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■ 盲視と表象と動物の心
こんど栢森情報科学振興財団が毎年開催している「Kフォーラム」というクローズドの会でトークさせてもらえることになった。有名な科学哲学者の方も参加するとのことなので、以前読んでたルース・ミリカンのオシツオサレツ表象とかあのへんを盲視の議論から展開させて話してみようと思う。
このへんに関しては以前ブログ記事「鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んだ!」および「鈴木貴之さんの本を読んでいろいろ考えた(続き)」に色々書いた。あと記事にしてないけどツイッタにも書きためている。これらをまとめたうえで、「盲視での「なにかあるかんじ」という経験とは、カエルの表象(生産者)をヒトの消費者が利用している状況ではないか」という空想を語ってみようというわけだ。
そういうわけで「哲学入門」(戸田山和久 著)を再読してる。
5章の「目的」のところの話を読んでいると、ヒト以外の動物では(1)自分の行動から生じうる未来の出来事を予測して行動する 、これはできるが、(2)ある行動による帰結を予測して行動を制御する、これはできない、とある。要するにシミュレーションができるかどうかの違いのようだ。
p.259では(1)単に未来の情報を表象すること (2)未来の状態を「目標として」表象すること の違いと表現している。これって、例の松沢さんの話で出てくる「チンパンジーは自分の未来に絶望しない」ってあれのことだなあと思う。
p.260では二匹のハムスターの例で説明しているけど、「餌を見ると、これを運べばねぐらの餌が増えるというアフォーダンスを知覚して、餌を運ぶ」これはできても「ねぐらの餌がたまった状態を目標として、その目標のために餌を運ぶ」これはできないと言う。
これは神経科学とつなげて考えられそうだ。Non-human primatesを対象とした神経生理学ではこれまでの30年くらいにわたって「目的(ゴールの場所とか)を表象するニューロン活動」について研究してきた。説明しだすと長いので次のパラグラフでざっくりとした例を書く。(わかっているヒトはスキップで対処して。)
(補足説明: たとえば、ある行動課題では、手掛かり指摘として赤丸が出たら右ターゲットをタッチすると報酬がもらえる。緑丸が出たら左ターゲットをタッチすると報酬がもらえる。するとこの課題をやっているときの脳活動の記録から「右のターゲット(ゴール)を表象するニューロン」というのが見つかる。これは赤丸が出てから右ターゲットを選ぶ行動を始めるまでの間だけに活動する。緑丸が出てから左ターゲットを選ぶ行動を始めるまでの間には活動しない、つまり選択性があるから、右ターゲットの情報を持っているのであって、手を伸ばすという運動一般の情報を表象しているわけではない。ではこれは赤丸を覚えているニューロンではないだろうか?これはお手つきをした試行を調べてみれば分かる。このニューロンは緑丸が出たのに間違って右ターゲットを選ぶ行動を始めるまでの間にも活動した。一方で、赤丸が出たのに間違って左ターゲットを選ぶ行動を始めるまでの間には活動しなかった。よってこのニューロンの活動は、赤丸や緑丸を思い出している活動(retrospective coding)ではなくて、将来起こる行動が右ターゲットと左ターゲットのどちらか(prospective coding)を示している。)
しかしけっきょくのところ、このような神経生理学で示したことは正確には何だろうか? ここで起こっていることは、未来を「イメージ」している、というのとは違うんではないだろうか?
おそらく動物ではただただ「今を生きる」をやっている。それは田口茂さんの「現象学という思考」での「行為的連関のモード」というものだ。上記の神経生理学の実験の例で挙げたような、未来に向けて行動している場合でも、いつもイマココにゴールを保持しているのであって、あとで使うかどうかもわからないイベントをエピソード記憶として持っているわけではない。
(もっとちゃんと考えようとするならば、強化学習の枠組みでの誤差をどうやって作っているのか、その教師信号はどのような形で更新されているのか、というようなことを考える必要あり。)
「行為的連関のモード」というキーワードが出てきたので、ここで以前のブログ記事で書いた神経活動と表象の関連の問題についてパラフレーズをしてみよう。側頭葉のニューロン活動を記録すると「おばあさん」を見たときだけに活動する「おばあさん細胞」が見つかった。しかしこのことから、おばあさん細胞が活動したらおばあさんが表象されたと結論づけるわけにはいかない。それはなぜかというと、それだけではおばあさん細胞の活動は、視覚入力-神経活動-行動という行為的連関の一部分でしか無いから。
そこに反実仮想はない。それが表象であるためには、他の可能性を排除した「ほかでもない」おばあさんという情報である必要があるし、ミリカンが「バイオセマンティクス」の中で書いたように、否定文を作れるような命題的内容を持つ必要がある。
神経活動は否定文を作れない、というのも変な表現だが、この論点は、下條信輔さんが「意識とは何だろうか」でヒトは間違えてもニューロンは間違えない、という話をしたことと大いに関連しているといえるだろう。この話も詳しく説明しだすと長いので次のパラグラフでざっくりと説明する。(わかっているヒトはスキップで対処して。)
(補足説明: Newsomeの知覚的意思決定の研究を引いて、MTニューロンは誤るということがないと議論。あとで加筆予定。)
これは人間の判断というパーソナルなレベルでは「間違う」ということがあっても、ニューロンというサブパーソナルなレベルでは「間違い」「正解」は消えてしまうということだ。
こんど下條さんに会う機会までに該当部分を読み直して、この話について聞いてみることにしよう。
おばあさん細胞の活動は、視覚入力-神経活動-行動という行為的連関の一部分でしか無い。神経活動と表象の問題を考えるにあたって、ベイズ脳的な考えは重要な意味を持っていると思う。ベイズ脳ではここのニューロンが「信念」「モデル」を保持していて、それが時々刻々と入力する感覚情報によって更新されてゆく。ここには「視覚入力-神経活動-行動という行為的連関」以上のものがある。ただし「信念」「モデル」という言い方でホムンクルスっぽいものが入っていて、それを使ってしまえば、表象の自然化をするために表象もどきを埋め込むというズルをしているとも言える。
ちなみにKフォーラムの方は、クローズドではあるものの、発表と議論の結果は「K通信」としてまとめられるようなので、ここで面白いことが書けるのを目標にしてみたい。(<-未来を想像する人間らしい行為)
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- / 投稿日: 2017年06月28日
- / カテゴリー: [視覚的意識 (visual awareness)]
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