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1999年09月16日

こびとさん/内部からの視点

現在私が従事している研究は、視覚認知と長期記憶とを結ぶ回路について明らかにしようというものです。基礎となるのは視覚認知ですが、ここには難問が控えていると思います。単一神経活動記録によるアプローチでは、自己の外側にある環境の視覚情報に対して脳の神経細胞が何らかの特徴(動き、形、色など)に対して選択的に反応している様子を分析するのが主な方法です。
しかしこのような神経細胞の反応を脳はどうやって利用しているのかを考えないと、どこかにそのような脳の活動を全て見ている「こびとさん」がいることを暗に想定していることになってしまいます。これは神経細胞の活動を環境と自己との関係から離れた観察者の立場から記述しているからで、「こびとさん」とはつまり、この観察者の立場を脳に投影したものです。「こびとさん」を想定せずにすむように脳の働きを捉えるにはどうすればよいかを考えると、観察者の立場からではなく、神経システムの内部からの視点で神経活動を捉えることがたぶん必要なはずです。
どうすればよいかの答えを持っているわけではありませんが、神経ネットワークの発火パターンの時空間的構造を明らかにしてゆく過程でそのような記述が必要とされるのではないかとか、同じ絵を何度見ても個々の神経細胞の発火状態にはばらつきがあるがそれを同じものとして捉える神経システムの論理とはどういうものかとか、神経の発火頻度のような絶対値が情報を持つのではなくてすべてはコンテクストで決まるような相対性を持っているはずだとか、断片的に考えているところです。
オートポイエーシス的考えを援用して神経システムの視点でシステムが何をしているか語るならば、神経システムは神経細胞間でシナプスを介して活動電位を受け渡しし、システム全体としてスパイク列が行き来している状態を維持していて、これが認知的自己同一性の根拠となるという話になります。しかしこれだと神経ネットワークはスパイク列の塊として閉じた存在となり、感覚刺激によって擾乱を受けるという図式となり、環境との関係をうまく取り込めない独我論的な感じになってしまいます。議論すべきクラスを間違えているのかもしれません。出発点は「脳は誰から観察されなくても、自身のシステムの中にひとつの世界を形成している」なのですが。
こういう話から、知覚されたリンゴと想起されたリンゴとの感じが違うのはなぜか、といったような脳の働きの主観的な側面の方へにたどり着けないかとかぼんやり考えています。今の研究の遠い延長でそこにつながれば面白いと思っています。偉そうに一席ぶってしまいましたが、こういうことを議論したいと思っていたので書いてみました。


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