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■ マニフェスト20180311

「人生何者にもなれなかった、けど」という記事を見た。この記事自体はどうでもいい。でも恥ずかしながら告白すると、私もいい歳して「何者にもなれなかった」みたいな気持ちを持つことはある。ただその表現では正確でないので、もうすこし言葉を費やしてみる。

私は薬学部に入って研究者としての訓練を始める前から、ベイトソンみたいな、ヴァレラみたいな、領域を自由に動き回る教養人になりたかった。偉い先生になって教え子から尊敬を集めたかったのでもないし、本を書いて文化人として扱われたかったわけでもなかった。

大学院に入った私は、ベイトソンみたいにやるためには、清水博が実践したみたいに(注1)PIになって自分の陣地を作ってから己の道へ進めるという戦略がよいのではないかと考えて、神経生理学者としてPIになることを目指した(注2)。

でも出世ルートから外れて年老いてしまい、どうやら計画は「まずPIになる」という段階で頓挫したようだ。それならば代替策はと、「高等遊民になりたい」と冗談めかして書いてきたのだけれども、それは「なろうと思えばいつでもなれる、仕事と家族を捨てればなorz」っていう苦しい思いを裏に貼り付けた上での発言だったのだ。

だから「高等遊民」になりたい、という表現も正確ではない。私は好事家や「プロのお客さん」(by 大槻ケンヂ)になりたいわけではない。ベイトソンみたいに、生きること、心を持つこと、優美であること、尊いこと、それらを「結びつけるパターン」を見つけ出すような生産的な活動をしたいのだ。私はいまでもこの目標に向かって進んでいるつもりだし、その意味では諦めているわけではない。

生きていることと心を持つことを繋げるような、なんだか分からない枠組みに向かうことは、ひとことで言うならばそれは「意識研究」だと思うので、自分のライフワークは「意識の解明です」と説明してきた。

でもそのように説明すると、心の現象のほんの一部である意識だけを研究したいのかと誤解されることがある。そうではなくて、(現象学的に言えば)心の構造が、「注意を向けられ、意識化されたもの」を氷山の一角に、「非主題的な意識」があり、それをさらにたくさんの「無意識」が取り囲んだ地平としてなりたつ仕組みをこそ知りたい。そもそもわたしは盲視という無意識の知覚を研究してきたのだから。

それをあらためて表現しなおせば、ベイトソンが言った「結びつけるバターン」であり、そういった、なんだか得体の知れないものに取り組みたいというのが私の行動原理になっている。

でもそのために自分が持っている道具はあまりに少なすぎて、道具を揃えているあいだに人生の大半が終わってしまいそうだ。「永遠に生きるように学び、明日死ぬように生きる」これは正しい考え方だと思うけど、「永遠に生きるように学ぶが、明日死んでも悔いはない」というやり方にしか自分にはできないなと思う。

そういうわけで、いまの自分にとって「何者かになる」とかそういうこと自体はどうでもよいことなのだけど、研究の道に進む際にひそかに立てた目標からどんどん遅れていっていることに焦りを感じている、というのが正確なところだろうか。


ここまで書いてこの原稿は放置していた。公開するにしてはちょっとぶっちゃけ過ぎているかと思ったので。以前信頼できる友人から、ジョブ探しの際にはwebサイトの内容に極力気をつけた方が良い、とアドバイスをもらったことがある。まったくそのとおりだなと思って、精神状態が悪いときに書いたものはほぼ非公開にした。あと自分の文章作成の方針として、原稿(Twitter含む)を見直してみて、自己憐憫や自己欺瞞や自己正当化や愚痴が含まれていることに気づいたら即削除するようにしてきた。

このような自己ルールの帰結として、このブログは研究に関わる告知や報告が大半を占めるようになって、風野春樹氏のウェブ日記にある「銀河通信」の感覚はまったく失われてしまった。

でも昨年末に祖母と叔父と父親がたて続けに亡くなり、親しくしていた研究者たちが若くして亡くなるのに遭遇して、自分の人生について振り返る時間が多くなった。偶然だが今日は3月11日だ。すくなくとも今回は、自分はどう生きるのか、それを語って消さずに残しておこうと思う。この文章には自己憐憫や自己欺瞞や自己正当化や愚痴が明らかに含まれている。それを完全に脱臭できたらよかったのだけど、自分がどう生きるかを書くにはそれは避けられないことなのかもしれないよ。自己正当化だけど。

注1: 清水博氏が1970年に九州大学の教授になったときはあくまで生物物理(自己組織化現象の物理)の枠内での仕事をしていた。「情報の創造」(場とかホロンの概念)を目指してラボの方針を転換したのは1976年に東大薬学部に移って以降の話。この経緯については氏の「生命と場所」のあとがきに書かれている。

注2: いまでもエリック・ホッファー的な「在野の研究者」の可能性についてよく考える。それをおおっぴらにするわけにはいかないのだが。


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