない。もうひと味加える必要がある。


力学系を入れるために考えていたのがヘテロ現象学への対抗策としてのヴァレラの神経現象学で、神経現象学では[フッサール現象学的な一人称データへのアプローチ]と[力学系によるモデル]と[神経科学的な計測]とを組み合わせることを目指している。

でも前から書いているようにこの試みはうまくいっているとは言えない。力学系的な神経科学とはどうあるべきなのかということはこれからの課題みたいな言い方にしかしようがない。「俺たちの戦いはこれからだぜ!」みたいな。

このあいだユーリッヒの伊藤さんが来たときにこのへんの話をしたら紹介してくれたのが、"Neural population dynamics during reaching"(PDF) で、なるほど非定常のものをどうやって相空間に表示できるように持ってくるかが課題なんだなということは分かった。

そんなわけで、書き出してみたらとてもではないがchronostasisまで話をしてらんないなということが判明したので、今の流れで説得力を書いている部分をちゃんと穴埋めする方向でスライドを作るとそのとき当日の朝になっていることが判明した!

それでもここでヘテロ現象学を入れておけば、来週の土曜の「現象学的な心」合評会にも使えるはず。そちらで言及するであろうHOTとpre-reflective self consciousnessについてはたぶん木、金でなんとかする。(なんとかなるかどうかは現在不明)


あと本当は入れたかったのはfeeling-of-something-happeningを突き詰めてゆくと、insulaのagency-presence経路のことを無視することは出来ないということ。

しかも最近統合失調症のサリエンス仮説についていろいろ読んできたので、上丘 -> (sensory salience) -> SNc -> (motivational salience) -> AI, ACCのsalience networkがまさに現象学でいうpre-reflective self consciousnessなんではないか(<-手近にあるモン全部くっつけただけだろ!)とか考えてる。

明示的な(後反省的な)社会性や自己は意識には必要ないかもしれないけど、前反省的な自己意識は意識の一人称的な性質のためには必須なんではないかと考えるようになってきた。だがすくなくとも今回の話に盛り込むのはちょっと無理。ぜひ別の機会ではそこまで到達したい。

今言ったような話に関しては"Two visual systems and the feeling of presence"という論文があって非常に関係ありそうなので、前から読もう読もうと思って今回も持ってきているのだけど、なかなかそこまで辿り着けない。

ともあれ後半の講義もスライドだけならすでに80枚で流れ作ってあるので今やれといわれても出来るようにはなっている。あとはこれをぶっ壊さないようにリファクタリングしてゆけばなんとかなるはず。(<-「リファクタリング」って言葉を使ってみたかっただけー)


わかった、順番を変える。予想脳、フリストン、神経相関、これらは全部ヘテロ現象学であって、一人称の神経科学となっていない。「神経現象学」という考えがこれこれこういう形で構想されているけれどまだ不充分な形である。そこでは現象学と力学系を入れ込む必要がある、俺たちの戦いはこれからだ、で締める。


2013年06月16日

総研大講義 「盲視の脳内機構」レジメアップしました

総研大講義2013 認知と運動の脳科学 6/14(金) 「#8 盲視の脳内機構」レジメアップしておきました。本番で使ったものにいくらか補充を行った増補版です。

総研大講義 「#8 盲視の脳内機構」レジメ from Masatoshi Yoshida

1月の駒場大学院講義第4回のマテリアルを元にして、生理研では意識の話は控えめに、cortical-subcortical, dorsal-ventralという二つの「二つの視覚経路」についての話をメインにしてさまざまなトピックを盛り込みました。

さらにこれを元にして、駒場の学部講義に活用というわけです。以下さりげなく宣伝。

  • 東京大学学際科学科 2013年度「総合情報学特論III」
  • 曜 限:水曜3・4限(13:00~14:30,14:50~16:20)
  • 場 所:駒場キャンパス15号館1階104講義室
  • 6/26  吉田 正俊   意識の科学的研究 - 盲視を起点に

そちらではもっと意識研究寄りで、さらに、最近取り組んでいる現象学的アプローチの話で、ヴァレラの神経現象学(=神経科学+フッサール現象学+力学系)をどう捉えるかとか、そういうことを盛り込んでみたいのだけど、どうなるかわからない。去年と同じものってのは避けたいけどあんま生煮えなことやっても申しわけないし。といいつつ果敢に突っ込む方向で。


2013年06月09日

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心」2,3章について

2013年6月29日(土)13:00~18:30 一橋大学にて、第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会があります。私も「神経科学の立場から」ということでしゃべります。

今回は2章(方法論),3章(意識、自己意識)についていろいろメモったことをまとめておきます。ツイートは話の流れのために順序など編集してあります。

@you_mlpty さん、@plastikfeld さんのツイートを使わせてもらいました。どうもありがとうございます。


「現象学的な心」再読していたが、2章の方法論のところの、ギャラガーのfront-load phenomenologyの説明を読んで、やっぱり納得がいかない。以前も書いたように、現象学的な、心の解明へのアプローチを標榜するなら、ヘテロ現象学(by ダニエル・デネット)では出来ないことでなければならないだろう。

それは厳しすぎる基準だろうか? そんなことは無いと思う。ギャラガーの例で出てくるのはsense-of-ownershipとsense-of-agencyの違いだが、「この二つの概念を説明した上でその内観を言語報告させて脳活動の差を見る」これならヘテロ現象学でも完全に可能だし、現に認知神経科学で行われているようなことの多くはこの範疇に入る。

私が他に挙げられる例としてはRK judgmentがある。記憶再認課題において、被験者はいろんな図形A,B,C,…を見せられた上で、新たな図形を見せられる。この図形がさっき見たものかどうかを答える(つまりold-newの二択)というのが課題。

ポイントは、このときにメタ認知的な報告を加えるということ。「さっき同じ図形を見たときのことを追体験して思い出せる」ときはR(remember)、そういうのはなくて「単に見た覚えがある」ときはK(know)。このように個々の試行を分類して比較してみると、RとKとで脳活動部位が違うという報告がある。こういう研究に対して「現象学的アプローチである」という必要は全くないように思われる。すくなくともやっている研究者は現象学的アプローチだとは思っていないだろう。

ヘテロ現象学では出来ないようなことをするのだとしたら、「言語報告」が「現象的経験」と乖離しているような状況について取り扱う必要があるのではないだろうか。ヘテロ現象学では「言語報告」の裏にあるようなものは認めないのだから。(認めてしまったらヘテロ現象学はなりたたない)

気をつけなくてはならないのは、問い方が悪くて言語報告にならないことはヘテロ現象学の瑕疵ではないということ。たとえばさっきの記憶再認課題にRK judgmentが付いていなければ、RとKのようなものは取り出せないのだが、それは内観の仕事であって、現象学の仕事ではない。現象学的アプローチが繰り返し「現象学とは内観報告のことではない」と強調するのだから、このような内観の区別自体を現象学的アプローチの手柄にするわけにはいかない。

私の理解が正しいなら、そのような内観を反省的に捉えて、反省を介して作り上げられるものとそうでないものとをより分ける、これは現象学の仕事だ。そういう意味では、RとKとの違いはRが反省的に過去の経験を追体験する(エピソード記憶でのメンタルタイムトラベル)のに対して、Kではそのような反省がなされないこと、この種の分析がもし神経科学に役立つなら現象学的と言えるのではないだろうか?

あと、ひとつフォローというか補足しておくと、RK judgmentには現象学は要らないだろうけど、Tulvingがエピソード記憶の特徴として挙げた"autonoetic consciousness"という概念には現象学的な前反省的自己意識の概念が入っているように思われる。


んで、なにを書きたかったかというと、ヘテロ現象学では説明できないようなものを持ってくるとしたら、あらゆる内観報告をface valueにとってしまうとじつはそれと現象的経験とが乖離してしまうような現象を持ってこないといけなくなる。ここで盲視の出番ということになる。

もしくは盲視の話でなくても、Ned Blockが議論していたoverflowのような、accessのないphenomenal consciousnessのようなものがあり得るかという問題になる。でも現象学自体はそのようなクオリアみたいなものは考えていなくて、現象的意識は志向性そのものである。

というわけでぐるっと回ってみたらなんか話がねじ曲がってきた。ここでもう一回まとめてみる。ヘテロ現象学は内観報告されたものをその内実を問わずに扱うことによって、消去主義的かつ機能主義的な意識観に立つ。現象学は現象的意識を志向性と同一視することによって非志向的なクオリアを否定する?

ああなるほど、このへんが私は分かっていないのだな。非主題的な、投射された現出はつねにそれが指し示す対象と共にあって主題的な意識として構成されるわけで、ってやっぱこのレベルの理解ではダメで、もうちょっと詳しいものを読まないとダメか。うーむ。


.@you_mlpty ありがとうございます。「経験の構造の違い」ここですよね。「経験Aと経験Bが違う」というだけでは内観にすぎないわけで。いままでに私が理解したところでは「反省を経ているか否か」というのがツールのひとつだということは分かったのですが、他に何が使えるのかがまだ分かってないという状況です。


.@plastikfeld 簡潔にまとめていただいてありがとうございます。スライドなどで活用させていただきます。


.@you_mlpty なるほど、昔の現存在分析みたいなのとは違ったアプローチがあるのですね。しかもParnasってParnas & Zahavi 1998 (前反省的自己意識の元ネタ論文)の人ですね。こうなると「自己」の章も読んだ方がよいのかも。

.@you_mlpty ありがとうございます。読んでみます。

最近、統合失調症の精神症状のサリエンス仮説あたりを読んでいるときに、空間に定位されないような自己と自明性の障害がsense-of-agencyがらみでinsulaの機能障害と繋がるのだろうとかそういうことは考えてた。また繋がってきた!(<-ジャンピングトゥーなんとかバイアス)


盲視を現象学的アプローチで見てみるとしたら何が言えるだろうか? 3章での議論はどうだったかというと、盲視にはメタ認知が欠けていて、それはhigher order theoriesと整合的であるという議論があるが、現象学的にはhigher-order theoriesが前提とするような反省的自己意識を想定する必要はなくて、ある種の前反省的自己意識がすでにあるのだ、みたいな話までで、直接的に盲視についてなにかを言っているわけではない。

盲視で重要な点は、「意識内容を伴わないなにかがある感じがする」ということで、しかもたぶんこれは端的に利用できる情報が少ない(たとえば、健常視覚に非常に暗い刺激を出したとき)とは違うということで、これはもっと積極的に現象学的に読み解けないだろうか? 対象を指示できるということと、なにかがある感じ(presence)だけがあることとを分けて考える必要があるとしたら、それは現象学側へも寄与しないだろうか?

これは周辺視野で起こっていることとも似ているが、同一視できるかどうかは分からない。William Jamesの意識の分析でもfringeの概念とかがあることを考えると、すでにそれなりに扱われているんではないだろうか?

盲視サルの意志決定の実験をやったときの知見は、盲視サルでは視覚刺激の強制選択は出来るのだが、刺激の明るさを変えて難易度を変えても反応時間が変わらないということだった。このことはつまり、確信度が上がるまで待ってから意志決定をすることが出来ないということを表している。

論文を書いたときは「deliberateでなくなる」という表現をした。普段われわれは視覚情報を用いて、それに働きかけ、というループを作ってそのつど見たものが正しかったということをverifyしているのだけど、盲視ではどうやら視覚入力がveridicalでないようなのだ。

veridicalではないという知見からすると、「盲視ではメタ認知的に閾値が高い、つまりなにかがあると決断することに慎重になっている」と結論づけるHakwan Lauの考え方はなにかが違っていると考えていた。現象学で言うキネステーゼが知覚に寄与する(Noe的に言うなら構成する)というループの部分で盲視ではなにかが起きているのではないだろうか、というのが以前から考えていることだった。そういうわけでNoeやVarela経由ではあるものの、盲視について、現象学的に親和性のある立場からの解釈を考え続けてきたのだった。


.@plastikfeld 1版と2版、読んだ部分だけ部分的に比較してみましたが、そもそもあまり大幅な変更があったかんじはしなかったです。副題を無くしたりとか、パラグラフ分けを増やして読みやすくしたりとか。5章ではNoeについての言及がやや増えていましたが。

ほんとだ、「2章の結論部分の冒頭4段落分」ここは変更があって、反省の前後という経験の構造を捉える方法論のひとつが言及されている。

あと、前倒し現象学の部分でもownershipとagencyに違いがあることだけではなくて、両者とも1st orderの前反省的な現象的経験である、とい記述が増えていた。でもこれは相違点ではない。両者は経験の構造としてどう違うか? 8章読んだ方がよさそうだ。


今日もいろいろ書いた。これらをまとめてブログのエントリにする。これまでに書いたことをまとめて、それに盲視について脳に立ち入りすぎない説明をちゃんと作るとそれで充分30分しゃべる分量にはなるだろう。あとは哲学者に向けてこれってどんな風に考えることが出来ますか?って話題を振る。

.@plastikfeld よろしくお願いします。もういろいろぶつけて、みなさまの反応を待つというかんじで行きたいと思います。


2013年06月05日

行動科学での表象と神経生理での表象

11/12

シンポのときあらためて考えたけど、鮫島さんのScienceでaction valueをニューロンがコードしていると言うときは個々のニューロンが左右どちらかのQを表象していて、その情報を使ってさらに下流で意志決定しているというモデルになってる。

つまり、Qじたいは明示的に表象されていなくて、端的にそれを元に左右を選択するための閾値だけを上げ下げすることでも同じ問題は解けるのだろうけど、その可能性を神経活動からunlikelyだと議論できる。

専修シンポで鮫島さんに対して真ん中のあたりの席で質問してた人への答えとしてはそういうあたりが答えかなあとか考えた。

これはモデルベース云々とはたぶん違う話なんだろうけど、どの段階まで明示的な表象を持っているか、というあたりは行動科学でやってる人と神経生理でやってる人とでぶつけ合って議論するに足る話題かなとか考えてた。

つまり、連合学習理論でいろんな方法使ってやってることは、動物がどのレベルの表象を持っているかを行動レベルで示してやろうとすることなのかなと。このあたりがマーのアルゴリズムのレベルと実装のレベルって議論の実例なんではないだろうかとか考えた。

.@KazuSamejima ありがとうございます。「どのようなレベルであれとにかくデコードできるような情報を持っていること」と「明示的にスパースにneural correlateがあること」とはどう違うんだろうかとか考えてました。行動で見る際にはデコードさえ出来ればいいわけで。


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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