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■ 南山大の鈴木貴之さんからコメントいただきました
先日の南山大学哲学セミナーでの盲視についてのトークおよびそれについての報告エントリに対して南山大の鈴木貴之さんからコメントいただきました。独立したエントリとして掲載させていただきます。それではここから。
南山大学の鈴木です。先日は大変興味深いお話し、どうもありがとうございました。まだまだ議論したいことがあったので、もっと余裕のある時間設定をしておけばよかったと反省しています。学期末試験やら入試業務やらですっかり時間が経ってしまいましたが、当日のお話しとブログの内容について、いくつかコメントさせていただきます。言いたいことがどうにもうまくまとまりませんが、その点はどうぞご容赦ください。
【哲学者にとっての盲視】
そもそも、なぜ意識の問題に取り組んでいる哲学者が盲視を気にするのかというと、盲視は意識を自然科学的な枠組の下で理解する(意識を自然化する)うえで都合が悪い事例であるように思えるからです。
通常、ある意識経験(現象的な意識経験、クオリアを伴う意識経験)が生じているときには、それに見合った識別行動や言語報告も可能です。そして、識別行動や言語報告は、何らかの脳の活動によって可能になっているはずなので、ある意識経験が生じることと、ある脳の活動が生じることのあいだには密接な関係があるだろう、言いかえれば、意識経験には何らかのneural correlateがあって、それが識別行動や言語報告を可能にしているのだろう、と考えられます。もちろん、そう考えるだけでは、なぜ、そしてどのようにして意識経験がneural correlateから生じるのかという、いわゆる意識のハードプロブレムは解決しません。しかし、われわれの意識経験に、識別行動や言語報告を可能にするという役割(因果的機能)があるということは、neural correlateを特定する手がかりになり、さらには意識のハードプロブレムを解決する手がかりとなるだろう、と考えられます。
ところが、盲視患者は、識別行動が可能であるにもかかわらず、意識経験が生じていることを否定します。これが事実だとすれば、(少なくともある種の)識別行動には意識経験は必要ない、ということになります。そうだとすれば、意識経験にはどのような役割があるのか、そもそもなぜ意識経験が存在するのか、ということがわからなくなります。また、盲視患者においては、意識経験と、ある因果的機能を持った脳活動との結びつきが失われているわけですから、ハードプロブレムを解決する手がかりも失われてしまうように思われます。
逆に言えば、意識を自然化しようという哲学者は、健常者と盲視患者の間には(識別能力などにおける)なんらかの実質的な違いが存在するのだ、意識経験の有無というのはたんなるオマケの有無ではないのだ、ということを示す必要があるわけです。
ここで、盲視を何とかうまく処理したいという哲学者には、二つの選択肢があります。
(1) 盲視患者の報告を文字通りに受け取ったうえで、健常者と盲視患者には何らかの行動能力に差があり、その違いが意識経験の違いをもたらしているのだ、と考える
健常者と盲視患者では、識別能力をはじめとする行動能力のうえで、大きな違いがあります。ですから、この路線にも、十分な可能性があります。たとえば、inferior temporalをはじめとする腹側経路の活動の有無が、意識経験の有無にとって重要なのだ、と考えることができるかもしれません。しかしそうすると、なぜ背側経路の活動ではダメなのかを説明しなければならず、その理由はそれほど自明ではない気がします。
(2) 盲視患者の報告を文字通りには受け取らず、実は盲視患者も何らかの意識経験を持っているのだ、と考える路線
こちらの路線をとれば、盲視患者も、その識別能力に応じた何らかの(おそらくはぼんやりとした)意識経験を持っているのだということになり、意識経験の有無は識別能力の有無に対応するという路線は維持できるので、その点ではすっきりしています。しかし、被験者自身の報告を否定することになるという代償もあります。吉田さんはお話しの最後で、(2)の路線に沿った解釈を示唆されていましたが、実は私もこちらの可能性に魅力を感じています。
盲視という現象をどちらかの路線でうまく説明できるか、できるとしたら、どちらがよりよい説明なのか、ということが、哲学者にとっての基本的な課題ということになります。しかし、どのようなデータによってこの問題に決着をつけることができるのか、そもそも決着をつけることが可能なのかということ自体も、大きな問題です。デネットであれば、そもそも間違った前提から出発しているからこういう問題が生じるのだ、と言うかもしれません…
【タイプ1の盲視患者とタイプ2の盲視患者】
いずれにせよ、通常の盲視をめぐる議論では、
- 健常者:識別能力○、意識経験○
- 盲視患者(タイプ1):識別能力○、意識経験×
という図式で考えられています。ところが、今回のお話しでは、何らかの感じを抱くという盲視患者のお話がありました。
- 盲視患者(タイプ2):識別能力○、意識経験△
といった感じでしょうか。では、このタイプ2の盲視患者はどう位置づけたらよいのでしょうか。
論理的には三つの解釈が可能でしょう。
(3) タイプ1の盲視患者は意識経験を持たないのにたいして、タイプ2の盲視患者はぼんやりとした意識経験を持つ
そうだとすると、両者の違いは、意識経験の有無を決める違いだということになります。これは、上の(1)の路線に沿った考え方と言えるでしょう。
(4) どちらの盲視患者もぼんやりとした意識経験を持っているのだが、タイプ1の盲視患者はそのことを自覚できていないのにたいして、タイプ2の盲視患者は自覚できている
このとき、両者の違いは、意識経験の有無ではなく、自覚の有無をもたらすのだということになります。これは上の(2)の路線に沿った考え方です。
(5) タイプ1の盲視患者もタイプ2の盲視患者も意識経験を持たないが、タイプ2の盲視患者は間違って自分が意識経験を持つと考えている
アントン症候群のような症例を考えれば、このような可能性がないとも言えません。しかし、盲視患者とアントン症候群の患者では脳の損傷部位が異なるでしょうから、このことは、この解釈をとる積極的な理由にはならないでしょう。いずれにせよ、この解釈によれば、意識経験の有無を決めるのは、二つのタイプの盲視患者が共通に損傷している部位だということになります。
では、いったいどの解釈が正しいのでしょうか?そもそも、どのような方法でどの解釈が正しいかを決定できるのでしょうか?現時点では、私にはなんとも言えません。(両者の間に、どれだけの解剖学的、機能的な違いがあるのでしょう?そのへんも気になるところです。)
ただし、どちらの解釈をとるにせよ、一つ問題があります。それは、吉田さんもお話しの中で言及されていましたが、タイプ2の盲視患者は、かすかな刺激を見ている健常者とは違うらしい、ということです。健常者の場合には、意識経験が生じているという自覚と識別能力の間には強い相関が見られるのにたいして、タイプ2の盲視患者の場合には、それほど強い相関が見られません。そうだとすれば、タイプ2の盲視患者は、たんにかすかな意識経験を持っているということではないようです。タイプ2の盲視患者は、健常者のかすかな意識経験とは違った種類の、ぼんやりとした意識経験を持っているのでしょうか?あるいは、意識経験がないにもかかわらず、あるように感じているだけなのでしょうか?(ここでも、デネットであれば、そもそもこういった区別には意味がないのだ、というのかもしれません…)
【感覚入力か脳活動か】
さて、いよいよ吉田さんが最後にお話しされた話題です。
ここでは、タイプ2の盲視患者が、自ら報告している通りに何らかの意識経験を持っているとして、それがどのようなものであるのかが問題になっています。そして、Hurley and Noeの議論を手がかりに、二つの解釈を検討されています。
二つの点についてコメントします。
第一に、講演の際にも少しコメントしましたが、脳活動と運動出力の関係を重視するモデルがあってもよいのではないか、そして、実はそれが一番説得力があるのではないか、と私は考えています。
このモデルでは、幻肢に感覚を感じる患者が触覚的な経験をしているのは、体性感覚野が健常者と同じような仕方で出力と関係しているからであり、全盲の人が点字を読むときに触覚的な経験をしているのは、その人の視覚野が、晴眼者とは違った仕方で出力と関係している(おそらくは、晴眼者の体性感覚野と似たような仕方で出力と関係している)からだ、ということになります。
このモデルでは、たとえば逆さ眼鏡への順応のような現象も、うまく説明できるように思えます。上下逆転眼鏡をかけてしばらくたって順応した人の場合、感覚入力は通常と逆転していますし、(少なくともV1などでは)脳の活動も上下逆転した内容に対応しているはずです。それにもかかわらず、正立した世界が経験されるとすれば、視覚経験の内容は、感覚入力によって決まるわけでも、脳活動によって決まるわけでもなく、むしろ、脳活動と運動出力との関係によって決まるように思われるのです。
ちなみにこのような考え方は、最近翻訳の出たAction in PerceptionでNoe主張している考え方のようにも思われます。(彼は脳活動が外界の表象として機能するというような語り方には反対するかもしれませんが、経験内容は身体運動の可能性との関係によって決まるというのが、彼の基本的な考え方だと思います。Hurley and Noe 2002とNoe 2004の関係がどうなっているのかは、今後チェックしてみようと思います。不勉強なもので前者は未読でした…)
もちろんこれも経験的な仮説なので、実際にそのような投射関係の変化が生じているのかを調べれば、間違っていることが簡単に示されるのかもしれませんが。
第二に、これらのモデルを盲視に適用したときにどうなるか、という点について。
吉田さんが提示した二つのモデルのどちらが正しいかについては、ある程度経験的に判定できるかと思います。たとえば、脳活動重視説では、V1損傷直後から何かある感じが生じるはずであるのにたいして、感覚入力重視説では、網膜から上丘に至る経路が強化されるにつれて、「なにかあるかんじ」が生じることになります。おそらく、実際の盲視患者は後者のパターンを示すことが多いと思われます。さらに、実際に上丘への投射が強化されていることが示されれば、盲視患者は微弱な視覚経験を獲得したのだという説が有力になります。
しかし、盲視患者には二つのタイプがあるということで、話がややこしくなります。どちらにおいても、網膜から上丘に至る経路は保存されているわけですが、タイプ1の患者では、(時間が経過しても)「なにかあるかんじ」が生じません。これが、タイプ1とタイプ2のどのような違いに由来するのか、網膜から上丘に至る経路に実は違いがあるのか、あるいは上丘より後の処理に違いがあるのか、このあたりを明らかにしなければ、「なにかあるかんじ」の正体ははっきりしないかもしれません。
ちなみに吉田さんは、ブログのNote 4で、「なにかあるかんじ」は、視覚経験ではなく、視覚入力によって生じた身体反応の知覚かもしれない、という仮説も提案されています。これもたいへん興味深い仮説ですが、もしこの仮説が正しいとしたら、タイプ2の盲視患者は、視覚刺激の有無の検出はそれなりにうまくできるはずです。実際にはタイプ2でも刺激の検出能力はそれほど高くないのだとしたら(たしかそうですよね?)、この仮説は正しくないのかもしれません。(もちろん、視覚刺激を提示されたときの身体変化はかすかに知覚されるだけなので、刺激の検出能力が100%に遠く及ばないのだ、と考えることもできるので、これだけでは決着はつきませんが、このあたりは経験的に検証していくことが十分可能でしょう。)
*
まとまりがありませんが、コメントは以上です。とにかく、いろいろと勉強になり、考えさせられることも多く、とても有意義な研究会でした。どうもありがとうございました。今度は私が神経科学者に情報提供できる機会でもあるとよいのですが…そのときに備えて、いろいろ勉強したいと思います。
ここまでがコメントです。鈴木さん、どうもありがとうございます。
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- / 投稿日: 2011年02月16日
- / カテゴリー: [視覚的意識 (visual awareness)]
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2011年02月06日
■ 岡崎って日本のどこにあるんすか?
生理学研究所、通称せいりけんは名鉄東岡崎駅前の丘の上にあって、地名としては明大寺町西郷中となる。研究所が出来たのは1977年、敷地としてはここはもともと愛知教育大学があったところで、敷地の駐車場の脇にはいまでも昔の門とおぼしきコンクリートの残骸がある。
Wikipediaによれば、愛知教育大学はかつては愛知学芸大学の岡崎本部と名古屋分校とに分かれていて、それぞれ元は愛知第二師範学校と愛知第一師範学校だったのだが、両者を合併する際に間を取って(取るなよw)、刈谷に移転することになったのだ。
生理研から西向きに坂を下ると愛知教育大学附属岡崎中があって、ここはかつて岡崎高等師範学校といってまたべつの学校の敷地だったのだが、後述する岡崎空襲で焼けてしまい、またすぐに豊川に移転してしまった。
愛知教育大学附属岡崎中に隣接して市立竜海中があって、さらに狭い坂を上りきった敷地は私が岡崎に来た頃からずっと、住宅街の中ここだけ草ぼうぼうの空き地であって、私はそこから夕日を見下ろし、「存在の裂け目」というラカンぽいあだ名を付けて悦に入っていたのだが、ついに最近工事が始まり「存在の裂け目」はあっという間に消え去ってしまった。
そこからまた研究所に戻る道を歩くと今度は岡崎高校の前を通ることになる。そんなわけで、このへんは文教地帯なのだった。もうすこし進むと右手に岡崎コンファレンスセンターがあって、ここで生理研研究会を開催してきた。そこからさらに右に折れると市立三島小学校が見える。
岡崎図書館の資料を見るかぎり、三島小学校はもともと明大寺西郷中、つまりいまの生理研の敷地にあったのだが、戦災で移転して空いたところに愛知学芸大学の岡崎本部が入ったということらしい。
現在の三島小学校を通りすぎると統合バイオサイエンスセンターに到着する。10年ほど前くらいまでは統合バイオの敷地は愛教大のグラウンドという名義で空き地になっていて、そこでわたしはまだ小さかった長男と凧揚げしたものだ。わたしが結婚してすぐに入居したアパートはこのグラウンドに面していて、子どもたちがこのグラウンドで遊んでいるのを部屋から見下ろして確認することができた。ってことで岡崎文教地帯の歴史散歩を終了します。そして寝る。
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…寝ない。そして回想が始まる。生理研に来たばかりにはヘビが道ばたにいるのを見たこともあるし、夜ともなると守衛所のところにタヌキが現れたりしたものだ。どちらもここしばらく見ていないな。守衛所の前ではたまに天気のいい日など、仮眠用だろうか、布団を干していることなどあって微笑ましく通り過ぎたりする。
ただいっさいが通り過ぎ、同じ頃赴任した人がすっかり白髪まじりになったり、我が家でも長男は来年はいよいよ竜海中に入学で、もう岡崎に15年も居るということに気づいて愕然としたりする。
回想は続く。東京から離れてはじめて一人暮らしをするために、近くに墓地とダイエーのある宮下ハイツに入居して、まだ自転車もなくて、ジャスコで買い物してたくさんの荷物を抱えて、流しのタクシーを捕まえようとしたがぜんぜん捕まらず、えらく心細い気持ちになった。東京と違ってタクシーを捕まえるためにはタクシー会社に電話をかけて呼ぶ必要があることをわかっていなかったのだ。
結婚するまで結局車は買わず、つまり、車というものは人間が制御できる能力を超えたものであり、家族のため以外は乗るべきではないというのが当時のわたしの持論だったのだが、そんなわけでいつもママチャリのカゴを満タンにしてふらふらと漕いでいた。
まだおおらかな時代で研究所は館内禁煙とはなっていなくて、ニコチンが切れた俺は実験室から出ると廊下でたばこを吸っていたのだった。非常階段に出て、鳩の糞が降り積もっている場所を避けて階段に座って喫煙していると、上の階から森先生が現れて(というか捕まって)、一緒に連れタバコしながらお話をしたりとか、実験室の前の廊下にはソファーがあってそこで仮眠していて、通りがかった松山先生を驚かせたりとか、なんだかそんなことを思い出しては書き連ねる。
Wikipediaを漁る。東南海地震 1944年12月7日にひきつづき、三河地震 1945年1月13日、こちらは直下型で西尾市あたりを中心にしてたくさんの方が亡くなっているのだけれど、戦時中だから記録が充分残されていない。いまでも三ヶ根駅から形原温泉のアジサイ寺に行く道の途中で断層の場所の標識があって見に行くことが可能だ。
さらにそのあと1945年7月19日未明から20日が岡崎空襲。これによって先述の岡崎高等師範学校は開校前に焼失した。このあとの復興からこのあいだの伊賀川の水害の話まではつながっている。詳細は言うまい。
ともあれあの水害のあとの数年ですっかり移転がすんで、堤防は整備され、ウソみたいにきれいになった伊賀川は親水公園となって、岡崎総合図書館(例の事件の「りぶら」)から見下ろすことができる。親水公園の川はもう水がちょろちょろとしか流れていなくて、飛び石で川を渡れるようになっている。俺はそこを自転車を担いで渡り、凍えながら「あなたの人生の物語」を読み、日が暮れるまでそこにいた。このへんで終了とします。
ということをtwitterに書き連ねたんだけど、そのときはtwitterという今を記録するメディアでなぜか唐突に走馬燈のように昔のことを回想し出すという着想が気に入ってた。そこでなぜか醸し出される哀れなかんじというのを定着させたくてブログにまとめ直してみたのだけれど、調べ物していろいろ書き足していたらなんだかそんなニュアンスが薄れてしまった。なんだか退職した人が半生記書いたみたいだ。そういうつもりじゃあなかったんだけど。いまはまだ、人生を語らず、ですよ(<-なにをいまさら)
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