[カテゴリー別保管庫] オートポイエーシスと神経現象学

人間が世界を見るとき、一人称の世界から環境と関係するといったある種閉じた状況としてしか捉えることができない。脳を明らかにすることで人間の心を明らかに使用とするときに見えてくる三人称的世界と一人称的世界とのギャップの問題を、あくまでシステムの中から見る立場を徹底することで克服しようと試みた体系がオートポイエーシス。だが、当時発展しつつあった自己組織化の概念と混ざりあってしまったために定式化の問題を抱えてしまった。そのエッセンスをなんらかの形で継承していくことができないか考えつづけている。

2022年12月25日

CHAINセミナー 鈴木健「複雑な世界を複雑なまま生きることはいかにして可能か」に参加してきた

[前口上]

北海道大学人間知・脳・AI研究教育センター(CHAIN)では定期的にCHAINセミナーというものを開催していて、学際的な研究をしているさまざまな人にトークをしてもらってる。これまでにCHAINセミナーについてはCHAINのwebサイトの情報を確認してほしい。

それで第29回となるCHAINセミナーでは「なめらかな社会とその敵」の著者であり、スマートニュース株式会社の代表取締役・CEOでもある鈴木健さんにトークをしてもらった。ちょうど10月に「なめらかな社会とその敵」がちくま学芸文庫から文庫版として加筆されたものが出た、というタイミングでもあった。

講演のタイトルは「複雑な世界を複雑なまま生きることはいかにして可能か」というもので、これは氏の「なめらかな社会とその敵」での主要な問いを持ってきてる。セミナーの要旨などはこちら: https://www.chain.hokudai.ac.jp/events/3059/

講演はCHAIN公式Youtubeチャンネルから視聴可能になってる。動画はこちら: 第29回 CHAINセミナー 鈴木健「複雑な世界を複雑なまま生きることはいかにして可能か」 ついでに埋め込んでおきます。


このセミナーが実現したのは、CHAINの専任教員の鈴木啓介さんとCHAINの兼務教員の飯塚博幸さんが鈴木健さんと(東大駒場の)池上高志ラボの同窓生であるという繋がりがあったからだ(注1)。

私自身は鈴木健さんの活動については2000年代後半にisedでのPICSYの話とか、CNET Japanブログとかを読んでいた。それで2013年に「なめらかな社会とその敵」が出版されたときはけっこう話題になっていたのだけど、途中に数式が出まくる場所があるのを見て、ずっと読まずにいた。

それで今回のCHAINセミナーがある機会に「なめらかな社会とその敵」文庫版を読んで、講演に参加してきたので、この本と講演について考えたことをメモしておきたい(注2)。以下鈴木健さんの本については「なめ敵」と略することにする(ページは文庫版のページを示す)。


[講演の概要]

講演は「なめ敵」の章立てに沿ったものになってる。まず1,2章は基礎論で、オートポイエーシスの考えをもとに、核-膜-網という構造が生命システム、認知システム、社会システムなどで反復して現れることを提示している。それを踏まえて、鈴木健さんが提案する伝播投資貨幣(PICSY)の話(3-5章)、分人民主主義(Divicracy)の話(6-7章)、構成的社会契約論(10-11章)について紹介される。

あいにく1時間のトーク(15分ほど延びたけど)でかぎりがあるので、それぞれについては細かい話はせず、おもにその動機とかについての話をしてる。あと8-9章ははしょってる。ここでは人工知能の研究の歴史を、核-膜-網になぞらえるということをしていて、個人的にはツッコみたかったのだけど。

最後に「なめ敵」の文庫版で追加された「なめらかな社会への断章 2013-2022」について話をしてる。ここでは「なめ敵」が出版された2013年以降の動向についてコメントがされている。まずは本書で提案されたものと近いものが実現していることを説明する。つまり暗号通貨が使われるようになった。イーサリアムのスマートコントラクトは、構成的社会契約論で議論された「契約の自動実行」が実現している例だ。いっぽうで「なめらかな社会を作るために膜を緩やかにしていこう」という本書の主張に対して、じっさいの世界はむしろ逆に分断へと進んだことが指摘される。

このような現実について、鈴木健さんはさらなるイノベーションが必要であるという立場にあり、「わたしたちがイノベーションを起こさない限り世界は変わらない」と表明して講演を閉じる。「なめ敵」で提唱された考えがじっさいに世界に影響を及ぼすのには300年かかるかもしれないという見積もりを、グーテンベルグの印刷技術(1445年)が宗教革命を経て市民革命(1789年)が起きるまで300年かかったということからの類推で議論している。

こんなかんじの講演が行われて、会場では活発な質問が飛んだ。わたしもいろいろ聞きたいことはあったが、CHAINの学生たちが活発に質問を投げかけていたので、みんながんばれ、とおとなしくしてた。(<-後方彼氏ヅラ)

そのあとの懇親会でわたしも多少鈴木健さんとは話ができたので、いくつかコメントしてみた。あまり時間がなくてまとまった話はできなかったので、以下で考えたことをまとめてみる。


[第1,2章について: 核-膜-網の関係]

第1,2章では、がっつりとオートポイエーシスの話をしている。生物の生きている特性を取り出すために、オートポイエーシスの理論そして「なめ敵」では「膜」に注目する。ちょっとここでわたしがいま田口茂さんと書いている本のために作った説明を書いておこう。(こちらの本は来年度の出版を目指して執筆中。乞うご期待。)

単細胞生物は細胞膜を持っていることで代謝反応が可能になっている。これは、代謝反応が可能になるためには物質が拡散せずに細胞膜の中で充分高い濃度を保つことが必要になるからだ。そしてこのような代謝反応によって細胞膜自体も作り上げられる。このように[細胞膜による濃度の維持というプロセス]と[代謝反応というプロセス]が互いに互いを可能とするような関係にあるということが、Varelaの言う「生物学的自律性 biological autonomy」だ。

このような生物学的自律性によって細胞は「内」と「外」とを区切り、「単体unity」と「世界world」を区別するようになる。これがミニマルな自己(個体性individuality)の起源となる。このようなミニマルな自己が視点を持つことがミニマルな主観性の起源であり、さらにそのミニマルな自己にとっての意味が生成される(sense-making)。

いっぽうで単細胞細胞で行われていることを虚心坦懐に見るならば、それはただの化学反応の集まりにすぎない。このようなネットワーク「網」を「なめ敵」では「膜」に対置するものとしてもってくる。

そしてさらに細胞の「核」の概念を持ってくる。細胞核はDNAに遺伝情報を持っていて、それがmRNAに転写され、タンパク質に翻訳される。いわゆるセントラルドグマというものだが、このような意味で「核」は中央からの制御をするものとして捉えられる。しかし「なめ敵」での語られているように、このような「制御」的な視点というのはあくまでも外側からの見方だ。生物にとっては、生物学的自律性の中で、あたかも制御をする中心としての役割を果たすようになっただけであり、じっさいには「網」の中で「制御するもの」は「制御されるもの」から切り離せないような形でその役目を果たしているにすぎない。

このようにして単細胞生物が、本質的には「網」であるものが「膜」を持つことで個体性を獲得し、あたかも「核」が司令して制御されるようなものとして取り扱われる。より正確に言うなら話は逆で、あたかも「核」で制御されているように見えるものが「膜」によって維持される自律性であり、そしてそれをさらに微細に見てゆけば化学反応の「網」にすぎない。このようにまるで仏教での瞑想のステップを進むように解像度を上げてゆくプロセスがあるということだと思う。(この「解像度」というところは「なめ敵」ではなくてわたしの読みなのだけど、「解像度」についてはのちほど再訪する。)

このようにして「なめ敵」では「核」-「膜」-「網」という関係を持ってきて、これが単細胞生物だけでなく、神経系を持つ個体(=多細胞生物)、他者、社会、というところで繰り返し出てくる構造であると議論する(「なめ敵」第1章p.45の表1.1など)。ここで「膜」-「網」を対置するのはオートポイエーシスの中でよく出てくる話だけど、「核」を持ってくるのは「なめ敵」特有のアイデアだと思う。

また、単細胞生物がオートポイエーシスであるのと同様に、神経系を持つ個体や社会がオートポイエーシスである、というような議論はMaturanaやLuhmannとかがしてきた。私自身はオートポイエーシスの概念を社会とかに当てはめるのを避けるVarelaの立場の方を支持している。では「なめ敵」ではどうか、Luhmannと同じなのか、というとそうではないと書いてる。

生命システムと社会システムがにているのはアナロジーや形式的同型性ではなく、一方がもう一方を包摂する現象であることに由来する。したがって、社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核のアナロジーではない。社会システムにおける膜と核の問題は、生命システムにおける膜と核の進化的展開なのである。(「なめ敵」第1章p.31)

この「進化的展開」というところがすごくいいなと思った。生命システムと社会システムがそれぞれオートポイエーシスであり同型的な構造を持っているという話は、それだけではどうしてそうなるかの必然性がないし、同型的な構造を持っていると主張するためにいくらでもこじつけが可能だ(注3)。でもそこに進化的展開があるのならば、神経システムにも社会システムがどのような基盤的構造によって拘束条件を与えられたうえで、進化的に(歴史的展開として)多様な実現可能性がありえることを排除しない。

この議論は「なめ敵」においては以下の理論的要請がある。つまり、「なめらかな社会」をつくるためには「膜」の部分を自他の峻別するようなものでなく、もっとゆるやかなものにするように社会制度をデザインしようとしている。それがPICSYであり、分人的民主主義だ。でも社会システムはオートポイエーシスであり、単細胞生物のオートポイエーシスと同型であるということになると、そのようなゆるやかな膜がまるで論理的に不可能であるかのように見えてしまう。

でもそうであるならば、生命システムと神経システムと社会システムとはもっと緊密な構造であるべきで、「核」-「膜」-「網」という構造の反復だけでは不十分ではないだろうか?このようにわたしは考えた。つまりこれらのシステムは平行に構造を持っているのではなくて、らせんのように構造化されているのではないかということだ。ちょっと説明してみよう。

(12/26追記: 図を作って追加した。)


まず社会システムからはじめよう。ソーシャルなネットワーク「網」では個人は点となって他人とつながっている。ソーシャルなネットワークの挙動はリンクの強さなり取引の量なりで扱えるかもしれないが、それはただの点だ。そのような点として扱ったとき個人は「核」でもある、つまりあたかも自由意志を持っているかのように行動し、自由意志の存在を前提に故意か過失かに基づいて責任が問われるような存在でもある。でもそのような個人について解像度を上げてみると(これがさっきの「解像度」の話のつづき)、個人とは「膜」である、つまり身体を持ち、内受容感覚と感情を持って行動している。このような「膜」としての特性を支えているのが、神経システムとしての「網」だ。

おなじような関係は神経システムと生命システムの間でもあるだろう。このようにして生命システムと神経システムと社会システムはらせんのような構造を持っているのであって、「核」-「膜」-「網」はけっして一方向的なものでもない。

いまの話をパラフレーズしてみる。他者と自分がべつべつの離散的なオブジェクト(点)と捉えたとき、「核」で言うような因果による関係、支配、制御による記述が可能になる。しかし、他者と自分の間が「膜」によって切り離されているのが見えるようになったとき、身体性と自己の拡張が見える。この「膜」による自分と他者との境界をとっぱらって観るならば、そこにあるのは関係によってそれらの意味がそのつど規定されるような縁起で成り立っていることを知る。このように空間的な解像度を上げてゆくことで仏教で言うマインドフルな見方が可能となる。

このようにしてみると、いわゆるネットワーク科学的な見方はあまり縁起的とは言えない。他者と自分がべつべつの離散的なオブジェクト(点)と捉えたものとして扱っている。ネットワーク科学的に扱われたもの(ソーシャルネットワーク)は、個人のレベルにとっては「網」ではなくて「核」だ。いっぽうで社会システムの中では政治グループなり、国家なりさまざまなある種の意志を仮構できるような「核」があるのに対して、でもそれは個人と個人のつながりにすぎないものであり、なにか静的な固定した関係があるのではなくて、そのつどのコミュニケーションに寄って動的に関係が構築されるものである。こういう見方は「網」だろう。

こうしてみると、社会レベルにおいて「網」だったものが、個人レベルにおいては「核」になっているということがありうる。このようにして生命システムと神経システムと社会システムはべつべつの同型システムではなくて、らせんのようにつらなった構造をしているということが言えたのではないだろうか。

なんて話を講演後の懇親会で鈴木健さん、鈴木啓介さん、飯塚博幸さんたちと話していたら、それって"Powers of ten"だね!なんて話になった。そのときはあんまり長々と説明する時間はなかったけど、上みたいなことを考えていたというわけ。

(Varelaはこのような複数のオートポイエーシスについての関係について深入りすることは避けていたように思う。「無記」を貫いていたというか。注3にも書いたけど、このような話をすると「構造的カップリング」の話を避けることができない。このあたりについては別の機会に文章化したい。)


[第8,9章について1: ネットワーク主義と「網」]

つぎは8-9章について。今回の講演でここは端折られていたけど、ここでは計算機/コンピューターの歴史を、核-膜-網になぞらえるということをしている。つまり認知主義的な人工知能の時代はチューリングマシンを推定した万能機械主義であり、「核」の発想だと。それにつづく身体環境主義の時代はアラン・ケイによる、コンピューターをインタラクションの相手として考える「膜」の発想だと。そしてWWWによるネットワーク主義の時代はよりプリミティブに自然現象の相互作用を繋げた「網」の発想だという(「なめ敵」第8章 表8.1, p.276など)。

ここは非常に面白いけど、そのネットワーク主義はほんとうに「網」と言えるようなものだろうか? 上にも書いたけど、いわゆるネットワーク科学が身体を持ち感情を持つ人間を抽象化して点として扱うとき、それはむしろ「核」として扱っていることになる。だから、いまのネットワーク科学がそのまま「網」となるわけではない。鈴木健さんもそこはわかったうえで、だからいっけん突飛な"Internet of cells"という発想が出てくるんだと思う。

胃の生理学的状態(を内受容感覚としてモニタしたものが"Gut feeling")のような、人間の個体レベルよりももっと微細なものをモニタし、相互作用させる網の中に入れるというのが"Internet of cells"の動機だ。そしてそれは人間という個体を、自由意志を持ち、意思決定するものとして捉えるところから、さらにサブパーソナルな過程を身体として持っていて、それらを意思決定に参加させようという考えだ。そしてそれは理性と感情の統合について技術を使ってイノベーションを起こそうという動機を持ってる。

そういう意味で、「網」となるネットワーク主義はまだ到来してない。それを実現するためにはやはりなんらかのイノベーションが必要であり、個人というスケールに閉じずに、個人より大きい集団、個人より小さい単位、器官、細胞、さらには人間以外の存在を加えたような、そんな膨大な数のネットワークからものを見る、という発想がここにはある。


[第8,9章について2: 「膜」と身体性の同一視]

あと8-9章について、「膜」と身体性との同一視がなされるのはどうにもこじつけを感じる。もともとの話での「膜」とは生物学的自律性によって内と外を切り分けるということだ。そしてこうして切り分けつづけることが、生命システムとか心的システムとかがその同一性を維持し続けることそのものだ、というのはオートポイエーシスの考えだ。そのような意味においては個人を個人として捉え続けているかぎり、認知主義も身体環境主義も現在のネットワーク科学もどれも「膜」であり続けていると思うので。

とはいえ、1-2章および8-9章は駆け足でのまとめであって、充分そのアイデアを展開する余裕はなかったのではないかと思う。(と指摘したら鈴木健さんも認めていた。) じっさいこの本の主眼はそのような世界観を踏まえて世界を変えるためにあらたな制度を提案してゆくところにあるのだろうから。そういうわけで、わたしとしてはこの本は非常に面白かったし、ここで提案されている制度そのものよりは、1-2章および8-9章でスケッチされたアイデアをさらに深めてゆくことに貢献できるかもしれないと思った。

いま田口さんと執筆している本は意識がテーマなのだけど、脳科学の知見の紹介だけではなく、オートポイエーシス論から媒介論を経て、エナクティブ・アプローチから環境と相互作用する主体として意識を捉え直すというものになってる。そういうわけでわたしにとって「なめ敵」で提示されたアイデアは非常に有意義だったし、私と田口さんの本はある意味「なめ敵」で展開されたアイデアへの注釈であり、それを発展させたものになりそうだ。というかそうなってくれるとよいのだけど。


[提案された制度について]

これで終わってしまうと、PICSY、分人民主主義、構成的社会契約論という本論にまったく触れないことになってしまうので、もうすこし書いておく。

これらの制度の提案は大胆で面白いけど、実現可能性はあるのだろうかとか、そのような制度はじつのところ世界を良くするだろうかとか、いろいろ思うことはある。じっさい、PICYについては第5章でそれまでの反響、反論などに答えるパートがある。

これらの制度について、本書では世界を変えるために新しい制度を作って、その新しい制度が世界というか我々の人間観を変えてゆく、というループを想定している。だからこそイノベーションが必要だというわけだ。その理屈はわかる。であれば、そのような制度は現在の人間観から新しい人間観に変えてゆくことを促進するような機構が入っていることが必要に思う。しかし、この本で提案されている制度は、すでに新しい人間観を持った人々に切り替わったあとで初めて成立するようなものであるように思った。現在の我々の人間観は誰か個人の責任を追求したくなるような強い傾向を持っている。そこで暗号通貨や新しい制度が導入されてもそれは分断をより促進する方向にしか働かないのではないか。たとえば社会契約が自動的になされる世界が強制的に来たとき、行き場のない憎しみ、恨みは消えることなく、だれかに向かってゆくだろう。この点についてもっと具体的に考えるために、そもそもその新しい人間観とはどういうものかについて書いてみよう。

現在の人間観とはこういうものだ。われわれは「個人」という強固な「膜」を持ち、自由意志を持ち意思決定し、それがゆえに責任を問い、責任が問われると思っている。じっさいには逆であることが本書では指摘されてる。つまり、責任という概念を成立させるためにこそ自由意志が仮構される。これは非常に納得がいく。そして新しい人間観では、人間は個体というレベルからより小さいスケール、さらにより大きいスケールへとどちらの方向にもいくらでもばらばらになり、つながるものとして捉えられる。

なお、「なめらかな社会」「膜を緩やかにする」という言葉から、個体のレベルから国家や集団のレベルへの意識の従属のような全体主義を想定していると読んだ人をいくつかネットで見たけど、それはタイトルだけ見て想像しているか、この本をちゃんと読めてないのではないかと思う。むしろ逆方向に、個体のレベルをバラバラにしてしまうことに重点が置かれていることが、前述の"internet of cells"の発想からもわかる。

ともあれ、ここで提示された人間観はじつは非常に仏教的なものであり、そしてそれは、ブッダが「人間にとっての自然な傾向に逆行するもの」(魚川祐司氏の「仏教思想のゼロポイント」のどこかに書いてあったはず)と説明したものではないか。なんかそういう、ある意味非人間的で不自然なところに向かおうという世界観がここには内包されているのではないかと思う。(仏教的というとイメージが湧くかと思って書いた。そこで自己は解体されるけど、我々の自己がなくなるわけではない。ブッダだって個体としての人間は死んだ。それと同じように、けっして自己を無くした人間が生まれるのではないと思う。)

だから間違っていると言いたいわけではない。じつはわたしはこのような人間観に惹かれている。でもその人間観は、たとえばこんなものではないか: 愛する人が亡くなったときに(自分にもなにかできたのではないだろうかと)自分を責めたりせずに、かといってその原因を作った人を見つけて憎み恨むとかでもなく、そういうものだ(“so it goes”)と言って事務的に必要なことを処理して、ふつうに次の日を生きるようなものだ。繰り返すけど、わたしは人類学的スケールではそういう方向に人間が変化してゆくほうが望ましいのではないかと思ったりする。いまの分断、歴史的禍根に基づく憎しみ、そういうものを思い起こすならば。でもそういう世界ではゲーム理論的な意味で、古い人間観を持つ人間がより適応的であるようにも思う。

ってなんかすごいこと言い出したぞ、俺。そんなわけで、私は「なめ敵」が悪しき全体主義を志向しているとは読まなかったけど、かといってその新しい人間観が多くの人に受け入れられるような穏当なものとも思わない、というわけ。今日はここまで。

(追記: 階層の話はもっと整理できることに気づいた。あるオートポイエーシスなシステムについて「網」というのを考える時は常にその構成要素を観ている。だから社会システムについて「国」「集団」を実体化せずに「個人」(ルーマン流なら「コミュニケーション」)を観るのが「網」である。心的システムについて「意識」を実体化せずに「感覚運動カップリング」と「ニューロン間ネットワーク」を観るのが「網」である。生命システムについて生きてる細胞を実体化せずにその代謝反応を観るの「網」。だから「なめらかな社会」とはあくまでも「網」としての社会(社会を構成する個々の人のつながり)であって、自己と他者が溶け合って一つになる世界ではない。同様に「なめらかな個人」というのを構想するならば、それは網としての個人(個人を構成する器官や細胞のつながり)であって、理性と感情が統一された精神とかではない。)


脚注

注1: この3人は池上研所属時にVarelaの"Principles of Biological Autonomy"の勉強会をしたというメンバーで、ガチでオートポイエーシスを数理的に勉強している人たちだ。余談になるけど、この話を私は2012年の国際意識学会ASSCでブライトンに行ったときに鈴木啓介さんと飯塚博幸さんから聞いて、すごい驚いた。わたしは2000ゼロ年代から独学でMaturana & Varelaの「オートポイエーシス」「知恵の樹」だけでなく、80年代以降のMaturana単独での論文やVarelaのPrinciples …やそれ以降の論文を読んでいるところだったので。このあたりを思想としてでなく、科学者として読んでいる人がほかにもいるんだと世界が広がる思いだった。

注2: あらかじめじっくり読む時間が取れなかったけど、第1,2章と文庫版加筆部分だけはちゃんと読んだので、そこを中心に書いてみる。メインコンテンツであるPICSY、分人民主主義、法と軍事の部分は数式はとばしてざっと読んだ。

注3: そうはいっても、ルーマンがこれらのシステム間の関係を考えていないというわけではなくて、むしろその関係こそがルーマン社会システム論の本体というところがある。ルーマン自体は心的システムと社会システムとが構造的カップリングの関係にあるという話をしている。つまり、心的システムと社会システムはそれぞれが有機構成organizationの面からは閉じている(これがオートポイエーシスであることの定義そのもの)。このため、社会システムが心的システムから創発するみたいな言い方にはならない。あくまでも社会システムの構成要素はコミュニケーションであって、心的システムではないので。ただし、社会システム論を構築したいという観点からか、進化的な発想はあまりないように見受けられる。すくなくとも「自己言及性について」(二クラス・ルーマン)の1章を読んだかぎりでは。


2019年03月23日

Ehud Ahissarの閉ループ知覚仮説がほとんどSMC説だった

このツイートにあるCOSYNE19のレポートを見て知ったけど、ワイツマン科学研究所の神経科学者Ehud Ahissar(ラットのヒゲ触覚、アクティブタッチの研究で有名)による知覚理論がすごくSMC的なことを言っている(SMC: Alva Noeのsensorimotor contingency説)。この理論についてeLife 2016を読みながらまとめてみることにしよう。

彼の問題意識は「外界からの刺激から脳活動までに時間遅れがあること」と(ギブソンやNoeの)「直接知覚」をどう整合的に説明するかというもの。

彼の仮説「閉ループ知覚(CLP)仮説」によると、アクティブな知覚では、感覚、運動、身体、外界を含んだ閉ループが形成されて、そのループに属する外界の対象と脳の活動と身体は同じ知覚的時間(not物理的時間)として捉えられる。(Webサイトに短い説明あり。)

外界のある刺激が知覚されるかどうかは、外界の刺激そのものでは決まらない。それを動きのあるセンサ(ヒゲだったり、眼球運動だったり)が探り当てたときのみ、このループの中に取り込まれて、定常状態へと向かうことで知覚として成立する(eLife 2016のFig.4C)。

この閉ループを言い換えるなら「外界と身体も含めたセルアセンブリ」と言えそうだ(と私は理解した)。そしてそれが状態空間の中である定常状態(アトラクタ)に近づいてゆくのだけど、その定常状態の軌道がどういう形をしているか(固定点、リミットサイクル、カオスアトラクタ)がどういう知覚なのかを決める。

つまりCLP仮説では脳内表象を想定してない(eLife 2016のFig.1)。閉ループそのものが知覚であるとしている。見つけた動画ではループの穴が知覚者だと表現している。ドーナツの穴はドーナツそのものではないけど、ドーナツがなければ存在し得ない。それと同じようなことだと理解した。(ちなみにこの動画は録音状況がひどく悪くて時折音が割れるので耳を傷めないようにご注意。)

CLP仮説によれば、知覚される対象はループの一部に属しているので、知覚の原因でも無ければ、推測の結果でもない。そのような意味で、この知覚は直接知覚だ。(無意識的推論のような)感覚入力から推測される間接的知覚ではない。

この閉ループをぐるぐる回して定常状態に達するまでの過程で、外界の対象も自分の身体も閉ループに取り込まれてゆく。この取り込まれるまでの時間の違いで外界と身体とを区別する。(ゆえに本質的違いはなく、この境界は拡張しうる。)

CLP仮説によれば、そもそも知覚というのは普通の状況ではアクティブなものであって、(実験で使われる)パッシブな刺激はその特別な状態として取り扱われる。つまり、アクティブな知覚においては、刺激はループに取り込まれて定常状態へと向かうが、(ガボールパッチのフラッシュのような)パッシブな刺激では、ループの中に短時間取り込まれて定常状態までたどり着かないものとして説明する(eLife 2016のFig.5)。

このループでの知覚の強度(というか論文内ではperceptual confidence)が何で決まるかはまだ確定してないけど、ひとつの可能性として「内部モデル」であると言っている。よってCLP仮説でのループと言っているものの実体が予測符号化の回路であってもよいということになる。(このことはこれまでに私が書いてきた、FEPをenactiveにする(無意識的推論ではなくて)という問題にとって重要。)

こうしてまとめてみると、ほとんどAlva Noeのsensorimotor contingency (SMC)説と同じようなことを言っているなと思う。ただし、SMC説においては脳のことがほとんど語られない(ゆえに神経科学者からはほとんど相手にされてない)のに対して、CLP仮説は脳と身体と環境を含んだ力学系という、実験による計測と操作を用いた検証が可能なもので構成されている。あと、SMC説の「知覚とは探索である」が過激さを狙った傾いた表現で誤解を生みがち(例:「夢では行動はないけど知覚はあるよ」)であることを考えると、CLP仮説での「知覚とはループ(or アトラクタ or 拡張されたセルアセンブリ)である」は神経相関という考えに慣れた神経科学者からは反発を受けにくいだろう。そういうわけで、CLP仮説は神経科学者がシリアスに受け取ることが可能なSMC説として機能していると思った。

また、基本的な道具立ては力学系で、時間の話も入っていて、これはいいと思った。ここしばらくFEPをエナクティブにするということを考えているのだけど、この「閉ループ知覚仮説」はそういう意味で非常に参考になるのではないかと思った。

弱点はいろいろありそう。この閉ループ仮説の論敵として出てくる開ループシステム(つまり、外界の入力から脳が活動して表象を作る)では知覚の動的特性を捉えられないと議論するけど、それでは予測符号化で無意識的推論をするシステム(ただし行動は入ってない)を否定することはできない。つまり、論敵の矮小化をしている。あと、複数の刺激や時間をどう統合するかの理論がないので、あと付け的に相関によるbinding問題の解決、みたいなことを言ってる。このあたりはいまいち。

なお、「閉ループ知覚仮説」はあくまでも(アクティブな)知覚の理論であって、意識の理論ではない。じゃあ両者はどのように異なりうるのか、というのが次の問題なのだけど、長くなったのでまた別の機会に。


2019年03月17日

FEPからシュレディンガー経由でMEPへ?

神谷さんのツイートでシュレディンガーが予測符号化的なことを言っているのを知った。

“Erwin Schrödinger’s in “Mind and Matter” proposes a “psychophysical linking hypothesis” that connects the functional tones to meanings and qualities: if an expectation is falsified in perception, you “meet nature” - it is a moment of learning: “it discharges a spark of awareness””(Jan Koenderinkのスライド "World, Environment, Umwelt and Innerworld"のp.55 PDF)

昔翻訳(「精神と物質―意識と科学的世界像をめぐる考察」エルヴィン シュレーディンガー 工作舎)は読んだことがあるけど記憶がない。調べてみた。まずこのスライドの作者のJan Koenderinkが書いているものを探すと、Jan Koenderinkのスライド "Awareness (PDF)"で言及してた。

“Consciousness is associated with the learning of the living substance; its knowing how is unconscious.” (p.14-15)

この文章を"Mind and Matter"の原文から探し出す。原文はInternet archiveにある。第1章のp.98だった。 そうとなれば"Mind and Matter"の第1章を読んでみよう。超訳でまとめてみる。

われわれは繰り返しがあるものについて、初めのうちはそれを意識経験として持つけれども、繰り返すうちに興味を失い、意識からも消え去る。例えば、見慣れた研究室までの道がある日行き止まりになっていて回り道をすると、道のことは意識に浮かんでくるけれど、また慣れてしまえば意識の閾値下に落ちる。

発達においても同じことが見られる。われわれは環境と交互作用して、その状況への変化に適応する、この機能に意識は関連している。

Koenderinkはここを引いて、micro-enlightenmentsという表現をしている。この表現はいいな。我々は日々小さな気づきを積み重ねていて、それこそが意識に上ってきているものなのだと。

FEPで考えれば、感覚入力sとその原因xとの間の同時確率=生成モデルp(x,s)の分布自体を学習によって変化させること(<->active inferenceでのサンプルする感覚入力sを変えることとは別)に対応していると言える。

意識の強度としてFの変化量や変化の向きを使う議論がある(乾先生の本やスライドで引用されるPLoS Comp Biol 2013)けれども、それよりは生成モデル自体の変化の大きさとかそれにいかに自己の行動による介入が寄与したかのほうを意識に引き寄せて考えてみたいと思っている。(Practicalには、多くの場合でFと生成モデルは同じような挙動を示すだろうけど。)


KoenderinkのPDF自体は面白そうなのでまた追っておくとして、さらにシュレディンガー方面を追っていくことにする。というのもFristonの論文で「FEPの立場からシュレディンガーの「生命とは何か」という問いに答える」(“Answering Schrödinger’s question: A free-energy formulation”)という論文 Physics of Life Reviews 2018があるからだ。

この論文はTinbergenの4つの問いにつなげる議論とか、FEPの脳のあるシステムだけでなくもっと広い視点で当てはめてみようとするところが面白いのだけれど、じつのところ、タイトルから期待されることが書かれてなくて期待はずれ。つまり、シュレディンガーの負のエントロピー(「生命とは何か」の本文の注でこれは正確には物理的な自由エネルギーのことであることが書かれている)とFEPで扱われる情報理論的自由エネルギーの関係についてどう書いてあるか知りたかったのだけど、そういう話ではなかった。

でもこの論文に対するコメンタリで重要なものを見つけた。Leonid M.Martyushevによる"Living systems do not minimize free energy"。この人のコメントのうち1)が強力で、これを見て、わたしはFEPでの情報理論的(変分)自由エネルギーと熱力学での自由エネルギーのアナロジーは無理筋そうだという結論でほぼ説得された。(まあ、津田一郎先生や甘利俊一先生の前でFEPについて話したときの反応はもとからそんな感じだったけど。) たった2ページなんでまとめるまでもないのだけどこんなかんじ(超訳で):

著者らが「自由エネルギーの最小化」という定式化にこだわるのはどうやら、著者らのアプローチが統計熱力学に基礎をおいており、それゆえに普遍性があるといいたいからのようだ。しかしこのことこそが(とくに)物理学者にとっては誤解を生む点であり、物理学者がFEPのことを否定するもしくは無視する結果となっている。著者らが意図した物理とのアナロジーには、根本的に不整合な点が二つある。

  1. 物理においては(ヘルムホルツの)自由エネルギー最小化は等温、定積での系が平衡状態に向かうことを指す。いっぽうで著者が考えるような生物システムは根本的に非平衡系であり、平衡状態を追い求めることもしない(定積のシステムでもない)。生物システムにおける平衡状態とは死のことだから、FEPによれば生命の目的とは死であることを意味してしまう。生物システムの過程を取り扱うためには、平衡系での熱力学ではなく、非平衡系での熱力学を用いるべきだ。具体的には(ギブスの)自由エネルギーやエントロピー生成の時間的変化を考えるべきだ。ここでエントロピー生成最大化原理 maximum entropy production principleが役立つかもしれない。
  2. (省略: エントロピーの扱いの問題、第二法則との関連)

この著者自体が「エントロピー生成最大化原理」をやっている人なので割り引いて考えたほうがよいかもしれないけど、たしかに、生物がエントロピー増大の法則に抗して存在し続けることができるのはなぜかという問題についての、シュレディンガーの負のエントロピーからプリゴジンの散逸構造へという流れを考えると、FEPってぜんぜんそこを踏まえてないなと思った。

さっそくエントロピー生成最大化原理について調べてみた。概念自体はE.T. Jaynesとかから始まっているらしいが、いろいろな分野で進められてきて、知見が散らばっている状態だったのをまとめたのがこのMartyushevによる総説(“Maximum entropy production principle in physics, chemistry and biology”)ということらしい。これを読むのは無理なので、島崎さんに教わることにしよう。

もうちょっと簡単な説明を探していたら、応用分野での解説論文を見つけた。

「エントロピーに関しては,その増減を支配する2つの重要な法則がある.外界から隔絶された閉鎖系で成り立つ熱力学の第2法則と物質やエネルギーが絶えず出入りする開放系で成り立つエントロピー生成率最大化(MEP)の原理である.前者はエントロピー増大の法則として以前よりよく知られているが,後者は近年の非平衡熱力学,複雑系研究の成果として得られた新たな知見で,社会科学の研究者の間で,その存在を知っている人はそれほど多くない.」 「本論文で扱うMEP原理とは「散逸構造はエントロピー生成率が最大になる状態で実現する」という熱力学的な最適原理である。熱平衡から遠く離れた開放系において、自由度が大きい、境界条件が固定されないなどの条件が満たされると、MEP原理に従って散逸構造が形成される。散逸構造の特徴は低エントロピー性にある。散逸構造はエントロピー生成率を最大化し、生成されたエントロピーをシステム外に放出することによって、自らの低エントロピー状態を維持しているのである。」

「クレイドンら(Kleidon and Lorenz 2004)により提案されているエントロピー生成率最大化(Maximum Entropy Production)理論は,地球大気の自由エネルギーの流れの過程から導きだされたもので,平衡から大きく離れた開放系において,境界が固定されないなどの自由度が高い場合,散逸構造が生まれ,この散逸構造内で生じる秩序構造によりエントロピーは低くなる(低エントロピー領域が生まれる)が,散逸系と取り巻く全体の系では,エントロピーの生成率が最大化されるというものである.生態系もこのエントロピー生成率を最大化させるように,様々な生物種の連携により生態系の活動を最大化させようとしていると理解できる.」

うん、やっぱりこっちなんではないかな! 以前enactivismの本質としてEvan Thompsonがadaptivityとautopoiesisということを言っていて、FEPはadaptivityの部分を担当しているのだろうと考えたのだけど、adaptivity + autopoiesisってまさに非平衡系における自己組織化で考えるべきだよな。やっぱ津田先生が正しかった!


2019年03月10日

エナクティビズム入門準備中(2): エナクティビズムとFEP

Tom FroeseがMichael D. Kirchhoffといっしょに書いたFEPとenactivismの合体についての論文 Entropy 2017 "Where There is Life There is Mind: In Support of a Strong Life-Mind Continuity Thesis"を読んでた。細部はまだだが議論の構造はだいたいわかったのでここでまとめてみる。

この論文の中で著者は[FEPからLife-mind continuityをどう捉えるか]についての4つの立場を紹介する。

連続的ではないとする立場がふたつ:

  1. Hohwyの認知主義
  2. Fristonの"Life as we know it"での考え

連続的であるという立場がふたつ:

  1. Andy Clarkのradical enactivism
  2. Kirchhoffのautopoietic enactivism

ざっくりとしすぎではあるがそれぞれの立場をまとめると、

  1. Jakov Hohwyの立場では、生成モデルを持ってinferenceできればmindなので、機械でもmindを持つことができる。つまりlife-mindの連続性は不要。渡邉正峰さんの「脳の意識 機械の意識」とか金井良太さんはこの立場だろう。
  2. Karl Fristonは"Life as we know it"論文では、生命がなくても複数の時計の針の同期のようなものさえもある種のinferenceをしているのだと唱えるので、汎心論的な考えになっている。これもlifeがなくてもmindがありうる。ただし、1)とちがって認知主義的ではない。
  3. Andy Clarkはlifeのあるところにmindが遅れてやってくるという意味ではlife-mindの連続性を考慮するが、1)の認知主義を排除しない。
  4. Michael Kirchhoffはlifeのあるところつねにmindの元となるようなものがあるという意味でのlife-mindの連続性を3)よりももっと強く主張する。

だいたいこんなかんじになるだろう。あとはもっと読みこむ必要がある。

(注:じつのところFristonの立場は論文によって振れ幅がある。Michael KirchhoffやJelle Bruinebergとの共著では4)の立場に近づくし、Anil Sethの考えに準拠しているときは3)の立場に近づくし(意識とtemporal thicknessの論文)、Alan Hobsonとの夢の論文やHohwyとの共著では1)の立場に近づく。日和見主義者だな!と正直なところ私は思うのだが、Friston本人は自身を物理学者だと自認しているようなので、本質は2)のようなFEPをエントロピーと関連させて捉える考えにあるのだろうと推察する。)

この論文での4つの立場は、私のスライドp.96-99での、FEPから意識を持つ条件を分類した3つの立場(Perceptual inference / Active inference / Counterfactuals)と関連づけられそうだ。つまり、

  • [意識 = Perceptual inferece派]はHohwyの立場と重なる。
  • [意識 = Active inference派]はKirchhoffの立場と重なる。
  • [意識 = Counterfactuals派]はClarkの立場と重なる。

ということ。かなりざっくりだが。


2019年03月09日

エナクティビズム入門準備中(1): Evan Thompsonによるエナクティビズムの特徴

エナクティビズムをどう説明したらいいか、資料を探していたが、基本的な文献の一つはEvan Thompsonの"Mind in Life"だろう。この本のp.13-14ではエナクティブ・アプローチを以下の5つの項目にまとめている。(同じ文章が"Precis of Mind in Life"(PDF)の中にあり。)

「エナクティブ・アプローチ」はいくつかの関連する考え方を一つにまとめたものだ:

  1. 自律性(autonomy): 「生きている存在」は自分自身を生成し維持する、そしてそれによって自分の「認知的ドメイン」を産出(エナクト)する。
  2. 「生きている存在」のもつ神経システムは自律性を持った動的システムである。つまり、その神経系は他のニューロンへ作用を及ぼすニューロンによって作られるcircularおよび再入力するネットワークの操作によって、それ自身のcoherentかつ意味を持った活動パターンを生成し、維持する。その神経系は計算主義者が言う意味での「情報の処理」をしているのではなくて、「意味の創出」を行っているのだ。
  3. 認知cognitionとは環境の中に埋め込まれsituated身体化されたembodied行動による技能化されたノウハウの実行のことだ。認知的な構造とプロセスは知覚と行動からなる再帰的な感覚運動パターンから創発してくる。有機体と環境からなる感覚運動カップリングはその神経系の活動の(内因的な)動的パターンを決定づけるのではなくて、あくまでもそれをmodifyするのに留まる。そしてこの神経系の活動が今度は感覚運動カップリングにinformする役割を持つ。
  4. 認知する存在の世界は、(脳によって内的に表象されている)予め決められた[外的な領域]ではない。認知する存在の世界とは、[その存在の自律的な主体性]と[その存在が環境とカップリングする様式]によって産出(エナクト)される[関係的なドメイン]である。
  5. 「経験experience」とは付帯現象的な副作用ではなく、その存在が持つ精神mindを理解するのに当たって中心的なものであり、現象学的方法によって注意深く明らかにされる必要がある。

これらの理由から、人間の経験についての[認知科学]および[現象学的探求]は。相補的かつ互いに知見を与え合う形で追求される必要がある、このように「エナクティブ・アプローチ」は主張する。

この説明を見ると、2)3)のあたりに神経ダイナミクスについての項目がある。北海道サマーインスティチュートでの私の担当部分の講義では、そのあたりの説明に注力することになるだろう。

あと、enactivismを説明するためにはそれらの近隣の概念として4E cognition (embodied, embedded, enactive, and extended)の違いの説明も必要だろう。

参加者はさまざまな背景の方になるので、神経科学の基本のうち、エナクティヴィズムの説明に必須な部分を抽出する必要がある。神経ダイナミクスの説明のうち、「脳には身体が必要」「脳は環境と相互作用してループで動作する」ということは基本中の基本ではあるけれども、それだけでは4E cognitionのうちembodied / extendedまでの話にしかならない。

Enactiveな神経ダイナミクスの説明では、[自律性(or 操作的閉包)]と[意味生成]の概念について実例をあげることが必須となるだろう。

前者について説明するためには、神経ネットワークが自発的活動を持って時々刻々活動を変化させているのであって、外部入力に受動的に応答するものではないということを伝える必要があるだろう。このことはそもそもの素子である神経細胞についてもそうであって、神経活動の発火というのは状態空間の中でぐるぐる回ることだ。

後者については、いつも使っているHurley and Noeの可塑性からの回復の議論(脳が表象をつくるとするinternalist viewと外界との相互作用によって作られるexternalist view)のトピックなどを採り上げるだろう。


もうひとつ、Evan Thompsonのトークの動画とスライドというのも見つけた。こちらではエナクティビズムについて多少違った表現をしている。スライドにあるenactive propositionsというのを抜き出してみよう。

  1. Autopoiesis (self-production) and adaptivity (self-regulation with respect to the system’s viability conditions) are necessary and sufficient for life.
  2. Autopoiesis is the paradigm case of autonomy—the best understood and minimal case of an autonomous organization.
  3. Autonomy and adaptivity are necessary and sufficient for agency and sense-making.
  4. Living is sense-making in precarious conditions.
  5. Cognition—being directed toward objects as unities-in-manifolds of appearance with spatial (foreground-background) and temporal (past-present-future) horizons—is a kind of sense-making linked to movement and the nervous system.

この定義で説明するためには、そもそもオートポイエーシスとはなにかという説明が必要になる。これはなかなか鬼門。田口さんがサジェストしたように、

@ShigeruTaguchi もっと一般的で簡潔な仕方で導入し、後の方で「この考えを突き詰めていくとオートポイエティックな見方にも言及する必要が出てくる」として、簡単に紹介する程度にとどめるのがよいかもしれません。

こういう感じのほうがよいように思う。

ただ、この特徴づけには考えさせるものがある。Enactiveであるとはつまるところ、life-mind continuityそのものであるのだけど、それを二つのキーワードで表せば、autopoiesisとadaptivityなのだ。FEPはadaptivityの部分の定式化であって、autopoiesisの部分の定式化にはなっていない。やっぱりそこが必要なんだと思う。


2016年07月30日

現象学関係(2015年04月30日(木)まで

ここさいきんの現象学関連を勉強しながらとったメモをまとめておいた。


ZahaviのHusserl’s Phenomenologyの1章を繰り返し読む。訳本があまりにわけわからんので英語版で読んだほうがよくわかる。けっきょくのところ「超越論的」とか「現象学的還元」とか言われても、そういう概念を導入してくる動機がわからないと理解できないので、「論研」の部分のintend-act-object-intuitionあたりの概念を充分理解することに務めたほうが良さそうだ。

プログラミング言語の学習のときには、手続き的->構造体およびクラス->オブジェクト指向と必要に応じて導入してゆくとうまくいくと思う。必要性を感じないところで「オブジェクトとはたとえば車をデザインする例で」みたいな喩え話をされてもさっぱり身につかない。それと同じ理屈で、意識の構造を考えるのに、なんで超越論的という概念を導入しなければならないのか、という必要性を感じるところまで行かないと、たぶん現象学も身につかないのだろう。追体験が必要なのだな。

そこまで飲み込んで、超越論的=反自然主義的であるものをどうやって自然化することが可能だろう?ってところまで深く潜る必要を感じる。でも今の段階で、actというprocessじたいはobjectではない、みたいな話を読んでいると、それは現象側から脳とか物理とかを見ているからであって、オートポイエーシス的なカップリングのことを考えるのがまさに自然化への道なのだろうなあとも思うし(これがEvan Thompsonをreferしてまとめた紀要原稿の結論)、かといってそのような考え方は現象学側からすれば二元論に逆戻りじゃんってことになるのもわかる。

脳を見ない、見えないようにすることによって固有の論理みたいなものを追求するって点で、現象学と行動分析とギブソニアンに共通する態度ってものがあることに気づいた。


「現象学という思考」をぴらぴらと読んでいる。ここでの「自明性」というのがまさに非主題的な、前反省的な意識の話であったり、「構成」という概念が「能動的な作用者なしに現象が自ずから自己自身を構成すること」を表す、なんての読むとそれってほとんど「創発」だな!とか楽しんで読んでる。

「フッサールは、たとえば「超越論的」という形容詞を用いて、既存の語に新たな意味を負わせることにより、暫定的に進んでいく方略を選択した」(媒介論的現象学の構想) とりあえず「超越論的」が付いてたら普段使う意味ではないと保留付けるように心がけて読んでる。


「本質直観」とか言われるとなんか禅僧が瞑想して悟らないと到達不可能であるような物々しさにビビるけど、ザハヴィ本の1章読んでから考えると、essence (志向性の対象と様式) + intuitive (表象や思考を介さずに直接的に与えられている)じゃんって思う。「本質直観」(=形相的還元)は中期の概念なんで、1章まででは道具が足りないのは承知だけど。

「現象学という思考」の「本質」の章を読んでたけど、ここでの「(移ろうなかで)変化しないものを直接的につかむ」ってほとんどギブソンの不変項と直接知覚論だな。ギブソンは実在論という形而上学的コミットメントをしている点で現象学とは別なのは確かだけど。あと連合の使い方とかも考慮すべきか。

ギブソンは明確に二元論的なのだから、「(移ろうなかで)変化しないものを直接的につかむ」ってのが「不変項と直接知覚論」で済む話だったら、現象学的還元も超越論的態度も(すくなくとも知覚論に限れば)必要ないって話になってしまう。ではなにが足りないのか。


「フッサール 起源への哲学」斎藤慶典著を読んでる。自然的態度から離れて考えているはずなのに「力」「作用」「(磁石の)極」みたいな物理メタファーが続出するので、これのどこが超越論的なんだろうと正直よくわからなくなった。物理メタファーの排除だったら行動分析のほうが徹底しているんではないだろうか?


2016年04月24日

「盲視の神経現象学を目指して」がオンラインで読めるようになりました

2014に書いた紀要原稿「􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀􏰀盲視の神経現象学を目指して」がオンラインで読めるようになりました。東北大学機関リポジトリ> 100 文学研究科・文学部 > モラリア >「盲視の神経現象学を目指して」

関連するブログ記事はこちらにまとめてあります: [カテゴリー別保管庫] ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」

2013年6月29日(土)に一橋大学で開催された第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会で「神経科学の立場から」ということで発表を行いました。このときの内容を「科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」」での発表内容とともにまとめて、東北大学倫理学研究会発行の学術雑誌 Moralia に紀要原稿を書きました。このカテゴリーではこのときの準備などで考えたことについて書いたエントリをまとめてあります。

内容をかいつまんで書くとこんなかんじになります:

盲視の神経現象学はどうすれば可能かという問題意識から、ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」(以下G&Z本)を読みこんだ。

G&Z本で「神経現象学」の実践例としてあげられている研究は実のところ「内観的に異なる状態AとBに対応する脳状態CとDを見つけるという対比的手法」を用いており、デネットの言う「ヘテロ現象学」の枠組みを超えてない。

現象学を「現れや所与の次元そのものを検討し、その内的な構造や可能性の条件を暴き出す」ことに使い、神経科学を「状態CとDの間を遷移する全体と部分の構造という力学系的な取り扱いをする」ことに使えるようになったときにはじめて「神経現象学」が目指す意識の科学が可能になるのではないか。

ブログの記事を見てもらうと、たったこれだけのことを書くためにかなり労力をかけて自分の専門の領域を広げようとしている様子がわかるのではないかと思います。

今後もこういう活動を続けてゆく予定です。乞うご期待。


2016年01月04日

田口茂「現象学という思考」合評会行ってきた!

「現象学という思考-〈自明なもの〉の知へ」(筑摩選書-田口-茂) 読了した。これすごく読みやすくていい。平易に書かれてるので眼が滑って飛ばし読みしちゃってるから再読が必要だけど。「現象学的還元」とか「超越論的主観性」といったフッサールのものものしい用語は最小限にした上で「媒介」をキーワードにまとまりのある説明を飲み込めてとても良かった。

「媒介」とか「流れ」とかそういうの大好きなんでするっと飲み込めちゃったけど、そういうの好きでない人を説得するようなものではないと思った。「媒介的振動」とか書いてあって、はいはい、オートポイエーシスのカップリングね、とか思って読み進めたら本当に「知恵の樹」とか出てきて驚いた。

「経験は「当てはずれ」に開かれている」みたいな説明の仕方は「真理の哲学」(貫成人)でも見たけどベイズ的で尤もらしい。ありえなかったことまで取り込んでモデル化して後付け的に当たり前にしてしまう「ブラック・スワン」ってのがまさにこの作用そのものなんではないかとか思ってるのだけど。

あと、間主観性の説明ではじめて腑に落ちた気がした。つまり、「現在、未来、そうであったかもしれない可能性へ瞬時に飛べるような反省的思考のモード」にあるときにはじめて間主観性が難問として出てくる。でもそれでコミュニケーションが不可能になったりするわけではなくて、その場で対応しなければいけないような状況ではわれわれは「行為的連関のモード」で正確でなかろうがとにかくコミュニケーションしてる。(ここはMessyな解決をしている、と言っておきたい。) そのときわれわれは前反省的なモードで世界、他人と直接的なかかわり合いをしていると。

まさにこれが「動物が世界に開かれている」ということなんじゃあないかと思った。われわれ人間が動物とは完全に断絶している、みたいな言い方よりも、われわれはほとんどの時間は動物で、他我問題をmessyに解決していて、その予測誤差があんま大きいときだけ自我が現れ反省的思考の出番になる。

現象学的思考も反省的思考の一種なのだけど、反省的思考のスタイルを突き破って行為の只中、経験の只中に立ち戻ってその中から思考する(p.216)みたいなことが書いてあって、仏教みたいになってきてると思った。やっぱVarela-Thompsonの流れに親和的だな。

というわけでたいへん面白かったが、自分にとって耳障りの良いストーリーを探して読んでしまった感があるので、再読してみようと思う。あと「媒介論的現象学の構想」(pdf)も印刷してきたのでこれも読んでいく予定。

それにしても「媒介」ってなんだろうなあって思うんで自分でパラフレーズしてみるけど、「google猫」ってのがあって、あそこで平均画像がまるで猫の概念であるような言い方がされていたけど、そんなことをしなくても、多数の猫画像を他のものと弁別してカテゴリー化ができたということ自体が、そのさまざまな猫の画像をつなぐ媒介としての「猫概念」なわけ。

でもそうすると媒介というものに対して、またそれを認識する側に人間の認知活動に帰結させてしまうので堂々巡りになってしまう。(追記::佐藤駿さんの論点にあったように、「媒介」と「媒介者」というものが現れないか?ってこと。)

いや、いいのか、「媒介」じたいは反省的思考としてあるのであって、現象そのものが持っているわけではないのだから。もういちどそういう問題意識で読んでみることにしよう。


「媒介論的現象学の構想」も読んだ。けっきょく「媒介」として捉えることで反省的思考から遡るとどれも媒介としての扱いとなるということで、結果として「超越論的XX」の「超越論的」という言葉を使わなくて済むようにする試みなのかなと思った。

ただ、この種の反省的思考から遡るのって、いくらでも概念を捏造できたりしないだろうか。「原印象」はわれわれの意識経験の基づいていると思うけど、「原自我」とかはまったくの現象学的な反省的思考の産物なんではないのとか思う。そのうえ自己隠蔽によって起源を隠すとか、見てきたんかっていう。

われわれは「(現在、未来、そうであったかもしれない可能性へ瞬時に飛べる)反省的思考のモード」と「行為的連関のモード」とのあいだにあって、両方共を我々は普通に行き来しているのであって、そこは難しいことではない。

「エポケー」して「現象学的還元」するというのは前者から後者に移行することではない。「行為的連関のモード」のような直接的に経験と向かっている状態で現象学的な意味での反省を行ってそこから「原印象」とか「原自我」とかそういったものを抽出してくる作業のことであって、つまり反省しつつ経験に直面するという矛盾することをやるこそ難しいことなのだろう。だからメロポンが知覚の現象学の序文で「完全な還元は不可能」と言った、ということなら納得がいく気がする。

(追記:なお、現象学的還元はあくまでも、二元論的なものの見方などをいったん保留すること(エポケー)で自然的態度からの退却を行うことであり、[行為的連関のモード]も[反省的思考のモード]もどちらも自然的態度の一部分であるから、現象学的還元というときにやっていることはそれらに対する特殊な反省的思考であって、それを[行為的連関のモード]と対応付けた[反省的思考のモード]と同一視するのは間違ってる。この点はじめ勘違いしてた。)

「反省的思考のモード」と「行為的連関のモード」とを行き来することは難しくないけど「行為的連関のモード」でありつづけることはたぶん難しくて、だからヴィパッサナー瞑想とかマインドフルネス瞑想とかが技法として用いられるのだろう。たぶん。


都営新宿線での帰り道にふと考えたのでまとめてみた。「現象学的な思考での反省的思考と行為的連関」と「ポピュレーションコーディングによる確率密度分布の表象」をつなげてみる。

Fristonの自由エネルギーにしろ、トノーニのIITにしろ気に喰わないのはどちらも確率密度分布の概念を使っているということだ。それらは「そうであったかもしれない可能性」を含めたアンサンブルを前提としているという意味で表象主義の世界であり、反省的思考の賜だ。

でも実際のニューロンはボトムアップ的に外部からの入力のシナプス荷重を足し算しているだけだ。つまりそれは前反省的な、行為的連関のモードであり、そこに「そうであったかもしれない可能性」はない。この二つを明確に分けて考えたほうが良いと思うのだ。

確率密度分布もしくは尤度関数は脳ではどのように埋め込まれるかというと、Zemel et al 1998とかJazayeri & Movshon 2006にあったように、複数のシナプス入力の分布を使ったpopulation codingとして表現される。

表象主義的、反省的思考の世界ではこのような分布にアクセスする必要がある。行為的連関のモードではそのようなアクセスは行っていない。端的にシナプス入力を蓄積して発火してるだけ。

カエルは虫を見たら舌を伸ばし、大きい影を見たら天敵とみなして退却する。これが世界との直接的に対面しているということだった。そしてたぶんカエルの意識経験(「なにかがあるかんじ」)にとってはたぶんこれで充分なのだ。

おそらくはそのような原印象からもう少し時間が経ってから、それがほかならぬ虫であり、他のゴミとかではなかったということを認識したりするならば、このタイミングでこそ反省的思考が成立し、おそらく人間的なfull-fledgeな意識的経験もこの時生まれる。

でもカエルはそれがほかならぬ虫であり、他のゴミとかではなかったということを認識したりしない。トノーニの説明でのサーモスタットの話で言う「情報量の多さ」とはじつは情報量の問題ではなくて、「そうであったかもしれない」というアンサンブル分布を持つことだったのではないだろうか?

ブラック・スワンについてもこの図式で考えてみることにしよう。あるニューロンAは傾きニューロンからの入力を受けていて、その入力の分布による尤度関数を持ち、「ほかならぬこの傾きの角度」を表象するニューロンとして機能していた。

つまり、これまでの入力の履歴の情報を持って、それによって各傾きからの入力をnormalizeしてそのニューロンにとってのimpactの大きさを決めていた。

しかしじつはこのニューロンAは方向ニューロン(傾きの情報にプラスしてどちら向きに動くかの情報がたされている)からの入力ともシナプスを作っていた。けれどもこのシナプスへの入力は一度もなく、このニューロンは傾きを表象するものだと思われていた。

しかしあるときこの方向ニューロンが実際にドライブされてシナプスからの入力が実際に起った。そのとき何が起こるかというと、このニューロンAはフレーム問題を引き起こしたりしないで、行為的連関としてこの刺激に反応する。

そしてそのあとで、あらたな入力の確率密度に対応して各入力はnormalizeされて、そのニューロンにとってのimpactの大きさがupdateされた。結果としてこのニューロンは後付的にmotionニューロンとなったが、なんの齟齬も起こさず、あたかももとからそうであったかのように入力に応答し、確率密度分布としての尤度の表象を行った。

こんな感じなのではないかと思う。あとから見直すとポピュレーションコーディングであることを無視しているのでもうちょっとなんとかしたいが、ともあれ[力学系としての脳と確率論的な脳]を[行為的連関のモードと反省的思考のモード]に対応付けるということをしたかったということに気がついた。


「現象学という思考」合評会行ってきた。面白かった、というかこういう感じで皆さん読んでいるのかということが分かってよかった。あいにく新幹線の都合で最後の議論の時間の途中で辞去。

著者の田口茂さんと少しお話することができてとても良かった。私の盲視の仕事のこともご存知だった。会の中での話では神経科学者と意識についての論文も書いているということで、トノーニのIITについても言及してた。驚いた。ぜひまた詳しくお話しておきたい。(追記:そのあといろいろメールのやり取りして話を進めているところ。)

本質直感とか受動的綜合のあたりの話はじつはサリエンシーでかなり置き換えられるんではないかと思った。田口氏自身も他分野との連携のためにもフッサールのものものしい言葉を使わずに、あくまで現象に向かうための呼び名としての言葉(「意識」「流れ」「媒介」など)ということを強調していて、すごくいいと思った。

けっきょく現象学をやるためには現象に向きあう必要があって、そのためにはフッサール自身が書いたものにある実際の分析例とかに当たるのが参考になるわけで、そろそろ私も概説書から本人の書物に向かうべきかと思った。サバティカルがあったらやる。(<-絶対やらないパターン)


田口茂さんとのメールのやり取りのうち、吉田の部分を編集して作成:

IITは基本的にNeural correlates of consciousnessの延長上にある。Cristof KochがIITに肩入れしたのもそれ故だと思う。このためIITでもNCCで批判されていたことが当てはまる。たとえば行動が入っていない受動的な知覚意識を想定していないか、とか。Panpsychism的な結論が出るのはこのため。ただし行動の問題は、どうやったら高いphiのネットワークを作れるかというところにimplicitに入っているので、「行動が入ってない」という批判は正確ではないのだけど。

私自身はKarl Fristonの自由エネルギー原理のほうが確率論的脳と力学的脳の両方が入っている点で(それじたいは意識の理論を目指したものでないけれど)意識の理論に組み入れられるべきものではないかと考えている。自由エネルギー原理では、予想コーディング + Active inferenceという形で行動も中に入っている。たぶん意識の理論を構築してゆくとIITと自由エネルギーの両方がつながってくるんではないかと思う。

田口さんの本での自我の話(「自我は切れ目にあらわれる」)はかなり予想コーディング的発想ではないかと思って読んだ。また、「本質」の章で「変化していないことが変化していることの対比を形成する」という話を書いてあったけれども、これはまさに(空間的な)サリエンシーの概念そのものと言える。これを時間方向にも拡張すると(たとえば、均一な画面に光点が現れた場面)ベイジアン・サプライズという概念になり、これは予想コーディングにおける予測誤差と等価になる。

おそらくは現象学自体は予想コーディングとの親和性が高い。そういえば当事者研究の熊谷晋一郎さんも予想コーディングの枠組みを使って脳性麻痺の身体についての議論をしてた。


2015年05月14日

紀要原稿「盲視の神経現象学を目指して」を(昨年)書きました

昨年、東北大学倫理学研究会」発行の学術雑誌 Moralia に紀要原稿を書きました。

「盲視の神経現象学を目指して」 吉田 正俊 MORALIA 20-21 171-188 2014年11月

あいにく原稿はwebからはアクセス出来ないようなのですが、内容としては、これまでに行ってきた「ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会」および「科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」」での発表をまとめたものです。

そのときにいくつかメモったことをまとめてブログ記事にしてみました。


Evan ThompsonによるZahavi論文へのコメントを読んでたら、現象学の自然化について、二つのありうる方法のうちの後者がThompsonのmind in lifeにあるというのを見て、読まなくてはと思った。

前者はいわゆる現象学的心理学で、後者は「生物学的システムが持っている、自己組織化およびsense-makingする能力における超越論的な地位を(現象学が)明らかにすることによって、現象学は自然という概念を更新しうるし、経験的と超越論的という二分法を更新しうる」と書いてあった。

要はオートポイエーシスが作動することによって創発する現象学的ドメインっていうあれのことらしい。実験科学的なところでbridge the gapしようとするのはうまくいかない自然化で、構成論的な方から考えるべしってところか? まあそのうち現物を読むことにしようと思う。


神経現象学の紀要を書くために、Dan Zahavi (2013): Naturalized Phenomenology A Desideratum or a Category Mistake? を読んでた。Evan ThompsonのMindin Lifeへの言及はHusserl Studies 2009でのZahaviによるMind in Lifeの書評とほとんど同じような文章だった。いったん表現を固めたらばあとはそれを使い回しするものらしい。どんどんパラフレーズしてほしいものだけど。


ブリタニカ草稿 (ちくま学芸文庫) エドムント フッサール (著), 谷 徹 (翻訳)を図書館で借りてきた。「< >は訳者が<語群の意味上のまとまり>を示すために用いた記号である」ってあって、これが便利。たとえば英語だったら<語群の意味上のまとまり>は文法的に推定できても、日本語に訳される時点でその情報がしばしば消えてしまうわけで、このような手がかりはありがたい。というかいつも自分で< > (わたしのばあいは[ ]だけど)を書き込んで理解している。もう翻訳はこれを必須にしてほしいわ。


「現象学と間文化性」谷徹著を読んでいたら受動的綜合について「感覚的なもの…は同質的な物同士がまとまり、異質的なものとのコントラストを生み出して…「際立って」くる。この際立ちが「私」を「触発」する」(p.131)とある。これはまさに知覚サリエンスから動機サリエンスじゃないか。

"passive synthesis"とsalienceでぐぐってみた。ここでの「触発」とはAffektionのことのようだ。エヴァン・トンプソンのLife and Mindの中でもsense-makingの文脈でaffective salienceの語が出てくる(p.376)。

Life and Mind 12章でフッサールの"Analyses Concerning Passive and Active Synthesis"に言及している。英訳本にあたってみるとフッサールは知覚サリエンシーについて書いてる:

"whether the datum is salient in the special sense and then perhaps actually noticed … depends upon the datum's relative intensity (p.214)

"there is naturally a certain relief of salience, a relief of noticeability, and a relief that can get my attention … we will still have the difference of vivacity, which is not to be confused with a materially relevant intensity"(p.215)

こことかまるで私のサリエンシーの総説だ。

私がこの話題にこだわっているのは、統合失調症におけるabberent salience説と自己の現象学的分析に関連するから。

すると、知覚的サリエンスから動機的(or情動的)サリエンスの形成が自己の統一性にも関わるということを神経現象学的に捉える、というのが意識の神経科学のプログラムとなりうる。全てがつながってきた!(<-jumping-to-conclusions bias)

「発生的現象学における時間と他者」 山口 一郎著 ここで時間的意識における受動的綜合とヴァレラのspecious presentへの言及がある。


神経現象学紀要、Evan ThompsonのLife and Mind参照したりとかメロポンの行動の構造参照したりとか色々手を広げすぎて、収拾がつかない。そもそもヘテロ現象学と神経現象学を正確に説明するだけで文字数が結構必要となる。

素人なりに、現象学的心理学で終わらせるのではなく、超越論的現象学の自然化としてザハヴィが引用しているメロポンの「超越論的哲学の再定義」とEvan Thompsonのsense makingと現象学的ドメインのオートポイエーシスまで書ききってしまうつもり。


sense-makingからphenomenological domainに繋げられないかなと思ってautopoiesis and cognitionを再読している。112ページ辺り。昔はさっぱりわからなかったけど、本当に「現象学的」ドメインだったのだな。


神経現象学紀要原稿書きあげた! 大幅に文字制限オーバーしているけど、構成を見なおせばなんとかなるところまで目処はついた。昼はFSL習得。神経科学大会のプレゼン作り。その他いろいろ。とにかくやりきった!寝る!

できた原稿を見なおして、このへんはもっと正確にしなきゃとかやりだしたらきりがないことに気づいた。でも今晩中に終わらす。

ラストの決め台詞はトンプソン2007のこれを使う:「有機体の持つオートポイエーシスとしての形式によって、ある種の(世界に対して規範的に関わりあうような)目的志向を持った自己性selfhoodを具現化される。神経活動の力学系的な形式によって時間性の持つ特別な構造が具現化される。…これらの知見は現象学の成果を自然現象に向けて使ったときにのみ得られるものだ。」

ここでの「形式」と「具現化embody」と「構造」とを正しくパラフレーズして「脳を含む力学系による内的なカテゴリー分け(=sense-making)によってそれが実現する」みたいなふうに書きたいのだがなんだかピシっと締まらん。こいつがキマれば細部があれでも完成した感じはするのだけれど。


原稿送付した!


2014年11月18日

「真理の哲学 (ちくま新書)」貫 成人著 を読んでた

「真理の哲学 (ちくま新書)」貫 成人著 のフッサールの章を読んだら短いけどすごく明確でよかった。「超越論的速度性」のあたりはすごくオートポイエティックで興味あるが、さすがに紙面が足りなかったのかなんか横滑りしてる感じ。たぶん「経験の構造」を読んだほうがよいのだろう。

「路線バスだと思ってたら貸切バスだった」みたいな例から元の理性定立がアップデートされてより確かな理性定立へ至ることを「脱-誤謬 enttausschung」というあたりとか、ベイズかよとか思った。

そうしてみると、現出からいくら証拠が増えても完全な証拠(十全的明証)は集まらないので、そういう理想状態はカント的理念であるとかの話も現出=インスタンスのほうが所与で、対象、現出者=クラスのほうが不確定であるという意味でベイズ的(頻度論の逆)だよなあとか思った。

でもって、究極的にはクラスとインスタンスが片道ではなくってお互いがお互いを拘束するような鶏と卵的構造(duality)を持ってるんだろうとかそういうことをつらつらと考えていた。

つかZahavi本を英語で読んでると、the givenness of the objectとかthe object's different modes of appearanceとか書いてあったりしてプログラミングかよとか思う。

つかクラスを定義してからインスタンスを作るってそういう意味では現代というより近代的じゃねえの?それの逆ってありうるのか? つかそれがダックタイピング?(<-むちゃくちゃ)

つかクラスとインスタンスの関係に対応するのは、タイプとトークンの議論があるのだった。恥ずかしい、と言いつつべつに恥ずかしくない。


「真理の哲学」第2章をまとめてる。

p.76: 連合を経験している視点(=現象学)からの連合のメカニズム:(1)知覚においてまず生じているのは「なにかを思い出させる」という連合のはたらき (2)その結果、過去に見知っていたなにものかがピックアップされる (3)ふたつのあいだの類似関係が確認される

p.76: ヒュームやカントの連合では、二項の類似・隣接などが、わたしのそれについての認識以前に前提されている。これは「神の視点」を取っていることになる。二項間にあらかじめ想定された類似などを連合の起動因とすることはできない。

この本(「真理の哲学」)の「現象学還元から始めちゃうと観念論っぽく聞こえるかもしれないけど、要は「物自体」みたいな神の視点とかをあらかじめ想定するのって正しくないでしょ?」って言い方はいいと思った。ポパーの反証主義みたいに、科学者には受け入れやすい論点だと思う。


現象学において、物体(physical object)を知覚するときには必ずあるパースペクティブからの知覚であって、けっして充分にfulfillされえないという話のときに、たとえ理想状態として全てを知っている神がいたとして物体の知覚はあるパースペクティブからの知覚であって、もしそうでなければその経験は物体に対する経験ではないだろうっていう有名らしい記述を見て(Zahavi p.34)、ヘプタポッドはどう経験しただろうって考えた。と同時に、以前も同じこと書いたような気がしてきた。

検索かけてみたら見つけた。「ヘプタポッドには我々にあるような「経験」というものがあるようにはちょっと思えないのだ。」「過去から現在、未来までをひとつの相のもとに見渡すと言うとき…経験というものがあるようには思えないのだ。」

「不十全的な明証」とか言われるとわっけわからんが、Zahavi本で英語で読めば"inadequate evidence"だったので、英語のほうが簡単でいいじゃんって思った。

あと「Evidenceはfeeling of uncertaintyではない」って記述(p.32)を見て、evidence accumulatorモデルによるメタ認知の計算論の論文を読んでいるような気がして面白かった。つかたぶん、あっちの感覚ではそんなに離れてないんだろう。


(例のlibrahack事件で有名な)岡崎中央図書館の書庫蔵書を調べたらイデーンII-1だけがあることを知ったので借りてきた。ちょうどこのへんは知覚経験についての具体的な分析だったようで、この辺なら読めるかもと思った。サントニンによる黄視症についての記述も第18節にあった。

でも英訳がほしい。springer linkで発見。フリーではなかったけど、とりあえず目次とかが読める。たとえば「有心的自然」ってわけわからんかったが、英語では"Animal Nature"だった。


2014年06月06日

「自閉症の現象学」

身体論研究会のページを見て「自閉症の現象学」を読むべきだなと思った。岡崎図書館には入ってなかったけど「治癒の現象学」のほうは入ってる。

エヌ氏の成長・円錐この記事を見ていても、社会性がどうのこうのという話よりも感覚・知覚の統合能力という議論になっていて、この方が自分的には納得がいくし、自分にもできることがあるように思う。そしてこれは意識の研究になると思う。


「治癒の現象学」借りてきた。「結語」の部分の「現象学者は…対象に巻き込まれる。彼は客観的な視点を取らない。それゆえに自然科学的なエビデンスは持たないが、巻き込みの中での追体験が別種の確かさを生み出す。これをフッサールは明証性と呼んだ」とかこのへんにピンときた。

「現象学者が行うのは、経験そのものの追体験ではなく、経験を「創りだす構造」の再作動である。」こことかもすごく合点がいった。いわゆる現象学的な心理学とか精神分析とかって精緻化された内観報告にしか思えなかったのだけど、もし構造を取り出すのならそれは現象学的だろう。

でもって本文を読み進めてみたけど、これはあまりに現代哲学的で読み進められなかった。「生身の身体のもつ運動感覚とはフッサールが考えていたような単一の純粋な現象ではなく空想身体と生理学的な身体との複合現象、交差する地点のことなのかもしれない」とかすごく興味あるけど進行が速すぎる。

「幸いなことに現象学は一種の数学を使わない「科学」である…たえず間違いは訂正され、知が伝承される可能性を持つ。たとえ新しい概念を創りだしたとしても、それは分析者の個性の発露ではなくて、新しく発見された現象や構造への目印である」とか惹かれるけど、事実というよりは目標では?と思う。

「行為の方は空想身体に埋め込まれる」「触発する出来事や人間関係は、それ自体は目に見えない。現実と近くの背後から空想身体を触発する。そしてその触発において空想身体は「意味」を産出する」こういう部分はすごく惹かれる。惹かれるんだけど、そういうところで断定的に進むのには着いてゆけない。

ここで書かれているような「科学とは違った意味での明証性evidenz」が本当に確立していて、現象学による経験の構造についての研究プログラムというものが概念の拡散をせずに意見の一致を見る形で深化していけるのだとしたら、現象学の自然化なんてものはそもそも必要ないのではないだろうか。


現代思想-2013年8月号-看護のチカラ-“未来-にかかわるケアのかたち これに惹かれたが、岡崎市立中央図書館では「現代思想」をとってない。ありえないことだが、とってない。

現象学的心理学、みたいな方向を調べていくと「質的研究法」についてちゃんと理解しなければならないことがわかる。うーむ、そこまではまだ(私の中で)時が熟していない感じ。


Dan Zahavi: "Empathy and mirroring: Husserl and Gallese"(pdf)ってのを見つけた。フッサール現象学でのempathyとか間主観性とミラーニューロンの話。


「自閉症の現象学」取り寄せてぴらぴらめくってる。とても面白いし、書いてあることがすごく納得がいくのだけど、話の展開の仕方が決めつけ的なのが非常に気になる。

「感覚刺激に没頭する自閉症児の世界は、このような感性野がひとりでに組織化する現象が、純粋な姿で実現している状態である」(p.11)ということでフッサールの「受動的綜合」のより純粋なものが自閉症児の世界にあるのだという話で、すごく魅力的なのだけど、こんな言い方でよいのだろうか?

「受動的綜合が見られるのではないだろうか? その論拠を示す。」みたいな議論でないのがすごく気になる。読み続けていけば違うのかもしれないけど。


2013年11月07日

「神経現象学と当事者研究」いくつか補足コメント

科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」の件、いくつか補足コメントを。

議論の方はいきなり郡司さんから、現象学は力学系で表現できるけど、現れたり消えたりするものは説明できないのではないか、という質問があって、自分としては力学系で表現したものは実のところ現象学ではないと思っていたからちょっとびっくりしてうまく答えられなかった。

熊谷さんはinsulaのサリエンスネットワークでのpredictive codingおよび自由エネルギー説から自伝的記憶の構造の話まで広げたうえで当事者研究的なやわらかい言葉(「ぐるぐるモード」とか)で話をしていてすごいと思った。二人称的アプローチが板に付いているというか。

石原さんが言っていたフッサール現象学をもっと使いよくするという話を聞いて、神経現象学と当事者研究との関係がだいぶ明確になってきた。当事者研究においてはフッサール現象学のうち、エポケーや還元といった技法をもっと使いよくしていけばよいのだろうし、熊谷さんによればじっさいにエポケーや還元に近い概念として、生の言葉で語るとか価値判断はしないとかそういうノウハウが蓄積しているようだ。

いっぽうで意識の研究方法としての神経現象学の場合にはそこでの現象学は自然化を拒むような現象学であり、意識は世界の一部ではないのだから、てんかんの神経現象学で図示したような現象的な状態空間みたいな視覚化を拒むだろう。この意味においてこれまでに神経現象学として厳密に超越論的現象学(といっても理解しているわけではないが、本質的に反自然主義であるもの)を適用できたものはないと思う。

メロポンが言った「完璧な還元は不可能」ってのがこのことを指すのかどうかは分からないが。

あと、石原さん、浦野さんには現象学と神経生物学が相互に「拘束」しあうというときの拘束ってなんだろう?とか力学系が関わる意味とか、まさに昨晩あたりにツイートしたことを質問された。

Thompson (の書評を書いたZahaviのまとめ)によれば、けっきょく拘束というのはどういうことかというと、たとえば現象学的知見によってこれまで一つだと思われていた現象が複数の要素と構造に分かれると分かったとしたら、それに基づいて神経生物学的検討を再び行うための根拠となる。逆も真なりで神経生物学的知見は現象学的な再検討を要求しうる。この意味においては現象学が自然科学による知見をそのまま取り入れているわけではないのだから、自然化の問題を違反しているということはないだろう。

それからあと力学系の方の話だけど、って私が力学系語れる技量無いんだけどそれでも語るならば、そもそもNCC問題のうちcontrastive methodであることの問題は、状態Aと状態Bとを区別する脳活動Cと脳活動Dを見つけたというときにはA-C、B-Dという対応付けがどうなされるかということは外側からしか決めることが出来なくなってしまうためにmind-body problemもしくはexplanatory gapが生まれてしまうのであった。

そこで力学系では自分が行為によって内的に区別をし、カテゴリーを作り、意味を作成する。だから対応付け問題は起こらないし、そのカテゴリーは内部からのものであって第三者のものではない。これがenaction = 「行為による産出」の意味であって、Varelaがオートポイエーシスのときから一貫して持っている視点だった。

だからEvan Thompsonとかはmind-body problemではなくてbody-body problemだ、という表現をしている。

元々のVarelaの神経現象学1996では力学系はあくまで神経生物学の中で創発を取り扱うために導入されていた節がある。しかし今日の話で強調したように、現象側も本質的に力学系的であると思う。それは現象が時間的意識であるという現象学の帰結そのものからサポートされる。

ただし、先ほども書いたように、てんかんの神経現象学で図示した現象的な状態空間みたいなのは、現象を世界の中に延長を持って存在するように誘導してしまうので誤解を生むだけだと思うし、あそこで描かれたものは現象学ではないと思う。現象学的心理学というか。

現象に力学的側面があるのはたしかだけれども、それはある種の抽象化された力学系でしかない。だから、神経現象学で神経生物学と現象学とを力学系が結ぶというときは、神経生物学と現象学の両方に力学系的な考えが必要なのだというふうに神経現象学自体の考えも変化してきていると思う。

Isomorphicではなくてhomeomorphicであるほうが関係として強いのはたしかで、それはそれぞれのドメインである種の因果があるところまで抑えているわけだから。Varela 1999で「厳密に一致する」というときはこのレベルのことを指しているのではないだろうか。でもじゃあhomeomorphicで足りるのかっていうとよく分からない。

この点でもうひとつVarela 1996以降で導入された考えとして考慮すべきはdownward causationだろう。けっきょく現象はpersonalなレベルであって、神経生物学はsubpersonalなレベルにあるので、そもそもisomorphismといっても違ったオーダーのものを並べているというのがほんとうのところ。

upward causationでは個々のニューロンの活動がセルアセンブリを作り、現象を引き起こすわけだけど、downward causationでは、てんかんの発作の前兆が来たら香水のニオイをかぐことによって発作を抑えることが出来る、といった例が挙げられる。ここでニューロンレベル - セルアセンブリレベル - 現象レベル というふうに創発の空間のオーダーが大きくなって最終的にパーソナルなレベルとなったのが現象、みたいなバイオロジカルな創発の延長として捉える発想がある。(Thompson and Varela 2001とか) もちろんこれは自然の外にある意識という発想とは相容れないけど。


2013年11月03日

ワークショップ「神経現象学と当事者研究」 河島 則天さんのコメント

科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ「神経現象学と当事者研究」に河島 則天さん(@KWS456123 国立障害者リハビリテーションセンター研究所)が参加してくださいまして、ツイッターで長文コメントを書いておられました。そこでツイートまとめを作成して転載させてもらうことをお願いしました。

河島さん、転載許可どうもありがとうございました。河島さんのツイートまとめ、ここから始まります:


科学基礎論学会例会に吉田さん@pooneilと熊谷さん@skumagayaのお話を聴きに行った。僕が勝手に理解したところでは、熊谷さんとは立場は違えど問題意識のかなりの部分共有できると感じ、吉田さんとは立ち位置というか、やってみたいことがかなり一致しているような印象を受けた。

熊谷さんの話を聞く前後で、当事者研究に関しての考え方がかなり変わった。僕がやっているsingle case studyはある部分、当事者の主体的体験を引き出し、記述することを軸にしているし、僕の立場はその情報の集約と客観化の部分を担っている。これって当事者研究じゃん、と思った。

そして午後は先天性無痛症の集まりに来てる。この関わりももう8年になるけれど、年に一度しか会わないのに親近感をもって接してくれるというのは嬉しいことで、同症との関わりは年を経るごとに当事者研究的な要素が出てきてるな、思ったりする。こういう関係ではないとできない研究というのがある。

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昨日の科学基礎論学会ワークショップのことが頭を離れなくていろいろ考えている。正直なところややネガティブな感じで捉えていた「当事者研究」が、昨日の話を聴いてこうもコロリとややポジティブに転じている理由って何なんだろう、、、と。

当事者研究の代表事例の「べてるの家」の対象とアプローチ、その特殊性、効果と限界についての理解が、イコール当事者研究に対する印象、と(勝手に僕が)なってしまっていたのが理由の一つか。(もっともらしい理由を探すよりもむしろ率直に、当事者たる熊谷さんが発する言葉の力や説得力、ということに尽きるのだろうけれど)

熊谷さんは現代思想の対談でも著作でも慢性疼痛について触れていて、その現象学的記述(というのは正しいのかな?)は他者が知り得ないところがあって、表現のすばらしさもあってやはり主体的体験の言語化、客観化というのはなによりパワーがあるな、と改めて思った。

同じ印象(当事者の語りというのは症状や病態の理解に何より重要だという・・・)は、菊澤律子さんのCRPSの寄稿を読んだときにも感じたこと。

ただし、僕らが接する患者さんたちが、主体的経験を明確に語りとして/言語記述として明確明瞭に示すことができるかというとそうとは限らない。ゆえに、当事者研究においては「当人に現象学的記述が可能となるようトレーニングをする」必要があるのだと。

熊谷さんは「当事者をトレーニングさせる」ということへの違和感を、冒頭に問題意識として挙げており、それは僕にとってはすごくすんなりと共有できる部分だった。

「痛みは主観的な意識経験である」けれども「痛みへの共感なくして痛みの治療はできない」というこの距離感を繋ぐのは「痛みの意識経験を患者が語ること」だというけれど、当人が言語化し得ない部分、そして昨日の熊谷さんの話にあった過剰一般化をここに位置付けると問題はそう簡単ではない。

これまた以前の現代思想のポンティの特集の中である医療関係者が「医療者は共感を前提に科学的な知識と技術を適応しなければならないことを肝に銘じておくべきであろう。」と書いている。表面的には正しいんだけど、これは真なのかな?少なくとも僕には具体的を伴わない理想論としか受け取れなかった。(本質的に自身の経験や想像の及ばない、耐え難い痛みを共感することなどできるのか?という意味で)

患者さんが訴える耐え難い痛みを僕は同じように感じることはできない。そもそも本人は「他人にはおよそ想像できないだろう」、あるいは「この痛みを本当の意味での共感というのは難しいだろう」と思っているかもしれない(あくまで推測)。

熊谷さんの話の中に、当事者が研究に参加することの明確な動機/理由として、その症状や病態が改善することへの期待、ポジティブな態度というのが必要だという指摘があった。その上で、当事者研究は『自分自身の経験に関する真な知識を得ようとする実践』であるということでこれには納得感大だった。

僕もこれはすごく重要だと思っていることで、痛みを共感すること以上に大切だと思うのは、患者さんが持ち得ない痛みに対する考え方/捉え方をしてみて本人に照らし、その考えに患者さんが関心と期待をもってくれるとすれば『このヒトは痛みを理解してくれているのでは』という感情が生まれるのでは?という可能性。

つまり僕が自分が経験したこともない耐え難い痛みを本当の意味で共感することは難しいけれど、患者さんがこちらの考えに共感や期待をもって接してくれるとすれば、共同注意や共感というような第二者的感覚を超えて、もっと近い視点で痛みという事象を考えていくことができるのかもしれない、と。

思いつくままにかなり長々と書いてしまった。。。終わりー


河島さん、どうもありがとうございました。

河島さんも熊谷さんも石原さんもVarelaの現象学における「training, stabilization」という表現に当事者研究に近い立場から違和感を表明していたけど、ここについてコメントしておきたい。

Varelaのtrainingってのは、現象学的還元ってのはだれでもすぐに出来るようなものではない微妙な気づきを得るための技法だから、仏教の僧侶がマインドフルネスの境地に至るのがすぐに出来ないのと同じように、その技法を自転車に乗ることができるのと同じような意味で習熟するというというのがトレーニングだ、という意味だと思う。(この点で現象学的還元に基づいた描写は内観報告とは違っている。)

その意味では当事者研究においても、「自分の言葉で語る」「価値判断を入れない」というような場の力を維持するためには習熟が必要だと思うので、この点で神経現象学と当事者研究とがそれほど違っているわけではないのではないかと思う。

とはいえ、神経現象学と当事者研究との動機が違うという論点は私も理解している。ワークショップ後の昼食の時にも話をしたけど、神経現象学のヴァレラがもともとチベット仏教とかをから強く影響を受けているという点からもわかるけどものすごく「求道的」であって、あくまで真理探究が優先されていると思う。

一方で、べてるの家の当事者研究が「八方手詰まりだから研究でもやってみるか」というところから始まったように、実際に役立つことが何より優先される状況とは違っている。

トークで取り上げたてんかん発作の神経現象学でも、現象学的インタビュー(VermerschのExplicitation Interviewを下敷きにしている)が行われていたけど、それはあくまで患者側の立場からてんかん発作の前兆というものが一体どういう経験なのかを明確にすることによって、認知的予防法に役立てるという目的があった。インタビューにおいて、言語化を繰り返し、内面に目を向ける方法に習熟し、また新たな発作の経験のあとでさらに前兆としての経験が繰り返されているかを検証してゆく、こういった繰り返しによる習熟の作業のことをVarelaは「トレーニング」と言っていたのだと思う。

とはいえ、Petitmenginは同時に、このようなインタビューがはたして患者さんの為になっているのか、無力感も告白している(Petitmengin 2010)。じっさい、発作経験というつらい経験を根掘り葉掘り聞かれることになるわけだから。

けっきょくのところ、患者さんとともに研究をしてゆく二人称的研究法においてはこの問題を解決する簡単な解はなくて、その都度二人称的関係を作り上げながらやっていくしかないんではないかと思う。その意味で河島さんが後半に書いていたことには共感する。

記述を深化させることによって当事者の経験をよく理解してもらえるようになること(=「トレーニング」)よりも、二人称的関係を作り上げて「わかってもらえている」という信頼関係を作ること、こっちのほうが当事者にとっては優先するだろう。でも経験の記述が本当にその当事者にとって役に立つ状況にあるならば(これは必ずしも真ではない)、どちらかを選ばなければいけないという話でもない。両方必要。けっきょくそこに尽きるのではないかと思う。

ちなみに二人称的研究法というときの「二人称」という言葉にはブーバーの「我と汝」(二人称)と「我とそれ」(三人称)という考えが反映していると思う。原理的に本当に理解できるわけではない。一方で二人称的であること、「我とそれ」ではなくあり続けるということ、このことは個人的にはずっと考えている人生のテーマだった。

神経現象学の場面においてはEvan Thompsonはempathyという言葉を使っていて、Dennettにはその部分軽く一蹴されていた。まだ十分に理解できたわけではないけれども、でもいつか私はEvan Thompson側の方に付くことになるだろうと思った。(追記:これは正しくなかった。あとで探してみたら、"Shall We Tango? No, but Thanks for Asking"には該当する部分が見つからなかった。正確にはこの中では、トンプソンの言う二人称的方法はけっきょくのところデネットの言うヘテロ現象学なのであるとデネットは主張していた。)


2013年11月02日

科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」無事終了した!

科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」無事終了した!

発表の方は時間が足りなくなってしまったが、ネタスライドも投入できたし、ウケもとれたのでまあよかったのではないだろうか。議論の時間に参加人数を数えてみたら48人。なかなか盛況だった。

補足的な議論など書きたいことはいろいろあるのだけれども、とりあえず今日は配布したハンドアウトを掲載しておきます。参加してくださった皆様、どうもありがとうございました。

「意識の神経科学と神経現象学」ハンドアウト from Masatoshi Yoshida


2013年10月27日

意識の神経科学と神経現象学と当事者研究

科学基礎論学会 秋の研究例会@駒場(11/2)でトークをします。「神経現象学と当事者研究」というのワークショップの中で「意識の神経科学と神経現象学」というタイトルで話題提供を行います。


科学基礎論学会に向けて準備を始めたところ。当事者研究関係の本など借りれるだけ借りてきた。

「フッサール 起源への哲学」斎藤 慶典 (著) を読んでいたら、離人症の例をとって「ありありと現前するかんじ」についての議論が出てきた。これってまさに盲視での「なにかあるかんじ」の現前性(presence)だな! 木村敏氏の本でも採りあげられているらしい。

そして離人症においては「ありありとするかんじ」が失われても現象性は失われていない。この本のp.192-195あたりでは、統一された自己が必ずしも現象性に必要ないという議論がなされている。この「統一された自己」というのは後反省的な自己意識を経たものであって、一人称性の基礎となるpre-reflective self awareness (PRSF)は残ると言えそうだ。(見ている自分自体が消えているわけではない。) この辺りと絡めて、盲視で起こっていることを現象学的に捉えたうえで神経現象学をする可能性みたいなところに持っていけそう。

書きながら考える。神経現象学的に捉えようとするとどうなるかというと、「なにかあるかんじ」が残存するとして、それにはPRSFはあると言えるだろう。でもそれは視覚的意識経験(志向性と内容を持ったもの)とも違っていれば、想像や幻覚や思考などとも違っている。

「なにかあるかんじ」はなにかをポイントしているという意味で志向性としての性格を持っているけど、それがポイントしているのはある場所のみであって、しかもそれは視野の外なのだから網膜上に映っている空間ではなくて、そこを外挿した場所もしくは別の座標となる。(これじたいはempiricalな問いであって、頭や体中心の座標などどれを使っているかを検証することは可能。)

離人症では「現前性」が失われつつも現象的な経験自体は残存しているということなのかもしれない。

平行して綾屋 紗月氏、熊谷 晋一郎氏の本も読んでいる(「発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい」および「つながりの作法―同じでもなく 違うでもなく」)。この本ではアスペルガー症候群と診断された綾屋氏が自分の経験を詳細に分析していて、「感覚飽和」という経験が記述されている。これは外界からの情報を大量に受け取ってしまい、不要な刺激を潜在化させることが出来なくて苦しくなってしまうということのようだ。ここで「聞こえているし見えてもいるけれども、意味を失う」という表現がある (綾屋・熊谷 2010 p.21)。

これもどうやら、現象的意識と現前性とが乖離した現象と言えるのではないだろうか。

ちょっと余談だけど、Ned Blockの意識の議論で、現象的意識はあるけどアクセス意識がない例としてワーキングメモリーがオーバーフローした状態を挙げている("Perceptual consciousness overflows cognitive access" (PDF))。このオーバーフローの概念自体は本当にP意識 without A意識と言えるかどうかまだ分からないのだけれども、綾屋氏が描写している「感覚飽和」っていうのはまさにこのオーバーフローそのものだなと思った。

あともうひとつ余談だけど、「不要な刺激を潜在化させることが出来ない」という現象は、「くらやみのはやさはどれくらい」やテンプル・グランディンの話でも「外界の刺激が強烈すぎる」「一つ一つの刺激に気が削がれてしまう」というような記述があって共通性が高い現象のように思われる。この現象じたいはサリエンシー計算論モデルに基づいた議論が出来そうだ。われわれが普段注意を同時に複数のものに持っていかれないということは計算論モデルでは、目立つ刺激の候補の中からwinner-take-allルール(いちばん目立つものだけに注意が向かってその他のものへの注意は抑制される)というメカニズムでもって説明される。ではこのwinner-take-allは脳内でどのように行われているのだろうか? どのくらい個人差があるのだろうか?

話が飛んだけど、神経現象学的にするためには、盲視が現象的視覚経験から何かを引き算した結果ではなくて、経験の一種としてある意味安定した構造をとるようになったものとして捉えることができて、そのような経験のダイナミクスと脳と身体のダイナミクスこそが完全に一致する(相関ではなくて)とかそういうふうになるんではないだろうかと思う。

現象学が正しく機能するなら、経験の分類(=内観で可能)に終わるものではなくて、それは経験の構造とダイナミクスとを捉えるものであるはずで、それを取り扱う脳科学は力学系に基づいたものでなければcontrastive methodに終始してしまう。

これがVarela 1996 ("neurophenomenolgy")からVarela 1999 ("specious present")の間で「力学系的な取り扱い」が神経現象学を構成するための条件として前面に出てきた理由だ。ただし、セルアセンブリが短時間で切り替わりながら変遷してゆく力学系的な過程こそが意識における時間を規定しているのだといった考え方自体は1995Biol. Resですでに展開されているし、Varela 1996で「現象学と神経生物学とが相互に制約条件を与える」というときの神経生物学の中にemergenceのプロセスが含まれている。

ギャラガーの「前倒しの現象学」についてもまったくあてはなる。これは脳科学の方の問題だけではなくて、「なんで現象学が必要なのであって、内観だけではダメなのか」ということに対する答えでもある。毎度書く例だが、再認記憶課題を「見覚えがある」「経験として思い出せる」で分類するのは内観であって、現象学ではない。もしかしたら最初にこの二つを概念として分けるという行為は現象学的だと言えるかもしれないが、それなら現象学と言う言葉をわざわざ引っ張りだす必要はないと思う。ヘテロ現象学がその領域は完全にカバーしていると思う。

とはいえ、やっぱりわたしは現象学をわかっていない。入門書とか読んでいても具体的な現象学的分析にはたどり着けないので、さっさと具体的なものを見に行くべきなのだろう。心理学/精神医学の分野での現象学的/実存的なとり扱いってのはあるけど、あれって現象学って名をつけるほどのものかな?

大学生の頃、RDレインの「ひき裂かれた自己」にすごくはまって、統合失調症の人たちがそれぞれに主観的にconsistency (厳密にロジカルにというよりはある安定性という意味で) を持っているのだというのを読んですごく合点がいったし、反精神医学的な「運動」観よりは好感を持った。だから今回「べてるの家」の実践についていろいろ読んでいて、すごく合点がいった。

さいきんすごく調べているKapurのabberant salience仮説は「動機サリエンスが亢進したことに対する認知的対処が妄想である」というものなのだけど、これの当事者にとっては合理的な認知的な対処なのであるという視点が盛り込んであって、だからKapurは薬を飲むだけではサリエンスを下げるだけど、認知行動療法を組み合わせることで癖となった思考法/妄想をだんだん弱めてゆく、という仮説になっている。すべては検証が必要なのだけれども、なにもないところから妄想が生まれるみたいな捉え方であるかぎりいつまでたっても病因論的なアプローチ無しで現象論的に対症療法的にやるしかないのではないだろうかとか思う。

ってまだ雑然としているけど、書いてて自分の頭の中は整理されてきた。いろいろ繋がってきた! (<-こういうのをjumping-to-concluion biasと言うそうな。)

ばらばらなままに書き連ねると、医師が定期的に診察して話を聞く場合には個々のイベントの有無の注意が向くだろうと思うけれども(なんらかの「問題行動」の頻度を聞いて薬の量を調節したりとか)、「当事者」研究ではそのダイナミクス、つまりどういうコンテキストでそのイベントが起こり、そのあと状況がどう変わったかということにより注意が向くだろう。

たとえば「べてるの家の「非」援助論」に掲載されていた河崎寛氏の「「爆発」の研究」(p.137-146)ではこのへんが明確に描写されている。爆発に至るまでの過程(寿司を食べさせろといった無理めな要求)、爆発(親を殴る、物を壊す)、爆発後(子供っぽい行動、甘えと依存心)というのがべつべつのイベントではなくて、ひとつながりのダイナミクスなのだということがよく分かる。

「現前性」と「離人症で失われるもの」と「盲視でのなにかある感じ」と「統合失調症の前駆期に更新するもの」と「(知覚的、動機的)サリエンシー」とが同じとは限らないのだけれども、こういう切り口で並べて考える題材にはできるだろう。

以前にsensorimotor contingencyとの兼ね合いで、盲視での残存視覚能力が外界の物体を操作可能であるという事実によって「なにかあるかんじ」という感覚を生む、という仮説を考えたことがある。これもピースの一つ。ただ、操作可能性自体が現前性の感覚を生むのではなくて、あくまでキャリブレーションしているだけなのかもしれない。各ステップに穴がある。盲視でサリエンシーと「なにかあるかんじ」が残っているのは本当だけど、両者が同一と言うためにはさらなる証拠が必要だ。


とかなんとか、いまだに考えはまとまっていないのだけれども、ともあれ6月のトーク(ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会)そのまんまというかんじにはならなさそう。乞うご期待!

科学基礎論学会「神経現象学と当事者研究」の要旨掲載しました

科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ@駒場(11/2)でトークをします。Webサイトからプログラムがダウンロードできるようになりました。

東京大学大学院総合文化研究科の石原孝二先生がオーガナイザーで「神経現象学と当事者研究」というタイトルのワークショップが提案されまして、それの中で「意識の神経科学と神経現象学」というタイトルで話題提供を行います。

要旨が学会webサイトに掲載されました。許可を得ましたので以下に転載します。参考文献リストを追加してあります。


意識の神経科学と神経現象学

吉田 正俊 (Masatoshi Yoshida) 自然科学研究機構・生理学研究所

著者は神経科学の立場から「盲視」という現象を通して、意識の科学的解明を目指した研究を進めてきた。「盲視」という現象は脳梗塞などで第一次視覚野を損傷した患者で見られる。第一次視覚野を損傷すると視野の一部が欠損する、つまり視覚的意識が失われる(「同名半盲」と呼ばれる)。一部の患者ではそれにもかかわらず、強制選択条件で欠損視野に提示された視覚刺激の位置などを答えるテストを行うと、あてずっぽうで答えているのに正解してしまう。これを盲視と呼ぶ。つまり盲視の症例は「視覚的な意識経験」と「自発的な視覚情報処理」とが乖離しうることを表している。

では盲視を持つ人は欠損視野に提示された視覚刺激に対する意識経験を持っていないのかというとそうではないらしい。視覚刺激が何なのかは分からないけれども、「なにかがあるかんじ」はするというのだ。つまり、意識経験の「内容content」はないけれども「現前性presence」だけを持っているようなのだ。著者は以前の研究で、盲視の実験モデル動物は「視覚サリエンス」(視覚刺激の空間配置のみによって決まる、視覚刺激が注意を誘引する度合い) の情報を利用することが出来るということを明らかにした(Yoshida et al 2012)。視覚サリエンスは視覚刺激の位置の情報だけを持ち、 視覚刺激の内容の情報を持たない。そこで著者は以下の仮説を提唱した:われわれの視覚経験はふたつのレイヤーの重ね合わせである。一つは日常生活で私たちが体験する「視覚的意識経験」そしてもうひとつは「視覚サリエンス」であり、前者が視覚経験の内容を、後者が視覚経験の現前性を構成している。盲視という現象はこの二つのレイヤーが乖離した自体であると。

さてそれでは、盲視で起こっていることを神経科学的に解明するにはどうすればよいだろうか? 意識の神経科学において現在主流となっているアプローチはcontrastive methodと言われるものだ。これは意識経験がある条件Aとない条件Bとを比較して、脳活動に違いが見られればそれは意識経験に対応した神経活動(「意識の神経相関」)だと結論づけるものだ。これはデネットが「ヘテロ現象学」と呼ぶ、いわば意識の三人称的アプローチである(Dennett 1991)。ヘテロ現象学においては、意識経験があるかないかを被験者が言語報告やボタン押しによって報告する。研究者はこの報告が意識経験についての信念を表しているものとして解釈する (志向姿勢) 。これによって研究者は被験者に意識経験が実在するかどうかを問わずに意識経験を研究することが可能になる。この帰結として、ヘテロ現象学での意識の科学は哲学的ゾンビにとっての意識の科学となってしまう。それでよいのだろうか?

意識の科学的解明のためにはなんらかの一人称的なアプローチが必要なのではないだろうか? ヴァレラが提唱する「神経現象学」 (Varela 1996; Varela 1999)では、意識経験を一人称的かつ誰でも同意できる形で説明するためには以下の三つの手法の統合が必要であると提唱する。1) 意識経験のフッサール現象学的な分析、 2) 生物学的システムに関する経験的な実験、 3) 力学系理論による両者の統合。ルッツら(Lutz et al 2002)はヴァレラの神経現象学を実践するために以下の手段を執った。1) 認知課題を行っている被験者は現象学的還元によって、事項が経験される仕方に注目するように自分を訓練する。これによって被験者は課題遂行中の自分の準備状態について発見的に報告できるようになった。2) このときの脳活動を多点電極から脳波計測としてデータを取得した。 3) 力学系的な方法での解析として、脳波の位相が複数の電極の間で同期する現象を解析した。これによって現象学的に明らかにされた準備状態の違いに対応して同期の度合いが違うことを明らかにした。この方法は意識状態について「発見的にカテゴリー分けをする」点以外はヘテロ現象学と違いはない。よって結局のところcontrastive methodであって、力学系的な「内的に区別可能なカテゴリーの創発」とはなっていない。つまりこの仕事はヴァレラが提唱した神経現象学を実践できていない。ではどうすればよいか。もし現象学が意識経験Aと意識経験Bのあいだの「違い」ではなくて「構造的な関係」を明らかにして、神経科学が力学系的な解析の力を借りて二つの意識経験の間を行き来するプロセスを記述すればよいのではないだろうか。

盲視の例に戻って考えてみることにしよう。ザハヴィは現象的意識の構成的特徴として「前反省的自己意識」が不可欠であると書く(Zahavi and Parnas 1998)。前反省的自己意識とは、経験的現象が現象学的な意味での反省を経る前から直接的一人称的に与えられているということを指す。この意味においては、盲視の研究から示唆された視覚の二つのレイヤーはどちらとも前反省的自己意識を持っている。「視覚の現前性」とは無意識の過程ではなくて、「意識の内容」を図とするならば、それに対する地の関係として意識経験を構成するものなのかもしれない。ならばそれぞれに関連する脳活動がどのようなダイナミクスを持って関係しているかを明らかにすることで盲視の神経現象学を実践できるはずだ。

盲視の例で示したように、神経心理における患者の主観的経験から現象学的分析を深めてゆくという神経現象学は当事者研究ととても近い位置にある。当事者研究では、日常実践の中で問題を抱えた個人が、そんな自分の苦労を客観視しながら仲間に語り、仲間と共にその苦労が発生する規則性についての仮説を考え、対処法を実験的に探りながら検証してゆく(綾屋・熊谷2010)。これは生から乖離しないという原則のもとにあるという意味で現象学的であると言える。当事者研究での解析は、被験者と統制群との間での違いを探るcontrastiveな方法ではなくて、個人の状態変化への介入の効果を検証する単一事例研究法を元にしている。この方法を深化させることで力学系的なとらえ方ができるかもしれない。つまり、繰り返される現象を相空間で表現した上で、そのつど介入や環境や過去の影響によってその軌道が変化しているのを観察しながらその制御法を見つけ出すということはじつに力学系的なことなのだ。このような手法は幼児の発達や運動制御などの場面ではダイナミカルシステム理論という名で実際に活用されている。つまり、当事者研究を拡張することによって神経現象学的になり得るし、神経現象学を正しく実践すると当事者研究を拡張したものとなるのかもしれない。

参考文献



2013年10月07日

科学基礎論学会「神経現象学と当事者研究」でトークします

科学基礎論学会 秋の研究例会ワークショップ@駒場(11/2)で話をすることになったので内容を考えてる。以前の一橋での「現象学的な心」合評会で話した「デネットのヘテロ現象学」と「ヴァレラの神経現象学」と「盲視」の三題噺を基本にして、「神経現象学と当事者研究」というテーマに沿って広げてみる予定。

前回できなかったのは「盲視の現象学的分析」を実践してみること。これまで出てる文献や私が調べた人から聞いた話とかそのへんの一人称的報告のデータを集めた上で、そのような報告から自然主義的な解釈を取り除いた上で、どのような経験なのかということについてなんらかこれまでと違った視点を提供できればとりあえずは良しとする。


「当事者研究の研究」 綾屋紗月 (著), 河野哲也 (著), 向谷地生良 (著), Necco当事者研究会 (著), 石原孝二 (著), 池田喬 (著), 熊谷晋一郎 (著), 石原 孝二 (編集) これがネタ本になりそう。読んどく。

それからこちら:リハビリの夜 熊谷 晋一郎 と現代思想2011年8月号 特集=痛むカラダ 当事者研究最前線

つか当事者研究について真摯に捉えるならば、脳損傷患者の一人称報告から他人が「現象学的解釈してやる」なんて超地雷踏んでいるような気もしてきた。なんか外さないように予習しておこうと思う。

まあいい機会かも。要は、私が今後脳損傷患者の意識経験の注目した経験を展開していくのにおいて、どのような態度で臨んでいくつもりですか、ということを明確にする機会に恵まれたということなのだな。


「当事者研究の研究」、1/3くらい読んできた。1章の石原氏の部分で、「べてるの家」での当事者研究が自分事を突き放して見るという「研究」の作法を使うことで日常生活の空間と治療の空間の断絶した部分を飛び越える、というのはなるほどと思った。つまり、世間話でもなければ、どうすれば「爆発」を直せるかみたいでもなく。

主観的経験を丹念に拾ってそれを構造化するというような現象学的な方法だけではなくて、「爆発」の例、「サトラレ」の例など、繰り返し起こってしまった事象を共有した上で、それがなぜ起こるのかの仮説を仲間内で立て(「サトラレ経験」は人との接触がない方がかえって起きやすい)、それを検証する。たとえばサトラレの研究 これとかなるほど単一事例法的だなあとか思った。

3章の池田喬氏のところで、客観性の問題をどう担保するかという問題について、科学的記述が主観的経験から乖離してしまっているという、まさにフッサール(「危機」) / ハイデガーの「生からの乖離」の問題であることを指摘していて、そうすると、意識研究で問題になっていることと同じであることもわかった。私のトーク的にはこのへんが接点に出来そうだ。

まだ分かっていないのは、石原氏が「半精神医学」(「反精神医学」ではなくて)と書いていたけど、実際に医療とべてるの家とがどういう関係にあるのかということ。べてるの家は反精神医学ではないのだから、参加者は薬は飲んでいるし、精神科にも通院しているはずだ。一方で、1章の年表を見ると「1988年 向谷地氏が浦河赤十字病院から出入り禁止」とか書いてある。そのような緊張関係は現在はどのようになっているのか。

もっと自分に近い問題として、ひとりの研究者として、当事者研究を読むとはどういうことか。3章ではそれは体験談集でもなければ、解釈するためのデータでもない、と釘が刺されている。じゃあどうすればよいか。3章では体験に寄り添って読みましょうってあるけどそれは方法論じゃあない。たぶん、寄り添って読んだ上で、なんらかの仮説を提出するのに寄与できたら、とかそんなことは考える。それを権威的でなく実践するにはどうすればよいか。

たまたま昨日「急性精神症状時の「サイケデリック」な経験」という論文を読んでいたけど、あれはまさに医師が体験談を集めたデータであった。しかし、この体験談はかならずしも当事者による構造化/理論化を欠いているわけではない。昨日書き写した部分なんかは、後から振り返っての当事者の考察ではあるものの、「気づきの亢進」が「妄想の形成」に先立っていることを描写していた。

そんなこんなで、今度の科学基礎論において、石原氏と熊谷氏がそういう方から当事者研究について話す場で、じゃあわたしは何を話せばいいかってことになる。ちなみに熊谷氏の5章を部分的に読んだけど、内部モデルと予測誤差の説にかなり依拠した議論をしていて、ここでも接点を見いだせそう。

トークに関して最大の問題は、動物実験について話すかどうかということ。それは私の研究者としての立場を明確に表明することになる。時間的にそこまで盛り込めるかって話もあるが、盲視の研究が「意識の研究」でありかつ「リハビリの研究」であるということ自体は科学の外でしゃべるからこそ強調したいことではある。

当事者研究的にアプローチからすれば、ヒト盲視での経験について体験談などをまとめるだけではやっぱ足んなさそうで、そこから盲視の主観的経験について何らか仮説が出せて、このようなやり方でそれを当事者研究的に研究できるのではないか、と提案するのはどうだろう?

トークのまとめの模範解答としては「神経現象学をちゃんと突き詰めると当事者研究になるよね」みたいなのかなあと思う。つまり「意識の研究をする側の問題意識として、現状ヘテロ現象学だけど、神経現象学を目指している人がいてあまりうまくいってない。今回の機会で当事者研究について知ったけど、もしかしたらこれが神経現象学を進めていくための方法論の一つとなるかもしれないし、翻っては、脳科学的な知見を当事者研究に役に立てるための道筋を作ることに寄与できるかもしれない」なんて感じでまとめることが出来るんじゃないだろうか。 なんかリップサービス臭いだろうか?

ここまで書いておいて「現象学的な心」合評会のスライドを見返してみる。あのときは35分くらいしゃべってトータル58枚。ぜんぜん時間が足りねえ。11/2のトークは25分程度となる予定。これにさらに盲視の主観経験を入れるならそれだけで時間が足りなくなる。うーむ、時間的には厳しいが、いったんスライドの構成をだいたい作り上げてから要旨書かないと無理だこりゃ。明日やることにした。


2013年06月29日

「現象学的な心」合評会、無事終了!

「現象学的な心」合評会、無事終了した! 来てくれた皆さんどうもありがとうございました。飲み会などでの反響を見たかんじからすると、けっこう楽しんでもらえたのではないかと思う。心配だったのは哲学者向けの話にできていたかどうか(理系向けに専門的になりすぎてなかったか)だったのだけど、石原先生にはよく分かったと言ってもらえた。

こんなにたくさん「ヘテロ現象学」とか「神経現象学」とか言ったのは人生初めてだ。しゃべり声がまだ頭の中を反芻している。

会の途中では、現象学自体の課題としてはなかなか行き詰まってるんではないかみたない、重苦しい話も続いた。演者の一人の植村さん@uemurag のように「フッサールがこう言った」ではなくて現象学発生時に戻って考える人がおられるというのを知ったのも収穫だった。(とはいえ、あくまで哲学的問題からのことであって、自然化の問題のためではないようだ)

原さんが採りあげておられたownership-agencyの問題が現象学的アプローチの成果として利用できそうであること、石原先生から説明のあったギャラガーの仕事の背景などもとても役に立った。このへんの一つのテストケースとして考えていくというのがよさそうだ。

今回のトークをきっかけにまたいろいろと話も広がっていきそうなかんじ。俺たちの戦いはまだこれからだ!(<-今後の吉田正俊先生の活動にご期待ください。)

今回のトーク、そして池上さんのところの講義を通して分かってきたのは、けっきょくのところ、わたしが問題としていたような「一人称的な意識の神経科学を進めるのにはなにが必要か」という問いの答えとなりそうなのは「神経相関を越える方法論」を作るということであるようだ。まあある意味堂々巡りではあるのだが、この目標のためには、神経現象学を正しく実践する、つまり現象学と力学系を正しく使うということが必要になるようだ。

力学系を通して現象学的な二元論の克服を目指すという研究プログラムについてもっと考えてみようと思った。今日の議論の途中ではなぜか、私がヴァレラの神経現象学を擁護するみたいな展開になったけど、じつのところVarela 1996, 1999, Lutz et al 2002まで読んで、わたしも正直この先を考えてみようというつもりはなかった。ずっとLutzの仕事は現象学を徹底できてないんではないかと思っていたのだが、今日の議論で実際その通りであることが分かって大きな収穫だった。

それと同時に、「内観主義的に意識状態Aと意識状態Bを比べる」というのが半分は神経相関の問題であり、「意識状態Aと意識状態Bの構造を分析する」といったやり方でヘテロ現象学ではない分析をすること、「状態AとBでの脳内ダイナミクスを解明する」ということを組み合わせれば神経現象学を実践することは出来るのではないか、という考えに辿りつくことが出来た。これも大きな収穫だった。

思えば1990年代後半に「オートポイエーシス」を読んで超ハマリ、超精読してたころから、いつかこれが自分がやっている実験的な仕事とconvergeする日が来ないものかと考えてきた。今日はその野望が一歩進んだ日だと言えるだろう。とはいえなんの成果もあるわけでもない。その野望を実現するためには清水博先生の道を手本にしようと心に誓ったものだったのだが、未だに実現できてない。さっさとたくさん仕事をして、次のステップに進むしかない。俺たちの(ry


2013年06月28日

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 神経科学の立場から レジメアップしました

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 神経科学の立場から レジメアップしました。

ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会 第3報告:神経科学の立場から from Masatoshi Yoshida

とにかくスライド最後まで作って、レジメも作成しました。いちおう今トークしろって言われても出来る状態。

じつのところ、いろいろと間に合ってないのだけれど(ほんとのところ、志向姿勢ってなんだ?)、なんか達成感が出てしまって、緊張感が抜けた。ここからもう一段ギアを上げて、クオリティーを上げてゆく所存。Evan ThompsonがMind in Lifeでヘテロ現象学について言及している部分もコピーしておいた。これから読む。

ともあれ6月後半はなんだか怒濤の日々だった。来週から通常運転に戻るので、いろいろと生産性を上げてゆきたい。せめて週末はゆっくりさせてほしいと言いたいところだが、日曜は朝からフットベースの練習試合なのだった。ウェーイ。(<-マイブーム)


2013年06月09日

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心」2,3章について

2013年6月29日(土)13:00~18:30 一橋大学にて、第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会があります。私も「神経科学の立場から」ということでしゃべります。

今回は2章(方法論),3章(意識、自己意識)についていろいろメモったことをまとめておきます。ツイートは話の流れのために順序など編集してあります。

@you_mlpty さん、@plastikfeld さんのツイートを使わせてもらいました。どうもありがとうございます。


「現象学的な心」再読していたが、2章の方法論のところの、ギャラガーのfront-load phenomenologyの説明を読んで、やっぱり納得がいかない。以前も書いたように、現象学的な、心の解明へのアプローチを標榜するなら、ヘテロ現象学(by ダニエル・デネット)では出来ないことでなければならないだろう。

それは厳しすぎる基準だろうか? そんなことは無いと思う。ギャラガーの例で出てくるのはsense-of-ownershipとsense-of-agencyの違いだが、「この二つの概念を説明した上でその内観を言語報告させて脳活動の差を見る」これならヘテロ現象学でも完全に可能だし、現に認知神経科学で行われているようなことの多くはこの範疇に入る。

私が他に挙げられる例としてはRK judgmentがある。記憶再認課題において、被験者はいろんな図形A,B,C,…を見せられた上で、新たな図形を見せられる。この図形がさっき見たものかどうかを答える(つまりold-newの二択)というのが課題。

ポイントは、このときにメタ認知的な報告を加えるということ。「さっき同じ図形を見たときのことを追体験して思い出せる」ときはR(remember)、そういうのはなくて「単に見た覚えがある」ときはK(know)。このように個々の試行を分類して比較してみると、RとKとで脳活動部位が違うという報告がある。こういう研究に対して「現象学的アプローチである」という必要は全くないように思われる。すくなくともやっている研究者は現象学的アプローチだとは思っていないだろう。

ヘテロ現象学では出来ないようなことをするのだとしたら、「言語報告」が「現象的経験」と乖離しているような状況について取り扱う必要があるのではないだろうか。ヘテロ現象学では「言語報告」の裏にあるようなものは認めないのだから。(認めてしまったらヘテロ現象学はなりたたない)

気をつけなくてはならないのは、問い方が悪くて言語報告にならないことはヘテロ現象学の瑕疵ではないということ。たとえばさっきの記憶再認課題にRK judgmentが付いていなければ、RとKのようなものは取り出せないのだが、それは内観の仕事であって、現象学の仕事ではない。現象学的アプローチが繰り返し「現象学とは内観報告のことではない」と強調するのだから、このような内観の区別自体を現象学的アプローチの手柄にするわけにはいかない。

私の理解が正しいなら、そのような内観を反省的に捉えて、反省を介して作り上げられるものとそうでないものとをより分ける、これは現象学の仕事だ。そういう意味では、RとKとの違いはRが反省的に過去の経験を追体験する(エピソード記憶でのメンタルタイムトラベル)のに対して、Kではそのような反省がなされないこと、この種の分析がもし神経科学に役立つなら現象学的と言えるのではないだろうか?

あと、ひとつフォローというか補足しておくと、RK judgmentには現象学は要らないだろうけど、Tulvingがエピソード記憶の特徴として挙げた"autonoetic consciousness"という概念には現象学的な前反省的自己意識の概念が入っているように思われる。


んで、なにを書きたかったかというと、ヘテロ現象学では説明できないようなものを持ってくるとしたら、あらゆる内観報告をface valueにとってしまうとじつはそれと現象的経験とが乖離してしまうような現象を持ってこないといけなくなる。ここで盲視の出番ということになる。

もしくは盲視の話でなくても、Ned Blockが議論していたoverflowのような、accessのないphenomenal consciousnessのようなものがあり得るかという問題になる。でも現象学自体はそのようなクオリアみたいなものは考えていなくて、現象的意識は志向性そのものである。

というわけでぐるっと回ってみたらなんか話がねじ曲がってきた。ここでもう一回まとめてみる。ヘテロ現象学は内観報告されたものをその内実を問わずに扱うことによって、消去主義的かつ機能主義的な意識観に立つ。現象学は現象的意識を志向性と同一視することによって非志向的なクオリアを否定する?

ああなるほど、このへんが私は分かっていないのだな。非主題的な、投射された現出はつねにそれが指し示す対象と共にあって主題的な意識として構成されるわけで、ってやっぱこのレベルの理解ではダメで、もうちょっと詳しいものを読まないとダメか。うーむ。


.@you_mlpty ありがとうございます。「経験の構造の違い」ここですよね。「経験Aと経験Bが違う」というだけでは内観にすぎないわけで。いままでに私が理解したところでは「反省を経ているか否か」というのがツールのひとつだということは分かったのですが、他に何が使えるのかがまだ分かってないという状況です。


.@plastikfeld 簡潔にまとめていただいてありがとうございます。スライドなどで活用させていただきます。


.@you_mlpty なるほど、昔の現存在分析みたいなのとは違ったアプローチがあるのですね。しかもParnasってParnas & Zahavi 1998 (前反省的自己意識の元ネタ論文)の人ですね。こうなると「自己」の章も読んだ方がよいのかも。

.@you_mlpty ありがとうございます。読んでみます。

最近、統合失調症の精神症状のサリエンス仮説あたりを読んでいるときに、空間に定位されないような自己と自明性の障害がsense-of-agencyがらみでinsulaの機能障害と繋がるのだろうとかそういうことは考えてた。また繋がってきた!(<-ジャンピングトゥーなんとかバイアス)


盲視を現象学的アプローチで見てみるとしたら何が言えるだろうか? 3章での議論はどうだったかというと、盲視にはメタ認知が欠けていて、それはhigher order theoriesと整合的であるという議論があるが、現象学的にはhigher-order theoriesが前提とするような反省的自己意識を想定する必要はなくて、ある種の前反省的自己意識がすでにあるのだ、みたいな話までで、直接的に盲視についてなにかを言っているわけではない。

盲視で重要な点は、「意識内容を伴わないなにかがある感じがする」ということで、しかもたぶんこれは端的に利用できる情報が少ない(たとえば、健常視覚に非常に暗い刺激を出したとき)とは違うということで、これはもっと積極的に現象学的に読み解けないだろうか? 対象を指示できるということと、なにかがある感じ(presence)だけがあることとを分けて考える必要があるとしたら、それは現象学側へも寄与しないだろうか?

これは周辺視野で起こっていることとも似ているが、同一視できるかどうかは分からない。William Jamesの意識の分析でもfringeの概念とかがあることを考えると、すでにそれなりに扱われているんではないだろうか?

盲視サルの意志決定の実験をやったときの知見は、盲視サルでは視覚刺激の強制選択は出来るのだが、刺激の明るさを変えて難易度を変えても反応時間が変わらないということだった。このことはつまり、確信度が上がるまで待ってから意志決定をすることが出来ないということを表している。

論文を書いたときは「deliberateでなくなる」という表現をした。普段われわれは視覚情報を用いて、それに働きかけ、というループを作ってそのつど見たものが正しかったということをverifyしているのだけど、盲視ではどうやら視覚入力がveridicalでないようなのだ。

veridicalではないという知見からすると、「盲視ではメタ認知的に閾値が高い、つまりなにかがあると決断することに慎重になっている」と結論づけるHakwan Lauの考え方はなにかが違っていると考えていた。現象学で言うキネステーゼが知覚に寄与する(Noe的に言うなら構成する)というループの部分で盲視ではなにかが起きているのではないだろうか、というのが以前から考えていることだった。そういうわけでNoeやVarela経由ではあるものの、盲視について、現象学的に親和性のある立場からの解釈を考え続けてきたのだった。


.@plastikfeld 1版と2版、読んだ部分だけ部分的に比較してみましたが、そもそもあまり大幅な変更があったかんじはしなかったです。副題を無くしたりとか、パラグラフ分けを増やして読みやすくしたりとか。5章ではNoeについての言及がやや増えていましたが。

ほんとだ、「2章の結論部分の冒頭4段落分」ここは変更があって、反省の前後という経験の構造を捉える方法論のひとつが言及されている。

あと、前倒し現象学の部分でもownershipとagencyに違いがあることだけではなくて、両者とも1st orderの前反省的な現象的経験である、とい記述が増えていた。でもこれは相違点ではない。両者は経験の構造としてどう違うか? 8章読んだ方がよさそうだ。


今日もいろいろ書いた。これらをまとめてブログのエントリにする。これまでに書いたことをまとめて、それに盲視について脳に立ち入りすぎない説明をちゃんと作るとそれで充分30分しゃべる分量にはなるだろう。あとは哲学者に向けてこれってどんな風に考えることが出来ますか?って話題を振る。

.@plastikfeld よろしくお願いします。もういろいろぶつけて、みなさまの反応を待つというかんじで行きたいと思います。


2013年05月18日

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心」合評会準備中

2013年6月29日(土)13:00~18:30 一橋大学にて、第2回自然主義研究会:ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会があります。私も「神経科学の立場から」ということでしゃべります。2011年1月20日の南山大学の鈴木貴之さんのところでのトークしたとき以来の哲学者との対話企画です。カムカムエブリバディー。

それの準備でいろいろメモったことをまとめておきます。


2012/11/16

ギャラガー&ザハヴィ「 現象学的な心: 心の哲学と認知科学入門」の二章途中前。ここにあるような議論だけでヘテロ現象学がreject出来るとはちと思えない。守備力は期待していないから、攻撃力側、つまりこれだけ役に立つよってことの糸口を見つけられればよしとするしかないか。

2012/11/18

「現象学的な心」2章読み終えた。うーむ、前半はフッサール現象学だから、現象学の自然化とかお構いなしだし、後半での現象学の自然化はヴァレラの話はすでに知っていて、残りはヘテロ現象学でも置き換え可能じゃんとか思う。あとは最低限3章(意識、盲視への言及含む)と5章(知覚)を読む。

Sense of agencyとsense of ownershipの違いは現象学的分析によるものである、なんて言ってるけどそんなのメッツィンガーは同意しないんじゃないか?

ヴァレラのやっていることが一番現象学的であると思うんだけど(エポケーと現象学的還元を被験者自体が訓練した上で、被験者が発見的に知覚の性質を分類する)、それですらLutz以降だれもやっていないことから分かるように研究プログラムとして成り立っているとは思えない。

3章の盲視に関連する部分はHOT(higher-order theory)による説明が焦点。というわけでHakwan Lau and David RosenthalのTICでも読んどくか。

2012/11/24

「現象的な心」は3章の自己意識のところを読み進めている。HOTとの対決については、今のところ「現象学ではこう言うのである」みたいなフッサール訓詁学みたいな論調で、戦う気がまったく感じられない。たとえ入門書と銘打っているとしても。

とはいえ、論争的な本が好きかというと、そうでもない。論的に勝つために無理めな論理でも強弁したりされるとすごく徒労感を感じる。フェアで率直なのがいちばん好き。

そうだな、フェアなのが一番だ。そうしたら、翻って考えるならば、実験科学者が哲学書に文句付けるなんて傷つかない安全区域から文句言ってるだけでぜんぜんフェアでない。どうしたら痛みを抱えることが出来るか考えながら読んでみることにしよう。そのほうがスリリングな話に出来るはずだ。

2013/2/23

「これが現象学だ」谷徹の最初の方を読んでて、フッサールの「絶対的なねばならない」という表現が出てきて、ずいぶんといかめしいなあと思ったのだが、英訳の"absolute must"って「これだけは絶対外せない」たとえば「シューゲを聴くならラブレスが絶対マスト」くらいのことじゃんとも思った。

「現象学的な心」3章が終わったところだが、意味が取れないところがあって、けっきょく原書を参照して疑問を解消した。たとえば、「なんで運転しているとき、細かいことを覚えていないのだろう? それは注意が足りないということではなくて、実践的行為のある不可欠な側面なのだ。実践的行為というものは…」という記述があったのだが、ここが"It is X, that …"(非制限用法)なのに、"It is X that …"(制限用法)で訳されてないか?

2013/2/24

「現象学的な心: 心の哲学と認知科学入門」は1,2,3,5章を終了した。4章飛ばしたけど、ヴァレラと力学系とかの議論が出てくるようなのでこっち読んだ方がいいかも。あとは7章読む。全部読むよりは、これまで読んだところをもう一回原文と突き合わせて読む方がよさそう。

3章なんとか読んだけど、「前反省的自己意識」pre-reflective self-consciousness って概念がどうにも飲み込めないのでもう一回読み直さないと頭に何も残らない。

5章(perception)は椅子の図の話とenactionと相互主観性、と聞いたことのある話だったので比較的わかりやすかったけど、それでも「不在の射影absent profileを付帯現前appresentかないし共志向co-intendする」とか知らん概念三連発で死んだ。

「一人称的所与性」(first-personal givenness)とか言われるとブチ切れて、「一人称的に与えられているということ」くらいまでかみ砕きたくなる。「私有性」ってなんのことかと思ったらminenessの訳だった。「私秘性」privacyとはべつの概念らしい。

2013/2/26

「これが現象学だ」を1/3くらい読み進めた。「主題的」の概念が分かってきた。投影された面を非主題的な感覚として受け取り、それから立方体だという主題的な知覚として構成するのが志向性で、それを自分が見てるという感じが前反省的自己意識でこれは非主題的。

この志向性の部分が現象学を現象学たらしめているものなので、ここで表象は出てこない。(表象を志向性で置き換えているかんじ) だから、現象学は反表象主義的になる、というか反省する前の領域を大きめに取っている。ここがhigher-order theoryとの違いになる。

2013/3/9

「現象学的な心」いったんストップして、フッサール現象学の入門書を読みあさる。「これが現象学だ」谷徹、「フッサール ~心は世界にどうつながっているのか」門脇俊介、「現象学とは何か」新田義弘、「フッサールの現象学」ダン ザハヴィ、このあたり。

志向性+現象学的還元から、時間論(pretention, retention)、空間論(キネステーゼ意識)、相互主観性、という基本的な枠組みを「これが現象学だ」を読んでざっと把握した。自分が知りたいのは感覚・知覚論なので、論理学研究とか言語論的なところはすっとばして読んでる。

「フッサール ~心は世界にどうつながっているのか」は引用ゼロで、フッサール流のいかめしい術語がないのが私にとってはたいへんありがたい。この調子で現象学的還元やノエマ、ノエシス、コギトも消し去ってほしい。(<-むちゃ言うな)

フッサールの現象学的な知覚論がさらにどのようにメルロ・ポンティによって展開され、フランシスコ・ヴァレラやアルヴァ・ノエがそれをどのように認知科学に繋げていこうとしたのか、そしてそれはわれわれ神経科学者が使えるだろうか、というのがわたしが「現象学的な心」を読むにあたっての問題意識。

つぎは「フッサールの現象学」に向かう。ザハヴィは「現象学的な心」の著者のひとり。「現象学的な心」3章で出てきた「前反省的自己意識」(pre-reflective self consciousness)がフッサールの言葉で言うとなんなのか知りたいんだがまだ不明。

とりあえずこの3章の元ネタがJournal of Consciousness Studies 1998であるらしいところまでは分かった。Parnas & Zahavi 「現象的意識と自己意識:表象理論に対する現象学的な批判」

ザハヴィ本の紹介記事:「フッサールのいう対象やノエマといった概念が、脳内の「表象」の話なのか、それとも現実の「実在」なのか…この問題に直接的に言及し、フッサール自身の文章を引用しながら、代表的な解釈を紹介」これは読むべきだな。

2013/4/2

「現象学的な心」合評会の構想を練る。原さんからは「認知神経科学の立場から現象学が役に立つかどうか喋ってほしい」と言われている。じっさい、専門家じゃあないのだから「フッサールの現象学のうち超越論的側面を無視しないかぎり現象学の自然化なんて無理じゃないか」とかそういうのは無理。

とはいえ、現象学が意識の神経科学に役立つとしても、直接、方法論的に役立つかとか、なんらか研究プログラムとしてたらしい方向性が見えないかとか、そういうクリエイティブなことを言うのは簡単ではない。いままで読んだ1-3,5章で自分の中での論点となるのは二つで、

1) ヘテロ現象学との対比。認知神経科学が活用してきた内観報告的な方法(RK judgmentとかautonoetic consciousness)にはヘテロ現象学で足りるか。検出と気づきの問題では? ヴァレラの方法は研究プログラムたり得るか。

2) HOTと前反省的自己意識、どちらが盲視を理解するのに役に立つか? 正直ハクワンが言っているようなHOTから前頭皮質の関与みたいな話で盲視を説明しようとするのには同意できなくて、それに対抗する手立てを現象学が与えてくれるならそれは大歓迎。

でもこの「前反省的自己意識」ってやつがどのくらい説得的なのかがよく分からん。文献を調べたところ、どうやらフッサールの言葉ではなくて、Zahaviの言葉らしいので、もうちょっとcriticalに読んでおきたい。

さいきんはFristonにかぶれて、Shadlen/Dehaene的なevidenceの蓄積によるdecisionってのは意識とは関係ないなって気持ちが強くなってきている。つまり、自由エネルギー的に言って、視野像のサプライズを減らすってのと、目を動かして視野像を変えるってことの違いでしかないんだったら(active inference)、evideneが蓄積した閾値を超えたということをそんなに特別視しなくてもよいし、意識はもっと遅れてやってくるんで充分だっていう見方をするようになった。

メタ認知自体に対してはまだ態度を保留しているけど、これがフィードフォワードの統計的な世界であって、フィードバック的力学系的な世界とは別もんだってところまでは分かった。

前回の冬講義の最後に出したスライドを後で更新したんだけど、腹側経路の双方向の回路でサプライズとそれをexplain awayする意識があってこちらは意識内容に関わり、背側経路の意志決定のシグナルとそれをexplain awayする意識があって、こちらはintentionに関わるとか。

2013/4/14

現象学的に言うなら、透明でないこと(occludeされていること)、ある面からしかものが見えないこと、とかが視覚を他の感覚と区別する特徴であり、われわれに感覚として与えられているものは限られているにも関わらず、隠された向こうにいるネコとかコップとかを知覚するのが意識の作用である、みたいな言い方をする。だから遮蔽物の徹底的な透明化がなされたり、複数のカメラから物体をあらゆる方向から見ることが出来るようになったりとかすることで、視覚という感覚がどのように変容を受けるのか、みたいなことに興味がある。

でもそういう「意識の作用」が超越論的なものである云々とか言われるとさっぱり分からない。ゲシュタルトがゲシュタルト性とか言われてそれ以上なにも言えなくなってしまうのと同じような、20世紀前半の状況を引きずっているだけのようにも思えるのだけど。

2013/4/16

あいまにちょこちょこと現象学関係読んでいるのだが、やっぱり分からない。合評会は「神経科学者が現象学使えるかいろいろ読んで考えてみましたけど、けっきょく分かりませんでした」みたいなオチにするのがいちばん率直で正しいのかも。

「現象学的な心」2章でのエポケーと現象学的還元の説明を読んで、さらに「フッサールの現象学」ザハヴィの2章あたりにあるエポケーと現象学的還元の説明も読み進めている。現象学がしばしば内観と同一視されてきたこと、しかし現象学がいかに内観とはべつものであるかということが強調される。

つまり、内観というのはエポケーする前の自然主義的な態度(二元論を前提)を前提としたものであって(まだ、natural attitudeとnaturalistic attitudeの違いが分かってない。内観は明示的に後者を前提しているだろうか?)、一方、現象学とはある対象がどうやって現出するかの可能性の条件についての哲学的反省である、ということになる。だから現象学で出てくるのは時間の構造(把持/予持)とか間主観的な妥当性の正立とかそういうものが現象学的還元の成果であって、内観で対象を同定することではない。

だから、意識の脳科学への現象学の応用として挙げられているVarelaの仕事(Lutz et.al.)にあるような、認知課題中の準備状態に対する分類というのは、形こそ現象学的分析に似せてはあるけれども、じつのところこれは「精緻化された内観」に過ぎないのではないかと思う。

つまり、反省するべき対象を外界の刺激そのものではなくてその意識経験そのものに向けたからといって「内観ではない」とは言えない。それはたとえば、メタ認知における「信頼度」について考えてみれば分かる。

「信頼度」というのはまさに外界の刺激そのものではなくて意識経験に向けたものであるのだけれども、これは現象学的な反省とは言えない。なぜなら信頼度報告では意識経験を対象として報告しているだけであって、反省が為されていないから。

もしメタ認知を現象学的に扱うのならば、そのような信頼度が生まれる条件を知覚そのものとの関係から明らかにするといった理論的な仕事になるはずだ。ザハヴィの「前反省的自己意識」という概念は時間の現象学的分析から生まれて、それをGZ本ではHOT批判に応用したのだが、メタ認知というのはその文脈では「反省的自己意識」と捉えられることになる。

話を戻すと、Lutz et.al.の話もおなじこと。けっきょく、ヴァレラが構想したような「神経現象学」をやるためには、精緻化された内観で説明できないようなものを持ってこないといけない。

さらにLutz et.al.について言えば、精緻化された内観での条件AとBをさっ引く、という統計的やり方をしていて、力学系を媒介にして現象学と神経科学とを繋ぐというヴァレラの神経現象学の構想を二重に裏切っていると言える。

とはいえ、どうやったら脳科学を力学系的に取り扱えるのかということ自体が(計測も含めて)大問題なのでそこをつっこんでもしょうがない。

神経現象学の実践という意味でもう少し希望がありそうなのはヴァレラのべつの論文(哲学的な方)で書いてあった、現象学的な時間構造の分析(把持/予持)と脳内のコヒーレンスによるセルアセンブリの形成とが関連するかもって話。こっちは現象学的かつ力学系的でかつ脳科学が成り立ちそうだと思う。

いろいろ書いていたら、なぜかLutz et.al.を叩いて合評会の時間を保たすという卑劣なコンテンツが出来てしまった。こういうのじゃあなくて、現象学役に立ちます、と言いたい。誰も擁護してない、みたいな悲惨なのは避けたい。

いちばん避けたいのは、自信満々に現象学語って、あげく、現象学全然分かってないですねとか言われること。分かってないに決まってるんだから「この本からこう読み取ったんだけど」みたいな言い方にしないと私の心が折れる。

でも、正直なことを言えば、心が折れさえしなければどんどん不用意なこと言ってみたい。(<-エー) 無難なのは詰まらんし、とくに失うものがあるわけでもないし。

2013/4/18

「これが現象学だ」二周目だいたいすんで、かなり分かってきた。自然的態度と自然主義的態度の違いも分かった。先反省的自己意識という言葉自体は使っていないがそれと同様な概念(把持について非主題的に把持する)をフッサール自身が書いているということもわかった。

ただ、世界そのもののノエマ的意味の分析をしたことから、世界が意識によって構成されるという考えを断念して、言ってたことどんどんひっくり返して原構造とか原キネステーシスとか言い出しちゃったあたりから、ちょっとフッサールさん、考えすぎでおかしくなってない?と付いていけなくなった。

これでザハヴィの「フッサールの現象学」も読めそうだ。そのうえでもう一回「現象学的な心」に戻ってみることにしよう。盲視の話からのオチとしては、大学院講義でも話した、二つの視覚経路論とAlva Noeの折衷案で、キネステーシス意識が背側経路で自己と空間を作るって方向でまとめる。

Alva Noeみたいに色までaction説にするのは無理があると思うのだが、行動(と時間)は空間と自己を作るという意味で意識を構成している。そういう現象学的考えがわたしの意識の脳科学的モデルに影響を及ぼしてます、みたいな話にするのがいちばんウソがなくて、無理がない。

ついでに、そういう方向からenaction説を理論武装した上で、駒場講義でもその話題を深められないか試してみることにしよう。

2013/4/19

あしたは南山大学でやってる応用哲学会に行ってくる。人生初の経験なのだけれども、こういう集まりの雰囲気を知っておきたい。いちばん聞きたかったのは午後の「知覚」概念の臨界、だったのだけど、フットベースのコーチ今年度第一回があるので途中で抜ける。

行きの名鉄電車で「心身問題、その一答案」(大森荘蔵) を読んでいく予定。たぶん以前読んだけど覚えてない。脳から意識への因果って因果としておかしいから重ね描きにしましょうってのは分かるが、「予定調和」なのか「創発」なのかよくわからん。あと現象学との対比とか、違った風に読めるはず。

「心身問題、その一答案」読んだ。前読んだときよりはもう少し分かっただろうか。「意志とは元に行動を持続していることであり、よって意志は行動にあり、心の中にあるわけではない」とか面白かった。Schallの意志決定と行動選択の議論とか思い出した。

でも、肝となる「すなわち」の関係がまだわからん。さいしょこれは法則的関係なのかなと思った。「命令は不服従の可能性があるから命令なのであり、そうでなければ法則である」って表現があったけど、まさにそのような意味でisomorphicなんだろうと。でも、あとから日常生活と科学的描写の重ね描きはどちらかの描写が抜けることもあるとか、幻のときにはこの重ね描きにズレが生まれる、とか書いてあるのを見ると、そのような強い法則的関係があるということを言いたいのではなくて、場所と時間が同じものを指している、つまり存在論的側面について言っているだけのようにも思える。

だが最後の最後になって、幻のときには(正しく働いてない)脳が鏡像と同じ役割を果たしていて、脳科学者の役割はそこで「すなわち」の関係となっているものを見いだすことだ、というような締め方をしていて、やはり法則的関係なのか?とこのへんがわたしには明確になってこない。

2013/4/21

昨日南山大学まで応用哲学会に行ってきた。平行セッション4つで、大学の会議室を使ってワンフロアで開催という規模。

朝一9:55開始の大森哲学についてのトークのまえに部屋に入ったら観客が5人くらいしかいなくて超びびった。しかも全員壁際に座ってる。独特の文化? わからないがど真ん中に座って聞いた。トークの途中でパラパラ人が入ってきて最終的には15人くらいになった。どうやら哲学者は朝が弱いらしい。

玉川大の小口さんの話が聞けたので良かった。脳の並行処理でのサブパーソナルな表象で概念的かどうかの議論って出来るのか?ちょっと会って話したけど時間切れ。またの機会に。今日の本命は立教大の呉羽さんの話(enaction説への批判)だったのだけど、時間切れで途中退出した。

昨日の学会では、小口さんはスライドなしで配付した資料を読み上げる形式、他の方も文字が並んでいるスライドをほぼ忠実に読み上げるスタイルだった。実験科学をやっている者からするとどうして図がないのだろう?と不思議になるのだが、おそらくは文章で表現される論理に重きを置いているのだろう。

でも図がほしい。つかたとえ文章で書かれていたとしても、自分でメモ取るときに図にして理解しているし。想像するに、たとえば現象学だと、現出からtranscendして遮蔽されたところも込みでobjectを知覚するのが意識の作用、というのを図示したら二元論的になっちゃうからいかんとか?

合評会でスライドでなんか表現するとしても、これまでの自分の流儀で図にして説明すると思うのだけれど、なんか厳密でないように思われるのだろうか? どうにもわからん。ただ、そういう疑問というか違和感に突き当たっただけでも収穫か。Jakob Hohwyとかは比較的図を使ってたな。Alva Noeは完全に原稿読んでるだけだった。

ちゃんとトレーニングを積んでいくと、そのようなカント的な図式から、現出と対象とが分かちがたく結びついたノエマのイデアが頭にできあがって、そのころにはそういった図が全然不正確に見えるようになってくるって感じなのだろうか?

2013/4/27

門脇俊介『現代哲学の戦略―反自然主義のもう一つの別の可能性』「門脇氏はアンディ・クラークの『視覚経験と運動行為』を引用し、そこで紹介されるミルナーとグッデールの「二重視覚システム論」がマクダウェルやハイデガーの発想と親和的であることを明らかにしてうっちゃりをかますのである」 これは読むべきか。

ということで、「現代哲学の戦略 反自然主義のもう一つ別の可能性」門脇 俊介 著 図書館行って借りてきた。該当する部分は8章だったようだ。

ゼノン・W・ピリシン『ものと場所―心は世界とどう結びついているか』 「視野内の諸事物を同一のトークン事物として同定し、コード化による高次の概念的述定の基盤を提供するのが、初期視覚に組み込まれた、非概念的でサブパーソナルなFINSTの機能」これ見て、ああそういえば小口さんの発表の話に関わるなあとか思って「ものと場所: 心は世界とどう結びついているか」 作者: ゼノン・W.ピリシン をアマゾンで探してみたら、小口さんが翻訳者だった。なるほど。

門脇 俊介 「知覚経験の規範性」 (現代哲学の戦略 反自然主義のもう一つ別の可能性 8章)、OCRかけてテキストファイル作りながら読んでる。そしてら盲視への言及が出てきた。これは正解だったっぽい。

2013/4/30

Zahavi 2004 "Phenomenology and the project of naturalization" これとかにもあるように、ZahaviはPetitot,Varela, の"Naturalizing Phenomenology"の自然化には批判的なので、「現象学的な心」2章の後半にあるような現象学の自然化には批判的なはずだ。

ということでたぶん、「現象学的な心」の2章は前半をZahaviが書いていて、後半はGallagerが書いていて、このへんがちぐはぐになっているんではないかと推測する。これが、この本を読んでて、けっきょくどのような研究プログラムがあり得るのかがピンと来ない原因になっている。

最新の"Naturalized Phenomenology: A Desideratum or a Category Mistake?"ではこのへんもうすこし突っ込んだことが書いてありそうだが、そこまで話を追ってる余裕がない。

2013/5/1

.@ryo_tsukakoshi ありがとうございます! 昨日「ハイデガーと認知科学」を図書館で借りてきたのですが、こちらのほうの論文は自分が探している方向とは違っていたのを発見したところでした。

「表象なき認知」中村雅之 (シリーズ心の哲学II ロボット編)で、ヴァン・ゲルダーの力学系的アイデア及びA・クラークのコネクショニズム的立場からの返答の話を読んだ。けっきょく、ヴァン・ゲルダーの調速機の比喩はフィードバックコントロールで、A・クラークのエミュレーターはカルマンフィルター的な内部モデル(フィードフォワード)なので、池上さんと話題になったフィードバックとフィードフォワードの話と同型だなと思った。

ともあれ、元ネタに遡るために「ハイデガーと認知科学」に入っているヴァン・ゲルダーとクラークのそれぞれの論文を読むことにした。

これによって、「現れる存在」へのとっかかりも出来るだろう。A・クラークは過激な反表象主義を解毒しながらも環境との相互作用を重視するといった折衷主義によってヴァン・ゲルダーやAlva Noeに対して応答してきたことが分かってきた。

煮え切らないなとも思うけど、この態度にはかなり親近感を覚える。がゆえに眼を開かされるというかんじではないのだが…というほど読んでいるわけではないので、また読んでみることにしよう。

どうやったら神経科学で(計算主義的、統計的ではなく)力学系的であり得るのかということはずっと興味がある。

津田先生の新学術の前期に入れてもらったときにはそういう興味が大きかったけど、やっぱりわからなかった。 コヒーレンスを記録しても、それを条件Aと条件Bでさっ引いて有意差出しているならばそれは力学系的ではなくて、統計的な枠組みから出てないと思う。

2013/5/18

立命館のダン・ザハヴィ講演会行ったら収穫あるかもとか思っていたが、その日は大学院講義担当で、しかも翌日の子どもの運動会のためにお婆ちゃんが二人とも前日からはるばるやってくるという大変な日であることに気づいたので取りやめ。


2012年06月12日

駒場広域システム講義の準備中。

6/20に駒場広域システムの学部講義(たぶんこれ:61066 システム科学特別講義II)で「意識と注意の脳内メカニズム」と題して講義します。池上さんから依頼を受けて、いいですね!ありがたく引き受けさせていただきます!なんて返答をしたら、90分 * 2コマ連続であることが判明。泣きそう。だがベストを尽くそう。そんなわけで、いろいろアイデア練ってた。


DFさんはtextureとか質感とかは関知できる。Humphrey et al 1994では懐中電灯を見せたときの例(レクチャーのPDFのp.25)がある:「台所用品。赤いパーツが付いてる。赤いところはプラスチックで他は金属。」手渡されると「懐中電灯か」

盲視ではこのような質感はない。だから、同じように腹側経路が損傷しているとはいえ、両者の視覚経験はまったく違っている。V1こそがそのような基礎的な視覚経験に必須であると言えるし、これを「感覚」と「知覚」の区別で言えば、sensation without perceptionと言っていいのかもしれない。

メロポンの入門書を読んでいたら、視覚はゲシュタルト的構成を元に一挙に与えられるのであって、知覚の前の感覚のような段階説は間違っているとするような書き方があって、どういう文脈で言ってるか分からないが、(メロポン的にはセンスデータ説批判ではなくて「行動の構造」以来の、ゲシュタルト心理学の含意の敷延のはずだから)、本人の文章ではどういう言い方をしているのか見てみることにしよう。

ニコラス・ハンフリーはトーマス・リードを引いて、このような感覚と知覚の違いに基づいて議論を進めるのだが、これは哲学者にはとても受けが悪いとこぼす(「赤を見る」)。たぶんこのときはセンスデータ説批判のほうから来ているのだろう。わたしも盲視から発想するので同じような考えに至る。

つまり、sensorimotor contingencyによって決まるような技能としての視覚(背側経路)とpredictive codingしてsurpriseをtop-downのawarenessによって消してく、ヘルムホルツ的視覚(腹側経路)との折衷、ってアイデアになる。

じつはこのようなアイデアはJoel Norman のBBS2002にあって、両者の範囲を正しく限定するという意味でよいと思うのだけど(Noeがcolorについてsensorimotoroの議論を応用しようとかするのは無理だろとか思う)、BBS2002自体の反応見てるとイマイチ。

なにより肝心のGoodale & Milnerが出てこないもんだから、Normanの話の前にGoodale & Milner説自体の妥当性とかの話になったりして。David Ingle (retired)がコメントしてたので期待して読んでみたら、昔話に終始して、使えない奴だった。

まだ全部読んでるわけではないけど、どうやらギブソン的視覚観とマー的視覚観とを統合したい、なんて動機がそもそも共有されていないんではないか、という印象を抱いた。

Goodale & Milnerの中でいちばんきっつい主張(dorsalはunconscious)にも与しない。腹側系は意識のcontentであって、それが配置され、他者と環境を含めた世界として経験されるためには背側系が必要。

進化の過程では、背側系の方が先立つと考えた方がよいのではないだろうか? つまり、Goodale & Milnerにハンフリー的な進化の視点を導入する。視覚への応答がvisuomotor processingそのものであった状態(背側系)から、表象の世界(腹側系)がどうできるか。

こんなことを今度の講義のまとめに持ってくるつもり。Goodale and Milner成分をいくつか付加して、通りいっぺんな説明ではなくてそれなりに血の通った話をして(DFさんの「視覚経験」)、盲視の話への導入とする。ついでにJCでも再利用。

前半は「注意」。サリエンシーマップと半側空間無視の話をして、前者ではpredictive codingまで、後者では空間と身体との関係まで言及する。これが後半の伏線になる。

後半は「意識」。両眼視野闘争とNCCとGoodale & Milnerの話をして、盲視を最後に持ってくる。盲視では質感はないけどサリエンシーはあるのだ、という話をする。脳とかSDTとかテクニカルな話をするか、それとも外在論とかenactionとかの話をするかのバランスを考える。

つまり、ニコラス・ハンフリーの話で出てくる原始的生物の話は、背側系(手で物体を操作し、目で定位する)という過程が先立って、その生態学的な拘束条件によって決まるアフォーダンスそのもの(たとえば手に届くものを届かないもの)が弁別の材料となる。

そのような弁別能力が長期記憶となり、カテゴリー化の源となる、といった腹側系の機能が出来る。このような表象自体が独り立ちして表象間で操作を行うようになると前頭葉が必要になる。ってこういうおとぎ話をえんえんと書く必要はないのだけど、アフォーダンスが表象に先立つ、というのはVarela-Noe系列のenactive viewとしても筋が通っていると思うし、enactive viewの適応範囲を正しく決めるのにも寄与しているんではないだろうか?

「その生態学的な拘束条件によって決まるアフォーダンスそのものが弁別の材料となる。」つまり、この時点では弁別そのものをしているのではなくて、行動として本当に手が届くか届かないかという事実だけがある。そこから行動しなくてもあれは届かない、という判断が出来ればこれは弁別したことになる。

つまり、行動をせずに、あれは届かないと判断するのが弁別であって、弁別は経験からの学習を前提としている。ってそりゃあたりまえだった。Perceptual decisionではこれがもっと具体的に確率密度分布で持つのか、それとも判断基準で持つのかとかそういう問題になったり。


OBEで「痛み」はどちらの「自己」に帰属するのだろうか? たぶん答えがあるはず。調べておこう。どちらに帰属するにせよ、それによって痛みを他人事にしてしまうことはできないのだろうか?

ksk_S @pooneil RHIでラバーハンドの方に痛みを感じるというのはあるようですね。素朴には、痛みのような内受容性の感覚はそれを感じてるところが「こちら側」になって、他人事にならないような気がしますが。

@ksk_S なるほど、rubber hand illusionのほうで考えればよいのですね。まさに「痛みのような内受容性の感覚」と視覚のような外界に投射する感覚とではいったい何が違い、どこに限界があるのか、みたいなことを考えてました。ではまた。

ksk_S @pooneil まさにそれについて僕も考えていました。RHIやOBEで問題にしている身体的自己感覚は外受容性なんですよね。内受容性の感覚は、身体のように帰属させる自己じゃなくて、もっと意識体験のフレームそのものに直接関与してるような気がします。

(4/21のを吉田がリツイート) ksk_S あともう一つ最近の疑問。形式システムと、力学系と、確率論的世界の上下関係。力学系は形式システムを内包してそうだけど、確率の世界は可能性を扱えるので力学系を含んでいるといえるのか? 含んでるけど目が粗くて捉えられないものがあるということなのか?


講義スライド用に今まで持っているマテリアルを並べてみたら、209枚になった。セクション用の見出しとかもあるから実質180枚。これだけあれば3時間の講義には充分だろう。どちらかというと、これを使ってちゃんとストーリーが流れるように構成することに注力するのがよさそうだ。


ブログ更新: 「脳の生物学的理論」からの話の展開: 20111227のtwitterでの池上さんと藤井さんとのやりとり。 pooneilの脳科学論文コメント 20120516

alltbl @pooneil ちなみに吉田さんは、脳や意識についての論文をかなりきちんとフォローされてると思うのですが、脳はどういうシステムだと思ってますか?Alan Turingの考えたチューリングマシーン的なものではないでしょう?

@alltbl むつかしいこと聞きますね。脳を実際に見ているものとして、脳はコネクショニズム的な分散表現を行っているというのが前提なので、古典計算主義的な脳観は持たない。ただし、そしたらニューロンの活動はニューラルネットの中間層みたいなことやっているのかというとそんなことはなくて、じつはスパース表現がなされていることが多い。つまり、おばあさん細胞のようなニューロン活動というものは偶然に出来ているのではなくて、どっかのレベルで最適化の結果であるらしい。そうなってくると、脳で表象をするということがまた違って見えてくる。

@alltbl あくまで仮説ですが、分散表象とかポピュレーションコーディングのような表象が背側系で行動を引き起こすのに使われて、腹側系でのスパース表現というのは表象の操作を含むような認知活動に関わっているかもしれない、とか考えます。

alltbl @pooneil なるほど。コーディングのような表象が背側系で行動を引き起こすのに使われて、腹側系でのスパース表現というのは表象の操作を含むような認知活動に、というのは面白いですね。ただ聞きたかったのは、何をしているかという時に、世界を写しとるというコピーマシーンみたいなもの?

@alltbl ちょっと寄り道しましたが、このようなニューロン活動のあり方というのが、先日の鈴木さんのツイートにもあったような、「形式システム」と「力学系」と「確率論的世界」のすべてに対して寄与しているんではないだろうか、とか考えたりします。

@alltbl ニューロン活動がポピュレーションコーディングで確率論的な振る舞いをすると同時に、スパース表現でばらつきのない確実なニューロン間通信を行う、みたいに考えたら、確率論的な脳と力学系としての脳が同時に説明できないかなとか考えました。

@alltbl 強い表象主義だと外界のコピーを内的に表象することになるけど、それは無いと思う。まず、背側系は技能として視覚を使うのでコピーをしない(昨日書いた、enactiveな脳)。腹側系は外界をinferする表象を作成するけど(昨日書いた、ヘルムホルツ的脳観)

@alltbl 、実のところ注意を向けたところしかinferしてない。これこそがchange blindnessからわかったことで、われわれは注意を向けていない部分についてはコピーを作っていない。(これはpredictive codingの観点から説明するのが良いと思う)

alltbl @pooneil コピーマシーンなんだけど、自分で世界を変えてコピーしやすくしようとする? 必要以上に脳の仕組みが複雑に見えるので、他に何かしてるんじゃないかと。

@alltbl うーん、これは池上さんの言葉が分からない。

alltbl @pooneil すいません。運河を見てましたw Andy の読みましたが、どうなんだろう。ぼくはこのpredictive codingに賛同できないですね。というのも、生命は予測を最適化するならば、暗い部屋にじっとしてるはずだけどそうではないし、遊びこそが大事、だと。

@alltbl predictive coding的にいうなら、コピーを作るんではなくて、予想外だったときのサプライズを脳内に表象を作ることでキャンセルアウトする、というかんじで。(Andy Clarkもなんかこのへんについて言っているけど、まだ読んでない)

@pooneil これまではミクロには力学系で、疎視化すると確率論、とか考えてたけど、こういう可能性もないかという思いつき。

@alltbl predictive codingにしろ、ベイズ脳にしろ、最適化と言いつつ最適化しようのないノイズというか揺らぎがたくさんあるのに抗しているという状態なのだから、最適化と相反する作用とのバランスという図式を描かないと、池上さんの言うとおりになると思います。


predictive codingだと最適化した行動を前提としているとかいうのはニューロンレベルと行動レベルとのカテゴリー錯誤がありそう。predictive codingの重要度はニューロンの表象の意味を一変するところにあり、おばあさん細胞はおばあさんを表象しているのではなくて誰もいないというpriorからおばあさんが現れたサプライズがニューロンの発火として表現されて、それが緩和される過程を我々は観察者としてみているだけだし、脳内では、上流の細胞が下流の細胞のサプライズを消すように活動することが結果として情報をデコードしてことになってるんだと思う。


2012年06月04日

二元論/オートポイエーシス/Enaction

ついったでのやりとり。2012/4/14


なにか大事故や不祥事が起こるとそれの反動で厳罰主義になる。これは役人や政治家だけでなくて、世論自体もそうだ。科研費運用から原発、津波から祇園の事件まで。科学者としてはもっと合理的に行こうぜと思うのだけれども、ここにも「お話」と「演算」とのウロボロス的構造があるのだろう。

世界は二元論なのだけれども、間違っていない二元論というものは、その二つの要素が独立せずに、互いに影響を与え、互いを要請するような構造になっている。

alltbl @pooneil 独立してなくて、からまったものなのに、なぜ一元論ではなくて二元論?

@alltbl けっきょく言葉の問題ではありますが、からまったものとして統一的に理解できる(メタな視点からの統合が可能)ならば一元論だけど、絡まっていることだけが分かっていて、それぞれを整合的に説明する枠組みが共約不可能なのが二元論、ということでどうでしょうか?

alltbl @pooneil 同意します。ただ起源を問うときにも、二元論のままですか?

池上さんは一元論でやっているであろうとは思います。

オートポイエーシスでいう「カップリング」の概念というのは「絡まっていることだけが分かっていて、それぞれを整合的に説明する枠組みが共約不可能」という状況を独特の表現をしたものではないかと思ったりする。つまり、オートポイエーシスは機械論を目指しているけれども、徹底できていない。

@alltbl ちょうど今カップリングの概念に触れたところでしたが、なるほど、カップリングの生成ってどうしたらいいのか分からなくなりました。それは卵でも鶏でもないものから卵と鶏への分化であって、片方から創発するってんではないのでは?というのが私のヒューリスティックです。

alltbl @pooneil はい。では、もとはひとつなのに、途中から変わるのは、「こちら側の記述」の問題でもある訳ですね?

カップリング自体は静的な概念、というか観察者側からのものの言い方でしかないのだろうし。

池上さんのコメントに込められたメッセージは、世界の二元論的構造というものは静的に捕らえたがゆえのことであって、生成論的に考えればその絡まりを解くことが手がかりを見つけられるかも、てことかなって思った。

@alltbl もし生成の際に変わるのが「こちら側の記述」だけだったら、オートポイエーシスの動作側からは何も変わらず、一元論は保持されることになります。でも動作側と観察者側の二元論が先に導入されているので、動作側がどうやって観察者の視点を獲得するかを考える必要があるかと。

ksk_S @pooneil @alltbl 横から失礼します。ヴァレラは動作はそれ自体が観察者で もあると考えてたようですが、「卵でも鶏でもないもの」は動作として記述されませんかね。カップリングは本質的だ思うんですが、観察側も動作として説明しないといけないと思います。

@ksk_S ありがとうございます。「動作はそれ自体が観察者でもある」ここがわからないです。池上さんの前のお仕事で外界の情報を分節化するモデルがありましたが、たとえばあれは観察者を動作として記述したことになるのか、もしくは表象を作ったことになるのか私にはまだ判然としてないです。

ksk_S @pooneil Embodiement、Enactionを突き詰めると、表象と一人称的体験は同じものを表と裏と考えるのだと思います。そうすると、温度計にも主観はあるのか問題になってしまうのですが。ただ言えるのは、特権的立場のホムンクルスを仮定しないという了解はあると思います。

alltbl @ksk_S @pooneil 卵でも鶏でもないもの。混沌とかchaos?

補足として、わたしの理解は河本英夫氏の書籍経由なので、いろんなところでヴァレラが考えていたことと違っているかも。ヴァレラはもっと機械論的だけど、河本氏はもうちょっと違う感じがあるので。

ksk_S @alltbl @pooneil おっしゃるように、ヴァレラは二元的に語られやすい自律性を一元論から説明しようとしましたが、河本さんの最近の本は、自律性の魔法を機械論的な世界に再度吹き込もうとしているように思えます。

ありがとうございます。やはり私の理解はもっと階層的創発的なものでした。「Embodiement、Enactionを突き詰めると、表象と一人称的体験は同じものを表と裏と考える」Embodied mindではそのような取り扱いでしたっけ? 見逃してるのかも。

@alltbl どういう文脈だったかというと、[動作のドメイン]と[観察者/表象のドメイン]とが分化するとしてそれの起源はそのどちらでもないものであるのが尤もらしくないか、つまり、動作から表象が創発するって考えかたに留保を置きたいって話です。強い根拠はないです。

ksk_S @alltbl カオスは外側かもしれませんね。オートポイエーシスやホメオスタシスはシステムの内部に外側をうまく取り込んでいる。内的な自然淘汰という形で。

alltbl @ksk_S 現実世界のカオス?と、コンピュータのカオス、との違いについて、考察すると? ビット表示を持ち込んでカオスを語るのは、外側を取り込むことではないか?

ksk_S @alltbl それは本質的に離散化が、創造の源であるという意味でしょうか?ロバートショーの話?

alltbl @ksk_S いや、僕らが観察するには、なにかゲージがいる。コンピュータに読めるようにするというのはそのひとつ。創造の起源かどうかは分からないけど、観察っていうのは創造的行為という意味ではそうですね。

ksk_S @alltbl なるほど。観察には比較対称となるものが必要と。意識の問題は、自己の問題だと思ってるんですが、それも同じことかもしれませんね。意識体験には対象と、ものさしである自己=ホメオスタシスの両方が必要。その間のずれとしてしか観察は存在しない。

追記:見直してみたら、「Embodiement、Enactionを突き詰めると、表象と一人称的体験は同じものを表と裏と考える」ってのと「[動作のドメイン]と[観察者/表象のドメイン]とが分化するとしてそれの起源はそのどちらでもないものであるのが尤もらしくないか、つまり、動作から表象が創発するって考えかたに留保を置きたいって話です。」てのとはほとんど同じことを言っていることに気付いた。


2007年01月09日

Maturanaの"Biology of cognition"

あけましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします。

2004年04月11日のHUMBERTO R. MATURANAについて書いたエントリにKeithさんからのコメントをいただきました。過去のエントリで見えにくいのでここに転載しておきます。

# Keith
はじめまして。
MaturanaにとってAutopoiesisのコンセプトはは"Biology of Cognition"のほんの一部をなすものであって、Maturana = Autopoieisis と受け取られていることには、本人も慨嘆しておりました(数年前、サンチャゴ(チリ)で本人に会い、いろいろ話を聞いた折のことです。)。
1973年の論文(Autopoiesis)は、彼の論文というより、むしろVarelaが執筆したものであり、Maturanaとしては、”Tree of Knowledge"もそうですが、Varelaと共著者になっている著作には、今となっては苦い思いを抱いているようです。
[Alva Noe についてGoogle検索していましたら、Pooneilさんのサイトに出会い、オートポイエシスについての記事があることにびっくりしました。 BCI(BMI)についても関心を持っていますので、読ませてもらうつもりです。とりあえず、上記のようなコメントをさせていただきましたが、メールできちんと自己紹介もしたいと考えております。よろしくお願いします。]
# pooneil
どうもはじめまして。かなり興味の方向が重なってますね。Maturanaの話、興味深いです。Maturanaのサイトはあまり更新されていないのでMaturanaはもう活動してないのかなと思ってました。
以前どこかに書いたかもしれないのですが、Autopoiesis論が始まる段階に立ち返って、現象学/存在論的側面と自己組織化的な話とを切り分けたうえでこの概念について捉え直したらよいのではないか、というようなことを考えています。そういうわけで、"Biology of Cognition" 1970を読み直してみよう、というのがわたしの宿題のひとつでした。なかなか果たせずにいるのですが。
ともあれ、これからもぜひよろしくお願いします。

というわけでこっちの方面も進めておきたいのだけれど、なかなか手が回らない。人生は短すぎる。


2004年12月03日

瞑想と神経現象学

"Long-term meditators self-induce high-amplitude gamma synchrony during mental practice." Antoine Lutz, Lawrence L. Greischar, Nancy B. Rawlings, Matthieu Ricard and Richard J. Davidson。Antoine Lutzは故Francisco J. Varela@CNRSのところでPNAS '02 "Guiding the study of brain dynamics by using first-person data: Synchrony patterns correlate with ongoing conscious states during a simple visual task."を出した人。現在はUniversity of Wisconsinだそうです。あれはほんとうにneurophenomenologyといえるような代物なのか、ってのが今でも気にかかっているのですが、その基準で言えば今回のもそうなはずで、あれをさらに推し進めたものとなっているはずです。今回はトレーニングを積んだ素人(PNAS '02)ではなくて現象学的分析をまさに日々実践しているチベット仏教の僧たち(ニンマ派とカギュ派)が瞑想時にガンマオシレーションを出しつづけることができるというのが内容です。こう書いてしまうと昔からある「ネタ系」と同じでしかないなあ。
ただこれが脳領域間でのphase synchronyであることから、以前のNature '99("Perception's shadow: long-distance synchronization of human brain activity.")や前述のPNAS '02と併せて考えるべきです。Nature '99で重要なところは、認知の起こっているところで脳領域間でのphase synchronyが起こっているだけでなく、そのあとに強烈にdesynchronizationが起こっていることです。
そういう認知の切り替わりみたいなものが僧たちでどういうふうになっているか、ということからどのくらいのことが得られるか、それがneurophenomenologyという研究プログラムがどのくらい意味のあるものであるかを占うことにもなります。つまり、neurophenomenologyにある「現象学的分析は単なる内観主義ではない」「現象学的還元や不変項の発見などを通した厳密な吟味によって経験に直接根ざした明示的なtermとして現象的なtermが立ち上がってくる」というような言葉が想定している厳密さ、突き詰め度がこの研究論文あるかどうかを見ておきたいのです。Varelaの瞑想経験やチベット仏教への入れ込みは単なる東洋趣味ではなくて、三人称的世界と一人称的世界とを橋渡しするときに必要な厳密な現象学を実践しているがゆえだったのですから。
こういうことを最近まったく書いてないなあ、いかんいかん。もう少し読んで、もう少し書いていきましょう。


2004年04月12日

Waler Pitts

『サイバネティクス学者たち---アメリカ戦後科学の出発』スティーヴ・J・ハイムズ著を読んでいるとかなり興味を引く人物だ。大学に行かず、独学で哲学や論理学を学び、マカロウに認められて二人で"A logical calculus of the ideas immanent in nervous activity"を出版する。ニューラルネットで使われるマカロウーピッツ型ニューロン(入力の線形和が閾値を超えるかどうかで発火が決まる神経素子の一番基本的なモデル)を考えた人として有名だろうが、重要なのはそれを使って「論理演算」ができるとしたことであろう。*1マカロウやウィーナーが尽力して彼に学位を取らせようとしたけれど、彼はそれを拒否した。そして60年代に失踪し、若くしてどこかで亡くなったらしい。


*1:私はここまで戻って、ヘッブと併せてサイバネティクスから見直すとよいのではないだろうかと考えて少し勉強している。ヘッブのcell assemblyからAblesのsynfire chainへの道。


2004年04月11日

HUMBERTO R. MATURANA

はオートポイエーシスの概念を作り出した人だが、もともとは神経生理及び解剖の学者で、McCulloch and Pittsとともに1959年に"What the frog's eyes tells the frog's brain?"(1st authorはLettvin)を出した人で、言わばサイバネティクスの発達の一番最後あたり(メイシー会議が終わって数年後)の人だった。で、チリに帰ってからも主にハトのretinal ganglion cellからの電気生理と解剖学とでNature, Scienceを連発した。

  • Maturana, H. R. Number of fibres in the optic nerve and the number of ganglion cells in the retina of Anurans. Nature 138: 1406- 1407, 1959.
  • Maturana, H. R. , Lettvin, J. T., McCulloch, W. S., Pitts, W. H. Evidence that cut optic nerves fibres in a frog regenerate to their proper places in the tectum. Science 130: 1709. 1959.
  • Maturana, H. R. and Sperling, S. Unidirectional response to angular acceleration recorded from the middle cristal nerve in the statocyst of Octopus vulgaris. Nature 197-816, 1963.
  • Maturana, H. R. and Frenk, S. Unidirectional movement and horizontal edge detectors in pigeon retina. Science 142: 977-979, 1963.
  • Maturana, H. R., Frenk, S. Sinaptic connection of the centrifugal fibre in pigeon retina. Science 150: 359-361, 1965.
で、そこから"Biology of cognition"(1970年)を出した後に、それをVarelaによって位相空間の概念を導入することで定式化しようとしたのが"autopoiesis: the organization fo the living"(1973年)だった(そのときVarelaはまだ20代前半だった)。そこからMaturanaはちょびちょび生理学の論文を出しつつもautopoiesisとしての言語とかコミュニケーションとかそういうことを語るようになるのであった。(つづくかも。)

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# Keith

はじめまして。
MaturanaにとってAutopoiesisのコンセプトはは"Biology of Cognition"のほんの一部をなすものであって、Maturana = Autopoieisis と受け取られていることには、本人も慨嘆しておりました(数年前、サンチャゴ(チリ)で本人に会い、いろいろ話を聞いた折のことです。)。
1973年の論文(Autopoiesis)は、彼の論文というより、むしろVarelaが執筆したものであり、Maturanaとしては、”Tree of Knowledge"もそうですが、Varelaと共著者になっている著作には、今となっては苦い思いを抱いているようです。

[Alva Noe についてGoogle検索していましたら、Pooneilさんのサイトに出会い、オートポイエシスについての記事があることにびっくりしました。BCI(BMI)についても関心を持っていますので、読ませてもらうつもりです。とりあえず、上記のようなコメントをさせていただきましたが、メールできちんと自己紹介もしたいと考えております。よろしくお願いします。]

# pooneil

どうもはじめまして。かなり興味の方向が重なってますね。Maturanaの話、興味深いです。Maturanaのサイトhttp://www.inteco.cl/biology/はあまり更新されていないのでMaturanaはもう活動してないのかなと思ってました。
以前どこかに書いたかもしれないのですが、Autopoiesis論が始まる段階に立ち返って、現象学/存在論的側面と自己組織化的な話とを切り分けたうえでこの概念について捉え直したらよいのではないか、というようなことを考えています。そういうわけで、"Biology of Cognition" 1970を読み直してみよう、というのがわたしの宿題のひとつでした。なかなか果たせずにいるのですが。
ともあれ、これからもぜひよろしくお願いします。

# pooneil

メールの方もぜひぜひ。お待ち申し上げております。

# Keith

昨日(1月10日)、メールさせていただきました。
拙い論文なども添付しました。
きちんと届きましたでしょうか?
(使用したメールアドレスがあれでよかったのかどうか、ちょっと不安でしたので、うまく届いてくれてれば良いのですが、、、。)


2003年07月29日

河本英夫氏と学会で話をする

2003年の神経科学会に河本英夫氏がシンポジウムでの発表者として名古屋を訪れたので、さっそく発表を聞きに行ってきた。発表後、一時間ほど河本氏と他の参加者3名を交えて話をする機会を得たので、そのときに聞いた話などを以下にまとめる。うろ覚えで書いているので、正確なニュアンスが伝わっていないかもしれないことだけあらかじめご了承を。以下の事項について掲載した旨についての連絡のメールを河本氏に送ったところ、返事をいただき、誤解のある部分を指摘していただいた。これに基づいて加筆した部分を青色で表示する。この文章が河本氏が言ったことを正確に表しているとは保証できないことを断っておく。(加筆20030804)



河本氏の発表:「オートポイエイシス系としての脳」
河本氏の発表はオートポイエーシス入門、といった趣のもので四ページのハンドアウトを使ってスライドなしで約30分間行われた。オートポイエーシスのイメージ作りのために、見取り図無しに大工が家を作るという話を使っていたが、これでは自己組織化に対する説明との違いが見出せないため、お客にはわかりにくかったろうなと思った。もちろん、河本氏がそのとき発言したようにオートポイエーシスの概念をきっちり説明したら6時間はかかるようなものであろうし、時間制限を考えてのことだとは思う。しかし、観客はニューラルネットワークのような自己組織化について親しんでいるものは多いわけで、オートポイエーシスと自己組織化の差異の説明に集中させればより効率よかったのではないかと思った。
また、私としては「入力も出力もない」という概念への説明が食い足りなかった。Maturanaがハトのretinal ganglion cellでの色に関する反応を見る実験を元に「入力も出力もない」という概念を考えた、といままで散々書かれてきたわけで、神経科学者を前にしてその辺の話がもっと展開していたらもっと面白いのにと思った。(こういうことを書くと河本氏がそれはあなたがやりなさいと言うに違いない。私もそのつもりでいろいろ勉強しているところ。そうできるようになりたいと思っている。ちなみにMaturana HR, Uribe G, Frenk S 1968はハトの話ではない。)
システムが構成素によらないこと、新しく産出された構成素によってまったく違ったシステムが出来上がる可能性があるという話を強調していた。これがおそらく「メタモルフォーゼ」などでの河本流オートポイエーシスの展開なのだろうと考えた。あとで確認したところ、二重作動、というキーワードがこの概念を表しているようだ。(加筆20030804)
ハンドアウトには神経システムはニューロン細胞を産出する、と書いてあった。前にも書いたように、神経システムが産出するのは神経スパイクによるネットワークのパターンであり、ニューロン細胞を産出するのでは変ではないか、神経スパイクによるネットワークのパターンが次のパターンを産出していくからこそ「入力も出力もない」閉じた系として成立するのではないか、というのが私の考えだった。そこでシンポジウムの最後にそのように質問してみたのだが、40%ぐらいは賛成できる、というのが河本氏の答えだった。河本氏によれば、40%ぐらいと言ったつもりはないとのこと。氏の返答は私が聞きたかった部分に対する答えではなかったらしい。(加筆20030804) (なお、もう少し質問の意図を付け加えると、ニューロン間の相互作用を通じて神経細胞が産出されているとは発達段階でしか当てはまらないし、成人の脳で神経細胞が産出されるわけでもない。最近報告のある成人での神経新生が神経システムの作動を担っているとはとても言えないし、それでは認知活動とカップリングしている神経システムの作動としては不十分であるといえる。) *注 この部分について加筆あり。長くなったので後ろへ。(加筆20030804)
シンポジウム終了後に話をしましょう、という河本氏からの言葉をいただいたので、一時間ほど河本氏と他の参加者3名を交えて話をする機会を得た。


シンポジウム後の懇談:
話の始めに私がVarelaの方により近い立場にいることを表明すると、Varelaの神経現象学についていろいろと教えていただいた。河本氏いわく、現象学はフッサールのときから記憶をうまく扱えないという問題があり、記憶の問題を解ければ神経現象学が扱っている範囲の問題に関しては解けるようになる、とのことであった。河本氏も近著の「メタモルフォーゼ」では記憶と感情を内的に扱えるようにすることを動機としているとのことだった。「メタモルフォーゼ」を読んで確認したところ、主題的ではないものの、感情についてはp.148-152に記述がある。また、記憶についてはp.188-193で物質の記憶ということを扱っているが、これは人間の記憶とは別物であることが明記されている。(加筆訂正20030804)
河本氏の話には人を鼓舞するような勢いがあって、氏のオートポイエ−シス論が個人それぞれの創出、創作を促していく性格を持っているところを強調しているようだった。私は人生哲学化したオートポイエーシス論ですか、などと言ってみた。
さいきん私は表象とqualiaとが相互に排除し合う関係にあるのではないか、というようなことを考えていて、心身問題は神経システムと意識システムのカップリングの仕方という風に置き換えられるのではないかと私は河本氏に質問した。氏は強い口調でそれを否定し、神経システムと意識システムが(たとえば)相互隠蔽する関係にあるわけではないと返答した。意識システムは二重のやり方で構成素を指定することができるようになっているのであるということ、心身問題は解ける形の問題ではないのに解こうとする者が勘違いしている、という答えだった。また、心身問題に引っかからないように廣松渉「身心問題」(青土社)を読むことを推薦していただいた。(なお、あとで確認したところ、「精神のオートポイエーシス」『精神医学』p.127-129において、神経システムと心的システムが相互投影の関係にあり、投影の仕方によって構成素が別になるというふうに書いてあった。)
また、それに関連してVarelaの神経現象学での脳科学と現象学とが相互に拘束し合うという関係はあくまで方向付け原理(カントでいうレギュラティーフ)であって、これだけでは脳科学と現象学(=third person perspectiveとfirst person perspective)とを繋ぐことはできない、という言葉をいただいた。
話の終わりには、君らそれぞれが作って発展させていくんだと励ましの言葉をいただいた。ぜひそうしたいと思う。


あとがき:
というわけで最近ご無沙汰だった部分の頭が働き出してしまったところ。オートポイエーシス論成立のあたりからサイバネティクス初期あたりまでさかのぼろうとして集めた資料がたまったまま。結局のところ、私が「第三世代システム」まで読んで疑問で思っていたことの本性はおそらく「この考えをどう経験科学に生かせるのであろうか」ということだったのだろう。「メタモルフォーゼ」のはじめのほうを読む限り、河本氏はこの問題を強く意識しているようだ。(「…経験科学の現場での現象の見え姿の輪郭を更新していくはず…できるだけ経験科学の多くの事例を手がかりにして…」p.24)(加筆20030804)


*注 おそらくここに関してと思われる河本氏のコメントをパラフレーズすると、神経細胞を構成素としていったん神経システムが作動しだすと、産出される構成素は多次元化して、神経スパイクによるネットワークのパターンも構成素となって機能分化が起こる、ということであるようだ。ここでも二重作動に重点を置いた氏の最近の考えが反映しているらしい。なるほど、そういう意味では一つの細胞としての神経細胞のシステムと、神経スパイクによるネットワークのパターンによるシステムのあいだに発達時の神経間相互作用を作動の単位としたシステムを考える、というのはありうるであろう。こうなるとどこまでを一つのシステムと見なすのか、という問題になる。作動する神経スパイクによるネットワークのパターンの側から見れば、一つの細胞としての神経細胞のシステムも発達時の神経間相互作用を作動の単位とした神経ネットワークシステムも別のシステムと言える。そもそもオートポイエーシスシステムは二重作動として描けると氏は書いているわけで、この辺についてはシステムと二重作動との関係、二重作動とカップリングとの関係をもう少し考えないといけない。「メタモルフォーゼ」二章までを読んだところ明示的には出てきていないと思うが、カップリングという概念を置き換えるように二重作動という概念が出てきたようにも思える。(加筆20030804)


2001年08月22日

Varela "The Embodied Mind"

Varelaの"The Embodied Mind"の日本語訳(「身体化した心」)が出た。出版社は工作舎か、、、たぶん多くの人にニューエイジくさいものとみなされてしまうな。認知系の科学者は手にとらないのではないだろうか(生協にも無かったし)。そういう人たちにこそ読まれるべき本だと思うのだが。この本で述べている認知主義からコネクショニズムへの移動とそれらの問題点に関する議論は、大乗仏教のところを飛ばしてでも、読まれるべきだと思う。そして更なるポイントは、コネクショニズム的やり方でさえうまく行かない問題があり、ここにこそが意識の「ハードプロブレム」が関わってくるということだ。そういう意味で、チャーチランドや信原氏が認知主義の問題点をコネクショニズムで解決してさらに意識の問題も解決しようとするのに対してVarelaはそれの先を行っている。ただし、先へ行きすぎかもしれない。というか、Varelaの提出しているやり方(およびその後のneurophenomenology)が本当にうまくいくかは分からない。けれども、繰り返すが、認知系の科学者が今言った流れを押さえて読む意義のある本だと思う。
オートポイエーシスの考えは、相互作用する局所のエージェントが作り出す協同的創発的現象の事を指しているように誤解されることがあるが、それは一部であって、それにさらに「内部からの始点(現象学的な立場)」「実際に動き出すことで始まってしまう感じ(この言い方じゃまるで今西進化論だが)」が加わることが重要なのだ。「身体化した心」はいわば心的システムのオートポイエーシス的な扱い方を議論しているのだが、オートポイエーシスという言葉が指している絡み合った要素を解きほぐして、それを心の科学の歴史のコンテキストに関連付けている。さっき言った協同的創発的現象は心の科学で言えばコネクショニズム的考えのことだ。そういう意味では、この本ではもうオートポイエーシスという言葉を使う必要はないし、オートポイエーシスの中の核心部分、もしくはその怪しく謎めいた部分はenactionや縁起という概念を持ち出すあたりに形を変えて分かりやすく(そして批判もしやすく)現われている。「オートポイエーシス」を読んでちんぷんかんぷんだった人にも、「知恵の樹」を読んで部分部分は理解できても肝心の流れがよくわからなかったという人にも、「身体化した心」のメッセージはよく伝わるだろうと思う。
ちなみに前にも書いたが、清水博先生が「生命を捉え直す」を書いたときには、引き込みのような共同的創発現象を扱っていたわけだが、最新の本では、「場」という概念を使い、オートポイエーシスの核心部に近いことを言っている。コネクショニズムからenactionへの移動が見られるのだ。しかも清水博先生の本は西田哲学込みで、武術から身体性をからめて考える、というところまでそっくりだ(「身体化した心」でも西谷啓治が持ち出されている)。
なお、工作舎がニューエイジ系の本だけを出しているわけではないことはもちろん承知している。まあ、青土社から出れば「身体性」がどうの、という現代思想的な話が目立つのだろうし、産業図書から出れば地味な感じなわけで、どこの会社が出そうが余計なお世話で、日本語訳が出てよかった、と言うべきか。


2000年12月08日

河本氏の「表象」とヴァレラの「表象主義批判」

私のwebページを読んでくださったMさんからの質問(河本氏の「表象」とヴァレラの「表象主義批判」に関して)への返信部分。
河本氏の言っていることについてはそういう感じだと思います。問題はヴァレラらの表象主義が具体的に何を指しているかだと思います。
河本氏の「言ってみれば表象は、観察された思考である。」(「第三世代システム オートポイエーシス」青土社275ページ)と言うときに使う「表象」という言葉は、Mさんご指摘のとおり、[心的システムの作動の高次化によって作り出された観察者]からの視点で構成された「見かけ上の区別」について指している言ってよいと思います。
一方、ヴァレラらが表象主義を問題としているのは、認知科学における表象主義がそういう「表象が構成される」という視点を持っていない点です。ヴァレラらは「表象」自体を否定してはいません(弱い意味での表象、後述)。「知恵の樹」(ちくま学芸文庫186-7,198-9ページ)で言うように、認知科学における表象主義では、[神経システムが外界からの入力を変換してシステム内に表象を作る]というアプローチを取るが、ヴァレラらのオートポイエーシス的観点からすれば、[表象とは、入力が引き起こす結果ではない。神経システムは、システムの作動への擾乱を特定することによってひとつの世界(=表象)を生起させている]ということになります。河本氏とそんなに違ったことを言っているわけではないと思います。また、ヴァレラらは「知恵の樹」では言葉を尽くしていないので、"The Embodied Mind" The MIT Press, by Varela, Thompson and Roschを読むと、「表象」の何を問題としているかがもっとはっきり書かれています。


「表象」には二つの意味がある。弱い意味での「表象」とは、語義の通り、[何かほかのことについて指していること]を指す。たとえば、地図はある場所について指している。[地図がある場所のある特徴について表象している]と言うときの「表象」という言葉には何の問題もない。[認知作用が世界をある種の形で解釈し、表象している]と言うことには何の問題もない。一方、強い意味での「表象」という言葉は、[認知作用とは、認知システムが内部表象を元に働くことである]という認知主義的言説で使われる。これは存在論的、認識論的仮定を置いている点で問題がある。つまり、外部世界はわれわれの認知とは独立して存在していて、そして[外部世界からの入力によって認知システムに形成された内部表象]をわれわれは操作している、と仮定している。外部世界の実在論は精神と認知の説明を二元論的にする意味で問題がある。(134-7ページ要約)

心の哲学的言い方でいえばこれは表象の「志向性」としての働きには異論がなくて、表象の「外在主義」に問題がある、ということなのでしょう。(「外在主義」の言葉遣いには自信なし)
まとめますと、河本氏もヴァレラらも「表象」を(認知)システムによって構成されるものとして捉えている。ヴァレラらが問題としているのは、[表象主義が、あらかじめ与えられている外部世界からの入力を処理してできた出力として「表象」を捉えていること]ではないかと思ってます。
*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*

私が言えるのはこれくらいでしょうか。私自身としては、表象とは何かという問題になったら、心の哲学の人たちの本を読み込まないとわからんかもと思ってます。それでM. Tyeの論文とか信原幸弘氏の「心の現代哲学」勁草書房とかを読んでいたりする次第です。
なお、脳科学者としての本音を言えば、情報処理装置として脳を捉えることを否定して得られることよりも、肯定して研究を進めて得られることのほうが多いです。私も本業ではそうやってますし、そうでない方法はまだないでしょう。ヴァレラらの言ってることもどうやったら経験科学に持ち込めるのかを示さない限り、「ああ、哲学は別にいいから」と脳科学者に言われるのが落ちです。(ジョン・サールは「哲学は科学には必ず負ける。なぜなら哲学で扱っていたものが体系的に扱えるようになったときそれは科学と言われるようになるからだ」と言いました。)それでもこの問題は意識の問題において重要になるのに違いない、と思ってこっそり内職しているというのが現在の私の状態というわけです。加筆:ヴァレラの「神経現象学」が経験科学としてうまくいっているかどうかいまいち納得できてない。少なくとも、「単なる精神物理学とどう違うか」という質問に私はうまく答えられないです。


1999年09月16日

こびとさん/内部からの視点

現在私が従事している研究は、視覚認知と長期記憶とを結ぶ回路について明らかにしようというものです。基礎となるのは視覚認知ですが、ここには難問が控えていると思います。単一神経活動記録によるアプローチでは、自己の外側にある環境の視覚情報に対して脳の神経細胞が何らかの特徴(動き、形、色など)に対して選択的に反応している様子を分析するのが主な方法です。
しかしこのような神経細胞の反応を脳はどうやって利用しているのかを考えないと、どこかにそのような脳の活動を全て見ている「こびとさん」がいることを暗に想定していることになってしまいます。これは神経細胞の活動を環境と自己との関係から離れた観察者の立場から記述しているからで、「こびとさん」とはつまり、この観察者の立場を脳に投影したものです。「こびとさん」を想定せずにすむように脳の働きを捉えるにはどうすればよいかを考えると、観察者の立場からではなく、神経システムの内部からの視点で神経活動を捉えることがたぶん必要なはずです。
どうすればよいかの答えを持っているわけではありませんが、神経ネットワークの発火パターンの時空間的構造を明らかにしてゆく過程でそのような記述が必要とされるのではないかとか、同じ絵を何度見ても個々の神経細胞の発火状態にはばらつきがあるがそれを同じものとして捉える神経システムの論理とはどういうものかとか、神経の発火頻度のような絶対値が情報を持つのではなくてすべてはコンテクストで決まるような相対性を持っているはずだとか、断片的に考えているところです。
オートポイエーシス的考えを援用して神経システムの視点でシステムが何をしているか語るならば、神経システムは神経細胞間でシナプスを介して活動電位を受け渡しし、システム全体としてスパイク列が行き来している状態を維持していて、これが認知的自己同一性の根拠となるという話になります。しかしこれだと神経ネットワークはスパイク列の塊として閉じた存在となり、感覚刺激によって擾乱を受けるという図式となり、環境との関係をうまく取り込めない独我論的な感じになってしまいます。議論すべきクラスを間違えているのかもしれません。出発点は「脳は誰から観察されなくても、自身のシステムの中にひとつの世界を形成している」なのですが。
こういう話から、知覚されたリンゴと想起されたリンゴとの感じが違うのはなぜか、といったような脳の働きの主観的な側面の方へにたどり着けないかとかぼんやり考えています。今の研究の遠い延長でそこにつながれば面白いと思っています。偉そうに一席ぶってしまいましたが、こういうことを議論したいと思っていたので書いてみました。


1999年08月26日

オートポイエーシス/内部からの視点/来歴

現在私が従事している研究は、視覚認知と長期記憶とを結ぶ回路について明らかにしようというものです。よって、まず視覚認知を理解するとはどういうことなのか、という問題について学術論文以外にもいろいろと本を広く浅く読んできましたがそうすると、(視覚)認知の理解には本当は難しい問題が控えていることに気づきます。
今の電気生理でのアプローチでは基本的には自己-環境という二分法の中で、自己の外側にある環境の視覚情報を脳がいくつかのfeature(たとえば、動き、形、色など)ごとに分析して最終的にはそれを統合するというやり方をとっています。しかしこのやり方では、どこかにそのような脳の活動を「見て」いるホムンクルスがいることを暗に想定していることになってしまいます。(これは、神経活動の情報がおばあさん細胞的に働いていようと、時空間的パターンでやっていようと変わらないはず。ここが第一関門で、神経活動そのものが認知、心であるとしてそれ以上の解析が無意味であると考えるならこれより先にも意味はないかもしれない。ただしこれは素朴な心脳同一説。いまではphilosophy of mindでそれらが批判されて今に至っていることがわかってきた。加筆2000/8/19)
こうなってしまうのは何故かというとおそらく、神経細胞の活動を環境と自己との関係から離れた第三者(autopoiesisでの用語で言えば観察者)の立場から記述しているからで、認識の正体を脳の奥の方へ奥の方へと無限後退させているところがあるのだと思います。代わりに、環境と認識する者との関係の中から記述することでこれを乗り越えられないかと考えるわけです。
ここで役に立ちそうなのが、現象学の考え方だと思います。今、目の前にリンゴが見えているが、リンゴがある、ということが本当かどうかは分からないが、今、リンゴが見えていることは確かである、というところを起点として、知覚刺激が確かさの根拠として働いている(リンゴの存在は知覚によって確かめられ、知覚されたものを意志によって否認することはできない。)という話に進みます。「現象学入門 竹田青嗣」を読んだだけですが、ここはもう少し先に行く価値があるのではないかと思います。「行動の構造 / 知覚の現象学 メルロ=ポンティ」を読むべきなんだと思いますが、分厚すぎます。ちょっと読む。まだ予想したようなことしか言ってない。Isomorphismとの関連でゲシュタルト心理学少しかじってもよいかって感じがしてきた。加筆2000/8/19
オートポイエーシスは色についての神経科学的研究が起点となって始められたもので、今、一番期待を持って読んでいるところです。有機体のシステムの成り立ちについての理論といってよいと思います。オートポイエシスなシステムとはシステムが自己の構成素を繰り返し産出し続けることで自己を維持しているシステムです。細胞システムが生体高分子を構成素として産出しますが、システムが作動したところではじめて、「自己」が規定されます。このシステムの外部からの視点(観察者)からは細胞とその環境という関係が見られますが、細胞システムにとってはあくまで、構成素を産出しているだけで、細胞の外からの影響も、細胞の中からの影響も、区別してそれに反応しているわけではありません。これを「システムは構成要素の産出において閉鎖系をなし、環境との関係において、内部も外部もないという形で開かれている」と表現しています。(ここはヴィトゲンシュタインの「語り得ぬもの・・」みたいな感じ。) 心的システムは思考を構成素として産出しており、社会システムはコミュニケーションを構成素として産出することがシステムの作動となっています。「第三世代システム オートポイエーシス 河本英夫」での表現です。神経システムをモデルにした理論の割には、神経システムの産出する構成素は何なのかはどこにも書かれていませんでした。おそらく、神経インパルス列が神経システムの産出する構成素なのではないかと思います。
神経システムは神経細胞間でシナプスを介してaction potentialを受け渡しし、システム全体として、スパイク列が行き来している状態を維持していて、神経システムにとっては、視覚入力(観察者から見た外部入力)も想起による心的イメージ(内部からのトリガー)の区別することはなく、その意味で、神経システムにとっては「内部も外部もない形で開かれている」、ということになるのではないかと思います。そして、社会システムと心的システムが階層関係にないのと同じように、神経システムと心的システムも階層関係にはなく、いわば「直交」していて「相互浸透」していることになります。今のところ、この辺まで来てますが、ここから先が、いわゆる「心脳問題」になるところなのだと思います。ここから先がdead endにならないように考えなければならないところです。
「こころの情報学 西垣通」でアフォーダンスとオートポイエーシスは相互補完しうるなどと書いてあって、本気にせず読んでましたが、佐々木先生とかが内部観測とか言っているところを見るとアリなんだなと思いましたが、まだこの話の流れには連結できないです。
「脳とクオリア 茂木健一郎」で神経細胞の刺激選択性の概念ではクオリアを説明できない、「認識におけるマッハの原理」から出発すべき、と言ってましたが、これはシステムの内部から、神経インパルスの産出をどう捕らえるか、というように言い換えられるのではないかと思います。神経細胞同士のインパルス列の関係の中に、認識を認識足らしめるものがあるのであって、顔と顔選択的応答を持つニューロンとの関連をつけているのはあくまで実験者から見た視点でしかない、という議論はオートポイエーシスで言ってる話と同じところに来ていると思います。
「<意識とはなんだろうか> 下條信輔」もオートポイエーシスとは別の文脈で読んでいましたが、知覚システムの作動には知覚システムの来歴が重要な立場を占めていることや、NewsomeのMT recordingの話題で、動きの判断に関するpsychophysicsでMTの神経応答にとっては正しい作動も誤作動もなく、神経システムでは錯誤は消えている、というくだりはまたもやオートポイエーシスだなあと気づきました。
「科学 岩波書店」の書評で「後半部の意識についての議論は波長が合う人には分かるのかもしれないが私には合わなかった」というようなことが書いてあって、これをすんなり読めて納得してしまう私はベイトソンで納得いってしまうようなニューサイエンス魂?を持っているということなのでしょうか。ニューロサイエンティスト魂よりもそれが強いとニューロサイエンティストとして食っていけないかもしれない。この本についてはもっと書くことがありますが、又の機会に。
オートポイエーシスという言葉は使わなくてもこのような概念が取り上げられるというところは、(もちろん作者が知らないで使っているわけはないが)やはりひとつのポイントなのだろうとは思います。
このような考え方はいろんな分野のいろんな人が言っていることですが、おそらくそれらを実験科学に取り込められないのは実験科学の方法論とおそらく関わっているのだろうとは思うのですが、とりあえず今はこの辺を少しずつ読みながら考えを練っているところです。
やっとわかってきたけど、郡司ペギオ―幸夫氏の内部観測の話というのも、もとはオートポイエーシスでVarelaが使っていたスペンサー・ブラウンの算法を使っているあたりから始まっているようです。あれマスターする意義あるんでしょうか、やっぱり。加筆2000/1/11
ちなみに河本式オートポイエーシスはルーマンによるオートポイエーシスの拡張を元にしているから、心的システムのオートポイエーシスとか、そういうものを認めていいかどうかから考え直さなければいけない。マトゥラナのオートポイエーシスの概念から考えれば、細胞以外はオートポイエーシスではない。神経システムに当てはめて考えるときには、オートポイエーシスであるかどうか、と考えるよりは、オートポイエーシスの概念を切り刻んで使える概念に分けて使ったほうがよさそうだ。加筆2000/8/19


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