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■ 鈴木貴之さんの本を読んでいろいろ考えた(続き)
鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読みながら考えたことについて。前回の記事はこちら:鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んだ!
ここからは鈴木さんの本の話というよりも自分で考えていることの話なので別枠で書いておくけれども、わたしが田口さんの本(「現象学という思考」)を読んで最近考えていること(前回のブログ記事)も、SMC(行動的連関、カエルの意識)から表象(反省的思考のモード)に移行するにはどうすればよいか、という問題について考えているといえるだろう。(その意味では、鈴木さんが書いているのとは逆向きから、記述的表象と司令的表象の関係を捉えようとしているというふうに言えるのかもしれない。)
ただし、そこで付加されるべきと私が考えているのは、多階の表象理論(Higher order thought)で想定しているような「知覚していることに対するメタ認知を持つということ」ではなくて、「そうであったかもしれない可能性のアンサンブルという反実仮想を含めたうえでの(Judea Pearl的な)因果推論に基づいた確率密度分布」なんではないかということだ。
つまり、表象では確率密度分布を作るだけでは足りなくて、Pearlのdo演算子みたいに「介入」をするということが本質的で、そのために単回の行動では終わらないような、行動と介入が必要なんではないかと思うわけ。
だから、nhpでも過去の履歴を使って行動選択を確率的に変動させることができるじゃないか、といってもそれでは足りないと思っている。あれは行動またはターゲットの価値をその都度変化させているだけであって、「いま・ここ」だけを生きているのであって、その意味での確率密度分布があっても「反省的行動のモード」とはいえない。
強化学習でも同じだし、サリエンシーでも同じで、履歴から作られた誤差信号をその都度使っているのは「いま・ここ」だけを生きているということだ。その意味での「予測信号」というのも履歴によってアップデートされているだけで、「いま・ここ」だけを生きている。もし「予測信号」がベイズ脳で使われるような「モデル」と言えるようなものであるためには「いま・ここ」から離れないといけない。それには記憶があるだけでも足りない。記憶情報を使ったとしても「いま・ここ」を調整するために使っているならばそれは「反省的行動のモード」にはならないだろう。
「ただ、いま・ここを生きること」、それは人間にとってはとても難しいことなのだけど、物理主義的に説明しようとするとそこに原理的難しさはない。だから「反実仮想」という概念を持ち出してきた。
ベイズ脳と確率密度分布だけでは「反省的行動のモード」は作れない。そしてたぶん「反省的行動のモード」がないと、人が持っているようなfull-fledgeな意識経験は出来ないのではないか。
そういうわけで、大泉さんのIITのintrinsic informationでのcausalityってのがどこまで言えているのか理解しなくてはと思っている。ミクロレベル(サブパーソナルレベル)での因果推論とマクロレベル(パーソナルレベル)での因果推論は分けなくてはいけないのは確かなのだけど、連鎖してたら美しい。
この話は専修大の澤さんの一連の仕事での「rodentの因果推論は本当に因果推論か?」って問題はパーソナルレベルでの因果推論を探しながら、そこに神経生理を加えたら、なんらかサブパーソナルレベルの因果推論を明らかにする手がかりにならないだろうか、とかそんなことを考えている。
そういう興味で調べてみたら、"An Objective Counterfactual Theory of Information"というのを見つけた。ドレツキの情報理論も含めてこのあたりを理解したい。
いますごくへんな、ありもしないものについて言語化しようとしているので明晰になっていないことはかんべんしてほしい。前回の鈴木さんの本に対するコメント部分は明晰にしてあるはず。そこは混ぜてない。
あと、この本を読みながらカエルの意識について考えてたら、私がいつもやってる「盲視でのなにかあるかんじとカエルの意識」の話(ブログ記事参照:盲視でおこる「なにかあるかんじ」)についてはもっと違う言い方をすべきだなと思った。
これまで講演とかで何度か話ししているように、盲視には「何かある感じ」というのがあって、そのような意識経験は上丘経由での限られた情報によって形成されたSMCによる意識経験であり、それはもしかしたらカエルの意識経験と同じものかもよ、っていうspeculationだった。
でももっと慎重に行くならば、あくまでも使っている情報はカエルで行われているのと似たようなものを、人間が経験しているわけで、意識のcontentはカエルと同等だけど、それを経験しているのはあくまでもヒトであって、じゃあカエルも同様に「なにかあるかんじ」みたいな意識経験をしているとは必ずしも限らない。いや、前からこの可能性はわかってはいたけれども、カエルにもある種の意識経験があるであろうことを強調するのにそういう話にしていたわけだった。
でもここ最近はそういった「なにかあるかんじ」とfull-fledgeなクオリア経験とが程度の差ではなくってなんらか本質的な差がある可能性を探すことのほうが気になってきた。鈴木さんの本で言えば、ミリカンのオシツオサレツ表象と記述的表象と司令的表象とが分かれているものとの間に差を置いていないということがほんとうに良いのかと気になってきた。
(ちなみにこの二つが分かれるということは「待て」ができるということ、そして遅延反応ができるということだから、Kochの意識を持つ動物に必要な条件と対応している。)
あと、鈴木さんご本人からこの本を送ってもらったので、盲視に関する記述(p.162-164)に関して返答しておきたい。この部分での鈴木さんは盲視でもじつは「何かある感じ」という体験があるのだということについて書いておられる。そしてそのうえで、盲視での「何かある感じ」は「本来的表象ではない」と結論づけている。はたしてこれは妥当か。
これは私が南山大学でトークさせてもらった時の話(盲視でおこる「なにかあるかんじ」)そしてそれに対する鈴木さんの応答(南山大の鈴木貴之さんからコメントいただきました)を踏まえた上で書いてくださっている。
鈴木さんの本を読んだうえであらためて鈴木さんの応答を読んでみると、なるほど意識経験にどう行動を繋げるように世界を分節するか、という考え方が入っていることが分かる:「脳活動と運動出力の関係を重視するモデルがあってもよいのではないか、そして、実はそれが一番説得力があるのではないか、と私は考えています。」
あと、このときにtype IIの盲視(なにかあるかんじの意識経験がある人)とtype Iの盲視(ない人)の二通りをどう整合性を持って説明するかという問題意識も持っておられて、けっきょく本の方ではtype Iの人が意識経験を見逃しているか、否認しているのではないか、という処理をしてる。
これには大枠で賛成で、けっきょくtype Iの人というのはWeiskrantzの最初の患者のDBさんくらいで、このかたはV1切除前に偏頭痛発作を繰り返すなどその視野部分の経験が他の盲視患者と異なっている。そのうえで、トレーニングをしてゆくとみなtype II的な盲視になっていくらしいことを考えると、盲視での限られたSMCの成立が「なにかあるかんじ」の成立と相関しているというほうが本来的で、type Iはなんらか例外的なものと考えるほうがよいだろう。
Type II盲視でのこのような状況をミニマルな表象主義の言葉で表現するのならば、盲視での「なにかあるかんじ」とはある限られた情報処理にもとづいた本来的表象があり、それゆえに明確ではないものの、空間と位置の概念だけはあるような意識経験が作れている、と言うほうが正確なのではないだろうか? 盲視ではサリエンシーの情報は利用できるので、どこかになにかがある、という情報にはアクセスできるけれども、意識のcontent(色、形、動きの向き)にはアクセス出来ない。だから正常視覚での十全な本来的表象が盲視にはない、という言い方は正しいと思うけど、盲視の能力の応じた本来的表象はある、という言い方のほうがミニマルな表象主義の枠組みには整合的なのではないかと思った。
以上がこの件に関する私からのコメントであります。
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2016年01月27日
■ 鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んだ!
鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んでた。いま「ミニマムな表象主義」(6章)まで来たところ。
この「ミニマムな表象主義」、すごく合点がいった。ここでの表象主義は行動に利用されるかどうかによって決まるような「消費理論」的な表象であって、外的な刺激をそっくり写しとるような「再現表象」ではない。
つまり鈴木さんの説では表象主義のうちの「意識経験は(思考や痛みも含めて)すべて知覚経験である」(クオリアの志向説)を温存したうえで、再現表象ではなくてどう行動に活かされるかという意味での表象(消費理論的な表象)に作り変えていて、標準的な表象主義とは違うものなのだな。
これはようするに表象主義側からsensorimotor contingency (SMC)的な方向に向かったという言い方ができるかもしれない。SMCな人たちがシンプルなロボット(サブサンプション・アーキテクチャ)からどうやって表象を入れるか考えるのとは逆向きのアイデアで。
わたしが田口さんの本(「現象学という思考」)を読んで最近考えていること(前回のブログ記事)も、SMC(行動的連関、カエルの意識)から表象(反省的思考のモード)に移行するにはどうすればよいか、という問題について考えているといえるだろう。(その意味では、鈴木さんが書いているのとは逆向きから、記述的表象と司令的表象の関係を捉えようとしているというふうに言えるのかもしれない。)
6章まで読み終えた。鈴木さんのミニマルな表象主義とsensorimotor contingency(SMC)の近似性は動物の意識の議論のところでより明確になる。ミニマルな表象主義において意識を持つために必要なのは「本来的表象」を持つことだからカエルのように刺激と行動がハードワイヤされているものでも意識経験はあるという帰結になる。これってSMCとおんなじだ。
また、同様にしてロボットでも意識は持ちうるということになる。ただしp.187の書き方では明確で無いけれども、本来的表象というのはあくまで個体自身の生存にとって有効な情報を分節してくることによるものだから、外側からゴールを与えられた現状のロボットには本来的表象はない。ここに自己と意識とが同時発生する必要性が出てくるし、life-mind continuityという概念が必要になってくる。(参照:Evan Thompsonの"Mind in Life"とか)
(p.187で書かれていることは、「本来的表象」を作りこむことさえできれば、意識を持つものは生物的な素材である必然性自体はないんだ、という点に限局している。)
鈴木貴之さんの本を読了した!面白かった!さていろいろ考えたことをまとめてみたい。
この本は序論にシャーロック・ホームズの「不可能なものをすべて除けばあとに残ったものが真実」というエピグラフを置いて、意識経験の説明についての可能性を狭めながら、残る可能性は「ミニマルな表象主義」である、と結論づけている。
このような構造にしてあるので、読んでいると明晰に話が進んでゆくので気持ちが良い。でもこの構造を保つために強引に論を進めているところもある。たとえばそれが見える例としてp.207からの知覚と思考の違いに関する議論がある。ここでは第二の提案として「思考には知覚にない体系性がある」というのを退けて、第三の提案として「知覚経験がエゴセントリックな表象形式を持つ」という議論を進めてゆくところでこう結論付ける;「思考にあって知覚にないものは、このような強い体系性だ」(p.211)ってそれさっき否定してたぢゃん!
いやわかってる、ここでの「体系性」とは思考が無視点的であることからの帰結なので第三の提案で出てくる概念がないとこの話ができないってことは。でも、このような論説スタイルを取ることで、議論の流れ方を優先していて、ロジカルにすべてを尽くすように書いているわけではないということが読んで取れる。
そのような意味でこの本の流れで強引だと思うのは、第3章のところで、タイプB物理主義以外の物理主義が表象理論に限るようになってしまっているところだ。ここは意識を持つことの条件を物理主義的に説明できるものならなんでもいいのだから、表象だろうとグローバルワークスペースだろうとIITのphiだろうとsensorimotor contingencyだろうとなんでもいいはずだ。表象主義が有望なのはいいとしてなぜほかのものでは不十分なのかを除外してない。もちろんそれを言い出したらきりがないので、本文200ページの本として出すためにはこれで正解だとは思うけど、なぜ表象主義なのか、っていうかなり肝心な部分が案外あっさりしている。
それで表象主義自体についての話だけど、鈴木貴之さんの「ミニマルな表象主義」ってのは本当に必要なの?ってのが次の論点。つまり表象なしのsensorimotor contingencyの成立とどう違うの?っていう。
ちゃんと系統だって説明すると、鈴木貴之さんの「ミニマルな表象主義」では「本来的な表象」が成立することすなわち意識経験があることになる。この本来的な表象っていうやつは記述的な表象と司令的な表象が分かれてないオシツオサレツ表象であってもよくて、そのかわりその個体の生存にとって有益になるように外界からの入力を分節して適切に行動できる必要がある。そのときの内部表現として、あるニューロンが小さい物体(カエルにとっての餌)と大きな物体(カエルにとっての捕食者)の選択性を持っていれば良いということになる。なるほどミニマルだ。
しかしそれなら、このような意味での内部表象はカエルにとって必須だろうか? ロドニー・ブルックスのサブサンプションアーキテクチャの話を思い出してほしいのだけれども、センサーとモーターが適切にカップルしていれば、そのような内部状態を持たなくても適切なsensorimotor contingencyを作ることができる(左右どちらから光が来るかで左右のモーターが動いて左右に旋回することで光を追う能力を身につける)。そうするとこのような構造を持った動物とカエルとではできる行動は質的には変わらないけれども、意識があるかないかは内部状態があるかどうかだけで変わってしまう。前者はいわばゾンビカエルだ。それでいいのだろうか?
ここまで考えると、この「内部表象」という概念をもっと突き詰めるべきなのではないかと思えてくる。オシツオサレツ表象での内部表象ニューロンはただの神経の反応選択性であり、実験者からはその違いは見えるけれども、そのニューロンの下流にある運動ニューロンにとってはただ入力のオンオフを決めるものにすぎない。つまり、ここでの内部表象はサブパーソナルでは物理的因果によって作動しているだけで、それが本来的な表象であるかどうかはパーソナルレベルで決まるのだから、ニューラルネットワークの中間層に見られるような分散化した非明示的な表現でも構わない。つまりこの内部表象ニューロンが本来的表象であるためには、とくに明示的に表象としての情報を持っていなければならないという理論的要請がない。だからさっき書いたように、サブサンプションアーキテクチャでの表象無しでのsensorimotor contingencyの成立と何が違うの?っていう疑問になる。
もしこれがオシツオサレツ表象ではなくて、記述的な表象と司令的な表象とが分かれるシステムであるならば、記述的な表象は状況に応じて様々な行動に使うことができるようになり、内部表象として持つことの生物にとっての意義が現れてくる。たぶんオーセンティックな表象主義ってのは、記述的な表象がそういったフレキシブルな行動を支えられるようにワーキングメモリーなどの概念と組になって初めて役に立つんではないかと思う。(ここは専門家でないのでわからん。)
ただし、オシツオサレツ表象ではなくって、記述的な表象と司令的な表象とが分かれることが意識があることの条件に必要であるとしたら、「ではどのくらい分かれていればよいのか」といった、あらたか基準を設ける必要が出てくるのでミニマルである意義が吹っ飛んでしまうだろう。「グローバルワークスペースの情報が入る」とか「phiが一定以上の値になる」といったものを補助的に使う必要が出てくる。
とはいえ私はべつに、明示的な表象が必須であると言いたいわけではなくて、逆にカエルの意識を説明するのに「ミニマルな表象」で充分なのだったら、sensorimotor contingencyがあるという条件だけで充分なのではないの?って言いたい。そのうえで、記述的な表象と司令的な表象とが分かれることで、カエルの意識からヒトの意識へとなんらか質的な変化が起こるかもしれなくて、それを知るためには表象を脳に埋め込む(自然化する)ということがどういうことなのかより正確に理解した上で、予想コーディングでいう「予想」「モデル」の実体って一体なのよ、とかそういうことを考えていったらいいんではないか、みたいなことを私自身の問題意識として持っている。
このへんについては鈴木さんの本への応答というよりも前回のブログ記事からの展開といったほうがよいので、次回のブログ記事で別枠で書いてみようと思う。つづく。
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2016年01月04日
■ 田口茂「現象学という思考」合評会行ってきた!
「現象学という思考-〈自明なもの〉の知へ」(筑摩選書-田口-茂) 読了した。これすごく読みやすくていい。平易に書かれてるので眼が滑って飛ばし読みしちゃってるから再読が必要だけど。「現象学的還元」とか「超越論的主観性」といったフッサールのものものしい用語は最小限にした上で「媒介」をキーワードにまとまりのある説明を飲み込めてとても良かった。
「媒介」とか「流れ」とかそういうの大好きなんでするっと飲み込めちゃったけど、そういうの好きでない人を説得するようなものではないと思った。「媒介的振動」とか書いてあって、はいはい、オートポイエーシスのカップリングね、とか思って読み進めたら本当に「知恵の樹」とか出てきて驚いた。
「経験は「当てはずれ」に開かれている」みたいな説明の仕方は「真理の哲学」(貫成人)でも見たけどベイズ的で尤もらしい。ありえなかったことまで取り込んでモデル化して後付け的に当たり前にしてしまう「ブラック・スワン」ってのがまさにこの作用そのものなんではないかとか思ってるのだけど。
あと、間主観性の説明ではじめて腑に落ちた気がした。つまり、「現在、未来、そうであったかもしれない可能性へ瞬時に飛べるような反省的思考のモード」にあるときにはじめて間主観性が難問として出てくる。でもそれでコミュニケーションが不可能になったりするわけではなくて、その場で対応しなければいけないような状況ではわれわれは「行為的連関のモード」で正確でなかろうがとにかくコミュニケーションしてる。(ここはMessyな解決をしている、と言っておきたい。) そのときわれわれは前反省的なモードで世界、他人と直接的なかかわり合いをしていると。
まさにこれが「動物が世界に開かれている」ということなんじゃあないかと思った。われわれ人間が動物とは完全に断絶している、みたいな言い方よりも、われわれはほとんどの時間は動物で、他我問題をmessyに解決していて、その予測誤差があんま大きいときだけ自我が現れ反省的思考の出番になる。
現象学的思考も反省的思考の一種なのだけど、反省的思考のスタイルを突き破って行為の只中、経験の只中に立ち戻ってその中から思考する(p.216)みたいなことが書いてあって、仏教みたいになってきてると思った。やっぱVarela-Thompsonの流れに親和的だな。
というわけでたいへん面白かったが、自分にとって耳障りの良いストーリーを探して読んでしまった感があるので、再読してみようと思う。あと「媒介論的現象学の構想」(pdf)も印刷してきたのでこれも読んでいく予定。
それにしても「媒介」ってなんだろうなあって思うんで自分でパラフレーズしてみるけど、「google猫」ってのがあって、あそこで平均画像がまるで猫の概念であるような言い方がされていたけど、そんなことをしなくても、多数の猫画像を他のものと弁別してカテゴリー化ができたということ自体が、そのさまざまな猫の画像をつなぐ媒介としての「猫概念」なわけ。
でもそうすると媒介というものに対して、またそれを認識する側に人間の認知活動に帰結させてしまうので堂々巡りになってしまう。(追記::佐藤駿さんの論点にあったように、「媒介」と「媒介者」というものが現れないか?ってこと。)
いや、いいのか、「媒介」じたいは反省的思考としてあるのであって、現象そのものが持っているわけではないのだから。もういちどそういう問題意識で読んでみることにしよう。
「媒介論的現象学の構想」も読んだ。けっきょく「媒介」として捉えることで反省的思考から遡るとどれも媒介としての扱いとなるということで、結果として「超越論的XX」の「超越論的」という言葉を使わなくて済むようにする試みなのかなと思った。
ただ、この種の反省的思考から遡るのって、いくらでも概念を捏造できたりしないだろうか。「原印象」はわれわれの意識経験の基づいていると思うけど、「原自我」とかはまったくの現象学的な反省的思考の産物なんではないのとか思う。そのうえ自己隠蔽によって起源を隠すとか、見てきたんかっていう。
われわれは「(現在、未来、そうであったかもしれない可能性へ瞬時に飛べる)反省的思考のモード」と「行為的連関のモード」とのあいだにあって、両方共を我々は普通に行き来しているのであって、そこは難しいことではない。
「エポケー」して「現象学的還元」するというのは前者から後者に移行することではない。「行為的連関のモード」のような直接的に経験と向かっている状態で現象学的な意味での反省を行ってそこから「原印象」とか「原自我」とかそういったものを抽出してくる作業のことであって、つまり反省しつつ経験に直面するという矛盾することをやるこそ難しいことなのだろう。だからメロポンが知覚の現象学の序文で「完全な還元は不可能」と言った、ということなら納得がいく気がする。
(追記:なお、現象学的還元はあくまでも、二元論的なものの見方などをいったん保留すること(エポケー)で自然的態度からの退却を行うことであり、[行為的連関のモード]も[反省的思考のモード]もどちらも自然的態度の一部分であるから、現象学的還元というときにやっていることはそれらに対する特殊な反省的思考であって、それを[行為的連関のモード]と対応付けた[反省的思考のモード]と同一視するのは間違ってる。この点はじめ勘違いしてた。)
「反省的思考のモード」と「行為的連関のモード」とを行き来することは難しくないけど「行為的連関のモード」でありつづけることはたぶん難しくて、だからヴィパッサナー瞑想とかマインドフルネス瞑想とかが技法として用いられるのだろう。たぶん。
都営新宿線での帰り道にふと考えたのでまとめてみた。「現象学的な思考での反省的思考と行為的連関」と「ポピュレーションコーディングによる確率密度分布の表象」をつなげてみる。
Fristonの自由エネルギーにしろ、トノーニのIITにしろ気に喰わないのはどちらも確率密度分布の概念を使っているということだ。それらは「そうであったかもしれない可能性」を含めたアンサンブルを前提としているという意味で表象主義の世界であり、反省的思考の賜だ。
でも実際のニューロンはボトムアップ的に外部からの入力のシナプス荷重を足し算しているだけだ。つまりそれは前反省的な、行為的連関のモードであり、そこに「そうであったかもしれない可能性」はない。この二つを明確に分けて考えたほうが良いと思うのだ。
確率密度分布もしくは尤度関数は脳ではどのように埋め込まれるかというと、Zemel et al 1998とかJazayeri & Movshon 2006にあったように、複数のシナプス入力の分布を使ったpopulation codingとして表現される。
表象主義的、反省的思考の世界ではこのような分布にアクセスする必要がある。行為的連関のモードではそのようなアクセスは行っていない。端的にシナプス入力を蓄積して発火してるだけ。
カエルは虫を見たら舌を伸ばし、大きい影を見たら天敵とみなして退却する。これが世界との直接的に対面しているということだった。そしてたぶんカエルの意識経験(「なにかがあるかんじ」)にとってはたぶんこれで充分なのだ。
おそらくはそのような原印象からもう少し時間が経ってから、それがほかならぬ虫であり、他のゴミとかではなかったということを認識したりするならば、このタイミングでこそ反省的思考が成立し、おそらく人間的なfull-fledgeな意識的経験もこの時生まれる。
でもカエルはそれがほかならぬ虫であり、他のゴミとかではなかったということを認識したりしない。トノーニの説明でのサーモスタットの話で言う「情報量の多さ」とはじつは情報量の問題ではなくて、「そうであったかもしれない」というアンサンブル分布を持つことだったのではないだろうか?
ブラック・スワンについてもこの図式で考えてみることにしよう。あるニューロンAは傾きニューロンからの入力を受けていて、その入力の分布による尤度関数を持ち、「ほかならぬこの傾きの角度」を表象するニューロンとして機能していた。
つまり、これまでの入力の履歴の情報を持って、それによって各傾きからの入力をnormalizeしてそのニューロンにとってのimpactの大きさを決めていた。
しかしじつはこのニューロンAは方向ニューロン(傾きの情報にプラスしてどちら向きに動くかの情報がたされている)からの入力ともシナプスを作っていた。けれどもこのシナプスへの入力は一度もなく、このニューロンは傾きを表象するものだと思われていた。
しかしあるときこの方向ニューロンが実際にドライブされてシナプスからの入力が実際に起った。そのとき何が起こるかというと、このニューロンAはフレーム問題を引き起こしたりしないで、行為的連関としてこの刺激に反応する。
そしてそのあとで、あらたな入力の確率密度に対応して各入力はnormalizeされて、そのニューロンにとってのimpactの大きさがupdateされた。結果としてこのニューロンは後付的にmotionニューロンとなったが、なんの齟齬も起こさず、あたかももとからそうであったかのように入力に応答し、確率密度分布としての尤度の表象を行った。
こんな感じなのではないかと思う。あとから見直すとポピュレーションコーディングであることを無視しているのでもうちょっとなんとかしたいが、ともあれ[力学系としての脳と確率論的な脳]を[行為的連関のモードと反省的思考のモード]に対応付けるということをしたかったということに気がついた。
「現象学という思考」合評会行ってきた。面白かった、というかこういう感じで皆さん読んでいるのかということが分かってよかった。あいにく新幹線の都合で最後の議論の時間の途中で辞去。
著者の田口茂さんと少しお話することができてとても良かった。私の盲視の仕事のこともご存知だった。会の中での話では神経科学者と意識についての論文も書いているということで、トノーニのIITについても言及してた。驚いた。ぜひまた詳しくお話しておきたい。(追記:そのあといろいろメールのやり取りして話を進めているところ。)
本質直感とか受動的綜合のあたりの話はじつはサリエンシーでかなり置き換えられるんではないかと思った。田口氏自身も他分野との連携のためにもフッサールのものものしい言葉を使わずに、あくまで現象に向かうための呼び名としての言葉(「意識」「流れ」「媒介」など)ということを強調していて、すごくいいと思った。
けっきょく現象学をやるためには現象に向きあう必要があって、そのためにはフッサール自身が書いたものにある実際の分析例とかに当たるのが参考になるわけで、そろそろ私も概説書から本人の書物に向かうべきかと思った。サバティカルがあったらやる。(<-絶対やらないパターン)
田口茂さんとのメールのやり取りのうち、吉田の部分を編集して作成:
IITは基本的にNeural correlates of consciousnessの延長上にある。Cristof KochがIITに肩入れしたのもそれ故だと思う。このためIITでもNCCで批判されていたことが当てはまる。たとえば行動が入っていない受動的な知覚意識を想定していないか、とか。Panpsychism的な結論が出るのはこのため。ただし行動の問題は、どうやったら高いphiのネットワークを作れるかというところにimplicitに入っているので、「行動が入ってない」という批判は正確ではないのだけど。
私自身はKarl Fristonの自由エネルギー原理のほうが確率論的脳と力学的脳の両方が入っている点で(それじたいは意識の理論を目指したものでないけれど)意識の理論に組み入れられるべきものではないかと考えている。自由エネルギー原理では、予想コーディング + Active inferenceという形で行動も中に入っている。たぶん意識の理論を構築してゆくとIITと自由エネルギーの両方がつながってくるんではないかと思う。
田口さんの本での自我の話(「自我は切れ目にあらわれる」)はかなり予想コーディング的発想ではないかと思って読んだ。また、「本質」の章で「変化していないことが変化していることの対比を形成する」という話を書いてあったけれども、これはまさに(空間的な)サリエンシーの概念そのものと言える。これを時間方向にも拡張すると(たとえば、均一な画面に光点が現れた場面)ベイジアン・サプライズという概念になり、これは予想コーディングにおける予測誤差と等価になる。
おそらくは現象学自体は予想コーディングとの親和性が高い。そういえば当事者研究の熊谷晋一郎さんも予想コーディングの枠組みを使って脳性麻痺の身体についての議論をしてた。
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