■ シド・バレットについていろいろ語る
(20240730) 「半透明でキラキラのサンダルに憧れて」
これいい話だなあ。自分も高校生の頃はサイケデリック・ロックにハマって、「夜明けの口笛吹き」時代のシド・バレットみたいなペイズリー柄のピタピタなシャツとか買ってた。でも恥ずかしくてあまり着る機会がなかったけど。
それは1980年代、デザイナーズブランドのスーツ着たり、アメカジが流行り、フライトジャケット(MA-1)を制服みたいに着たりとかそういう時代。普通の服屋にそういう服はないし、まだチャイハネみたいなエスニックファッションのチェーン店などなかった時代。広尾や高円寺とかにあるヘッドショップ(って言葉30年ぶりくらいに使ったw)に行かないとそういう服が見つからなかった。あと、御徒町のアメ横の服屋とかでけっこう探してた。
高校卒業したら太ってしまったので、もっと不可能になってしまった。いつか痩せたらそういうの着たいと思いつつ、50歳を超えてしまった。いまでもできるんだけどなあ。
シド・バレットの服装について、ちょうどいい画像がないか探していたら、国内盤の"See Emily Play"のジャケ写が掲載されているページを見つけた。「エミリーはプレイ・ガール」って邦題のやつ。
国内盤には歌詞カードも出てるけど、サビの"Free games for May"の部分が完全に間違ってる。これは当時の歌詞カードにはよくあったことで、歌詞が理解できなくて苦しんだものだった。
"Free games for May"という歌詞についてググってみるとトンチンカンな解釈しか出てこないのだが、これはピンク・フロイドが「夜明けの口笛吹き」発売前に開催したコンサートの名前のことだ。
このあたりの事情についてウィキペで調べてみると、このコンサート('67/5/12)で"See Emily Play"は"Games for May"というタイトルで演奏されてる。 5/21にレコーディングされて、6/16にリリースされてる。
デビッド・ギルモアによれば、シド・バレットの様子が変わってきたのはまさにこの時期だったと。
でもそれはそれとして、"Games for May"という言葉のニュアンスはちゃんと拾っておきたい。「5月のGame」のGameとは何か。
公式の"See Emily Play"のプロモ動画、味わい深いのは、シド・バレットの代わりにデビッド・ギルモアが出演しているところ。サムネでそれがわからないフレームが選ばれているのは、意図的なものだと思う。
ウィキペの英語版およびamassに書いてあるけど、このプロモ動画はベルギーのテレビ番組用に作られたもので、ブリュッセルのラーケン公園で撮影。この時期(68年2月)、シド・バレットはすでに演奏してないけど、まだ公式に脱退は発表されてないとのこと。
■ 「天きりん、ドゥイノの悲歌、禅とオートバイ修理技術」(さうして、このごろ2024年8月)
「公で活動している人の名や作者名」の呼称問題について、自分はどうしているか振り返ってみた。
-
- 批評的に作品に言及する場合は、たとえば「麻枝准のONE担当キャラクター」みたいに呼び捨てにしているかな。
-
- 一方で、有名人の言動に言及する場合は「氏」を付けるようにしてるかな。「アジカン後藤氏のnoteの記事」みたいなかんじで。
要は1)の主題は作品で、2)の主題は有名人なので。じつのところその境界は曖昧で、意識して使い分けてたわけではないけど、いまから振り返ってみるとだいたいそんなかんじになっているように思う。
ゲームクリエーターに言及するときは、シナリオ担当はさんづけ、イラストレーターは呼び捨てにする傾向があることにも気づいた。これもたぶん同じルールを反映しているのだと思う。
つまり、イラストレーターの言動にコメントすることはほとんどなくて、作品にコメントしてる。いっぽうでシナリオ担当に言及する場合は、その発言にコメントしていることが多いから。
こう振り返ってみると、それなりに一貫している気がしてきた。
札幌市民なのでプロ野球はファイターズを応援することにしてる。でも勝敗で一喜一憂したくないのでyoutubeのパテレしか観てない。そうすると、清宮幸太郎はいつもホームラン打ってるし、万波中正はいつもレーザービームで刺してるし、伊藤大海はいつもスローカーブを投げてる。活躍しているときしか観てないので、精神衛生上良い。ファイターズがいま何位かは知らない。
周東佑京はいつもファインプレーして盗塁決めてるし、甲斐拓也はいつも二盗を刺してる。
大谷翔平はspotvnowでしか観てないので、いつもホームラン打ってるし、盗塁成功させてる。いつのまにか3割り切ってるの見たときはさすがに驚いたけど。
伊藤大海は、札幌ドームではじめて観たファイターズ戦(2021年3月)のときにプロ初登板だったので、印象深い。あの時点でドラフト1位で期待されてはいたけど、まだ将来どうなるかわからない状態だったので。
リーガルリリー 9/7(土) cube garden これ行くか。とりあえず最近のセトリを作って聴き込んでみる。「天きりん」「アルケミラ」「リッケンバッカー」「1997」「キラキラの灰」は現時点ですでに好き。
ところで「天きりん」ってなんだろうと思ってググってみたら、「銀河鉄道の夜」の5章で出てくる「天気輪」が引っかかってきた。
「天気輪」が具体的に何を指しているかは不明なようだけど、「銀河鉄道の夜」の本文を見る限り、空に見える、なんらかの天文現象であるように読める。
Wikipediaに項目もある。ここでも「天気輪」が「きりん座」を指すと考え、「天気輪をテンキリン=天のキリンと解釈する」という解釈があるようだ。
そうやってググっている過程で、詩人の天沢退二郎が宮澤賢治作品の編著や評論をしているという記載を見つけた。あれ?そういえばこの人は「光車よ、まわれ!」の作者だっけ?と調べてみたら正解。
そういえば札幌に引っ越してきてからこの本を開いた記憶がないな、と引っ越し後未整理の段ボール箱を開けてみたら、文庫本(ポプラ文庫ピュアフル版)が出てきた。そういうわけで、今晩は寝る前にこの本を再読しようと思う。
ついでにその段ボールの中身を整理していたら、「ドゥイノの悲歌 岩波文庫 (手塚富雄訳)」の旧版(1986年、24刷)が出てきた。全編に書き込みが入れてあって、長い名詞句を区切る作業とかをしていた形跡がある。
この間ブックオフで買った「ドゥイノの悲歌 岩波文庫」はこれを改版したもので、活字や紙質は良くなったが、内容にはいっさい更新がない。
そういうわけで、旧版を持っておく意義もとくにないのだが、捨てるにしのびなく、本棚に2つの本を並べておいた。
この手塚富雄による訳では、二人称が「おんみ」なのが古臭すぎて耐え難い。たとえば、第6悲歌で(いちじくの樹への呼びかけで)「いかにおんみは花期をほとんど飛び越えて、遅疑することなく決意した果実のなかへ(…)、おんみの清純な秘密を凝集することか」とか。
これが「新訳リルケ詩集 富岡 近雄 (翻訳) 出版社: 郁文堂 (2003/6/1)」ではこうなる。「おまえは 花期をほとんど完全に飛び超して、早々に結実を決意した果実の中へおまえの純粋な秘密を押し入れる」
以前ブログ記事を書いたとき対訳も作ってた。
第八悲歌冒頭: あらゆる眼で生き物は Mit allen Augen sieht die Kreatur 聞かれた世界を見ている。ただ私たちの眼だけは das Offene. Nur unsre Augen sind 裏返しになっているかのようだ、そして生き物をぐるりと取り巻いて wie umgekehrt und ganz um sie gestellt 罠となり、その自由な出口を取り囲む。 als Fallen, rings um ihren freien Ausgang.
こちらのブログに、リルケによるこの詩の解説の抜粋がある。こことか重要:
もしも人々が、死や来世、永遠などのカトリック的認識に基づいて「悲歌」を理解しようとする誤りを犯すならば、完全にそれらの結論から遠ざかってしまうでしょう(…)「悲歌」の天使は、キリスト教の天国の天使とは何の関係もありません。
「悲歌」の天使にとっては、過ぎ去った時代の塔や宮殿は、ずっと昔からすでに見えなくなっているがゆえに「存在」している(…)まだ見えるものと関係している私たち(…)にとっては、天使は「恐ろしいもの」なのです。
「mond」での応答で「禅とオートバイ修理技術」に言及しているのを見つけた。
ここで、科学とは実験という目に見える部分だけではなく、仮説と検証のループを回すという目に見えない部分も含めたプロセスである、という引用をしている。ChatGPTが返してくれるのは、この意味で目に見える部分であるということで100%同意した。今後はAIが返してくるものが正しいかどうかを判定するリテラシーが重要となるので、格差はより開く方向に進むと思う。
なんか「禅とオートバイ修理技術」を読み直してみたくなって本を開いてみたら、折り目がついてる。ここが気に入ったようだ: (文庫版下巻p.208)
「コンピューター回路の電源は、1か0しか示さないとくり返し言われてきたが、そんな馬鹿げた話があるものか!…電源を切ったとき…回路は「無」の状態にある。…1とか0では意味をなさない不確定の状態にある。電圧計の表示を見れば、多くの場合、"floating ground" (グラウンドから浮いてる状態)の特性を示している。…つまり、1と0の状態がすべてを包含するというコンテクストよりも、電源を切った状態はもっと大きなコンテクストの一部となっているのである」
「…実験に携わる科学者は、実験計画の中に込められたイエス・ノーの問題に対して、結果的に「無」という答えがもたらされることが頻繁にあることをよく知っている。…「無」という答えをもたらした実験を、このように低く評価するのは妥当性を欠いている。「無」という答えを得たことはきわめて重要なことなのだ。それは、自然が孕む答えから見れば、問題のコンテクストがあまりに狭すぎるので、拡張すべきだと、科学者に向かって語りかけているのである。」
自分はこういう設定された世界(計算のために1と0のみで閉じた世界)の外側がある、という話が大好きなのだけど、それが科学の実践にまで広げていて、とてもよい。
増田経由で「さまざまな職業が社会にもたらす真の価値を計算する」を読んだ。
エッセンシャルワーカーやケアに関わる人の給料が低い問題はここで言う「社会にもたらした価値」の評価が解決の道となりそうだ。
鈴木健氏のPICSYはまさにこういう意味で、個人間のネットワークが他者を含めてどういう価値を生み出したかを計算してくれるかもしれない。
自分事として捉えるならば、教員は人材を輩出することで社会に価値を生む。だからこれはポジショントークだ。だが、例えば悪をなす人間を輩出すると、その罪が経済的損失として自分にも降りかかることになる。
「給料はあなたの価値なのか―賃金と経済にまつわる神話を解く」ジェイク・ローゼンフェルド こちらの本も読みたい。明日札幌市立図書館行ってくる。
ただし、この書評によると、対策の部分は対症療法的で、たいしたこと言ってなさそう。そこは期待してない。
それよか「なめらかな社会とその敵」のPICSYに興味がある。あれは終わってない(始まってもいない)ので、社会変革のための未来の技術として考えつづける価値はあると思った。
PICSYは貨幣制度だけど、本丸は分配なので、ほかの道がないか考える意義はあるかも。
「なめ敵」のレビューから。
「オートポイエーシス理論には、エクソソームもエピジェネティクスも、ウィルスによる進化も、RNAによるリプログラミングも出てきませんね。元にされているオートポイエーシス理論は、ひと昔前の概念と思った方がいいかもしれません。」
オートポイエーシスは生命が今実現していることについての理論なので、遺伝子を生命に必須なものと捉えてない。だからこのコメントは的外れだと思うけど、これはありがちな反応なので、自分がオートポイエーシスについて本を書くときは、こういう反応に対して先手を打っておく必要があると思った。
いっぽう「なめ敵」では、オートポイエーシス理論を補うように「核」の概念を加えている。それは自己組織化システムになんらか制御を加えたいという理論的な要請から組み込まれたものであって、オートポイエーシス的な考えからは離れていると思う。
この件についての私の考えは以前のブログ記事に書いた: 「CHAINセミナー 鈴木健「複雑な世界を複雑なまま生きることはいかにして可能か」に参加してきた」
ひとことでいえば、なめ敵での「核」は生命の構成要素ではなくて、いろんなスケールを上下するときに第三者から見たもの。「螺旋的な捉え方」の図を参照。
togetter: 毎度の自炊スレ。今回はスレ主が写真まで入れて「貧しさは選択肢を狭め、努力のコストは高くなる」ということを示しているのに、即座に「こういうふうに工夫すればよい」というレスが入ってる。それってしんどい人に「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」って言ってることになるから、毎度の泥沼展開へ。
でも後者の動機もわかる。たとえば「自分はお金も時間も設備もなくて苦しいのに自炊で月1万5千円で済ませている」みたいな自負があるからこその発言なんだよな。罪のないネットのやりとりに見えて、じつはそれぞれの人生を賭けた闘いになってるんだと思う。
自分ごとにするために書いておくと、一人暮らしを始めた27歳はまさにこんな狭い台所で、週5日9-18時で実験で週1で出張、炊飯器のご飯をカビさせて自炊は断念、帰宅は24時以降、たまに徹夜、3食+24時のコンビニ飯で太り、食費もかさみ、浪費癖が止まらず、結婚資金ゼロで(将来の)奥さんに叱られて、結婚後は財布を取り上げられた。
いま56歳で札幌単身赴任で仕送り生活。ポスドク当時よりも家賃が安くエアコンが無いアパートに住み、コンロは二口あるけど、まな板は片方のコンロを潰して使う。冷蔵庫の上に電子レンジ、洗い物用の棚を買ってその上に炊飯器。自炊は節約のためではなく楽しみのためと割り切ってる。人生最高。
■ 「北大第一農場、せんみつ、大通公園」(さうして、このごろ2024年7月後半-8月)
(20240728) 金曜日に業務スーパーに自転車で買い物に行った帰り道、なぜだか東の空が異様に明るい。21時なのに。月かと思ったが月は見えない。平成ポプラ並木まで戻ってくると、北大第一農場から札幌駅を越えた向こう側の空が明るい。これは何だと思いつつ写真を撮っておいた。(21:09撮影)
あとで調べてみたら、月は半月で22時まで現れない。もすこしググってみると、
「道新・UHB花火大会」は19:40から20:30を予定。約4,000発の花火が豊平川河川敷から打ち上げ
とある。方向的にどうやらこれが原因だが、花火そのものなら点滅して見えるはず。でもそうではなかった。花火の煙に陽の光が反射したんだろうか? もしくは大通、すすきのあたりの繁華街の街の光が反射したとか?
比較用に昼に撮影した写真を並べようと思ったが、ちょうどよいのがない。冬に撮影した雪の向こうに駅ビルが見える写真(左)と、手前の牛にフォーカスしている写真(右)があった。
急に「せんみつのオールナイトニッポン」というフレーズが降りてきたので「せんだみつお」でググってみたら、まだ健在で存命だった。
さらに調べてみたら、せんだみつおはオールナイトニッポンはやってなかった。ということは、昔小学生のころ深夜ラジオで私が聴いていたのは「燃えよせんみつ足かけ二日大進撃」だったようだ。こう書いても全くピンとこないのだが。
(20240806) 劇場場アニメ「ルックバック」観てきた!
行く前にあらかじめコミック読み直してみたけど、机で描きつづける後ろ姿を繰り返される表現を見るだけでもう胸に響く。
映画の方は前評判で「ほぼコミックの通り」と聞いていたけど、それでよかった。余計なストーリーが足されず、コミックの絵が動き、声が付き、音楽がつくことによって、すごくよいものを観ることができた。
そろそろ公開終了しそうだったので札幌シネマフロンティア のレイトショーで行ってきた。スクリーン1 (160席)に観客は20人くらい(数えた)。周り5mに誰もいない状態でゆったりと観ることができた。(泣きながら)
演出、音楽、声、ぜんぶ過不足なく、まったく不満がなかった。
ED前にちょっと心配していたのは、"Don't look back in anger"への言及についてだが、そこも自分的には不満なし。
コミックでは白黒の止め絵だったので見過ごしていたものが、カラーで動くことによって強調されて気づくことができたものもあった。
そういう意味では、コミックでは小さなコマだったものが、映画では画面いっぱいに広げて表示されるという違いはある。コミックの小さいコマのように、初回はなんとなく見逃してもいいように表示されているものが、映画では明確に意味のあるものとして読むことになる。
「余計なストーリーが足されず」と書いたけど、私が気づいた限り、唯一足されたシーンがある。これについて語りたいので、ネタバレ回避用に改行する。
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
足されたのは、編集との電話でのアシスタントについてのやり取り。藤野が「もしウチら漫画を連載できたらさ すっごい超作画でやりたいよね」と言い、京本もそれに応えて絵がうまくなるためにこそ美大に行った。想像のシーン中に「連載できたらアシスタントなってね」という発言もあった。二人で再び共作するという果たされなかった夢がたしかにあったことを補強する演出だと思った。
わかる。そんなに人混みが多くないところがよい。あと、春夏秋冬だいたいなんかイベントやってる。いまはビアガーデン。
自分は都心に出るときは、すすきのはぜんぜん行かないので、だいたい大通公園から狸小路あたりをぐるぐる回ってる。オタクショップもだいたいその範囲にある。丸大ビル、ノルベサ、あとピヴォ クロス(ボークス)。
清里、懐かしいなあ。大学の期末テストが終わった秋休み、特急あずさから小海線に乗り継いで清里駅に到着すると、夜も遅くて秋だから、駅前の店はすべて閉まって閑散としている。肌寒い中、若桐寮までテクテクとゆるい登り坂*を進んでいくと、宴会真っ最中に合流した。なんならあらかじめ酒飲んどいてテンション上げてた。
(*いまでも山歩きをすると、あの涼しい空気をふと思い出すことがある。)
思えば先輩方は大学生なのに車を持っていて乗り合いで来るので、電車で来る人なんかいなかった。あの時点で経済格差(=文化資本?)はあったのだけど、奢ってもらったりしながらそういうのを直視せずやりすごした。そんなバブルの時代。
■ 「相貌失認、キラキラの灰、文化資本」(さうして、このごろ2024年7月前半)
(2024/6/11) 「人の顔を認識できない「相貌失認」は意外に多い? 最大5%にも」のブコメ
ブコメに相貌失認の方の応答がずらりと並んでいる。もちろん自分ごとだと思う人こそがブコメするわけだけど、それを見ていると、たしかに思われている以上に相貌失認の人は多そうだぞ、と興味をひいた。これはネットに良い活用法だと思った。
Logic Pro XでStem splitter使うのすごく便利だ。
空のプロジェクトに楽曲を読み込んで、スマートテンポで解析をした後に「編集 > リージョンのテンポをプロジェクトテンポに適応」をしておく。この後stem splitterを適応すれば、プロジェクトとテンポが合った状態で分離した音源をいじることができる。
たとえば、ドラムだけmidiで打ち込んだものに差し替えることができる。逆に、ドラムだけ取り出してリミックとすることも可能。
つか分離した音を聴くだけですでに面白い。これまで聴こえてなかった音がたくさん聴こえて、分析的に聴くことができるのが楽しい。
かつては埋もれている音を聴くためには再生システムに金を掛ける必要があったわけだが、そこをAIが解決してしまった。マヂすごい。
たとえば"Tomorrow never knows"のドラムを分離して聴くと、バスドラムのドン、ドドンが強調して聴こえる。このモータウン的な成分のため、Setting sunのテクノなビート解釈とは違って聴こえる。
原曲ではポール・マッカートニーのベースが無機質な感じを出すために三連符のフレーズを弾いているため、それにビートの印象が引っ張られていたことがわかる。
あと、タンバリンがけっこう重要で、フレーズがどんどん変わる。
あと、曲の始まりはbpm129で、後半は124まで落ちる。人力なのでブレはある。クリック聞きながら叩いてはいないことがわかる。これは数値化してはじめてわかったので面白い。
無職転生第2期最終話まで観た。なるほど、ヒトガミが言ってた「ベガリット大陸(父のいる場所)に行けば後悔することになる」というのは「悪いことが起きるから止めとけ」という意味ではなくて、「ルーデウスが前世、今生において親を親とも思わずにいたことへの気付きに至り、それを後悔する」ことの予言だったのだな。
そしてヒトガミの言ったことの意味に、この時点のルーデウスはまだ気づいてない。(だから、最終話で留守宅でなにか悪いことが起きたのではないかと推測して、狼狽している。)
本作は言葉で長々と説明するのではなく、絵を使っていろいろ伝えてくる点がとてもおもしろい。
よい創作も、よい研究も、そのつど世界の限界をちょっとずつ広げてゆくものだ。でもそれはいつも、後付け的に他のものと繋げられて、「それは以前から予期されていた」「かならずしも新しくはない」と日常の当たり前に取り込まれてしまう。それは、我々の知覚の能力の、逃れ得ない特性だ。
だから、目を鍛えて、感受性を研ぎ澄ませて、その生成(becoming)に瞬間を見届け、それを味わっていくことで、日常の当たり前を大切な瞬間の連続に変えてゆくんだ。
そんな観察者が一人でもその瞬間、その場に立ち会うことができたなら、その創作物は報われ、贖われる。たとえ、その創作者が報われなかったとしても。
本当だよ。
「さいきんのアニメ主題歌」的な再生リストを流してたら、なんかすげーいいかんじのギターのイントロが流れてきたので作業をする手を止めて曲名を確認したら、リーガルリリー「キラキラの灰」だった。自分は「ダンジョン飯」観てないのではじめて聴いたのだけど、すげーいい曲だった。というわけでヘビーローテション中。
公式が基本のコードを公開してるけど*、レディヘのCreep進行だった。(*つべコメントにもあるとおり、Bが1-6弦反転している)
ヴァースの 354XXX はGmaj7なんだけど、3rdをomitしてあるのがオルタナ感出てる。
あと、ドミナントマイナー進行(C-Cm)が、x3555x -> x35543 となっていて、1弦を鳴らすかどうかを変えてある。公式がこう書いているのだから、ここはこだわりポイントなのだろう。
ここがもし x3555x -> x3554x だと、2弦 5フレ->4フレというモーションが目立ちすぎてベタなので、2弦5フレ->1弦3フレというモーションでマスクしている、ということのようだ。
"Strawberry fields forever"のドラムカバー動画を見てたら、フロアタムがドコドコいうのも込みで叩いてた。すげーとは思ったが、あれって原曲ではオーバーダブだよね?
ジョージ・マーティンが苦労して前半(take 7)と後半(take 26)を合体させた逸話は有名だけど、take 26では、リズムキープをメインにしてるドラム(センター)と、フロアタムドコドコ含めたフィルインを叩いているドラム(左側、アウトロで叩きまくってるほう)は別々に録音されたものに聴こえる。
ウィキペ英語版には以下の通り書いてある。
「12月8日のテープには、マッカートニーとハリスンが演奏したティンパニとボンゴ、そしてハリーズによるとビートルズの仲間であるマル・エヴァンス、ニール・アスピナル、テリー・ドーランが提供したその他のパーカッションも含まれていた。12月9日のセッションの開始時、15テイクのうちの2つのパートが編集され、1つの演奏にまとめられた。」
フロアタムだと思ってたあのドコドコは、ポール・マッカトニーによるティンパニだったということみたい。
この動画はウィキペの記述に忠実な再現を目指しているように見える。
「羊文学は東京の文化資本のある裕福な家庭で育った感じ」云々、について話を追ってたら、管啓次郎の名前が出てきてびっくりした。自分にとって管啓次郎は「知恵の樹」の翻訳者として知っていたが、詩作や批評もあるということで読んでみようと思った。
「東京の文化資本」云々については以前ブログに書いた: 「「100分de名著 ブルデュー」を読んで自分語りした」
これに加えて書くなら、私が好んで聴く音楽のうちカンタベリーやシューゲイザーは英国においては「中産階級の音楽」として揶揄された対象だ。カンタベリーシーンのキープレイヤーを見れば、マイク・ラトリッジはオックスフォード大学だし、フレッド・フリスはケンブリッジ大学だ。
ロバート・ワイアットが書いた"HULLODER"(1969)の歌詞はこんなだ。「もし僕が黒人で、ここ(NYC)に住んでいたら、FBIかCIAの偉い人になりたかっただろう。でも、僕はそうではないし、そう望みはしない。僕は自由で、白人で、21歳だ。今以上の権力が欲しいとは思わない、金欠なときを除けば。」いま発表された曲だったら炎上してただろう。与えられた者の立場から、かなりナイーブなことを言っていると認めざるを得ない。
シューゲイザーについてもライドとかは中産階級側として当時揶揄されていたはず。
どうやら私はそちら側の音楽が好きなようだ。
私にとってシューゲイザーとは「アンチ・ショービズ」としての意味を持っていて、その精神にはまさに「ガツガツと成功を目指さない、文化資本にあぐらをかいた奴ら」みたいに言われ得る。(歌詞が曖昧で心象的なところも、よく合致する)
XTCはねじくれポップだけど、アンディ・パートリッジは労働者階級で、地方工業都市スウィンドン出身で、根っこにはパンクがある人が、シド・バレットやブライアン・ウィルソンの影響を受けてああいう音楽を作ったというのは面白い。
わたモテ喪224、神回だったわ。加藤さんと希心の邂逅エピソードだったけど、加藤さんの激重感情が説明されて、それが(おそらく)希心の長いヤンデレ期を解決するきっかけになるのだろう。
これまでの加藤さんの心情を軸としたストーリーと、初期(土下座エピソードとか)からずっと続いていた希心のストーリーという、2つの独立したストーリーが今回でぶつかることで両方とも大きく進んだ。この構成がもう神回としかいいようがない。ひさびさに考察的な意味で、テンション上がった。
(20240721) サマースクールのゲストを連れてく場所の下見として(言い訳)、昨日から始まった大通公園のビアガーデンに行ってきた。
いちばん手前の西5丁目からサントリー、アサヒ、キリン、サッポロの会場がある。その奥の西10丁目に世界のビール広場というのがあって、そこでリーフマンスというのを選んだ(写真1,2)。これがジュースのようにスルスルと飲めてヤバい。
これ単品のつもりだったが、私の中の大槻班長が「フフ......へただなあ、欲望の解放のさせ方がへた....。」と言ってくるので、アイスバインを追加(写真3)。あっというまに消費してしまった。
しかたなくサッポロの会場でエビス中ジョッキを追加(写真4)。ひとり論文を読みながらゆっくり過ごした。
ほろ酔いの状態でいつものオタク周回コースへ。ノルベサのまんだらけ、(スト休業中の業務スー狸小路店を経て) BOOKOFF 札幌南2条店、丸大ビル、(とらのあな跡地にできた)ジャングル 札幌店、ピヴォ クロスのボークス札幌ショールーム。けっきょくなにも買わず。
家に帰ってみると、部屋の室温が32度になってる。これは危険。今夜の気温は26度で、熱帯夜になるらしい。たぶん今年初。
今日の札幌は昼は34.7度まで上がるほぼ猛暑日。とはいえ札幌なので、日陰に入ればそんなにしんどくない。(気温が34度というのは後で知って驚いたくらい)
■ 「箱から出る」について
(20240603) ネットの話題では「人として接しろ」っていう言説がしばしば出てくる。では何をしたら「人として接する」になるのか、という問題がある。自分はこれについて「箱から出る」という形で自分なりに掴むことが出来たと思う。
「(たとえば)コンビニの店員の行動にイライラして邪険に扱うのは、自分がそういう箱に入っているから」という話で、ここで扱われているのはまさに「人として接する」ことだ。
「自分の小さな「箱」から脱出する方法」 これは自分が価値があると思う、ほぼ唯一の自己啓発本。
「人として接する」ためには、カテゴリによるレッテル付けを越えて、個別の事情に対面する必要がある。だから、ネット上の匿名の会話でそこに届くのは難しい。
「箱から出る」ってのはいったんわかればできるようになることではない。人間の習性として、すぐに相手をカテゴリーに押し込めて、個人にそれを投影してしまう*。だから、不断に成功し続けるという形でしか達成できない。薬物依存と同じだ。
(* 原著ではこうして箱の中に入りそれを正当化することを「自己欺瞞」と呼ぶ。自己欺瞞は本書のメインテーマであり、英語のタイトルにも入ってる。)
だから自分は相手がコンビニ店員だろうと、通りがかりの老人だろうと、同じように箱から出るように、一種の修行を続けているつもりでいる。
そして、しばしばそのことを忘れる。だから今回のエピソードで、自分の重要な修行を思い出すことが出来てよかった。
毎度自分が言及する「銀河通信」の喩えにつなげるならば、ネットを介して、それでも箱の中でないような、個別性を保ちながら、どこかに届けばいいと思ってる。
だからこそ自分は個人名を出して、長年ブログを続けてきたわけで。それによって、もし将来なんか都合悪いことがあったとしても、この人はブログの内容をぜんぶ消して逃げたりはしないだろう、という信用を作ってきたつもりなんだけど。
こちらは別の話題だが、ネットネタ関連ということで、繋げてみる。
ジョセフ・ヒース「哲学者がキャンセルカルチャーを懸念すべき理由」
いろいろおもしろかった。哲学者が学問的実践として獲得してきた規範(1. 道徳的・政治的問題の議論における感情的中立性; 2. 他人の議論を再構成して提示すること; 3. 用語の規約的定義)がキャンセル・カルチャーに脆弱である、というのが本題。
話の枕では、哲学者もキャンセル側の行動をしてる(ソクラテスではなく市民裁判官側に立つ)があるのだが、話は上記の本題で終わってしまい、ここに戻ってこない。
上記の規範は自分も大事だと思うが、ネットには通用しないのもわかる。
「その学問的営為の中核にある「論証」に対して、ちょっと偏執的なまでの関心を持っているため、用語を定義することにも重きを置いている。」
このあたりは分析哲学のカラーが強そう。自分の少ない経験では、どうもこういう論文での、ある(心的)概念について定義を置いて論証、という形式にいまだ馴染めない。
心的現象(注意、意思決定、など)のほうが先にあって、それを言語的に表現することは簡単ではない。でもいったん定義してしまうと、その言葉に引っ張られて、本質を掴めてないので始めから的を外しているようにしか思えなかった。むしろ始めに定義した部分を疑うのが哲学ではないのか?とか思ってしまう。
お勧めエントリ
- 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
- 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
- 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
- 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
- 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
- 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
- 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
- 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
- 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
- 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
- DKL色空間についてまとめ 20090113
- 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
- ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
- Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
- 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
- MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213