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■ 科学基礎論学会「神経現象学と当事者研究」でトークします
科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ@駒場(11/2)で話をすることになったので内容を考えてる。以前の一橋での「現象学的な心」合評会で話した「デネットのヘテロ現象学」と「ヴァレラの神経現象学」と「盲視」の三題噺を基本にして、「神経現象学と当事者研究」というテーマに沿って広げてみる予定。
前回できなかったのは「盲視の現象学的分析」を実践してみること。これまで出てる文献や私が調べた人から聞いた話とかそのへんの一人称的報告のデータを集めた上で、そのような報告から自然主義的な解釈を取り除いた上で、どのような経験なのかということについてなんらかこれまでと違った視点を提供できればとりあえずは良しとする。
「当事者研究の研究」 綾屋紗月 (著), 河野哲也 (著), 向谷地生良 (著), Necco当事者研究会 (著), 石原孝二 (著), 池田喬 (著), 熊谷晋一郎 (著), 石原 孝二 (編集) これがネタ本になりそう。読んどく。
それからこちら:リハビリの夜 熊谷 晋一郎 と現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線
つか当事者研究について真摯に捉えるならば、脳損傷患者の一人称報告から他人が「現象学的解釈してやる」なんて超地雷踏んでいるような気もしてきた。なんか外さないように予習しておこうと思う。
まあいい機会かも。要は、私が今後脳損傷患者の意識経験の注目した経験を展開していくのにおいて、どのような態度で臨んでいくつもりですか、ということを明確にする機会に恵まれたということなのだな。
「当事者研究の研究」、1/3くらい読んできた。1章の石原氏の部分で、「べてるの家」での当事者研究が自分事を突き放して見るという「研究」の作法を使うことで日常生活の空間と治療の空間の断絶した部分を飛び越える、というのはなるほどと思った。つまり、世間話でもなければ、どうすれば「爆発」を直せるかみたいでもなく。
主観的経験を丹念に拾ってそれを構造化するというような現象学的な方法だけではなくて、「爆発」の例、「サトラレ」の例など、繰り返し起こってしまった事象を共有した上で、それがなぜ起こるのかの仮説を仲間内で立て(「サトラレ経験」は人との接触がない方がかえって起きやすい)、それを検証する。たとえばサトラレの研究 これとかなるほど単一事例法的だなあとか思った。
3章の池田喬氏のところで、客観性の問題をどう担保するかという問題について、科学的記述が主観的経験から乖離してしまっているという、まさにフッサール(「危機」) / ハイデガーの「生からの乖離」の問題であることを指摘していて、そうすると、意識研究で問題になっていることと同じであることもわかった。私のトーク的にはこのへんが接点に出来そうだ。
まだ分かっていないのは、石原氏が「半精神医学」(「反精神医学」ではなくて)と書いていたけど、実際に医療とべてるの家とがどういう関係にあるのかということ。べてるの家は反精神医学ではないのだから、参加者は薬は飲んでいるし、精神科にも通院しているはずだ。一方で、1章の年表を見ると「1988年 向谷地氏が浦河赤十字病院から出入り禁止」とか書いてある。そのような緊張関係は現在はどのようになっているのか。
もっと自分に近い問題として、ひとりの研究者として、当事者研究を読むとはどういうことか。3章ではそれは体験談集でもなければ、解釈するためのデータでもない、と釘が刺されている。じゃあどうすればよいか。3章では体験に寄り添って読みましょうってあるけどそれは方法論じゃあない。たぶん、寄り添って読んだ上で、なんらかの仮説を提出するのに寄与できたら、とかそんなことは考える。それを権威的でなく実践するにはどうすればよいか。
たまたま昨日「急性精神症状時の「サイケデリック」な経験」という論文を読んでいたけど、あれはまさに医師が体験談を集めたデータであった。しかし、この体験談はかならずしも当事者による構造化/理論化を欠いているわけではない。昨日書き写した部分なんかは、後から振り返っての当事者の考察ではあるものの、「気づきの亢進」が「妄想の形成」に先立っていることを描写していた。
そんなこんなで、今度の科学基礎論において、石原氏と熊谷氏がそういう方から当事者研究について話す場で、じゃあわたしは何を話せばいいかってことになる。ちなみに熊谷氏の5章を部分的に読んだけど、内部モデルと予測誤差の説にかなり依拠した議論をしていて、ここでも接点を見いだせそう。
トークに関して最大の問題は、動物実験について話すかどうかということ。それは私の研究者としての立場を明確に表明することになる。時間的にそこまで盛り込めるかって話もあるが、盲視の研究が「意識の研究」でありかつ「リハビリの研究」であるということ自体は科学の外でしゃべるからこそ強調したいことではある。
当事者研究的にアプローチからすれば、ヒト盲視での経験について体験談などをまとめるだけではやっぱ足んなさそうで、そこから盲視の主観的経験について何らか仮説が出せて、このようなやり方でそれを当事者研究的に研究できるのではないか、と提案するのはどうだろう?
トークのまとめの模範解答としては「神経現象学をちゃんと突き詰めると当事者研究になるよね」みたいなのかなあと思う。つまり「意識の研究をする側の問題意識として、現状ヘテロ現象学だけど、神経現象学を目指している人がいてあまりうまくいってない。今回の機会で当事者研究について知ったけど、もしかしたらこれが神経現象学を進めていくための方法論の一つとなるかもしれないし、翻っては、脳科学的な知見を当事者研究に役に立てるための道筋を作ることに寄与できるかもしれない」なんて感じでまとめることが出来るんじゃないだろうか。 なんかリップサービス臭いだろうか?
ここまで書いておいて「現象学的な心」合評会のスライドを見返してみる。あのときは35分くらいしゃべってトータル58枚。ぜんぜん時間が足りねえ。11/2のトークは25分程度となる予定。これにさらに盲視の主観経験を入れるならそれだけで時間が足りなくなる。うーむ、時間的には厳しいが、いったんスライドの構成をだいたい作り上げてから要旨書かないと無理だこりゃ。明日やることにした。
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- / 投稿日: 2013年10月07日
- / カテゴリー: [オートポイエーシスと神経現象学] [視覚的意識 (visual awareness)]
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