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■ 盲視についてのガザニガの懐疑とゼキの懐疑
盲視の定義に意識が入るといちいちややこしくなるので、その手前の問題をまず片付けるのが先決。つまり、1)光散乱などの損傷側以外の視覚情報を使っている、2)損傷していない脳が部分的に残っている、3)degraded normal visionではない、この三つの可能性を排除しておく。
そのうえで、盲視で起きている経験が「視覚意識」なのかそうではないのか、これがWeiskrantzとZekiの間での論点。私にとってはべつにそれが盲視であろうがRidoch syndromeであろうがかまわない。どうやらそれは個人差とトレーニングとに関わる領域らしい。
前述1)2)3)のような懐疑(これはガザニガとかの論点)さえ除去できればよい。ここを混同するとわけの分からないことになる。
「個人差とトレーニングとに関わる領域」と書いたことの意味は、盲視で視覚刺激の位置同定ができるとどうやら、まさに位置同定ができるということに基づいてある種の意識経験を持つようだ(いわゆるtype II blindsight)。これはsensorimotor説とも整合的だし、デネットが言っていることともそんなに変わらない。
いっぽうでGY氏を被験者とした論文を読んでいると、縞模様を動きとして経験できてはいないようだ。つまり、視覚刺激の「位置」の情報は持っているけれども、「content」の情報を持っていない。
視覚刺激のうち処理できるチャンネルに応じて、その属性の意識経験が生まれる。MT損傷で動きという属性が失われるのと同様に、V1損傷は視覚刺激のcontent (<->位置)を失う。ゆえにより本質的な変化が起こっているように見える。
盲視の説明をするときは、この二つ(ガザニガの懐疑とゼキの懐疑)がぜんぜん別物であることを示さないといけない。両者を混同されて、盲視が怪しいものだと思われるのは困る。世の中に盲視に懐疑的な人はけっこういるので、その懐疑がどちらなのかを見極める必要がある。医者はたいがいガザニガの懐疑。ASSCで問題になるのはゼキの懐疑。
ガザニガの懐疑は「V1が損傷しているのに残存視覚があるなんてあり得ない」と書けて、ゼキの懐疑は「V1が損傷したら(すべての)視覚意識がなくなるというのはウソだ」と書ける。
そして、ガザニガの懐疑は排除できる。ゼキの懐疑は充分正当性を持っていると思う。わたしも「すべての視覚意識にV1が必須である」という考えには賛成しない。以前から「カエルの視覚経験」という表現をしているように、あるlow-levelの意識経験があるとは言っていたけどV1は視覚意識のうち、その場所にあるcontentの経験を失うという意味で非常に根本的ではあるけれども、それでもそれは「すべて」ではない。
どうしてこんなに盲視が少ないか、という質問に対しては「盲視の検査および機能回復トレーニングが医療のプロセスとして組み込まれていないから」というのが原因の一つであると答える。
ここから先はもっと医療の現場の実情をよく知った上で言った方がよいのだけれども、もし脳梗塞などで半盲が起きて、視野検査でscotomaの位置が同定されて、それが安定しているようなら、そのあと退院してから何かフォローアップがあるわけではない。そのへんでけっこう見逃されているのではないだろうか?
ガザニガの懐疑は完璧に排除できないと論文にならない。ゼキの懐疑はその境界領域を議論すればよい。ガザニガの懐疑はheminanopiaとblindsightの区別。ゼキの懐疑はblindsightとRidoch syndrome (もしくはgnosopsia/agnosopsia)の区別。
言語報告で利用できない属性がサッカードでは使えるというのが見つかったらおもしろい。出ないなら出ないで、盲視がある種の病態失認(「見えているということを否認する」ハクワンのBiasが変わっている説はそれのバリアント)ではないということを言うのに助けになるかもしれない。
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- / 投稿日: 2011年11月02日
- / カテゴリー: [視覚的意識 (visual awareness)]
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