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■ 「学会とセミナーの間」から自分語りへ
またも過去日記。「リア充」とかがあっという間に死語と化しているところがいとをかし:
--今回の研究会のことを「学会とセミナーの間ではセミナーに近い」というふうに書きましたが、要は「学会とセミナーの間」の存在がもっとあったらいいのに、というのがずっと考えていることであって、この研究会もその機能を果たしているのでした。
偶然自分の昔のエントリ(20041207)を読んでて、言ってることが変わらんなあと思いつつ、でもこのときから状況はずいぶん変わったと思いました。神経科学者SNS(まさに「こみゅにちさいと」)が出来たし、私も生理研研究会を運営しました。このブログについても、当時のはてなダイアリーでの活気あふれる状態とは変質してしまったけど、蓄積は出来ました。
班会議で泊まりがけで語りたい(ようするに私は「合宿」がしたいのですな)なんて語ったこともありましたが、これも同じことでした。
こういうのだけ抜き出してくるとまるで私が「さみしがりやさん」みたいぢゃないですか! 本人は至って素っ気ないキャラクターなんですけどね。子どもの頃から、つるんでなんかする人間でもなかったし。って自分で自分を表すると見誤ってるものがあるって話が最近のうちのブログのネタだったわけですが(脱線中)。
どうなんだろ。自分語り開始。仕事以外の遊び仲間がいたら、こういう欲求は消えてしまうんだろうか? 私は生理研に来るタイミングで、それまでずっと暮らしていた東京を離れ、高校の友人とかとの深いつながりを断ち切ってしまってから、岡崎で仕事以外の交友関係みたいなものを作ったりしてこなかった。僕にとってはそれだけ水泳部OB会(紫水会)というのは大きな存在だったし、僕をどこかつなぎ止めていたと思う。
でもそんなのみんな似たようなもんじゃないの? 6時に帰って食事して、スポーツ同好会で汗を流して仕事と関係ない仲間を作るとか? それとも週に一回教会に行って地域の人とだべるとか? あ、子育てサークルはそういう側面があるか。でもそんな時間はないし、そういう時間削ってブログ書いているという側面はある。あー、なるほど、わかってきた。(自分で言ってて自分で納得するというわたしの行動によく見られるパターン。) つまり、そういうネット寄りの生活から眺めた健全な生活のことを「リア充」と言うんだな。なんて悲しい言葉なんだ。そしてその悲しさは僕に戻ってくる。
ネットにこうやって書いてると「壁に向かってる感」がどうしても出てしまう、ということを書いたことがあります。そもそもブログに文章を書くということのどこがおもしろいのか、うちの奥さんはさっぱりわからない様子です。ま、正直に言って、毎晩バスケットボールの練習で忙しかったらネットで活動などしてないだろうな。
大学まではそういう生活だったんですけどね。昼にラボにやってきて、午後はまるまるバスケットボール大会のための練習をして、プールで泳いで、助手さんに見つからないようにそうっとラボに戻ったらもう夕方で、教授室の冷蔵庫開けてビールを飲んで、さらになんとキャビアの缶詰があったんでつまみにしてたら一晩で全部食べちゃってw、あとで教授に「吉田は思いやりがない」とか言われたりして、んで大学の仮眠所で寝てまた昼に起きてきて、カツカレー大盛食って、図書館で論文コピーしまくって、またカレー大盛食べて、夜からslice cultureの電気生理実験して、ラボメンバーに「吉田、スライスも寝るぞ」とか言われたりして、あー、とても楽しかった。
完全に自分語りでしたがもう消しません。消すもんか。
2007年12月27日
■ エアロソアラ買った(半年前に)
超忙しい。またもや半年前に書いたエントリで。
タカラトミーから出てる超軽量赤外線コントロール飛行機エアロソアラ 2400円。超惹かれたので買いました。本体は発泡スチロールの飛行機にプロペラが付いたもの。赤外線リモコンで操作します。ラジコンというよりは紙飛行機です。紙飛行機に小さいモーターとプロペラが付いたというかんじ。
箱には15歳以上向け、とか書いてあります。完全に大人向き。なぜかは飛ばしてみてすぐ判明するのですが、ぜんぜんうまく飛ばない。充電は30秒くらいしか持たないのですがそれで充分。最初は3秒と保ちません。羽根の傾きを調整したりとか、使用感は紙飛行機です(20050831)。やっとまっすぐ飛ぶようになったので今度は旋回させてみるのだけれどぜんぜん無理。タカラトミーのサイトにDr氏田のフライト講座というムービーがいくつか置いてあるのですが、ここにあるのはどれもほぼ神です。購入前にも見たけど、購入後に見て、あらためて神であることを知りました。
というわけで上達したら子どもに見せるつもりでこっそり練習中。
2007年12月19日
■ 部室でジャムった日のこと。
長雨で曇ったガラス窓にそっと文字を書いていたらブルーな気持ちになったので、懐古的なことを書いてみる。(ここまでは全部ウソ)
その昔わたしが大学の教養課程にいた頃、あるサークルに入ってました。そのサークルはちょっとマイナーめな(ロック系)音楽を聴くという活動をしていて、わたしはそこでいろんな音楽を知りました。毎週誰かが担当になっては、だれかバンドとかを選んで、カセットテープを編集して、簡単なバイオグラフィーと曲説明のハンドアウトを作って、それを見ながら教養の教室を借りてそこで酒を飲んだりたばこを吸いながら音楽を聴く、ということをしていました。ある回はCaravanだったり、またある回はPere Ubuだったり、Familyだったり、ローザ・ルクセンブルグだったり、というかんじ。灰野敬二のライブに行ったこともありました。ライブハウスで、観客はサークルの人間だけ。
ある週はみんな一曲持ち寄るという企画だったのだけれど、それを知らされていなかったわたしは仕方なくその場でギターを弾いて、My my, hey, heyを歌ってみたり(奇をてらい気味)。でもコード勘違いして憶えていて、Am-G-Fmaj7のところをAm-G-Amで弾いてたもんだからみんな珍妙な面持ちで、あとでそれを知って恥ずかしくなった、なんてドジっ子伝説もありました。
参加してた人はみんなちょっと栄養状態悪いかんじの、痩せてて顔色悪い、まさしくロックな人たち(芸大系の人もいたような)でしたが、わたしはといえば、当時は出身高校の水泳部のコーチと掛け持ちしていて、黒光りして筋肉もりもりでしたので、えらい場違いなやつが来たもんだというかんじがあったような。
活動後は下北沢の王将で夕食と談笑。吉祥寺で飲んだりとか。ま、中央線沿線文化、といえばわかりやすいでしょうか。そういう中にわたしはいました。レコード屋巡りしたり、単館上映の映画をひとりで見たりとか。
当時はちゃんと正規のサークルとして認められていて、部室もちゃんとありました。文化系サークルの部室というのはいくつかのサークルがひとつの部屋に固まっているのだけれど、うちは音楽をかけるサークルなものだから、大音量でレコードをかけては、他のサークルといざこざを引き起こすこともあったり。
さてそんな部室でジャムった日のこと。午前中の授業に遅刻したかなんかでそのまま部室に直行してみたら、なんだか知らない人がいる。髪の毛は長くてぼさぼさで、ガリガリ。作業服を着てたから学生じゃなかったのかもしれない。ひとりでアコースティックギターを弾いていて、めちゃうまい。なんかブルースっぽいのを演ってる。それを見た私はふとピンと来て、もひとつあったアコースティックギター(わたしの私物)を手にとって、基本のコード進行(E-E-A-E-B-A-E-E)を始めてみた。そしたらそいつがそれに合わせてソロを弾き出したので、こちらも適当にリフを加えてみたり、リズムパターンいろいろ変えてみたりしつつ展開させてみた。そしたらいきなりそいつがバッキングに回り出したので、あわててソロを弾く。ぜんぜんダメダメ、ボロボロなのだけど、なんとか24小節(2 verse)ぐらいやって、また相手に渡してやる。またそいつのソロが始まって、どのくらい続けたかおぼえがないけれど、いいかげん手詰まりになったあたりで終了。
自発的に起こったこの状況にわたしが感激していると、そいつは黙って(黒縁めがねの無表情なやつだった)部室から出て行った。そのあとで、わたしはそいつと一言も言葉を交わさなかったことに気がついたのです。それ以降その男を見かけることはありませんでした。
これがその日の話。そのときのことを懐かしく思い出します。自分の人生でそんな風に自然に、うまく呼吸があってなにかをしたことなどなかったと思います。どちらかというとさりげなさとかをあきらめて、かっこわるいくらいに相手の望みを聞き出して。プレゼントあげたりとかそういう場面のことね。ああいうヴァイブ(と書くとついwとか付けたくなるけど)にはあこがれるし、ほんの少しは知っている。だけどすごく遠い。
ふと思いついてサークル名と大学名で検索をかけてみたのだけれど、みつからなかった。あのサークルはもうなくなってしまったんでしょうね。
(オサーンくさいエントリになってしまったことを認めます。もはや17年前の話なのですから。学生時代のわたしが団塊の世代の回顧話を見るように、いまの学生がわたしの世代を見るのかと思うと、ほとんど愕然としたりする。Don't trust over forty!なんつて。この括弧の中は削除した方が潔いな。)
# edouard
くすんでて、映像が浮かんできそうな、いい文章だと、二十歳前のガキは思いました。
# pooneilどうもありがとうございます。
十代の方が読んでいるということ自体に驚きました。
はてなアンテナのリストも見ましたが、めちゃ幅広いですね。
これがまさに「高速道路」の例でしょうか(勝手に納得)。
2007年12月14日
■ ハーバードからの通信
コネクトーム・コネクトミクス関連のつづきです。いよいよSebastian Seungが来日して各地でトークをしているところだと思います。生理研には来週の月曜日12/17にやってきてトークを行います。こちらがセミナーの要旨:所長招聘セミナー。それでもって駅までお迎えに行ったりとかすることになったので多少勉強しているところです。私としてはいまのところ興味はあるのだけれど、直接的な接点はありません。
前回のエントリのコメント欄でいろいろ資料を教えていただきました。どうもありがとうございます。最近読んでて面白かったのはNature Methods 4, 975-981 (2007) "Following the wires"でした。なんかDenk vs. Lichtman (serial block-face imaging vs. ATLUM)の構図を強調するような煽り方をしていますが、この分野の熱さを感じます。
そうしましたら、とあるきっかけで、岡崎統合バイオセンターの岡村研出身で 現在Lichtmanラボに留学されている岩崎広英さんとお知り合いになりまして、Lichtmanラボの様子やコネクトミクスの現状などについてレポートしてくださいました。どうもありがとうございます。今回のエントリは岩崎さんによるゲストブログです。それではここから:
Lichtmanラボでは,現在4,5人のメンバーが,このプロジェクトに関わっております.私自身は直接関わっているわけではないのですが,ラボミーティングや,先日OK さんも挙げておられましたレクチャーコースにも(全部ではありませんが)参加しており,その様子の一端だけでもお伝えできたら幸いです.
件のレクチャーコースはMITとハーバードとの合同のレクチャーコースとして今年から始まったもので,隔週で交互に会場を換えて毎週火曜日に行われていましたが,今週全ての講義が終わりました.レクチャーコースの予定表をご覧になってもお分かりのように,色々な大学から講演者が招かれており,それらの研究者が対象としている動物も哺乳類にとどまらず,線虫やショウジョウバエまでと多岐に亘っています.
おそらくこのホームページを読んでおられる方の多くは,哺乳類を用いた神経科学に興味のある方が多いのではないかと思いますが,マウスの脳でさえセンチメートルのオーダーですので,これを数ミリメートル角のブロックに切り分け,さらにシナプスを鮮明に見るために電子顕微鏡を使うとすると,数ミリ角のブロックをナノメートルのオーダーでスライスしていくこととなります.
これがいかに大変かというと,うちのラボのメンバーが今までに調べた中で最も大きいサンプルは,縦1.2ミリメートル,横 4.5 ミリメートル,厚さ約30ナノメートルというものですが,得られた顕微鏡像を最高の解像度(約2ナノメートル)のままで処理すると,1枚の画像ですら,なんと 180ギガバイトもの容量となります.したがって,30マイクロメートル程度の厚さの切片ですら,180 テラバイトもの容量となるわけで,とてもでないですが普通のパソコンでの解析は無理です.実際には,大まかな部分はもっと低解像度で画像処理を行い,シナプスを見たいときなどの必要に応じて,高解像度での画像処理を施しているようです.
こうしたプロジェクトの場合,いかに多くの部分をオートメーション化するかが重要なポイントとなるでしょう.Lichtmanラボでなされている工夫もこの点に集約しており, pooneilさんが挙げておられたリンク"Following the wires"の中に出てくるATLUM (automatic tape-collecting lathe ultra-microtome)は,この切片作成のプロセスのオートメーション化の効果的な手法ではないかと思います.
しかし,切片作製や画像取得のプロセスをオートメーション化したとしても,その画像を3次元に再構築するステップは,未だに人間の目と手に依る部分が大きいことは否めません.上記の長方形サンプルのうちの極々わずかの部分を,この夏ラボで働いていた学部学生が解析していましたが,あまりの膨大な情報量に圧倒され,夢の中でも電子顕微鏡の切片像が出てきて困ったと,その学生は嘆いていました.
情報量の問題もさることながら,pooneilさんもご指摘のように,個体差の問題も無視できないでしょう.もちろんゲノムプロジェクトにおいても個体差は問題となるでしょうが,神経細胞の結合の場合,その個人差は更に大きいと思われます.というより,神経細胞の結合様式の場合,どの程度が個人差であり,どの程度が共通なのかさえ,ほとんど分かっていないのが実情でしょう.
コネクトミクスのレクチャーコースで線虫の研究者が話していましたが,線虫にはオスと雌雄同体の2種類の性があり,このうちオスの方が雌雄同体に比べて神経細胞が多く,オスの神経細胞は294 個であり,雌雄同体の個 体に比べて89個多く,そのうち41 個は生殖器特異的な41個の筋細胞に投射しているのだそうです.しかし,こんなに具体的なことが分かりながら,またこの程度の細胞数でありながら,オスの神経細胞のコネクトミクスは,今なお完成していないのだとか.この程度の規模でも,1 人でやると解析に20年はかかるのだそうです.線虫1匹の大きさは,マウスの大脳皮質の厚さの半分にも満たないことを考えると,哺乳類の脳におけるコネクトミクスは,まだまだ多くの困難を抱えているだろうと思います.
pooneilさんご指摘の,生理学との関連ですが,やはり私にはカルシウムイメージングなどにより神経細胞の活動をモニターした後,その部分をコネクトミクスの手法で解析することで,神経細胞の同期発火と実際の解剖学的な神経回路とを照らし合わせるという形になるのではないかと思っています.
果たしてこれだけの人数の研究者がやるに値するプロジェクトなのか,というのはもっともなご指摘で,私自身も正直言って懐疑的です.しかし,この手のプロジェクトは「やってみなければ分からない」部分が大きいことも確かでしょう.少なくとも,このプロジェクトを推進することで色々な技術的な革新が見込めるでしょうし,それらの恩恵を受ける機会が,今後無いとも限りません.
ドイツではDenkが,アメリカではLichtman やClay Reid, Sebastian Seungといった人々が強力にコネクトミクスを推進している様を見ていると,むしろ私には,この流れに日本が完全に取り残されているのではないかという気がしています.膨大な人と金をつぎ込む価値があるかどうかは別として,この流れに全く乗らないということが果たしてよいのかどうなのかと思ってしまいます.
日本の神経科学への利益・不利益云々はともかくとしても,こうした最新の動向に関して,学部生向けのレクチャーコースが開かれるというのは日本では考えられないことではないでしょうか.最新の流行を追うばかりが良いとは限らないでしょうが,最先端の研究者達が,現在,何を問題にし,どのようなことに取り組んでいるのかについて,学部生の頃から接する機会があるというのは,刺激的なことであると思います.今回のレクチャーコースに,私はアメリカの科学教育の底力を垣間見たような気がしました.
以上です。岩崎さん、どうもありがとうございました。
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- / 投稿日: 2007年12月14日
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2007年12月13日
■ MarrのVisionの最初と最後だけを読む
以下のエントリ、またもや下書き状態で放置してたんですが公開します。自分としては超力作なんですが、これを読むと私が「ビジョン」を読んでないことがばれるという次第でして。
このあいだのエントリで、MarrのVisionがうんぬんとか言ってるのは、ASCONE2007で岡田真人さんが講義でMarrの話をしてたのの受け売りでして。ちょうどその次の日の自分の講義でなんとか話を繋げられないかなと考えていたのでした。わたしの講義の方は「視覚的気づき」(visual awareness)というものをどう実験に落とし込んだらいいのか、detection taskでいいのか、というのがひとつのハイライトだったのです。そういうわけで、generalなまとめとしては、
- ある認知的概念(今回は「気づき」)の操作的定義の作成とそのrefinement。
- 実験による検証、とくにメカニズム的説明の作成、他の認知機能との関係の発見をつうじて。
というこのふたつがお互いに影響し合ってrefineしつづけてゆく、というもの(左図)を作っていたのですが、その講義の前日に、岡田真人さんがMarrの話をしてくださって、これがとても印象深かった。三つのレベルの議論をなんとか上記のスキームと繋げて話せないかなと思ってあがいたのですが、だめでした。ざっくりと、上記の1)と2)を回すことが、ある認知概念を計算論のレベルで記述するのに役立つのでは、なんて書いて終わったのです。
というわけで訳書を見直してみました。じつはギブソンへの言及もあったりして驚かされる。(*注1)(*注2)
んで、p.21-26のrepresentationとprocess、というところにピンと来て、p.362の図6-1に釘付けになった、てのが今回のお話。ちょっとベイトソンを思い出したり。
もともと[計算理論のレベル]-[アルゴリズムのレベル]-[ハードウェアによる実現のレベル]という三つのレベルの議論(下図)というのは、「ある情報処理装置を完全に理解したと言うためにはこの三つの水準を理解しなければならない」という文脈で出てきたわけです。(*注3)
それで、それぞれのレベルでrepresentationとprocessの組み合わせがある、という話をしているのですね。これは知らなかった。超重要。つまり、3x2で考えているのです。それがp.362の図6-1。
Representationとはなにか。Representationとはある実体(entity)もしくは情報を明示的にする形式系(formal system)のこと。なにかべつのものを写し取っているわけです。ここでは数というentityをrepresentする系としてアラビア数字の系やローマ数字の系がある、という例を挙げています。つまり、同じことをrepresentするのにいくつかべつの系を使うことが可能であるということ。
Processとはなにか。Processとはそのようなrepresentationを入力としてそれを変換したrepresentationを生成すること、だと思うんだけどあんま明示的に書いてない。例としては足し算を挙げてます。3+4=7というのはつまり、足し算(+)というprocessが(3,4)という数の対を7へ写像している、ということなのですね。この場合だったら入力と出力は同じ数というrepresentationを使っているけれど、フーリエ変換というprocessの場合だと時間ドメインから周波数ドメインへrepresentationが変わってる。
あるprocessを行うには[それの入出力となるrepresentation]と[その変換を実現するアルゴリズム]とが決まらないといけない。よって、process-representationが対等なレベルになってないし、アルゴリズムが出てきてややこしくなってきているのですが。
ともあれ、representationとprocessの関係に関するポイントは、1)上記の通り、representation自体はいくつか選択の余地がある。2)processを実現するアルゴリズムは採用されたrepresentationに依存する。3)あるrepresentationに対して同一のprocessを実現するアルゴリズムは複数ありうる、となります。
じつはこのprocessの項はいつのまにか三つのレベルの話に移行していて、非常にわかりにくい。ほんとうはrepresentationとprocessとの関係を示したあとで、三つのレベルの話に移行すればよいと思うのだけれど。
ともあれ、キャッシュ・レジスタの例を使って三つのレベルの議論を導入しています。[キャッシュ・レジスタがなにをしているのか、なぜそうするのか](what and why)、これがいちばん抽象的な、計算論のレベルです。何をしているか、足し算をしているわけです。なぜそうするのか、買い物の合計支払金額を決めるためです。これが拘束条件となって、行われている演算が決まる。これが計算論のレベル。
このようにしてprocessが決定する。次のレベルでは[どのようにしてそれをするのか](how)を決めます。これがアルゴリズムのレベル。上記の通り、あるprocessを行うには[それの入出力となるrepresentation]と[その変換を実現するアルゴリズム]とが決まらないといけない。たとえばキャッシュ・レジスタでは、アラビア数字をrepresentationとして使って、一の位から足し算して繰り上がった分を十の位に加える、というアルゴリズムを採用している。
このようにして採用されたアルゴリズムをどう物理的に実現するかが、ハードウェアのレベル。同じアルゴリズムを実現するにも複数のハードウェアで可能。たとえばキャッシュ・レジスタでは電子回路によって実現されるが、人間が足し算をするときは脳によって実現される。逆に、実行されるハードウェアの制限によってアルゴリズムの選択は影響を受ける。(電子回路だったら2進法での足し算をするけど、人間だったら10進法を使うとか。)
うーむ、だんだん3x2でなくなってきた。気を取り直して。計算論のレベルでは、どういうprocessを行うかが決定される。アルゴリズムのレベルではそのprocessがどういったrepresentationとアルゴリズムによって行われるかが決定される。ハードウェアのレベルではそのrepresentationとアルゴリズムがどのように物理的に実現されるかが決定される。
さて、そのような三つのレベルはどうやって明らかに出来るか、視覚の問題について書きます。(本文はこんな構成をしていないのでかなりパラフレーズ。)
ハードウェアのレベルは解剖学や細胞レベルの生理学によって明らかにできる。神経生理学はどういうrepresentationが使用されているか、どういうアルゴリズムが使われているか、について明らかにするのにも役立つ。ただ、Marrは実現すべきprocessが明らかになるまでは神経生理学の知見からrepresentationやアルゴリズムについて推論するには十分な注意が必要だと言っている。
アルゴリズムのレベルは心理物理学によって明らかに出来る。たとえば、ある視覚的問題を解くアルゴリズムのうちどちらを使用しているかとか、どういう座標系(representation)でその視覚的問題が解かれているか、とか。
計算論のレベルはどうか、というと明確には書いてないけど、たとえば、RGCやLGNのニューロンの受容野はなぜあんな形(メキシカンハット型)をしているか。これを明らかにするには、ニューロンの記録や結合様式の解明だけではダメで、この受容野の形がある種のフィルタ(ラプラシアン)として働いていることを理解しなくてはいけない、ということになります。
Marrにとっての視覚とは「外界の画像から、不適切な情報によって乱されない、観察者にとって有用な記述を作り出すprocessである」ということになります。計算論のレベルで行っているprocessを明らかにすべし、というMarrの考えが反映しているわけです。じつはここで、計算論のレベルに一番近いことをやっていた人としてギブソンが挙げられるのです。ただし、ここでとりあげられるのは変化する環境から不変項を抽出するという側面であり、以前(20061004)も書きましたが、計算論的ニュアンスのあるほうなのです。そして、その面においてはツッコミが甘いと指摘し、不変項の検出は情報処理の問題として扱うしかない、とそういう話になるのです。
だいたいこのくらいで。けっきょく、このような視覚を記述するにあたって、問題を分割するために、画像、原始スケッチ、2+1/2次元スケッチ、3次元モデルによるrepresentation、という話になるのですが、すべて読み飛ばして(エー)、図6-1へ。これは3x2なんです。
かなりわたしの解釈を入れて改変した図を作りました。本物の図6-1とはべつものなのでご注意を。あと、じっさいにはrepresentationの問題とprocessの問題とは繋がっているから、右端と左端は繋がります。2次元での表現ということで多少簡略化。
これがいきなりprocessとrepresentationのduality、と言ってる。(*注4) さあここにわたしが探していた答えがあった。もうここは全訳で。
「Processとrepresentationの解明のどちらにおいても、一般性のある問題設定は、日常の経験や心理物理的もしくは神経生理学的な知見のうちごく一般性のあるものによって示唆されているものである。そういった一般性のある知見が特定のprocessやrepresentationの理論を定式化する。そのような理論のうちあるものは詳細な心理物理学的テストが組まれて実施される。このレベルで特定のprocessやrepresentationの理論について充分正しいという自信が出来たなら、それがどのように実現しているのかを調べることが出来る。ここに最終的かつとても難しい問題である、神経生理と神経解剖学の問題がある。」
自作してみたけどダメでした。原文で。
In the study both of representations and of processes, general problems are often suggested by everyday experience or by psychophysical or even neurophysiological findings of a quite general nature. Such general observations can ofteb kead to the formalation of a particular process or representational theory, specific examples of which can be programmed or subjected to detailed psychophysical testing. Once we have sufficient confidence in the correctness of the process or representation at this level, we can inquire about its detailed implementation, which involves the ultimate and very difficult problems of neurophysiology and neuroanatomy.
というわけで、結論としては意外に私がその場で言ってたことは間違ってなかったみたい。ここでは「日常の体験」みたいに言っているけれども、ある認知的概念を抽出してゆく段階でどういうprocessを行っているかを定式化する、という意味においてはそんなに違ってないみたい(*注6)。そのときわたしが例に挙げたのは「注意」の問題で、注意を(意識に上るものには量的に限界があるという問題から)ある種のリソースを効率的に使う、という計算論的問題に落とし込む、というような話をしました。ただ、これでいいのだろうか、とも思う。とってつけた感がある。心理物理や神経生理がどのようにしてこの計算論的問題に繋がるのか、そのへんがまだこの図ではうまくかけてないように思う。あと、こうしてみるとここでのrepresentationの問題ってなんだろうか、って思う。本編読めばわかるんでしょうか。ともあれ、以前のLogothetisの話のときにもありましたけど、ニューロンのデータから両眼視野闘争の知覚のcontent(=representation)と選択の過程(process)との神経メカニズムがあるのかもしれない、なんて話と繋げられるかもしれません。じつはここに現象的意識が来るんではないか、なんて思うんですけど。すくなくとも知覚のcontentであるとは言えないでしょうか。(一番重要なことを書いてここで終了。)
追記:ここまで書いてからふたたび川人先生の「脳の計算理論」と「脳の仕組み」を読んでみるといろいろなことがわかってきていろいろ書き直したくなるのですが、このまま出しちゃいます。ひとつだけ書いておくと、Marrの理論が視覚だけに閉じていて、行動と結びついた視覚という観点がないという批判は当時からすでにあって、川人先生の双方向理論はそれを乗り越えようという意図を持っていることとか。
追記2:要は今回"Vision"をちょっと読んでみて、「Marrのrepresentationの問題とはなにか」という疑問に行き着きました、というのが今回のエントリで書いてることです。
(*注1) 正直言って、"Vision"は昔買って積んだままでした。白血病になったMarrが本の前書きで「とある理由でこの本を早く書き上げなければならなくなった」と書いたところとか、最後のクリックとの会話とかそういうところしか読んでなくて、数式をほとんどスキップしてるのです。岡田さんも、そのような理由からものすごく書き急いでいて読みにくい、むちゃくちゃ頭いい人だから飛躍して書いているところがある、というふうに話をしてました。そういうつもりで読めばいまなら読めるかも。
(*注2) 同時期にナイサーもギブソンを重要な論敵としていたことからしても、当時はギブソンが認知科学にとってかなりシリアスに受け止められていたことがよくわかります。いまはよくわからん。どちらかというとべつの学問的ドメインみたいになっているように思えるのだけど。スキナリアンみたいに。
(*注3) 血気盛んだったかつてのわたしは「行動するわれわれ有機体は情報処理装置として捉えるだけでは取りこぼすんではないか」とか言ってMarrをきっちり読まなかったりしてたのですが、やっぱりえらい人は深く考えているのです。(とか書くとこんどはそういうオベンキョウ癖止めろ、という言う声が聞こえてきたりしてもうどっちにしたらええねんってニセ関西弁で。)
(*注4) Dualityって数学的には「双対」みたいな概念なので、ここでどのくらい厳密に使っているかはさっぱりわからないのだけど、representationとprocessがある種裏返しの関係にあることを意味しようとしているのだとしたら興奮するところです。図的にはたんにパラレルに走っているようにしか見えないないけど。ちなみに川人先生の「脳の計算理論」でも順モデルと逆モデルの双対性、みたいな表現は出てきます。こちらは明白に意味がある。もし、順モデルがrepresentationで逆モデルがprocessならばそれはdualityとでも言える関係にあるのではないかと思うのです。
(*注5) この文脈だと抜けてしまうけど大切な部分:この三つのレベルは比較的独立しているだろう、それからどのレベルの問題を解こうとしているのか誤らないようにしよう、というのがここで書いてあることです。たとえば、ネッカーキューブの二つの安定した知覚について明らかにしたいならば、神経回路網のレベルで二つの安定した状態があることを示すこと(ふだんは日常言語で「メカニズム的説明」とか言ったりしますが)よりは、ひとつの二次元図形から二つの三次元的解釈が生まれることを説明する必要があるというわけです。ってさっそく後者はどのレベルでしょうか? 計算論のレベルでしょうか。
(*注6) この「日常の体験」を「現象学」とまで言ったら(知らないのに)言い過ぎかもしれませんが、その方がじつは階層構造的には尤もらしいかもしれません。
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- / 投稿日: 2007年12月13日
- / カテゴリー: [視覚的意識 (visual awareness)]
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2007年12月12日
■ LammeのV1記録からはじまってV1と注意の関係へ。
このあいだのpresentationに関する話などでnhkさんとメールのやりとりをしていたのですが、面白い方向に展開してきましたので許可を得て掲載します。多少編集、加筆してあります。
教えていただきたいのですが、pooneil blogで、Lammeらの一連の仕事のうち、MUAをfilterにかけたDC成分を使ったものは信用できんと書かれていますが、どうして信用できないのかをお教えくださいませんでしょうか。
以下が私からの返信:
いえいえたいした話ではないのですが、single-unitでの記録との比較を問題にしているのです。
まず、同じニューロンをとり続けているかどうかの保証がもてないこと、それからburst発火が起こるとfieldの波形が潰れるのでLammeのMUAの値はsingle-unitのfirng rateとは少なくともlinearには相関していないし、場合によっては単調増加ですらないかも知れません。
というわけでわたしのlammeらの仕事に対する意見は、「MUAで見たことがsingle-unitで確かめられない限り信用することができない」というものです。
たとえば、V1から記録してshort-term memory taskでdelay activityを見つけた(Science)という論文があります。ここで見ていることに対応したsingle-unit activityがあるかどうかは確かめられていないし、たぶんそういうものはないでしょう。なんらかのsubthresholdのactivityを見ているという可能性はありますが。(初期のfigure-groundでのlate responseのmodulationに関しては single-unit, MUA両方の活動を見ているはずですが、 short-term memoryに関してはそれはなかった。)
そういう意味で、Lammeの仕事をsingle-unitの仕事と並べて理解するのはまずいと思っています。Lammeが見ているものはField potentialの動態を見た仕事のほうにたぶん近いのではないでしょうか。その意味では、Field potentialの動態自体は重要で面白いと思っているのですけど。
たぶんlammeのMUAは高次視覚野からのfeedback入力にたいしてよりsensitiveであって、feedbackのシナプス入力みたいなものも寄与しているんだと思います。そういう意味では、Human fMRIでV1のattentional modulationが見られるのにnhpのsingle-unit recordingではV1のattentional modulationが見られる、という問題があって、これはfMRIで見ているものとsingle-unitで見ているものが違うからではないか、という議論があるのですが、それと同じことなんではないかと考えております。
そうしましたらさらにこういう返信をいただきました。
お返事ありがとうございました。Lammeの話、よくわかりました。V1が意識に果たす役割について考えているところで、私的にはこの話が出てきました。
すこし話はとびますが、attentionとawarenessの関係を考えると、話が難しいなと思っています。
Heegerの、traveling waveのV1でのattentionによるgatingの話も、どう解釈するのがよいか。一つの解釈は、pooneil blogにあったとおり、あの場面でのawarenessは、V1の活動と一致しない。従ってV1なしでもawarenessは成り立ち得る(contentsは決まる)という考えだと思います。妥当な解釈だと思いますが、それでいいのかなという思いもあります。
これはawarenessの定義によるのかも知れませんが、attentionが逸らされた視覚刺激のawarenessは低下する、すなわちこの場合はattentionとawarenssが正方向に相関していると考え ると、Heegerの結果の解釈はなんとも言えない。atttentionが逸らされているため、traveling waveのawarenessは弱まっている。それはV1の活動が意識されないためだ、したがってV1の活動はawarenssに重要かも知れない。
V1のawarenessへの関わりの有無を決定付けるような実験ができないものかと考えています(むろん大した考えはありません)。
うーむ、端的に言えば質的な差ではなくて量的な差の問題ではないの?ということですね。いかにしてawarenessと(top-down) attentionを分離するか、という問題でもありますね。その意味ではこれまで何度か言及してきたカルテクのKochと土谷さんの仕事(Nat Neurosci. 2005 Aug;8(8):1096-101. "Continuous flash suppression reduces negative afterimages."およびTrends in Cognitive Sciences Volume 11, Issue 1, January 2007, Pages 16-22 "Attention and consciousness: two distinct brain processes")の意義は重要で、あれの場合、attentionがあるとかえってawarenessが下がってしまうわけです。ゆえにattentionとawarenessが正方向に相関しているとは必ずしも言えない場合がある、このことを示したのがあの論文のいちばんの意義だと思います。これに関しては「量的な差」の議論はしにくいのではないかと思います。
もひとつ追記で、Kentridgeの論文でblindsightの患者さん(G.Y.さん)がawarenessのない光刺激の弁別で、top-down attentionを向けることでその成績が向上する、というのもあります(Kentridge RW, Heywood CA, Weiskrantz L. "Attention without awareness in blindsight."Proc Biol Sci. 1999 Sep 7;266(1430):1805-11)。これなんかもawarenessとtop-down attentionとをdissociateした例と言えるでしょう。わたしの学会発表もありますが、これに関してはまた論文になったら、ということで。
そしたらさらにnhkさんから返信が。
Tsuchiya and Koch (NNS)は、私ももちろん重要論文だと思います。原稿の中の吉田さんのコメント「あれの場合、attentionがあるとかえってawarenessが下がってしまうわけです。」ですが、より正確には、attentionがあるとafterimageが下がってしまう。一方CFSでawarenessを消すとafterimageが下がってしまう。「ゆえにattentionとawarenessが正方向に相関しているとは必ずしも言えない場合がある」と理解していますが、これで正しいでしょうか。
attentionとawarenessが正方向に相関しているとは必ずしも言えない場合があることから、attentionとawarenessは違うメカニズムに基づくという考えはとても面白く、多分正しいと思います。
他方、多くの場合のphychophysiocsの実験では、attentionがdivertされた状態をawarnessがない状態と考えて実験している、つまりattentionとawarenessが正方向に相関している場合を実験に使っています。
ここではあたかも量子力学における観測問題のように、awarenessを生じるとattentionも生じている、ゆえにattentionとawarenessは違うメカニズムに基づくとすると、awareness本態のneuronal correlateを捉えがたいと。
そこでTsuchiya and Koch (TiCS)は両者を別々にmanipulateすることを提唱しているという理解で正しいでしょうか?
はい、そのように理解しています。"Attention and consciousness: two distinct brain processes"はそのへんを明示的に扱っていて、[top-dwon attentionが必要/必要でない] * [consciousnessが発生する/発生しない]という4通りに分けています。上記のG.Y.さんの話も"Attention without consciousness"の例として挙げられています。
ところでこれはわたしの持論なのですが(まえにLogothetisの話のところでも書いたかも知れません)、consciousnessとかawarenessという言葉を使うときにはそのcontentの議論をしていて、いろんな脳内活動の「結果」だと思うんです。いっぽうで、(top-down) attentionというのはselectionのprocessであって、さまざまなattentionのneural correlateというのはその「過程」を見ているのだと思うのです。つまり、Marrが言うところの「representationとしての神経過程」が「consciousnessのcontent」でして、「processとしての神経過程」が「attentionにおけるselection」だと思うのです。(わたしはこの文脈でのrepresentationという言い方は好きではありませんが。) このように分けてしまえば両者を同一視するのはカテゴリカルエラーだ、ということになります。
問題は「Marrが言うところのrepresentationとしての神経過程とprocessとしての神経過程とがなんで混ざっているのか、ということになります。わたしがMarrの「ビジョン」の最終章の図を見ていていちばんよくわからないところなんですが。ざっくりとしたアイデアですが、川人先生の双方向理論からの連想で考えれば、bottom-up(逆モデル)がprocessでtop-down(順モデル)がrepresentationだ、とか言えたら面白いのではないかと思うのですが。ただ、すくなくともそのニューロン活動を受け取っている別のニューロンが情報を読み出すときにそのような区別を付けることができなければこのような分け方の意味がなくなってしまいます。(そのむかしOKさんとメールのやりとりをしたときにそういう話をしたことがあります、というかほとんど教わるばかりだったのですが、そのころからずっとこういうこと考えてます。)
ところでMarrの話はまだエントリにしてませんでした。じつはASCONEの後に書いた物を下書きとしておいたままでした。そのまま公開すると私が「ビジョン」を読んでないことがバレバレになるので暖めていたのですが、上のパラグラフの意味がわかるようにそちらも公開します。
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2007年12月06日
■ 脳のニューロンの結合関係を網羅的に記述するコネクトーム(connectome)
コネクトーム(connectome)という言葉をはじめて聞いたのはいつだったか忘れてしまいましたが、その存在をはじめて意識したのはShuzoさんのエントリでの
Sporns O, Tononi G, Kötter R (2005) The Human Connectome: A Structural Description of the Human Brain. PLoS Comput Biol 1(4): e42 doi:10.1371/journal.pcbi.0010042
の解説でした。
脳のニューロンの結合関係を網羅的に記述するということで、neuroinformatics的な立場からgenomeプロジェクトの次はこれだ、というかんじで出てきてるわけです。
ようするに全ニューロン間での結合強度の行列を作ってやろうというわけです。(こないだのガヤの生理研での講演もそんな感じの話でした。)
そこまで聞くと、はたしてその結合をどのレベルで記述すりゃいいのか、っていう疑問が出てきます。ミクロからマクロ、それから構造と機能レベルで。じっさい、そのへんについては上記のPLoS Comput Biol論文で扱われていて、Shuzoさんのエントリにもまとめがあります。どうやらconnectomeと言ってる人にもこのへんのレベルがいろいろ違っているようなのですが、どこに労力とお金が注力されるべきかという点で争点となることでしょう。
つまり、よりマクロなレベルだと、ニューロン間ではなくて領野間の結合の行列だったらもうVan Essenとかがnhpの視覚野でやっていて、それを拡張していこうみたいな話があるわけです。上記のHuman connectomeではDTIとかを用いるようなことが書いているのでかなりマクロでの話でしょう。
よりミクロのレベルだと、mouse brainで電顕を使ってシナプス全部追ってやるという話になります。これはすごい。おおごと。こちらのレベルでの解析に重要になるであろう基礎技術に関するまとめがShuzoさんのSFN2007に関するエントリのところにあります。
要はゲノムプロジェクトと同様で、少数の研究者だけでやってたらいつまで経っても達成できないであろうことを、人海戦術と技術的ブレークスルーによる自動化とで乗り越えてしまおうというわけです。
こっちの方向性でわたしの興味が向くのは、構造と機能との関係です。じっさい問題、connectomeは構造レベルでの記述を目指すことになると思いますが、二つのニューロン間には複数のシナプス結合(さらにギャップジャンクションまで)があって、結合関係についてどのように記述すればよいかということを決めること自体が唯一解のある問題ではないわけです。興奮性か抑制性かの違いもあるし。まあ、なんでもいいからとにかく始めてみよう、でもいいんですが。
ガヤのScience論文で見られるようなrepeated sequenceが画面の中のえらく離れたニューロン間でできていることを以前もつっこみましたが(つっこみすぎたのでこないだは蒸し返さず)、要は機能的結合だけ見ていて、構造的結合を見てないからではないか、とか繋げてみたり。しかも機能的結合は比較的短めな記録時間の中でのrepeated sequenceや同期発火を検出することに依っているので、より体系的な検証がほしくなるわけです。(もっと長時間記録してcross correlationとるとか、パッチで二本刺しして片方刺激して相手の応答をとるとか。) そのあとでsliceの顕微鏡の視野内のニューロンの構造的結合を明らかにする、みたいな話になればかなりいけると思うんです。生理学者としては、網羅的にいくよりは狭い部分でいいから機能と構造とひと揃いでデータがあるほうが面白いと思うんですが。やっぱ生理学的発想ですかね。
ちなみにググってたらハーバードでのプロジェクト(Clay Reidが入ってる)というのも見つけたんでメモメモ。
ちゃんと論文読まずに書いているんで書いていることがいつもにましてぬるいのですが、そうでした、今回のエントリの目的はSFN2007でもconnectomeについて講演していたというSebastian Seungの仕事についてまとめるということでした。Sebastian Seungじたいはまだこのプロジェクトに関する論文を出していないようですが、MITのサイトを見ると、Winfried Denkと組んでプロジェクトを進めているようです。Denkがserial block-face imaging(上記のShuzoさんのエントリでreferされてます)を開発して、そこで得られた電顕データからシナプスなどの画像を自動的に抽出するアルゴリズムをSebastian Seungが開発する、という話のようです。このへんについてもう少し調べてみることにします。ではまた。
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# Ryohei
このまえ、コールドスプリングハーバーのNeuro-imagingミーティングでも、Connectome projectのテクニカルな議題が多かったですね。リード、リヒトマン、デンク、とあちこちで電顕プロジェクトやっていますね。そして電顕からいかに構造情報を早く取り出すかということもComputer scienceの人にはとても面白い問題のようです。リヒトマンがあげていた問題の1つは、シナプスの連結が個体ごとにまるで違うこと。Neuromuscular junctionでは、同じ個体の右と左でさえまるで違うフォーメーションになるとか。まあそれでも、ある程度の基本原理は小さい領域が解けただけでわかる可能性もありますね。数-数十ニューロンからなる小さい計算ユニットみたいなものがみつけられるかもしれないし。もっとも計算ユニット探しは、生理学のほうがはよさそうな気もしますが。日記にあるような長距離の計算ユニットを見つけるには再構成にものすごい精度が必要でしょうからこの方法では難しそうです。でも、私にも、こんなにたくさんの人が膨大なお金をかけてやるべきプロジェクトには、実は思えないんですよねー。
# Shuzohttp://www.nature.com/nmeth/journal/v4/n11/full/nmeth1107-975.html
と
http://www.nature.com/naturejobs/2007/071101/full/nj7166-130a.html
といった記事は、SFNのPresidential Lectureの裏を知るのに良さそうです。
個人的には、ニューロンのスパイクを調べていると、そのメカニズムがどうしても気になることがあります。その場合、コネクトーム的な研究が進んでくれないと、いつまでも現象を追うだけでフラストレーションがたまります。
おそらく、「この回路のここをmanipulateして、システムの振る舞いがどう変化するか調べよう」という話は、これからどんどん出てくる気がします。そのためには、オームはつけなくても良いですが、もっと局所回路のことがわからないと何から手をつけたら良いのかわからない、という感じがします。
一方で、どこまで詳しく見るべきなのかは正直私はno ideaです。少なくとも「定量的な」結合情報はどうしても必要だと思います。その意味では、シナプスレベルの結合情報まで必要なのかもしれません。
またゲノムプロジェクトのアナロジーで考えれば、とにかく何らかのドラフトを手に入れると、神経科学の仕方が変わるような期待もなくはないです。
http://hebb.mit.edu/courses/connectomics/
を見ると、だいたいどんな人が関わっているかわかります。参考文献ものっているのでご参考までに。
みなさまコメントありがとうございます。
今週末くらいからSebastian Seungが来日して各所にconnectomeのことをトークして回ってくるのですが、生理研にもやってくるので、
http://www.nips.ac.jp/seminar/2007/abst/20071217.html
ちょっと勉強しておこう、というのが背景でして、Denkの論文とか読んでたところです。
OKさん、どうもありがとうございます。まさにこういうものを求めていました。Sebastian Seungのサイトには関連する論文がないので困っていたのですが、proc IEEE ICCV 2007あたりを読んでおくと良さそうに思いました。Two-photonの人が機能的にやろうとしていることとconnectomeでの解剖学的な解明とがどのように連携していくのかというところにわたしの興味があります。
Ryoheiさん、リード、リヒトマン、デンクとはまさにOKさんご紹介のセミナーの関係者ですね。「こんなにたくさんの人が膨大なお金をかけてやるべきプロジェクトには、実は思えないんですよねー」、ま、率直に言って、私もよくわからんです。やるなら生理学の役に立つようにやってほしいので、どのくらいのミクロ、マクロスケールでやるのか、個体全部でやるのか、なんの種でやるのか、というあたりを見届けておきたいと考えております。日本がどういうふうに関わるのかとかも含めて。
Shuzoさん、"following the wires"のほうはまさに読んでるところでした。私は電顕はまったくの素人なので、Denk方式で切片を切りながら電顕をやる方式だと低電圧にしないといけないから解像度が悪くなるとか裏事情がわかって面白かったです。「コネクトーム的な研究が進んでくれないと、いつまでも現象を追うだけでフラストレーションがたまります。」これがまさにコネクトームの推進のモティベーションとなるものですね。これによってコネクトームでなにがわかればいいのかが決まるんだと思います。
思いっきり生理学に引き寄せて考えれば、たとえば、二本差しでニューロンを記録しているときの他のニューロンの影響をなんらかモデルベースで考慮するために役立つとかしてくれればうれしいですが、そのためにはある個体での構造と投射関係がわかるのがベストですが、そういうわけにはいかないので、個体を越えた統計的性質みたいなものを使うことになるわけです。これってどうなんだろうか。言ってることがさっきからずっと同じですが、要はこのプロジェクトは解剖学者と計算論の人の出番で、その人たちの役に立つのはわかるけど、生理学者はどう寄与できるか、もしくは恩恵を受けられるか、なのかな。そのへんにわたしの疑問が収束してきました。
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