« 次回の駒場の大学院集中講義 90min * 5 「意識の神経科学」の構想を練る | 最新のページに戻る | 赤ちゃんであるとはどのようなかんじか? »

■ 「外側である」ってどんなかんじかな?

okazaki.png

いつも使ってる絵だけど、盲視、というか同名半盲では、見えない右側の部分は暗黒(下)なのではなくて、端的に視野が狭くなっている(上)。自分の視野のなかで指先を動かして、視野の外に追いやってみてほしい。そこは暗黒ではなくて、端的に何もない、無であるということが分かるだろう。

視野の外がけっして「暗黒」ではなくて端的に「無」であるのと同様に、生の外は天国でもなければ地獄でもなって、端的に「無」だろう。その底のない無のなんにもなさを徹底的に思いを至らせるのもよい。そこに「なにかある感じ」を抱くのも生き物の特性だろうが、それはillusoryだろう。

okazaki_bk.png

視界の外に広がり(面積)はない。右の視界の切れたところから始まる無は左の視界の切れたところまで繋がっているとしても、その無の広がりを「経験」することは出来ない。360度から視野を差し引いて、みたいなのは推測であり、経験ではない。

広がりもなければ奥行きもない。つまり視野の外の無は「視覚的空間」ではない。視野の右端と左端とは無によって繋がっていない。これは当たり前のことではない。色の空間では、単一スペクトル光の青と赤とは視野の右端と左端のようなものだが、色では、紫を介して空間は閉じるように繋がっている。

これは何でかというと、色が三つの錐体を通して3次元空間を作っているのに、色環という二次元平面を考えているから。視野の空間は三次元を照らすサーチライトとしての円錐という、不完全な構造を持っている。

視覚ではふつう「無」は周りで埋められてしまう。それは盲点しかり、saccadic suppressionしかりで、我々の視野の「中」に穴が開くことは決してない。しかし我々の視野の「外」の無に対する対処法はどうやら違うらしい。それは埋められず、端的にないまま放っておかれる。

デネットは視野の中の穴は「埋められている」のではなくて、端的に放っておかれているのだというのだけれども、それは視野の中でも外でも同じルールに従っているという意味では納得いくかんじはある。視野の外が真っ黒にならないのと同様、盲点の中身はけっして真っ暗にはならない。

コメントする (1)
# kohske

不可視光とか、非可聴域音とか、なんかいろんなものはもないままほっとかれますね。
立場を換えて、これをセンシング出来る奴らにとっては、ヒトはそこに何を感じてるのか、って問えるんだろうけど、その問は明らかにナンセンスだろう、とか、イーグルマンが意識は傍観者〜で書いてました。その通りと思います。

視野外の場合だけ決定的に違うのが、視野外に何かあることを我々が明らかに知っている、ということですかね。これは不思議なことです。
視野の縁を我々が自覚できる、という在り方も有りなのかと思うんですが、そうじゃない方が生きて行く上で何かと好都合なのかな。


お勧めエントリ


月別過去ログ