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■ 意識の神経科学と神経現象学と当事者研究
科学基礎論学会 秋の研究例会@駒場(11/2)でトークをします。「神経現象学と当事者研究」というのワークショップの中で「意識の神経科学と神経現象学」というタイトルで話題提供を行います。
科学基礎論学会に向けて準備を始めたところ。当事者研究関係の本など借りれるだけ借りてきた。
「フッサール 起源への哲学」斎藤 慶典 (著) を読んでいたら、離人症の例をとって「ありありと現前するかんじ」についての議論が出てきた。これってまさに盲視での「なにかあるかんじ」の現前性(presence)だな! 木村敏氏の本でも採りあげられているらしい。
そして離人症においては「ありありとするかんじ」が失われても現象性は失われていない。この本のp.192-195あたりでは、統一された自己が必ずしも現象性に必要ないという議論がなされている。この「統一された自己」というのは後反省的な自己意識を経たものであって、一人称性の基礎となるpre-reflective self awareness (PRSF)は残ると言えそうだ。(見ている自分自体が消えているわけではない。) この辺りと絡めて、盲視で起こっていることを現象学的に捉えたうえで神経現象学をする可能性みたいなところに持っていけそう。
書きながら考える。神経現象学的に捉えようとするとどうなるかというと、「なにかあるかんじ」が残存するとして、それにはPRSFはあると言えるだろう。でもそれは視覚的意識経験(志向性と内容を持ったもの)とも違っていれば、想像や幻覚や思考などとも違っている。
「なにかあるかんじ」はなにかをポイントしているという意味で志向性としての性格を持っているけど、それがポイントしているのはある場所のみであって、しかもそれは視野の外なのだから網膜上に映っている空間ではなくて、そこを外挿した場所もしくは別の座標となる。(これじたいはempiricalな問いであって、頭や体中心の座標などどれを使っているかを検証することは可能。)
離人症では「現前性」が失われつつも現象的な経験自体は残存しているということなのかもしれない。
平行して綾屋 紗月氏、熊谷 晋一郎氏の本も読んでいる(「発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい」および「つながりの作法―同じでもなく 違うでもなく」)。この本ではアスペルガー症候群と診断された綾屋氏が自分の経験を詳細に分析していて、「感覚飽和」という経験が記述されている。これは外界からの情報を大量に受け取ってしまい、不要な刺激を潜在化させることが出来なくて苦しくなってしまうということのようだ。ここで「聞こえているし見えてもいるけれども、意味を失う」という表現がある (綾屋・熊谷 2010 p.21)。
これもどうやら、現象的意識と現前性とが乖離した現象と言えるのではないだろうか。
ちょっと余談だけど、Ned Blockの意識の議論で、現象的意識はあるけどアクセス意識がない例としてワーキングメモリーがオーバーフローした状態を挙げている("Perceptual consciousness overflows cognitive access" (PDF))。このオーバーフローの概念自体は本当にP意識 without A意識と言えるかどうかまだ分からないのだけれども、綾屋氏が描写している「感覚飽和」っていうのはまさにこのオーバーフローそのものだなと思った。
あともうひとつ余談だけど、「不要な刺激を潜在化させることが出来ない」という現象は、「くらやみのはやさはどれくらい」やテンプル・グランディンの話でも「外界の刺激が強烈すぎる」「一つ一つの刺激に気が削がれてしまう」というような記述があって共通性が高い現象のように思われる。この現象じたいはサリエンシー計算論モデルに基づいた議論が出来そうだ。われわれが普段注意を同時に複数のものに持っていかれないということは計算論モデルでは、目立つ刺激の候補の中からwinner-take-allルール(いちばん目立つものだけに注意が向かってその他のものへの注意は抑制される)というメカニズムでもって説明される。ではこのwinner-take-allは脳内でどのように行われているのだろうか? どのくらい個人差があるのだろうか?
話が飛んだけど、神経現象学的にするためには、盲視が現象的視覚経験から何かを引き算した結果ではなくて、経験の一種としてある意味安定した構造をとるようになったものとして捉えることができて、そのような経験のダイナミクスと脳と身体のダイナミクスこそが完全に一致する(相関ではなくて)とかそういうふうになるんではないだろうかと思う。
現象学が正しく機能するなら、経験の分類(=内観で可能)に終わるものではなくて、それは経験の構造とダイナミクスとを捉えるものであるはずで、それを取り扱う脳科学は力学系に基づいたものでなければcontrastive methodに終始してしまう。
これがVarela 1996 ("neurophenomenolgy")からVarela 1999 ("specious present")の間で「力学系的な取り扱い」が神経現象学を構成するための条件として前面に出てきた理由だ。ただし、セルアセンブリが短時間で切り替わりながら変遷してゆく力学系的な過程こそが意識における時間を規定しているのだといった考え方自体は1995Biol. Resですでに展開されているし、Varela 1996で「現象学と神経生物学とが相互に制約条件を与える」というときの神経生物学の中にemergenceのプロセスが含まれている。
ギャラガーの「前倒しの現象学」についてもまったくあてはなる。これは脳科学の方の問題だけではなくて、「なんで現象学が必要なのであって、内観だけではダメなのか」ということに対する答えでもある。毎度書く例だが、再認記憶課題を「見覚えがある」「経験として思い出せる」で分類するのは内観であって、現象学ではない。もしかしたら最初にこの二つを概念として分けるという行為は現象学的だと言えるかもしれないが、それなら現象学と言う言葉をわざわざ引っ張りだす必要はないと思う。ヘテロ現象学がその領域は完全にカバーしていると思う。
とはいえ、やっぱりわたしは現象学をわかっていない。入門書とか読んでいても具体的な現象学的分析にはたどり着けないので、さっさと具体的なものを見に行くべきなのだろう。心理学/精神医学の分野での現象学的/実存的なとり扱いってのはあるけど、あれって現象学って名をつけるほどのものかな?
大学生の頃、RDレインの「ひき裂かれた自己」にすごくはまって、統合失調症の人たちがそれぞれに主観的にconsistency (厳密にロジカルにというよりはある安定性という意味で) を持っているのだというのを読んですごく合点がいったし、反精神医学的な「運動」観よりは好感を持った。だから今回「べてるの家」の実践についていろいろ読んでいて、すごく合点がいった。
さいきんすごく調べているKapurのabberant salience仮説は「動機サリエンスが亢進したことに対する認知的対処が妄想である」というものなのだけど、これの当事者にとっては合理的な認知的な対処なのであるという視点が盛り込んであって、だからKapurは薬を飲むだけではサリエンスを下げるだけど、認知行動療法を組み合わせることで癖となった思考法/妄想をだんだん弱めてゆく、という仮説になっている。すべては検証が必要なのだけれども、なにもないところから妄想が生まれるみたいな捉え方であるかぎりいつまでたっても病因論的なアプローチ無しで現象論的に対症療法的にやるしかないのではないだろうかとか思う。
ってまだ雑然としているけど、書いてて自分の頭の中は整理されてきた。いろいろ繋がってきた! (<-こういうのをjumping-to-concluion biasと言うそうな。)
ばらばらなままに書き連ねると、医師が定期的に診察して話を聞く場合には個々のイベントの有無の注意が向くだろうと思うけれども(なんらかの「問題行動」の頻度を聞いて薬の量を調節したりとか)、「当事者」研究ではそのダイナミクス、つまりどういうコンテキストでそのイベントが起こり、そのあと状況がどう変わったかということにより注意が向くだろう。
たとえば「べてるの家の「非」援助論」に掲載されていた河崎寛氏の「「爆発」の研究」(p.137-146)ではこのへんが明確に描写されている。爆発に至るまでの過程(寿司を食べさせろといった無理めな要求)、爆発(親を殴る、物を壊す)、爆発後(子供っぽい行動、甘えと依存心)というのがべつべつのイベントではなくて、ひとつながりのダイナミクスなのだということがよく分かる。
「現前性」と「離人症で失われるもの」と「盲視でのなにかある感じ」と「統合失調症の前駆期に更新するもの」と「(知覚的、動機的)サリエンシー」とが同じとは限らないのだけれども、こういう切り口で並べて考える題材にはできるだろう。
以前にsensorimotor contingencyとの兼ね合いで、盲視での残存視覚能力が外界の物体を操作可能であるという事実によって「なにかあるかんじ」という感覚を生む、という仮説を考えたことがある。これもピースの一つ。ただ、操作可能性自体が現前性の感覚を生むのではなくて、あくまでキャリブレーションしているだけなのかもしれない。各ステップに穴がある。盲視でサリエンシーと「なにかあるかんじ」が残っているのは本当だけど、両者が同一と言うためにはさらなる証拠が必要だ。
とかなんとか、いまだに考えはまとまっていないのだけれども、ともあれ6月のトーク(ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会)そのまんまというかんじにはならなさそう。乞うご期待!
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■ 科学基礎論学会「神経現象学と当事者研究」の要旨掲載しました
科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ@駒場(11/2)でトークをします。Webサイトからプログラムがダウンロードできるようになりました。
東京大学大学院総合文化研究科の石原孝二先生がオーガナイザーで「神経現象学と当事者研究」というタイトルのワークショップが提案されまして、それの中で「意識の神経科学と神経現象学」というタイトルで話題提供を行います。
要旨が学会webサイトに掲載されました。許可を得ましたので以下に転載します。参考文献リストを追加してあります。
意識の神経科学と神経現象学
吉田 正俊 (Masatoshi Yoshida) 自然科学研究機構・生理学研究所
著者は神経科学の立場から「盲視」という現象を通して、意識の科学的解明を目指した研究を進めてきた。「盲視」という現象は脳梗塞などで第一次視覚野を損傷した患者で見られる。第一次視覚野を損傷すると視野の一部が欠損する、つまり視覚的意識が失われる(「同名半盲」と呼ばれる)。一部の患者ではそれにもかかわらず、強制選択条件で欠損視野に提示された視覚刺激の位置などを答えるテストを行うと、あてずっぽうで答えているのに正解してしまう。これを盲視と呼ぶ。つまり盲視の症例は「視覚的な意識経験」と「自発的な視覚情報処理」とが乖離しうることを表している。
では盲視を持つ人は欠損視野に提示された視覚刺激に対する意識経験を持っていないのかというとそうではないらしい。視覚刺激が何なのかは分からないけれども、「なにかがあるかんじ」はするというのだ。つまり、意識経験の「内容content」はないけれども「現前性presence」だけを持っているようなのだ。著者は以前の研究で、盲視の実験モデル動物は「視覚サリエンス」(視覚刺激の空間配置のみによって決まる、視覚刺激が注意を誘引する度合い) の情報を利用することが出来るということを明らかにした(Yoshida et al 2012)。視覚サリエンスは視覚刺激の位置の情報だけを持ち、 視覚刺激の内容の情報を持たない。そこで著者は以下の仮説を提唱した:われわれの視覚経験はふたつのレイヤーの重ね合わせである。一つは日常生活で私たちが体験する「視覚的意識経験」そしてもうひとつは「視覚サリエンス」であり、前者が視覚経験の内容を、後者が視覚経験の現前性を構成している。盲視という現象はこの二つのレイヤーが乖離した自体であると。
さてそれでは、盲視で起こっていることを神経科学的に解明するにはどうすればよいだろうか? 意識の神経科学において現在主流となっているアプローチはcontrastive methodと言われるものだ。これは意識経験がある条件Aとない条件Bとを比較して、脳活動に違いが見られればそれは意識経験に対応した神経活動(「意識の神経相関」)だと結論づけるものだ。これはデネットが「ヘテロ現象学」と呼ぶ、いわば意識の三人称的アプローチである(Dennett 1991)。ヘテロ現象学においては、意識経験があるかないかを被験者が言語報告やボタン押しによって報告する。研究者はこの報告が意識経験についての信念を表しているものとして解釈する (志向姿勢) 。これによって研究者は被験者に意識経験が実在するかどうかを問わずに意識経験を研究することが可能になる。この帰結として、ヘテロ現象学での意識の科学は哲学的ゾンビにとっての意識の科学となってしまう。それでよいのだろうか?
意識の科学的解明のためにはなんらかの一人称的なアプローチが必要なのではないだろうか? ヴァレラが提唱する「神経現象学」 (Varela 1996; Varela 1999)では、意識経験を一人称的かつ誰でも同意できる形で説明するためには以下の三つの手法の統合が必要であると提唱する。1) 意識経験のフッサール現象学的な分析、 2) 生物学的システムに関する経験的な実験、 3) 力学系理論による両者の統合。ルッツら(Lutz et al 2002)はヴァレラの神経現象学を実践するために以下の手段を執った。1) 認知課題を行っている被験者は現象学的還元によって、事項が経験される仕方に注目するように自分を訓練する。これによって被験者は課題遂行中の自分の準備状態について発見的に報告できるようになった。2) このときの脳活動を多点電極から脳波計測としてデータを取得した。 3) 力学系的な方法での解析として、脳波の位相が複数の電極の間で同期する現象を解析した。これによって現象学的に明らかにされた準備状態の違いに対応して同期の度合いが違うことを明らかにした。この方法は意識状態について「発見的にカテゴリー分けをする」点以外はヘテロ現象学と違いはない。よって結局のところcontrastive methodであって、力学系的な「内的に区別可能なカテゴリーの創発」とはなっていない。つまりこの仕事はヴァレラが提唱した神経現象学を実践できていない。ではどうすればよいか。もし現象学が意識経験Aと意識経験Bのあいだの「違い」ではなくて「構造的な関係」を明らかにして、神経科学が力学系的な解析の力を借りて二つの意識経験の間を行き来するプロセスを記述すればよいのではないだろうか。
盲視の例に戻って考えてみることにしよう。ザハヴィは現象的意識の構成的特徴として「前反省的自己意識」が不可欠であると書く(Zahavi and Parnas 1998)。前反省的自己意識とは、経験的現象が現象学的な意味での反省を経る前から直接的一人称的に与えられているということを指す。この意味においては、盲視の研究から示唆された視覚の二つのレイヤーはどちらとも前反省的自己意識を持っている。「視覚の現前性」とは無意識の過程ではなくて、「意識の内容」を図とするならば、それに対する地の関係として意識経験を構成するものなのかもしれない。ならばそれぞれに関連する脳活動がどのようなダイナミクスを持って関係しているかを明らかにすることで盲視の神経現象学を実践できるはずだ。
盲視の例で示したように、神経心理における患者の主観的経験から現象学的分析を深めてゆくという神経現象学は当事者研究ととても近い位置にある。当事者研究では、日常実践の中で問題を抱えた個人が、そんな自分の苦労を客観視しながら仲間に語り、仲間と共にその苦労が発生する規則性についての仮説を考え、対処法を実験的に探りながら検証してゆく(綾屋・熊谷2010)。これは生から乖離しないという原則のもとにあるという意味で現象学的であると言える。当事者研究での解析は、被験者と統制群との間での違いを探るcontrastiveな方法ではなくて、個人の状態変化への介入の効果を検証する単一事例研究法を元にしている。この方法を深化させることで力学系的なとらえ方ができるかもしれない。つまり、繰り返される現象を相空間で表現した上で、そのつど介入や環境や過去の影響によってその軌道が変化しているのを観察しながらその制御法を見つけ出すということはじつに力学系的なことなのだ。このような手法は幼児の発達や運動制御などの場面ではダイナミカルシステム理論という名で実際に活用されている。つまり、当事者研究を拡張することによって神経現象学的になり得るし、神経現象学を正しく実践すると当事者研究を拡張したものとなるのかもしれない。
参考文献
- Yoshida M, Itti L, Berg DJ, Ikeda T, Kato R, Takaura K, White BJ, Munoz DP, Isa T. (2012) Residual attention guidance in blindsight monkeys watching complex natural scenes. Curr Biol. 22(15):1429–1434 (PDF)
- Dennett, Daniel C., 1991, Consciousness Explained, Little Brown and Co.(『解明される意識』 山口泰司訳、青土社、1998 年)
- Varela, F. (1996) Neurophenomenology: A methodological remedy for the hard problem. Journal of Consciousness Studies 3: 330-349. (PDF)
- Varela, F. (1999) The specious present: A neurophenomenology of time consciousness. In Jean Petitot, Franscisco J. Varela, Barnard Pacoud & Jean-Michel Roy (eds.), Naturalizing Phenomenology. Stanford University Press
- Lutz A, Lachaux JP, Martinerie J, Varela FJ. (2002) Guiding the study of brain dynamics by using first-person data: synchrony patterns correlate with ongoing conscious states during a simple visual task. Proc Natl Acad Sci U S A. 99(3):1586-1591. (PDF)
- Zahavi, D., Parnas, J. (1998), Phenomenal consciousness and self-awareness. A phenomenological critique of representational theory, Journal of Consciousness Studies 5 (5-6), pp. 687-705 (PDF)
- 綾屋 紗月, 熊谷 晋一郎 (2010) つながりの作法―同じでもなく 違うでもなく, 日本放送出版協会
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2013年10月14日
■ メタ認知を動物で証明するってどういうことだ?
10/18(金)-19(土)の生理研国際研究集会「メタ認知」いよいよ今週末となりました。参加申し込みはギリギリまで受け付けます。ぜひ来てください!プログラムが最終版になっています。紙が必要な人はダウンロードして印刷して持参してください。
ということで今回は最終回、後藤さんのトークの予習中。
.@pooneil よろしくお願い致します。私のものではありませんが、あえて1つ選ぶとするとこの論文です。http://t.co/eajnCvbkqg
— Kazuhiro Goto (@drkgoto) October 13, 2013
後藤さんに紹介してもらったHampton 2009 Multiple demonstrations of metacognition in nonhumans: Converging evidence or multiple mechanisms? を読んでるけど難しい。「Primary taskのperformanceとsecondary behavior (monitoringやadjustment)とが相関するのを見つけた」ってのがいわゆるメタ認知課題。でもそれだけではダメだよ、って話。
そこで出てくる論点がpublicかprivateかということ。つまりヒトにおけるメタ認知の定義が「自分自身の認知的な処理についてモニターして適応的に処理すること」というものであるとするならば、ロイドモーガン的にはprivateにアクセスできるものでないのならばメタ認知と呼ぶ必要はない(内的にアクセスするのではなくてpublicな情報にアクセスしているのだから)、という話。ここがわかったような、わからないような。
でもrejectするべき他の説明として、"behavioral cue association"というのが出てきて、これはよくわかる。つまり、primaryのほうの反応が遅れる(RTが長くなる)と、RTが長くなったという自分の反応を手がかりに出来てしまう。だから実験デザインとしてそれが出来ないようにしないといけない。RTが長くなったことを使えばそのsubject以外でも出来てしまうからprivateでもない。
primaryとsecondaryを同時に答えさせるのも応答のcompetitionが起こってしまう。だからsecondaryを先に答えさせてからprimaryを答えさせるんだよ、ってのがHamptonのPNAS 2001 "Rhesus monkeys know when they remember"での理屈だったんだろう。
"Environmental cue association"はわかるようでわからん。ある刺激条件(コヒーレンスでも輝度でも)で同じ条件だったら同じようにsecondaryが出来てしまう(generalizeできる)のではいかんって話だけど、それって同じ輝度のデータの中でもprimaryとsecondaryの間に相関がないとって話とおなじか? それなら以前のMarc Sommerの論文についてコメントしたときに書いたから分かる。それならpublicな情報だし。
わたしがメタ認知に興味を抱くのはそれが意識に関係しているかもしれないから。というのもヒトにおけるメタ認知には上記の通り定義としてintrospectionを行うことをを含んでいるから。もしメタ認知の動物モデルがintrospectionをしていないのならそれは意識の研究ではないということになるだろう。
そしてそれじたいは、研究者によってはどうでもよいことなのだろうと思う。introspectionしてようがしていまいが、課題で与えられたuncertaintyを評価して行動を調節する過程さえ解明できればよいのだろうから。そもそも俺らに意識なんて必要か? 意識の存在なんて前提とするなよ、って話となる。ヘテロ現象学。
ということでふたたびラットの因果推論の時に出てきた「因果推論に思考は必要なの?」って話と同じところまでやってきた。そういうことに興味があるから、動物心理の人の話を聞きたいと思っていたのだ。この興味をはたしてどのくらい共有してもらえるかは分からないのだけれども、はじめに後藤さんがそういった話を持ってきてくれることで議論を(mechanisticなものよりかは)もっとcognitive寄りに出来るんではないかなあとか思ってる。
ということでhampton 2009を読んでいるところですが、参加者の皆さんが後藤さんの話を聞くときに予習として読むべきファーストチョイスは日本語講演録の「比較認知科学は擬人主義とどうつきあうべきか」 ではないかと思います。ぜひ行きの新幹線で読んできてください。カムカムエブリバディー。
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2013年10月07日
■ 科学基礎論学会「神経現象学と当事者研究」でトークします
科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ@駒場(11/2)で話をすることになったので内容を考えてる。以前の一橋での「現象学的な心」合評会で話した「デネットのヘテロ現象学」と「ヴァレラの神経現象学」と「盲視」の三題噺を基本にして、「神経現象学と当事者研究」というテーマに沿って広げてみる予定。
前回できなかったのは「盲視の現象学的分析」を実践してみること。これまで出てる文献や私が調べた人から聞いた話とかそのへんの一人称的報告のデータを集めた上で、そのような報告から自然主義的な解釈を取り除いた上で、どのような経験なのかということについてなんらかこれまでと違った視点を提供できればとりあえずは良しとする。
「当事者研究の研究」 綾屋紗月 (著), 河野哲也 (著), 向谷地生良 (著), Necco当事者研究会 (著), 石原孝二 (著), 池田喬 (著), 熊谷晋一郎 (著), 石原 孝二 (編集) これがネタ本になりそう。読んどく。
それからこちら:リハビリの夜 熊谷 晋一郎 と現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線
つか当事者研究について真摯に捉えるならば、脳損傷患者の一人称報告から他人が「現象学的解釈してやる」なんて超地雷踏んでいるような気もしてきた。なんか外さないように予習しておこうと思う。
まあいい機会かも。要は、私が今後脳損傷患者の意識経験の注目した経験を展開していくのにおいて、どのような態度で臨んでいくつもりですか、ということを明確にする機会に恵まれたということなのだな。
「当事者研究の研究」、1/3くらい読んできた。1章の石原氏の部分で、「べてるの家」での当事者研究が自分事を突き放して見るという「研究」の作法を使うことで日常生活の空間と治療の空間の断絶した部分を飛び越える、というのはなるほどと思った。つまり、世間話でもなければ、どうすれば「爆発」を直せるかみたいでもなく。
主観的経験を丹念に拾ってそれを構造化するというような現象学的な方法だけではなくて、「爆発」の例、「サトラレ」の例など、繰り返し起こってしまった事象を共有した上で、それがなぜ起こるのかの仮説を仲間内で立て(「サトラレ経験」は人との接触がない方がかえって起きやすい)、それを検証する。たとえばサトラレの研究 これとかなるほど単一事例法的だなあとか思った。
3章の池田喬氏のところで、客観性の問題をどう担保するかという問題について、科学的記述が主観的経験から乖離してしまっているという、まさにフッサール(「危機」) / ハイデガーの「生からの乖離」の問題であることを指摘していて、そうすると、意識研究で問題になっていることと同じであることもわかった。私のトーク的にはこのへんが接点に出来そうだ。
まだ分かっていないのは、石原氏が「半精神医学」(「反精神医学」ではなくて)と書いていたけど、実際に医療とべてるの家とがどういう関係にあるのかということ。べてるの家は反精神医学ではないのだから、参加者は薬は飲んでいるし、精神科にも通院しているはずだ。一方で、1章の年表を見ると「1988年 向谷地氏が浦河赤十字病院から出入り禁止」とか書いてある。そのような緊張関係は現在はどのようになっているのか。
もっと自分に近い問題として、ひとりの研究者として、当事者研究を読むとはどういうことか。3章ではそれは体験談集でもなければ、解釈するためのデータでもない、と釘が刺されている。じゃあどうすればよいか。3章では体験に寄り添って読みましょうってあるけどそれは方法論じゃあない。たぶん、寄り添って読んだ上で、なんらかの仮説を提出するのに寄与できたら、とかそんなことは考える。それを権威的でなく実践するにはどうすればよいか。
たまたま昨日「急性精神症状時の「サイケデリック」な経験」という論文を読んでいたけど、あれはまさに医師が体験談を集めたデータであった。しかし、この体験談はかならずしも当事者による構造化/理論化を欠いているわけではない。昨日書き写した部分なんかは、後から振り返っての当事者の考察ではあるものの、「気づきの亢進」が「妄想の形成」に先立っていることを描写していた。
そんなこんなで、今度の科学基礎論において、石原氏と熊谷氏がそういう方から当事者研究について話す場で、じゃあわたしは何を話せばいいかってことになる。ちなみに熊谷氏の5章を部分的に読んだけど、内部モデルと予測誤差の説にかなり依拠した議論をしていて、ここでも接点を見いだせそう。
トークに関して最大の問題は、動物実験について話すかどうかということ。それは私の研究者としての立場を明確に表明することになる。時間的にそこまで盛り込めるかって話もあるが、盲視の研究が「意識の研究」でありかつ「リハビリの研究」であるということ自体は科学の外でしゃべるからこそ強調したいことではある。
当事者研究的にアプローチからすれば、ヒト盲視での経験について体験談などをまとめるだけではやっぱ足んなさそうで、そこから盲視の主観的経験について何らか仮説が出せて、このようなやり方でそれを当事者研究的に研究できるのではないか、と提案するのはどうだろう?
トークのまとめの模範解答としては「神経現象学をちゃんと突き詰めると当事者研究になるよね」みたいなのかなあと思う。つまり「意識の研究をする側の問題意識として、現状ヘテロ現象学だけど、神経現象学を目指している人がいてあまりうまくいってない。今回の機会で当事者研究について知ったけど、もしかしたらこれが神経現象学を進めていくための方法論の一つとなるかもしれないし、翻っては、脳科学的な知見を当事者研究に役に立てるための道筋を作ることに寄与できるかもしれない」なんて感じでまとめることが出来るんじゃないだろうか。 なんかリップサービス臭いだろうか?
ここまで書いておいて「現象学的な心」合評会のスライドを見返してみる。あのときは35分くらいしゃべってトータル58枚。ぜんぜん時間が足りねえ。11/2のトークは25分程度となる予定。これにさらに盲視の主観経験を入れるならそれだけで時間が足りなくなる。うーむ、時間的には厳しいが、いったんスライドの構成をだいたい作り上げてから要旨書かないと無理だこりゃ。明日やることにした。
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