[月別過去ログ] 2011年11月
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■ この厳然たる事実を祝福しよう
このあいだ農協の企画で次男と稲刈りに行ってきた。三十家族ぐらいが田んぼに入って横並びで鎌を使って稲穂の根元をじょりっと切ってやる。次男は30分で飽きて田んぼのカエルを探してる。ちょうど稲の花が咲いていた。終了して新米と豚汁を食べる。うまい。隣の大家族はお父さんがひとり大声でしゃべっている。「これうめえなあ、おまえももっと食べろ」「稲の花見たか?」いろんな家族があるなと思った。
稲の花はすっごくかすかな白い花で、二時間ぐらいしか咲かない貴重なものだそうだ。これから俺の中では「白い花」とは稲の花を指すことにした。
(ある者は医者になり、ある者は役人になり、ある者は裁判官になり、ある者は大学教員になった。ある者はサラリーマンになり、ある者は会社役員になり、ある者はニートになった。でも驚くべきことに、ほとんどみんな生きている。ほとんど統計的に当たり前なくらいに。)
(これは当たり前なんだろうか? では小学生のときの同級生はどうだろう? 大学生のときの同級生はどうだろう? これは当たり前なんだろうか? 驚いたことに驚いてもいいけど、けっこう驚くべきことなんではないかと思っている。)
(吉田、オメー変わんねーなー、と言われるとなんだか誉められたような気恥ずかしいかんじがしたりする。けっして誉められたわけでもないのに。女性に同じようなこと言われてうまく返せなかったことがある。正しい答えは「XXさんはきれいになりましたね」だ。でもこれがとっさに出てこないんだな。)
(ほとんどみんな、生きている。この厳然たる事実を祝福しよう。)
ぼくらの時間にはほとんど決定的な瞬間など含まれていない。それでも決定的な瞬間はあるし、それはあまりにもさらっと過ぎていってしまう。気にするまいと、目をふさいでしまえばなんどでも過ぎていってしまう。やり直しはきかない。やり直しのつもりでもそれは言い訳してるだけだから。
気心しれた人とあんまりお金かけないで、酒飲みながら語って、あんま人生の厳しい面とか思い起こしたりとかせずに、なんか楽しいことだけ話したり、頭空っぽにしてUNOとか大貧民とかやったりしたい。蚊のいない涼しい森でキャンプファイヤーしたい。
みんなが語っているうちに、知らぬ間に居眠りをしていて、また普通に話に参加したりして、それでもぜんぜん話に着いていくことができて、山盛りのハッピーターンとカントリーマアムつまみながら、あんま人生の厳しい面とか思い起こしたりとかせずに、たのしく酒盛りをしたい。
いつも通り単独行動していたら、みんなもう撤収してしまっていた。次に行くところが置き手紙してあって、俺はそれを頼りにして蒸し暑い夜の街を歩く。(イメージは池袋ロサ会館前)
2011年11月14日
■ 国道でsaccadic suppressionについて考えた
夜、国道を車で走っていて、saccadic suppressionが無効になるのを経験した。国道なんで目の前基本的に暗闇なんだけど、中央分離帯に現在の気温を示す標識っつーか情報ボードがあった。それで、ちょうど右サッカードしたときにそれが視野に入ったらしく、左方向にたなびいて見えた。
面白いと思ったのは、それがつながった灯りじゃなくて、コマ送りみたいに複数(10個くらい)見えたということだ。その前になんでサッカード中の温度標識が見えたかというと、それは暗闇で高コントラストの刺激があったからだ。普段の我々の条件ではサッカードの前後には高輝度コントラストの刺激があるので、それによって前後方向からマスクされる。このVisual maskingによって、サッカード中の視覚(動きによってぼけているため、コントラストが低い)がマスクされるので、われわれはサッカード中のぼけた映像を経験することがない。
それとはべつのメカニズムでsaccadic suppressionというのがあって、サッカードをするというコマンドを内部的に活用することによって、視覚によるフィードバックが戻って来るよりも早く、サッカード中の視覚ニューロンの活動を一時的に弱めてやるという機能がある。
Saccadic suppressionはフィードフォワード制御が脳でも使われているという意味で面白い現象ではあるけれども、サッカード中の視覚の抑制という意味ではvisual maskingの方が寄与が大きいらしい。(Wurtzのvision researchのレビューより)
それで、私がそのとき面白いと思ったのは、サッカード中の視覚がぼやけた流れではなくて、コマ送りのように見えたことで、おお!知覚とはじつは断続的なものなのだな!とか感激したんだけど、その1分後ぐらいになって、端的に光源が高頻度でフリッカーしてただけではないかということに気づいた。
つまりあれ、アートでありますよね、サッカード中だけ模様が読めるやつ。未来館で見た。たぶんそれではないかとアタリを付けて、ためしにどのくらいの周波数でフリッカーしてたか試算してみる。
けっこう大きなサッカードをしていたから試しに30degだったとして、サッカードには50msくらいは要しているだろう。そこで10個以上は刺激が見えた。5ms=200Hzで発振してるってことになる。うーむ、60Hzだったら納得がいくんだが、それよりは速そうだ。
まだ釈然とはしないが、そんなことを考えた。
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2011年11月06日
■ ショービズ臭と自尊心問題。
高一の夏に買ったIn-A-Gadda-Da-Vida、思い起こすに、はじめて聴いたときにはちょっと失笑した。ボーカルがなんつーか、今持っている語彙で言うなら、すごいショーヴィズ臭かったから。どうやら自分はそういったショーヴィズ臭になじめないのだな。
だから[80年代スタジアムロック] vs. [グランジ/シューゲイザー/ローファイ]でわたしは後者に入り込んだのだろう。シューゲイザーの自尊心問題というのもそういう点から考えると「ショーヴィズを否定しつつ自己表出を肯定する」と捉えることが出来る。これこそが「ベッドから革命を始める」という意味。
もちろんこれは自己矛盾から逃れられない。
Jefferson Airplaneでいうならば、Marty Balinだけあきらかにショーヴィズな人なので、バンド内の立ち位置として後期はどんどん浮いてくる。コマーシャルに成功したバンドであるにもかかわらず。
なんてことは高校生のときにはけっして言語化できなかったが、言語化できたところでどうにも陳腐だった。でもそのころのまだうっすらと消えずに残っていた万能感を思い出して(さよならボクのパステルズバッヂ)、恥じ入りながら、こんなはずじゃなかったと思いながら、焦燥感持って表出し続ける。
全部この二分法でいける。カンタベリー系はショーヴィズ臭くないが、メジャーなプログレはスタジアムロック的なショーヴィズ臭がする。アシッドなサイケデリック音楽と流行に併合したファッションサイケの違いはショービズ臭の有無でわかる。
そういえば「ミスター・ソウル」「クレイム・トゥー・フェイム」「ブロークン・アロー」で一貫して歌われているテーマでもあった。
あとで見直してみたら、これはまったくもって、中森明夫が「オミズ、オェッ」(正確な表現は忘れた)って書いたのと同じではないか。
じゃあここからオフレコね。
王様の耳はロバの耳! 王様の耳はロバの耳! 王様の耳はロバの耳! 王様の耳はロバの耳! 王様の耳はロバの耳!
オフレコ終了しました。
どうか、オレのことを単純化しないでくれ、オレもあんたのことを単純化しないから、とかカマをかけたりするような会話を全くしなくなるぐらいにはオレはオレ自身を単純化してしまっていて、自分の欲望をそれっぽい物語に落とし込んで語るようになったのだが、そんなのは嫌なんだ。それが出来るためには、それが伝わると思えるくらいの自信と目の輝きと無知とが必要だったんだ。
2011年11月02日
■ 盲視についてのガザニガの懐疑とゼキの懐疑
盲視の定義に意識が入るといちいちややこしくなるので、その手前の問題をまず片付けるのが先決。つまり、1)光散乱などの損傷側以外の視覚情報を使っている、2)損傷していない脳が部分的に残っている、3)degraded normal visionではない、この三つの可能性を排除しておく。
そのうえで、盲視で起きている経験が「視覚意識」なのかそうではないのか、これがWeiskrantzとZekiの間での論点。私にとってはべつにそれが盲視であろうがRidoch syndromeであろうがかまわない。どうやらそれは個人差とトレーニングとに関わる領域らしい。
前述1)2)3)のような懐疑(これはガザニガとかの論点)さえ除去できればよい。ここを混同するとわけの分からないことになる。
「個人差とトレーニングとに関わる領域」と書いたことの意味は、盲視で視覚刺激の位置同定ができるとどうやら、まさに位置同定ができるということに基づいてある種の意識経験を持つようだ(いわゆるtype II blindsight)。これはsensorimotor説とも整合的だし、デネットが言っていることともそんなに変わらない。
いっぽうでGY氏を被験者とした論文を読んでいると、縞模様を動きとして経験できてはいないようだ。つまり、視覚刺激の「位置」の情報は持っているけれども、「content」の情報を持っていない。
視覚刺激のうち処理できるチャンネルに応じて、その属性の意識経験が生まれる。MT損傷で動きという属性が失われるのと同様に、V1損傷は視覚刺激のcontent (<->位置)を失う。ゆえにより本質的な変化が起こっているように見える。
盲視の説明をするときは、この二つ(ガザニガの懐疑とゼキの懐疑)がぜんぜん別物であることを示さないといけない。両者を混同されて、盲視が怪しいものだと思われるのは困る。世の中に盲視に懐疑的な人はけっこういるので、その懐疑がどちらなのかを見極める必要がある。医者はたいがいガザニガの懐疑。ASSCで問題になるのはゼキの懐疑。
ガザニガの懐疑は「V1が損傷しているのに残存視覚があるなんてあり得ない」と書けて、ゼキの懐疑は「V1が損傷したら(すべての)視覚意識がなくなるというのはウソだ」と書ける。
そして、ガザニガの懐疑は排除できる。ゼキの懐疑は充分正当性を持っていると思う。わたしも「すべての視覚意識にV1が必須である」という考えには賛成しない。以前から「カエルの視覚経験」という表現をしているように、あるlow-levelの意識経験があるとは言っていたけどV1は視覚意識のうち、その場所にあるcontentの経験を失うという意味で非常に根本的ではあるけれども、それでもそれは「すべて」ではない。
どうしてこんなに盲視が少ないか、という質問に対しては「盲視の検査および機能回復トレーニングが医療のプロセスとして組み込まれていないから」というのが原因の一つであると答える。
ここから先はもっと医療の現場の実情をよく知った上で言った方がよいのだけれども、もし脳梗塞などで半盲が起きて、視野検査でscotomaの位置が同定されて、それが安定しているようなら、そのあと退院してから何かフォローアップがあるわけではない。そのへんでけっこう見逃されているのではないだろうか?
ガザニガの懐疑は完璧に排除できないと論文にならない。ゼキの懐疑はその境界領域を議論すればよい。ガザニガの懐疑はheminanopiaとblindsightの区別。ゼキの懐疑はblindsightとRidoch syndrome (もしくはgnosopsia/agnosopsia)の区別。
言語報告で利用できない属性がサッカードでは使えるというのが見つかったらおもしろい。出ないなら出ないで、盲視がある種の病態失認(「見えているということを否認する」ハクワンのBiasが変わっている説はそれのバリアント)ではないということを言うのに助けになるかもしれない。
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