[月別過去ログ] 2007年10月

« 2007年09月 | 最新のページに戻る | 2007年11月 »

2007年10月29日

SFN2007が近づいてきました

SFN2007が近づいてきましたね。いつのまにかitinerary plannerのダウンロードページも出来てました。
で、ダウンロードして使ってみましたが、これがクソ遅い。立ち上げるとなんかえんえんデータ読みこんでるんですけど。なにこれ。全部のデータベース読み込んでるんでしょうか。アホか。いいからとりあえず検索画面出したり、saveしたitinerary読むとかそういうことしてからバックグラウンドでデータベース読み込むとかすればいいのに。この世界にはフリーのキラーアプリとかないんですかね。
以前学会のオンライン登録システムでフリーなやつとかを探したことがあったんですが、どの学会でも同じようなことやってるのになんとかならないのかなと思います。
ぱらぱらアブスト見てますが、皆さんいろいろ進展しているなあ、と感慨深い。わたしもこうしちゃいられません。
ちなみにわたしは6日の午前に発表です。Slideにチャレンジで前々回(2005年)のリベンジ。ていうかけっきょく英語勉強してきませんでした。だんだん焦ってきました。内容自体は神経科学大会と同じだけど、まだいろいろ改良できるところがあるのでギリギリまでいじることになるんだろうなあ(他人面して)。
San Diegoへは4日午後に到着、その晩は神経科学者SNSのオフ会。次の日5日の昼も向こうの共同研究者と会って議論。夜は前ラボの飲み会に行くか、いま画策している別系統で行動か。次の日6日の午前に発表が済めばやっと一息、でも次の日7日の早朝にSan Diego出発。いつも通り強行スケジュールですが、在米の方やご無沙汰している方とお会いできるのを楽しみにしております。


2007年10月26日

MindPapers

David Chalmersのサイトにオンラインで読めるconsciousness関連の論文のリストというのがあったんですけど、それがexpandした形で"MindPapers"というサイトになった、というのがASSCのMLで流れてきました。
"What is it Like?"の項目だけで論文が35個あったりするともう気が遠くなってしまいます。俺たちは上り始める。 長い、長い坂道を、って調子で上ってるとこのまま人生が終わってしまいそうなので、自分ができることを何とかやっていきます。
……この一生で「カラマーゾフの兄弟」は読めないかもしれない。「知覚の現象学」や「物質と記憶」は読んでおきたい。「存在と時間」にはたどり着けないかも。とか考えたりします。いかんいかん。
ではまた。


2007年10月25日

研究会アンケート中間発表

研究会に参加された方にアンケートをお願いしているところですが、結果の中間発表が出てます。(というか自分が作ったんだけどここはひとごとっぽく。)
研究会に参加された方でまだお済みでない方はぜひご記入ねがいます。アンケートページはこちらです。


2007年10月24日

Vocaloid2と不気味の谷、そこからリアリティーの研究へ。

Vocaloid2ですが、けっきょくそのあとやっとこさ届きまして、ぽちぽちいじってます。ネット世界ではその間にさまざまな話題がすぎてゆきましたが、それはほぼスルーで。黙って自作曲作るべし、ということで。
でもひとつメモっておきたくなったのが、「不気味の谷」の概念との関連について。
「不気味の谷」wikipedia日本語版英語版
The "Uncanny Valley" Masahiro Mori(原著の英訳)
3Dに関しては、リアルな造形のアンドロイドが不気味に見えるという例で、阪大石黒研のアンドロイドの例がいちばんわかりやすいですね。「不気味の谷」の概念が正しいかは別としても、これは怖い。ついでにGIZMODOのムービー。
2Dに関しては、CGでリアルに造形した顔が怖いというやつで、WIREDの記事とか。
けっきょく人間の認知として、顔の認知はとても感度が高い(つまり、顔に関する微妙な違いに気付く能力は他のもの、鳥とかテレビとかの弁別と比べてものすごく高い)ので、なんらかの不自然さを読み取ってしまうのだと思います。それはいったいなにか。このへんは脳科学が出来ることがあるんではないかと思うんです。顔認知に関する議論はここでもいくつか扱いました。(ざっくり考えればモーフィングで刺激作って現象が定量的に再現できればいいわけですが、要は完全にリアルになる手前に安定なポイントがあるということに意義があると思うんです。)(つーか、wikipedia英語版の方を見ると論文ありますね。あくまでrobotics側からのものみたいですけど。)
たぶん声の認知に関しても、視覚的な顔の認知と似たようなことが起こっていると考えられます。だから、vocaloid2について不気味の谷のことを考える意義があって、いま多くの人がそのことに気付いています。
CNET blog
注文の多い古書店
たろの日記ページ
END_OF_SCAN
「セキュリティ&コンサドーレ札幌」(vocaloidの話ではないけど、「手前の山」に言及してます)
んで、「キャラクター性を抽出した、ある抽象度の、表現のレベル」(あるキーワードを回避するためまわりくどい)によってその谷の手前の山が大きくなっているということなんではないか、というわけです。これってもしかしたらそういうキャラクター性を取り扱う糸口になるんではないか、脳科学として可能なことがあるんではないかと思っているのです。これが将来のネタのひとつになるんではないかとけっこうまじめに考えてます。以前から冗談めかして吹聴してますけど(20051115のエントリとか)、どのようにしてキャラクター性が生まれるのか、ということは意識研究と繋がってくるはずです。
つまり、意識の研究は「何を見ていると思っているのかについて、どう信憑性を確保しているのか」という側面からアプローチすることによって「リアリティー」の問題に繋がると考えています。つまり、たんなる受け身のvision (こっちはventral pathwayが主役)では、意識経験を外界によるものと幻覚とを区別することはできない。それらを区別するためにはverificationの可能性を持っているかどうかが重要であり、そこにsensorimotor contingency(こっちはdorsal pathwayが主役)が関わってくる、というのが現在のアイデアです。ある物体に実際に触れて確かめなくても良いのだけれど、確かめる手段を持っていること、つまりその可能性を持っているかどうか、が意識経験とリアリティーに重要であるだろうと考えています。夢は意識経験か、とか桶の中の脳問題とか、開眼手術後の視覚とかはこのラインで考えられないかと思うんです。(こういう重要なことをこういうエントリに差し込んでみる。)
元の話の方をもう少し展開させますね。顔認知においてこのような不気味の谷がある一方で、biological motionの研究からもわかるように、われわれは単なる点の動きからでも人間や生き物の動きを読み取ることが出来ます。ここは面白い対照だと思います。これはけっして矛盾ではないと思います。つまり、たぶんどっかで図と地の関係が反転するのですな。人間ぽい要素の方が大きくなってきてそっちが地になって、そのなかに混じったロボっぽさが図となって目立つときに気味悪さが出てくる。音声に関しても、以前のボコーダー的な発声の場合はロボっぽさが地だったと思うけど、vocaloid2は人間っぽさが地になって、調整が下手だと出てくるロボっぽさが図になり、気味悪さが出てるのだけど、キャラクター性によって補われている。そのようなキャラクター性による補完ができない人が、「ぜんぜん人間らしいと思えない」と言ってる、ってのが現在の状況なんではないかと思うんですけど(スルーできてないし)。
たしかにここにキャラクターが介在していなかったら、けっこう気味悪かったかもしれません。んで、これはいったい手前の山が高くなったということなのか、それとも谷を乗り越えたのか、ってのがひとつの論点です。たしかに、顔認知の類推でいけば、谷の手前としか思えない。でも、これから音声合成の技術が上がってさらにリアルなものができたときに気味悪さが生まれるかというとそうとも思えない。谷を乗り越えられる人と乗り越えられない人がいるように思います。わたしは乗り越えちゃいました。
ちなみに、実際に使ってみればとそれなりにわかるもんなのですが、歌詞を入れないで「アー」だけで旋律を作るとロボまる出しなんです。日本語を入れるとそれが一挙に人間らしくなります。この過程は面白い。さらにロボっぽさを消すために細かくいろいろ設定する必要があるのですが、わたしはそちらにはこだわらずに使用しております。
たぶん、将来的には音声合成のレベルはもっと上がる(もっと平板さが少なくなるとか)のだろうけど、それは製作過程でロボっぽさが消えるのと、細かい調整の手間が減るという方向であって、本質的にはそんなに変わらないんじゃないか、そんなふうに予想してます。つまり、ボコーダー的な使用法からいまのvocaloid2での使用法というところ(上記の図と地の反転)がやっぱりいちばん大きかったんではないかと思うのです。ちなみに図と地の反転がこの不気味の谷間とは別もんであるだろうことは、2D,3Dでの顔の造形について考えれば明らかです。不気味の谷自体は図と地の反転が起こってからの現象であるとは言えるでしょうけど。
ではまた。
(ちなみにこの商品名を一回も書いていないのは、検索でひっかかんないようにということと字面のバランスを取るためです。回りくどいエントリでした。)
12/19追記:稲葉振一郎氏のエントリでも関連した話をしているのを発見。


2007年10月19日

次回の研究会の形式について考えてみる。

研究会に参加されたみなさまにはさきほど研究会へのご意見、ご要望のアンケートをお願いしました。ぜひご協力をお願いします。研究会のサイトはこちら。今年の研究会の反省などを踏まえて、次回どういう形式にしていったらいいか、どういう運営法にしていったらいいかを考えております。直メールでもけっこう、こちらのブログに書き込みでもけっこうです。ご意見おまちしております。

さて、次回の研究会の形式について考えてみます。今年の研究会、いろんなひとから多くの質問が出て、なかなか良かったと思うんですけど、まだ食い足りなかったと思うんです。今回の研究会を学会とラボセミナーとのあいだに位置づけるなら、かなりラボセミナーに近いような位置にあったんではないかと思います。それゆえに肩肘の張らないかんじで質問できたと思うんですけど、トークの内容そのものをclarifyするだけでなく、もうすこし話を展開するような方向へ議論を持って行けたらいいんではないか、なんてことを考えているのです。

私個人の印象だけで言っても、発表内容からちょっと離れてでももっと話を展開したかったんです。このへんは意見分かれるでしょうけど、個人的には、ということで具体的に二日目のセッションについて書いてみますね。

中原さんの話でしたら、basal gangliaはMarrの計算論のレベルではなにをやってるんだろうか、みたいなことを議論してみたかったと思います。(「basal gangliaでやってることはほんとうに強化学習だろうか」みたいな質問がありましたが、 あそこがもっとexpandできたらよかったと思います。 Vision以外の事象を扱うときに計算論の人がMarr的な考えについてどう考えてるか興味があるのです。イントロで多少話がありましたけど、計算論の人がどういうこと考えているかということに興味があります。

春野さんの話でしたら、fMRIでの仕事がどう理論的モデルと関わってくるのか、実験事実の背景にどういうものをイメージしているのか、みたいな話を聞きたかったと思います。

筒井さんの話でしたら、筒井さんのストーリーがいわゆる神経経済学的な強化学習をベースにした話よりは「ドーパミンは気持ちいいのか」という問題設定が出てきたところからしても、「emotionとrewardとmotivationと快感」のほうを志向しているんではないか、ということについてもっと詳しく知りたかったです。

渡邊さんの話でしたら、postdictionというのが意志決定だけにかぎらず知覚、運動まで含んだ人間のmental lifeすべてにあてはまるようなものかもしれない、というポイントについて知りたかったし、神経経済学的ないわゆる意志決定とあの話がどういう関係にあるかとかをもっと詰めて聞いてみたかったと思うんです。

このへんのことが充分聞けなかったのは私が二日酔いだったから、というのが最大の理由orzなんですが、要は、もっと発表された仕事の先(future direction)とか手前(working hypothesisとかbasic assumption)とかの話ができたらいいのに、と考えているんです。もちろん、宴会でそういう話ができたら最高なんですけどね。研究会自体がもっとフリートークっぽくなってもいいんじゃないかと思うんです。

ではどうやったらそういう話にまで展開できるんだろう。ひとつのアイデアは、もっと一人一人の話をexpandする、というものです。

今回みたいなかんじで口演をしてもらって、座長に二人ついてもらって、途中質問有りにするんですが、講演の最後に「まだ解けてない問題」として論点を提示してもらうのです。Trends in cognitive sciencesとかTrends in Neuroscienceとかで"outstanding questions"というBOXがありますが、あれと同じようなものを各演者に作ってもらって、問題提起をしてもらう。あるていど答えのない問題を作ってもらったほうが盛り上がると思うのですが、それについて座長と一緒になって議論したらいいんじゃないかと思っているのです。そうなるとたぶん1人90分くらいは必要かなと思うのですが、一日目の演者を3人、二日目の演者を2人くらいにすれば可能なんではないかと思っています。時間に関してはオーディエンスがだれずに済むかどうかによるバランスであると思いますが。

この考えだと一人当たりの話がとても長くなって演者の負担が大きくて大変そうですし、聞いている側も疲れてしまうかなとも思うので、正直改良の余地があるかな、と思います。

もうひとつのアイデアとしては演者間のinteractionを作るようにする、というものです。これまでに以下のような意見を寄せていただいております。(許可を得て転載)

僕が「パネルディスカッション」と言ったのは、次のようなことをイメージしていました。
もうかれこれ2、3年前だったと思うんですが、沖縄でやった研究会で、…(中略)… そういう研究会のなかで、時間が余ったから、いろんな企画を即席でやってました。そのうちのひとつが、若手放談会みたいな感じで、発表も何もなしに、3人の若手、John O'Doherty と、Sugrue と、それから、誰だったか忘れましたが、が壇上に上がって、John が主導だったと思うんですが、最近のトピックスについていろいろ話し初めて、会場からも、いろいろ質問がとんで、これが非常に面白かったです。もう一つは、強化理論について、Barto について何でも突っ込もう会、みたいなやつで、彼が延々と1時間くらいいろんな人の質問にいろいろ答えていきました。これもたいへん面白かった。
日本人には、これほど即席の企画力がないと思うので、(これって、本当にふだんから毎日セミナー室でお茶を飲みながらどれだけ議論をしているかということを反映していると思います)、そんな感じでやるとおそらく失敗すると思うのですが、次のようなものはどうでしょう。
たとえば、3時間くらいの枠で、3人のスピーカーを選びます。まずは30分ずつ話をさせて、そのあと、スピーカー同士で壇上でいろいろ議論してもらう。そこで30分くらいやったあと、今度は会場からの質問を受け付けながら、話題を展開していくというものです。一応、議論の方向性をある程度ガイドする人が必要でしょうから、3人のスピーカーのだれかがその役をやるか、あるいは、最初から座長を設けておいてもいいかもしれません。流れによって、ある話題を深く追求したり、また、それだけでは疲れるから、こんどは会場から素朴な疑問を出してもらって、それが鋭いところをついているようだったら、またその方向で掘り下げていく、という感じで。

この「若手放談会」、はげしくいいなあ、と思うんです。かなりあこがれます。たしかに蓄積がないとすぐにできるってもんでもなさそうですが、このくらいフリーなかんじでもぜんぜんいける、研究会として成立するって思うんですよ。

後半で提出していただいたアイデアについて具体的に今年の講演でイメージしてみましょう。たとえば、鈴木さん、熊田さん、小川さんの三人で話をしてもらって、「トップダウン性、ボトムアップ性の注意が どういう回路をつかっているのか」みたいなことをテーマにして議論していただくのは可能だと思うんです。熊田さんと鈴木さんのあいだでは、fronto-paeiralの二つのpathway について話が共有できそうですし、小川さんと熊田さんのあいだでは、top-downとbottom-upの統合 について話が共有できそうです。このような形式でいけるんではないかと思います。

それなりに複数の人に連携を取って話をしてもらうことになるので、前準備をして、ある程度目的意識を共有してもらってから本番に臨む、という形になるようです。あるていど気心知れた人と組むのがうまくいく秘訣でしょうか。私が上で書いていたものはかなり研究会寄りのスタイルですが、このアイデアは学会のシンポジウムをよりフリーなスタイルにしたかんじで展開できるかもしれません。

今年のやり方と形式を近づけるならば、それぞれの30分の講演と30分の質問をおこなって、3人終了したところで共通する論点を出して総合討議(60分)、みたいなふうにするとやりやすいかもしれません。ひとつのテーマで4時間、二日で2テーマ、合計6人と指定討論者12人、このくらいがいい案配なかんじがします。(一日目は3人でひとテーマ、二日目は2人でひとテーマくらいにするとさらによさげ。) 学会のシンポジウムでこれをやると総合討議の時間がたんに個々の発表への補足質問に終始したりしがちですので、それなりに座長の方の誘導なども必要になりますが、形式的には比較的みんな理解しやすいのではないかと思います。演者の方の選択はなかなか難しそうですし、話していただくことにいろいろ縛りを付けることになるので演者の方に協力していただかないとなかなか大変そうですが。

なんてことを今は考えています。ここで書いたような考え方が良い方向かどうかはまだよくわかりません。せっかく第一回目で形式を整えたのだから、次も同じやり方で、運営のやり方だけもっとよくして、継続する方向の方がいいのでは、という気持ちもあります。ぜひ、みなさまのアイデアもお寄せいただけたらと思います。このブログへでもけっこう、アンケートの方に記入してくださってもけっこうですし、私への直メールも歓迎します。ご意見お待ちしております。


2007年10月13日

研究会無事終了しました

おかげさまで研究会の方は無事終了しました。予定していたことに関してはすべて行うことが出来ました。なんつーか、熱く議論する場を作る、ということには成功したのではないでしょうか。いろいろトラブルもありましたが、次回はいろいろ改善していきたいと思います。おおまかに時系列順に列挙していきます。
まず、初日の受付から。多くの方に来ていただきました。登録の連絡をいただいた方で74人、名簿に名前をいただいた方で101人となりました。第一回ということもあって宣伝が充分ではなかろうという予想で50人くらいの会を想像して場所を取っていたのですが、うれしい誤算です。会場が狭くて参加者のみなさまにはご迷惑をおかけしましたことをお詫びします。会場の方は机を取っ払って狭いところになんとか入ってもらったり、口演終了ごとに換気をしたりとか、不便なところをなんとか聞いてもらうという状態でした。今回一番の問題だったのではないかと思います。ただ、あんま広いところで閑散とした状態でやるよりは、研究会としては熱気が出るという面もあり、次に研究会を行うとしたら会場えらびをどうするかは考えどころです。(もっと広い会場も利用可能です。) ともあれ、今年よりはよい環境を準備したいと思います。
比較的若い方に多く来ていただきました。大学院生からポスドクくらいでそれぞれにすでに仕事が進んでいる、というかんじの方がボリュームゾーンではなかったでしょうか。わたしなどはどちらかというと年長者の方に入るんではないかというくらいのかんじです。これはもくろみ通りでした。いかにそういう層にリーチするか、宣伝が難しかったのですが、神経科学ニュースやニューロメールへの宣伝、それから講演者、指定討論者、国内のいろんなラボの方にメールを送って宣伝をお願いしました。飲み会でこのへんのことも話題になりましたが、ASCONEではポスターを作成して早めの時期に配る、というのが有効だったとのことでした。これは次回やるべきかなと思いました。日程と演者が決まったあたりで。あと、宣伝という意味ではこのブログもそれなりに寄与したのではないでしょうか。
議論を重視する、という形式は実現できたのではないでしょうか。さいしょに小川さんに研究会のコンセプトの説明、ということでスライド作ってもらいました。1) 演者から口演、2) 会場から「いっちょもんだろか」、3) 演者から「やれるもんならやってみい」みたいな調子で。来年もこのスライド使わせてください、なんて。
今回は山形大の鈴木匡子さんにスターターをお願いしたのですが、これがドンピシャきまりました。高次脳機能障害の患者さんの症例に基づいた注意に関する研究の話だったのですが、途中でバンバン質問が出まくって、演者の方にもそれをバンバン捌きまくってもらって、いいかんじに熱く双方向的なやりとりが生まれたと思います。参加している多くの方が生理学がバックグラウンドなので、患者さんの話についてはみんな素人的に質問することになるので、知る喜びと驚きとを持ちながら話を聞けたのではないでしょうか。だんだん眼球運動の寄与について話が収束してくるあたりとかもいいかんじに掘り下げて行けてたと思います。本当は同時失認と半側空間無視の両方について話すことを考えられていたそうですが、時間のことを考慮して(35分口演、20分質問という形式)同時失認だけに絞っていただきました。マテリアルの分量としてちょうどよかったのではないでしょうか。わたし自身の興味としては同時失認などのバリント症候群と半側空間無視とが注意の違った側面を表しているということから、注意とはなにかについて議論できるんではないか、なんてことを期待していたので残念だったのですが、そこまで行こうとしたら2時間は必要ですしね。
ともあれ最初の口演で、どんなかんじで進めていけばいいのか、演者、座長、オーディエンスのあいだでコンセンサスが得られたかんじがあって、熱い空気を持続しながらいけたのではないかと思います。あらかじめ演者の方には、「途中で質問有り」の形式でお願いしたいということで了解をいただけたので、こういう形式が可能になりました。感謝しております。来年もぜひこんなかんじで。
生理学者のトークのときにはなかなかつっこんだところまで話が進んで、これもよかったです。ハイライトとしては、小川さんの口演のときにみんなTirin Mooreの話を踏まえた上で議論が進む、という場面がありました。こういうメンバーならそう来なくっちゃ、というわけでこれも満足。こればっかりでも、オーディエンスが置いてけぼりになる可能性があるので、バランスが重要なのですが。
マイクのトラブルがあったり、たて長の部屋だったので後ろの方が質問が聞きにくい、とかいくつか問題がありました。気軽に質問しやすい環境を作るという意味でも、このへんは改善すべき点です。
予定から1時間遅れでポスターセッションへ。ポスターセッションの方は17人の方に応募してもらって、一部屋と廊下を使用して、1時間。時間の方は足りましたでしょうか? そのままその場で懇親会というのはなかなかうまくいったのではないかと思いました。そのまま語る雰囲気を持ち越すことが出来たという意味で。移動すると話がとぎれてしまいがちだと思うんです。飲みながらポスター説明している、というのはあまり見られませんでしたが。
懇親会には57人の方に参加していただきました。研究会の運営役としていちばん気を遣ったのは懇親会についてでした。直前の一週間はサイエンスよりも懇親会の予算の方が気になるってくらい。若い人が多い研究会ですから、いちばん危惧したのは始まって30分ですべての食べ物が食い尽くされてしまうというパターンです。直前にピザを注文したり、ビールの本数を増量したりして臨んだのですが、意外なことにみんな語り続けて、ぜんぜん食べ物が減らない。若いといっても、トレーニングコースのように大学生が大半というかんじではないからでしょうか。7時15分から9時まででいったん中締め、そのまま語り続けて10時で撤収。ほっとけばみんな夜中までそこで話してそうな雰囲気でしたが、片付けをしなくてはならないので。
食べ物と酒と人間がそのままラボのお茶部屋に移動してさらに話が続く。終了1時半。そこからさらにカラオケ屋に行って4時まで。わたしはアジカンとか木村カエラとか絶唱。なぜかw70-80年代縛りみたいになって、わたしもオフコースの「さよなら」とか肩組んで歌いました。ってか肩組んで歌う歌じゃないでしょそれ。「心の旅」とか「あの素晴らしい愛をもう一度」とかも歌声喫茶状態で。のど潰れた。二日目の演者の方も参加されていたんですけど、4時に解散してからそのあと1時間くらい話し込んでたそうです。酒豪すぎ。(「すごすぎ」とかけている。)
二日目は皆さんちょっとお疲れ気味だったでしょうか。っつーか、わたしは半日二日酔いで、調子が出てませんでした。酒もほどほどに、もしくはこういうときはタフさが必要ということで。
春野さんが口演のときにわたしが作成した講演者の参考文献のところに言及してくださいました。論文読んでないのがバレバレ。超冷や汗。
予定から45分遅れで終了。ご飯無しで2時ちかくまで延びてしまいました。このへんはプログラムを組む上でもっとうまくやれるところでした。皆さまほんとうにお疲れさまでした。
議論重視という、研究会として目的としているところが参加者の方にも共有してもらえたのではないかと思います。このへんをうまく継承しながらつぎに繋げていきたいと思います。研究会自体は毎年申請して承認されないと開催できないので、100%の確証を持って次回開催の予告をすることはできないのですが。
今回は提案代表者が小川さん、所内対応教官が伊佐教授、わたしが世話人という形で行いましたが、次回の研究会は理研の松元健二さんと一緒に行う予定になっています。ぜひ次回も多くの方のご参加と熱い議論を期待しております。
次回の研究会について、いくつかアイデアを練ってます。これについては次のエントリで。ぜひ皆さまのご意見もそちらに寄せていただければ。


2007年10月10日

意志決定の曖昧さ6(最終回)

さて、研究会予習シリーズもいよいよこれが最終回。東大先端研の渡邊克巳さんの最新の論文を読みます。

Watanabe, K. (in press) "Behavioral speed contagion: Automatic modulation of movement timing by observation of body movements." Cognition.

これまで紹介した論文よりは知覚寄りと言えるでしょう。視覚運動変換ですが。この論文では、行動のテンポというものは伝染る」(contagiousの訳として考えてみました)ということを示そうとしています。たとえば、「東京やニューヨークに在住の人はしゃべるのが速い、なぜならば忙しい環境の中で生活しているからだ」というのは本当か、ということです。

このことを示すために、注意課題とかプライミング課題とかみたいに、ある刺激を与えて、遅延時間のあとで中心窩での反応潜時課題を行います。注視点の十字の左右どちらかの枝がdimするので、どっちがdimしたかをなるたけ速く報告します。

それで、行動のテンポの変化を誘発する刺激としては、biological motionを使ってます。人間の動きのもの、コントロールとしてスクランブルしたもの、四角形が動いているように見えるものの三種類があって、さらにこれが動く周期を12.5Hz, 25Hz, 50Hzと変えています(提示時間は揃えてある)。バイオロジカルモーションのときだけ、誘発刺激の動きが速いと反応潜時が短くなる。しかもこの効果は遅延時間(SOA)が短いときだけ起こるのです。ということはvoluntaryな要素によるというよりはautomaticな効果であるわけです。

関連する論文としてあげられているのが、他者の行動を見ながら行動するときに、自分の行う行動と他者の行動とが同じタイプか違うタイプかによって、自分の行動が影響を受ける、というものです。いくつか上げられてましたが、たとえば、Current Biology Volume 13, Issue 6, 18 March 2003, Pages 522-525 "An Interference Effect of Observed Biological Movement on Action" J. M. Kilner, Y. Paulignan and S. J. Blakemoreでは、他人が腕を縦に振るか、横に振るか、を見ながら自分の腕を振ります。同じく上下に振っているときと比べて、他人が左右、自分が上下のときのほうが軌道がばらつく。しかも面白いのは他人の代わりにロボットが腕を動かしているのを見たときにはこういう効果はない。

ともあれ、こういった他者の行動を観察したことによる影響、という話はミラーニューロン関連でいろいろ行われているけれども、今回のように行動のテンポに着目したのははじめてである、というのがこのCognition論文の売りです。また、自分の行動と見ている行動とが無関係であるにもかかわらずこういう効果が出るというところが驚きであり、実際の人の動きではなく、それを抽象化したバイオロジカルモーションで効果を見ているという点でよくコントロールされています。そういう意味ではこれまでの行動観察による影響とは違ったクラスの影響であると考えたほうが良さそうです。

印象ですけど、速いスピードのgratingとか見ても、潜時が短くなったりしないもんですかね。今回の枠組みでは、四角形が動いているという条件では効果がないということで否定できているのですが。

それから、discussionでは、メカニズム的な説明として、movement observationのときにM1のbeta rhythmのmodilationが起こるという知見を引いてきて、もしかしたらこれによってM1のthresholdがmodulateされているのかもしれない、ということを書いています。

あと、最後のパラグラフでは、「老人を想起させるような語を心理テストの中にこっそり入れておくと(被験者は気づいてない)、テスト後の行動がゆっくりになる」という論文を引いています(J Pers Soc Psychol. 1996 Aug;71(2):230-44. "Automaticity of social behavior: direct effects of trait construct and stereotype-activation on action." Bargh JA, Chen M, Burrows L.)。これはたしかMalcolm Gladwellの"Blink"でも大フィーチャーされていたと思いますが、我々の行動もautomaticityを示す例として強烈な印象を与える話です。今回のCognition論文は行動に無関係な刺激が我々の行動に大きく影響を及ぼすということを、行動のテンポ、という側面から見た論文であると言えます。

さて、以上で予習は終了です。みなさまと研究会でお会いできることを楽しみにしております。それでは。


2007年10月09日

意志決定の曖昧さ5

東大先端研の渡邊克巳さんの講演の予習。今回は"deliberation-without-attention effect"について。

Dijksterhuis, A., Bos, M. W., Nordgren, L. F., van Baaren, R. B. (2006). "On making the right choice: The deliberation-without-attention effect." Science, 311, 1005-1007.

「意志決定に対して意識的に熟考することがほんとうに重要なのか」という問題提起がある論文ですので、今回の話の参考資料としてあげられているのでしょう。

論文の内容の方はググると日本語のレジメが見つかりますんでそちらをどうぞ。話としては、「単純な要因での選択においては、意識的思考を行うことはよりよい結果を生む。一方で、複雑な要因が絡む選択においては、無意識的思考に任せておいた方がよい」ということを示した、という話です。このような説について著者らはdeliberation-without-attention説と呼んでいます。実験結果を聞かなくてもすでに話的にはなんかもっともらしい気がします。考えすぎはいけない。直感を大切に、というわけです。将棋の羽生さんの「決断力」なんかでもそういう話がありました。

(ところで理研で発表された、「将棋における直感的思考」の計画ですが、あれ、けっこういいんではないかと思ってます。セカンドライフはどうでもいいんだけど。MalachのScience 2004論文とかであったように、あるイベント(映画見せたり、将棋の対戦したり)のあいだの脳の活動はざっと記録しておいて、あとからそのイベントの中で起こったことで脳の活動をalignして関係するところを見つける、というわけです。ポイントは、棋士はそういう思考のプロなので、ずっと考えているけどいい手が見つからないとか、うまいことひらめいたとか、定跡どおりに打っているだけとか、そういうことを感想戦としてretrospectiveに述べることができる。この情報を使って脳内の活動との相関を見てやることができるわけです。禅僧からfMRIとかも相手はそういうののプロなのだから、現象的に起こったイベントの詳細な記述をretrospectiveに行ってそれの脳の活動を関連づければすこしはneurophenomenologyと言えるようになるのではないかと思うのですけど。) はやくも脱線。

実験は大きく分けて二つあります。まずはじめの方から。ある仮想的な車4種類についての情報(「車Aはトランクが大きい」とか)をいくつか聞いて、いちばんよいと思う車を選ばなくてはいけない。情報の数が少ない(4つの属性)ときは、考える時間を与えたほうがよりよい車を選んだ。情報の数が多い(12つの属性)ときは、考える時間がすくない(妨害課題としてべつの心理テストをやってる)ほうがよりよい車を選んだ。これが結果です。

さて問題はこの「よりよい車」がどう良いかですが、与える文章の段階で決まってます。4種類の車について最大12種類の属性を記述する文が読み上げられます。Supplementary informationにその文章がありますので、それを表にまとめてみました。

車の名前
Hatsdun Kaiwa Dasuka Nabusi
属性 mileage good good poor poor
handling good poor good poor
trunk large large small small
available colors many many very few many
service excellent excellent poor poor
legroom poor plenty little plenty
to shift gears difficult easy easy difficult
cupholders yes no yes no
sunroof yes no yes yes
for the environment relatively good fairly good not very good not very good
sound system poor poor good poor
new very new old new old

良いところには1点、悪いところには0点を付けて各車に点数を付けると、
Hatsdun 9点
Kaiwa 7点
Dasuka 6点
Nabusi 3点
となります。こうするといちばんいい車はHatsdunです。サンルーフがあるかないかと、サービスがいいかどうかは等価にはできないと思いますが、ここではそういうことはあまり気にしてない様子。(ところで車のネーミングがなんか日本車っぽいんですけど。HatsdunなんかDatsunでしょ。)

12個全部の属性を与えたときには、熟考時間があった人は25%くらいしかいちばんいい車を選べなかったけど、熟考時間を減らした方がかえって、半分近くのひとがいちばんいい車を選んでる。4個の属性を与えたときには妨害課題のあるなしによって選択率は変わらず、50%程度。以下のところが気になるけど、ともあれ効果は明白で、面白いです。

結果のalternativeな説明を考えてみましたが、妨害課題によって属性に関する短期記憶が影響されるのだけれど、そのときに影響を受けやすいのが、positveな属性かもしくはnegativeな属性かに偏ってたりするとこんな結果が生まれそうな気がします。属性4個のときには容量が少ないので短期記憶は影響を受けない、だから妨害課題があるかないかの影響をほとんど受けない、これも意味が通ります。

ようするに、熟考時間の問題なのか、短期記憶の問題なのかというのがこの実験の解釈の論点になるんではないかというわけです。どういう根拠でその車を選んだのか、おぼえてる属性とかを使って被験者に説明させておけば、そのデータが利用できたんではないかと思うんだけど。(そうすると、これまでコメントしてきたScience 2005論文とも関係してきますね。)

さて、論文の後半はもう一つの実験です。IKEA(家具とか大物を売ってる)で買い物した人と、Bijenkorf(衣類とか小物を売ってる、アメリカでいうところのメイシーズMacy'sみたいな存在だそうな)で買い物した人とが買い物をして出てきたところで、インタビューをする。なにを買ったか、いくらだったか、どのくらい買うのを決断するまで時間を使ったか。数週間あとでまたインタビューする。買った物に満足していますか。

結果は、IKEAで買い物した人は、購入に際して熟慮した人のほうが満足してない。Bijenkorfで買い物した人は、購入に際して熟慮した人のほうが満足してる、というものです。IKEAかBijenkorfかの違いは、選択をするにあたっての製品の複雑度を反映しており、よって前半の実験と同じことが日常生活の実際的な場面にかなり近いところでも再現された。だから、deliberation-without -attention effectは支持された、というわけです。

さて、社会心理学のおさらいをした私たちにとって、こっちの実験は明白に問題があることに気づくと思います。つまり、前半の実験では「良い製品」とは実験者によって決められたものでした。しかし、後半の実験では「良い製品」とは購入した人による評価で決まるものでした。しかし、認知不協和理論を見てきてわかったように、われわれが自分が行った行動選択に対する評価というものは認知的要因によって影響を受けるのでした。もし、たくさん調べてから物を買った場合と、直感で同じ物を買った場合とで、(仮想的な)客観的な価値が同じだったとしても、あらかじめ労力をかけて選んだことによって、元々の評価よりも高くなければ釣り合わない、というような認知不協和を持つ。そうすれば自分の行った行動の評価を下げることによってこの不協和を解消するということで説明できる。Bijenkorfでの買い物はそんなに高価な出費でないので、そもそもそのような認知不協和がおこらない。

要は、はじめの実験と違って、後半の実験ではそれがよい製品であるかどうかをそれを買った人の満足度で評価しているという点が致命的に問題なのではないか、というわけです。後半の実験はどちらかというと、前半の実験の結果を踏まえて、マスコミ受けを狙っておもしろおかしく紹介できるようにおこなった実験というような趣なんですけど。というわけで後半の実験にかんしてはまったく評価しておりません。勘違いしてたらご指摘お願いします。(勘違いはよくやるんですよ。今年の神経科学大会では一回しか質問しなかったけど、それは課題の勘違いに基づくものでしたorz)

ちなみにFig.3とFig.4の棒グラフは原点が0になってない、いけない棒グラフです。(いわゆる「捏造棒グラフ」問題。) 棒グラフは原点からの長さで印象を決めるから、0を原点にしないと正しく値の比率を反映しなくなるので良くないのです。この条件で棒グラフを使いたいならせめて(あんま良くないけど)比率にして%表示で平均値からの差で表現するか。そもそも棒を原点から延ばす意味がなくて、差を比較したいだけならば、点とエラーバーにしておくべき。前半と後半で書いてる人が違うんではないでしょうかね。

なんつうか、論文が言いたいことは納得なんだけど、実験の手続きがいろいろ引っかかって全体としては納得がいかない、そんな読後感でした。この論文に関してはここまでで。


2007年10月08日

意志決定の曖昧さ4

東大先端研の渡邊克巳さんの講演の予習つづき。もう時間がない。今回はメモだけで。

講演の要旨によると、"postdiction"というのがキーワードとなりそうです。われわれの意志決定がけっこう後付け的(postdictive)になされるということの例として参考論文が上げられています。このpostdictionというのはdecisionだけの話ではありません。Postdictionといえば思い出すのが以前のflash-lag illusionの論争ですが、

それから関連するのがposition captureに関するもの。こちらに関しては下條研在籍時からの渡邊さんの仕事が複数出ています。


2007年10月07日

ASCONE無事終了しました

ASCONE無事終了してかえってきました。とても楽しかったです。感想などもろもろについてはまた研究会の後ということで。


2007年10月04日

Flash MP3プレイヤー設置してみました

はーいそがしい。というこのタイミングで以前作ったこのエントリを投入。

ブログでFlash MP3プレイヤー付いてるのをさいきん見るようになりました。あれ付けてみたいなあと思ってwebを探してみたら、フリーでとても小さいものを見つけました。Flash MP3プレイヤー-タイプ1。さっそく設置してテスト。一発でうまくいきました。これは楽ちん。シークバー無し、長さ情報も無し。超シンプルです。

Am-Gのくりかえし。2分半くらい。

展開せずに終わります。1分くらい。

断り書き:「押すなよ!押すなよ!絶対に押すなよ!」(竜ちゃんメソッド)


2007年10月03日

意志決定の曖昧さ3: 前回の落ち穂拾い

前回のエントリから洩れたあたりを落ち穂拾いで。

追加1:ニスベットとウィルソン1977のティモシー・ウィルソンは現在バージニア大学の教授となっていて、2002年にHarvard University Pressから"Strangers to ourselves"という一般向けの書物を書いています。これが自分を知り、自分を変える―適応的無意識の心理学 ティモシー ウィルソンとして翻訳されています。タイトルはセルプヘルプ系ですけど、なかなか良いです。そこでは適応的無意識(adaptive unconscious)と意識的自己というキーワードを導入して、上述のニスベットとウィルソン1977の言明の改訂版を作っています。「人間の判断、情動、思考、行動の多くは、適応的無意識によって生じる。人は適応的無意識に対して意識的にアクセスすることができないので(中略)意識的自己が反応の理由を作り出す。」

追加2:われわれが意識できるのは認知の過程(process)ではなく、内容(content)である、ということは知覚、運動まで広げて一般性を問う意義のあるthesisです。知覚においてはこの帰結は明確です。われわれはbinocular rivalryの切り替わりの過程を意識することはなく、ただその結果として生まれたcontentを受容するだけというわけです。(というかcontentという言葉自体が「意識のcontent」というふうに意識を想定しているわけですが。) 以前のbinocular rivalryのエントリ(20070710)を思い出していただきたいのですが、V2, V4のニューロンは「見えている」と報告している図形に選択的に活動しているものと、「見えている」と報告している図形でないほうに選択的に活動しているものとが半々くらいでした。それがITになると、ほぼ100%で「見えている」と報告している図形に選択的に活動していました。よって著者は、V2/V4はsegmentation/groupingの過程で、ITはそのstageを越えたものがrepresentされていると言ってたわけですが、ようするにこれがawarenessのcontentはITにあって、V2/V4にあるようなselectionのprocessについてはわれわれはawareしてない、と考えるところまでは行けるのではないかと思います。

あと、我々は運動のコマンドを意識しているかというとたぶんしてない。あくまでその結果をproprioceptiveに、さらに視覚などによってフィードバックを受けるだけということなのでしょう。だからJeannerodとかがやるような、さまざまな運動調節が意識の外で行われているという話になるのです。(neuropsychologia 1998 "Limited conscious monitoring of motor performance in normal subjects" )

追加3:下條先生が「サブリミナル・マインド」にある内容の講義を教養過程でされていてた頃に私は駒場にいました。面白いらしいという評判を聞いて第一回の授業に行ってみたら、教室がものすごい混雑しててすっかり萎えてその授業を取るのはやめたというボンクラ逸話があります。あそこで授業を取ってたら「人生変わ」ってたかもしんない。ま、そんな回り道をいろいろしてます。

追加4:そういえば「意識の科学は可能か」新曜社の「知覚から見た意識」で、下條先生は「知覚研究は主観的経験の研究であった」ことの例として残効の実験を挙げて、心理学は「網膜像に明示的に与えられている情報以上のものを見る、知覚の特性」に関心を持ってきたことを強調していました。認知の世界にかんしては今回書いたとおりですが、知覚の世界ではそれが当たり前だったというわけです。

追加5:以前Nature Neuroscience - 10, 257 - 261 (2007) "Post-decision wagering objectively measures awareness" Navindra Persaud, Peter McLeod and Alan Coweyというのを読んだことがあります。Awarenessの客観的な指標として「意志決定後にどのくらい自信があるかお金をかけてもらう」というものを提唱していて、これが言語による報告や信頼度の評定とかよりも優れている、という話で、どういうことなんだかわからなかったんだけど、こうやって社会心理学について概観してからのことを見直してみると、これも社会心理学的なものとして読めばいいのかなと思いました。

だんだん話が拡散してきたのでこのへんで。


2007年10月02日

konozama喰らった

konozama喰らった……これで。「現在の予定出荷日10/4-5」ってぜったい根拠ないだろこれ。
岡崎の楽器屋、パソコン屋まで来るのはまだ時間がかかりそうだしなあ。忘れた頃に見つけて買うというのが正しいあり方かな。
ちなみに「人類は衰退しました」もさいきん岡崎の本屋でやっと見つけたので読みましたけど、あんまピンと来なかった。
なんかホットなときに出会わないと面白くないという気もするし、でもそういうもんだったらべつに必要ないし。べつにニコ動に動画上げたい訳じゃないし、べつに祭りに参加したい訳じゃない。(酸っぱいブドウ的雰囲気が醸し出されてきた!)


2007年10月01日

意志決定の曖昧さ2: 自分はもうひとりの自分である

さて、今回は長いです。どちらかというと趣味全開で。ニスベットとウィルソンまで歴史を追って辿りついてみます。歴史順に再構成すると、フェスティンガーの「認知不協和理論」から始まります。前回の「酸っぱいブドウ」は俗っぽい説明で、あれで正しいのかどうかは自信がないのですが、正しくはオリジナルの「1ドルの報酬」実験から説明すべきなのです。実験に関してはたとえばこちらのサイトとかをどうぞ。

手短にいうと、被験者はある退屈な作業をしてから、次の被験者に「作業は面白かった」と伝えるということをしなくてはいけない。この報酬として1ドルもしくは20ドルもらう。そのあとで率直な意見として作業は面白かったかどうかを実験者が聞く。作業が面白かったと評価したのは1ドルもらった側(20ドル側ではない)だった、というわけです。報酬による強化だけを考えればこのようなことは考えられないので、なんらか認知的な要素を考える必要がある、という意味で認知科学にとって大きな成果だったわけです。

つまりこの結果を説明として、1ドルもらった人は、「仕事が面白くなかった」という内的な評価と「仕事が面白いと次の被験者に伝えた」という行動とが整合的でない(「認知的不協和」の状態にある)。ゆえに、「仕事が面白くなかった」という内的な評価を変えて「仕事が面白かった」という評価にしてしまう。それゆえ、実験者に「仕事は面白かった」と伝えてしまう。一方で、20ドルもらった人は「仕事が面白いと次の被験者に伝えた」という行動が20ドルのお金のためにやった、という納得があるので、「仕事が面白くなかった」という内的な評価とのあいだに「認知的不協和」は起こらないから、評価は変わらない。実験者にも「仕事は面白くなかった」と伝える、というわけです。これは「葛藤」のような感情の問題ではなく、認知の問題であり、多分に意識せずにやっている(たんなる欺瞞ではない)というところがポイントです。

認知的不協和理論は「認知的不協和」という状態を仮定するという意味で認知科学的な考え方です。ベムの「自己知覚理論」は認知的不協和理論に対するスキナー派からの対案という側面があります。つまり、1ドル報酬実験を説明するのに「認知的不協和」というようなブラックボックスを仮定する必要はない、というのです。「自己知覚理論」では、「人間は自分の態度や情動などについての内的手がかり(内観)が充分に利用できない状況では、自分の行動や周りの環境から推測する、つまり、他人の態度や情動を推測するのと同じことになる」と考えます。

この考えで1ドル報酬実験を見ると、被験者が自分の態度を他人を見るように推測するなら、20ドルもらったときに次の被験者に言った「仕事が面白かった」は金のためにやったと推測するのに対して、1ドルもらったときに次の被験者に言った「仕事が面白かった」は金のためにやったとは思えないからほんとうに面白かったのだろうと推測する、というわけです。

じっさいにこの考えが正しいことを証明するために、この実験をしているところを録音しておいて、被験者が仕事を面白いと思っているかどうかをそのテープを聞いた人が推測してみました。そうすると、1ドル報酬のときのほうが被験者が仕事が面白いと思っていると推測した、というわけです。

ただ、これは自己知覚理論でも説明できるという話で、これでは認知的不協和理論を積極的に排除することは出来ません。しかも、たぶんスキナー派と認知科学の代理戦争みたいな側面もたぶんあったんだと思うんですけど、論争は泥沼化して、明確にどちらが正しいという結論が出ずに終わります。このへんの経緯については認知的不協和理論―知のメタモルフォーゼが詳しいです。ベムの終戦宣言みたいなものがありますのでこの本のP.73から引用します。

我々が不協和現象を採りあげたのはその知見を再現することが、観察者と実験事態にいる被験者の相互交換性を基本仮説とする自己知覚理論の検証につながるからである。この限りでは、なにも論理的不協和理論との対決を目指すものではなかったのである。しかしながら論理的不協和論者はこうしたことを理解しようとせずに、徒に対決を煽り立ててきたのである。また我々の知見に対しても、手続き上の欠点を言い立てるだけであった。このような状況ではいくら議論を重ねても無駄である。両者は本来べつの現象を取り扱っているものとみなし、それぞれの理論の適用範囲を明確にしたほうがより生産的と思われる

あっちゃー、すごいもん見た。とまあ、脱線なのですが、こんなかんじだったらしい。

さて、じつは今回の話的には認知的不協和理論よりは自己知覚理論のほうが重要です。さっきさらっと書きましたが、ベムの自己知覚理論は内観よりも推測の方を重視しています。オリジナルの表現を載せておきます。

"Individuals come to "know" their own attitudes, emotions and other internal states partially by inferring them from observations of their own overt behavior and/or the circumstances in which this behavior occurs. Thus, to the extent that internal cues are weak, ambiguous, or uninterpretable, the individual is functionally in the same position as an outside observer, an observer who must necessarily rely upon those same external cues to infer the individual's internal states." (Self-perception theory. p.2 In L. Berkowitz (Ed.), Advances in Experimental Social Psychology, (Vol. 6, pp. 1-62). New York: Academic Press.)

ところで、どういう根拠で内観よりも推測を重視するのか、どういうときにinternal cueが弱いのか。これだけではわかりません。たとえば1ドル報酬実験での「仕事が面白くなかった」という内観はなにと比べて"weak, ambiguous, or uninterpretable"と言えるか、という問題ですが。日本語の文献をよむかぎり比較的ここはスルー気味です。「自己の姿の把握の段階」では「どの範囲で自己知覚は他者知覚と同等であるのか、どの範囲で、本人特有の内的な手がかりが存在するのかを、問わなければならないであろう。」と書いてます。ようするに「自己の認知を知る手がかりはじつは他者が推測するときに使っている手がかりとそんなに変わらない。だから、内観はあまり使っていないのだ」っていう論理なわけでして。

もとのスキナーの考えのほうは、子どもが「痛いという内的状態」を獲得する過程では、他者にも観察可能な「泣いている」という行動("overt behavior")や頭をぶつけたとかの顕在的刺激変数とが必要である、というものです。これは起源論なので、そのような内的状態の記述を獲得したあとで内観はどのような位置にあるのか、ということについてスキナーがどう扱っているかはここだけだと不明なのですが。ともあれ、ベムは反内観主義的な立場にいます。「サブリミナル・マインド」ではここを重視します。

「とくに自己知覚理論では、自分についての無意識な推論を他人についての推論とほぼ同じ過程だとみなしてしまう点に、最大の洞察があります。極言すれば、自分はもうひとりの他人であるかもしれないのです。」

さて、このようなベムの自己知覚理論が原因帰属理論に包括されるものであると捉えられてゆくのが次のステップです。ハイダーの原因帰属理論というのは、他者の行動を知覚してその原因を帰属する際に、「内的で個人的な原因」と「外的で環境的な原因」がある、とするものです。これをケリー1967がANOVAモデルというのを作って精緻化します。たとえば、ある人がある映画に感動したとします。このとき、その人が他の映画を見ても同様には感動しなかった、他の人がその映画を見たとき感動した、ということを元にして、感動の原因はその映画にあると結論づける、と言うわけです。

それで、ケリーがベムの自己知覚理論もANOVAモデルで扱えると指摘しました。ベム自身もこれを認めて、原因帰属理論というのは一般に他者の知覚の理論なのだけれど、自己知覚理論はその他者が自分であった場合だというふうに捉え直されたわけです。(こうなると、上記の「終戦宣言」もそんなに悪くない気がします。) ちなみにシャクターの情動理論も情動に関する帰属理論のひとつとして捉えることが出来ます。

さて、いよいよニスベットが出てきます。ジョーンズとニスベット1972では、原因帰属の仕方が「行為者」であるか「観察者」であるかによって大きく変わる、と言っています。この「行為者」と「観察者」という区分はさまざまな重要な意義を持つと思います。私はここにめちゃくちゃ感銘を受けて、今回のサーべイをちょっと神経生理学者らしからぬところまで広げてしまったしだいです。これについてはまたべつにエントリ作ります。

ジョーンズとニスベット1972の仮説は「ある行動をした本人、つまり行為者は、自分の行動の原因を、周囲の状況などの外的要因に帰属しがちであるのに対して、その同じ行動を見聞きした他者、すなわち観察者は、行動の原因を行為者の内部にある安定した属性・特性に帰属する傾向がある」というものです。簡単に言いますけど、俺が怒ってるのはいろんな不運があったからだけど、君が怒っているのは怒りっぽいから、みたいな考え方の傾向ですな(簡単にしすぎー!)。原因帰属理論では二つの原因があって、「内的で個人的な原因」と「外的で環境的な原因」でしたが、どちらに原因を帰属するかが「行為者」であるか「観察者」であるかによる、とするわけです。

なぜこのような差が生まれるか。ひとつは行為者は自分の行動に関する内観を利用できるからです。内観が利用できる分、行動の原因を内的なものに帰属しやすい。ベムの自己知覚理論はそのような内観が利用できないときには自分に対して観察者となる、というふうに捉えられるかもしれない。(お、いいこと言った気がする。ここは又引きではないですよ。)

もう一つの説明は、視点、視野の違いによるとするもの。観察者は行動と環境とを両方見ることが出来る。その状況では行動と環境が図と地の関係になって、行動が目立つ。行為者の場合は一人称的な視野で自分の行動が見えにくい。環境のほうが主となる、というわけです。どっちでも納得がいくかんじがします。どう決着付いたかは参考文献からはわからなかったですけど。ともあれ、この考え方は、ベムの自己知覚理論を引き継いで、自己知覚と他者知覚の違いは「行為者」と「観察者」との違いであって、本質的な差ではない(だから内観が十分に利用できないときは区別できなくなる)という帰結になるのではないかと思います。

さて、ニスベットはこのような考え方を進めて、ベムの自己知覚理論よりもより強烈なことを言います。ベムの自己知覚理論の仮定は「自己の態度や感情などの内的状態を直接に知る手がかりは乏しい」というものでした。ニスベットとウィルソン1977(Nisbett, R. E. and Wilson, T. D. (1977). Telling more than we can know: Verbal reports on mental processes.(PDF) Psychological Review, 84, 231-259.)ではこれをさらに進めて「人間は、評価、判断、推論を含むような高次の心理過程が自分の中で生じていること自体を、直接的に意識することはできない」と主張したのです。薔薇の赤さのクオリアはある。感情のクオリアはあるか。思考のクオリアはあるか。つまり、直接的に意識しているのではなくて、「推論している」のだと。反内観主義という意味でベムの考えを引き継いでいるわけです。

つまり、1ドル報酬実験とかで「仕事が面白かった」と報告するとき、その言語報告はけっこう不正確なものなんだと言うのです。ニスベットとウィルソン1977では、認知不協和理論の実験や原因帰属理論の実験のデータを持ってきて、「言語報告」と「行動または生理的効果」とが食い違うという例をいろいろ挙げています。

たとえば、Zimbardo et al 1969の電気ショック実験。被験者は電気ショックに耐えながら学習をする課題を行います。そのあとで、被験者はもう一回同じ課題をやってもらうことを実験者にお願いされる。充分正当な言い訳があるグループ(「この実験は大変重要で、もう一回行わないと無駄になってしまう。」)と充分な言い訳がないグループ(「ちょっと面白そうだからもう一回やりたいんだけど。」)とに分けます。充分な言い訳がないグループでは、もう一つの方と比べて学習効率も上がるし、GSRの反応(情動の生理学的指標)も下がる。これ自体は上記の認知不協和理論で説明できるます。充分な言い訳がないグループでは、痛みが少ないというふうに(無意識に)評価を変えたわけですね。だからGSRも下がった。重要なのは、このとき電気ショックの痛みを報告してもらっているのですが、痛みは一回目と二回目とで変わっていない。つまり評価を変えたことを被験者は意識できていないわけです。このような例は閾値下知覚の実験なども含めていろいろ出てきます。

この結果、ニスベットとウィルソン1977はこうまとめます。認知不協和理論の実験や原因帰属理論での被験者は、1) 実験で加えられた操作によって評価や態度の変化が起こったことを報告することができないことがある。2) 実験で起こっている認知過程を報告することができないことがある。3) 刺激の存在を見出すことができないことがある。 4) もしたとえ刺激とその応答の存在を知っていたとしても、両者の関係をただしく報告することができないことがある。

そういうわけで、この論文は内観に基づいた言語報告がいかに間違うものであるかを示すために引かれる古典的論文となったわけです。

ニスベットとウィルソン1977によれば、被験者の言語報告というものは、自分の認知過程についての意識を報告しているというよりは、「暗黙の因果理論」もしくは「因果関係についてのアプリオリな理論」に基づいた一種の推論によるのだというわけです。ちなみに「サブリミナル・マインド」では「もっともこの「暗黙の因果理論」の正体が、ニスベットとウィルソンの議論の中でも、今ひとつはっきりしないのですけれども。」と書いてます。のちのニスベット1980ではこの推論がカーネマンとトバルスキーの議論で出てくるようなヒューリスティックスとしているようです。ヒューリスティックスだから当然なんらかバイアスがあるわけです。たとえば少数の例を一般化するとかそのたぐいのやつです。手っ取り早く結論は出せるけど、バイアスがある。だからこそけっこう間違う。やっと今回のchoice blindnessのScience論文につながりましたね。

前回書いたScience論文のノイエスに関してもう一度いうと、これまでの社会心理学の実験、たとえば上記のフェスティンガーの1ドル報酬実験などでは、1ドル報酬のグループと20ドル報酬のグループとのあいだでの言語報告の違いとして効果が出る(グループレベル)わけですが、choice blindnessの実験では個人レベルで効果を見ることが出来るというわけです。それだけでなく、choice blindnessの実験はかなりシンプルなものですから、1ドル報酬実験のようなさまざまな要素が混ざっていて解釈の難しい実験よりもいろんなアプローチがしやすい(brain imagingだってできますよね)ということも特筆すべきだと思います。

以上を踏まえた上でScience論文の続編のConsciousness and Cognition Volume 15, Issue 4, December 2006, Pages 673-692 "How something can be said about telling more than we can know: On choice blindness and introspection"(PDF)についてですが、手品で顔が交換された条件(manipulated)とコントロール条件(non-manipulated)とで被験者がなんでその顔を選んだかについての言語報告を分析しているのですね。詳しいことはよくわからないけど、word frequencyだったり、いろんな言語学的解析法で。

しかし、manipulatedとnon-manipulatedとで差は見つからなかったと。じつはScienceのほうでもemotionality, specificity, certaintyというカテゴリーを作ってみて、manipulatedとnon-manipulatedとで差は見つからなかったと言っているので、それの延長にあります。こっちの論文の結果ははっきりしませんが、いいたいことはScience論文にある、

"On a radical reading of this view, a suspicion would be cast even on the NM (non-manipulated) reports. Confabulation could be seen to be the norm and truthful reporting something that needs to be argued for."

つまり、我々のふだんの言語報告もmanipulated条件で見られるようなconfabulationと同じなのかも(超訳過ぎ)というかんじでしょうか。ここはとてもおもしろい。

参考文献:


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

月別過去ログ


« 2007年09月 | 最新のページに戻る | 2007年11月 »