[月別過去ログ] 2015年05月
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■ 紀要原稿「盲視の神経現象学を目指して」を(昨年)書きました
昨年、東北大学倫理学研究会」発行の学術雑誌 Moralia に紀要原稿を書きました。
「盲視の神経現象学を目指して」 吉田 正俊 MORALIA 20-21 171-188 2014年11月
あいにく原稿はwebからはアクセス出来ないようなのですが、内容としては、これまでに行ってきた「ギャラガー&ザハヴィ『現象学的な心』合評会」および「科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」」での発表をまとめたものです。
そのときにいくつかメモったことをまとめてブログ記事にしてみました。
Evan ThompsonによるZahavi論文へのコメントを読んでたら、現象学の自然化について、二つのありうる方法のうちの後者がThompsonのmind in lifeにあるというのを見て、読まなくてはと思った。
前者はいわゆる現象学的心理学で、後者は「生物学的システムが持っている、自己組織化およびsense-makingする能力における超越論的な地位を(現象学が)明らかにすることによって、現象学は自然という概念を更新しうるし、経験的と超越論的という二分法を更新しうる」と書いてあった。
要はオートポイエーシスが作動することによって創発する現象学的ドメインっていうあれのことらしい。実験科学的なところでbridge the gapしようとするのはうまくいかない自然化で、構成論的な方から考えるべしってところか? まあそのうち現物を読むことにしようと思う。
神経現象学の紀要を書くために、Dan Zahavi (2013): Naturalized Phenomenology A Desideratum or a Category Mistake? を読んでた。Evan ThompsonのMindin Lifeへの言及はHusserl Studies 2009でのZahaviによるMind in Lifeの書評とほとんど同じような文章だった。いったん表現を固めたらばあとはそれを使い回しするものらしい。どんどんパラフレーズしてほしいものだけど。
ブリタニカ草稿 (ちくま学芸文庫) エドムント フッサール (著), 谷 徹 (翻訳)を図書館で借りてきた。「< >は訳者が<語群の意味上のまとまり>を示すために用いた記号である」ってあって、これが便利。たとえば英語だったら<語群の意味上のまとまり>は文法的に推定できても、日本語に訳される時点でその情報がしばしば消えてしまうわけで、このような手がかりはありがたい。というかいつも自分で< > (わたしのばあいは[ ]だけど)を書き込んで理解している。もう翻訳はこれを必須にしてほしいわ。
「現象学と間文化性」谷徹著を読んでいたら受動的綜合について「感覚的なもの…は同質的な物同士がまとまり、異質的なものとのコントラストを生み出して…「際立って」くる。この際立ちが「私」を「触発」する」(p.131)とある。これはまさに知覚サリエンスから動機サリエンスじゃないか。
"passive synthesis"とsalienceでぐぐってみた。ここでの「触発」とはAffektionのことのようだ。エヴァン・トンプソンのLife and Mindの中でもsense-makingの文脈でaffective salienceの語が出てくる(p.376)。
Life and Mind 12章でフッサールの"Analyses Concerning Passive and Active Synthesis"に言及している。英訳本にあたってみるとフッサールは知覚サリエンシーについて書いてる:
"whether the datum is salient in the special sense and then perhaps actually noticed … depends upon the datum's relative intensity (p.214)
"there is naturally a certain relief of salience, a relief of noticeability, and a relief that can get my attention … we will still have the difference of vivacity, which is not to be confused with a materially relevant intensity"(p.215)
こことかまるで私のサリエンシーの総説だ。
私がこの話題にこだわっているのは、統合失調症におけるabberent salience説と自己の現象学的分析に関連するから。
すると、知覚的サリエンスから動機的(or情動的)サリエンスの形成が自己の統一性にも関わるということを神経現象学的に捉える、というのが意識の神経科学のプログラムとなりうる。全てがつながってきた!(<-jumping-to-conclusions bias)
「発生的現象学における時間と他者」 山口 一郎著 ここで時間的意識における受動的綜合とヴァレラのspecious presentへの言及がある。
神経現象学紀要、Evan ThompsonのLife and Mind参照したりとかメロポンの行動の構造参照したりとか色々手を広げすぎて、収拾がつかない。そもそもヘテロ現象学と神経現象学を正確に説明するだけで文字数が結構必要となる。
素人なりに、現象学的心理学で終わらせるのではなく、超越論的現象学の自然化としてザハヴィが引用しているメロポンの「超越論的哲学の再定義」とEvan Thompsonのsense makingと現象学的ドメインのオートポイエーシスまで書ききってしまうつもり。
sense-makingからphenomenological domainに繋げられないかなと思ってautopoiesis and cognitionを再読している。112ページ辺り。昔はさっぱりわからなかったけど、本当に「現象学的」ドメインだったのだな。
神経現象学紀要原稿書きあげた! 大幅に文字制限オーバーしているけど、構成を見なおせばなんとかなるところまで目処はついた。昼はFSL習得。神経科学大会のプレゼン作り。その他いろいろ。とにかくやりきった!寝る!
できた原稿を見なおして、このへんはもっと正確にしなきゃとかやりだしたらきりがないことに気づいた。でも今晩中に終わらす。
ラストの決め台詞はトンプソン2007のこれを使う:「有機体の持つオートポイエーシスとしての形式によって、ある種の(世界に対して規範的に関わりあうような)目的志向を持った自己性selfhoodを具現化される。神経活動の力学系的な形式によって時間性の持つ特別な構造が具現化される。…これらの知見は現象学の成果を自然現象に向けて使ったときにのみ得られるものだ。」
ここでの「形式」と「具現化embody」と「構造」とを正しくパラフレーズして「脳を含む力学系による内的なカテゴリー分け(=sense-making)によってそれが実現する」みたいなふうに書きたいのだがなんだかピシっと締まらん。こいつがキマれば細部があれでも完成した感じはするのだけれど。
原稿送付した!
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- / 投稿日: 2015年05月14日
- / カテゴリー: [オートポイエーシスと神経現象学] [ギャラガー&ザハヴィ「現象学的な心」]
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2015年05月03日
■ サリエンシーマップと視線計測の日本語総説を(昨年)ふたつ書きました
昨年はサリエンシー・マップと視線計測についての日本語総説を二つ書いた。
サリエンシー·マップの視覚探索解析への応用 日本神経回路学会誌 Vol. 21 (2014) No. 1 p. 3-12 http://doi.org/10.3902/jnns.21.3
視覚顕著性(視覚サリエンシー)の神経ネットワーク 神経心理学:30(4), 268-276, 2014
そのときのメモ書きをまとめてみた。
「 神経心理学雑誌」の日本語総説の終わりが見えてきた!
「サリエンシーの神経ネットワーク」ということで書いているのだけれど、神経回路学会誌に書いた方は計算論寄りだったので、今回は神経生理の知見とか脳部位の方に重きをおいてる。
[特徴の分析]-[特徴マップ(強度ではなく空間コントラスト)]-[サリエンシーマップ (特徴と出力に依存しない)]-[priority map (WTA後、TDとの統合、運動のゴールそのものではない)]-行動、という図式を書いて、それに脳部位を当てはめるってそんな簡単に当てはまらん。
V1は方位の特徴分析のレベルであって、特徴マップではない、輝度コントラストをコードしていて、輝度コントラストのサリエンシーは持ってない、V4,LIPは特徴マップ~サリエンシーマップのレベルだが、サリエンシーモデルで想定しているようなfeature invarianceがあるわけではない。
FEFとSGIはpriority mapのレベル。どちらとも運動との解離は示されている。SGSはmotion saliencyは持ってるので特徴マップであるとは言える。feature invarianceがあるとはいえないが、視覚と聴覚の統合という意味でのinvarianceはあるかも。結論として言うと、純粋にボトムアップでかつ特徴に依存しないようなサリエンシーマップ、というものは多分脳の中にはない。
特徴マップとpriority mapは脳の中にはあって、その中間には両者が混ざっているものがある。とだいたいこんな方向で。
「この解説では視覚のサリエンシーについて扱う」と書いた途端に「(他の知覚モダリティーではなくて)視覚の」と付け足したくなるのだけれども、これをやっているとキリがない。親切なようでくどい。でも読み飛ばされても困る。「言葉で世界の意味を切り分ける」ということの重さと距離感を感じる。
つまり元の文章は「(ほかでもない)この解説(原著論文ではない)では(他の知覚モダリティーも大事だけど)視覚のサリエンシー(と関連する概念を比較しながら概念を明確化して定義する)について扱う(詳述と言える重さではない)」くらいの万感の思いが込められている。
でもまさにサリエンシーの問題であって、「視覚のサリエンシー」と言われたら「サリエンシー」という言葉のほうが耳慣れないからサリエンシーが高い。よって側方抑制が効くので「視覚の」の部分のサリエンシーは低くなる。こうして「サリエンシー」という言葉しか伝わらない。
これが「一文にはひとつのメッセージだけ」という教えの根拠といえるかもしれない。さらに言うならこのような意味での側方抑制は複数の文の間でも効くので、パラグラフの最初の部分にトピックセンテンスを持って来いというのは、パラグラフの最初のサリエンシーが高いからだ。
ついでに記憶の系列位置効果も。(<-サリエンシーという概念の濫用)
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- / 投稿日: 2015年05月03日
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