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2016年04月24日

「盲視の神経現象学を目指して」がオンラインで読めるようになりました

2014に書いた紀要原稿「􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀盲視の神経現象学を目指して」がオンラインで読めるようになりました。東北大学機関リポジトリ> 100 文学研究科・文学部 > モラリア >「盲視の神経現象学を目指して」

関連するブログ記事はこちらにまとめてあります: [カテゴリー別保管庫] ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」

2013年6月29日(土)に一橋大学で開催された第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会で「神経科学の立場から」ということで発表を行いました。このときの内容を「科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」」での発表内容とともにまとめて、東北大学倫理学研究会発行の学術雑誌 Moralia に紀要原稿を書きました。このカテゴリーではこのときの準備などで考えたことについて書いたエントリをまとめてあります。

内容をかいつまんで書くとこんなかんじになります:

盲視の神経現象学はどうすれば可能かという問題意識から、ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」(以下G&Z本)を読みこんだ。

G&Z本で「神経現象学」の実践例としてあげられている研究は実のところ「内観的に異なる状態AとBに対応する脳状態CとDを見つけるという対比的手法」を用いており、デネットの言う「ヘテロ現象学」の枠組みを超えてない。

現象学を「現れや所与の次元そのものを検討し、その内的な構造や可能性の条件を暴き出す」ことに使い、神経科学を「状態CとDの間を遷移する全体と部分の構造という力学系的な取り扱いをする」ことに使えるようになったときにはじめて「神経現象学」が目指す意識の科学が可能になるのではないか。

ブログの記事を見てもらうと、たったこれだけのことを書くためにかなり労力をかけて自分の専門の領域を広げようとしている様子がわかるのではないかと思います。

今後もこういう活動を続けてゆく予定です。乞うご期待。


2016年04月20日

ホワイト、ジャック!

(原題:さうして、このごろ 20150131)

「子供の頃、何が欲しかった?」高校生のときは宅録関係だったな。カセットMTRが欲しかったけど買えなかったので、シャープのダブルカセットでピンポン録音してた。ヒスノイズが重なりまくって、出来上がりの曲はシューシューいってたっけ。けっきょく大学4年くらいにfostexのX12買った。

「子供の頃、何が欲しかった?」あと、ドラムマシンが欲しかったがなかったので、近所のゴミ捨て場でスネアドラムとシンバルを拾ってきて、バスドラ代わりに枕をスティックで叩いて、マイクで音拾ってた。カセットでリミッタがかかる(リンゴ・スターのドラム的な意味で)ので案外音は気に入ってた。

ゴローがBOSSのドラムマシン (Dr. Rhythm DR-110ってやつ)を持ってて、それを借してもらったことがあって、延々ひとりでジャムってた。Grateful DeadのDark Starのモチーフを延々展開して。


「Z会(ぜっとかい)」のことを「ツェット会」と発音すると、秘密結社っぽくてよい。

JR岡崎駅から戸崎町を経由してゆるやかに登る坂道を自転車を漕ぎながら、この国道をエポケーして(<-フッサリアンジョーク)、これが開発される前の50年前の、林の中の誰もいない砂利道を自分は自転車を漕いで登っているのだと、目に見えるものを消して、ただ坂の傾きに意識を集中させる。

ライカ犬、ライカ犬。「今そこにある危機」と傘を回して見え隠れする魔女。電話で届けられる、予想通りの悪いニュース。思いつく限りの嘘と、廃墟で行われるある種の犯罪。カミキリの幼虫が白日のもとに透視され、白日のもとに凍死される。そうしてついに、海を見つけた。ライカ犬、ライカ犬。

n=1で「やっぱ俺の言ってたこと正しかった」とか言われると本当に統計わかってんのかって思うけど、そういうときに人々が言いたいのは「n=1の新しいevidenceによって、以前持っていたpriorから仮説が補強される方向にposteriorが変化した」ということだと脳内変換してる。


小学校3年生くらいのときには自転車でもうどこへでも行けるつもりであちこち行って、でも新大橋がまだ歩道がなくって車道だけで、ここ(隅田川)が自分の行ける範囲の限界なのだと思った覚えがあって、新大橋を走る車と排気ガスのイメージがあるのだけど、なぜかそれは色あせたカラーのイメージで、たぶんテレビの映像の記憶と混ざっている。

帰郷したときに送り迎えで明治通りを往復して、日曹橋の交差点を通りかかった。日曹橋は橋と名が付いているが橋はない。以前日本曹達の工場があった場所で、運河の埋め立てで橋もなくなり、橋にだけ名前が残る。日曹橋への愛が深い人の記事を見つけた:「いつか日曹橋で」が出来るまで あとこれも詳しい:東京都江東区に「日曹橋」という地名があります

岡崎の電車通りに「芦池橋 バス停」というのがあるが、ここにも芦池橋はすでにない。しかしこの近辺を歩いてみれば道路に運河の名残らしき段差があるのに気づく。

岡崎市内(2012.12.28) 「新田橋親柱 電車通りの歩道の脇にあります。図書館の前から電車通り西側にあった江川まで流れていた小川の橋らしいです。ちなみに江川は久後崎から占部川まで続く川で現在は暗渠になっています。」 あとこちらにも記載あり。


「島村卯月がブレイクしなかった世界で!」を読んだら泣けた。

「パパも返品ね」っていいなあw いっそのことパパを返品して、返金して、倒壊して、融解して、全てをやり直して、進化からやり直して、進化のランドスケープから違った山を選んで、僕らみんな全く違った形の生き物として生まれ直し、全てをやり直してみればいいんだと思う。

子どもたちがまだ小さかったころはよく受話器を耳にあてて「もしもしこちらネコちゃん警察署捜査本部、何?事件?」ってダミ声で言うっていうネタ(?)を繰り返していたのだけれども、だれも相手してくれなくなったのでもうしなくなった。それは記憶の片隅に追いやられ、しかし消えずに浮上してきた!

ツタヤで借りた「それでも町は廻っている」を読んでいる私を見た次男が「(手塚治虫の)ブラック・ジャックを読んでいるのかと思った」と言ったので、まったく頭を使わずに「ホワイト、ジャック!」とウイスキーのCMみたいに渋みたっぷりに返答したら、我ながら気に入った。「ホワイト、ジャック!」


「世が世なら・・・ADHDは狩猟採集社会では優位性を持っていた。」 元ネタはこれ:BMC Evol Biol. 2008 介入してるわけではないのでこれ自体はそんなに強い議論ではない印象。

統合失調症が創造性と関わるとか、糖尿病が寒冷期に糖を蓄える際には有利だったとか、そういう説とともに、進化的には意味のある表現系はここ数千年だか数百年だかの環境の違いには順応できないってのはもっともらしい話だ。

構造で規定されるんだな、みたいな相対化の洗礼を受けたのは大学生の頃だったか。今にして思えばずっとそんなこと考えていた気がするし、ずっとそれをうまく取り込むことが出来ずに、あるときは構造主義だったり、あるときはアフォーダンスだったり、オートポイエーシスだったり、力学系だったりと、近寄ってはぐるぐる回りつづけていただけなような気もする。

それは中観派の空の思想だったり、現象学の反表象主義だったり、実在の絶対性みたいなものを避けていく選択肢を常に選んできたけど、大元は浪人のときに読んだ岸田秀と「弁証法とはどういう科学か」で太宰治から戻ってこれたという、身も蓋もなく実存的な理由があったことは覚えている。


2016年04月13日

疾患と疾患モデル

.@KWS456123 「表面的な理解/解釈のみで…危険がある」という批判は患者を実際に見ている方でさえ自問自答すべき問題なのだと理解しました。しかし、この批判を転じて、患者を見ている方が動物モデルをやっている人に向けてしまうと、誰にでも言えてしまう、不毛な批判になってしまう。

じゃあどうすればいいかといったら、ひとつの方法は患者を見ている人と一緒に動物モデルを研究するということになるのだけれども、この批判は際限なく、恣意的に運用することも可能だから(なにしろ患者を見ている人でさえ問題にしなければならないのだから)、動物モデルへの批判自体はそのモデルが実際に役に立てば消えるだろうけど(遺伝的疾患モデルなど)、精神疾患モデルの場合にはそれがうまくいってないことが元凶なのだろう。

…以上、河島さんのツイートにインスパイアされて、最近考えていたことにつなげて書いてみました。

.@NaotakaFujii なるほど、いまの話はかなり一般化が可能な論点であるようですね:「主観的観察の観察対象ソースを共有することである程度避けられるかもしれない」

そうしてみると、神経生理学者が自分でデータを取っていて、データ科学者と一緒に仕事するときにもおんなじ構造が出ていることに気づく。神経生理学データはそのままだといろんな目に見えない情報が欠けている(記録者が未熟だからこのデータの信頼性は低いとか)。それらをどうやってメタデータとしてデータに足してゆくかというのがひとつの課題なのだけれども、そこで神経生理学者としての私は「じっさいにデータを取るところを見ていないと正しいデータ解析はできない」という気持ちは強いし、自分の経験として、「両方をつないでハブとなる人間が居ないとうまくいかない」という信念もある。

私の視点はどちらかというとハブの人が一人で両方見渡すことが大事という方向性なのだけれども、いま藤井さんが書いていることは、互いに両方見渡すことができる技術を作れないか、ということなんだろうと思う。

「同じイベントを全員が同じ視点から見て共有し議論する」これが視点交換とかにつながり、ジェンダーバイアス、福島、いろんなところにつながることはわかる。それこそが「なめらかな社会の実現」なんではないだろうか。

さっきの話をまとめると、[精神科医 - 精神疾患の動物モデルの研究者] という関係と [神経生理学者 - データ科学者] という関係の相似に無自覚だったし、自分はそのどちら側にも立ちうるのだな、というのこと。だから、データ科学者に向けてデータわかってないじゃん、って批判は誰にでも言えてしまう不毛な批判であって、しかも立場に依拠しているため際限なく言うことが可能。

だからその批判を使う際には「どこまでわかっていればデータを理解したことになるか」を正しく限定する必要があるし、それはデータ科学者に欠けていることではなくて、データを提供する側が行動しないと解決しない。

.@KWS456123 そうですね、自分ならどうするかな?って感じで捉えていくのが生産的ですよね。


2016年04月01日

さうして、このごろ 20141031

ふなっしーは「ヤケクソ感」が出てるところが好き。「ヤケクソ感」という美を世界に広めてゆきたい(<-ヤケクソ)。

.@ichipoohmt オカザえもんはエキセントリックだけどヤケクソではない。紳士(ゼントルマン)ですね。


「あいにく修行中の身だ」っつうのは日常生活のどっかで使ってみたい。松山はよく「春雨じゃ、濡れてまいろう」って言ってたけど、あんなかんじで。ちなみに「この世を忍ぶ仮の姿」ってのはよく使う。

「吉田が輝く社会」を作りたい。


綿棒で第2中手骨と第3中手骨の間を穿つ。これが極意。ピアノと月とドブ川に浮かんだゴムボート。道路工事用のライトの周りで、3つの楕円が形を変えながらも中心をピッタリと合わせて回るさまが、まるで枯れ葉のようだった。

「枯れ枝を踏み進む」って書いて、”re-e”の繰り返しと”f”の音と”su-su”の繰り返しにうっとりとしてみる。


雨が降ってなかったタイミングを見計らってコンビニまで昼ごはん用の鮭缶とちくわを買いに行ったら、帰りに雨に降られた。風が強いので傘は持って行かなかった。ずぶ濡れになった。ところで雨に「降られた」って表現って面白いなあ。「雨に憑れた ひとが行き交う」を思い起こした。

雨で練習が無くなって暇になってしまった次男の相手をして、竹で作った刀のおもちゃを改造してやる。先っぽの割れている部分をのこぎりで切って、断面をコンクリートに擦って角を取って、さらにビニールテープを巻いて安全確保。夕食前は二人ポケモンポンジャン。父大負け。1勝4敗。


「人生ゲーム極辛」を次男とやってるところ。私はスポーツ選手で、次男はフリーター。そしてストレス(カード)の多い私は「ハードコース」へ突入、ストレス(カード)のない次男は「ノーマルコース」へ突入したところ。ああ、人生。

「人生ゲーム極辛」終了。次男の勝ち。せっかく給料は父のほうが高かったのに、途中の「ハードコース」が尾を引いて、出遅れた。ああ、人生。


「マイム・マイム」って改めていい曲だなあと、とくにhey hey hey heyで四つ打ちで念押しているところ。あそこの響きってなんか特別だなと思ってコード調べたらふつうにV7だったんで自分の勘違いに笑ったが、なんか特別感あった。

以前「線路は続くよどこまでも」の「[G7]はるかな まち[C]まで [F]ぼくたち[E7]の」の「の」の部分だけがCメジャー・スケールからAハーモニック・マイナー・スケールになっていることを知って(しかもコード的にはAmに解決しない。この曲にはマイナーコードがない)この曲の良さを再発見したことがあった。

「缶コーヒーにヘブライ文字」ってフレーズが頭に浮かんだが、端的にさっき「マイム・マイム」の動画を見たからだと気づいたので、心がほっこりしてきた。(<-犯行の動機は「ほっこり」という語を使いたかっただけ)


自転車で例のバイパスを国道23号線超えて、吉良のホワイトウェーブのところまで行って、西尾市役所まで行って、また戻ってきた。23号線より先は道が狭くなって、マヂで「暗闇を切り裂」いてきた。矢作古川が暗くて怖い。

吉良のホワイトウェーブへと左折する交差点で一休みしたら、畑につるが生えてて、それを追ってみるとスイカだか瓜だかの細長いのがあって、よく見たらたくさん並んでる。暗闇で見るスイカというのはけっこうびっくりするものだったはずだが、そのときは気にならなかった。かすかに甘い香りがしてた。


今日は次男の学芸会。出し物は学年全体で「泣いた赤鬼」。赤鬼も青鬼も何人も居て、場面ごとに別々の人が担当するという今どきのパターン。

うちの子は三人いる青鬼の一人で、三人いるということは3つの場面(悪役になるよと赤鬼に相談、村で暴れて赤鬼に退治される、村を去り手紙を残して朗読)のどれかを担当なわけだけど、次男は最後のパートをやってた。おいおいオイシイな、それ。ともあれ、泣いた赤鬼大好き。何度見ても、ぼくの心のやらかい場所を 今でもまだしめつける。

10年前に書いた「泣いた赤鬼」と映画「Bruce Almighty」の共通点。でも10年後のいま見返してみれば、人間とはホルモンに左右され泣いたり怒ったりする動物なんだなという醒めた感慨が。人間ってちっぽけだなあ。(<-主語デカすぎ)


昨日は次男と一緒に公園でキャッチボール。次男がキャッチャーの練習をしたいというので、私は2週間後のソフトボール大会に向けてピッチャーの練習(投げたことないけど)。そして今日は筋肉痛。右の肘がなるのはわかるとして、左の腿の裏がなるのははじめて。左足のステップを活かす方法を習得中。

その後で竹で作った剣をノコギリで切る仕事の二本目。今回は取っ掛かりだけ作ってやって、あとはぜんぶ次男が切って、コンクリートの床で角をなまらせて、テープ貼って終了。「二刀流!」とか言って遊んでいる。なんだか典型的にチビッコなのが面白い。

「プレイボール」ちばおきおのワンシーンで、なんか部に問題があって揺れている状況で、合宿場で谷口くんがひたすら夜に打撃練習してて、「コーン」「コーン」って音鳴らし続けるのに部員のみんなが気づくシーン、あそこを読みたいのだけど何巻なのか記憶が無い。

走ってる方の筋肉痛はもう出なくなってる。いい調子。昨日のピッチャー練習の筋肉痛は出てる。左腿の裏がキテいるのは、ソフトボールの教本に書いてあることから判断するにフォームが悪いということのようだ。基本動作を練習することにする。夜の奈良井公園で、谷口くんみたいに。(<-なりきり中)


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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