[月別過去ログ] 2024年04月

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2024年04月28日

「報酬予測誤差、スイートホーム・アラバマ、スキロー」(さうして、このごろ2023年5月)

「意識の科学入門」のスライドの準備中。報酬予測誤差ニューロンの説明を見るとどれもSchultz 1997の図を書いておしまいなのが不親切だなあと思う。まず

  1. 「報酬ニューロン」というのがあったらどういう活動なのか示して、
  2. さらに「報酬予測ニューロン」というのがあったらどういう活動なのか示して、
  3. そのうえで報酬予測と実際の報酬の誤差を計算するとしたらどうなるか、 という3段構えにするべき。

そもそもSchultz 1997のデータはしょぼいし、反応の抑制が小さいので、もっと新しいデータに差し替えるべき。オプトとボルタメトリーとかでもっとわかりやすいデータがあるんだから。

調べてみたら、銅谷さんの図(Bayesian Brain)が比較的親切だった。

Voltametryについては、LH刺激の文脈でNieh EH et al. Neuron. 2016を引用してみた。こんなかんじでclassical trace conditioningについてもvoltametoryの図を入れようと思ってる。(図は作ったけど、論文の図を引用しているので、掲載割愛)


「サザンマン」vs「スイートホーム・アラバマ」 以前書いたこれの続き。

「スイートホーム・アラバマ」の歌詞で面白いと思うのは、ニール・ヤングの呼び方がだんだん変わるところ。

さいしょは"Mr. Young"と言っていて、ちょっと他人行儀というか礼節をわきまえた呼びかけになってる。

次が"Ole Neil"で、これはOle = oldの南部訛りで、「ニールさん」「ニールおじさん」という親密な呼び方になる。

んで最後に"I hope Neil young will remember ..."とフルネーム呼びをしている。これは「親が子を叱るときにフルネームで呼ぶ」のと似たニュアンスがあるんではないだろうか。べつにここは"I hope he will remember ..."でも意味が通るところだから、フルネーム呼びするのにはニュアンスがあるはず。

…ということをtwitterかブログに書いたはずなんだけど、見つからない。


夜の秋葉原で踊るRAB この閉店後の秋葉原の風景にキュンと来た。終電もなくなった深夜の本郷から家までの帰り道に、自転車に乗って、本郷通りからアキバを通り過ぎたときのあの感覚を思い出した。


今期アニメはいまだかつてなく充実してる。「推しの子」「僕ヤバ」「君は放課後インソムニア」は遅滞なく観てる。「カワイスギクライシス」は遅れつつ観てる。

「スキップとローファー」「鬼滅の刃 刀鍛冶の里編」「Dr. STONE」「水星の魔女」はかならず観るけど、まだあとでよいという判断。


「スキップとローファー」観はじめたら最高すぎた。最新回(第4回)に追いついた。

なんだろう、ドラマティックな展開というわけでもないのにスルスルと観てあっという間に24分が経過してしまう。なんだかおいしい水のようだ。

なにがいいのだろうか。登場人物の心情により沿いながら話を追っていると、いつまでも観ていられるという感じ。話に作為的な感じはないのに、すごく行き届いているということだろうか?これは説明が難しい。

あとOP観ると泣けてくる。この「つつきあいながら笑う表情」のところとか最高すぎない?

スキロー第5回も完璧だった。不自然な主人公アゲとかせずに江頭がデレる機会を作るという、過不足ない描写。こういう面白さというか凄さがあるというのに興奮している。なんか、わたしもこういう感じにものごとを描きたい、という気持ちになった。


「つばめアルペン」が札幌の女子高山岳部を舞台にした作品なんだけど、藻岩山とか八剣山とかたい焼き一休とか六花亭とか秀岳荘(「吉岳荘」になってる)とかご当地ものがいろいろ出てきて、なんだかうれしい。

秀岳荘は外観の描写的に北大前店だ。ということは地下鉄の駅も南北線の北12条駅だろうけど、島式ホームになっているので、札幌駅の描写を借りてそう。第10話で夜が乗るのは一番線の真駒内行きで、残り三人は二番線の麻生行きか。


2024年04月06日

「100分de名著 ブルデュー」を読んで自分語りした

ネットでよく出てくる「文化資本」とかあのあたりをちゃんと知りたいと思っていたが時間がないので「100分de名著 ブルデュー」を読んだ。これは面白かった。たしかに(作者がいうように)、これは自分語りしたくなる。


自分は高度成長期に上京してきた中卒の父と母が起業した町工場の家の長男だったので、家に文化的なものはなかったし、おもちゃも買ってもらえなかった。自分は家族の中でひとりだけ突然変異的に勉強ができたのだが、とくに褒められることもなく、逆にプレッシャーもなく、一人遊びばかりしていた。小学校時代は自宅兼町工場でひとり、対数計算尺を紙で自作したり、近所のゴミ捨て場で拾った化学の参考書をみて周期表を書いていた。自分の原風景は町工場でAMラジオから流れていた演歌や歌謡曲だった。

(80年代当時はツッパリハイスクールロックンロールなヤンキー文化の時代で、その暴力性に心底怯え(自分は当時ある傷害事件の被害者となった)、中学受験をして地元からの脱出に成功した。いまだに「闇金ウシジマくん」「地元最高!」とかガチで怖くて読めない)

中学は私立の進学校にも合格したが、国立の進学校に行った。それは共学だったからというのもあるけど、うっすら親の経済状況を気にしてのことでもあったのだと思う。(この選択について、自分は親孝行だと自認していた。) その中学は、私のように勉強で成り上がってきた者と附属小学校上がりで金持ちの子息とが混ざる残酷な環境で、私はすぐに差別問題に注意が向いた。(朝日訴訟の本とか読んでた記憶がある)

こんな育ちだったので、自分は上流社会的な文化には馴染めなかったし、そこでのハビトゥス(服や時計や靴や所作がそのトライブに入るために重要だ)というものを嫌っていた。大学受験のときに自分は医学部には行こうとは発想からしてまったくなかったのだけど、いまにして思えば、あの文化に入らずにいて正解だったと思う。

100分de名著の著者が「好きな映画監督はカウリスマキ、音楽はジャズ、クラシックではグールド、でいかにもインテリ」と自虐的に書いてる。これはよく分かる。自分とは全然かすってないし、正直そういうのにうっすらとした嫌悪感もある。 (もちろん、そういう嫌悪感を表出するような愚は犯さないように中高の時点から自分を律してきたつもりだし、これは自分の弱点であると自覚して、オープンであるように自己研鑽してきた。でも知らず知らずに漏れ出していたと思う。)

そうした志向からけっきょくサブカル、アングラに吸収されて、ありがちなトライブに収まった大学生の自分は、まさにブルデューの言説が示すとおりだった。(なお、ここで言うサブカルとは、文学的な上流社会のものではなくて、根本敬/青山正明的なものを指すのだが、当時の自分には区別がついてなかったので、単館上映映画とかアメリカ現代文学とかも含めて、混ぜこぜで消費してた。)

そんな自分にとっての大きなターニングポイントがゼロ年代にオタクに目覚めたことだった。

古のオタクの価値観では、裕福な家の子供でたくさんのものを買い与えられて、それに基づく文化資本を構築した者ほど偉いというヒエラルキーがあるので、自分にはまったく縁のない、むしろ敵対するものだった。

じっさい、自分は特撮やロボット物にいっさい興味がない。(もちろん小学生当時は観ていたが、それに対するノスタルジーを持っていない。) コレクター気質もない。そういうわけで、オタク第一世代(ヤマト)、オタク第二世代(ガンダム)ともにかすりもしなかった。

オタクに向いた時期的に自分はオタク第三世代(エヴァンゲリオン)に分類できると思うんだけど、ロボット物に興味がないので、いまだに見たことがない。(3話くらいまでみて脱落した)

でも就職して消費にお金が使えるようになり、ゼロ年代にインターネットの発達でさまざまな言説が手に入るようになった。Youtube前の時代にデモ動画とか観まくったのも大きかった。 並行してそれまでの雑誌文化が衰退してきた。それまで購読してたStudio voice、MARQUEE、クイック・ジャパン、危ない1号とかがみるみる終わっていった。(実際に終了したものもあれば、内容が変わっていったものもあるが。) そんなわけで自分はサブカル、悪趣味文化からオタクへと移行してきた。(たぶん、上流階級的なサブカルの人だったらそこで文芸誌や現代思想に向かったのだと思うけど、自分はそちらに行く素養がなかった。)

さてこれで自分はどういうトライブに属したかというと、ありがちなネット民(はてな的なギーク寄り)と化したんだと思う。自分は世代的にはバブル世代なのだけど、属している文化的なトライブは氷河期世代かもしくはもう少し若いところで、なんかちぐはぐになってる。星屑テレパスのアクキーとかぶら下げていい歳じゃないんだ

同窓生の集まりで「昔の音楽は良かったけど、いまの音楽はわからん」って話を聞いたり、人生逃げ切ってアイリーリタイアしてる人の話を聞いたりとかしてうんざりしつつ、じゃあ自分はどうなの?と自問する。

研究者/大学教員をやっていると、親も研究者/大学教員をやっていたという話にしばしば出くわす。やっぱそういうものかと思うが、親を選べるわけでもなし、本人についてなにか思うことはない。でも、その周りが「XX先生はサラブレッドだからw」とか発言しているのをみたときは、嫌悪感が高まって、平静を保てなかったことを覚えている。

だんだんとっ散らかってきたので、ここまでとしよう。結論がなにかあるわけではないけど、自分は自分であるように掘り続けてゆくだけ、それがありがちなところに着地にするのだとしても。


いやいや、これで終わるのは逃げか。ブルデューから始まったのだから、「階級意識」に踏み込むべきだよな。まずは、上のように整理することが出来たのは、自分が隠し持っていた階級意識を直視できたから、と言える。

あともう一点、私は私で、独特の、強烈な階級意識を隠し持っているのだが、これは言語化しにくい。先日ふと気づいたのは、「誰もが忌み、やりたがらないことを人知れずやるやつがなによりも偉い」という強烈な価値観を自分は持っているということだ。でもそれはこの言葉が示すような単純なものではないし、「ノブレス・オブリージュ」とも違う。これは差別問題とも関わっていて、言語化に気を使うので、今はここまでしか書けない。


2024年04月04日

「シュウェップス、ChatGPT、Believe me」(さうして、このごろ2023年4月後半)

「シュウェップス」ってあったなあ。ブラッドオレンジのやつが好きでよく飲んでた。浪人生だった頃だろうか(1987あたり)。たぶんアサヒビールの時代。いまは見たことがない。トニックウォーターは売ってるか。でもそれ以外はなあ。


twitter.com/ChainHokudai/status/1650708811601293313 これのつづき。

テッド・チャンによるNew Yorkersの記事: ChatGPT Is a Blurry JPEG of the Web

LLMでゴミの記事とか画像とかが生まれて真正のデータと混ざったら地獄だよなあとかは以前から考えたことがある。でもこの記事では、Google検索は「可逆圧縮」であり、GPTは「不可逆圧縮である」という分け方をしていて、すごく納得がいった。GPTによる小論文がぱっと見まともに見えるのは、JPEG画像がぱっと見まともに見えるのと同じく、見る側の人間の特性なのだな。

かといってロスレスが問答無用に偉いというわけでもない。そしてそもそもロスレスな「引用」自体がそれ以前から壊れている(ソースのわからないインターネットミームとか)ことを考えると、ロスレスであるためにもっとできることはないかと思う。

あと、要約が不可逆であるとはいえ、人間が要約を組み込みながら新しい文章を作るときになんらか価値を生み出している。ならば不可逆であることとオリジナルであることの関係はもっとややこしいということがわかる。 とかいろいろ考えた。


“I believe you” と “I believe in you”は違うって話。 これは知ってる。"Believe me"の訳は「信じてよ」ではおおげさで、むしろひっくり返して「ウソじゃないよ」がしっくりくる。

このニュアンスを私は歌の歌詞で理解してる。Bob Dylanの“I don't believe you”は(昨晩あったことをなかったことにして、まるで会ったことがないような応答をされて)「ウソついてんじゃねーよ」ってニュアンス。

いっぽうでNeil Youngの"I believe in you"では、女性からの愛(now that you made yourself love me)に応えて、("I love you"ではなくて)「"I believe in you"とは言える」という修辞疑問文になってる。だからこれは、君の気持ちが本当であることは疑ってない、気持ちは受け止める、だがI love you と応えることはできない、というニュアンスなのだと思う。

…そう思うのだけどsongmeaningsとかまともな解釈がない。


「「コンサルの面接で「74冊読みました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された」件について」ブコメ

昔のブコメだけど、これは元記事が正しいなあ。数字の多い少ないの問題じゃないんだよ。面接って雑談ではないので、「能力が高くないと言えないこと」を提示すべきなんだよ。「面接では「能力が高くないと言えないこと」を言って欲しいだけなんですよ」

この点については、自分で面接官をやるようになって、より実感するようになった。とはいえ「能力が高くないと言えないこと」(それは知識量ではない)を言える人は少ないので、せめて「自分の頭で考えて言葉にできたもの」を引き出したくて、手を変え品を変え質問してる。私自身は毎回ほとんど助け船を出すつもりで質問してる。

ところで、あの悪名高い「2位じゃダメなんでしょうか?」も、質問した当人は助け舟的な質問をしたつもりだったんだと思う。(デファクトスタンダードを取ることのマーケティング的な意味での重要性とか。) 聞き方がまずいと思うけど。


このブログを読んだら、なんか、すごくよかった。

こうやって他人のブログを、記事レベルでなく、時系列追って読んでみるという経験はひさびさだったけど、なんか新鮮に楽しめた。10-20年前はよくやっていたことだったのだけど。

なにが良かったのかちょっと考えてみたけど、友人との交遊録とかそういうのが一切なくて、ただひたすら一人でなにかやっていることを綴りながら、それに満足している感じがすごくよかったのかも。


「最強の鬱マンガ」 自分はこのリスト、一冊も読んだことがない。鬱なシーンがあるものはあらかじめ評判を見て避けていたので、正解だったみたい。タコピーですら、話題になっていたときに察知して回避。カンペキ。

自分はこの種のものに引っ張られやすいと思っているので、かなり自衛を意識している。たとえそれで名作を見逃すことになったとしてもいい。


以前回ってない寿司を食べたのはいつだったっけな? と調べてみたら、2014年のことだった。

いまだから言えることだけど、あれは北海道医療大学にジョブインタビューに行った帰りのことで、それはけっきょく落ちたのだけど、とにかく面接を終えた私はその日晴れがましい気持ちで、雪道を二十四軒駅から歩いて向かったのだった。

あのとき以来回らない寿司には行ったことがない。


ここ行ってみたい。士幌線タウシュベツ川橋梁跡 この旧国鉄士幌線ツアーとかよさそう。


お勧めエントリ

  • 細胞外電極はなにを見ているか(1) 20080727 (2) リニューアル版 20081107
  • 総説 長期記憶の脳内メカニズム 20100909
  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
  • 視覚、注意、言語で3*2の背側、腹側経路説 20140119
  • 脳科学辞典の項目書いた 「盲視」 20130407
  • 脳科学辞典の項目書いた 「気づき」 20130228
  • 脳科学辞典の項目書いた 「サリエンシー」 20121224
  • 脳科学辞典の項目書いた 「マイクロサッケード」 20121227
  • 盲視でおこる「なにかあるかんじ」 20110126
  • DKL色空間についてまとめ 20090113
  • 科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ「意識の神経科学と神経現象学」レジメ 20131102
  • ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会レジメ 20130628
  • Marrのrepresentationとprocessをベイトソン流に解釈する (1) 20100317 (2) 20100317
  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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