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■ 鈴木貴之さんの本を読んでいろいろ考えた(続き)

鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読みながら考えたことについて。前回の記事はこちら:鈴木貴之さんの「ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう」を読んだ!

ここからは鈴木さんの本の話というよりも自分で考えていることの話なので別枠で書いておくけれども、わたしが田口さんの本(「現象学という思考」)を読んで最近考えていること(前回のブログ記事)も、SMC(行動的連関、カエルの意識)から表象(反省的思考のモード)に移行するにはどうすればよいか、という問題について考えているといえるだろう。(その意味では、鈴木さんが書いているのとは逆向きから、記述的表象と司令的表象の関係を捉えようとしているというふうに言えるのかもしれない。)

ただし、そこで付加されるべきと私が考えているのは、多階の表象理論(Higher order thought)で想定しているような「知覚していることに対するメタ認知を持つということ」ではなくて、「そうであったかもしれない可能性のアンサンブルという反実仮想を含めたうえでの(Judea Pearl的な)因果推論に基づいた確率密度分布」なんではないかということだ。

つまり、表象では確率密度分布を作るだけでは足りなくて、Pearlのdo演算子みたいに「介入」をするということが本質的で、そのために単回の行動では終わらないような、行動と介入が必要なんではないかと思うわけ。

だから、nhpでも過去の履歴を使って行動選択を確率的に変動させることができるじゃないか、といってもそれでは足りないと思っている。あれは行動またはターゲットの価値をその都度変化させているだけであって、「いま・ここ」だけを生きているのであって、その意味での確率密度分布があっても「反省的行動のモード」とはいえない。

強化学習でも同じだし、サリエンシーでも同じで、履歴から作られた誤差信号をその都度使っているのは「いま・ここ」だけを生きているということだ。その意味での「予測信号」というのも履歴によってアップデートされているだけで、「いま・ここ」だけを生きている。もし「予測信号」がベイズ脳で使われるような「モデル」と言えるようなものであるためには「いま・ここ」から離れないといけない。それには記憶があるだけでも足りない。記憶情報を使ったとしても「いま・ここ」を調整するために使っているならばそれは「反省的行動のモード」にはならないだろう。

「ただ、いま・ここを生きること」、それは人間にとってはとても難しいことなのだけど、物理主義的に説明しようとするとそこに原理的難しさはない。だから「反実仮想」という概念を持ち出してきた。

ベイズ脳と確率密度分布だけでは「反省的行動のモード」は作れない。そしてたぶん「反省的行動のモード」がないと、人が持っているようなfull-fledgeな意識経験は出来ないのではないか。

そういうわけで、大泉さんのIITのintrinsic informationでのcausalityってのがどこまで言えているのか理解しなくてはと思っている。ミクロレベル(サブパーソナルレベル)での因果推論とマクロレベル(パーソナルレベル)での因果推論は分けなくてはいけないのは確かなのだけど、連鎖してたら美しい。

この話は専修大の澤さんの一連の仕事での「rodentの因果推論は本当に因果推論か?」って問題はパーソナルレベルでの因果推論を探しながら、そこに神経生理を加えたら、なんらかサブパーソナルレベルの因果推論を明らかにする手がかりにならないだろうか、とかそんなことを考えている。

そういう興味で調べてみたら、"An Objective Counterfactual Theory of Information"というのを見つけた。ドレツキの情報理論も含めてこのあたりを理解したい。

いますごくへんな、ありもしないものについて言語化しようとしているので明晰になっていないことはかんべんしてほしい。前回の鈴木さんの本に対するコメント部分は明晰にしてあるはず。そこは混ぜてない。


あと、この本を読みながらカエルの意識について考えてたら、私がいつもやってる「盲視でのなにかあるかんじとカエルの意識」の話(ブログ記事参照:盲視でおこる「なにかあるかんじ」)についてはもっと違う言い方をすべきだなと思った。

これまで講演とかで何度か話ししているように、盲視には「何かある感じ」というのがあって、そのような意識経験は上丘経由での限られた情報によって形成されたSMCによる意識経験であり、それはもしかしたらカエルの意識経験と同じものかもよ、っていうspeculationだった。

でももっと慎重に行くならば、あくまでも使っている情報はカエルで行われているのと似たようなものを、人間が経験しているわけで、意識のcontentはカエルと同等だけど、それを経験しているのはあくまでもヒトであって、じゃあカエルも同様に「なにかあるかんじ」みたいな意識経験をしているとは必ずしも限らない。いや、前からこの可能性はわかってはいたけれども、カエルにもある種の意識経験があるであろうことを強調するのにそういう話にしていたわけだった。

でもここ最近はそういった「なにかあるかんじ」とfull-fledgeなクオリア経験とが程度の差ではなくってなんらか本質的な差がある可能性を探すことのほうが気になってきた。鈴木さんの本で言えば、ミリカンのオシツオサレツ表象と記述的表象と司令的表象とが分かれているものとの間に差を置いていないということがほんとうに良いのかと気になってきた。

(ちなみにこの二つが分かれるということは「待て」ができるということ、そして遅延反応ができるということだから、Kochの意識を持つ動物に必要な条件と対応している。)


あと、鈴木さんご本人からこの本を送ってもらったので、盲視に関する記述(p.162-164)に関して返答しておきたい。この部分での鈴木さんは盲視でもじつは「何かある感じ」という体験があるのだということについて書いておられる。そしてそのうえで、盲視での「何かある感じ」は「本来的表象ではない」と結論づけている。はたしてこれは妥当か。

これは私が南山大学でトークさせてもらった時の話(盲視でおこる「なにかあるかんじ」)そしてそれに対する鈴木さんの応答(南山大の鈴木貴之さんからコメントいただきました)を踏まえた上で書いてくださっている。

鈴木さんの本を読んだうえであらためて鈴木さんの応答を読んでみると、なるほど意識経験にどう行動を繋げるように世界を分節するか、という考え方が入っていることが分かる:「脳活動と運動出力の関係を重視するモデルがあってもよいのではないか、そして、実はそれが一番説得力があるのではないか、と私は考えています。」

あと、このときにtype IIの盲視(なにかあるかんじの意識経験がある人)とtype Iの盲視(ない人)の二通りをどう整合性を持って説明するかという問題意識も持っておられて、けっきょく本の方ではtype Iの人が意識経験を見逃しているか、否認しているのではないか、という処理をしてる。

これには大枠で賛成で、けっきょくtype Iの人というのはWeiskrantzの最初の患者のDBさんくらいで、このかたはV1切除前に偏頭痛発作を繰り返すなどその視野部分の経験が他の盲視患者と異なっている。そのうえで、トレーニングをしてゆくとみなtype II的な盲視になっていくらしいことを考えると、盲視での限られたSMCの成立が「なにかあるかんじ」の成立と相関しているというほうが本来的で、type Iはなんらか例外的なものと考えるほうがよいだろう。

Type II盲視でのこのような状況をミニマルな表象主義の言葉で表現するのならば、盲視での「なにかあるかんじ」とはある限られた情報処理にもとづいた本来的表象があり、それゆえに明確ではないものの、空間と位置の概念だけはあるような意識経験が作れている、と言うほうが正確なのではないだろうか? 盲視ではサリエンシーの情報は利用できるので、どこかになにかがある、という情報にはアクセスできるけれども、意識のcontent(色、形、動きの向き)にはアクセス出来ない。だから正常視覚での十全な本来的表象が盲視にはない、という言い方は正しいと思うけど、盲視の能力の応じた本来的表象はある、という言い方のほうがミニマルな表象主義の枠組みには整合的なのではないかと思った。

以上がこの件に関する私からのコメントであります。


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