[月別過去ログ] 2012年07月
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■ 「野暮」でない方法なんてあんのかな?
フェンスを外す人 これ、いろんな広がりがあって面白い文章だ。「なんにでも理由があると思うと動けなくなる」という文句も付けられる。でもそれよりは「どうやってその理由を伝えつづけてゆくか」ということを考えるために使う方がよいと思う。
この話で出てくるチェスタトンのフェンスの話のソースを探してみた。"Don't ever take a fence down until you know the reason it was put up" というのが流通しているフレーズだ。
これはHeretics (1905)というのににあるらしい。 ということでグーテンベルグで原本見てみるとこのフレーズはない。
さらに探してやると、The Thing (1929)というのにもっと小話ふうに書かれていることがわかる。「フェンスを壊すな」はパラフレーズされて一人歩きしたフレーズであるらしい。リンクしたところではJFKだと書いてる。
内容を読むと、"In the matter of reforming things ..."というかんじで、 明確にreformersとtraditionalistとの間の話だってことが分かる。グーテンベルグだとThe Thingsの4章"THE DRIFT FROM DOMESTICITY"でアクセスできる。
JFKによるパラフレーズだということについてはWikiquoteにもあった。というかここを最初に見つけるべきだった。回り道をした。ソースははてブ
もひとつこの文のポイントは「粋」ってところで、つまり無粋な奴には分からないって言ってる。マニュアルでがちがちに固める「野暮」な方法はだれででもできると言う。
心情的には前者を応援するけど、実務的には後者じゃないと回らないってのも分かってる。でも、前者が成り立つ楽園を作りたいんだ。これが心の奥底に隠した、コミューンの夢、革命の夢。気の合うものと夜を徹して語ったりしながら思いついた、名前の付いていないことを、ガレージから始めるんだ。
いっぽうで、教育とは「誰にでも出来るようにする」ことを前提とした、本質的に野暮なものだ。 (教育は無粋なもの参照。)
じゃあ、逆に言えばさ、「誰にでも出来るようにする」ことを考えなければ、それは可能だろうか? 研究は「粋」であり続けられるだろうか? それとも科学そのものが本質的に野暮なものなのだろうか?
2012年07月16日
■ 上丘についていろいろ(3) motion energy周辺
一年くらい前にツイートしたことを再編集して掲載。
なんでblindsightでmotion刺激が有効なのかをちゃんと考えるとどうもわからない。MotionはLGN->MTでもよいように思う。上丘のomni-directionalなニューロンからPulv経由でMTの応答ができているとは考えにくい。
IBROでトークの後のWurtzを捕まえて(みんな粘って質問してた)話を聞いてみた。Wurtzが言ってたのは、Pulvから記録して、MT刺激でantidromicが出るやつ(MT->Pulvの入力があるやつ)は方向選択性があって、アンチがないやつは選択性がない。
これはBerman 2008のfig.4になっている。Wurtzはsaccadic suppressionについてはSC->Pulv->MTを強調しているので歯切れ悪そうにしてたけど、これだと方向の情報はMT->Pulvと来てそうだ。
あと、盲視との関連に関しては、SC->LGN->MTの可能性もあるよと言ってた。これはSchmid論文にも書いてあることだけれども(Wurtzが言い出したことかもしれない)、前の日に聞いたEd Callawayのトーク(Neuron論文)でtrans-synaptic labelを使った仕事では、MT<-Pulv<-SGS(layer3b)はあるけれども、MT<-LGN<-SGS(layer3a)はないという話を聞いたばかりだったので、その話をしたらWurtzは意外そうにしていた。このへんは論文に書く必要が出てきた。
でもって、そういう目でもうすこしmotion processingについて勉強してみようと思ったらまた広大な領域が開けてしまって途方に暮れる。つまり、Adelson and Bergenみたいなmotion energyによる説明とdisplacementとをちゃんと分けないといけない。あと1st order, 2nd orderとか、phi motionとreversed-phiとかいろいろ重要な知見がある。(このへんの論文読んでると西田さんの名前が頻出する。)
盲視のGY氏はmotion刺激は定位や検出はできるが、方向弁別の能力はそれと比べると著しく低い(Azzopardi 2000)。つまり、上丘のomnidirectional cellっぽい。
reversed-phiに関してはneurophysiologyだと、AlbrightのJNP2005がMTの応答を記録してる。Rodmanの仕事で、上丘を抑制してもMTの応答は抑制されないってのはあるので、SC->Pulv->MTがmotionの情報そのものは持っていない。
Wurtzのストーリーは、SGIのsaccadeコマンドがSGSに戻ってきて、それがPulv->MTときて、MT/MSTで見られるsaccadic suppressionを作っているというもの。SGI->SGSの流れに関しては伊佐研のMeeさんのJNS&PNASを援用している。だから、motionの情報そのものを持っている必要はない。
いま混乱しているところ。いろいろパーツを並べてみる。motion energy vs. displacementと同様な話なんだろうと思うのだけれども、Vision research 2000 Brown & He (PDF)とか。
あー、わからねえ、Reichardt Detectorみたいな時間遅れつき差分計算と、motion energyモデルみたいなspatiotemporal filterでやってることは等価か?というかMarr的な意味で説明のレベルが違うという理解でよいのか?
@ykamit ありがとうございます。Adelson and Bergen (1985)を読んでみたら、fig.18でこの議論がなされていて、Reichardt Detectorのうちのあるバージョンでは等価になるとのことでした。
@ykamit ありがとうございます。そもそもわたしはReichardt Detectorがもっと単純な足し算だと誤解してたので(dendriteへの入力のイメージ)、神谷さんの指摘で道が開けました。
Reversed-phiがmotion energyで説明できるってのはGeorge Matherのサイトを見て納得した。子どもたちもこれ見ておもしろがってる。さらにtwo-stroke versionというのがシンプルかつ効果的で驚く。こちらもmotion-energyで説明できるらしい:"A motion-energy model predicts the direction discrimination and MAE duration of two-stroke apparent motion at high and low retinal illuminance" (PDF)
やっと思い出した。つまり、スタート地点はなんだったかというとPaul AzzopardiのPNAS2011で、盲視のGY氏にmotion illusionを見せたら、feature-basedが消えてmotion energyに応答した。
だからじつはretinotectalでmotion energyやってるかもよ、っていうけっこう衝撃的な主張なのだけれども、共著のHoward S. Hockという人が使っているこのillusionの説明がさっぱりわからないので難儀していたのだった。
supplementaryもなければ、著者のサイトにもなにも置いてない。勘弁してほしい。JoVとかだとwebにquicktimeとか貼ってあったりしていろいろと捗る。
Current Biology論文にも出したように、盲視でもsaliencyは使えるのだけれども、それをひっくり返して、盲視ではsaliencyしか使えない、という作業仮説を立てている。たとえば、色パッチ(灰色背景での等輝度の赤)の定位はできるけれども、色パッチの弁別(等輝度、等saturationの赤と緑)はできない。
そうすると、motionでも同じようなことが期待できる。motion刺激のcontent(方向)はわからないけれども、motion刺激の定位はできる。つまり、saliency mapでピークができるようなものは処理できる。そうして調べていたらぶつかったのが、Li and SperlingのNature 1995で、saliency-basedなapparent motionというのがあって、これが3rd orderで、あと1st, 2nd orderがあるというもの。わっけわからん。
George Matherのサイトにmatlabコード付きでmotion energy modelの解説があった。これで勝つる。
Ittiのsaliency modelでのmotion channelはこのmotion energy modelを使っている。つまり前後のframeの値を使う。ではIttiのbayesian surpriseのほうはどうか。基本的におんなじdetectorを使っているはずなので時間差分のさらに差分を取るようなことをしていることになって具合が悪いはずだ。本人に聞いてもそんなにformalな解説が期待できないので(というか私が理解できない)、いつかコードを読むべきか。
Azzopardi PNAS2011の刺激を理解した。というか刺激そのものが図に書いてあった。あまりに単純すぎて誤解してた。長方形が伸び縮みするだけだった。伸びる方向に動いているように見える。しかし、伸びる部分の輝度を反転させると、motion energy的には逆向きに動く。
そしてGY氏の損傷視野でだけ、この刺激が逆向きに動いているように見える。だいたいわかった。
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- / 投稿日: 2012年07月16日
- / カテゴリー: [上丘、FEFと眼球運動]
- / Edit(管理者用)
2012年07月11日
■ 人生の伏線を回収しに行こうぜ
家に帰るなり次男に向かって「ごんぶと!」とCMっぽくダミ声で呼びかけてみたが、完全にスルーされた。そんな春の夕暮れ。
ポジティブフィードバックが効き過ぎて、焼き切れてしまったり、すり切れてしまったりしないようにするための、自然が僕の心と体に埋め込んだ安全装置としての物理的界面。
「健康な成年男子ならだれしも口まねでシンセサイザーの音作ったりするよね、ビニョーーーン、みたいなかんじで」ってツイートしようとして見返したら、「健康な」も「成年」も「男子」も迂闊な名詞だと思ったので消そうと思ったが、どっちにしろすべてどうでもよいことなのだ。(<-語尾が気になる)
機嫌がよいときは、夜中に県道を車で運転しながら、舞の海がアパマンショップCMで歌うときを真似て、低く太い声で「ぼんっちあっらっれ」って歌ったりする。
「断捨離」ってどういう意味だかまったく知らないのだが、なぜだか、団塊の世代が作務衣とか着て蕎麦打ってドヤ顔みたいなイメージが湧いてくる。これは共感覚だな。
次男が、中古車屋でもらったお菓子セットの中で、クッピーラムネはいらないのでくれるという。俺もいらねえ。
amPlug Cabinetが1900円で売ってたので買ってきた。amPlug専用かと思っていたら、マルチエフェクターとかでも使えるという情報があったので、pocket PODとつなげてみたら、ちゃんと動くことを確認した。これで花見にエレキを持って行けるぞ! ってかさばるので、エレクトリックウクレレ用に使う。(<-これ貼り付けただけ)
これで格段に自由度が上がったので、家にあるセミアコに繋いでやって、長男のアコギと一緒にスピッツを弾き語りして楽しむ。とりあえず長男が今ギター教室で教わっているチェリーと空も飛べるはずあたりから。
サリンジャーの"For Esmé – with Love and Squalor"のSqualor(汚辱)をどう訳すかという問題で、英語のニュアンスなんてわかりゃしないんだけど、試しにsqualorで画像検索してみたらゴミ屋敷系の画像がたくさん出てきたので、なんか分かった気がしてきた。
小説内でEsméは13歳、弟は5歳、ちょうど我が家の長男と次男の年齢に相当することに気づく。
長女がポテトスナックがあまりおいしくないのでくれるという。俺もいらねえと思ったが、ラボに持って行ったらけっきょく一日で食いきってしまった。
The Ballad of peter Pumpkinheadを聴いていたら、サビのところでColin Mouldingが優しいかんじで下にコーラス重ねているのに気づいて、なんだか泣きたくなった。
次男の耳元で「ごんぶと!」とか「カール・フランゾーニ!」とかダミ声で囁いてやったが、完全にスルーされた。しかたないので「だめよ!デイビッド!」と裏声で女装したオッサンっぽく唱えたら、その本あるよ、と教えてくれた。知ってる。なぜなら目の前の本棚にあったのを読んだだけだから。
人生の伏線を回収しに行こうぜ(<-なんかかっこいいこと言ったつもり)
2012年07月06日
■ 「確率論的世界と動力学系的世界」との相克?
「相関はダメで、因果を証明しなければならない」っていう議論についてだけど、けっきょく精度の問題ではないかという気がしてきた。天文学では星一個取り除いたりすることが出来るわけではないので、因果の実験ではなくて、その予測の精度によって厳密科学となっている。
相関ってのもけっきょくr=0.7みたいな相関だから文句を言われるのであって、もし相関がr=0.99999とかだったらそれは予測をしているのとけっきょく同じで、そこまでいけば厳密科学になる。
たぶんそういうことをデコーディングとかやっている人は考えているんではないだろうか。r=0.7をr=0.9にするのは工学的問題なんだろうと思うのだけど、r=0.9999にするにはどうすればいいか。なんかむちゃくちゃ正確なforward modelを作らないとそこはムリな気がする。
ちがうちがう、確率論的モデルを考えている限り、r=0.99999になることはありえなくて、動力学的モデルが出てこないとたぶんそこまでは行けない。池上さんが言ってた「厳密な数学」ってのはそのレベルのことだろうと思う。
地震が自己組織化臨界現象なのだとしたら、M9が起きる比率/M8が起きる比率 = M10が起きる比率/M9が起きる比率 というかんじで1000年に一度と言わず、10000年に一度の現象が起こりうる。だから、想定外はいくらでも起こりうるのであって、想定外をなくせなんて無理なのでは?
そういう意味では「ブラックスワン」なんてものはなくて、量が質に転換しただけであって、「ブラックスワン」を何か実体のあるもののように考えることはちと疑似科学に入ってるんだろう。もしM10の地震が起こったとしてもそれをブラックスワンと呼ぶ必要はない。社会科学の複雑さゆえか?
地震予知の不可能性の話はまさにロバート・ゲラー氏が唱えていることを知った(Nature asia翻訳記事)。そして、これもまた「確率論的世界と動力学系的世界」との相克なのだということに思い当たった。
確率論的世界では「次の30年以内にXXが起きる確率」以上のことは言えない。 そして、この構図は脳の計測と制御でも同じだ。短期間の制御と予測が出来たとして、その先は確率論的世界のものではないのだろう。かといって動力学系的世界のものと言えるわけではないが。
「海馬スライスでカオスを制御する」ってNature論文(PDF)が出たときはすげーと思ったが、あんまそこから先が進んだようすでもない。でも、その方向こそが制御と予測という側面からはファンダメンタルなものであるように思う。ちと忘れないようにしておく。
「確率論的世界と動力学系的世界」ってのは至る所にあるのだろう。疫学で統計モデルを作って病気の様々な要因について研究するのと、病気の要因間の相互作用を同時に計測しながらその時間的発展を研究する。
ん?これは正しいたとえだろうか?今の場合は前者から後者への自然な発展が想像できる。
いやいや同じか。脳も同時計測をしながらその時間的発展を研究することが出来ればかなり動力学系的な研究になる。いまはまだ疫学的なのだな。もちろん、疫学をおとしめているわけではない。
なにがファンダメンタルなことかって考えたりすることがあるけど、やっぱ「複雑系の中でどうやって制御を行うか」なんじゃないだろうか。神経科学、医療、政治、教育、どれでもローカルに擾乱を加えることはできるだろうけど、それによって揺り戻しが起こって、それを「構造的問題」とか呼んだりする。
成熟し、均衡状態になったシステムではどこでもこういう揺り戻しが見られる。なんにもないところに新しい土地を作る喜びってのは、そこはまだ均衡状態になっていないから、デザインしたとおりに物事が動く、そういう制御可能性の喜びなんだろう。それは革命思想。これが通常科学と科学革命の差異。
2012年07月03日
■ ASSC16@Brighton の準備しつつ音楽ネタ。
ASSC16の宿探しながら、「リーリ、ウォタルー、ピカディリー、ブルー」とか口ずさむ。(“Lily Waterloo, Piccadilly blue” by Caravan) もしくはWaterloo Sunsetとか。XTCのタワーズオブロンドンとか。
ドノバンは地名ネタたくさんある。”Hampstead Incident”とか”Sunny South Kensington”とか。”Museum”なんか「(ロンドン)自然史博物館のクジラの下で会いましょう」って歌詞だったり。てか「メローイエロー」がロンドン色を出しているのだな。
”Museum”の歌詞でshe looks cool in アストラカン って言ってるよな、と思って確認したら、合ってた。「あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき」のアストラカンだ。
こんどのASSC16@Brightonではぜひロンドンにも立ち寄ってWaterloo Sunsetを見てきたい。テムズ川を西に見るヒッキー。ちなみにWaterloo SunsetはもともとはLiverpool Sunsetだったらしい。(wikipedia)
この歌で出てくる「テリーとジュリー」は毎週金曜日にウォータルー駅で落ち合い、通勤客とは逆方向に(西へ)橋を渡り、彼らが安全で落ち着く場所(ソーホーとかの繁華街?)へと向かう。でも主人公は窓からウォータルーの夕日を見ていれば幸せなんだ、って歌詞なんだけど、「テリーとジュリー」は主人公の知り合いではないだろう。群像劇的に対比しているのかと思ったけど、あくまでも窓から外をのぞきながら語っている主人公からの視点だ。
Songmeaningかなんかで見たけど、だから解釈としては、主人公は金曜日に落ち合って遊びに行くカップルを「毎週」窓から眺めて、彼らに「テリーとジュリー」というあだ名を付けてその行方を目で追っていたのではないだろうか、というわけだ。ストーカーライクに聞こえるかもしれないけど、そうすれば「友達なんか要らない」「外を出歩きたくない」「夕日を見ていれば最高」というのをぜんぶ言葉通りに取る必要がないわけだ。
すくなくとも禅的境地でものを言ってるわけではないことは、こんなこと考えなくても明白だし。
追記。行ってきた。写真撮ってきた。でも、日没9時なのでそのまえに帰った。時差ボケで眠い。東岸はきれいなビルばかりで、ヒッキーが見下ろせる場所など無いのだった。だから、週末楽しそうにしている群衆の中でボッチで撮影した。ちょっとシンクロした。
再開発された浅草を思い起こさせた。隅田川を渡る東武電車が、チャリング・クロス駅に向かう電車で、それをウォータルー橋から見る。アサヒビールのUNKOビルディングの近くの雑居ビルから、浅草ロックの映画館へ向かうカップルをぼんやり見やる、そんなかんじ。
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