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■ 鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んだ!

鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んでた。いま「ミニマムな表象主義」(6章)まで来たところ。

この「ミニマムな表象主義」、すごく合点がいった。ここでの表象主義は行動に利用されるかどうかによって決まるような「消費理論」的な表象であって、外的な刺激をそっくり写しとるような「再現表象」ではない。

つまり鈴木さんの説では表象主義のうちの「意識経験は(思考や痛みも含めて)すべて知覚経験である」(クオリアの志向説)を温存したうえで、再現表象ではなくてどう行動に活かされるかという意味での表象(消費理論的な表象)に作り変えていて、標準的な表象主義とは違うものなのだな。

これはようするに表象主義側からsensorimotor contingency (SMC)的な方向に向かったという言い方ができるかもしれない。SMCな人たちがシンプルなロボット(サブサンプション・アーキテクチャ)からどうやって表象を入れるか考えるのとは逆向きのアイデアで。

わたしが田口さんの本(「現象学という思考」)を読んで最近考えていること(前回のブログ記事)も、SMC(行動的連関、カエルの意識)から表象(反省的思考のモード)に移行するにはどうすればよいか、という問題について考えているといえるだろう。(その意味では、鈴木さんが書いているのとは逆向きから、記述的表象と司令的表象の関係を捉えようとしているというふうに言えるのかもしれない。)


6章まで読み終えた。鈴木さんのミニマルな表象主義とsensorimotor contingency(SMC)の近似性は動物の意識の議論のところでより明確になる。ミニマルな表象主義において意識を持つために必要なのは「本来的表象」を持つことだからカエルのように刺激と行動がハードワイヤされているものでも意識経験はあるという帰結になる。これってSMCとおんなじだ。

また、同様にしてロボットでも意識は持ちうるということになる。ただしp.187の書き方では明確で無いけれども、本来的表象というのはあくまで個体自身の生存にとって有効な情報を分節してくることによるものだから、外側からゴールを与えられた現状のロボットには本来的表象はない。ここに自己と意識とが同時発生する必要性が出てくるし、life-mind continuityという概念が必要になってくる。(参照:Evan Thompsonの"Mind in Life"とか)

(p.187で書かれていることは、「本来的表象」を作りこむことさえできれば、意識を持つものは生物的な素材である必然性自体はないんだ、という点に限局している。)


鈴木貴之さんの本を読了した!面白かった!さていろいろ考えたことをまとめてみたい。

この本は序論にシャーロック・ホームズの「不可能なものをすべて除けばあとに残ったものが真実」というエピグラフを置いて、意識経験の説明についての可能性を狭めながら、残る可能性は「ミニマルな表象主義」である、と結論づけている。

このような構造にしてあるので、読んでいると明晰に話が進んでゆくので気持ちが良い。でもこの構造を保つために強引に論を進めているところもある。たとえばそれが見える例としてp.207からの知覚と思考の違いに関する議論がある。ここでは第二の提案として「思考には知覚にない体系性がある」というのを退けて、第三の提案として「知覚経験がエゴセントリックな表象形式を持つ」という議論を進めてゆくところでこう結論付ける;「思考にあって知覚にないものは、このような強い体系性だ」(p.211)ってそれさっき否定してたぢゃん!

いやわかってる、ここでの「体系性」とは思考が無視点的であることからの帰結なので第三の提案で出てくる概念がないとこの話ができないってことは。でも、このような論説スタイルを取ることで、議論の流れ方を優先していて、ロジカルにすべてを尽くすように書いているわけではないということが読んで取れる。

そのような意味でこの本の流れで強引だと思うのは、第3章のところで、タイプB物理主義以外の物理主義が表象理論に限るようになってしまっているところだ。ここは意識を持つことの条件を物理主義的に説明できるものならなんでもいいのだから、表象だろうとグローバルワークスペースだろうとIITのphiだろうとsensorimotor contingencyだろうとなんでもいいはずだ。表象主義が有望なのはいいとしてなぜほかのものでは不十分なのかを除外してない。もちろんそれを言い出したらきりがないので、本文200ページの本として出すためにはこれで正解だとは思うけど、なぜ表象主義なのか、っていうかなり肝心な部分が案外あっさりしている。

それで表象主義自体についての話だけど、鈴木貴之さんの「ミニマルな表象主義」ってのは本当に必要なの?ってのが次の論点。つまり表象なしのsensorimotor contingencyの成立とどう違うの?っていう。

ちゃんと系統だって説明すると、鈴木貴之さんの「ミニマルな表象主義」では「本来的な表象」が成立することすなわち意識経験があることになる。この本来的な表象っていうやつは記述的な表象と司令的な表象が分かれてないオシツオサレツ表象であってもよくて、そのかわりその個体の生存にとって有益になるように外界からの入力を分節して適切に行動できる必要がある。そのときの内部表現として、あるニューロンが小さい物体(カエルにとっての餌)と大きな物体(カエルにとっての捕食者)の選択性を持っていれば良いということになる。なるほどミニマルだ。

しかしそれなら、このような意味での内部表象はカエルにとって必須だろうか? ロドニー・ブルックスのサブサンプションアーキテクチャの話を思い出してほしいのだけれども、センサーとモーターが適切にカップルしていれば、そのような内部状態を持たなくても適切なsensorimotor contingencyを作ることができる(左右どちらから光が来るかで左右のモーターが動いて左右に旋回することで光を追う能力を身につける)。そうするとこのような構造を持った動物とカエルとではできる行動は質的には変わらないけれども、意識があるかないかは内部状態があるかどうかだけで変わってしまう。前者はいわばゾンビカエルだ。それでいいのだろうか?

ここまで考えると、この「内部表象」という概念をもっと突き詰めるべきなのではないかと思えてくる。オシツオサレツ表象での内部表象ニューロンはただの神経の反応選択性であり、実験者からはその違いは見えるけれども、そのニューロンの下流にある運動ニューロンにとってはただ入力のオンオフを決めるものにすぎない。つまり、ここでの内部表象はサブパーソナルでは物理的因果によって作動しているだけで、それが本来的な表象であるかどうかはパーソナルレベルで決まるのだから、ニューラルネットワークの中間層に見られるような分散化した非明示的な表現でも構わない。つまりこの内部表象ニューロンが本来的表象であるためには、とくに明示的に表象としての情報を持っていなければならないという理論的要請がない。だからさっき書いたように、サブサンプションアーキテクチャでの表象無しでのsensorimotor contingencyの成立と何が違うの?っていう疑問になる。

もしこれがオシツオサレツ表象ではなくて、記述的な表象と司令的な表象とが分かれるシステムであるならば、記述的な表象は状況に応じて様々な行動に使うことができるようになり、内部表象として持つことの生物にとっての意義が現れてくる。たぶんオーセンティックな表象主義ってのは、記述的な表象がそういったフレキシブルな行動を支えられるようにワーキングメモリーなどの概念と組になって初めて役に立つんではないかと思う。(ここは専門家でないのでわからん。)

ただし、オシツオサレツ表象ではなくって、記述的な表象と司令的な表象とが分かれることが意識があることの条件に必要であるとしたら、「ではどのくらい分かれていればよいのか」といった、あらたか基準を設ける必要が出てくるのでミニマルである意義が吹っ飛んでしまうだろう。「グローバルワークスペースの情報が入る」とか「phiが一定以上の値になる」といったものを補助的に使う必要が出てくる。

とはいえ私はべつに、明示的な表象が必須であると言いたいわけではなくて、逆にカエルの意識を説明するのに「ミニマルな表象」で充分なのだったら、sensorimotor contingencyがあるという条件だけで充分なのではないの?って言いたい。そのうえで、記述的な表象と司令的な表象とが分かれることで、カエルの意識からヒトの意識へとなんらか質的な変化が起こるかもしれなくて、それを知るためには表象を脳に埋め込む(自然化する)ということがどういうことなのかより正確に理解した上で、予想コーディングでいう「予想」「モデル」の実体って一体なのよ、とかそういうことを考えていったらいいんではないか、みたいなことを私自身の問題意識として持っている。

このへんについては鈴木さんの本への応答というよりも前回のブログ記事からの展開といったほうがよいので、次回のブログ記事で別枠で書いてみようと思う。つづく。


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