[月別過去ログ] 2013年11月
« 2013年10月 | 最新のページに戻る | 2013年12月 »2013年11月28日
■ さうして、このごろ 20130531
「ハンターー!」 レコード屋さんがテレビCM出してたってあらためてすごいことだったような気がする。
自転車での帰り道、「キャンプだホイ」を白ふんどし姿の屈強な男たちが歌うという設定でねばっこく歌いながら坂を下った。
「矩形波!矩形波!矩形波!」(<-鳥の物真似をしながら)
「才気走る」ってフレーズいいなあ。なにがいいって、音的に"psyche"が読み込まれているあたり。「再帰」が入っているところもいい。
今日のグループミーティングではしゃっくりネタを披露してみたが、トンチャイにイグノーベル賞目指してがんばれ、と励まされた。
ライジング・サンとセッティング・サン、どっちが好き? おれはどうでもいいや。
血中温度、血中速度、血中騒動、血中疑獄。
水中結露、水中高度、水中騒音、水中硬度。
間違った占い、迷信に基づいた治療法、「祟り」という因果律。
証拠のない裁判、観客のいない決勝戦、反証された思考実験。
「レッチリ「アンダー・ザ・ブリッジ」はどこの橋か?」 以前LAに滞在してた頃にそういうこと書いた:
~~~
今は恨詰めてるところなので遠出したりとかしないのだけど、自転車であちこち行ってる。で、気付いたのが、川がないのな。いや、井上陽水じゃないんだけど。Culver cityの方に行ったときにBallona Creekというのがあった。川じゃなくて運河なのだろうけど。
護岸工事がされていて、完全にコンクリートで固められていて、厳重に立ち入り禁止になっている。たぶん、ジュリアーニ流の市内浄化政策みたいなもんなんだろう。
そうしてみたら思い出したのが、レッチリのアンダーザブリッジな。あれはLAについての歌("the city of angel")なんだけど、"under the bridge downtown is where I drew some bood"って歌詞がある。
でも、僕ら日本人がイメージするような「橋の下」つまりドブ川にかかる橋の堤防の内側みたいなところはここにはないんだな。
ってここまで書いたところでLos Angeles Riverがあることを思い出した。……えー……すべての論理が破綻しましたので、以上の発表についてはwithdrawさせていただきたいと思います……
~~~
ただ、今にして思えば、「橋の下」とはけっして川ということではないな。ハイウェイの下とか、道路の立体橋の下とか、ホームレスがたむろしてそうな場所、それこそが「橋の下」だったんじゃないだろうかって思う。
(茨木への出張にて)
朝早めに起きて太陽の塔を見に行けばよかったんじゃ?ということに気づいたが後の祭りなのである。(<-である、じゃねえ)
このささやかな人生において、太陽の塔を見に行くチャンスはこれが最後だったのかもしれないのだが後の祭りなのである。(<-である、じゃねえ)
じゃあ、そんなに太陽の塔を見に行きたかったのか?と問われると、べつにそんなことないということも事実なのである(<-である、じゃねえ)
けっきょく太陽の塔行ってきた!(<-そんなに行きたかったんだ…)
まさか入場料取るとは思わなかったぜ…
2013年11月24日
■ Exploratory and confirmatory data analysisの問題
2012/9/25-26
Exploratory and confirmatory data analysisの問題について。p-valueを使うような統計というのは本当はconfirmatory statisticsだから、予備実験でeffect sizeを推定した上で、実験計画をして、effect sizeから検出力を決めた上でnを決めてやる。だけど実験科学者がやっているのはexploratoryの段階で止まっている。だから、べつの研究者による追試が実質上のconfirmatory data analysisの役割を果たしている。だから、以前話題になった“Too good to be true”みたいなことが起こる。
心理物理なり動物心理なりではべつの研究者によって追試が行われるけれども、認知的な課題を使った神経生理学だと追試は事実上無理だったりするので、同じラボから同じ課題で整合性のあるデータが継続して出てくることをもって結果の正当性を保証するというなんとか社会的なやり方になっている。
「データとってから何を検定するか(有意差出るまで)探索する」これはなあ。記録できたデータのパラメータの間でのcovariance matrixみたいなの作ると、どっかで有意なのが出てくるっていう形の誤謬がある。(多重比較の一種だろうけど、こういうのをなんと呼べばよいのだろう。)
行動データ取ると、いろんなパラメーターで評価できる。たとえば眼球運動を記録すれば、応答潜時、end pointのばらつき、trajectory curvature、peak velocity、といろいろ評価できる。だからそのどれかで有意差が付いたとしても記述的な論文でしかなくて、それらを整合的に説明できるような「お話」を必要とする。これは「お話としての説明」と「物理学的な説明」の話に繋がるのだろうと思う。
.@shima__shima ひとつの論文の中であればそれは可能で、充分にeffect sizeが大きいものはbon ferroniくらい厳しくても帰無仮説は棄却されると思います。それよりももっと見えにくいのは、20グループが同じ実験をして、1グループで帰無仮説が棄却されるケース。
因果ベイズネットとか読んでるときに妄想したけど、複数の実験の問題を解決するために、すべての実験の結果を取り込んだ因果モデルみたいなのを作って、実験1ではネットのこの部分を見てて、実験2ではネットのこの部分を見てる。実験結果合わせて、因果モデル全体を評価するとかどうよ、とか思った。
統計の勉強をはじめてかぶれてた頃に、以前属していたslice実験の世界では、n=5で有意差付ける実験をたっくさんやって論理の連鎖をつなげていて、あれはいかんとか言ったものだが、実のところあの世界はeffect sizeがでかいので、統計なんかおまけで、グラフ見れば充分なのだった。
.@syunta525 多重比較って言葉で典型的に指すのは因子が三つ以上あって、薬A,B,Cのあいだの違いみたいなものでしょう。「時系列のデータの各時間ポイントで多重比較する時」こういうのはrepeated measureなのでMANOVAとかで扱うのが正しいのではないでしょうか
時間的相関があるものは自由度の補正が必要なので、それよりかはモデルベースで、なんらかの時間変化のモデルを作ってやって(logistic functionとか、exp(-at)みたいのかと)、その推定パラメータを処置群とコントロール群で比較すべき、というのを読んだことがあります。
それがいちばん正しいと思う。それに従って、昔LTPの実験をしたときには、時系列データひとまとめにしたarea-under-the-curveを一つの実験から計算して、それを処置群とコントロール群で比較するということをやった。
それはマスターのときの仕事の論文だったけど、周りでは各時点ごとにt検定やっている論文ばかりで、どうしょうもないと思ってた。でもそれはいまにして思えば勘違いで、前述したとおり、effect sizeが大きければ統計なんて飾りに過ぎない。そしてそういうところで勝負すべき。
たとえば、10Hzで発火したニューロンが12Hzになりました、とかそういうところで勝負すべきではなくて、まず、100Hzで発火するニューロンを見つけてきて、そいつが50Hzになることを示すべき。
でもそういうはっきりとした話が出来るところはそれなりにもう済んでいる。
以前書いた「神経生理の方と話していて、基本はt検ですよ、と主張するのを聞いてて、気持ちは分かる、たしかにそういう美しい実験デザインを汲んでみたいものだと思うけど」 この話と繋げて再考すれば、強烈な応答さえあればt検で充分なんだ。
今日の話は、以前話題になった「科学と証拠 統計の哲学 入門」 エリオット・ソーバー 著と繋がるだろうか。
「強烈な応答さえあればt検で充分なんだ。」これは根っからの神経生理学者はみんなそう思ってると思う。だから、神経生理学者はあまり統計とかこだわらない。それはむだなところに労力を使わない、正しい行動選択だったんだろう。
.@kohske じっさい、Hubel and Wiesel 1959にt検なんて出てこないですからね。もっと後の時代での、resultがANOVAの値の羅列になるのってのは心理学論文の流儀を移植したものなんでしょう。
神経生理学論文および近接分野ででいつから統計が使われるようになったかを調べて、それぞれの分野の論証の性質と対応づけて議論すれば、SFNのhistory of neuroscienceのコーナーでポスター出すくらいの仕事にはなると思う。一週間で出来る。前例があるかどうかは知らない。
2013年11月16日
■ さうして、このごろ 20130331
「太陽風って、厨二病っぽいよね」僕はキメ顔でそう言った。
3月3日じゃん。ひなまつりじゃん。ボン・ボリーニ!
「花粉症とか甘えだよね〜wwww」ってフレーズを見て、さすがにネタだろと思ったが、ちょっと冷や汗出てしまったことは認めざるを得ない。
アンカーリング? 鎖(くさり)? 錨(いかり)? 坑(あな)を塞(ふさ)ぎ? 腕を預け、地中海風に。刻んだ、3万2千種類の色彩が、強制的に集められ、そしてそのまま流され、それでも
リンゴ・スターほんとは叩いてない伝説ってのが昔あった。ストロベリー・フィールズは複雑すぎて叩けないってのを読んだことがあって、んなもんドコドコいってるフロアタムはオーバーダブしてるにきまってんだろと思ったもんだけど、I feel fineだけはどうしたら叩けるか分からなかった。
そしたら、回転下げてドラムだけ別に録音しているという記載を見つけて、試しにスピード下げて再生してみたらまったくその通りで、自分の愚かさを笑った。元の音聴くとドラムのピッチが高いもんな。この頃にはすでに4トラック使っているのだった。
「ハンマー・ビート」って概念が正直よく分からない。クラウトロックはAmon duul IIとかCanとかは好きだけどNeu!とかクラフトワークとかはあんま聴いてない。後者をハンマー・ビートと呼ぶなら分かるが、Canが該当するというのが分からない。独特なのだが、けっこうハネてるし
日本の郊外新興住宅街について「サヴァービア」という言葉を使うのは違和感がある。「ファスト風土」ならまあわかる。たとえば岡崎市はイオンモールが街の中心になるようなファスト風土化した街だが、サヴァービア的風景は以前の上地だったり北斗台だったりと限定的で規模も小さいように思う。
ダイナソー・ジュニアのJ-マスシスはグランジでルーザーでドラッグやり過ぎで不健康みたいなイメージだが、ふつうに金持ちでゴルフ好きで生活をエンジョイしているのをインタビュー記事で知ってずっこけたが、ニール・ヤングと同じで金持ちであることを隠さないという意味で自然体なんだなと思った。
自分のブログをあらためて見てみると、告知とツイッターの編集というかんじで、なんだかぜんぜん「銀河通信」じゃないな。特別なにか変えるつもりもないけど、もうちょっと遠くまで届くように投げよう。
less social and more reflectiveに。エレベーターホール前の乾きたてのコンクリートを踏んでしまったときの触感とか、今日の大粒の雨の生暖かさとか、今日重ねた敗北の記憶とか、そういうのを綴ることにしよう。
ピッグデータ! (<-Twitterクライアントでは文字が小さくて見逃すであろうことを見越した犯行)
ニール・ヤングの「サザーン・マン」を聴きながら車で竜美ヶ丘公園に向かう坂道を登っていたら、カーブを回りきったところで桜並木の間から三日月が正面に現れたので、「運命の刻は満ちた」というような鮮烈かつ厨二病な啓示を受けたのだが、自分で言ってていったいなんの運命だかさっぱり分からない。
XTCの"Skylarking"の"Summer's Cauldron"、蒸し暑い夏の美しい時間の曲だが、もしかしたら日本の夏の感覚を安易に投影しすぎた理解かもと思って、Cauldron(釜)について画像検索してみたら、魔女が毒薬作るような大釜ばかり出てきてなんか吹いた。
「おのれ何奴?」(<-懐の刀を抜きながら障子の向こうの影に)
「そうだ、メッセージなど何一つ残さずに」
「リリシズムと凛々しいってなんか似てるよね」そのまんまだと思ったが、野暮なことは言わずにテーブルの上にある煎餅に手を伸ばした
「モ、」 「モ?」 「モンドリアーン!」 「感服しました!」
さいきんのコンビニのスパゲッティーカルボナーラとかおにぎりとかで見かける業務用温泉タマゴ(外も中もペースト状のもの)を見るとなんだか怒りが、悲しみが、苦しみが、憤りが沸いてきて、その日丸一日が、もう役立たずになる。(<-なこたぁない)
つかあれの商品名いったいなんなんだろう? "卵 黄身 ペースト 業務用 コンビニ"くらいでググってみたが不明。ある時期からどっと出てきたから、なんか製法が確立したか、もしくは法律が変わって使いやすくなったか、なんらかのことが起こったらしい。
判明した。これか: 「ロングエッグ」 いやいやいやいや、ロングエッグはゆで卵なので、あの半熟タマゴとは違う。
昔私は旅行に行ってもカメラで写真を撮ることはなかった。きっと俺はこの光景を忘れるまいと、そういう光景だけを心に刻めばいいのだと思っていた。だが時は経ち、歳を取り、すべては忘れ去られ、記憶は歪み、過去の自分との連続性さえおぼつかない。そしていまはバカみたいに写真を撮るようになった。
「夢見すぎ」このフレーズイイネ! 神経科学に夢見すぎ。意識研究に夢見すぎ。現象学に夢見すぎ。大学教員に夢見すぎ。研究計画に夢見すぎ。あらゆるものに冷や水をかけ、すべての情熱を静めて、フラットな心で冷静に正しく物事を取り扱うことにしよう。実のところブッダの悟りとはそういうものなのだ「来世に夢見すぎ」
弱くありつづけるタフさ、みたいなことをずっと考えてる。追求しているとまでは言えないが。太宰を読んだ中学生のときから、私の芯のようなものになっていて、自分を見つめ直すとき常にそこに、立ち戻る。
キンクスのアルバム「アーサー」に入っている"Mr. Churchill Says"では、WWII中のイベントをいろいろ織り込んでいるんだけど、そのなかで"Vera LynnがWe'll meet again somedayと歌う"という歌詞が出てくる。
この曲がキューブリックの「博士の異常な愛情」で流れるのを見て、何となくその再会するところとは天国だか死後の世界を指しているのだろうと思っていたのだけれども、それは日本での「靖国で会おう」に影響を受けた理解であることに気づいた。ウィキペで知ったけど、元はミュージカルの曲だったんだ。
「シューゲイザー名盤 TOP100」このリストのうち12/30は聴いてた。でもいちばん好きなのはライド。その時代を共に生きたという感覚がある。SlowdiveとかSwervedriverはじつはちゃんと聴いてない。なんか違うんだわ。
Magnetic Putty Time Lapse これはヤヴァかった。サイケデリック。
2013年11月07日
■ 「神経現象学と当事者研究」いくつか補足コメント
科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」の件、いくつか補足コメントを。
議論の方はいきなり郡司さんから、現象学は力学系で表現できるけど、現れたり消えたりするものは説明できないのではないか、という質問があって、自分としては力学系で表現したものは実のところ現象学ではないと思っていたからちょっとびっくりしてうまく答えられなかった。
熊谷さんはinsulaのサリエンスネットワークでのpredictive codingおよび自由エネルギー説から自伝的記憶の構造の話まで広げたうえで当事者研究的なやわらかい言葉(「ぐるぐるモード」とか)で話をしていてすごいと思った。二人称的アプローチが板に付いているというか。
石原さんが言っていたフッサール現象学をもっと使いよくするという話を聞いて、神経現象学と当事者研究との関係がだいぶ明確になってきた。当事者研究においてはフッサール現象学のうち、エポケーや還元といった技法をもっと使いよくしていけばよいのだろうし、熊谷さんによればじっさいにエポケーや還元に近い概念として、生の言葉で語るとか価値判断はしないとかそういうノウハウが蓄積しているようだ。
いっぽうで意識の研究方法としての神経現象学の場合にはそこでの現象学は自然化を拒むような現象学であり、意識は世界の一部ではないのだから、てんかんの神経現象学で図示したような現象的な状態空間みたいな視覚化を拒むだろう。この意味においてこれまでに神経現象学として厳密に超越論的現象学(といっても理解しているわけではないが、本質的に反自然主義であるもの)を適用できたものはないと思う。
メロポンが言った「完璧な還元は不可能」ってのがこのことを指すのかどうかは分からないが。
あと、石原さん、浦野さんには現象学と神経生物学が相互に「拘束」しあうというときの拘束ってなんだろう?とか力学系が関わる意味とか、まさに昨晩あたりにツイートしたことを質問された。
Thompson (の書評を書いたZahaviのまとめ)によれば、けっきょく拘束というのはどういうことかというと、たとえば現象学的知見によってこれまで一つだと思われていた現象が複数の要素と構造に分かれると分かったとしたら、それに基づいて神経生物学的検討を再び行うための根拠となる。逆も真なりで神経生物学的知見は現象学的な再検討を要求しうる。この意味においては現象学が自然科学による知見をそのまま取り入れているわけではないのだから、自然化の問題を違反しているということはないだろう。
それからあと力学系の方の話だけど、って私が力学系語れる技量無いんだけどそれでも語るならば、そもそもNCC問題のうちcontrastive methodであることの問題は、状態Aと状態Bとを区別する脳活動Cと脳活動Dを見つけたというときにはA-C、B-Dという対応付けがどうなされるかということは外側からしか決めることが出来なくなってしまうためにmind-body problemもしくはexplanatory gapが生まれてしまうのであった。
そこで力学系では自分が行為によって内的に区別をし、カテゴリーを作り、意味を作成する。だから対応付け問題は起こらないし、そのカテゴリーは内部からのものであって第三者のものではない。これがenaction = 「行為による産出」の意味であって、Varelaがオートポイエーシスのときから一貫して持っている視点だった。
だからEvan Thompsonとかはmind-body problemではなくてbody-body problemだ、という表現をしている。
元々のVarelaの神経現象学1996では力学系はあくまで神経生物学の中で創発を取り扱うために導入されていた節がある。しかし今日の話で強調したように、現象側も本質的に力学系的であると思う。それは現象が時間的意識であるという現象学の帰結そのものからサポートされる。
ただし、先ほども書いたように、てんかんの神経現象学で図示した現象的な状態空間みたいなのは、現象を世界の中に延長を持って存在するように誘導してしまうので誤解を生むだけだと思うし、あそこで描かれたものは現象学ではないと思う。現象学的心理学というか。
現象に力学的側面があるのはたしかだけれども、それはある種の抽象化された力学系でしかない。だから、神経現象学で神経生物学と現象学とを力学系が結ぶというときは、神経生物学と現象学の両方に力学系的な考えが必要なのだというふうに神経現象学自体の考えも変化してきていると思う。
Isomorphicではなくてhomeomorphicであるほうが関係として強いのはたしかで、それはそれぞれのドメインである種の因果があるところまで抑えているわけだから。Varela 1999で「厳密に一致する」というときはこのレベルのことを指しているのではないだろうか。でもじゃあhomeomorphicで足りるのかっていうとよく分からない。
この点でもうひとつVarela 1996以降で導入された考えとして考慮すべきはdownward causationだろう。けっきょく現象はpersonalなレベルであって、神経生物学はsubpersonalなレベルにあるので、そもそもisomorphismといっても違ったオーダーのものを並べているというのがほんとうのところ。
upward causationでは個々のニューロンの活動がセルアセンブリを作り、現象を引き起こすわけだけど、downward causationでは、てんかんの発作の前兆が来たら香水のニオイをかぐことによって発作を抑えることが出来る、といった例が挙げられる。ここでニューロンレベル - セルアセンブリレベル - 現象レベル というふうに創発の空間のオーダーが大きくなって最終的にパーソナルなレベルとなったのが現象、みたいなバイオロジカルな創発の延長として捉える発想がある。(Thompson and Varela 2001とか) もちろんこれは自然の外にある意識という発想とは相容れないけど。
- / ツイートする
- / 投稿日: 2013年11月07日
- / カテゴリー: [オートポイエーシスと神経現象学] [視覚的意識 (visual awareness)]
- / Edit(管理者用)
2013年11月03日
■ ワークショップ「神経現象学と当事者研究」 河島 則天さんのコメント
科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ「神経現象学と当事者研究」に河島 則天さん(@KWS456123 国立障害者リハビリテーションセンター研究所)が参加してくださいまして、ツイッターで長文コメントを書いておられました。そこでツイートまとめを作成して転載させてもらうことをお願いしました。
.@KWS456123 すごく参考になりました。折角のまとまった文章ですから、どこかに残してみませんか? Togetterでもいいんだけど、私のブログにゲストとして転載させていただくというではいかがでしょう。参考までに以前の例です:http://t.co/9aTI2Bql7M
— Masatoshi Yoshida (@pooneil) November 3, 2013
@pooneil 昨日はありがとうございました。最後のネタスライドは聴衆の心をグッと掴んでいましたね。転載の件、推敲することなくただ思うままに羅列しただけなのでお恥ずかしい限りですが。。。吉田さんがどのように感じになられたかコメントを付記して頂けますと、私としては嬉しいです。
— Noritaka Kawashima (@KWS456123) November 3, 2013
河島さん、転載許可どうもありがとうございました。河島さんのツイートまとめ、ここから始まります:
科学基礎論学会例会に吉田さん@pooneilと熊谷さん@skumagayaのお話を聴きに行った。僕が勝手に理解したところでは、熊谷さんとは立場は違えど問題意識のかなりの部分共有できると感じ、吉田さんとは立ち位置というか、やってみたいことがかなり一致しているような印象を受けた。
熊谷さんの話を聞く前後で、当事者研究に関しての考え方がかなり変わった。僕がやっているsingle case studyはある部分、当事者の主体的体験を引き出し、記述することを軸にしているし、僕の立場はその情報の集約と客観化の部分を担っている。これって当事者研究じゃん、と思った。
そして午後は先天性無痛症の集まりに来てる。この関わりももう8年になるけれど、年に一度しか会わないのに親近感をもって接してくれるというのは嬉しいことで、同症との関わりは年を経るごとに当事者研究的な要素が出てきてるな、思ったりする。こういう関係ではないとできない研究というのがある。
--
昨日の科学基礎論学会ワークショップのことが頭を離れなくていろいろ考えている。正直なところややネガティブな感じで捉えていた「当事者研究」が、昨日の話を聴いてこうもコロリとややポジティブに転じている理由って何なんだろう、、、と。
当事者研究の代表事例の「べてるの家」の対象とアプローチ、その特殊性、効果と限界についての理解が、イコール当事者研究に対する印象、と(勝手に僕が)なってしまっていたのが理由の一つか。(もっともらしい理由を探すよりもむしろ率直に、当事者たる熊谷さんが発する言葉の力や説得力、ということに尽きるのだろうけれど)
熊谷さんは現代思想の対談でも著作でも慢性疼痛について触れていて、その現象学的記述(というのは正しいのかな?)は他者が知り得ないところがあって、表現のすばらしさもあってやはり主体的体験の言語化、客観化というのはなによりパワーがあるな、と改めて思った。
同じ印象(当事者の語りというのは症状や病態の理解に何より重要だという・・・)は、菊澤律子さんのCRPSの寄稿を読んだときにも感じたこと。
ただし、僕らが接する患者さんたちが、主体的経験を明確に語りとして/言語記述として明確明瞭に示すことができるかというとそうとは限らない。ゆえに、当事者研究においては「当人に現象学的記述が可能となるようトレーニングをする」必要があるのだと。
熊谷さんは「当事者をトレーニングさせる」ということへの違和感を、冒頭に問題意識として挙げており、それは僕にとってはすごくすんなりと共有できる部分だった。
「痛みは主観的な意識経験である」けれども「痛みへの共感なくして痛みの治療はできない」というこの距離感を繋ぐのは「痛みの意識経験を患者が語ること」だというけれど、当人が言語化し得ない部分、そして昨日の熊谷さんの話にあった過剰一般化をここに位置付けると問題はそう簡単ではない。
これまた以前の現代思想のポンティの特集の中である医療関係者が「医療者は共感を前提に科学的な知識と技術を適応しなければならないことを肝に銘じておくべきであろう。」と書いている。表面的には正しいんだけど、これは真なのかな?少なくとも僕には具体的を伴わない理想論としか受け取れなかった。(本質的に自身の経験や想像の及ばない、耐え難い痛みを共感することなどできるのか?という意味で)
患者さんが訴える耐え難い痛みを僕は同じように感じることはできない。そもそも本人は「他人にはおよそ想像できないだろう」、あるいは「この痛みを本当の意味での共感というのは難しいだろう」と思っているかもしれない(あくまで推測)。
熊谷さんの話の中に、当事者が研究に参加することの明確な動機/理由として、その症状や病態が改善することへの期待、ポジティブな態度というのが必要だという指摘があった。その上で、当事者研究は『自分自身の経験に関する真な知識を得ようとする実践』であるということでこれには納得感大だった。
僕もこれはすごく重要だと思っていることで、痛みを共感すること以上に大切だと思うのは、患者さんが持ち得ない痛みに対する考え方/捉え方をしてみて本人に照らし、その考えに患者さんが関心と期待をもってくれるとすれば『このヒトは痛みを理解してくれているのでは』という感情が生まれるのでは?という可能性。
つまり僕が自分が経験したこともない耐え難い痛みを本当の意味で共感することは難しいけれど、患者さんがこちらの考えに共感や期待をもって接してくれるとすれば、共同注意や共感というような第二者的感覚を超えて、もっと近い視点で痛みという事象を考えていくことができるのかもしれない、と。
思いつくままにかなり長々と書いてしまった。。。終わりー
河島さん、どうもありがとうございました。
河島さんも熊谷さんも石原さんもVarelaの現象学における「training, stabilization」という表現に当事者研究に近い立場から違和感を表明していたけど、ここについてコメントしておきたい。
Varelaのtrainingってのは、現象学的還元ってのはだれでもすぐに出来るようなものではない微妙な気づきを得るための技法だから、仏教の僧侶がマインドフルネスの境地に至るのがすぐに出来ないのと同じように、その技法を自転車に乗ることができるのと同じような意味で習熟するというというのがトレーニングだ、という意味だと思う。(この点で現象学的還元に基づいた描写は内観報告とは違っている。)
その意味では当事者研究においても、「自分の言葉で語る」「価値判断を入れない」というような場の力を維持するためには習熟が必要だと思うので、この点で神経現象学と当事者研究とがそれほど違っているわけではないのではないかと思う。
とはいえ、神経現象学と当事者研究との動機が違うという論点は私も理解している。ワークショップ後の昼食の時にも話をしたけど、神経現象学のヴァレラがもともとチベット仏教とかをから強く影響を受けているという点からもわかるけどものすごく「求道的」であって、あくまで真理探究が優先されていると思う。
一方で、べてるの家の当事者研究が「八方手詰まりだから研究でもやってみるか」というところから始まったように、実際に役立つことが何より優先される状況とは違っている。
トークで取り上げたてんかん発作の神経現象学でも、現象学的インタビュー(VermerschのExplicitation Interviewを下敷きにしている)が行われていたけど、それはあくまで患者側の立場からてんかん発作の前兆というものが一体どういう経験なのかを明確にすることによって、認知的予防法に役立てるという目的があった。インタビューにおいて、言語化を繰り返し、内面に目を向ける方法に習熟し、また新たな発作の経験のあとでさらに前兆としての経験が繰り返されているかを検証してゆく、こういった繰り返しによる習熟の作業のことをVarelaは「トレーニング」と言っていたのだと思う。
とはいえ、Petitmenginは同時に、このようなインタビューがはたして患者さんの為になっているのか、無力感も告白している(Petitmengin 2010)。じっさい、発作経験というつらい経験を根掘り葉掘り聞かれることになるわけだから。
けっきょくのところ、患者さんとともに研究をしてゆく二人称的研究法においてはこの問題を解決する簡単な解はなくて、その都度二人称的関係を作り上げながらやっていくしかないんではないかと思う。その意味で河島さんが後半に書いていたことには共感する。
記述を深化させることによって当事者の経験をよく理解してもらえるようになること(=「トレーニング」)よりも、二人称的関係を作り上げて「わかってもらえている」という信頼関係を作ること、こっちのほうが当事者にとっては優先するだろう。でも経験の記述が本当にその当事者にとって役に立つ状況にあるならば(これは必ずしも真ではない)、どちらかを選ばなければいけないという話でもない。両方必要。けっきょくそこに尽きるのではないかと思う。
ちなみに二人称的研究法というときの「二人称」という言葉にはブーバーの「我と汝」(二人称)と「我とそれ」(三人称)という考えが反映していると思う。原理的に本当に理解できるわけではない。一方で二人称的であること、「我とそれ」ではなくあり続けるということ、このことは個人的にはずっと考えている人生のテーマだった。
神経現象学の場面においてはEvan Thompsonはempathyという言葉を使っていて、Dennettにはその部分軽く一蹴されていた。まだ十分に理解できたわけではないけれども、でもいつか私はEvan Thompson側の方に付くことになるだろうと思った。(追記:これは正しくなかった。あとで探してみたら、"Shall We Tango? No, but Thanks for Asking"には該当する部分が見つからなかった。正確にはこの中では、トンプソンの言う二人称的方法はけっきょくのところデネットの言うヘテロ現象学なのであるとデネットは主張していた。)
- / ツイートする
- / 投稿日: 2013年11月03日
- / カテゴリー: [オートポイエーシスと神経現象学] [視覚的意識 (visual awareness)]
- / Edit(管理者用)
2013年11月02日
■ 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」無事終了した!
科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」無事終了した!
発表の方は時間が足りなくなってしまったが、ネタスライドも投入できたし、ウケもとれたのでまあよかったのではないだろうか。議論の時間に参加人数を数えてみたら48人。なかなか盛況だった。
補足的な議論など書きたいことはいろいろあるのだけれども、とりあえず今日は配布したハンドアウトを掲載しておきます。参加してくださった皆様、どうもありがとうございました。
- / ツイートする
- / 投稿日: 2013年11月02日
- / カテゴリー: [オートポイエーシスと神経現象学] [視覚的意識 (visual awareness)]
- / Edit(管理者用)
お勧めエントリ
- 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
- 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
- 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
- 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
- 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
- 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
- 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
- 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
- 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
- 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
- DKL色空間についてまとめ 20090113
- 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
- ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
- Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
- 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
- MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213