« 科学基礎論学会「神経現象学と当事者研究」の要旨掲載しました | 最新のページに戻る | 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」無事終了した! »

■ 意識の神経科学と神経現象学と当事者研究

科学基礎論学会 秋の研究例会@駒場(11/2)でトークをします。「神経現象学と当事者研究」というのワークショップの中で「意識の神経科学と神経現象学」というタイトルで話題提供を行います。


科学基礎論学会に向けて準備を始めたところ。当事者研究関係の本など借りれるだけ借りてきた。

「フッサール 起源への哲学」斎藤 慶典 (著) を読んでいたら、離人症の例をとって「ありありと現前するかんじ」についての議論が出てきた。これってまさに盲視での「なにかあるかんじ」の現前性(presence)だな! 木村敏氏の本でも採りあげられているらしい。

そして離人症においては「ありありとするかんじ」が失われても現象性は失われていない。この本のp.192-195あたりでは、統一された自己が必ずしも現象性に必要ないという議論がなされている。この「統一された自己」というのは後反省的な自己意識を経たものであって、一人称性の基礎となるpre-reflective self awareness (PRSF)は残ると言えそうだ。(見ている自分自体が消えているわけではない。) この辺りと絡めて、盲視で起こっていることを現象学的に捉えたうえで神経現象学をする可能性みたいなところに持っていけそう。

書きながら考える。神経現象学的に捉えようとするとどうなるかというと、「なにかあるかんじ」が残存するとして、それにはPRSFはあると言えるだろう。でもそれは視覚的意識経験(志向性と内容を持ったもの)とも違っていれば、想像や幻覚や思考などとも違っている。

「なにかあるかんじ」はなにかをポイントしているという意味で志向性としての性格を持っているけど、それがポイントしているのはある場所のみであって、しかもそれは視野の外なのだから網膜上に映っている空間ではなくて、そこを外挿した場所もしくは別の座標となる。(これじたいはempiricalな問いであって、頭や体中心の座標などどれを使っているかを検証することは可能。)

離人症では「現前性」が失われつつも現象的な経験自体は残存しているということなのかもしれない。

平行して綾屋 紗月氏、熊谷 晋一郎氏の本も読んでいる(「発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい」および「つながりの作法―同じでもなく 違うでもなく」)。この本ではアスペルガー症候群と診断された綾屋氏が自分の経験を詳細に分析していて、「感覚飽和」という経験が記述されている。これは外界からの情報を大量に受け取ってしまい、不要な刺激を潜在化させることが出来なくて苦しくなってしまうということのようだ。ここで「聞こえているし見えてもいるけれども、意味を失う」という表現がある (綾屋・熊谷 2010 p.21)。

これもどうやら、現象的意識と現前性とが乖離した現象と言えるのではないだろうか。

ちょっと余談だけど、Ned Blockの意識の議論で、現象的意識はあるけどアクセス意識がない例としてワーキングメモリーがオーバーフローした状態を挙げている("Perceptual consciousness overflows cognitive access" (PDF))。このオーバーフローの概念自体は本当にP意識 without A意識と言えるかどうかまだ分からないのだけれども、綾屋氏が描写している「感覚飽和」っていうのはまさにこのオーバーフローそのものだなと思った。

あともうひとつ余談だけど、「不要な刺激を潜在化させることが出来ない」という現象は、「くらやみのはやさはどれくらい」やテンプル・グランディンの話でも「外界の刺激が強烈すぎる」「一つ一つの刺激に気が削がれてしまう」というような記述があって共通性が高い現象のように思われる。この現象じたいはサリエンシー計算論モデルに基づいた議論が出来そうだ。われわれが普段注意を同時に複数のものに持っていかれないということは計算論モデルでは、目立つ刺激の候補の中からwinner-take-allルール(いちばん目立つものだけに注意が向かってその他のものへの注意は抑制される)というメカニズムでもって説明される。ではこのwinner-take-allは脳内でどのように行われているのだろうか? どのくらい個人差があるのだろうか?

話が飛んだけど、神経現象学的にするためには、盲視が現象的視覚経験から何かを引き算した結果ではなくて、経験の一種としてある意味安定した構造をとるようになったものとして捉えることができて、そのような経験のダイナミクスと脳と身体のダイナミクスこそが完全に一致する(相関ではなくて)とかそういうふうになるんではないだろうかと思う。

現象学が正しく機能するなら、経験の分類(=内観で可能)に終わるものではなくて、それは経験の構造とダイナミクスとを捉えるものであるはずで、それを取り扱う脳科学は力学系に基づいたものでなければcontrastive methodに終始してしまう。

これがVarela 1996 ("neurophenomenolgy")からVarela 1999 ("specious present")の間で「力学系的な取り扱い」が神経現象学を構成するための条件として前面に出てきた理由だ。ただし、セルアセンブリが短時間で切り替わりながら変遷してゆく力学系的な過程こそが意識における時間を規定しているのだといった考え方自体は1995Biol. Resですでに展開されているし、Varela 1996で「現象学と神経生物学とが相互に制約条件を与える」というときの神経生物学の中にemergenceのプロセスが含まれている。

ギャラガーの「前倒しの現象学」についてもまったくあてはなる。これは脳科学の方の問題だけではなくて、「なんで現象学が必要なのであって、内観だけではダメなのか」ということに対する答えでもある。毎度書く例だが、再認記憶課題を「見覚えがある」「経験として思い出せる」で分類するのは内観であって、現象学ではない。もしかしたら最初にこの二つを概念として分けるという行為は現象学的だと言えるかもしれないが、それなら現象学と言う言葉をわざわざ引っ張りだす必要はないと思う。ヘテロ現象学がその領域は完全にカバーしていると思う。

とはいえ、やっぱりわたしは現象学をわかっていない。入門書とか読んでいても具体的な現象学的分析にはたどり着けないので、さっさと具体的なものを見に行くべきなのだろう。心理学/精神医学の分野での現象学的/実存的なとり扱いってのはあるけど、あれって現象学って名をつけるほどのものかな?

大学生の頃、RDレインの「ひき裂かれた自己」にすごくはまって、統合失調症の人たちがそれぞれに主観的にconsistency (厳密にロジカルにというよりはある安定性という意味で) を持っているのだというのを読んですごく合点がいったし、反精神医学的な「運動」観よりは好感を持った。だから今回「べてるの家」の実践についていろいろ読んでいて、すごく合点がいった。

さいきんすごく調べているKapurのabberant salience仮説は「動機サリエンスが亢進したことに対する認知的対処が妄想である」というものなのだけど、これの当事者にとっては合理的な認知的な対処なのであるという視点が盛り込んであって、だからKapurは薬を飲むだけではサリエンスを下げるだけど、認知行動療法を組み合わせることで癖となった思考法/妄想をだんだん弱めてゆく、という仮説になっている。すべては検証が必要なのだけれども、なにもないところから妄想が生まれるみたいな捉え方であるかぎりいつまでたっても病因論的なアプローチ無しで現象論的に対症療法的にやるしかないのではないだろうかとか思う。

ってまだ雑然としているけど、書いてて自分の頭の中は整理されてきた。いろいろ繋がってきた! (<-こういうのをjumping-to-concluion biasと言うそうな。)

ばらばらなままに書き連ねると、医師が定期的に診察して話を聞く場合には個々のイベントの有無の注意が向くだろうと思うけれども(なんらかの「問題行動」の頻度を聞いて薬の量を調節したりとか)、「当事者」研究ではそのダイナミクス、つまりどういうコンテキストでそのイベントが起こり、そのあと状況がどう変わったかということにより注意が向くだろう。

たとえば「べてるの家の「非」援助論」に掲載されていた河崎寛氏の「「爆発」の研究」(p.137-146)ではこのへんが明確に描写されている。爆発に至るまでの過程(寿司を食べさせろといった無理めな要求)、爆発(親を殴る、物を壊す)、爆発後(子供っぽい行動、甘えと依存心)というのがべつべつのイベントではなくて、ひとつながりのダイナミクスなのだということがよく分かる。

「現前性」と「離人症で失われるもの」と「盲視でのなにかある感じ」と「統合失調症の前駆期に更新するもの」と「(知覚的、動機的)サリエンシー」とが同じとは限らないのだけれども、こういう切り口で並べて考える題材にはできるだろう。

以前にsensorimotor contingencyとの兼ね合いで、盲視での残存視覚能力が外界の物体を操作可能であるという事実によって「なにかあるかんじ」という感覚を生む、という仮説を考えたことがある。これもピースの一つ。ただ、操作可能性自体が現前性の感覚を生むのではなくて、あくまでキャリブレーションしているだけなのかもしれない。各ステップに穴がある。盲視でサリエンシーと「なにかあるかんじ」が残っているのは本当だけど、両者が同一と言うためにはさらなる証拠が必要だ。


とかなんとか、いまだに考えはまとまっていないのだけれども、ともあれ6月のトーク(ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会)そのまんまというかんじにはならなさそう。乞うご期待!


お勧めエントリ


月別過去ログ