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■ LammeのV1記録からはじまってV1と注意の関係へ。
このあいだのpresentationに関する話などでnhkさんとメールのやりとりをしていたのですが、面白い方向に展開してきましたので許可を得て掲載します。多少編集、加筆してあります。
教えていただきたいのですが、pooneil blogで、Lammeらの一連の仕事のうち、MUAをfilterにかけたDC成分を使ったものは信用できんと書かれていますが、どうして信用できないのかをお教えくださいませんでしょうか。
以下が私からの返信:
いえいえたいした話ではないのですが、single-unitでの記録との比較を問題にしているのです。
まず、同じニューロンをとり続けているかどうかの保証がもてないこと、それからburst発火が起こるとfieldの波形が潰れるのでLammeのMUAの値はsingle-unitのfirng rateとは少なくともlinearには相関していないし、場合によっては単調増加ですらないかも知れません。
というわけでわたしのlammeらの仕事に対する意見は、「MUAで見たことがsingle-unitで確かめられない限り信用することができない」というものです。
たとえば、V1から記録してshort-term memory taskでdelay activityを見つけた(Science)という論文があります。ここで見ていることに対応したsingle-unit activityがあるかどうかは確かめられていないし、たぶんそういうものはないでしょう。なんらかのsubthresholdのactivityを見ているという可能性はありますが。(初期のfigure-groundでのlate responseのmodulationに関しては single-unit, MUA両方の活動を見ているはずですが、 short-term memoryに関してはそれはなかった。)
そういう意味で、Lammeの仕事をsingle-unitの仕事と並べて理解するのはまずいと思っています。Lammeが見ているものはField potentialの動態を見た仕事のほうにたぶん近いのではないでしょうか。その意味では、Field potentialの動態自体は重要で面白いと思っているのですけど。
たぶんlammeのMUAは高次視覚野からのfeedback入力にたいしてよりsensitiveであって、feedbackのシナプス入力みたいなものも寄与しているんだと思います。そういう意味では、Human fMRIでV1のattentional modulationが見られるのにnhpのsingle-unit recordingではV1のattentional modulationが見られる、という問題があって、これはfMRIで見ているものとsingle-unitで見ているものが違うからではないか、という議論があるのですが、それと同じことなんではないかと考えております。
そうしましたらさらにこういう返信をいただきました。
お返事ありがとうございました。Lammeの話、よくわかりました。V1が意識に果たす役割について考えているところで、私的にはこの話が出てきました。
すこし話はとびますが、attentionとawarenessの関係を考えると、話が難しいなと思っています。
Heegerの、traveling waveのV1でのattentionによるgatingの話も、どう解釈するのがよいか。一つの解釈は、pooneil blogにあったとおり、あの場面でのawarenessは、V1の活動と一致しない。従ってV1なしでもawarenessは成り立ち得る(contentsは決まる)という考えだと思います。妥当な解釈だと思いますが、それでいいのかなという思いもあります。
これはawarenessの定義によるのかも知れませんが、attentionが逸らされた視覚刺激のawarenessは低下する、すなわちこの場合はattentionとawarenssが正方向に相関していると考え ると、Heegerの結果の解釈はなんとも言えない。atttentionが逸らされているため、traveling waveのawarenessは弱まっている。それはV1の活動が意識されないためだ、したがってV1の活動はawarenssに重要かも知れない。
V1のawarenessへの関わりの有無を決定付けるような実験ができないものかと考えています(むろん大した考えはありません)。
うーむ、端的に言えば質的な差ではなくて量的な差の問題ではないの?ということですね。いかにしてawarenessと(top-down) attentionを分離するか、という問題でもありますね。その意味ではこれまで何度か言及してきたカルテクのKochと土谷さんの仕事(Nat Neurosci. 2005 Aug;8(8):1096-101. "Continuous flash suppression reduces negative afterimages."およびTrends in Cognitive Sciences Volume 11, Issue 1, January 2007, Pages 16-22 "Attention and consciousness: two distinct brain processes")の意義は重要で、あれの場合、attentionがあるとかえってawarenessが下がってしまうわけです。ゆえにattentionとawarenessが正方向に相関しているとは必ずしも言えない場合がある、このことを示したのがあの論文のいちばんの意義だと思います。これに関しては「量的な差」の議論はしにくいのではないかと思います。
もひとつ追記で、Kentridgeの論文でblindsightの患者さん(G.Y.さん)がawarenessのない光刺激の弁別で、top-down attentionを向けることでその成績が向上する、というのもあります(Kentridge RW, Heywood CA, Weiskrantz L. "Attention without awareness in blindsight."Proc Biol Sci. 1999 Sep 7;266(1430):1805-11)。これなんかもawarenessとtop-down attentionとをdissociateした例と言えるでしょう。わたしの学会発表もありますが、これに関してはまた論文になったら、ということで。
そしたらさらにnhkさんから返信が。
Tsuchiya and Koch (NNS)は、私ももちろん重要論文だと思います。原稿の中の吉田さんのコメント「あれの場合、attentionがあるとかえってawarenessが下がってしまうわけです。」ですが、より正確には、attentionがあるとafterimageが下がってしまう。一方CFSでawarenessを消すとafterimageが下がってしまう。「ゆえにattentionとawarenessが正方向に相関しているとは必ずしも言えない場合がある」と理解していますが、これで正しいでしょうか。
attentionとawarenessが正方向に相関しているとは必ずしも言えない場合があることから、attentionとawarenessは違うメカニズムに基づくという考えはとても面白く、多分正しいと思います。
他方、多くの場合のphychophysiocsの実験では、attentionがdivertされた状態をawarnessがない状態と考えて実験している、つまりattentionとawarenessが正方向に相関している場合を実験に使っています。
ここではあたかも量子力学における観測問題のように、awarenessを生じるとattentionも生じている、ゆえにattentionとawarenessは違うメカニズムに基づくとすると、awareness本態のneuronal correlateを捉えがたいと。
そこでTsuchiya and Koch (TiCS)は両者を別々にmanipulateすることを提唱しているという理解で正しいでしょうか?
はい、そのように理解しています。"Attention and consciousness: two distinct brain processes"はそのへんを明示的に扱っていて、[top-dwon attentionが必要/必要でない] * [consciousnessが発生する/発生しない]という4通りに分けています。上記のG.Y.さんの話も"Attention without consciousness"の例として挙げられています。
ところでこれはわたしの持論なのですが(まえにLogothetisの話のところでも書いたかも知れません)、consciousnessとかawarenessという言葉を使うときにはそのcontentの議論をしていて、いろんな脳内活動の「結果」だと思うんです。いっぽうで、(top-down) attentionというのはselectionのprocessであって、さまざまなattentionのneural correlateというのはその「過程」を見ているのだと思うのです。つまり、Marrが言うところの「representationとしての神経過程」が「consciousnessのcontent」でして、「processとしての神経過程」が「attentionにおけるselection」だと思うのです。(わたしはこの文脈でのrepresentationという言い方は好きではありませんが。) このように分けてしまえば両者を同一視するのはカテゴリカルエラーだ、ということになります。
問題は「Marrが言うところのrepresentationとしての神経過程とprocessとしての神経過程とがなんで混ざっているのか、ということになります。わたしがMarrの「ビジョン」の最終章の図を見ていていちばんよくわからないところなんですが。ざっくりとしたアイデアですが、川人先生の双方向理論からの連想で考えれば、bottom-up(逆モデル)がprocessでtop-down(順モデル)がrepresentationだ、とか言えたら面白いのではないかと思うのですが。ただ、すくなくともそのニューロン活動を受け取っている別のニューロンが情報を読み出すときにそのような区別を付けることができなければこのような分け方の意味がなくなってしまいます。(そのむかしOKさんとメールのやりとりをしたときにそういう話をしたことがあります、というかほとんど教わるばかりだったのですが、そのころからずっとこういうこと考えてます。)
ところでMarrの話はまだエントリにしてませんでした。じつはASCONEの後に書いた物を下書きとしておいたままでした。そのまま公開すると私が「ビジョン」を読んでないことがバレバレになるので暖めていたのですが、上のパラグラフの意味がわかるようにそちらも公開します。
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- / 投稿日: 2007年12月12日
- / カテゴリー: [視覚的意識 (visual awareness)]
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