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■ 「神経現象学と当事者研究」いくつか補足コメント
科学基礎論学会 秋の研究例会 ワークショップ 「神経現象学と当事者研究」の件、いくつか補足コメントを。
議論の方はいきなり郡司さんから、現象学は力学系で表現できるけど、現れたり消えたりするものは説明できないのではないか、という質問があって、自分としては力学系で表現したものは実のところ現象学ではないと思っていたからちょっとびっくりしてうまく答えられなかった。
熊谷さんはinsulaのサリエンスネットワークでのpredictive codingおよび自由エネルギー説から自伝的記憶の構造の話まで広げたうえで当事者研究的なやわらかい言葉(「ぐるぐるモード」とか)で話をしていてすごいと思った。二人称的アプローチが板に付いているというか。
石原さんが言っていたフッサール現象学をもっと使いよくするという話を聞いて、神経現象学と当事者研究との関係がだいぶ明確になってきた。当事者研究においてはフッサール現象学のうち、エポケーや還元といった技法をもっと使いよくしていけばよいのだろうし、熊谷さんによればじっさいにエポケーや還元に近い概念として、生の言葉で語るとか価値判断はしないとかそういうノウハウが蓄積しているようだ。
いっぽうで意識の研究方法としての神経現象学の場合にはそこでの現象学は自然化を拒むような現象学であり、意識は世界の一部ではないのだから、てんかんの神経現象学で図示したような現象的な状態空間みたいな視覚化を拒むだろう。この意味においてこれまでに神経現象学として厳密に超越論的現象学(といっても理解しているわけではないが、本質的に反自然主義であるもの)を適用できたものはないと思う。
メロポンが言った「完璧な還元は不可能」ってのがこのことを指すのかどうかは分からないが。
あと、石原さん、浦野さんには現象学と神経生物学が相互に「拘束」しあうというときの拘束ってなんだろう?とか力学系が関わる意味とか、まさに昨晩あたりにツイートしたことを質問された。
Thompson (の書評を書いたZahaviのまとめ)によれば、けっきょく拘束というのはどういうことかというと、たとえば現象学的知見によってこれまで一つだと思われていた現象が複数の要素と構造に分かれると分かったとしたら、それに基づいて神経生物学的検討を再び行うための根拠となる。逆も真なりで神経生物学的知見は現象学的な再検討を要求しうる。この意味においては現象学が自然科学による知見をそのまま取り入れているわけではないのだから、自然化の問題を違反しているということはないだろう。
それからあと力学系の方の話だけど、って私が力学系語れる技量無いんだけどそれでも語るならば、そもそもNCC問題のうちcontrastive methodであることの問題は、状態Aと状態Bとを区別する脳活動Cと脳活動Dを見つけたというときにはA-C、B-Dという対応付けがどうなされるかということは外側からしか決めることが出来なくなってしまうためにmind-body problemもしくはexplanatory gapが生まれてしまうのであった。
そこで力学系では自分が行為によって内的に区別をし、カテゴリーを作り、意味を作成する。だから対応付け問題は起こらないし、そのカテゴリーは内部からのものであって第三者のものではない。これがenaction = 「行為による産出」の意味であって、Varelaがオートポイエーシスのときから一貫して持っている視点だった。
だからEvan Thompsonとかはmind-body problemではなくてbody-body problemだ、という表現をしている。
元々のVarelaの神経現象学1996では力学系はあくまで神経生物学の中で創発を取り扱うために導入されていた節がある。しかし今日の話で強調したように、現象側も本質的に力学系的であると思う。それは現象が時間的意識であるという現象学の帰結そのものからサポートされる。
ただし、先ほども書いたように、てんかんの神経現象学で図示した現象的な状態空間みたいなのは、現象を世界の中に延長を持って存在するように誘導してしまうので誤解を生むだけだと思うし、あそこで描かれたものは現象学ではないと思う。現象学的心理学というか。
現象に力学的側面があるのはたしかだけれども、それはある種の抽象化された力学系でしかない。だから、神経現象学で神経生物学と現象学とを力学系が結ぶというときは、神経生物学と現象学の両方に力学系的な考えが必要なのだというふうに神経現象学自体の考えも変化してきていると思う。
Isomorphicではなくてhomeomorphicであるほうが関係として強いのはたしかで、それはそれぞれのドメインである種の因果があるところまで抑えているわけだから。Varela 1999で「厳密に一致する」というときはこのレベルのことを指しているのではないだろうか。でもじゃあhomeomorphicで足りるのかっていうとよく分からない。
この点でもうひとつVarela 1996以降で導入された考えとして考慮すべきはdownward causationだろう。けっきょく現象はpersonalなレベルであって、神経生物学はsubpersonalなレベルにあるので、そもそもisomorphismといっても違ったオーダーのものを並べているというのがほんとうのところ。
upward causationでは個々のニューロンの活動がセルアセンブリを作り、現象を引き起こすわけだけど、downward causationでは、てんかんの発作の前兆が来たら香水のニオイをかぐことによって発作を抑えることが出来る、といった例が挙げられる。ここでニューロンレベル - セルアセンブリレベル - 現象レベル というふうに創発の空間のオーダーが大きくなって最終的にパーソナルなレベルとなったのが現象、みたいなバイオロジカルな創発の延長として捉える発想がある。(Thompson and Varela 2001とか) もちろんこれは自然の外にある意識という発想とは相容れないけど。
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- / 投稿日: 2013年11月07日
- / カテゴリー: [オートポイエーシスと神経現象学] [視覚的意識 (visual awareness)]
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