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2000年03月28日

クオリアについての「心の哲学」(8)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 8節(Tye, 1997)より:

VIII. どの生物がクオリアを経験しているか

私たちヒトよりも単純な生物が現象的な意識を持っているかどうか決定付けられるものは何もない(Papineau 1994)。表象主義はこの質問の手がかりを持っている。もしクオリアが感覚モジュールの出力を形成し、信条や欲望の直接的な変化を用意して待機している状態の特質であるならば推論(=知覚刺激でもたらされる情報の評価によって自らの行動を変化させること)が出来ない生物は現象的な意識をもっていない。

たとえば多くの植物は夜になると葉を閉じるが、これは茎と葉柄の水の動きによるもので、温度と光の変化によって起こる。これらの内的な出来事および状態は現象的ではない。また、植物の行動は遺伝的に決定付けられていて、ゆえに学習による修正ができない。植物は自身に起こったことから信条を獲得したり変えたりすることはないし、欲望も持っていない。

以上の推論からすればクオリアが植物にはないとしても、自然界に非常に広く分布しているいうことも出来る(see Tye 1997)。そのような場合ではより単純な生物に信条や欲望があることが必要となる。

表象主義それ自身は論争の的である。クオリアの起源について哲学者が言えることは多くない。


[qualia:2212]村上
> 以上の推論からすればクオリアが植物にはないとしても、自然界に非常に広く分
> 布しているいうことも出来る。そのような場合ではより単純な生物に信条や欲望が
> あることが必要となる。

当然気になるのはここなんですが,原文にも詳細は書かれていないのですね(^_^;)。

クオリアについての「心の哲学」(7)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 7節(Tye, 1997)より:

VII. クオリアの表象理論

私とあなたがあるものを見て、あなたはそれを望遠鏡だと思うが、私はそう思わなかったとしても(私たちの経験は表象的に違う)、望遠鏡の見えかたは現象的には二人にとって全く同じである。これは私たちが同じ3次元表面、輪郭、色、形などを表象する経験を共有しているからだ。この表象はDavid Marr(1982)が提案した2 1/2次元スケッチと似た内容を持っている。2 1/2次元スケッチは初期知覚処理の出力を作り、高次の認知的処理システムへの入力となるが、表象主義者はここにクオリアが見つかると主張する。

クオリアの表象主義者によれば、微細物理レベルまで同じ双子での表象的な内容の違いとは、双子それぞれの環境での主体と対象との関連(tracking)である。表象主義ではクオリアは「主体が直接的に意識している観念の内在的特質」ではなく、むしろ「個人とその環境との間の外的な関係によって決定付けられる外在的特質」である。クオリアはある種の表象的特質と同一である。弱い重生起命題からすれば表象的内容が同一である双子は必然的に現象的特性も同一であることとなる。

表象主義への反例として(1)経験の表象的内容は同一であるが現象的特性には異なるもの(逆転スペクトル)、(2)経験が別の表象的内容を持っているが現象的に同一である例(Ned Block 1990の逆転地球)(3)ある種の経験は持っているが表象的内容を持っていないと思われるような例(Davidson 1986のスワンプマン)がある。

「逆転地球」についてだけ手短に議論する。逆転地球での物の色は地球にある対応物の補色になっている。逆転地球の住民は地球とは逆さまの表象的内容を持っている。彼らは空は黄色く、芝生は赤く感じるが、地球上の私たちと同様、空のことを「青」と呼び、芝生のことを「緑」と呼ぶ。地球人のあなたは(知らないうちに)目に色の逆転レンズを入れられて逆転地球に連れていかれる。あなたは逆転レンズのせいで違いに気づかない。しかし時間が経って逆転地球に順応するとあなたは他の住民と同様、空は黄色いと信じるようになる。だから新しいあなたは昔とは表象的に逆転しているが、現象的にはあなたの経験には変化がない。よって表象主義は間違いとなる。

この反論に対する返答は、色についての正常なtrackingには変化が起こっていないとすることだ。逆転地球への環境の変化は正常なtrackingを変えないし、ゆえにあなたの経験の表象的内容も変えない。


[qualia:2192]吉田
「David Marrの2 1/2次元スケッチ」について補足すると、両目の網膜上の二次元画像から輪郭、色などの要素を抽出し、影、視差などの情報を合わせて立体像を再構成する、というのが大脳の初期視覚野で行われていることであるとする説です。


[qualia:2211]村上
> る。2 1/2次元スケッチは初期的なモジュール的知覚処理の出力を作り、次の高
> 次の認知的処理システムへの入力となるが、表象主義者はここでクオリアが見つ
> かると主張する。

これはvisual awarenessが低次視覚野「のみ」で成立するということなのでしょうか。もしそうであれば,直感的には,うーん,どうかなあという感じですね。あるいは茂木さんの仰る「ポインタに指されていないクオリア」みたいなものが考えられているのかも?

> なくとも一部は決定付けられているとする。広義の表象主義者によれば、微細物
> 理レベルでの双子で表象的な内容に違いを作っているものは外的な違いであり、
> つまり双子それぞれの環境での主体とものとの関連(tracking)である。

これは正しかろうと思いますが,夢とか幻覚とかを考えると,外的な違いではなくとも表象に違いが生じることもある,という気がします。あるいは,「外」とは何か?と問い詰めても良いのかもしれません。このテキストの議論では「意識=脳内現象」が前提されてはいないようなので,ここで「外」と書かれているものは必ずしも「脳の外」を意味してはいないと思うのですが,そうすると一体「外」というのは何なのでしょうか。

また,脳内現象が異なると微細物理レベルが異なることになるだろうと思うのですが,上の文章からは,外的な違いがあるにも関わらず内部の微細物理は変わらない,つまり異なる感覚入力を受けているのに脳内現象は同一であるという状態を考えているようにも思えます。しかし,そんな状態はありえるのかな…?

> あなたの目に色の逆転レンズを入れてあなたを逆転地球に連れてゆく。目覚
> めたあなたは逆転レンズのせいで違いに気づかない。しかし時間が経って逆
> 転地球に順応するとあなたは他の住民と同様、空は黄色いと信じるようにな
> る。だから新しいあなたは昔とは表象的に逆転しているが、現象的にはあな
> たの経験には変化がない。よって表象主義は間違いとなる。

この思考実験の論理がよく分からないのですが(^_^;),なぜ被験者は空を黄色いと信じるようになるのでしょうか? ちょっと原文を探ってみたのですが,

> But after enough time has passed, after you have become sufficiently
> embedded in the language and physical environment of Inverted Earth,
> your intentional contents will come to match those of the other
> inhabitants.

もしかして,色の表象は目に入る光以外とは無関系に,他の環境要因や言語によって規定されると考えられている…?


[qualia:2217]吉田
> これはvisual awarenessが低次視覚野「のみ」で成立するということなのでしょ
> うか。もしそうであれば,直感的には,うーん,どうかなあという感じですね。
> あるいは茂木さんの仰る「ポインタに指されていないクオリア」みたいなもの
> が考えられているのかも?

いやあ、実はここは原文読んでていまいちわからなかったところでして、Representationalists sometimes claim that it is here at this level of content that qualia are to be found.のhere at this levelというのはthe early, largely modular sensory processingとhigher-level cognitive processingとをつなぐ2 1/2Dスケッチのことだろうと思うのですが、いまいち確かでないです。クリックの説でのV1以外のhigher-levelのvisual cortexのレベルでvisual awarenessが成立するというのとたぶん同じとして考えている感じがします。(2 1/2Dスケッチ自体はV1/V2/V4辺りまでで成立している感じがしますが。)

> この思考実験の論理がよく分からないのですが(^_^;),なぜ被験者は空を黄色
> いと信じるようになるのでしょうか?

実は私も読んでて理解できませんでした。実は手元にNed Blockの"Inverted Earth"の論文がありまして、これを読めばさすがにわかると思うのですがまだ手付かずです。


[qualia:2353]吉田
> これは正しかろうと思いますが,夢とか幻覚とかを考えると,外的な違いでは
> なくとも表象に違いが生じることもある,という気がします。あるいは,「外」
> とは何か?と問い詰めても良いのかもしれません。このテキストの議論では
> 「意識=脳内現象」が前提されてはいないようなので,ここで「外」と書かれ
> ているものは必ずしも「脳の外」を意味してはいないと思うのですが,そうす
> ると一体「外」というのは何なのでしょうか。

Tyeのほかの論文を読んでみると、フラッシュの残像はそれが表象しているcontentがある、痛みも何かについての表象である、という言い方をしてます。痛み自身は脳の中にあって、痛みが表象するものは(たとえば)ひざにある傷である、といいます。そこから推定すると、「外」というとき、「脳の外」を意味しているようです。でも幻覚のことまで考えれば、さらに脳の中にまで入っていかないといけない。私の幻覚と双子の幻覚が表象的に違うのはそれが表象するcontentが違うから、という感じで、どんどん中へ入っていくことになる。この辺どう考えてんのかわかりませんが、なんか文献学みたいになってきているので、とりあえずは疑問として残しておくことにしておくのがよいかと思います。

> また,脳内現象が異なると微細物理レベルが異なることになるだろうと思うの
> ですが,上の文章からは,外的な違いがあるにも関わらず内部の微細物理は変
> わらない,つまり異なる感覚入力を受けているのに脳内現象は同一であるとい
> う状態を考えているようにも思えます。しかし,そんな状態はありえるのかな…?

訳をそのまま理解するとそういう感じがしますが、脳内状態は同一ではないと理解した方がよい感じがします。

> この思考実験の論理がよく分からないのですが(^_^;),なぜ被験者は空を黄色
> いと信じるようになるのでしょうか?

私もよくわからなかったので、元ネタの論文:Ned Block, "Inverted Earth"を読んでみました。この話で、現象的な部分が変化しないことについてはまあ問題ないと思うのですが、志向的、機能的な部分がどうなのか、というところが話をわかりにくくしているようです。

逆転地球に移された君にとって逆転地球の空は、地球の空と同様、青く見える。逆転地球に移された初日の君が「空が青い」というとき、青いもの(460nmの光を持つ地球の空)を指している。しかし、自分が逆転地球にいること、逆転地球の住人には空が(現象的に)黄色く見えているのに「空は青い」と呼ぶような言語習慣を持っていることなどを知ってそれに慣れると、君は「空が青い」という言葉で、黄色いもの(570nmの光を持つ逆転地球の空)を指すようになる(ちなみに設定として、地球と逆転地球は交流があって、お互いの星の絵の具を買ったり、互いのラジオが聞いたりできる)。

まとめると、君が「空が青い」と言うときに指しているもの:
---地球にいたとき:地球の空(青いもの)
---逆転地球初日:逆転地球の空(青いものだと思い込んでいる)
---逆転地球での50年後:逆転地球の空(黄色いもの)

そして、機能的状態とは、[入力と出力および他の心的状態と因果的関係を持っている状態]のことであり、よって逆転地球の話では、青いものを入力としているとき(地球のとき)と黄色いものを入力としているとき(逆転地球50年後)では機能的状態が違う、ということになる、これがBlockの言い分です。

私自身わかったようなわからないような感じなのですが、Blockはひとつたとえを出しています。
君は地球にいたときThatcher首相(以下MTと略す)を知っていた。逆転地球には対応するそっくりさんのニセMTがいるが、逆転地球初日にニセMTを見て「MTだ」と言ったら、君は逆転地球人とは違ったものを指している (機能的、表象的に逆転地球人と君は違っている)。しかし、「MTだ」という言葉をニセMTを指す言葉として使うようになれば、君の「MTだ」という言葉は機能的に逆転地球人と同じになる。
どうでしょう?

ひとつすぐ浮かぶ反論は、「入力は逆転地球の空=黄色いもの、ではなくて逆転レンズを通して入ってくる青い光線なのでは」(外と中の境界はレンズと空の間ではなく、レンズと瞳の間である、とする)というものですが、Blockの反論は外と中の境界をそのように内側に持っていくのであれば、逆転レンズを入れる場所も内側に持っていくだけだ、と言ってるようです(この辺不確か)。

それから、逆転地球の空を黄色い、と地球の言葉で表現するのも果たして正しいのかよくわかりません。

逆転地球の話は逆転スペクトルの話の弱点をなくそうと作られたものですが(そのため、逆転させるものが逆転スペクトルでは現象的側面だったのに、逆転地球では機能的、表象的側面になっている。現象的側面の逆転は本人の報告に依らなければならない弱点を持っている)、逆転スペクトルと比べて逆転地球の話は直感的に訴えかけてこないです。

> ちょっと原文を探ってみたのですが,
> > But after enough time has passed, after you have become sufficiently
> > embedded in the language and physical environment of Inverted Earth,
> > your intentional contents will come to match those of the other
> > inhabitants.
>
> もしかして,色の表象は目に入る光以外とは無関係に,他の環境要因や言語に
> よって規定されると考えられている…?

以上が、表象がどう規定されているかについての説(私が理解した範囲での)明にもなっているかと思います。もっとも、参考にしたBlockの論文自体はfunctionalism, intentionalismに対しての議論であって、表象の話とはイコールではないようですが。


[qualia:2360]村上
> 君が「空が青い」と言うときに指しているもの:
> ---地球にいたとき:地球の空(青いもの)
> ---逆転地球初日:逆転地球の空(青いものだと思い込んでいる)
> ---逆転地球での50年後:逆転地球の空(黄色いもの)

1つ確認したいのですが,最後の逆転地球での50年後でも,やはり被験者は逆転レンズを装着したままなのでしょうか? つまり,逆転地球の空が黄色であるということは単に知識として知っている。

> ひとつすぐ浮かぶ反論は、「入力は逆転地球の空=黄色いもの、ではなくて
> 逆転レンズを通して入ってくる青い光線なのでは」
> (外と中の境界はレンズと空の間ではなく、レンズと瞳の間である、とする)
> というものですが、Blockの反論は
> 外と中の境界をそのように内側に持っていくのであれば、
> 逆転レンズを入れる場所も内側に持っていくだけだ、と言ってるようです
> (この辺不確か)。

うーん,そのBlockの反論はどうなのでしょう。それでは逆転レンズが「内」と接するところ(表象と現象の境界)まで持って行かれてしまい,結局のところ逆転スペクトルの話と区別が付かなくなってしまいそうですが。

でも,機能主義に対しては確かに有効な反論のような気もします。機能主義にとっては「内」も全て機能の筈ですから,どこに内と外の境界を設定しようが,常にその境界よりも内側に逆転「機能」を置かれてしまいますね。

あと,要約の方なのですが,最後の段落の

> この反論に対する返答は、色についての正常なtrackingには変化が起こっ
> ていないとすることだ。逆転地球への環境の変化は正常なtrackingを変え
> ないし、ゆえにあなたの経験の表象的内容も変えない。

この部分は,要するに先の「入力は逆転地球の空=黄色いもの、ではなくて逆転レンズを通して入ってくる青い光線なのでは」という主張を意味していると考えてよいのでしょうか?


[qualia:2361]吉田
> 1つ確認したいのですが,最後の逆転地球での50年後でも,やはり被験者は
> 逆転レンズを装着したままなのでしょうか? つまり,逆転地球の空が黄色で
> あるということは単に知識として知っている。

そのとおりです。逆転レンズが途中で取れてしまったら、「現象的には地球にいたときと逆転地球にいるときとで同じ」というのが崩れてしまいますので、間違いありません。

> うーん,そのBlockの反論はどうなのでしょう。それでは逆転レンズが「内」
> と接するところ(表象と現象の境界)まで持って行かれてしまい,結局のとこ
> ろ逆転スペクトルの話と区別が付かなくなってしまいそうですが。

その辺についてはBlockの論文で言っているのですが、感覚中枢とその外側の境界がシャープでない例を考えればよい、というようなことが書いてあります。でもこれでは全然納得できないのですよね。

> > この反論に対する返答は、色についての正常なtrackingには変化が起こっ
> > ていないとすることだ。逆転地球への環境の変化は正常なtrackingを変え
> > ないし、ゆえにあなたの経験の表象的内容も変えない。
>
> この部分は,要するに先の「入力は逆転地球の空=黄色いもの、ではなくて逆
> 転レンズを通して入ってくる青い光線なのでは」という主張を意味していると
> 考えてよいのでしょうか?

いや、たぶんそうではないんではないかと思います。Trackingと言っているときも指しているのは、外部の「黄色いもの(逆転地球の空)」になるはずですので。

いきなりこのパラグラフの訳を出してしまいますと、
たぶん強い表象主義者がこの反論に対して答えるいちばん簡単な方法は(少なくともあなたの経験に関する限り)そこでは色についての正常なtrackingに何らかの変化が本当に起こっているということを否定することだ。結局「正常」という言葉は目的論的、非目的論的両方の意味を持つ。もしある経験が正常にtrackingするものが自然によってそうさせらているものである、つまり生物学的目的としてtrackするものであるなら、地球から逆転地球へと環境が移ることによっては正常なtrackingに関しては何も変わっていないし、ゆえにあなたの経験の表象的内容に関しても何も変わっていない。[人間という種が進化した際に自然によって決定付けられた青をtrackするときの感覚状態]はそのままであり続ける。たとえ逆転地球という異なる環境で時間が経ってその感覚状態がふつう黄色いものを見たときに引き起こされるものであるとしても。
おそらく目的論的には空を表象している、という意味では何も変わっていないだろうということ、それからたぶん、「正常な」trackingといっているあたりに意味があるんだと思いますが、「地球での正常なtracking」は逆転地球にいても保たれている(いつ地球に戻っても機能的、表象的に正常である)ということかな、そういう意味なら納得いくな、と思ってます。


[qualia:2368]村上
> おそらく目的論的には空を表象している、という意味では何も変わっていない
> だろうということ、それからたぶん、
> 「正常な」trackingといっているあたりに意味があるんだと思いますが、
> 「地球での正常なtracking」は逆転地球にいても保たれている
> (いつ地球に戻っても機能的、表象的に正常である)
> ということかな、そういう意味なら納得いくな、と思ってます。

なるほど,現象と表象内容のtrackingが変わってしまうわけではなく,いわば逆転地球の環境に対応してtrackingが増える?ということでしょうか。

ふと思ったのですが,そもそも
> 表象主義への反例として(1)経験の表象的内容は同一であるが現象的特性
> には異なるもの(逆転スペクトル)、(2)経験が別の表象的内容を持って
> いるが現象的に同一である例(Ned Block 1990の逆転地球)(3)ある種の
> 経験は持っているが表象的内容を持っていないと思われるような例(Davi
> dson 1986のスワンプマン)がある。

(1)はともかく(2)は何故反例となるのでしょう。(1)の場合は現象が異なる原因を表象内容以外の何かに求めないといけないですが,(2)の場合は表象内容が現象に対して縮退してしまいますが,だからと言って表象主義が否定されることはないような気もします。表象主義にとって,表象内容と現象は1対1対応でないといけないのでしょうか。とすると,逆転地球の例では,正常地球の空に対する「青」と逆転地球の空に対する「青」は実は異なる現象である必要が出て来ますね。同じように見えるけど,異なる現象。しかしそれはparadoxの臭いを感じたりもしますが…?(^_^;)


[qualia:2373]吉田
> ふと思ったのですが,そもそも
>
> > 表象主義への反例として(1)経験の表象的内容は同一であるが現象的特性
> > には異なるもの(逆転スペクトル)、(2)経験が別の表象的内容を持って
> > いるが現象的に同一である例(Ned Block 1990の逆転地球)(3)ある種の
> > 経験は持っているが表象的内容を持っていないと思われるような例(Davi
> > dson 1986のスワンプマン)がある。
>
> (1)はともかく(2)は何故反例となるのでしょう。(1)の場合は現象が異なる原
> 因を表象内容以外の何かに求めないといけないですが,(2)の場合は表象内容
> が現象に対して縮退してしまいますが,だからと言って表象主義が否定される
> ことはないような気もします。表象主義にとって,表象内容と現象は1対1対
> 応でないといけないのでしょうか。とすると,逆転地球の例では,正常地球の
> 空に対する「青」と逆転地球の空に対する「青」は実は異なる現象である必要
> が出て来ますね。同じように見えるけど,異なる現象。しかしそれはparadox
> の臭いを感じたりもしますが…?(^_^;)

本文でTyeは
(1)は「強い」表象主義、「弱い」表象主義両方の論難になり、(2)は「強い」表象主義のみにとって論難となる、と書いています。ですので「強い」表象主義とは何か、によると思います。「強い」と「弱い」の違いについて著者は明言してませんが、推測するに、
(本文より)広義の(=弱い)表象主義者によれば、微細物理的双子はその経験の現象的特性に関して違うということはありえない。
のに対して、
(本文より)強い表象主義者(Lycan 1996, Tye 1998)にとって逆転地球問題に関して用いることの出来る代案がいくつかあって、これには「クオリアが逆転地球への移動によっても変わらずにいることを否定する」というものや「(クオリアが変わらずに)非目的論的だが広義の感覚の内容の記述は詳しくなるかもしれないことを議論する」というのが含まれる。
とあるところを見ると、

「弱い」表象主義では「表象内容が同一であれば現象に関しても同一でなければならない」のに対して、「強い」表象主義では「表象内容が違っていれば現象に関しても違っていなければならない」ということであって(こっちの方が強いのは確か)、村上さん言うところの「表象内容と現象が1対1対応」しているというのが「強い」表象主義のほうで当てはまっているのではないかと推測します。

村上さん指摘の通り、「逆転地球の例では,正常地球の空に対する「青」と逆転地球の空に対する「青」は実は異なる現象である必要が出て来ますね。」まさにそのとおりのことが起きていて、「強い」表象主義者は逆転地球に対する反論としてTyeは逆転地球に行ったら(そして長い年月がたったら)青のクオリアが地球にいたときと変わっているかもしれない、と言います。これは無理がある反論かもしれないけど、Blockが排除しようとした、「現象時側面の変化を当事者の証言によって証拠とすること」が排除しきれていないことを示しているのかもしれません。
Blockは逆転スペクトルの話をさかさまにした改良バージョンとして逆転地球の話を作ったが、元の材料は同じだから、問題はやはりどっかに残っているのでは、というのが私が持っている疑念です。


[qualia:2375]村上
> 「強い」表象主義者は逆転地球に対する反論としてTyeは
> 逆転地球に行ったら(そして長い年月がたったら)
> 青のクオリアが地球にいたときと変わっているかもしれない、と言います。
> これは無理がある反論かもしれないけど、
> Blockが排除しようとした、
> 「現象時側面の変化を当事者の証言によって証拠とすること」
> が排除しきれていないことを示しているのかもしれません。
> Blockは逆転スペクトルの話をさかさまにした改良バージョンとして
> 逆転地球の話を作ったが、
> 元の材料は同じだから、問題はやはりどっかに残っているのでは、
> というのが私が持っている疑念です。

度々御解説頂き,恐れ入ります。(実は原文にしっかり書いてあったのですね。手抜きして読まずに質問を発してしまいました(^_^;))

確かに,論理的には表象主義者はBlockの追及から逃れることができそうです。逆に表象主義を攻めるとしたら,やはり幻覚の問題などが最大の論難なのでしょうか。要約からは省いてしまったのですが,VI節に次の一節がありました。

> This point holds good even if you are hallucinating and there is no real
> patch of paint on the wall before you. Still you have an experience of there
> being a patch of paint out there with a certain color and shape. It's just
> that this time your experience is a misrepresentation. And if you turn your
> attention inwards to your experience, you will `see' right through it again
> to those very same qualities.

メモに残っていた要約の跡もついでに書いておくと,
> このポイントは,白い壁に塗られた赤丸の幻覚を見ている場合でも通用する。
> そのとき,単に貴方は誤った表象を経験しているのである。

といった感じです。幻覚を指して "It's just a misrepresentation" と言うのですが,いま思い返すと,misrepresentaionとは何ぞや?と気になってしまいます。mis-representationの場合も,それがrealなものでは無いとしても何らかの表象内容(content)が必要な筈ですが,それはどこにあると考えているのでしょう。表象主義者は,幻覚のcontentを「外部」に設定できるのでしょうか…。


[qualia:2386]吉田
> 逆に表象主義を攻めるとしたら,やはり幻覚の問題などが最大の論難
> なのでしょうか。
(中略)
> 幻覚を指して "It's just a misrepresentation" と言う
> のですが,いま思い返すと,misrepresentaionとは何ぞや?と気になっ
> てしまいます。mis-representationの場合も,それがrealなものでは無
> いとしても何らかの表象内容(content)が必要な筈ですが,それはどこ
> にあると考えているのでしょう。表象主義者は,幻覚のcontentを「外部」
> に設定できるのでしょうか…。

たぶん、どこかでその問題は扱われていると思います(先述の痛みの表象の論文とかで)。外部に幻覚のcontentを置くということをおそらくやっていると推測します。ただ、とりあえずはこれ以上のことは今出来そうにありませんので、ここで打ち切らせてください。

2000年03月25日

クオリアについての「心の哲学」(6)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 6節(Tye, 1997)より:

VI. クオリアと内観

以前まで,「クオリアは経験に内在する非志向的な特徴であること」を内 観によって示すことが出来ると考えられてきたが,最近は,そう考えない 哲学者が多い(Harman 1990, Dretske 1995, Tye 1995)。例えば白い壁に 塗られた赤い丸印を見ているとしよう。ここで,「貴方がそこに見ている 丸印」から「丸印を見ている貴方の意識(視覚体験)」に注意を切替えて も,貴方の意識に上る特質は全く同一であり,それ以上の新しい特質は何 も現れない。

この意見は内観的に認識できるクオリアが表象的な性質であることを提唱 しているが,内観によってはそう言えないとする者もいる(Block 1991)。 しかし、たとえば青の視覚を体験するとはどういう事かを,我々は 内観に基づいて知る。このように,ある状態が何であるかという事が,そ れが表象する内在的・非志向的な特質の問題であるなら,我々はそのよう な特質を内観的に意識している。この観点によると,クオリアが経験に内 在的・非志向的な特質であるかどうかという問題は空論である。いずれに しろ,その問題が内観によって解決されることはない。

(訳注、2ndパラグラフについて) クオリアが[経験]に内在するものなのか, それとも[経験が表象する対象object]に内在するものなのか という問題は,内観によっては解決できない, 従って内観という方法はクオリアの問題解決にとっては役に立たない ということではないかと理解した。 また、問題が クオリアが[経験が表象する対象object]に内在するものなのか、 ということであれば、クオリアは表象的なものであり、 内在的であるかどうかは重要な問題ではなくなる。


[qualia:2183]村上
これまた原文は短いので最初は甘く見ていたのですが,意に反して強敵でした。というか,どうしても意味が掴めなくて,これ以上考えると血を吐きそうなので,「中国人サール」的翻訳を出してしまいます(^_^;)。すいません,添削して下さい。

特に二段落目(原文では三段落目)が意味不明です。Blockさんは果して何を言っておられるのでしょうか。それが解らない原因は一段落目の誤解にあるのかもしれませんが(^_^;)。


[qualia:2186]吉田
原文と併せて読んでみましたが、確かに意味は取れますし、要旨も原文に忠実に出来ていると思うのですが、この節全体としてTyeが何を言わんとしているかがよくわからないですね。

わからないなりにまとめると、「Tyeの立場であるクオリアの表象主義」と「内観を通して認識されるクオリア」とでのクオリアの特性の違いになんか問題があって、それに少しなんか決着をつけているようではあるのですが。

Introspectionについてもう少し何かがわからないといけないのかもしれない。あと、1節のsense-datum theoryの話がまた帰ってくるのかもしれない。もう少し考えてみます。

あと、第一段落の頭に関しては「以前まで、クオリアは経験のうちの内在的非志向的特徴であると主張するのに哲学者は内観に直接訴えかけていたが、最近は、内観によってはクオリアのそのような(内在的非志向的)特質は明らかにならない、と主張する哲学者もたくさんいる。」という感じかと思います(原案はクオリアと内観がごっちゃになってる感じがします)。


[qualia:2187]村上
> 原文と併せて読んでみましたが、確かに意味は取れますし、
> 要旨も原文に忠実に出来ていると思うのですが、
> この節全体としてTyeが何を言わんとしているかがよくわからないですね。

全くの誤訳でも無かったようで,とりあえず安心しました(^_^;)。ただ,二段落目は意味が分からなかったので,ほぼ盲目的全訳になってしまってるのですが…。

> Introspectionについてもう少し何かがわからないといけないのかもしれない。
> あと、1節のsense-datum theoryの話がまた帰ってくるのかもしれない。
> もう少し考えてみます。

そうですね。sense-datumの件も絡めて,「内観」の理解が肝のようです。何か分かりましたら宜しく御教授下さい。

> あと、第一段落の頭に関しては
> 「以前まで、クオリアは経験のうちの内在的非志向的特徴であると主張するのに
> 哲学者は内観に直接訴えかけていたが、
> 最近は、内観によってはクオリアのそのような(内在的非志向的)特質は
> 明らかにならない、と主張する哲学者もたくさんいる。」
> という感じかと思います
> (原案はクオリアと内観がごっちゃになってる感じがします)。

すいません,大胆に意訳・圧縮したつもりだったのですが,少しやりすぎだったかもしれません(^_^;)。

クオリアの広義の定義に「クオリアは内観的にアクセスできる」と書かれているので,「内観がクオリアを現す」ことに意見の相違はなく,問題は「クオリアが経験に内在的・非志向的な特質であるか否か」という点にありますが,簡潔に表すと

以前: 内観 ← クオリア = 経験に内在的・非志向的な特質
最近: 内観 ← クオリア = ¬経験に内在的・非志向的な特質

となり,さらに思い切って

以前: 内観 ← 経験に内在的・非志向的な特質
最近: 内観 ← ¬経験に内在的・非志向的な特質

と圧縮し(^_^;),

> 以前まで,内観は経験に内在する非志向的な特徴を現すと考えられてきたが,
> 最近は,内観がそのような性質を持つとは考えない哲学者が多い

と訳したのが原案でした。敢えてクオリアという言葉を「省いた」つもりだったのですが,意図を外れて「ごっちゃ」になってしまったようです。要約というのは難しいですね。


[qualia:2335]吉田
ReferenceのHarman 1990とBlock 1991を読んできました。それで少しわかったことなどを。

Harmanが書いているのは、「クオリアは[経験]に内在する特徴である」というのは誤りであって、「クオリアは[経験が表象する対象object]に内在する特徴である」、よって、クオリアは志向的なものであるとしています。

おそらく、(訳での)第二パラグラフで言っているのはこのことで、あるクオリアが内在的(そのクオリア自身によってのみ決まり、他との関係にはよらない)であるとしても、それが[経験が表象する対象]に内在的であるということならば、Tyeの立場であるクオリアの表象主義にとっては脅威とはならない。よって、クオリアの性質が内在的であるか否かは思弁的なこと、空論に過ぎない、と言っているようです。

一方、Block 1990は内観によってはこういうことはわからない、とHarmanを批判して、内観というシンプルな方法で解釈が難しい答えを出そうとするのは方向を間違えていると言ってます(そのため、Blockは逆転地球という方法はややこしいが、解釈は簡単な問題(Blockの自己申告では)を立てていると主張する)。

おそらくそのため、Tyeは「もしかするとクオリアは経験に内在的・非志向的な特質としては内観に現れないのかもしれないが,内在的なクオリアが内観されることが決して無いとも言えない。」というようなことを言っているようです。


[qualia:2348]村上
吉田さん:
> おそらくそのため、Tyeは
> 「もしかするとクオリアは経験に内在的・非志向的な特質としては
> 内観に現れないのかもしれないが,
> 内在的なクオリアが内観されることが決して無いとも言えない。」
> というようなことを言っているようです。

「内在的なクオリアが内観されることが決して無いとも言えない」という時の内在的なクオリアとは,[経験が表象する対象]に内在的なクオリアであるという理解で良いでしょうか?

つまり,クオリアが[経験]に内在するものなのか,それとも[経験が表象する対象object]に内在するものなのかという問題は,内観によっては解決できない,従って内観という方法はクオリアの問題解決にとっては役に立たない,ということでしょうか。


[qualia:2354]吉田
> 「内在的なクオリアが内観されることが決して無いとも言えない」という時の
> 内在的なクオリアとは,[経験が表象する対象]に内在的なクオリアであるとい
> う理解で良いでしょうか?
> つまり,クオリアが[経験]に内在するものなのか,それとも[経験が表象する
> 対象object]に内在するものなのかという問題は,内観によっては解決できな
> い,従って内観という方法はクオリアの問題解決にとっては役に立たない,と
> いうことでしょうか。

私もそのような理解に達しております。

2000年03月18日

クオリアについての「心の哲学」(5)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 5節(Tye, 1997)より:

V. クオリアと「説明のギャップ」

内観的な主観現象と,脳や身体で起こる客観現象との間には,非常に深い溝が ある。どれほど客観的な情報を得ようとも,依然として主観的感覚には全く説 明できない何かが残るように思える。

これが有名な,クオリアの「説明のギャップ」である(Levine 1983)。「説明 のギャップ」は世界が持つギャップに対応し,非物理的な性質としての主観が あると考える人(Jackson 1993, Chalmers 1996),ギャップはあるが主観の実 体は物理的であると考える人(Searle 1992),主観は物理的で,ギャップはい つか橋渡しされるが現在はそれに必要な概念が欠けていると考える人(Nagel 1974),ギャップは橋渡しできるが,しかし人間の心では無理であると考える 人(McGinn 1991)など,様々である。

一方,近頃支持者を増やしつつある見方としては,「説明のギャップ」は橋渡 しできないギャップとして実在するが,それは自然現象が持つギャップではな く,現象の概念が持つ特別な性質に由来するものであり,それら概念が,ギャッ プが実際よりも深遠で厄介なものであると我々に誤解させているとする。(see Lycan 1996), (see Tye forthcoming (b))。

ギャップがいかにして生じ,それが何を示すのかという事については,一般に 意見が一致していない。


[qualia:2137]村上
'Explanatory Gap'はとりあえず「説明的ギャップ」と直訳しましたが,良い訳語があれば適当に御変更下さい。


[qualia:2138]村上
各見解の詳細を知らないのではっきりとは言えないですが,僕自身はたぶんNagel氏の考え方に近いのでしょうか。

ギャップが概念上の困難であるとする「近頃の」考え方にも直感的に惹かれるものがあります。ただ,要約には書きませんでしたが,その考え方では,ギャップの問題は意識の本性(nature)に対して全く重要性を持たない事になるらしく,そこらへんの意味合いに少し引っかかるところはあるのですが…? 何が引っかかるのかはっきり言葉に出来ないところがもどかしい(^_^;)。


[qualia:2142]吉田
webを検索してみたところ、茂木さんの心脳問題Request For Comments RFC3 「心」が起こす次の科学革命 http://www.qualia-manifesto.com/rfc/rfc3.html が引っかかってきて、「説明のギャップ」と書いてます。定まった訳が他になければこれがよいかという感じがします。

2000年03月11日

クオリアについての「心の哲学」(4)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 4節(Tye, 1997)より:

section IV. 機能主義とクオリア

クオリアについての機能主義とは「各クオリアの現象的性格は物理的入力と物理的 出力とを媒介する機能的な役割の性質と同一である」という見方だ。

これに対する有名な反論として「逆転スペクトル」ではこう主張する「私が緑を見てい るとき、あなたは赤を見ているかもしれない。同様に他の色でも私たちの色の経験が 現象的に逆になるようになっている」。確かにあなたと私はこの場合表象的に違って いるかもしれないが、それは機能的な違いをも引き起こす。

更なる反論「二人は表象の中身としては同様の経験を持つが、同時に現象的には 違った経験である」に対しては、こう主張できるだろう「たとえ私たち二人が機能的に おおまかなレベルでは同一だったとしても(二人とも赤いものを赤と呼ぶ)、精細な レベル(赤いものを見ることによって赤の経験が引き起こされる)では機能的違いが ある。これが私たちの経験が現象的に違っている理由だ」。

これに対してこういう反論がある。「あなたと私が本当にすべての点で機能的に同じ でしかし現象的には違っている、というのはまだ想像可能だ」。しかしこの主張は機 能主義には反対するが物理主義は受け入れる哲学者にとって問題となる。もし物 理的コピー人間が形而上学的に不可能であるならば、どうして機能的コピー人間は よいのか?

もうひとつの思考実験の「中国人集合体システム」議論(Block (1980))では「何億人 もの中国人がそれぞれお互いと、それから人工的な脳のない体と通信できるような トランシーバーを持っている。体の動きはトランシーバーの信号でコントロールされ 、その信号自身は中国人たちが全員見ることの出来る巨大ディスプレーの指令に よって作られる。その指令によって参加している個々の中国人は個々のニューロン のように機能し、トランシーバーがシナプスのようにそれをつなぐことで中国人集合 体は人間の脳の複製物となる。」もしこれが実現されるとして、このシステムが感じ や経験を持っていなくても理屈は通っているように見える。もしこれが本当に形而 上学的に可能であるならば、クオリアには機能的な本質が無いということになる。

これ対する機能主義者の返答としてLycan 1987は「人間の頭の中に捕らわれてい るニューロン大の生き物なら人間には意識は無い、と間違って確信することもあり うる。それと同じ誤解がある」と言う。Shoemaker 1975もこう言う「機能的コピー人間 であるならば内的状態までもが同じであり、「中国人集合体システム」は痛みを経 験することになるだろう」。もしこの返答がうまくいっているとしたら、ある種の現象 的特徴を持つことの特性は機能的本質を持っていることである。しかしこれは個々 のクオリアがその本質として機能的であるとは示していない。


[qualia:2093]村上
元の内容の主旨とは直接関係ないのですが,以前話題に出ていた「逆転眼鏡」と同じように,例えば赤と緑を逆転させるような眼鏡(CCD&Display?)をかけて暫く生活していたら,どのような事が起こるのでしょうか。たぶん,赤と緑が心理的に再逆転されて元に戻る…なんてことは無さそうな気がするのですが,何か変な事が起こりそうではあります。

> これに対してこういう反論がある。「あなたと私が本当にすべての点で機能的に
> 同じでしかし現象的には違っている、というのはまだ想像可能だ」。しかしこの主
> 張は機能主義には反対するが物理主義は受け入れる哲学者にとって問題とな
> る。もし物理的コピー人間が形而上学的に不可能であるならば、どうして機能的
> コピー人間はよいのか?(もちろんこの反論はクオリアが還元不能な非物理的

これは人間の機能とは何かという問題を曖昧にしたまま考察しているために出て来る疑似問題ではないかとも思えます。もし,この問題における「人間の機能」とは何かを述べる明確な定義を御存知の方がおられましたら教えて下さい。

> もうひとつの思考実験の「中国人集合体システム」議論(Block (1980))では「何億
> 人もの中国人がそれぞれお互いと、それから人工的な脳のない体と通信できる
> ようなトランシーバーを持っている。体の動きはトランシーバーの信号でコントロ
> ールされ、その信号自身は中国人たちが全員見ることの出来る巨大ディスプレ
> ーの指令によって作られる。」もしこれが実現されるとして、このシステムが感じ

実験の仕組みが(原文を読んでも)今一つはっきりしないのですが,その巨大ディスプレイには,各々の中国人に対する個別の指令が表示されるのでしょうか? その場合,そのディスプレイに表示される指令をどのようにして作るのかという問題がcriticalなように思えます。その指令に従って動く機能よりも,その指令を作るための機能こそ,正に意識を持った脳でしか有り得ないような…?

> 能的コピー人間は、私自身の内的状態の信条までもが同じであり、「中国人集
> 合体システム」が痛みを経験することになるだろう。」もしこの返答がうまく
> いっている

上の疑問が正しければ,必ずしも中国人集合体システム自体が意識を現す必要は無さそうです。(でも,現れた方が面白いですが(^_^;)) しかし,こういう思考実験はなんでいつも中国人なんですかね。そう言えば,推理小説の戒律では逆に中国人禁止なようで。


[qualia:2096]吉田
At 22:47 00/3/12 +0900, murakami-san wrote:
> 元の内容の主旨とは直接関係ないのですが,以前話題に出ていた「逆転眼鏡」
> と同じように,例えば赤と緑を逆転させるような眼鏡(CCD&Display?)をかけ
> て暫く生活していたら,どのような事が起こるのでしょうか。たぶん,赤と緑
> が心理的に再逆転されて元に戻る…なんてことは無さそうな気がするのですが,
> 何か変な事が起こりそうではあります。

これはおもしろいかもしれませんよ。逆さめがねでの位置の場合は、網膜レベルで上下または左右の対称性があるわけですが、色では網膜の光感受性細胞(錐体)レベルでは赤―緑、青―黄という軸はまだなくて、1段処理が進んだあとの神経節細胞のレベルで起こります。つまり、光の波長レベルでは赤―緑に対称性はないので、逆さめがねとの違いが出てきて面白いかもしれません。実現するにはどうすればよいかぱっとわかりません。色空間を青黄白黒の面でひっくり返すだけですが、単なるスペクトルの逆転ではうまくいかない感じがします。錐体の感受性の曲線がどっかに効いてくるかもということ及び神経節細胞での処理の代わりがどっかに入ればよいかという印象です。(専門用語炸裂させてしまいましたが、ご勘弁を。どなたか考えてみないですか。)

ちなみに、"Vison Science"(visual awarenessについて一章分を割いて哲学的背景から説明をしている貴重な本)の著者Steven PalmerがBBS: ftp://ftp.princeton.edu/pub/harnad/BBS/.WWW/bbs.palmer.htmlでこの話の最新版を考えているはずです。まだ読んでません。

「あなたと私が本当にすべての点で機能的に同じでしかし現象的には違っている、というのは想像可能だ」というのを著者は撥ね付けてますが、他者のクオリアを知ることは出来ない、ということを考えれば、これは想像可能な話に思えます(もちろんこれは別物ですが)。

> 実験の仕組みが(原文を読んでも)今一つはっきりしないのですが,その巨大
> ディスプレイには,各々の中国人に対する個別の指令が表示されるのでしょう
> か? その場合,そのディスプレイに表示される指令をどのようにして作るの
> かという問題がcriticalなように思えます。その指令に従って動く機能よりも,
> その指令を作るための機能こそ,正に意識を持った脳でしか有り得ないような…?

全員に同じ指令が出そうに読めますが、それでは全然機能できそうにないでしょうね。それからホムンクルスの問題および個々のニューロンの動態の総和からどうやって意識状態が「創発」されるかという問題にぶつかりますし、この話は私も正直ピンとこない感じです。


[qualia:2100]村上
> 「あなたと私が本当にすべての点で機能的に同じで
> しかし現象的には違っている、というのは想像可能だ」
> というのを著者は撥ね付けてますが、
> 他者のクオリアを知ることは出来ない、ということを考えれば、
> これは想像可能な話に思えます(もちろんこれは別物ですが)。

これは深く考えていると頭がこんがらがります(^_^;)。「機能が同じ=他人か ら見て振舞いが同じ」であるなら,確かに現象が同じかどうかは分からないで すが,その場合,「現象が同じ」である事をどのように定式化すれば良いのか 不明で,そもそも「決して見えない」と仮定したものが「同じであるか否か」 を問うのは,機能や物理以前に,論理の問題に属しているようにも思えます。 かと言って,徹底して論理的に考えてしまうと,たぶん機能主義が結論される のは明らかなような気もするので,そうなるとそもそも何を考えていたのか分 からなくなってしまう(^_^;)。この問いは果たして論理的考察によって解決で きるのでしょうか? 元の問題を表す命題に「機能」と「現象」という用語が 入ってますが,これはそれぞれ「客観」と「主観」に対応しており,すなわち 元の命題は「客観が同じでも主観が異なりうる」と換言できそうです。しかし, そもそも論理的関係を拒否する断絶こそが主観と客観の概念対立に現れている のだから,その対立を問題の表現に最初から取り入れてしまうのは行儀が悪い, とも思えます。心脳問題の核は,解答以前に,先ずはいかに正しく問うかとい うところが難しいですね。


[qualia:2178]吉田
「中国人集合体システム」は(おそらく)意図せずコネクショニスト的なニューロン集合による機能的動作を表している感じがします。うーん、チャーチランド「認知哲学」も読んでないです。私。

2000年03月06日

クオリアについての「心の哲学」(3)

Stanford Encyclopedia of Philosophy---Qualia 3節(Tye, 1997)より:

section III. クオリアは還元不可能で非物理的な存在か

「色の科学者のMary」の思考実験で、Maryは白黒の部屋に幽閉されて、その 中から色についての物理的情報を獲得し、この分野での世界的権威となる。 ある日Maryは開放されてバラを見てこう叫ぶ「赤を経験するってこういうこと なんだ」。これに対して「Maryが部屋の外に出る前には色に関する主観的特 質についての知識を持っていなかった」という説明は物理主義者には使えな い。赤を経験するということが物理的特質と同じことであるならば、Maryは部 屋にいる間に「赤を経験するということ」についてすでに知っていることになる。

ある物理主義者は「Maryが外に出て獲得した新しい概念は、その前には違った 仕方で知っていた」と答える。このアプローチではMaryは新しい発見をしてない ように見えるが、そうではない。「Ciceroは雄弁家である」と「Tullyは雄弁家であ る」の違いは偽条件のレベルではなく、現れ方の様式のレベルであって、この 概念は同じことを参照している。よって「Maryは開放されて新しいことを知った こと」および「それに関わるすべての物理的事実をすでに知っていること」は両 立する。これこそがこの「知識論法」で物理主義者が答える必要のあることだ。

「哲学的ゾンビ」の思考実験で、ゾンビとは生き物の複製だが、どんな現象的意 識をも欠いている生き物だ。私のゾンビは私とは経験についてしか違っていない 。哲学的ゾンビはクオリアの物理主義にとって深刻な脅威だ。もしゾンビが形而 上学的に可能であるならば、(1)現象的状態と内的客観的物理的状態とは同一 でないことが示され、(2)クオリアについての事実は客観的、物理的な事実によ って決定されているとは言えなくなる。

この問題に対する物理主義者の答えとして有名なのは(Loar 1990)、「それが概 念的には可能であることは認めるが、形而上学的にはありえない」というものだ 。ゾンビの議論は単なる概念的可能性では足りない。このことは、「私がMichael Tyeではない」ということは概念的には可能だが、事実からすれば形而上学的 には不可能であることから示される。


[qualia:2029]吉田
あと、"The issues here are complex."のパラグラフは分析哲学の専門用語だらけで全然理解できませんでした。様相とか、可能世界とか、タイプ同一説とトークン同一説とかの言葉と関係あるようだ、というところまでは調べましたが、ある程度勉強しないとわかりそうにないので、深入りしないうちにとりあえずこれで出しておきます。このパラグラフは切ってしまうのがよいかもしれない。とにかく、TyeはJacksonやChalmersの意見に否定的であるようです。

調べ物している過程でhttp://www.artsci.wustl.edu/~philos/MindDict/dictindex.html を見つけましたが、役に立ちそうです。

ちなみに「(クオリアに関する)物理主義者」という言葉は定義なしに使われてますが、文章内の表現から推定するに、定義ではありませんが、(クオリアに関する)物理主義者であるなら、「物理的世界とは因果的に無関係な主観的世界」の存在を否定する、ということになるようです。

このsectionでの"phenomenal"はphenomenal, subjective / physical, objective
という対比から考えると、「現象」がよいと思いました。


[qualia:2030]村上
Maryとかゾンビの喩えは記憶にあったので,原文は読んでないと言いましたが,実は前に読んでいたようです。(理解できないところが多すぎたせいか,これまた読まなかったことにしていたようで(^_^;))。

クオリアが物理学で説明できるという主張が強く批判されうるものであるという事情はよく分かるのですが,少なくとも科学者Maryや哲学的ゾンビのような議論は的外れな批判としか思えないです。科学者Maryや哲学的ゾンビの発想には最初から「非物理的精神」の存在が前提されており,非物理を仮定して物理を否定するという,何の積極的意味も持たない論理命題を主張しているだけのような気がします。

仮にその批判がそれなりに妥当だとしても,二元論に付き纏う心身問題に比べれば,まだしも論難性は低いようにも思えるのですが…。ちなみに,現代の二元論者は心身問題についてどのような解決を見出しているのでしょうか? もし詳しい方がおられましたら教えて頂けませんでしょうか。


[qualia:2037]吉田
少なくともMaryの話は「非物理的精神の存在を前提」してはいないのではないでしょうか。もしそうならその点だけで論破できる話だと思います(同じ特性の現れ方の違い、なんて言わずに論点先取を突くやり方で)。

これらの思考実験の意義は、「クオリアに関する物理主義」の成立可能性についての反例を示している(かもしれない)ことにあるのではないかと思います。よってこれは「クオリアに関する物理主義者」の誰かが答えるべき問いではあると思います。ただし、これは村上さんご指摘の通り、代案を立てるのよりは弱いという意味で積極的意味に欠けるのかもしれませんが。

もし「クオリアの物理主義」の側に立つならば、相手が代案を出さないことを非難しても相手の理にかなった(もしそうなら)批判に答えたことにはならない。一方、どちら側にも与しないで、どちらの論が優れているかを考えようとするならば、批判ではなくて、どちらの案が優れているかが重要。つまり、どこに自分を置くか、そういうことですよね、きっと。

> 仮にその批判がそれなりに妥当だとしても,二元論に付き纏う心身問題に比べ
> れば,まだしも論難性は低いようにも思えるのですが…。ちなみに,現代の二
> 元論者は心身問題についてどのような解決を見出しているのでしょうか?

このsectionでも少し名前の出てきたChalmersはある種の二元論を立てているはずです。ただ、Chalmersはhard problemという言葉を広めたような人ですし、いわゆる二元論とは違っているようなんですが、よくわかりません。Web上にたくさん論文があって、興味あるのですが読めてません。


[qualia:2044]村上
> 少なくともMaryの話は
> 「非物理的精神の存在を前提」してはいないのではないでしょうか。
> もしそうならその点だけで論破できる話だと思います

原文&読ませていたsummaryに今一つ十分な理解が及んでない部分もあるので誤解しているかもしれませんが,「白黒の部屋に閉じ込められた人間が色彩研究の権威になる」という仮定は「哲学的ゾンビ」の仮定と同類ではないだろうかと思うのです。

白黒の部屋に閉じ込められていた時のMaryと屋外に出た時のMaryは物理的に同一(同質)であると前提されていると思います。その上で,物理的には質的変化が無いにも関わらず,体験には質的変化が起こると仮定している。その仮定には明らかに非物理的要素が既に持ち込まれているような気が…。

あるいは,原文の"Mary knows all the pertinent physical facts."などの言い回しが引っかかるのですが,もしかして,physical factsを「知っている」事とMaryを構成するphysical factsそれ自体が同一視されているのでしょうか?字面だけで解釈すると原文からはむしろそのニュアンスを強く感じるのですが,しかし,まさかそんな短絡的な発想はあるまいと思っているのですが…(^_^;)。


[qualia:2052]吉田
At 01:53 00/3/7 +0900, you wrote:
> 「白黒の部屋に閉じ込められた人間が色彩研
> 究の権威になる」という仮定は「哲学的ゾンビ」の仮定と同類ではないだろう
> かと思うのです。

そもそも「白黒の部屋に閉じ込められた人間が色彩研究の権威になる」が可能かどうかという意味では、summaryからはしょった本文で、Knut Nordbyという全色盲の視覚科学者の例を挙げています。また、「色の科学」(朝倉書店)を書いた金子隆芳氏はその本の一章(「ある色覚異常者の体験」)を使って自身の色覚異常について書いています。

が、しかし、そういうことではないようですね。やっと村上さんが言わんとすることが少しわかってきましたが、

> 白黒の部屋に閉じ込められていた時のMaryと屋外に出た時のMaryは物理的に同
> 一(同質)であると前提されていると思います。その上で,物理的には質的変
> 化が無いにも関わらず,体験には質的変化が起こると仮定している。その仮定
> には明らかに非物理的要素が既に持ち込まれているような気が…。

これはこういうことでしょうか。つまり、Maryは部屋にいた頃は脳が色を感じるとき特有の活動がなかった。そして、部屋を出た後、初めて、脳が色を感じるとき特有の活動をした。よって、Maryは物理的に同一ではない。Maryの脳の物理的状態が変わったのだから、Maryが新しく主観的状態を獲得するのに何の不思議もない。

ただ、部屋から出る前のMaryと出た後のMaryは物理的に同一であるとは前提していないのではないでしょうか。脳の活動が意識を引き起こしててもよくて、それでも、Maryには新しく知ったことがある。ここがこの「知識論法」のたぶんミソで、「色のクオリア」と「色の特性の物理的条件」の代わりに「色のクオリアを知っていること」と「色の特性の物理的条件を知っていること」を使っている意味があるのではないかと。

> もしかして,physical factsを「知っている」事と
> Maryを構成するphysical factsそれ自体が同一視されているのでしょうか?

ですので、Maryの話自体には「Maryを構成するphysical factsそれ自体」は関わってこなくても成立するのではないかと思います。(議論の流れから離れて率直に言うと、村上さんの考えには納得させられるところがありますが、この問題の解にはなってないのでは、というのが印象です。)

(ある種の)二元論の人としてChalmersを挙げましたが、これは私のいいかげんな知識ですので、(下のChalmersの著書"The conscious mind"のintroductionで少し言及あり)http://ling.ucsc.edu/~chalmers/intro.htmlもし興味ありましたら、他の方にコメントを求めてみてください。
村上さんの目的からすると、Maryの話を作ったJacksonがどう考えているのかのほうが重要かもしれません。おそらく、epiphenomenalismという形の二元論者です。(意識は脳の物理的状態によって因果的に生成するが、意識は脳の物理的状態に因果的に関わらない、随伴現象であるとするもの)


[qualia:2055]村上
> が可能かどうかという意味では、summaryからはしょった本文で、
> Knut Nordbyという全色盲の視覚科学者の例を挙げています。

原文を読み返してみたところ,確かに書いてありました。'achromotope'の意味が分からなかったので読み飛ばしてたようです。そういう人が現実にいるんですねぇ。凄い!

> 「色のクオリア」と「色の特性の物理的条件」の代わりに
> 「色のクオリアを知っていること」と「色の特性の物理的条件を知っていること」
> を使っている意味があるのではないかと。

なるほど,なんとなく分かってきました。根気良く御説明頂き,恐れ入ります(笑)そのへんを考慮して再度考え直してみます。

いろいろと文献の御紹介ありがとうございます。それらに目を通す前に安易な 意見を述べるのは早計かもしれないですが,意識が物理状態に因果を及ぼさな いという考えは唯物論以上に「自由意志」の論難を抱えそうですし,少なくと も物理状態から意識に対しては「因果」関係があるのならば,その関係を生じ させる(相互ではない)作用がある筈で,果たして物理系から作用を受ける系 を「非物理系」と見倣す根拠があるのかどうか疑問です。因果関係というのは 本質的に物理関係と同義だと思うのですが,それが相互ではなく一方通行だか らといって話が変わるとも思えません。


[qualia:2061]村上
> なるほど,なんとなく分かってきました。根気良く御説明頂き,恐れ入ります(笑)
> そのへんを考慮して再度考え直してみます。

…と言いましたが,いまいち「なんとなく」しか分かりません。とりあえず,原文の以下の記述に注目してみました。

> If what it is like for someone to experience red is one and the same as
> some physical quality, then Mary already knows that while in her room.

とりあえず,これが物理主義者を批判する哲学者(so-called `qualiafreaks')が前提している内容を表していることは間違いなさそうです。

問題は,ここで'physical quality'と呼ばれているものが,直接体験することなく獲得できると見倣されているところにありそうです。

先ず,qualia freaks(クオリア狂?(笑))が持ち出している論理は以下のように要約できると思います。

・Maryは白黒の部屋から解放された時に何か「新しい事」を知った
・物理主義に従えば,その「新しい事」も物理的特質である
・しかし,Maryは白黒の部屋において全ての物理的特質を既に知っていた
・従って矛盾が生じる

何ゆえ,白黒の部屋において全ての物理的特質を知ることができると前提され るのでしょう? ここで実に物理主義的考察を行なうなら,何かを「知ること」 もまた物理的特質ですから,白黒の部屋という物理的に制限された環境では 「知ること」も制限される筈です。従って,その「白黒の部屋」という物理的 制限が解かれた時に「知ること」の物理的制限も解かれることは至極当然であ り,何も矛盾はない。

つまり,qualia freaksは「知ること」もまた物理的特質であるという点を見 落としていると言えないでしょうか? 言い換えれば,背理法を適用するため に物理主義を仮定しておきつつ,その仮定に反して非物理的な「知ること」を 密かに持ち込んでいる(え,しつこい?(^_^;))

しかし直感的には,白黒の部屋においても確かに「赤」の物理的特質は全て知 ることができるような気もします。この直感的疑問に対する僕の考えを述べて おきますと,Maryが白黒の部屋において知ることができたのは,あらゆる「赤」 の物理的特質のうちの客観的側面に過ぎず,白黒の部屋から解放された時に新 しく知ったのは,「赤」の物理的特質のうちMary自身の脳味噌にintrinsicな 側面であるということです。つまり,「赤」の客観的側面として知られている 特定波長の光が,Maryの脳味噌と相互作用することによって初めて現れる物理 的特質,その物理的特質から更に派生して脳内に生起される物理的特質として の『「赤」を知ること』,これらの物理的特質は実にMaryの脳味噌に intrinsicであり,「赤」とMaryの脳味噌が出会うことがない白黒の部屋にお いては決して得られない(=知ることができない)でしょう。…などと廻りく どく書きましたが,物理主義にとっては極めて「当り前」で陳腐な見解ですか ね(^_^;)。


[qualia:2089]吉田
この辺について私は新しく言えることはもうないので神経科学者的発想でMaryの話にひとつコメントします。

生まれたときから縦線だけを見させつづけたネコでは、大脳皮質に横線に反応する神経細胞がなくなる、という有名な話がありまして、Maryも生まれたときから白黒の世界で育っているので、きっと色に反応する神経細胞が無くて、部屋の外に出ても色を感じることは出来ない。よって、Maryの話は本当にはありえない。以上。

なんつってもちろんこれで話にけりがつくわけではなくて、要は、この話はネーゲルの「コウモリであるとはどういうことか」の改良版のようなところがあるのだと思います。つまり、コウモリが音波をどのように感じて飛行しているかについて物理的知識をどんなによくわかったところで、コウモリのクオリアを人間が理解することは出来ない。この話で、コウモリにクオリアがあるかどうか疑わしいところを改良したもの、と考えられるのではないかと。
Maryの話も、意識が非物理的なものであるという話よりは、意識を本当に物理主義的に説明しきれるのか、という問題をあらわしていると考えたほうがよいような気がしました。


[qualia:2091]村上
> Maryも生まれたときから白黒の世界で育っているので、
> きっと色に反応する神経細胞が無くて、
> 部屋の外に出ても色を感じることは出来ない。

これは現実的な説ですね(^_^;)。さらに現実的な線としては,Maryが鼻血を出して実験が台無しになる可能性も。"So, that is what it is like to experience red"とか言ってる場合ではない。

> Maryの話も、意識が非物理的なものであるという話よりは、
> 意識を本当に物理主義的に説明しきれるのか、という問題をあらわしていると
> 考えたほうがよいような気がしました。

問題を楽観視しすぎている物理主義者の慢心が批判されているのかもしれませんね。

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