[月別過去ログ] 2016年05月
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■ わたモテとSAD(つづき)
以前「わたモテとSAD」というブログ記事を書いたことがあるのだけど、そこで言及したKOTAKUの記事を再読してみた。
Kotakuの記事は「わたモテはSADを嘲笑していて許せない」という論調だが、それには同調できなかった。なぜなら著者の二人がSADもしくはそれに近い立場であっただろうと想像できるからだ(じっさい、何巻かのあとがきにそのような記述がある。)。そういうわけで私にはSimone86のコメントがいちばんしっくりきた。
つまり「SAD当事者にとっては『こういう経験は自分だけのものじゃないんだ』といったセラピー的効果がある。」「一方で、この番組を評価している人がみなこの苦痛を経験していると考えたとしたらそれは間違いであることも確か」(超訳的まとめ)
じっさいSADと診断された人でなくても、日常でそういった経験をすることは(私を含む)多くの人にもあるわけで、だからこそそれを誇張した感じで描かれるのを、どこか自分の一部として読み、どこか突き放して、苦いユーモアとしてこの作品を読むことができるのだと思う。
たぶん、そういう経験を共有していない人には「この作品のどこが面白いのか、さっぱりわからない」ということになるんではないかと思う。(逆に感情移入しすぎて、突き放して見れないというのもある。後述。)
じつのところ、環境次第でだれでもそういう状況は起こるのではないだろうか? 私の例を挙げると、海外のラボに行くと言語の壁で雑談とか全部は聞き取れないから、周りが笑うのに釣られて笑ったり、いきなり自分に話題を振られて(「マサトシ、日本ではどうなんだい?」)、キョドった応答をしてしまったりとか。
海外での経験に関してはこちらにも書いた:「ある闘いの記録」
最近は、次男のソフトボールチームの関係でお母さん方と会って話する機会が増えているのだけれども、共通の話題がソフトボールのことしかないから、これがしんどい。ソフトボールチームの忘年会に行ったら3時間、ほとんど面識のない人たちと飲むことになって、はじめの一時間は頑張って話題探して会話したが、後半はもう誰にも見られないところでスマホいじってた。あれは辛かった。あのとき俺はまごうことなきボッチだった。
大学生くらいの頃に弁慶かどこかのラーメン屋に行ったときに、注文を飛ばされたらしく30分くらい(<-誇張?)ずっとラーメンが来ないで放っておかれて、泣きたい気持ちになってそっと席を立った経験がある。先日栄の吉野家では5分近く放置されたので店員に声をかけて注文した。俺、成長したよ。
わたモテに関しては私はどちらかというと、主人公に感情移入しすぎて読んでいて辛くなる、という意味で楽しめないというところはある。それはTogetterの「"恥をかくシーン"が苦手な人たち」で話題になった「あの感覚」とたぶん同じことだと思う。
この感覚を指し示す言葉として、vicarious embarrassmentという概念があるそうだ。こちらの記事が詳しい:「あの恥ずかしい気持ちには名前があった」 さらに脳機能イメージングの研究もあったりする:Your Flaws Are My Pain: Linking Empathy To Vicarious Embarrassment
2016年05月03日
■ 吉田サンクチュアリ(さうして、このごろ 20150430)
「ニューヨーク・シティ・ボーイ」をカラオケで歌いたい。サビのところでみんなにマイク回して「オカザキ・シティ・ボーイ」とか「トットリ・シティ・ボーイ」とか歌ってもらう小ネタまで準備してあるというのに(<-切ない)。
“100,000,000 miles high”ってタイトルを考えた。highすぎて、太陽まで届いちゃうの。Higher than the Sun。(地球から太陽までの距離 = 149,600,000 km = 92,950,000 マイル)
今日はなんだか疲れた。感情が動かずに、事実だけ事務的に処理できるようにいられたらいいのに。上がったり、下がったり。ヘルター、スケルター、ローリー、ポーリー。車を飛ばして、幡豆の漁港まで行って、堤防から雨振る海を眺めたら、少しは気が晴れるだろうか?
二年前の豆まき: 昨日豆まきできなかったから今日豆まき。次男が鬼になりたいって言うからみんなで次男に豆を投げる。なんだかいたたまれなかったので鬼を守った。我が家から鬼は出て行かなかった。— Masatoshi Yoshida (@pooneil) 2012年2月4日
去年の豆まき: 今日は俺が鬼の役だったので「不動の心、不動会」とか言いながら居間の片隅でポーズを取ってみたら、子どもたちが「無言で」落花生を「勢いつけて」俺に投げつけるというわけのわからないことに。途中で奥さんが指摘して「鬼は外、福は内」がコールされるようになったので節分らしくなった。そんな日。— Masatoshi Yoshida (@pooneil) 2014年2月3日
今年の豆まき: 次男が風邪で豆まきは延期。次の日も長女も風邪、長男は帰ってこないので、ママから二人でやっておいて、と落花生をもらって次男と二人で豆まき。新聞チラシで即席のツノを作ったパパ鬼を家から追い出すところまででヨロシク、とあらかじめ段取りと個数を決めて、無事実行。そういう顛末にて。
ラボでの今日の任務終了。家帰ってたまっている仕事を片付ける。「貯まっている」ではなくて「溜まっている」だな、とか文字変換しながら考えた。空には太陽が出ているのに、雪が降ってきて、しかもそれがさっさと融けて、工事中の砂利道に水溜りができている、そんなイメージ。
「マシン・ラーニング」ってあらためて字面がカッケーな。「ハンマービート!」「デウス・エクス・マキナ!」「キカイノカラダ!」そんなかんじ。(<-徹夜ハイ)
豊橋駅の名鉄ホームに降り立ったら、屋根の下なのに水しぶきの当たるのを感じて、俺もここまでポエジーが高まっちゃったかと(<-?)思ったのだが、空を見るとかすかに雪が舞っていて、なんだなにも不思議なことはなかったのだと安堵したのだが、上着持ってこないで背広だけだったのでクソ寒かった。
岡崎に戻り、くらやみの道を更に強くなった雪の中、自転車で戻ろうとすると、車のヘッドライトに照らされた雪が渦を巻くように不思議な流れを作っていて、それに少し見とれ、遠くを見やり、近くの交番に目を向け、でもって家に向かって急いだ。
車で「雨ざらしなら濡れるがいいさ」を絶唱しながら、いつもは「時が来たなら 終わるもいいさ それが俺の最後の運命だったら」のところで感涙してるのだけれど、その続きの歌詞の意味がはじめて頭に入ってきた。「その時、瞼に吹く風も見えるだろう 静かに揺れるだろう」と言っているのだ。
つまり「時が来たなら 終わるもいいさ」という言葉が激情にかられて歌われているように聴いていたけど、そうではなくて、その時の心は平安であり、瞼に吹く風を見るような、なんならマインドフルネスといってもいいような心持ちで終わりを受け止めると言っていることに、今になって気がついた!
太陽が二つあって、それぞれが昼と夜を照らすので夜が無くなり、そしてそれに誰も気がつかない。よくよく見ていれば、夕焼けと朝焼けとが重なるのだからわかるはずなのに、肝心のその時間だけ、だれも竹林に居なくて、謎は暴かれず、川の水が鏡となり、葉の影がすべて三日月となる。
二歩では飽きたらず、三歩を実現するために、指を使わず掌だけで歩を隠し持つ技を磨き続ける日々。その修業は決して無駄にならずに、エレベーターをボタン操作だけで加速する方法を編み出すことで開花した。
「ぼくらは太陽まで歩いてゆくんだ」っていいな。飛ぶのでもなければ、走るのでもないの。歩いてんの。辿りつくのかっていう。表現がぼんやりしすぎていて、正しく像を結ばないのだけれども、それはそれでいいんじゃないかと思う。ぼくも歩いて行こうと思う。等高線と螺旋とを辿りながら。
帰りに遅い昼食をとスーパーに入ったら「魚の塩ダレ焼き」というのがあったので買った。200円でたっぷり食べれてお得。見たかんじカジキっぽいのだが、「魚」。たぶん輸入魚なのだろうけど、「カジキ」でもなく「カレイ」でもなく「魚」という概念を食べることで私の心は宇宙に飛んだ。
吉田が余生を平穏に過ごすことができるように、桑谷山荘の跡地に「吉田サンクチュアリ」を作ってほしい。でもって、バーベキューに来てハメ外す若者を叱責したり、咲き誇るあじさいの世話をしたりするの。
「すしざんまい」とか三昧はぜんぶ「サマーディ」に置き換える。「すしサマーディ」。うーん、満足。(<-頭働かない)
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