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■ ベイズ脳とsensorimotor contingency hypothesisとワイシャツと私
こういうメモをたくさん作ってるんだけど、死蔵せずに表に出しておきます。まったく威勢だけはいいんで、ま、ある種のマニフェストですな。
--------------------------[フィルタとしての視覚]
特徴抽出をするdetectorを作る、というのがスタート地点だった。
これ自体は一見問題ないように思える。
しかし我々の感覚と認知と行動はクローズドループだ。
# 行動によって周りの環境が変わり、
# 感覚入力も変わる、これがクローズドループ。
クローズドループである影響を取り扱うために、
感覚入力以外のすべてが「トップダウンの要素」
に押し込められてしまう。
# 「受動的」な要素の抽出と
# top-downによるその修飾
よって、その修飾を議論することは出来ても、それより先に行けない。
(top-downはなにを「表象」しているか?)
これが視覚野での応答とそのmodulation、
前頭葉から来る「トップダウン信号」というパラダイムが
早晩スタックするだろうとわたしが思っている理由だ。
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[ベイジアンな視覚]
クローズドループでのコントロールを扱うためには、
「なにかを表象している」という言い方ではなくて、
「外部の環境 - 内部状態」
をともに併せたダイナミクスの記述
をするのがより自然なアプローチだ。
# その意味では[ベイジアンな視覚]は
# [フィルタとしての視覚]が記述の複雑さを押さえるために
# 受動的側面から開始したのに対する
# 自然な拡張である、という言い方ができる。
内部状態とは
ニューロンの状態の記述であって、
「心理的表象」を必ずしも要請しない。
ニューロンの状態をすべて記述できれば
それとは独立した「心理的表象」がないのであれば、
「外部の環境 - 内部状態」
は「心理的表象」を含める必要がなくなる。
というわけで、
sensorimotor contingency hypothesis
は表象批判として始まり、それの徹底によって
「心的表象」をそもそも不要とするシステムになる。
(ここで前回のShadlenの話を思い出す。)
ただ、ここでの機能主義の徹底は
「クオリア、意識」どころか「心的表象」すら排除してしまうことになるので、
これはおかしい。
たとえば「言語活動」はどうなるか?
sensorimotor contingency hypothesis
はこれを排除するような形で成り立っているのではないか?
よって、「意識のsensorimotor contingency hypothesis」と言うときには、
以上では収まりきらないような、
極端行動主義ではない状況への当てはめが必要になる。
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ちなみに「カルマンフィルタ」としての視覚と言うときの「フィルタ」は
視覚刺激から表象へのフィルタではなくて、
視覚刺激から行動へのフィルタと言うべき。
もはや「フィルタ」という言葉を使う必要はなくなっているとは思うのだけれど。
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意識、awarenessの概念の安易な使用を防ぐために、
単なる表象、codingの問題のときにはそれを分けて考えるべきだ。
その意味でいちばんやっておくべき仕事は
「neural correlate of consciousness (NCC)」の
"neural correlate"っていったいなによ、ってこと。
これはconsciousnessの問題ではなくて、
表象とencoding/decodingの問題なんだと思う。
こっから片付けていこう。
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こういうことを、神経生理学者が言って、
それを神経生理学の実験として落とし込むところこそがチャレンジ。
「言うだけなら誰でもできるさ」とまでは言わないけど、
こっから先にこそ意味があると思ってるし、
それがこっから10年先の俺の仕事だと思ってんの。
(<-宣言しちゃったYO!)
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- / 投稿日: 2009年05月22日
- / カテゴリー: [視覚的意識 (visual awareness)]
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