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■ 盲視でおこる「なにかあるかんじ」
南山大学哲学セミナーというので話をしてきました。心の哲学の鈴木貴之さんのラボのサイトでの報告。話の内容はそれなりに哲学者向けにチューンしてみたんですがうまくいったかどうか。
トークの内容だけど、神経生理学と信号検出理論を除外して、そのうえでGoodale & Milnerの話とかを入れて脳の回路についての入門をしっかり話して、Noe & Hurleyの話やらスーパー盲視の話とかを入れて哲学的なところに繋げてみました。
それでは、トークの最後の考察の部分のスライドを再録してみましょう。ちょっとしたオンライン講義録です。(追記1/28: 元のエントリでは前提をはしょりすぎていたので「なにかあるかんじ」についての説明を加えておきました。)
[盲視でおこる意識経験]
第一次視覚野を損傷した患者で見られることのある「盲視」では、脳損傷によってできた視野欠損(端的にそこは見えてない)の部分に視覚刺激があるときに、それを選択肢を与えられて選ぶような条件だと刺激の位置を当てることができたりする。
でもよくよく調べてみると、盲視を持っている人でも視覚刺激が欠損視野に提示されたときに、「なにかがあるかんじ」を経験する場合があるという。患者本人に説明してもらうかぎり、それは位置情報や形の情報を持っているわけではなくて、「視覚」経験とは言えないようなものらしい。とはいえ、これはあきらかに意識経験だ。Zekiの論文(1998)から引用する。
His experience resembles that of a normal person when, with the eyes shut, he looks out of the window and moves his hand in front of his eyes. It was like a ‘shadow’.(1993年。のちに彼はこの表現はあくまで健常者にも理解できるような言葉を使っての表現であり、本当にそういうものが「見えて」いるわけではない、と説明している)
He has a ‘feeling’ of something happening in his blind field and, given the right conditions, that he is absolutely sure of the occurrence.(1994年)
He described his experience as that of ‘a black shadow moving on a black background’, adding that ‘shadow is the nearest I can get to putting it into words so that people can understand’.(1996年)
なんというか、言葉を絶してますよね。伝えようのないものを伝えようと苦労する様子が忍ばれて、「意識の私秘性」なんてことを考えたくなる。脳損傷の話を聞くといろんな衝撃的な話が出てきて、我々が直感に基づいて議論するのがいかに危ういことか、なんて思わされる。
[ヒトの盲視はカエルの意識経験だろうか?]
さてさて、この「なにかがあるかんじ」とはいったい何だろう?
ちょっと回り道してみる。哲学者のトーマス・ネーゲルの論文で"what is it like to be a bat?"というのがある。つまり、われわれはコウモリの意識経験を科学者として第三者的に調べることはできる。また、それによってコウモリの意識経験を類推することもできるかもしれない。しかしそれはコウモリの意識経験をヒトとして追体験するような形としかなり得ない。しかし、コウモリがエコロケーションによって作る世界はヒトが主に視覚によって作り上げた世界とはまったく異なっているだろう。(ここが「コウモリ」を選んだポイントだ。) つまり、コウモリの意識経験をコウモリの意識経験として我々ヒトが理解するなんてできるの?って話になる。
いまの話を踏まえると、盲視という現象で独特なのは、もしかしたら上丘の活動で生成するようなカエルの意識経験をヒトが経験する、という特殊な状況が起こっているのかもしれないということだ。つまり、カエルは視蓋(=上丘)に虫検知器ニューロンというのがあって、動いているものに対しては虫だろうがなんだろうが活動する。カエルはこの活動に対応して、虫だろうがなんだろうが反応してそっち向いたりベロ伸ばしたりする。そうしたら、カエルの意識経験というのは「なにかがあるかんじ」みたいなかなりおおざっぱなものなんではないだろうか? (ところでこれは全くの偶然なんだけど、なんだか図を遠くから見るとカエルの顔のようだ。)
とはいえ、このような考え方(「上丘の活動で生成するカエルの意識経験をヒトが経験する」)はまさにデネットが指摘する「カルテジアン劇場の誤謬」という地雷をモロに踏んでいるようにも思える。それでは、ここで起こっていることについてもう少し考えてみることにしよう。
[Hurley and Noëの議論]
そこで役に立つのが、以前ブログ(20060503)で言及したHurley and Noëの論文("Neural Plasticity and Consciousness")で行われた議論だ。
つまりこういう問いがある:意識経験を決めるのは、脳の領野だろうか?それとも感覚入力の属性だろうか? Hurley and Noëにとっては意識経験が脳の中だけでは決まらないというための議論だ。そしてこれは実験的に検証可能な問いでもある。
左にあるのが幻肢の例だ。幻肢では腕からの入力を失うことによって、体性感覚野の腕領域は(たとえば)顔からの感覚入力を受けるような可塑的変化が起こる。幻肢では顔を触ると失ったはずの腕を触られたような感覚が生まれる。つまり、意識経験が脳部位によって決まっている例であると言える。
右にあるのが点字の例だ。全盲の人が点字によって字を読むとき、視覚野が活動することが明らかになっている。(生理研の定藤先生の仕事だ。) どういう経路でか、体性感覚の入力が視覚野に入力するような可塑的変化が起こっているらしい。ではこの視覚野の活動は視覚だろうか、触覚だろうか? 磁気刺激によってこの被験者の視覚野を活動させると触覚が生まれた。つまり、意識経験が感覚入力によって決まっている例であると言える。(=> Note 1)
さてさて、それではこの議論を盲視に援用してみよう。じつのところ、両方の方法で説明することが可能なのだが、どちらがもっともらしいだろうか? どうやったらそれを検証できるだろうか?
[説明1:脳活動が重要説]
図の左が健常者の視覚で、右が盲視で起こっていることを推定したもの。
視覚野の活動によって「ビビッドな赤=クオリア」(検索で引っかかるようにクオリア入れといた)のような意識経験が引き起こされる。一方で上丘の活動によっては「なにかがあるようなかんじ」という意識経験が引き起こされるのだけれども、それは微弱なもので、健常者では「ビビッドな赤」にoverrideされてしまうので気づくことはない。
しかし、盲視の患者では「ビビッドな赤」が脳損傷によって失われてしまうので、「なにかがあるようなかんじ」という意識経験がunmaskされてくる、という説明だ。(=> Note 2)
[説明2:感覚入力が重要説]
さっきの図と同じで、図の左が健常者の視覚で、右が盲視で起こっていることを推定したもの。
健常者では「ビビッドな赤」を経験するのだけれども、それは視覚入力として視覚野が処理している情報の幅広さを反映している。健常者では上丘は使われているとしてもsaliencyのようなかなり限局した情報しか扱うことができない。
一方で、盲視では機能回復に伴って処理できる情報のレパートリーが増える。つまり、形や色や顔といった、正常脳では処理されないであろう情報が処理されるようになる。とはいえ、その情報処理は正常のものよりはdegradeしている。盲視での「なにかあるかんじ」というのは、機能回復に伴って環境の操作可能性が拡大したことによって生成した、ある種の視覚意識ではないだろうか。
論調からおわかりのとおり、わたしは後者の方を支持したい。後者の方が機能回復をよりうまく取り込んだ議論ができるように思う。(=> Note 3)
さてではこの二つの違いをどうやって検証したらよいだろうか? そもそもこれは検証可能な問いだろうか? (=> Note 4) そんなこと考えながらいろいろ新しいネタ画策してます。というところでこの話終了。
Ustream (http://www.ustream.tv/channel/pooneil68)のほうは通信環境的にうまくいかなくて、断念しました。これはいつかリベンジしておきたい。
準備としては、Ustream Producerでデスクトップの配信をするようにしておいて、外部マイクでしゃべりを拾うようにしておく。こうすれば一円もかけずにライブ放映できる。このへんの試行錯誤の様子はtwitterのこのあたりにあります。たぶん、スライド見せるにはこのやり方がいちばん良いはず。
ただ、誤算だったのは会場ではイーモバもWiMaxも電波が弱くて、Ustream Producerがサーバに繋がらなかったこと。唯一ネットにつながっていたのはiPhoneの3G回線だったんで、じつはiPhoneで放映すればとりあえず音声だけでも流すことはできた。でもその準備はしてなかった。やっぱ経験積まないとね。一発ではなかなかうまくいかない。(<-これを全体の話のまとめにしたいらしい)
ともあれそのあとの飲み会も含めて、すごく楽しかった。(そのへんの様子はこちら:1/20および1/21) 参加した方にも楽しんでもらえてたらよいのだけれど。
Note 1: なお、empiricalに検証できるからにはempiricalにいろんなツッコミが可能だ。それはさておき、発表時に鈴木さんが指摘していたけど、この図式は入力から意識経験までしか考えていない、つまり、どう行動がなされ、どうやってそのような知覚経験がverifyされるか- 視覚的な遠隔地を含んだ空間把握なのか触覚的なperipersonal spaceでの空間把握なのかということは考慮されていない。ただし、そのようなことを考えることこそが身体を含んだ系で考えるということであり、ここではどちらかというと「脳だけで決まる説」を極端に図式的に捉えた上でその枠組みを批判する、という意図があるのだろう、というのがわたしの理解。
Note 2: 盲視患者でも、有名なGY氏による報告では、「なにかがあるようなかんじ」は実生活で経験することはなくて、実験室で非常に高輝度の視覚刺激が提示されるときしか経験されないらしい。「なにかがあるようなかんじ」が微弱なものである、ということは強調した方がよさそうだ。ちなみにこれは論文になってる。Consciousness and Cognitionに載ってる論文("Direct assessment of qualia in a blindsight participan")だけど、GY氏にFrank Jacksonの"epiphenomenal qualia"とかDennettの"Consciousness explained"とかStanford Encyclopedia of PhilosophyのQualiaの項目を読ませて(<-読ませたのかよ!)、氏のblind fieldでの経験が視覚のクオリアかどうか聞いたら「違う」ってのが答えだったそうな。これは哲学者にこそウケるネタということで紹介してみた。ちなみにStanford Encyclopedia of PhilosophyのQualiaの項目ってのはqualia-ML時代の私がML読書会をしたことがあって、いまでもブログのエントリとして残ってる:クオリアについての「心の哲学」
Note 3:とはいえ、後者の方がリアリスティックになるように議論してあるので、正直フェアではないのは確かだ。これは以前からの持論なのだけれど、ヒトを研究している人は内面を重視するので表象主義的方向に傾きやすい。動物を研究している人のほうがもっと環境との相互作用とか考える方に行くのではないかと思うのだけれど。いっぽうで、神経生理学をやっていると「neural correlate」という思想に強烈に染まるので表象主義的になるとも言える。行動分析やアフォーダンスや身体性的な考えが内面を問わずに話をしやすい動物研究など(<=「など」な。)で成功してきたのは偶然ではないので、その応用範囲だけ間違えなければいい、って話にもなる。
Note 4:「なにかがあるかんじ」についてあんまり額面通りとらえるのも正しくないかもしれない。たとえばの説明としてこんなのが考えられる。盲視が不思議なのは随意的な行動として能力が出る点なのだけれど(強制選択条件で正解する)、意識下で体の方はいくらでも情報を持っているし、反応もしている。たとえば視覚刺激が提示されたら、たとえそれが意識的には見えなかったとしても、瞳孔は収縮しているだろうし、vergenceとかも変わっているかもしれない。だったら訓練を積むことによってそのような体の変化を内的に(proprioceptiveに-内臓感覚みたいに)awareすることができるかもしれない。たしかにそれは視覚経験とは異なっているかもしれないけれども、それは意識下の体の変化を知覚したということであって、なんにも不思議なことではない。
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- / 投稿日: 2011年01月26日
- / カテゴリー: [視覚的意識 (visual awareness)]
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# kita-san
ご講演聴けなくて残念です。「ヒトを研究している人は内面を重視するので表象主義的方向に傾きやすい。動物を研究している人のほうがもっと環境との相互作用とか考える方に行くのではないかと思うのだけれど。」そうですね。二つの方向性は、単にアプローチの違いにとどまらず、そもそも意識経験の内実も違うという感じがします。言語的なレポートとの関係から規定できるような意識経験とそうでない意識経験との間に線を引きたい気がします。2009年のNIPS WorkshopでN.ブロックもそのあたりを気にしていたような気がします。たしかハクワンのトークと吉田さんのトークについてもちょっとそんな反応していたように記憶してます。
多分吉田さんのような科学者の線引きは、こういう日常的概念を使った哲学者が好む(というか哲学者が安心してやれる)線引きとはちがってくるでしょうね。そのため、心の哲学者は心の科学者との対話に尻込みするということもあるかもしれません。
それはともかく、もしアフォーダンス系のアプローチに動物の意識経験もヒトの意識経験も収めようとすると、こういう風になるのかなというお話が一つ。2010年9月の日本心理学会でアフォーダンスの河野哲也先生のオーガナイズしたセッションに参加したとき、アフォーダンスの人たちの「運動ショーヴィニズム」からすこし距離をとって、意識経験に注目することを提言してみました。ヒトの内面的な意識経験というのは、記憶や推論に関係づけられることも多いですが、言語コミュニケーションの一部に組み込まれたものとして見て、人的コミュニケーション環境との相互作用だと考えたほうがいいのじゃないかと提言してみました。人的環境というのがなんなのか研究するのもたいへんでしょうが。
# pooneil(kita-sanにはFacebookのほうに書き込んでくださったことをこちらにも転載していただきました。どうもありがとうございます。)
# 佐藤コメントありがとうございます。これは重要なポイントですね。
この件、nohuman primatesでニューロン活動を見て研究している者としては、ヒトでもnhpでも共通するような意識経験の部分に話を限局するのが得策かと考えております。たとえば両眼視野闘争での側頭葉のニューロン活動を使った議論というのはそういう前提を置いているかと思います。(もっと極端な言い方をするなら、言語や思考などの要素を混ぜるべきではない、とも言えます。つまり、ヒトの実験で意識を研究する際にも、刺激に文字を使ったりして不用意にセマンティックな要素を加えるべきではない。)
しかしそれはひとつの立場でしかないのもたしかです。
あとぜひ、「アフォーダンスの人たちの「運動ショーヴィニズム」からすこし距離をとって、意識経験に注目することを提言」、この話をASSC15の方にも演題として出していただけたらと思います。よろしくお願いします。
ちょうど盲視について調べていて
母校南山の名前を見つけたため、アクセスしています。
コメント興味深く拝読させていただきました。
当方、一ヶ月ほど前に20代で脳梗塞のため、同名半盲になりました。
# pooneil視野の拡大について調べています。
佐藤さん、はじめまして、生理学研究所の吉田です。一ヶ月前ということはまだたいへんな時期ですね。お大事にしてください。
わたし自身は医師ではありませんので、具体的にこういうリハビリがよいというようなことを言うことはできませんが、以前わたしが関わった同名半盲や盲視に関する記事がいくつかありますのでメールに添付しておきました。それでは。