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■ ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心」2,3章について
2013年6月29日(土)13:00~18:30 一橋大学にて、第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会があります。私も「神経科学の立場から」ということでしゃべります。
今回は2章(方法論),3章(意識、自己意識)についていろいろメモったことをまとめておきます。ツイートは話の流れのために順序など編集してあります。
@you_mlpty さん、@plastikfeld さんのツイートを使わせてもらいました。どうもありがとうございます。
「現象学的な心」再読していたが、2章の方法論のところの、ギャラガーのfront-load phenomenologyの説明を読んで、やっぱり納得がいかない。以前も書いたように、現象学的な、心の解明へのアプローチを標榜するなら、ヘテロ現象学(by ダニエル・デネット)では出来ないことでなければならないだろう。
それは厳しすぎる基準だろうか? そんなことは無いと思う。ギャラガーの例で出てくるのはsense-of-ownershipとsense-of-agencyの違いだが、「この二つの概念を説明した上でその内観を言語報告させて脳活動の差を見る」これならヘテロ現象学でも完全に可能だし、現に認知神経科学で行われているようなことの多くはこの範疇に入る。
私が他に挙げられる例としてはRK judgmentがある。記憶再認課題において、被験者はいろんな図形A,B,C,…を見せられた上で、新たな図形を見せられる。この図形がさっき見たものかどうかを答える(つまりold-newの二択)というのが課題。
ポイントは、このときにメタ認知的な報告を加えるということ。「さっき同じ図形を見たときのことを追体験して思い出せる」ときはR(remember)、そういうのはなくて「単に見た覚えがある」ときはK(know)。このように個々の試行を分類して比較してみると、RとKとで脳活動部位が違うという報告がある。こういう研究に対して「現象学的アプローチである」という必要は全くないように思われる。すくなくともやっている研究者は現象学的アプローチだとは思っていないだろう。
ヘテロ現象学では出来ないようなことをするのだとしたら、「言語報告」が「現象的経験」と乖離しているような状況について取り扱う必要があるのではないだろうか。ヘテロ現象学では「言語報告」の裏にあるようなものは認めないのだから。(認めてしまったらヘテロ現象学はなりたたない)
気をつけなくてはならないのは、問い方が悪くて言語報告にならないことはヘテロ現象学の瑕疵ではないということ。たとえばさっきの記憶再認課題にRK judgmentが付いていなければ、RとKのようなものは取り出せないのだが、それは内観の仕事であって、現象学の仕事ではない。現象学的アプローチが繰り返し「現象学とは内観報告のことではない」と強調するのだから、このような内観の区別自体を現象学的アプローチの手柄にするわけにはいかない。
私の理解が正しいなら、そのような内観を反省的に捉えて、反省を介して作り上げられるものとそうでないものとをより分ける、これは現象学の仕事だ。そういう意味では、RとKとの違いはRが反省的に過去の経験を追体験する(エピソード記憶でのメンタルタイムトラベル)のに対して、Kではそのような反省がなされないこと、この種の分析がもし神経科学に役立つなら現象学的と言えるのではないだろうか?
あと、ひとつフォローというか補足しておくと、RK judgmentには現象学は要らないだろうけど、Tulvingがエピソード記憶の特徴として挙げた"autonoetic consciousness"という概念には現象学的な前反省的自己意識の概念が入っているように思われる。
んで、なにを書きたかったかというと、ヘテロ現象学では説明できないようなものを持ってくるとしたら、あらゆる内観報告をface valueにとってしまうとじつはそれと現象的経験とが乖離してしまうような現象を持ってこないといけなくなる。ここで盲視の出番ということになる。
もしくは盲視の話でなくても、Ned Blockが議論していたoverflowのような、accessのないphenomenal consciousnessのようなものがあり得るかという問題になる。でも現象学自体はそのようなクオリアみたいなものは考えていなくて、現象的意識は志向性そのものである。
というわけでぐるっと回ってみたらなんか話がねじ曲がってきた。ここでもう一回まとめてみる。ヘテロ現象学は内観報告されたものをその内実を問わずに扱うことによって、消去主義的かつ機能主義的な意識観に立つ。現象学は現象的意識を志向性と同一視することによって非志向的なクオリアを否定する?
ああなるほど、このへんが私は分かっていないのだな。非主題的な、投射された現出はつねにそれが指し示す対象と共にあって主題的な意識として構成されるわけで、ってやっぱこのレベルの理解ではダメで、もうちょっと詳しいものを読まないとダメか。うーむ。
@pooneil 突然失礼します。現象学専門の院生です。おっしゃる通り、この場合では過去の経験がRやKと言った仕方で現れる際の「経験の構造の違い」一般を記述するのが現象学だと考えられると思います。例えばフッサールの時間論などに参考になる議論があったはずです。
— Jadodeggerさん (@you_mlpty) 2013年6月8日
.@you_mlpty ありがとうございます。「経験の構造の違い」ここですよね。「経験Aと経験Bが違う」というだけでは内観にすぎないわけで。いままでに私が理解したところでは「反省を経ているか否か」というのがツールのひとつだということは分かったのですが、他に何が使えるのかがまだ分かってないという状況です。
第2章の課題(吉田さん):1.前倒しされた現象学が、ヘテロ現象学には見られない独自性があるのか。2.現象的意識についてのデネットの見方が、現象学よりの立場からはどう見えるのか。
— Saku Haraさん (@plastikfeld) 2013年6月8日
.@plastikfeld 簡潔にまとめていただいてありがとうございます。スライドなどで活用させていただきます。
@pooneil 一応、忘れないようにメモとして記録しました。課題2に関しては、Noeを以前読んだ時から気になっていました。Noeはフッサールもデネットも肯定的に論じていたので。
— Saku Haraさん (@plastikfeld) 2013年6月8日
@pooneil 神経科学ではありませんが、精神医学に対する現象学から貢献については、例えばZahaviも関わっているParnasらによる研究があります。ここでは、統合失調症での経験の構造の変化は「自己の障害」として捉え直せると言います。
— Jadodeggerさん (@you_mlpty) 2013年6月8日
@pooneil さらにこの観点から新しい質問紙を作り出し、これが早期診断に使えるという(統計的に有意差のある)結果を出したと主張しています。この質問紙自体は現象学ではありませんが、少なくとも、仮説の源泉にはなってはいると思います。もっと積極的な貢献もあれば良いのですが。
— Jadodeggerさん (@you_mlpty) 2013年6月8日
.@you_mlpty なるほど、昔の現存在分析みたいなのとは違ったアプローチがあるのですね。しかもParnasってParnas & Zahavi 1998 (前反省的自己意識の元ネタ論文)の人ですね。こうなると「自己」の章も読んだ方がよいのかも。
@pooneil 彼らは現存在分析などの成果とも両立すると主張していますが、さらに現在ではエビデンスまで含めた成果まで出すことを目標としているようです。パルナスの議論は自己の章の5節に紹介されていますね。経験科学への寄与の例として、参考になるなるかと思いますので是非。
— Jadodeggerさん (@you_mlpty) 2013年6月8日
.@you_mlpty ありがとうございます。読んでみます。
最近、統合失調症の精神症状のサリエンス仮説あたりを読んでいるときに、空間に定位されないような自己と自明性の障害がsense-of-agencyがらみでinsulaの機能障害と繋がるのだろうとかそういうことは考えてた。また繋がってきた!(<-ジャンピングトゥーなんとかバイアス)
盲視を現象学的アプローチで見てみるとしたら何が言えるだろうか? 3章での議論はどうだったかというと、盲視にはメタ認知が欠けていて、それはhigher order theoriesと整合的であるという議論があるが、現象学的にはhigher-order theoriesが前提とするような反省的自己意識を想定する必要はなくて、ある種の前反省的自己意識がすでにあるのだ、みたいな話までで、直接的に盲視についてなにかを言っているわけではない。
盲視で重要な点は、「意識内容を伴わないなにかがある感じがする」ということで、しかもたぶんこれは端的に利用できる情報が少ない(たとえば、健常視覚に非常に暗い刺激を出したとき)とは違うということで、これはもっと積極的に現象学的に読み解けないだろうか? 対象を指示できるということと、なにかがある感じ(presence)だけがあることとを分けて考える必要があるとしたら、それは現象学側へも寄与しないだろうか?
これは周辺視野で起こっていることとも似ているが、同一視できるかどうかは分からない。William Jamesの意識の分析でもfringeの概念とかがあることを考えると、すでにそれなりに扱われているんではないだろうか?
盲視サルの意志決定の実験をやったときの知見は、盲視サルでは視覚刺激の強制選択は出来るのだが、刺激の明るさを変えて難易度を変えても反応時間が変わらないということだった。このことはつまり、確信度が上がるまで待ってから意志決定をすることが出来ないということを表している。
論文を書いたときは「deliberateでなくなる」という表現をした。普段われわれは視覚情報を用いて、それに働きかけ、というループを作ってそのつど見たものが正しかったということをverifyしているのだけど、盲視ではどうやら視覚入力がveridicalでないようなのだ。
veridicalではないという知見からすると、「盲視ではメタ認知的に閾値が高い、つまりなにかがあると決断することに慎重になっている」と結論づけるHakwan Lauの考え方はなにかが違っていると考えていた。現象学で言うキネステーゼが知覚に寄与する(Noe的に言うなら構成する)というループの部分で盲視ではなにかが起きているのではないだろうか、というのが以前から考えていることだった。そういうわけでNoeやVarela経由ではあるものの、盲視について、現象学的に親和性のある立場からの解釈を考え続けてきたのだった。
盲視に関する議論では、1版と2版で変化がない。これだけではいかにも不十分ではあるが、加筆することができなかったのか、それとも加筆する必要がないと理解しているのか、どっちなのだろうか。
— Saku Haraさん (@plastikfeld) 2013年6月8日
.@plastikfeld 1版と2版、読んだ部分だけ部分的に比較してみましたが、そもそもあまり大幅な変更があったかんじはしなかったです。副題を無くしたりとか、パラグラフ分けを増やして読みやすくしたりとか。5章ではNoeについての言及がやや増えていましたが。
@pooneil いま2版を見ながら読み直しています。2章の結論部分の冒頭4段落分くらいに、前倒しされた現象学の意義について追加的に説明している箇所があります。この箇所を見ても、前倒しされた現象学が意義深いものだなという印象が特に強まるわけではないですが。
— Saku Haraさん (@plastikfeld) 2013年6月8日
ほんとだ、「2章の結論部分の冒頭4段落分」ここは変更があって、反省の前後という経験の構造を捉える方法論のひとつが言及されている。
あと、前倒し現象学の部分でもownershipとagencyに違いがあることだけではなくて、両者とも1st orderの前反省的な現象的経験である、とい記述が増えていた。でもこれは相違点ではない。両者は経験の構造としてどう違うか? 8章読んだ方がよさそうだ。
今日もいろいろ書いた。これらをまとめてブログのエントリにする。これまでに書いたことをまとめて、それに盲視について脳に立ち入りすぎない説明をちゃんと作るとそれで充分30分しゃべる分量にはなるだろう。あとは哲学者に向けてこれってどんな風に考えることが出来ますか?って話題を振る。
@pooneil ありがとうございます! 研究会では、どうぞ宜しくお願いいたします。
— Saku Haraさん (@plastikfeld) 2013年6月8日
.@plastikfeld よろしくお願いします。もういろいろぶつけて、みなさまの反応を待つというかんじで行きたいと思います。
@pooneil はい、とても楽しみです。
— Saku Haraさん (@plastikfeld) 2013年6月8日
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- / 投稿日: 2013年06月09日
- / カテゴリー: [オートポイエーシスと神経現象学] [ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」] [視覚的意識 (visual awareness)]
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