[月別過去ログ] 2000年02月

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2000年02月28日

クオリアについての「心の哲学」(2)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 2節(Tye, 1997)より:

section II. どの心的状態がクオリアを持っているのか

私が個人的にクオリアを持つと考えているもののリストには,五感(ex.視覚・聴覚),身体感覚(ex.痛み・熱さ),感情(ex.喜び・恐怖),ムード(ex.躁・鬱)が含まれる。

他にリストに加えるべき心的状態があるだろうか? G.Strawson(1994)は,文章を理解したり何かを突然考え付いたり思い出したりする思考体験があり,それは感覚体験に還元できない形でそれ自身のクオリアを持つと主張している。しかし,その見解は論争の的である。文章理解における現象的側面は言葉のイメージからくるところが大きい。文章を読むことによって生じる「心の中の声」のイメージや映像感覚,それから受ける印象や感情を全て取り去ったとき,そこには何の現象も残らないと言う人達も(私を含めて)いる。いずれにしろ,そのようなイメージは思考にとって不可欠ではなく,極めて無意識に行なわれる思考など,クオリアを持たない思考があることは確かだ。


[qualia:2001]村上
感覚(クオリア)を伴う強い欲望は,最初の段落の「感情」に含まれないのかな?と思ったりもしますが。


[qualia:2008]吉田
結局、「クオリアをもつのは、五感,身体感覚,感情,ムードであり、著者は思考には必ずしもクオリアを伴わないと思っている」というところですね。

思考からイメージや印象を取り除く、というけれど、この「イメージ」というやつは「五感,身体感覚,感情,ムード」には入らない感じがします。これはこれで扱うべき感じがします。


[qualia:2010]村上
そうですね。思考が言語イメージに依り,言語イメージがnative languageの詳細(発音その他)に依るというのは十分納得できるのですが,だからと言って逆に思考が全てsensory experienceに還元できるとも言えない気がするのですが…。ただ,

> "phenomenal"は「感覚」よりはもう少し広いところを指していると思うので
> 「現象」にしてしまいましたが、異論があるかもしれません。

これと関連していますが,原文で"phenomenal"と書かれている言葉の意味が問題なのかもしれません。もしかすると,phenomenonではない意識要素があり,思考の本質(つまり思考経験から五感・身体感覚・感情・ムードを取り去った後に残るもの)がそれに当たると考えているのでは…?

その場合,phenomenonの訳語となる「現象」は当然ながら主観的現象(現象学で言うところの現象?)ですが,しかし,最も狭い意味での主観から見た場合には一種の客観として扱われているように思えます。とはいえ,手元の電子辞書でphenomenalを引いてみると
> 1 自然現象の[に関する].
> 2 (思考直観によらず五感で)認知[知覚]できる.
となっており,特に「思考・直感によらず五感で」というあたりに注目するなら,著者の用語は実に的確だという気もします(^_^;)。

しかし,主観性それ自体を解明しようとする試みにおいて,(広い意味での)主観現象の内部に再び主観-客観の対立図式を持ち込むような考え方は健全なのか?という疑問が湧いて来るのですが…。それは,「主観の正体は何か?」という問題を無限後退させてしまうのではないかという危惧を感じます。

2000年02月22日

クオリアについての「心の哲学」(1)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 1節(Tye, 1997)より:

section I. 「クオリア」という言葉のほかの用法(より狭い意味でのクオリア)

私が一匹のダルメシアンを見るとき,私はダルメシアンを表す精神的映像のようなもの(感覚与件)を受け,それに対する内観は,絵の内容(即ちそれがダルメシアンを表すこと、志向的特徴)だけでなく,色や形などの内在的な特徴を露わにする。感覚与件理論の提唱者は,内在的特徴が我々の視覚体験を決める唯一の要因であると考える。ここで,より限定された意味での「クオリア」は,「感覚与件のうち,意識的にアクセスできる内在的特徴であり,現象の特性を決める(それとは別な)非物理的な対象である」とされる。

クオリアの存在を否定する哲学者は,このような狭い意味でのクオリアを考えていることが多い。時には,クオリアが言葉では言い表せない,非物理的な,主観に対して変えがたく「与えられる」ものであるという仮定が加えらている。このように,クオリアに反対する哲学者(例えばDennett 1987,1991)の主張にはいくぶん注意が必要である。先に説明した,より限定された意味でのクオリアは存在しないと考えることができるし,我々の心が言葉で表せない非物理的性質など持っていないと考えることもできるが,それでも標準的な広い意味でのクオリアについては是認できる。

以降のの節では,「クオリア」を標準的な広い意味で用いることにする。


[qualia:1944]村上
sense-datumとかsense-datum theoryと呼ばれる概念に全く心得が無いので,そこらへんの訳出が特に怪しいです。どなたかsense-datum theoryについて簡単に御説明頂けると嬉しいのですが…。


[qualia:1960]吉田
「心の現在哲学」(信原, 1999)を読んで理解したところでは、ダルマシアンの絵について
絵のcontent=絵が差しているもの=表象=intentional(志向的)なもの
絵の色、形=intrinsic(内在的)でnon-intentional(非志向的)なもの
と考えればよいようです。
sense-datum theoryではクオリアを「経験の内在的性質」としているが、志向説ではクオリアを「経験の志向的性質」としているようです。


[qualia:1967]村上
sense-datum theoryが死んだ(demise)と言い切れる根拠は何なのでしょうか? 今の僕の理解では,どちらかと言うとクオリアは内在的と考える方がreasonableなのですが…。sense-datum理論が死んだという解釈が正しければ,僕が「内在」「志向」の意味を誤解しているとしか思えません。


[qualia:1969]吉田
私も充分わかりませんでしたが志向説-sense-datum理論という対比をしているのは信原氏でこの方はクオリアの志向化を目指しているので、sense-datum theoryがクオリアを内在的なものとするのを批判しているようです。
一方、原文の文脈ではTye氏はsense-datum theoryがクオリアを非物理的なものであるとしているところに批判的なようで、この人自身もクオリアを内在的なものであるとしているように読めます。とりあえず「sense-datum theoryは本当に死滅しているのか」という問いを積み残して先に行くのがよいと思いますが、いかがでしょうか。


[qualia:1970]村上
そうなんですか。確かに原文の文脈では,conciously accessibleでintrinsicでnon-intentionalであるという点については似ているが,ただそれがphysicalであっても構わないという点でsense-datum理論とは異なるqualiaが支持されているようなニュアンスでしたが…。


[後日談]吉田
Tyeがクオリアの表象主義者であること(section VII参照)から考えると、Tye自身はクオリアを志向的なものとして捉えているように考えられます。Section VIから考えればクオリアは表象された内容に内在的なものであって、経験に内在的なものではない、とする意見に近い感じがします。

2000年02月19日

クオリアについての「心の哲学」(0)

Author: M. Yoshida and T. Murakami

クオリアについて心の哲学(Philosophy of Mind)ではどのようなことが考えられてきているかを主にStanford Encyclopedia of PhilosophyのQualiaの項目を元にして考えていきます。
Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 0節(Tye, 1997)より:

Section 0: クオリアとは何か

紙やすりの感触、スカンクの屁の臭いはそれぞれ「非常にはっきりと違った主観的な性質を持った心的状態」を主体に引き起こす。哲学者はそのような「心的生活のうち、内観的にアクセスできる現象的な面」のことを差すのにクオリア(単数形でquale)という言葉をしばしば使う。
以下、Tye, 1997の各sectionの要約を元にコメントなどを加えてあります。コメントはQualia-MLでのやり取りを元に再構成しました。コメントの番号はMLでのpostingの番号です。なお、作者は二人とも哲学のトレーニングを積んだ者ではありませんので、理解不十分なところなど多々あるかと思いますので、コメントなど歓迎します。

2000年02月15日

サール:意識を科学的に研究するには(要約)

"How to study consciousness scientifically" John R. Searle

Phil. Trans. Roy. Soc. London Ser. B (1998) vol.353, 1935-1942

(訳注: この論文は自然科学系一般に関する学術誌の"The conscious brain: normal and abnormal"という特集号に出たもので、この特集自体は1997/12/5-6にあったAmerican Association for Research into Nervous and Mental Diseasesによるmeetingの内容を編集したものです。

同じ号には、Logothesis, Ungerleider, Singer, Llinas, Ramachandran, Damasio, Posner, Zekiなどが書いてます。Searleの書き方は基本的に平易ですが、この文は特に、科学者たちに向けて哲学的問題に深入りせずにわかりやすく書いている、という感じで読みやすいです。)

序論意識を科学の問題として捉えるとは、「どうやって脳の過程が意識を引き 起こすのか、どうやって意識が脳で実現されているか」を説明することである。 この論文ではその進歩の障壁となっている哲学的誤りのうちの9つを採りあげ、 ひとつひとつ取り除く。
命題1意識は定義できないので科学的分析に向かない。
1の答え分析的な定義(ある概念の本質を伝えるもの)と一般常識による定義(今何に ついて話しているかを明らかにするもの)を区別すべきである。意識の科学的研究 で必要なのは一般常識による定義の方だ。その意味では意識とは、目が覚めてか ら再び眠るまで続く、感覚のある主観的状態のことだ。
命題2意識は主観的だが科学は客観的である。ゆえに意識の科学はありえない。
2の答え二つの意味の客観―主観区別を分けて考える必要がある。認識論的な意味 での客観―主観区別とは、その正しさを好みや態度によらずに決めることができ るかどうかだ。一方に存在論的意味での客観―主観区別がある。全ての意識的状 態は私が経験することによってしか存在しないという意味で、存在論的に主観的 である。よって存在論的に主観的な意識について認識論的に客観的な科学分析を することは矛盾していない。
命題3客観的現象である神経発火と主観的な意識とを結びつける方法はない。
3の答え脳の過程が意識を引き起こすことがどうやって可能になるのかを説明する 理論を現在我々は持っていないが、そのことは脳の過程が実際に意識を引き起こ すという可能性を否定しない。心臓が血液を循環させていることはかつては神秘 的であった。脳に関して今のところ欠けているのは、脳が意識を引き起こすこと についての同様な説明だ。
命題4意識を主観的要素(クオリア)と客観的要素とに分けることができて、クオ リアについては無視できる。
4の答え意識的状態とは質的な状態そのものことであり、意識の問題とクオリアの 問題は同一である。意識を何らかの第三者的、存在論的に客観的な現象として扱 い、クオリアをわきに退けるというやり方は単に問題を変えることである。
命題5意識は生物の行動に対して因果的には働いていない随伴現象だ。
5の答え私が腕を上げるとき、意志決定というマクロレベルの説明もあれば、シナ プスと神経伝達物質によるミクロレベルの説明もある。そしてマクロレベルでの 特徴がそれ自身ミクロな要素の動態によって引き起こされるという場合は、マク ロレベルの特徴が随伴現象的なものであることを示してはいない。
命題6意識には進化的な機能はない。意識を欠いて行動するゾンビを想像するの はやさしいからだ。
6の答え翼の進化的機能を検証する際には、翼がなくても飛ぶことができる鳥を想 像できるからといって、翼が無用であるなどと議論することはだれも許されると は思わない。意識がなくても人や動物が同じようにふるまうのを想像できるから といって、意識が無用であると議論することはできない。
命題7意識の因果的説明は必然的に二元論であり、ゆえにつじつまが合わない。
7の答え因果的説明には、因果的に創発する特性によるものもある。分子が格子構 造の中で振動するとき、その物体は固体である。固体性は分子の動きの総和以上 の因果的に創発する特性である。意識も固体性と同様、システムのミクロな要素 の動態による創発的な特性である。このような因果的説明は脳と意識との二元論 を含意しない。
命題8意識の科学的説明は意識をニューロン活動に還元する。
8の答え熱や色の還元ではそれについての主観的経験を削り落としてその概念をそ の経験の原因から定義しなおす。しかし現象が主観的現象それ自身であるときに は、主観的経験を削り落とすことは不可能だ。このような創発的特性の場合には 現象を取り除かずに因果的説明を与えるべきだ。
命題9意識の説明は情報処理過程についての説明である。
9の答え意識とは人間や動物の神経系の内因的な特性である。一方、情報処理は観 察者の心の中にある。コンピューターにある情報はそれを見ている人にあるので あって、それにとって内因的にあるのではない。内因的情報と観察者による情報 とに区別をつけるためには意識の概念を必要とするため、意識の概念を情報処理 の面から説明することは出来ない。
結論避けるべき誤りは「意識を捉えそこなって問題を変えてしまうこと」およ び「意識のことを真剣に捉えようとしないこと」だ。

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