[月別過去ログ] 2018年06月

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2018年06月25日

ブロードマンの脳地図の欠番

先日のTwitterでのやりとりで神谷さんがブロードマンの脳地図の欠番について言及していた。

これはなんかのときの話のネタになるかもと思ってざっと調べてみた。

ブロードマンの脳地図では13-16野と49-51野が欠番になっている。たとえばMark Dubinのwebサイトにある脳領野のリスト。今回はとりあえず13-16野だけを話題とするけれども、なんで13-16野が無いかというと、これはあくまでヒトの脳地図だからで、他のnon-human primatesでの地図では13-16野は島insulaに割り当てられている。

このことはZilles and AmuntsのNature Reviews Neuroscience 2010には以下のように書かれている。

Each cortical area of his human map is labelled by a number between 1 and 52, but areas with the numbers 12–16 and 48–51 are not shown in his map. Brodmann explained these ‘gaps’ with the fact that some areas are not identifiable in the human cortex but are well developed in other mammalian species. This holds true particularly for the olfactory, limbic and insular cortices. The insular cortex is segregated into areas 14–16 in Old World monkeys (for example, Cercopithecus) and into areas 13–16 in prosimians (for example, Lemuridae). Brodmann could not find homologous areas in the human brain.

この総説のSupplementary information S1でブロードマン(1909)英訳版の図が転載されていて、旧世界ザル(オナガザル)や原猿(キツネザル)にはinsulaに13-16野があることが示されている。

ブロードマン(1909)英訳版はGoogle Booksで少し読むことができる。119ページのFig.89ではヒトのinsulaがJ.ant, J.postとなっていて、番号が割り当てられていない。また122ページのinsularの記述では1904年の段階では4つの領域に分けていたが、1909年版では2つに分けるとしてあり、番号は割り当てられていない。Google Booksでは123ページにはアクセスできないが「より正確な領野の同定には今後の研究を待たなければならない」と書いてある。もしかしたら将来的にはヒトのinsulaでも13-16野を割り振るつもりだったのかもしれない。

ブロードマンの脳地図が未完成であるということについては河村満氏の記事「ブロードマン没後99年に寄せて」(週刊医学界新聞)に記載がある。ブロードマンは50歳直前に亡くなっていて、それまでに脳地図もアップデートを繰り返している。河村満氏のもうひとつの記事「情動領域とBrodmannの脳地図:とくに12野について」(臨床神経学)にもう少し詳しい記載がある。さらにこのシリーズの決定版と思しき12ページ長の記事が「ブロードマンの脳地図をめぐって」(神経研究の進歩)にあるようだが、残念ながら当施設では購読してないので未読。

ブロードマンの人生についてはNeurosurgery 2011という記事に記載がある。けっこう苦労人で、ドイツの中をあちこち移動している。フランクフルトからベルリン、チュービンゲン、ハレ、ミュンヘンというかんじで。ベルリンでVogt夫妻のもとで主著であるBrodmann (1909) "Localisation in the Cerebral Cortex"を出版してから、テニュアの教授になるために教授資格論文(habilitation)を提出したけどリジェクトされている。Vogtの(Facultyへの)怒りのコメントが引用されてる。

“every effort to provide [Brodmann] with a modest, but secure living has failed, mainly due to non-understanding. The Medical Faculty in Berlin thereby carry great guilt on their shoulders.”

それでブロードマンは1910年にチュービンゲンに移動して、医師として働きながら空き時間に解剖学の実験室をセットアップをしつづけて、1913年にやっとチュービンゲン大学の医学部の教授になる。でも第一次世界大戦が始まり、ブロードマンは志願して精神病院で働いたので研究は中断している。そのあと1916年にハレで検死解剖が可能なポジションを得て、1918年にクレペリンに招かれてミュンヘンのPsychiatric Research InstituteのTopographical Anatomy部門長になって、これからというところで肺炎で急死。

まあこのあたりについては「ブロードマンの脳地図をめぐって」(神経研究の進歩)を読んでもらったほうがよさそう。ではまた。


2018年06月23日

駒場講義2018「意識の神経科学と自由エネルギー原理」無事終了

駒場でのオムニバス講義「意識の神経科学と自由エネルギー原理」ですが、無事終了しました。講義スライド(画像及び未発表資料の削除をしたもの)をslideshareにアップロードしました。併せて生理研の講義資料ページもアップデートしております。

駒場学部講義2018 「意識の神経科学と自由エネルギー原理」講義スライド from Masatoshi Yoshida

ここ数年の講義ではだいたい前半に「視覚失認」「盲視」、後半に「自由エネルギー原理」「統合失調症」という構成で行ってきたのだけど、全体に詰め込み気味になって良くないなあと思っていたので、自由エネルギー原理部分の資料が充実してきたのを機に、今回は前半を「統合失調症」、後半を「自由エネルギー原理」と明確に分けて行いました。

執筆中のFEP入門の総説(後半でFEP意識論を展開)で議論が整理できたので、そのあたりは昨年12月の「感覚運動随伴性、予測符号化、そして自由エネルギー原理 」よりは明確になったと思う。あのときは反実仮想と介入がまだごっちゃだったけど、これも明確に分けた。

以下反省事項というか振り返ってのメモだけど、途中質問込みでだいたい狙ったとおりのことをしゃべることができた(part 1のinsulaとpresenceだけスキップ)。時間配分、内容の量的にはこのくらいでよいみたい。自分のライフワークである盲視の話をしないのって奇妙な感じだけど。

前半の統合失調症パートは「意識経験の変容」の部分に重点を置く構成だった。統合失調症のベイズ脳アプローチについてベイズの図を書いたただのお話、みたいなパートが長すぎたので、もっとFletcherとかあのあたりの実験報告のエビデンスを足したほうが説得力が出るだろう。

あと、視覚サリエンスについては深追いせずに通り抜けるつもりだったけどそのあたりの質問が何個かあったので、ちゃんと知覚サリエンスと動機サリエンスの違いを明確に分けて、それぞれサリエンシーマップの概念についての説明、動機サリエンスについては松本さんのDAニューロンによるサリエンスのコーディングについて言及するところまでやると収まりが良さそう。そうすると視覚サリエンスはNMDAとGABAで、動機サリエンスはDAなので、統合失調症のglutamate説、dopomine説、GABA説についても言及できる。このあたりは次回の宿題。

後半の自由エネルギー原理パートについても、國吉研オムニバス講義のときよりは「FEPと意識論」については散漫にならずにちゃんと論理の道筋を作ってしゃべることはできたと思う。ただし、Bogacz 2017を参考にして作成した予測符号化の説明はもっと簡略化できた。あそこで言うべきことは「推測と予測誤差は神経発火、生成モデルとaccuracyはシナプス重み」これに尽きるのに。あと、脳で予測符号化していることのエビデンスを足すことのほうが必要そう。このあたりは次回の宿題。


そのあとは池上さんと池上研の院生の方と夕食。毎年ここで話をするのが楽しみ。今回もいろいろな話が出たが収穫のひとつは「意識は次元縮約であるかどうか」という話題。FEPの基本構造は、VAEのような生成モデルを用いたニューラルネットとほぼ同じ。VAEでは入力画像Xに対してhidden varianble Zとして次元縮約をして、そこから生成モデルで入力画像Xを復元してやる。FEPでの感覚入力sはVAEの入力画像Xに、FEPでの外界の原因xはVAEでのhidden variable Zに対応する。ということは我々の意識経験は多様なようでいて、じつは次元縮約した原因xから生成された感覚入力sであるなら、次元は低いという結論になる。しかし我々の説では意識とは「復元した感覚入力」ではない。カメラのような古典的表象説ではないので。

そうではなくて我々の説では、イマココの志向的対象q(x)と非主題的な前提条件p(x,s)とそれらの相互浸透によってひとかたまりの意識経験となっている。Change blindnessの実験からもわかるように、われわれは視線を向けないと変化に気づくことはできないが、そのような視野の部分も視覚クオリアは欠けていない。たぶんここの部分は盲点のfilling-inの現象と同じように「視覚経験はあるつもりでいるし、見ようと思えばいつでも視線を向けることができる」というようなもので、イマココの推測と生成モデルから「こうなっているはず」で埋められている存在なのだろう。Flash-lagでのpostdictionと同じ。 そうしてみると、われわれの説はかならずしも「意識を次元縮約だと考える」説にコミットしていないし、「意識を次元縮約だと考える」説というのはWM的なアクセス意識の考えではないかと思う。「FEPと現象学に基づく意識論」ではそのように考えないし、それゆえに正しく現象的意識の理論になっているのではないだろうか、こんなふうに議論できるのではないかと考えた。

あと別の話題では、池上さんは空間に定位しないクオリア経験の重要さを強調してた。視覚と眼球運動から考える私には無い視点だが、考えてみれば盲視での「雰囲気で上か下かわかる」とはまさに空間に定位しない意識経験だ(空間の情報なのに!)。そういう意識経験がたくさん折り重なっているというのが正しいのかも。

あと別の話題では、池上さんの他者論では他者の予想不可能性を強調するのだけど、ToM的な社会性の研究ではいかに予測をするかを考える。すると池上さんが言おうとしている他者性とは、ToM的な予測をしつつも予測不可能な部分なのだろう。でも思うのだけど、この他者性においても、同時にその予測不可能性には開けている。どういう意味かと言うと、田口茂さんの本にあった、我々の視覚が予想に基づくものでありつつも予想を裏切られることは織り込み済みであるのと同じ意味で。今回の講義や総説ではそのような知覚の特性がベイズ的であると 言ってはみたけれども、ほんとうのところこの面はベイズでは取り扱えてないと思う。

まだいろいろあるのだけど、こんなところで。


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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