[月別過去ログ] 2011年06月

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2011年06月05日

盲視でtextureは弁別できるだろうか?

盲視で肌理(texture)は弁別できるだろうか? 以前これについて考えたときはあまりに直球的にグラント狙いすぎるなとそんなに追求していなかったのだけれども、今考えるにそんなに悪くない方向だと思ってる。というのも、盲視ではなんだかんだとほとんどのことができてしまうので、なにができないかを見つけることが大事で、texture弁別というのはその候補となる。

盲視はサリエンシーに基づけば色弁別だってできてしまう。ではなにができないかというと、decisionのためにevidenceをaccumulateしたり、刺激があるかないかのメタ認知だったりといった、ただのサプライズ検知ではなくて、なんらか刺激の(歴史的な)統計的構造が必要なものらしいという辺りを付けている。

そうするとNature 2007で出てきたみたいなtextureの空間的な統計的構造の弁別は盲視ではできないんではないだろうかと予想する。(これをきっちり示そうとするのは難しいことだ。たんにhigher-orderな視覚の属性、たとえばsecondary motionとかそういったものが全般的に難しいのとどう違いがあるのかを示さないと。)

そして、高次の視覚属性ではなくて、時空間の統計的構造を必要とするような情報処理こそが「視覚意識」にいちばん近いものなんではないだろうか。これが「意識の内部モデル説」に繋がる。

つまり、なんらかの形でposteriorを統計分布として持っておく必要があって、それはボトムアップのサプライズ検知ではなくて、トップダウンの内部モデルが必要になるというそういうイメージ。

とはいえふつうはそんな風には考えない。統計分布を持つということもけっきょくは空間での刺激の分布をその統計構造のフィルタでconvolutionすればいいだけだから。じっさい、J Vision 2010の論文ではそんなかんじのモデルを提出している。

だから私は今たぶんずいぶんとヘンなことを言っている。もっとヘンなことを言うと、質感処理をベイズ的に扱うことを考えたらなんか出てこないかなと思う。いま「質感処理をベイズ的に扱う」とかわかったような口をきいたけど、いったいそれで何を推定しようというのか、自分をはげしく問い詰めたい。

平均輝度を推定したとしてposteriorである分布が出てくるのだから、統計分布を推定しようとしてposteriorが出てくるとしたら、それは一次元じゃなくて、なんか情報幾何にでてくるような多様体みたいなものを考える? 自分で言っててワケわからん。

あとで自分で見てわかるように書き直すと、情報幾何みたいに多様体上の一点が輝度の分布を表していて、多様体上でそれらの分布がKL divergenceみたいな近接度で分布していて、でもってさらにそれの確率密度分布が雲みたいに広がっていて、ベイズ推定されるごとにだんだんその雲の広がりが収まってゆくとか。そろそろ「情報理論の基礎」村田昇著とかを読んでみよう。問題意識ができてきたので今ならもうすこし理解できるかも。


「モデル」とか言うけどそれは高次ではtemplateでしかなくて、filterでしかない。だからこそほとんどの場合には予測誤差はなくてsurpriseは起こらない。でも見ているものは階層構造での情報処理だから、なんかこれはベイトソン的に言えばタイプエラーを起こしているように気がしていて、ある階層からはフィルターにしか見えなくても別の階層からは来歴の蓄積したモデルみたいに違った風に見えたりしないかなとか考えている。

ベイトソン関連で前にも書いたように、フィードバックは単回のイベントに応じた学習というか応答であるのに対して、フィードフォワードは複数回のイベントの統計構造に基づいた行動であると言える。空間や時間をたたみ込んでしまうだけですむならそれはただのフィルターで話がすんでしまう。複数回のイベントは時間的には繋がっていないからたたみ込んで足してしまうわけにはいかない。イベントの検出を行ったうえでそれを登録する必要がある。わたしが意識と強く関連しているかもしれないと思うのは、後者のような単回では済まないもののことをイメージしている。

このへんまで突き詰めてみると、textureではそのような意味での統計構造を考える必要はないのかもしれない。また今度考えてみることにしよう。


だんだん自分が何をしたいのかわかってきたのだけれど、つまり、おばあさん細胞的な選択性(=フィルタ)のアイデアでは「いま、ここ」に反応するautomata的な捉え方から抜け出すことができないのではないか。「いま、ここ」を越えるようななにかを導入する必要があるのではないか、と言いたいのだな。Noeのような直接知覚論の人はそのようなものはすでに環境にあると考えるけど、それならそれで、どうやってそれをpick-upするのかと考えないと先に行けるアテがない。

ベイズ的脳観ではそのようなモデルが埋め込まれているのではないかと思うのだけれども、実際にそれが回るときにはカルマンフィルタのようにまさにフィルタとして働く。経験はフィルタの特性として埋め込まれている。そしてもちろん脳はほとんど常にただのフィルタなのだ。(自律的なリズムで揺れながら外界からの摂動によってその安定状態を移動させたりするというリアリスティックな像を保持したうえでも。)

だから、process(内部モデル)とrepresentation(予測信号と予測誤差)とを行ったり来たりしていて、それじたいはプログラミング言語が[evalとapply]によって[procedureとexpression]を行ったり来たりするのと同じことで、その基質自体は何も変わらず、個々のニューロンにとってはただの神経発火のシグナルのやりとりでしかない。ただし、プログラミング言語を使う際にはいまどっちにいるのかわかっていなければいけないように、内部モデルを学習し、情報を読み出す際にはこのクラスを混同しないように読まなければならないはずだ。

うーむ、僕は正しい方向に間違っているだろうか? 掘り進めてこれは違うとどんどん陣地を広げていくような。一年ぐらいこういうことだけ考えて突き詰めてゆく時間が取りたいとか考えたりする。


(ついったに書いたことを元にして編集して作成した)


2011年06月02日

机に堆積した荷物を片付ける時間

夜に見る花は色を失っていて、なんか現世っぽくないところがよい。ちなみになんの花なのかは知らない。

世界の秘密。河原で見つけた石を礫岩かと思って喜んだら、たんなるコンクリートに混じった石だった。知識は俺の目を曇らせ、直感がすっかり働かなくなっている。明るいところから室内に入ると、まぶたの裏に残光が残り、それは数分かけて広がり、そして消えてゆく。

小さい荷物とともに、牧場を一人歩き、糞を踏まないように気をつけたり、空気を胸いっぱい吸ったり、/ 点滴とバイタルモニタの部屋、室温は正しく保たれて、空調の音が低く聞こえていて、/ 激しい雨が古い家の木製の雨戸を叩き、壊れた蛍光灯を片付ける

さび付いた看板を爪でひっかき (こうして一心に話をそらそうとしているのだ)、電柱に括りつけられた看板の針金をほどき (ずっと目をそらし続けるわけにもいかないのに)、あらゆるものに形を変え、本質を失い続けて (答えはここにはないのだから)、繰り言を続ける

オセロなんだけど、表が緑で、裏が赤で、黄色い碁盤の上で遠くに打った手によって端から端までひっくり返されてゆく。夜景に写る様々なネオンサインやら不必要な灯りたち。置きっぱなしになっていたコーヒーカップがずっと真っ黒で、ずっと底が知れなくて、いろんな角度から見直しては存在を確認する。

いつか俺も、あれだというなら、そのときは浄化されてあれしたい。すべての罪を浄化してあれするか、逆にすべての罪を抱いてあれしたい。「贖罪」のとき、「断罪」のとき。

海辺のあずまやは砂に埋もれていて、誰かが捨てたとおぼしき菓子だかのビニール袋が吹きだまっていて、わたしはそれが餓死した草食動物の肋骨のように思えたのだが、ともあれ長居をするのはやめて、逆風の中また自転車を漕ぎはじめた。尻の痺れはもうとれていて、太陽は傾きだしていた。

その日が来ないことをずっと願っていた。だがすべては回帰し、再びわたしは修羅場に飛び込み、統一のとれた世界から「荒野のおおかみ」の世界へと不本意ながら進む。

150年、ってのが人生2回分なんだと考えると、そして白黒の写真が彩色し直されて、屋根の低い町並みや、護岸工事の跡や、クリアランスされたスラム街や、不自然なくらいにきれいに整備された公園や、宅地造成に囲まれた墓地や、廃業した書店や、トタン屋根や錆びた看板が、人々の苦悩を残したまま、すべては重なり合い、すべては片付けられ、すべては雨ざらしのまま、主人を失い、故郷を失う。すべてはコンクリートで固められ、すべては箒で掃き清められ、すべてはペンキで塗り直されて、神聖だったものは隠されている。そうだ、隠されたまま、証人も失われ、その由来を失い、埃をかぶって新生する。

「人間失格」で「焼酎特有のピリピリとした酔い」だったかそんな一節があったのを思い出す。そういうのはいやだ、もう二度とそんなものに遭遇したくない。ポロリとこぼれた本音なんか聞きたくないし、こぼしたくはない。俺は思い出す、まさに血の気が引いて、ぶっ倒れたのだ、どうやって起き上がったのかも憶えていないのだけれど、それだけ恐ろしい経験だったんだ。

夕暮れの空き地を利用した駐車場で、草むらをちびいぬが駆け回っていて、飼い主が「マカローン、そっち行っちゃダメ!」と言っているのを聞いた私は自転車を停めて、その声にモーションブラーをかけたり、リバースゲートをかけたりしながら頭の中で反芻してみる。

いつか、また、会う日まで。手を振り、夕焼けを背に、しょぼくれた格好で。空から俯瞰すれば、それは餌を探す蟻の群れのように、無目的と目的とが混ざり合って。地面に耳を当ててみれば、「すべて」が足し算されて、聞こえてくる。

さあさあ行こう、次の季節へ。 / 机に堆積した荷物を片付ける時間とともに。


(ついったに書いたことを元にして編集して作成した)


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  • 駒場講義2013 「意識の科学的研究 - 盲視を起点に」20130626
  • 駒場講義2012レジメ 意識と注意の脳内メカニズム(1) 注意 20121010 (2) 意識 20121011
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  • 半側空間無視と同名半盲とは区別できるか?(1) 20080220 (2) 半側空間無視の原因部位は? 20080221
  • MarrのVisionの最初と最後だけを読む 20071213

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