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■ 田口茂「現象学という思考」合評会行ってきた!

「現象学という思考-〈自明なもの〉の知へ」(筑摩選書-田口-茂) 読了した。これすごく読みやすくていい。平易に書かれてるので眼が滑って飛ばし読みしちゃってるから再読が必要だけど。「現象学的還元」とか「超越論的主観性」といったフッサールのものものしい用語は最小限にした上で「媒介」をキーワードにまとまりのある説明を飲み込めてとても良かった。

「媒介」とか「流れ」とかそういうの大好きなんでするっと飲み込めちゃったけど、そういうの好きでない人を説得するようなものではないと思った。「媒介的振動」とか書いてあって、はいはい、オートポイエーシスのカップリングね、とか思って読み進めたら本当に「知恵の樹」とか出てきて驚いた。

「経験は「当てはずれ」に開かれている」みたいな説明の仕方は「真理の哲学」(貫成人)でも見たけどベイズ的で尤もらしい。ありえなかったことまで取り込んでモデル化して後付け的に当たり前にしてしまう「ブラック・スワン」ってのがまさにこの作用そのものなんではないかとか思ってるのだけど。

あと、間主観性の説明ではじめて腑に落ちた気がした。つまり、「現在、未来、そうであったかもしれない可能性へ瞬時に飛べるような反省的思考のモード」にあるときにはじめて間主観性が難問として出てくる。でもそれでコミュニケーションが不可能になったりするわけではなくて、その場で対応しなければいけないような状況ではわれわれは「行為的連関のモード」で正確でなかろうがとにかくコミュニケーションしてる。(ここはMessyな解決をしている、と言っておきたい。) そのときわれわれは前反省的なモードで世界、他人と直接的なかかわり合いをしていると。

まさにこれが「動物が世界に開かれている」ということなんじゃあないかと思った。われわれ人間が動物とは完全に断絶している、みたいな言い方よりも、われわれはほとんどの時間は動物で、他我問題をmessyに解決していて、その予測誤差があんま大きいときだけ自我が現れ反省的思考の出番になる。

現象学的思考も反省的思考の一種なのだけど、反省的思考のスタイルを突き破って行為の只中、経験の只中に立ち戻ってその中から思考する(p.216)みたいなことが書いてあって、仏教みたいになってきてると思った。やっぱVarela-Thompsonの流れに親和的だな。

というわけでたいへん面白かったが、自分にとって耳障りの良いストーリーを探して読んでしまった感があるので、再読してみようと思う。あと「媒介論的現象学の構想」(pdf)も印刷してきたのでこれも読んでいく予定。

それにしても「媒介」ってなんだろうなあって思うんで自分でパラフレーズしてみるけど、「google猫」ってのがあって、あそこで平均画像がまるで猫の概念であるような言い方がされていたけど、そんなことをしなくても、多数の猫画像を他のものと弁別してカテゴリー化ができたということ自体が、そのさまざまな猫の画像をつなぐ媒介としての「猫概念」なわけ。

でもそうすると媒介というものに対して、またそれを認識する側に人間の認知活動に帰結させてしまうので堂々巡りになってしまう。(追記::佐藤駿さんの論点にあったように、「媒介」と「媒介者」というものが現れないか?ってこと。)

いや、いいのか、「媒介」じたいは反省的思考としてあるのであって、現象そのものが持っているわけではないのだから。もういちどそういう問題意識で読んでみることにしよう。


「媒介論的現象学の構想」も読んだ。けっきょく「媒介」として捉えることで反省的思考から遡るとどれも媒介としての扱いとなるということで、結果として「超越論的XX」の「超越論的」という言葉を使わなくて済むようにする試みなのかなと思った。

ただ、この種の反省的思考から遡るのって、いくらでも概念を捏造できたりしないだろうか。「原印象」はわれわれの意識経験の基づいていると思うけど、「原自我」とかはまったくの現象学的な反省的思考の産物なんではないのとか思う。そのうえ自己隠蔽によって起源を隠すとか、見てきたんかっていう。

われわれは「(現在、未来、そうであったかもしれない可能性へ瞬時に飛べる)反省的思考のモード」と「行為的連関のモード」とのあいだにあって、両方共を我々は普通に行き来しているのであって、そこは難しいことではない。

「エポケー」して「現象学的還元」するというのは前者から後者に移行することではない。「行為的連関のモード」のような直接的に経験と向かっている状態で現象学的な意味での反省を行ってそこから「原印象」とか「原自我」とかそういったものを抽出してくる作業のことであって、つまり反省しつつ経験に直面するという矛盾することをやるこそ難しいことなのだろう。だからメロポンが知覚の現象学の序文で「完全な還元は不可能」と言った、ということなら納得がいく気がする。

(追記:なお、現象学的還元はあくまでも、二元論的なものの見方などをいったん保留すること(エポケー)で自然的態度からの退却を行うことであり、[行為的連関のモード]も[反省的思考のモード]もどちらも自然的態度の一部分であるから、現象学的還元というときにやっていることはそれらに対する特殊な反省的思考であって、それを[行為的連関のモード]と対応付けた[反省的思考のモード]と同一視するのは間違ってる。この点はじめ勘違いしてた。)

「反省的思考のモード」と「行為的連関のモード」とを行き来することは難しくないけど「行為的連関のモード」でありつづけることはたぶん難しくて、だからヴィパッサナー瞑想とかマインドフルネス瞑想とかが技法として用いられるのだろう。たぶん。


都営新宿線での帰り道にふと考えたのでまとめてみた。「現象学的な思考での反省的思考と行為的連関」と「ポピュレーションコーディングによる確率密度分布の表象」をつなげてみる。

Fristonの自由エネルギーにしろ、トノーニのIITにしろ気に喰わないのはどちらも確率密度分布の概念を使っているということだ。それらは「そうであったかもしれない可能性」を含めたアンサンブルを前提としているという意味で表象主義の世界であり、反省的思考の賜だ。

でも実際のニューロンはボトムアップ的に外部からの入力のシナプス荷重を足し算しているだけだ。つまりそれは前反省的な、行為的連関のモードであり、そこに「そうであったかもしれない可能性」はない。この二つを明確に分けて考えたほうが良いと思うのだ。

確率密度分布もしくは尤度関数は脳ではどのように埋め込まれるかというと、Zemel et al 1998とかJazayeri & Movshon 2006にあったように、複数のシナプス入力の分布を使ったpopulation codingとして表現される。

表象主義的、反省的思考の世界ではこのような分布にアクセスする必要がある。行為的連関のモードではそのようなアクセスは行っていない。端的にシナプス入力を蓄積して発火してるだけ。

カエルは虫を見たら舌を伸ばし、大きい影を見たら天敵とみなして退却する。これが世界との直接的に対面しているということだった。そしてたぶんカエルの意識経験(「なにかがあるかんじ」)にとってはたぶんこれで充分なのだ。

おそらくはそのような原印象からもう少し時間が経ってから、それがほかならぬ虫であり、他のゴミとかではなかったということを認識したりするならば、このタイミングでこそ反省的思考が成立し、おそらく人間的なfull-fledgeな意識的経験もこの時生まれる。

でもカエルはそれがほかならぬ虫であり、他のゴミとかではなかったということを認識したりしない。トノーニの説明でのサーモスタットの話で言う「情報量の多さ」とはじつは情報量の問題ではなくて、「そうであったかもしれない」というアンサンブル分布を持つことだったのではないだろうか?

ブラック・スワンについてもこの図式で考えてみることにしよう。あるニューロンAは傾きニューロンからの入力を受けていて、その入力の分布による尤度関数を持ち、「ほかならぬこの傾きの角度」を表象するニューロンとして機能していた。

つまり、これまでの入力の履歴の情報を持って、それによって各傾きからの入力をnormalizeしてそのニューロンにとってのimpactの大きさを決めていた。

しかしじつはこのニューロンAは方向ニューロン(傾きの情報にプラスしてどちら向きに動くかの情報がたされている)からの入力ともシナプスを作っていた。けれどもこのシナプスへの入力は一度もなく、このニューロンは傾きを表象するものだと思われていた。

しかしあるときこの方向ニューロンが実際にドライブされてシナプスからの入力が実際に起った。そのとき何が起こるかというと、このニューロンAはフレーム問題を引き起こしたりしないで、行為的連関としてこの刺激に反応する。

そしてそのあとで、あらたな入力の確率密度に対応して各入力はnormalizeされて、そのニューロンにとってのimpactの大きさがupdateされた。結果としてこのニューロンは後付的にmotionニューロンとなったが、なんの齟齬も起こさず、あたかももとからそうであったかのように入力に応答し、確率密度分布としての尤度の表象を行った。

こんな感じなのではないかと思う。あとから見直すとポピュレーションコーディングであることを無視しているのでもうちょっとなんとかしたいが、ともあれ[力学系としての脳と確率論的な脳]を[行為的連関のモードと反省的思考のモード]に対応付けるということをしたかったということに気がついた。


「現象学という思考」合評会行ってきた。面白かった、というかこういう感じで皆さん読んでいるのかということが分かってよかった。あいにく新幹線の都合で最後の議論の時間の途中で辞去。

著者の田口茂さんと少しお話することができてとても良かった。私の盲視の仕事のこともご存知だった。会の中での話では神経科学者と意識についての論文も書いているということで、トノーニのIITについても言及してた。驚いた。ぜひまた詳しくお話しておきたい。(追記:そのあといろいろメールのやり取りして話を進めているところ。)

本質直感とか受動的綜合のあたりの話はじつはサリエンシーでかなり置き換えられるんではないかと思った。田口氏自身も他分野との連携のためにもフッサールのものものしい言葉を使わずに、あくまで現象に向かうための呼び名としての言葉(「意識」「流れ」「媒介」など)ということを強調していて、すごくいいと思った。

けっきょく現象学をやるためには現象に向きあう必要があって、そのためにはフッサール自身が書いたものにある実際の分析例とかに当たるのが参考になるわけで、そろそろ私も概説書から本人の書物に向かうべきかと思った。サバティカルがあったらやる。(<-絶対やらないパターン)


田口茂さんとのメールのやり取りのうち、吉田の部分を編集して作成:

IITは基本的にNeural correlates of consciousnessの延長上にある。Cristof KochがIITに肩入れしたのもそれ故だと思う。このためIITでもNCCで批判されていたことが当てはまる。たとえば行動が入っていない受動的な知覚意識を想定していないか、とか。Panpsychism的な結論が出るのはこのため。ただし行動の問題は、どうやったら高いphiのネットワークを作れるかというところにimplicitに入っているので、「行動が入ってない」という批判は正確ではないのだけど。

私自身はKarl Fristonの自由エネルギー原理のほうが確率論的脳と力学的脳の両方が入っている点で(それじたいは意識の理論を目指したものでないけれど)意識の理論に組み入れられるべきものではないかと考えている。自由エネルギー原理では、予想コーディング + Active inferenceという形で行動も中に入っている。たぶん意識の理論を構築してゆくとIITと自由エネルギーの両方がつながってくるんではないかと思う。

田口さんの本での自我の話(「自我は切れ目にあらわれる」)はかなり予想コーディング的発想ではないかと思って読んだ。また、「本質」の章で「変化していないことが変化していることの対比を形成する」という話を書いてあったけれども、これはまさに(空間的な)サリエンシーの概念そのものと言える。これを時間方向にも拡張すると(たとえば、均一な画面に光点が現れた場面)ベイジアン・サプライズという概念になり、これは予想コーディングにおける予測誤差と等価になる。

おそらくは現象学自体は予想コーディングとの親和性が高い。そういえば当事者研究の熊谷晋一郎さんも予想コーディングの枠組みを使って脳性麻痺の身体についての議論をしてた。


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