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■ ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心」合評会準備中

2013年6月29日(土)13:00~18:30 一橋大学にて、第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会があります。私も「神経科学の立場から」ということでしゃべります。2011年1月20日の南山大学の鈴木貴之さんのところでのトークしたとき以来の哲学者との対話企画です。カムカムエブリバディー。

それの準備でいろいろメモったことをまとめておきます。


2012/11/16

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心: 心の哲学と認知科学入門」の二章途中前。ここにあるような議論だけでヘテロ現象学がreject出来るとはちと思えない。守備力は期待していないから、攻撃力側、つまりこれだけ役に立つよってことの糸口を見つけられればよしとするしかないか。

2012/11/18

「現象学的な心」2章読み終えた。うーむ、前半はフッサール現象学だから、現象学の自然化とかお構いなしだし、後半での現象学の自然化はヴァレラの話はすでに知っていて、残りはヘテロ現象学でも置き換え可能じゃんとか思う。あとは最低限3章(意識、盲視への言及含む)と5章(知覚)を読む。

Sense of agencyとsense of ownershipの違いは現象学的分析によるものである、なんて言ってるけどそんなのメッツィンガーは同意しないんじゃないか?

ヴァレラのやっていることが一番現象学的であると思うんだけど(エポケーと現象学的還元を被験者自体が訓練した上で、被験者が発見的に知覚の性質を分類する)、それですらLutz以降だれもやっていないことから分かるように研究プログラムとして成り立っているとは思えない。

3章の盲視に関連する部分はHOT(higher-order theory)による説明が焦点。というわけでHakwan Lau and David RosenthalのTICでも読んどくか。

2012/11/24

「現象的な心」は3章の自己意識のところを読み進めている。HOTとの対決については、今のところ「現象学ではこう言うのである」みたいなフッサール訓詁学みたいな論調で、戦う気がまったく感じられない。たとえ入門書と銘打っているとしても。

とはいえ、論争的な本が好きかというと、そうでもない。論的に勝つために無理めな論理でも強弁したりされるとすごく徒労感を感じる。フェアで率直なのがいちばん好き。

そうだな、フェアなのが一番だ。そうしたら、翻って考えるならば、実験科学者が哲学書に文句付けるなんて傷つかない安全区域から文句言ってるだけでぜんぜんフェアでない。どうしたら痛みを抱えることが出来るか考えながら読んでみることにしよう。そのほうがスリリングな話に出来るはずだ。

2013/2/23

「これが現象学だ」谷徹の最初の方を読んでて、フッサールの「絶対的なねばならない」という表現が出てきて、ずいぶんといかめしいなあと思ったのだが、英訳の"absolute must"って「これだけは絶対外せない」たとえば「シューゲを聴くならラブレスが絶対マスト」くらいのことじゃんとも思った。

「現象学的な心」3章が終わったところだが、意味が取れないところがあって、けっきょく原書を参照して疑問を解消した。たとえば、「なんで運転しているとき、細かいことを覚えていないのだろう? それは注意が足りないということではなくて、実践的行為のある不可欠な側面なのだ。実践的行為というものは…」という記述があったのだが、ここが"It is X, that …"(非制限用法)なのに、"It is X that …"(制限用法)で訳されてないか?

2013/2/24

「現象学的な心: 心の哲学と認知科学入門」は1,2,3,5章を終了した。4章飛ばしたけど、ヴァレラと力学系とかの議論が出てくるようなのでこっち読んだ方がいいかも。あとは7章読む。全部読むよりは、これまで読んだところをもう一回原文と突き合わせて読む方がよさそう。

3章なんとか読んだけど、「前反省的自己意識」pre-reflective self-consciousness って概念がどうにも飲み込めないのでもう一回読み直さないと頭に何も残らない。

5章(perception)は椅子の図の話とenactionと相互主観性、と聞いたことのある話だったので比較的わかりやすかったけど、それでも「不在の射影absent profileを付帯現前appresentかないし共志向co-intendする」とか知らん概念三連発で死んだ。

「一人称的所与性」(first-personal givenness)とか言われるとブチ切れて、「一人称的に与えられているということ」くらいまでかみ砕きたくなる。「私有性」ってなんのことかと思ったらminenessの訳だった。「私秘性」privacyとはべつの概念らしい。

2013/2/26

「これが現象学だ」を1/3くらい読み進めた。「主題的」の概念が分かってきた。投影された面を非主題的な感覚として受け取り、それから立方体だという主題的な知覚として構成するのが志向性で、それを自分が見てるという感じが前反省的自己意識でこれは非主題的。

この志向性の部分が現象学を現象学たらしめているものなので、ここで表象は出てこない。(表象を志向性で置き換えているかんじ) だから、現象学は反表象主義的になる、というか反省する前の領域を大きめに取っている。ここがhigher-order theoryとの違いになる。

2013/3/9

「現象学的な心」いったんストップして、フッサール現象学の入門書を読みあさる。「これが現象学だ」谷徹、「フッサール ~心は世界にどうつながっているのか」門脇俊介、「現象学とは何か」新田義弘、「フッサールの現象学」ダン ザハヴィ、このあたり。

志向性+現象学的還元から、時間論(pretention, retention)、空間論(キネステーゼ意識)、相互主観性、という基本的な枠組みを「これが現象学だ」を読んでざっと把握した。自分が知りたいのは感覚・知覚論なので、論理学研究とか言語論的なところはすっとばして読んでる。

「フッサール ~心は世界にどうつながっているのか」は引用ゼロで、フッサール流のいかめしい術語がないのが私にとってはたいへんありがたい。この調子で現象学的還元やノエマ、ノエシス、コギトも消し去ってほしい。(<-むちゃ言うな)

フッサールの現象学的な知覚論がさらにどのようにメルロ・ポンティによって展開され、フランシスコ・ヴァレラやアルヴァ・ノエがそれをどのように認知科学に繋げていこうとしたのか、そしてそれはわれわれ神経科学者が使えるだろうか、というのがわたしが「現象学的な心」を読むにあたっての問題意識。

つぎは「フッサールの現象学」に向かう。ザハヴィは「現象学的な心」の著者のひとり。「現象学的な心」3章で出てきた「前反省的自己意識」(pre-reflective self consciousness)がフッサールの言葉で言うとなんなのか知りたいんだがまだ不明。

とりあえずこの3章の元ネタがJournal of Consciousness Studies 1998であるらしいところまでは分かった。Parnas & Zahavi 「現象的意識と自己意識:表象理論に対する現象学的な批判」

ザハヴィ本の紹介記事:「フッサールのいう対象やノエマといった概念が、脳内の「表象」の話なのか、それとも現実の「実在」なのか…この問題に直接的に言及し、フッサール自身の文章を引用しながら、代表的な解釈を紹介」これは読むべきだな。

2013/4/2

「現象学的な心」合評会の構想を練る。原さんからは「認知神経科学の立場から現象学が役に立つかどうか喋ってほしい」と言われている。じっさい、専門家じゃあないのだから「フッサールの現象学のうち超越論的側面を無視しないかぎり現象学の自然化なんて無理じゃないか」とかそういうのは無理。

とはいえ、現象学が意識の神経科学に役立つとしても、直接、方法論的に役立つかとか、なんらか研究プログラムとしてたらしい方向性が見えないかとか、そういうクリエイティブなことを言うのは簡単ではない。いままで読んだ1-3,5章で自分の中での論点となるのは二つで、

1) ヘテロ現象学との対比。認知神経科学が活用してきた内観報告的な方法(RK judgmentとかautonoetic consciousness)にはヘテロ現象学で足りるか。検出と気づきの問題では? ヴァレラの方法は研究プログラムたり得るか。

2) HOTと前反省的自己意識、どちらが盲視を理解するのに役に立つか? 正直ハクワンが言っているようなHOTから前頭皮質の関与みたいな話で盲視を説明しようとするのには同意できなくて、それに対抗する手立てを現象学が与えてくれるならそれは大歓迎。

でもこの「前反省的自己意識」ってやつがどのくらい説得的なのかがよく分からん。文献を調べたところ、どうやらフッサールの言葉ではなくて、Zahaviの言葉らしいので、もうちょっとcriticalに読んでおきたい。

さいきんはFristonにかぶれて、Shadlen/Dehaene的なevidenceの蓄積によるdecisionってのは意識とは関係ないなって気持ちが強くなってきている。つまり、自由エネルギー的に言って、視野像のサプライズを減らすってのと、目を動かして視野像を変えるってことの違いでしかないんだったら(active inference)、evideneが蓄積した閾値を超えたということをそんなに特別視しなくてもよいし、意識はもっと遅れてやってくるんで充分だっていう見方をするようになった。

メタ認知自体に対してはまだ態度を保留しているけど、これがフィードフォワードの統計的な世界であって、フィードバック的力学系的な世界とは別もんだってところまでは分かった。

前回の冬講義の最後に出したスライドを後で更新したんだけど、腹側経路の双方向の回路でサプライズとそれをexplain awayする意識があってこちらは意識内容に関わり、背側経路の意志決定のシグナルとそれをexplain awayする意識があって、こちらはintentionに関わるとか。

2013/4/14

現象学的に言うなら、透明でないこと(occludeされていること)、ある面からしかものが見えないこと、とかが視覚を他の感覚と区別する特徴であり、われわれに感覚として与えられているものは限られているにも関わらず、隠された向こうにいるネコとかコップとかを知覚するのが意識の作用である、みたいな言い方をする。だから遮蔽物の徹底的な透明化がなされたり、複数のカメラから物体をあらゆる方向から見ることが出来るようになったりとかすることで、視覚という感覚がどのように変容を受けるのか、みたいなことに興味がある。

でもそういう「意識の作用」が超越論的なものである云々とか言われるとさっぱり分からない。ゲシュタルトがゲシュタルト性とか言われてそれ以上なにも言えなくなってしまうのと同じような、20世紀前半の状況を引きずっているだけのようにも思えるのだけど。

2013/4/16

あいまにちょこちょこと現象学関係読んでいるのだが、やっぱり分からない。合評会は「神経科学者が現象学使えるかいろいろ読んで考えてみましたけど、けっきょく分かりませんでした」みたいなオチにするのがいちばん率直で正しいのかも。

「現象学的な心」2章でのエポケーと現象学的還元の説明を読んで、さらに「フッサールの現象学」ザハヴィの2章あたりにあるエポケーと現象学的還元の説明も読み進めている。現象学がしばしば内観と同一視されてきたこと、しかし現象学がいかに内観とはべつものであるかということが強調される。

つまり、内観というのはエポケーする前の自然主義的な態度(二元論を前提)を前提としたものであって(まだ、natural attitudeとnaturalistic attitudeの違いが分かってない。内観は明示的に後者を前提しているだろうか?)、一方、現象学とはある対象がどうやって現出するかの可能性の条件についての哲学的反省である、ということになる。だから現象学で出てくるのは時間の構造(把持/予持)とか間主観的な妥当性の正立とかそういうものが現象学的還元の成果であって、内観で対象を同定することではない。

だから、意識の脳科学への現象学の応用として挙げられているVarelaの仕事(Lutz et.al.)にあるような、認知課題中の準備状態に対する分類というのは、形こそ現象学的分析に似せてはあるけれども、じつのところこれは「精緻化された内観」に過ぎないのではないかと思う。

つまり、反省するべき対象を外界の刺激そのものではなくてその意識経験そのものに向けたからといって「内観ではない」とは言えない。それはたとえば、メタ認知における「信頼度」について考えてみれば分かる。

「信頼度」というのはまさに外界の刺激そのものではなくて意識経験に向けたものであるのだけれども、これは現象学的な反省とは言えない。なぜなら信頼度報告では意識経験を対象として報告しているだけであって、反省が為されていないから。

もしメタ認知を現象学的に扱うのならば、そのような信頼度が生まれる条件を知覚そのものとの関係から明らかにするといった理論的な仕事になるはずだ。ザハヴィの「前反省的自己意識」という概念は時間の現象学的分析から生まれて、それをGZ本ではHOT批判に応用したのだが、メタ認知というのはその文脈では「反省的自己意識」と捉えられることになる。

話を戻すと、Lutz et.al.の話もおなじこと。けっきょく、ヴァレラが構想したような「神経現象学」をやるためには、精緻化された内観で説明できないようなものを持ってこないといけない。

さらにLutz et.al.について言えば、精緻化された内観での条件AとBをさっ引く、という統計的やり方をしていて、力学系を媒介にして現象学と神経科学とを繋ぐというヴァレラの神経現象学の構想を二重に裏切っていると言える。

とはいえ、どうやったら脳科学を力学系的に取り扱えるのかということ自体が(計測も含めて)大問題なのでそこをつっこんでもしょうがない。

神経現象学の実践という意味でもう少し希望がありそうなのはヴァレラのべつの論文(哲学的な方)で書いてあった、現象学的な時間構造の分析(把持/予持)と脳内のコヒーレンスによるセルアセンブリの形成とが関連するかもって話。こっちは現象学的かつ力学系的でかつ脳科学が成り立ちそうだと思う。

いろいろ書いていたら、なぜかLutz et.al.を叩いて合評会の時間を保たすという卑劣なコンテンツが出来てしまった。こういうのじゃあなくて、現象学役に立ちます、と言いたい。誰も擁護してない、みたいな悲惨なのは避けたい。

いちばん避けたいのは、自信満々に現象学語って、あげく、現象学全然分かってないですねとか言われること。分かってないに決まってるんだから「この本からこう読み取ったんだけど」みたいな言い方にしないと私の心が折れる。

でも、正直なことを言えば、心が折れさえしなければどんどん不用意なこと言ってみたい。(<-エー) 無難なのは詰まらんし、とくに失うものがあるわけでもないし。

2013/4/18

「これが現象学だ」二周目だいたいすんで、かなり分かってきた。自然的態度と自然主義的態度の違いも分かった。先反省的自己意識という言葉自体は使っていないがそれと同様な概念(把持について非主題的に把持する)をフッサール自身が書いているということもわかった。

ただ、世界そのもののノエマ的意味の分析をしたことから、世界が意識によって構成されるという考えを断念して、言ってたことどんどんひっくり返して原構造とか原キネステーシスとか言い出しちゃったあたりから、ちょっとフッサールさん、考えすぎでおかしくなってない?と付いていけなくなった。

これでザハヴィの「フッサールの現象学」も読めそうだ。そのうえでもう一回「現象学的な心」に戻ってみることにしよう。盲視の話からのオチとしては、大学院講義でも話した、二つの視覚経路論とAlva Noeの折衷案で、キネステーシス意識が背側経路で自己と空間を作るって方向でまとめる。

Alva Noeみたいに色までaction説にするのは無理があると思うのだが、行動(と時間)は空間と自己を作るという意味で意識を構成している。そういう現象学的考えがわたしの意識の脳科学的モデルに影響を及ぼしてます、みたいな話にするのがいちばんウソがなくて、無理がない。

ついでに、そういう方向からenaction説を理論武装した上で、駒場講義でもその話題を深められないか試してみることにしよう。

2013/4/19

あしたは南山大学でやってる応用哲学会に行ってくる。人生初の経験なのだけれども、こういう集まりの雰囲気を知っておきたい。いちばん聞きたかったのは午後の「知覚」概念の臨界、だったのだけど、フットベースのコーチ今年度第一回があるので途中で抜ける。

行きの名鉄電車で「心身問題、その一答案」(大森荘蔵) を読んでいく予定。たぶん以前読んだけど覚えてない。脳から意識への因果って因果としておかしいから重ね描きにしましょうってのは分かるが、「予定調和」なのか「創発」なのかよくわからん。あと現象学との対比とか、違った風に読めるはず。

「心身問題、その一答案」読んだ。前読んだときよりはもう少し分かっただろうか。「意志とは元に行動を持続していることであり、よって意志は行動にあり、心の中にあるわけではない」とか面白かった。Schallの意志決定と行動選択の議論とか思い出した。

でも、肝となる「すなわち」の関係がまだわからん。さいしょこれは法則的関係なのかなと思った。「命令は不服従の可能性があるから命令なのであり、そうでなければ法則である」って表現があったけど、まさにそのような意味でisomorphicなんだろうと。でも、あとから日常生活と科学的描写の重ね描きはどちらかの描写が抜けることもあるとか、幻のときにはこの重ね描きにズレが生まれる、とか書いてあるのを見ると、そのような強い法則的関係があるということを言いたいのではなくて、場所と時間が同じものを指している、つまり存在論的側面について言っているだけのようにも思える。

だが最後の最後になって、幻のときには(正しく働いてない)脳が鏡像と同じ役割を果たしていて、脳科学者の役割はそこで「すなわち」の関係となっているものを見いだすことだ、というような締め方をしていて、やはり法則的関係なのか?とこのへんがわたしには明確になってこない。

2013/4/21

昨日南山大学まで応用哲学会に行ってきた。平行セッション4つで、大学の会議室を使ってワンフロアで開催という規模。

朝一9:55開始の大森哲学についてのトークのまえに部屋に入ったら観客が5人くらいしかいなくて超びびった。しかも全員壁際に座ってる。独特の文化? わからないがど真ん中に座って聞いた。トークの途中でパラパラ人が入ってきて最終的には15人くらいになった。どうやら哲学者は朝が弱いらしい。

玉川大の小口さんの話が聞けたので良かった。脳の並行処理でのサブパーソナルな表象で概念的かどうかの議論って出来るのか?ちょっと会って話したけど時間切れ。またの機会に。今日の本命は立教大の呉羽さんの話(enaction説への批判)だったのだけど、時間切れで途中退出した。

昨日の学会では、小口さんはスライドなしで配付した資料を読み上げる形式、他の方も文字が並んでいるスライドをほぼ忠実に読み上げるスタイルだった。実験科学をやっている者からするとどうして図がないのだろう?と不思議になるのだが、おそらくは文章で表現される論理に重きを置いているのだろう。

でも図がほしい。つかたとえ文章で書かれていたとしても、自分でメモ取るときに図にして理解しているし。想像するに、たとえば現象学だと、現出からtranscendして遮蔽されたところも込みでobjectを知覚するのが意識の作用、というのを図示したら二元論的になっちゃうからいかんとか?

合評会でスライドでなんか表現するとしても、これまでの自分の流儀で図にして説明すると思うのだけれど、なんか厳密でないように思われるのだろうか? どうにもわからん。ただ、そういう疑問というか違和感に突き当たっただけでも収穫か。Jakob Hohwyとかは比較的図を使ってたな。Alva Noeは完全に原稿読んでるだけだった。

ちゃんとトレーニングを積んでいくと、そのようなカント的な図式から、現出と対象とが分かちがたく結びついたノエマのイデアが頭にできあがって、そのころにはそういった図が全然不正確に見えるようになってくるって感じなのだろうか?

2013/4/27

門脇俊介『現代哲学の戦略―反自然主義のもう一つの別の可能性』「門脇氏はアンディ・クラークの『視覚経験と運動行為』を引用し、そこで紹介されるミルナーとグッデールの「二重視覚システム論」がマクダウェルやハイデガーの発想と親和的であることを明らかにしてうっちゃりをかますのである」 これは読むべきか。

ということで、「現代哲学の戦略 反自然主義のもう一つ別の可能性」門脇 俊介 著 図書館行って借りてきた。該当する部分は8章だったようだ。

ゼノン・W・ピリシン『ものと場所―心は世界とどう結びついているか』 「視野内の諸事物を同一のトークン事物として同定し、コード化による高次の概念的述定の基盤を提供するのが、初期視覚に組み込まれた、非概念的でサブパーソナルなFINSTの機能」これ見て、ああそういえば小口さんの発表の話に関わるなあとか思って「ものと場所: 心は世界とどう結びついているか」 作者: ゼノン・W.ピリシン をアマゾンで探してみたら、小口さんが翻訳者だった。なるほど。

門脇 俊介 「知覚経験の規範性」 (現代哲学の戦略 反自然主義のもう一つ別の可能性 8章)、OCRかけてテキストファイル作りながら読んでる。そしてら盲視への言及が出てきた。これは正解だったっぽい。

2013/4/30

Zahavi 2004 "Phenomenology and the project of naturalization" これとかにもあるように、ZahaviはPetitot,Varela, の"Naturalizing Phenomenology"の自然化には批判的なので、「現象学的な心」2章の後半にあるような現象学の自然化には批判的なはずだ。

ということでたぶん、「現象学的な心」の2章は前半をZahaviが書いていて、後半はGallagerが書いていて、このへんがちぐはぐになっているんではないかと推測する。これが、この本を読んでて、けっきょくどのような研究プログラムがあり得るのかがピンと来ない原因になっている。

最新の"Naturalized Phenomenology: A Desideratum or a Category Mistake?"ではこのへんもうすこし突っ込んだことが書いてありそうだが、そこまで話を追ってる余裕がない。

2013/5/1

.@ryo_tsukakoshi ありがとうございます! 昨日「ハイデガーと認知科学」を図書館で借りてきたのですが、こちらのほうの論文は自分が探している方向とは違っていたのを発見したところでした。

「表象なき認知」中村雅之 (シリーズ心の哲学II ロボット編)で、ヴァン・ゲルダーの力学系的アイデア及びA・クラークのコネクショニズム的立場からの返答の話を読んだ。けっきょく、ヴァン・ゲルダーの調速機の比喩はフィードバックコントロールで、A・クラークのエミュレーターはカルマンフィルター的な内部モデル(フィードフォワード)なので、池上さんと話題になったフィードバックとフィードフォワードの話と同型だなと思った。

ともあれ、元ネタに遡るために「ハイデガーと認知科学」に入っているヴァン・ゲルダーとクラークのそれぞれの論文を読むことにした。

これによって、「現れる存在」へのとっかかりも出来るだろう。A・クラークは過激な反表象主義を解毒しながらも環境との相互作用を重視するといった折衷主義によってヴァン・ゲルダーやAlva Noeに対して応答してきたことが分かってきた。

煮え切らないなとも思うけど、この態度にはかなり親近感を覚える。がゆえに眼を開かされるというかんじではないのだが…というほど読んでいるわけではないので、また読んでみることにしよう。

どうやったら神経科学で(計算主義的、統計的ではなく)力学系的であり得るのかということはずっと興味がある。

津田先生の新学術の前期に入れてもらったときにはそういう興味が大きかったけど、やっぱりわからなかった。 コヒーレンスを記録しても、それを条件Aと条件Bでさっ引いて有意差出しているならばそれは力学系的ではなくて、統計的な枠組みから出てないと思う。

2013/5/18

立命館のダン・ザハヴィ講演会行ったら収穫あるかもとか思っていたが、その日は大学院講義担当で、しかも翌日の子どもの運動会のためにお婆ちゃんが二人とも前日からはるばるやってくるという大変な日であることに気づいたので取りやめ。


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